浮かぶ水平線

文長こすと

一:

 幼年の頃、たったの一度だけ、彼女は本物の海を見ている。


 そこにあるのは一面に広がる紺碧だった。

 視界の両端からはみ出していくほどの水平線だった。

 雲ひとつない蒼空のずいぶん手前の方で、数羽の白い鳥が宙を舞っていた。

 潮風が吹き抜け、それはほんの少し生臭かった。

 波の砕ける音が、ざあざあうるさいのに心地よかった。


 波打ち際の浜辺に立って、彼女は不思議な感覚に包まれていた。

 生まれて初めて見た光景のはずなのに、驚きはなかった。『ずっと知っていた』、そんな気がしたからだ。



 彼女の背後には、一頭の馬を連れたひとりの老いた男が立っていた。彼とその馬が、幼い彼女をここまで連れてきたのだ。

「いい日和だ」

 身じろぎせず前ばかり眺める彼女の背後から、老人は優しく語りかけた。「一度、海を見せたかったんだ。お前のその名前の由来だからね。どうだ、大きいだろう」

 浜風に髪を揉まれながら彼女は振り返り、素直に、思った通りのことを答えた。

「とても、おちつきます。それになんだか、なつかしいきがします」

「ほぉ、そう感じるか? ははは、そうか」

 老人は愉快そうに笑った。「創世において世の万物は海の流れの中より生まれたとされている。この無限の大洋の果ては『神の国』に通じ、我らが王国の始祖の王も、あの水平の彼方より来迎されたのだよ」

「あの、むこうから?」

 彼女が見つめたのは、空と海が交わる1本の直線。

「建国記によれば、始祖の王が『神の国』より大海へと漕ぎ出でた時、世にも恐ろしい嵐に見舞われた」

 浜風に負けず、老人は朗々と国史を述べる。「だが、海神の慈悲と加護により、その光の導きによって、恐るべき虚無と混沌の海原から安住の陸地に辿り着くことができた。それが今お前の立つ、その場所だ。その後300年に渡る王国の泰平はそこから始まったんだ」

 それを聞いた彼女が足元をきょろきょろ見渡すのを、老人は微笑ましく眺めた。「――もっとも、その後の遷都で王も民もすっかり内陸に移った。それでも、王家は今なお海神を讃える大祭を欠かさない。そこでの祝歌の1節にはこうある、“我は光に導かれ、嵐の海より出づる子”と。始祖の王が猛る海原を越えてこの海辺に辿り着いた時、さぞかし安堵したことだろう。だからこそ、今の私たちも海辺に安らぎを覚えるのかもしれないな」


 ちょうどその時、ひとつの白波が浜の表面を勢いよく滑ってきて、あっという間に彼女の靴元を浸した。冷たい感触がくるぶしから下をきゅっと包んで、思わず声を上げた。

 それと同時に、彼女の靴に「こつん」と小さな丸石がぶつかったが、拾い上げる時間もなく引き波に連れ去られてしまった。

 同じことが繰り返された。やってくる白波は彼女の足を浸すこともあれば、ずっと手前で引き返していくこともあった。丸石はころころ運ばれて、ころころ海の方へ連れ戻される。靴はすぐに砂まみれになった。

 この波も『神の国』から来たのだろうかと、彼女はあてのない考えを潮騒に寄せた。



「ところで、見てほしいものがある」

 老人は片手に手綱を握りながらも、空いた手で、その傍らに立つ朽ちかけの柱に触れた。

 その柱の中ほどには『補給点1』と書かれた木札がぶら下がっていた。老人の背丈の2倍ほどはある柱頭には2本の縄が結ばれ、内陸側へ点々と立つ同様の柱を繋いでいる。とても長い物干し縄のようだと彼女は思った。

「もう30年前になるかな。これは私が初めて引いた伝送線なんだ。今この国に1200ほど設えた『補給点スポット』の、1番最初の1本がこれだ。建国記にあやかって、ここから始めることにしたんだよ」

 そう言うと、老人はその柱を愛おしそうにさすった。その度に、潮風に吹かれてへばりついていた砂の粒がぱらぱらと剥がれ落ちていった。


「『補給点スポット』とはなんですか?」

 無垢な瞳で彼女が訊くと、待ってましたとばかりに老人は懐からひとつの紐束を取り出した。手綱を手放さないよう脇と片手を使って器用に束をほどきながら、彼は生徒に対して出題するような口ぶりで訊ねた。

