第11話 ずっと前から

11

            

 史美は聖応小学校を出たその足で、秀輝の入院している病院へ向かった。意識は戻っていると伊久子から連絡は受けていた。

 秀輝の事を非難した池本に掴みかかったことに後悔は一切なかった。しかし、それが子供たちに与える影響を考えると胸が締め付けられる。秀輝が救急車の中で必死に訴えたことは、史美が学校で上手く取り繕えるようにと考えて言ったのだ。

 史美は立ち止まり目を閉じて、締め付ける胸の痛みを堪えた。


“ ごめん・・・。”

“ 学校・・・辞めさせられちゃった。”


 秀輝の計らいを無にしてしまった史美は道端に座り込んでしまう。


“ ダメ、そんなこと言えるわけない。”


 合わせる顔がない史美だが、秀輝の顔が見たいという気持ちの方が勝っていた。

 秀輝の入院先であるMM地区の病院へと続く道は、観光地の中にあるためか絶え間なく人が行き交っている。

 秀輝が入院している病院へ向かう途中、お洒落な店構えの花屋で史美は立ち止まった。店先に並んでいる華やかにアレンジメントされたコスモスの花束を購入した。


“ コスモスって、野に咲いているってイメージだから好きだな。”


 ガサツで乱暴そうに見える秀輝も、実は団子よりも花を選ぶロマンチストだということを知っている。

 喜ぶ秀輝の顔を想像しながら史美は病院へ急いだ。



※         ※         ※



 市内にあるMM地区の病院は、最新設備が導入され規模も大きく、多くの患者を抱えている。史美は受付で秀輝の病室を聞き、エレベーターに向かって歩いて行く。

 秀輝の病室がある階に倒着すると、廊下で電気ポットを抱える沙帆と鉢合わせになる。


「沙帆ちゃん・・・。」


 史美を視界に捉えた沙帆は一瞬にして顔色を変えた。


「何しに来たのよ!」 


 沙帆が史美を睨む。

 何も言え返すことが出来ないまま、その場に立ち尽くしてしまう。


「あなたのせいで、こんな事になっているのに・・・。よく顔が出せたわね!」


 史美と沙帆を避けるように、看護士や見舞い客が歩いている。 


「ヒデ君。何も言わないけど、あなたの事を庇ってあんなことになったんでしょ。」


 沙帆の一言一言が、史美の胸に突き刺さる。沙帆は病床にあっても、史美を気にし続ける秀輝を見せられて苛立っていた。


「そのくらいアタシにだって分かるわ。」


 やはり秀輝は、刺された理由を誰にも言っていなかった。


「ヒデ君死ぬところだったのよ。」


 ダメを押されたような言葉に、史美の体が震え始める。


「ヒデ君を巻き込んだあなたを、アタシは絶対に許さない。」


 史美を睨む沙帆の目は、激しい憎悪でむき出しになっている。


「あ・・・あの、・・・これ。」


 史美は躊躇ためらいがちに花束を差し出した。

 沙帆は差し出された花束叩き落し、立っている史美を突き飛ばす。勢いよく飛ばされた史美は、体勢を崩して転んでしまう。


「帰って!・・・、帰ってよ。」


 看護師や他の患者たちの視線が一斉に史美と沙帆に集まる。沙帆からすれば史美は、以前から秀輝を苦しめる存在以外の何者でもない。


「ごめんなさい。」


 史美は声を震わせながら、その場から立ち去って行った。

 沙帆は史美が残した花束を、叩きつけるようにゴミ箱に捨てた。



※         ※         ※



 史美を追い返した後、沙帆は何事もなかったかのように秀輝の病室に入ってくる。病室には付き添いの伊久子が待っていた。


「ポットの水、変えてきました。」


 沙帆はポットを窓際の棚に置いた。

 意識が戻った秀輝は、朝から史美の事を何度も伊久子に尋ねていた。


「お袋。田原、大丈夫だったか?」


 秀輝は史美が、指示通りに学校へ報告したか気になっていた。指示通りに報告できていれば、厳重注意程度で済むはずだと思っていた。


「大丈夫よ、田原さんには加藤君たちがついているから。あんたは早く傷を治しなさい。」

「それは・・・わかってるよ。そうじゃなくて学校のほうだよ。何か聞いてないか?」

「さぁ、何も聞いていないけどね。」

「ちゃんと聞いておいてくれよ。大丈夫かどうか気になるんだよ。」

「人の心配している場合じゃないでしょ。」


 自分の怪我のことも忘れ、史美の心配をしている秀輝に沙帆は苛立ちを込めて言う。

 沙帆は陽射しが入るように病室のカーテンを開けた。外を眺めていると肩を落として病院を出て行く史美の姿が見えた。


「さぁ、沙帆ちゃん帰ろう!」

「えっ?アタシもう少しここにいます。」


 面会時間終了までは、まだまだ時間がある。


「何言ってんの。今日は、帰って少し休みなさい。」

「でも・・・。」


 看護師が検診のため、秀輝の病室に入って来た。


「有難う、もう大丈夫。看護師さんもいるから心配いらないよ。」

「さぁ、帰りましょ。」


 伊久子は不満気な沙帆を連れ、看護師に軽い会釈をして病室を後にした。

 2人が帰った後、秀輝は壁にかけてあるカレンダーを見つめていた。


「看護師さん。俺、今日で何日ここに居るんですか?」

「えっ~と・・・、2日かな。」

「そんなに・・・。」


 2日も経ってしまったのかと、時間経過の速さに驚いていた。


「何か?」


 妙なことを気にしていると看護師は首を傾げる。


「い、いえ、別に。」 


 秀輝の表情は次第に険しさを増していく。看護師は秀輝のカルテを記入すると、足早にナースステーションに戻っていった。秀輝はもう一度、カレンダーに目をやっている。そして何かを決意したかのように天井を見上げ固く唇を結んだ。



