第128話 存在の耐えられない軽さ

やがて、顎を押さえていた手が離れ、ノリは居間へ行き、ソファーに沈み込むように座った。


「やっぱり止めた。死にたい人を殺しても何にも嬉しくない。でも、あんたを許した訳じゃないから。いや、自分は殺人者だという重荷を背負って、これからずっと苦しんで。それが私の復讐。だから、絶対に幸せにはならないで。なりそうだったら、自分は殺人者だと思いだして」


私が一番イヤなことを、彼女は言った。よく私の性格を理解している。死んでしまえば楽になるけど、そうしないでこれからの人生、後40年か、50年か分からないけど、ずっと苦しめというのは、本当に辛い。呪いの言葉だ。


でも、少なくとも、この件に関しては、私には選択権はない。ノリがそう言うなら、そうするべきだ、なぜなら私はノリの父を殺したから。


しばらく沈黙が続いた。不意にノリが言った。


「私、もう行くよ。いつまでもここにいたら迷惑だろうし」


彼女が言うには、彼女は指名手配されているらしい。九州が自治体連合軍により制圧後、連合軍に対してテロ活動を行い、その後、自治体連合を混乱させるために、大阪や名古屋など大都市で無差別の爆破テロを何回か行ったと言った。連合軍だけでなく、一般の人にも死傷者が出た。


「捕まったら死刑は確実だな。こんな極悪な逃亡犯が家にいたら、千里も仲間だと疑われちゃうし」


さっきは私に一生の呪いの言葉をかけたのに、そんな些細な気遣いをするのが変だった。でも、そういう些細な気配りをするのが、普通の、そして昔のノリそのものだった。


「シャワー貸してくれる?何週間も風呂に入ってなくて、なんか臭うし」


私は風呂場を教えた。彼女は脱衣所に入ると、さっさと服を脱ぐと、シャワーを浴び始めた。


私はぽつんと一人居間に取り残された。もう少しノリに家に居てほしかった。彼女は私を恨み呪っているけど、もしかしたら本心ではないかもというかすかな期待があった。それに、私は孤独だった。ノリとはいろいろあったけど、悪い子ではない気がしていた。


浴室から、私を呼ぶ声がした。私が脱衣所の戸を開け、浴室の方を覗き込むと、ノリが扉を少し開け、顔を出した。


「背中、流して」


負い目があることを利用して、私を小間使いのように使うつもりなのかな?


少しすれば彼女は居なくなるので、私は言うことを聞くことにし、服を脱ぎ、浴室に入った。


私が入ったのに気づかないのか、彼女はこちらに背を向けて、シャワーを浴び続けていた。


「来たよ」


私が声をかけても、シャワーを浴びたままだった。


どうしたのかな、と彼女の反応を待っていると、鼻をすする音が聞こえた。


彼女は泣いていた。


シャワーを浴びながら、最初は片手を、それから両手で涙を何度も拭った。


「千里は、何でも持っている」


彼女は涙声で言った。


「私には何もない。家族もみな失った。帰る家もない。友達もみな死んだ。学校もないし、仕事もない。夢もなければ希望もない」


私はなんと言って良いか、分からなかった。


「今までは、千里に復讐することだけが私の生きる目的だったけど、それも今日でなくなった。もう私には何もない。あるのは空虚さと絶望だけ」


彼女は片手を壁について、体を持たれかけながら泣いた。


「捕まれば死刑になる。でも、刑務所で見ず知らずの死刑執行人のおっさんに絞首刑にされるのなんて、惨めすぎる」

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