「この王国で魔法を使用するには、何が必要かな?」

です」

「惜しいが、違うな。正しくはだ」

 そう答える頃には、彼の指先は紐束を解き終わろうとしている。「――魔原を取り出す時に使われるは国や部族によって違う。魔原はそれぞれ固有ユニークだ、知らずに使えば中毒で死ぬこともある。細かいようだが、魔法使いにとっては命に関わる大切なことなんだ。覚えておきなさい」

 そう断った上で、老人は最初の質問に答えた。

「『補給点スポット』とは、魔法使いたちに、によって取り出されたを届けるためのものだ。ほら、ここの突起に自分の伝糸でんしを結べば魔原が受け取れて、魔法を発動できる」

 そう言う間に、彼は「伝糸」と呼んだその糸を、補給点スポットの柱から取っ手のように突き出た突起部へと括りつけ、他方の端を自らの籠手に巻きつけ始めた。

 それは見惚れてしまうほど馴れた手つきだった。そして、伝糸を扱う老人の横顔にはずっと穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 彼女はふと、その微笑みの訳は何だろうと思った。

「どうして、補給点スポットをつくったのですか?」

 そう訊かれた彼は、ぴくりと肩を震わせた。


 その時、見計ったように馬がぶるると鳴いた。退屈さを抗議するように頭を振り出したので、彼は手綱を引いてなだめなければならなかった。

 馬を落ち着けた後で、老人はどこかしんみりと答えた。

「……そうだな、王国のどこでも、そしていつでも魔法が使えるようにしたかった」

「むかしは、そうではなかったのですか?」

「当時は厳しい戒律があってね。魔法は秘儀とされ、限られた場所と場面でしか扱ってはならぬとされた。確かに戒律は軽んじられるべきではないが、そのために救われなかった人もいた。いずれ、私のしたことの功罪は問われるだろう。ただ、それによって救われるはずの人たちのことを私は考えたんだ」

 そして、老人は話題を逸らすように彼女に促した。「――ほら、あの波を見ていなさい」


 言った通りに彼女は前を向く。

 老人は伝糸によって補給点スポットと結んだ籠手を2、3度閉じたり開いたりして、装着感に問題がないことを確かめると、まるで犬でも追い払うかのように真横に薙いでみせた。


 すると、砂浜のほとりで今にも踊ろうと立ち上がっていたさざ波が、老人の手先が向けられた場所をなぞるようにして、突然放射状に弾け散った。

 彼はごくかわいらしいを発動させたのだった。

 水の花が連鎖的に狂い咲き、細切れの飛沫となった海水はさんざめく日差しの煌めきを放ち、さらにそれとは別の鱗粉にも似た蒼い光の粒子をまといながら、彼女の瞳に溢れるほどの輝きを、そして一瞬の清涼をプレゼントして、散り散りに消えていった。


 すごい――と彼女はようやく笑って、目を輝かせて振り返った。

 それはこの老人に――に見せた、初めての笑顔だった。


「きれいだろう?」

 籠手を脱ぎ、伝糸を回収しながら老人は満足げに頷いたが、「しかしね、」と海に向き直り、か細く言った。

「魔法にできることなど、所詮はこの程度なんだ」


 彼女が醒めやらぬ興奮と共に波打ち際に目を移した時、浜辺にはもう次の白波が打ち寄せていた。たった今、自分の前の波が吹き飛ばされたことなど、どうとも思ってないかのように。

 その後も波は打ち寄せた。何も言わず、ひとつも途絶えず、悠久の反復を続ける振り子のように、ただずっと打ち寄せていた。


 彼女の肩に、老人の手のひらがそっと置かれる。皺の刻まれた、ぎっしりと固く引き締まった手。

 しめやかな声色で、老人はささやいた。

「お前には、覚えていてほしいことがある」


 彼にはわかっていた。こんな時間はもう2度と訪れない、と。王家でさえもこうべを垂れて敬うこの老人が、こうして養女と2人きりで水入らずの旅をして、顔を並べて海を眺めるなどと。

 だから彼は今、語りかけるのだ。それが後の善導となることを願いながら。


――いいかい。

――海はあまねく万邦の岸辺に通じ諸島を結びつける、たったひとつの存在だ。

――しかし同時に、人の数だけ海はある。

――その2つは矛盾しない。だからこそ、海は大きいのだよ。


 老人の手の感触と、眼前に横たわる大海原――その2つに満たされた瞬間の中へと吹き込まれた言葉たちは、確かに彼女の胸に残り続けた。まるで岩礁の潮溜まりにさ迷い込んだ、1匹の銀魚のように。

 そして最後に彼は、こう結んだ。


――私は、私に見える海を信じている。

――お前も、お前に見える海を大切にするんだ。


――わかったね、

  

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