第62話 不逮捕特権

気がつくと、ベッドの上にうつ伏せに寝かされていた。片腕を鍼師の肩に担がれて、運ばれていたような気もする。


鍼師が何か準備をしている姿が、視野に入った。全身に力が入らず、動けなかった。


「おや、気がついたか。まあ、良い。すぐに永遠の眠りにつかせてやろう」


そう言うと、手に小さな鍼を1本持って、私の方に近付いてきた。


「後頭部から、この鍼を刺して、脳幹をちょっと壊させてもらう。なあに、痛くない。すぐ終わる。君は意志を失うが、それは君にとって幸せを意味する。意志がなければ、悩みもないし、苦しまなくて良い。ついでに、体の痛みも感じなくなるから、肉体的な苦痛からも解放される」


鍼師は私の頭を掴んで、鍼を打ちやすいように、後頭部の位置を調整した。


「きれいな肌だ。全身のバランスも良い。美しい体だ。もちろんこの体は失われない。君の意志のみ、私の奴隷になる。刷り込みと言って、最初に見たものを親と思う、あれだよ。」


鍼師が私の後頭部に、鍼を刺そうとした瞬間、治療院の入り口から複数の警官が入ってきた。彼らは私と鍼師を見つけると、その不自然な体勢に違和感を持った。


「すぐに、その女性の治療をやめてください」


鍼師は憮然とした様子で、警官隊を見回し、私から離れた。私は警官に介抱され、具合を聞かれた。あーとか、うーとか、しか言えなかったけど、段々意識がはっきりしてきて、少し体も言うことをきくようになった。


カフェの店員から、若い少女が意識を失い、中年男性に店の外に運ばれていったと通報があり、警察が付近を捜索したところ、それらしき人物を見かけたので、ここへ来たと伝えられた。同意していたかと聞かれて、私は首を振った。


「これ、誘拐罪に当たりますよ。署でお話伺いますから。ご同行願います」


警官は鍼師にそう言った。


「私は中国人だ。現在、日本政府は中国軍の指揮下にあるはずだ。私を逮捕したらどうなるか、考えてみたまえ」


警官は、ここは自治体連合に加わることになったので、中国とは関係ないと、事務的に言った。


「君等は、私に手は出せない。ここが中国軍の指揮下でないなら、日本だろ。私は日本へは外交官旅券で入国している」


そう言って、机の引き出しから、黒色の手帳を取り出して、警官隊に上げて見せた。


「ウィーン条約に基づき、外交官免責特権を主張する」


警官は、無線で本部に問い合わせ、しばらく話し合っていたが、逮捕は諦めたようだった。みな、ぞろぞろと外へ出ていき、私も警官に肩を貸してもらって、もたれかかりながら、治療院を後にした。


治療院の外に、パトカーが停まっており、その後部座席に座らせてもらって、休んだ。


それから、後部座席に座ったまま、いろいろ話を聞かれた。


家を聞かれて、まだ口がうまく動かなかったので、多賀城駐屯地の入門証を見せた。パトカーで駐屯地まで送ってもらった。


パトカーの中で、警官に経緯を教えてもらった。


集団発狂で発狂した人の共通点は、あの治療院に通ったことのある人で、警察もそれを掴んでいたが、どうやって患者の行動をコントロールしていたのか分からなかった。


今回、私が連れ込まれたと通報があったので、誘拐で別件逮捕し、その後の取り調べで本件解決の予定だったと。


私は鍼師の言っていたことを伝えた。鍼で脳幹を破壊し、意志を奪い、刷り込みで鍼師の言うとおりに動かすと。


心の不調を取り除くと言いながら、患者を単に自分の思い通りに動かし、市内を混乱させる張本人だった。


「多分、中国軍から何らかの司令を受けて動いていたと思われます。後方撹乱というやつですね。今回の集団発狂の原因は、私達の目星どおり、あの鍼師で当たりだったんですね」


ただ、国際条約との兼ね合いもあり、逮捕できないから、今後監視は続けるが、それ以上はどうしようもないと、警官は言った。


駐屯地の門の守衛さんの前で、パトカーから降り、礼を言うと、パトカーは戻っていった。

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