第94話 慧眼



私はびっくりした。ロシア語は話せないし、今の厨房のバイトで精一杯だった。


何で私を誘うのだろう?


理由を聞いた。


「千里は、何か特別な能力がある」


彼女は私をまっすぐに見つめて言った。


「普通、危ない目に何回か遭うと、たいてい死んじゃう。これは純粋に確率の世界で、個人の運動能力や知能は関係ない。でも千里は生き残った。だから、多分千里には、そう、なんだろう、生き残る勘?のような物があると思う」


宿屋やレストランの仕事で、何で生き残る勘が必要なの?


そう疑問に思ったが、もっと先に口に出すべきことがあった。それは、今までいろんな経験をして、何となく自分が他の人と違うと感じていたことだけど、死への恐怖心の有無だった。他の人は死への恐怖心があり、死ぬのを怖がって、出来るだけ死から遠ざかろうとしていた。


私にはそれがなかった。むしろ、死ぬ時はこんな風に死にたいという気持ちすらあった。だから、死を全く怖いと思わなかった。そして、その原因は、私がこの世の中で生きていないからだろう。体は生きているけど、心が生きていない。


そう、私は生き方が分からなかった。今まで誰も教えてくれなかった。最近になり、色んな人に会い、ちょっとずつ分かってきたつもりではあったけど。


でも、今の私の中の、生きる原動力は、張本さんとの約束だった。張本さんが生きれなかった分、私が彼女の代わりに幸せに生きるという約束だ。私は彼女のために生きているが、自分のためには生きていない。


まだタチアナと会って、数時間しか経っていないけど、彼女は、そこを見透かした。観察力がすごいな、と思い、同時に少し恥ずかしくなった。


こういう考え方は褒められたものではないし、むしろ投げやりさの表れに思えた。


私はそのようなことを彼女に言った。決して特別な能力ではなく、単なる投げやりだと。


「ボスに会ってみない?」


ボス?支配人のこと?


私が聞くと、彼女は言い直した。


「そう、支配人」


私は躊躇した。ロシアへは1週間ほどのつもりで来ただけで、ずっと暮らしていく気はなかった。


「誰か守る人ができれば、千里は強くなる、と思う」


彼女は続けた。


「私にとってボスは、親同然だし保護者であるけど、同時に私が守るべき人でもある。千里にとっても、きっとそうなる。そうなれば、千里は強くなれる」


「でも、私は宿屋の仕事やレストランの仕事を全く知らないし。だいたいロシア語、話せないから、接客業なんて無理だよ」


「そんなの関係ないよ、すぐに覚えられる。むしろ重要なのは、もっと根本のところの、そう、向き不向き、かな?」


どう考えても、ちょっと前まで引きこもりの私に接客業が務まるとは思えなかった。ちょっと考えさせてと、私は答えた。



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