※         ※          ※



 病院を後にした史美はあてもなく、日の出町の都橋付近を歩いていた。都橋に差し掛かった時、川面に太陽が反射して眩しさのあまり足を止める。川の水も少しずつ綺麗になっているのか、鯉やハゼ、ボラなどが泳いでいるのが見えた。川の魚を狙っているのか、カモメが群れをなして頭上を飛んでいる。史美は橋の欄干にもたれて、何気なく川面を眺める。

 二羽のカモメが、史美が見つめる川で寄り添いながら泳いでいる。体の大きいカモメが、体の小さいカモメにちょっかいを出していた。初めは、されるがままに逃げ回っていた小さいカモメも、方向転換をして反撃し体の大きなカモメはタジタジになって逃げ回っている。

 史美は、そのカモメに幼い頃の自分と秀輝を重ねていた。自分にしつこく悪戯をしてくる秀輝を、何度追い掛け回して懲らしめていたか。

 一度だけ秀輝に告白されたが、恋人のいる史美は秀輝とは付き合わなかった。秀輝と会うことを避け、遠回しに気持ちがない事を伝えた。それでもう秀輝は、史美への想いが無くなっていたと思っていた。

 でも、そうではなかった。それから十数年も、秀輝は史美のことを心にずっと思い続けていたのだ。

 デートと呼べるものかは分からないが、2人きりでいたことは数えきれないほどある。自分の部屋、秀輝の部屋、車の中やムードのある公園。そのどの場面も、秀輝はとても紳士だった。きっと自分は女扱いされていないのだろうと、いつからか史美はそう思い込んでいた。でも真実は、その逆だったのである。

 史美はふと、男性遍歴の多い女友達が言っていたことを思い出していた。


“ 大切に思ってくれる男ほど、何もしてこないんだよね~。”


 秀輝がまさにそうだったのだ。照れ笑いする秀輝の顔が、川面に浮かんでくる。どうして、どうして気付かなかったのか。自分が情けなくなって、思わず欄干に突っ伏してしまう。


「田原さん?」


 呼ばれた方へ顔を向けると、はなが買い物袋をぶら下げて立っていた。


「・・・ママさん。」


 橋の欄干に力なく佇む史美の姿を、はなは暫く見ていたらしい。


「何しているの?こんなところで・・・。」

「別に、ただ何となく・・・。」

「元気ないわね。」

「そうですか?」


 はなは元気のない史美の横顔を、優しい眼差しで見つめている。


「お茶でも飲んでいく?」


 とてもそんな気分になれないと断ろうとしたが、はなに手をしっかり掴まれる。


「店すぐそこだから。」


 はなはニッコリ笑って、掴んでいる手を引っ張る。その場から動こうとしない史美を、はなは半ば強引に引っ張って行く。


「ホラッ、早く早く。」


 史美の手を引っ張りながら、はなは店へと連れて行った。



※         ※          ※



 開店前の人の温もりが消えた店内は、どこか寒々として寂しさが漂っている。

 カウンターに座る史美は、はなが準備するコーヒーを待っている。


「ちょっと待ってね。美味しいコーヒー淹れるからね。」

「はい、ありがとうございます。」


 狭いキッチンは、はなが入るとスペースに余裕が無くなってしまう。機能的なキッチンは、四方に手が届くようになっていて、はなの使い勝手がいいように出来ていた。コーヒーメーカーを取り出し、挽いてある豆を投入する。店内に漂うコーヒーの香りが、傷付いた史美の心を少しだけ癒してくれた。


「篠塚・・・。ここへはよく来るんですか?」

「よくってほどじゃないけど・・・。お父さんと二人でとか、友達とって感じ?」

「・・・そうですか。」

「女の子は、あなたが初めて・・・。」


 煙草に火を点けながら、はなは史美に微笑んだ。

“ 女の子は、あなたが初めて ” というはなの言葉に、史美の知らない秀輝の一面を知る。グルメな秀輝は、当然他の女性も連れて来ていると思っていたからだ。


「煙草、吸うよね。はい、灰皿。コーヒー、もう少しだから・・・。」


 史美に出された灰皿は、華の趣味なのかクリスタル製のお洒落なものだった。


「実はね。」

「はい。」

「あなたのこと、随分前から知っていたのよ。」

「えっ?」

「秀輝君。ここへ来ると、よく話していたもの。あなたのこと。」

「アタシのことを?」

「名前も言わないし、どんな関係の子なのか知らなかったけど・・・。大切な人がいる。自分の命よりも大切な人が、僕にはいるんですって・・・しょっちゅう話していたの。それ・・・あなたのことでしょ?」


 茶目っ気たっぷりに史美の顔を覗き込む。答えに苦しむ史美ははなから視線を外して俯いている。


「まぁ・・・あれは一種の惚気のろけだわ。秀輝君と一緒に来た時、そのことがあなたの事を言っているんだって、直ぐにわかったわ。」

「そう・・・ですか?」

「あ、こんな事言っちゃ不味かったかな。ま、いっか!」


 沈んでいる心をケアしようとしてくれるはなの心遣いも、今の史美には締め付けられるように痛い。


「それにあなたって、努力家なんですってね。」

「別に・・・。そんなこと。」

「謙遜しなくてもいいのよ。だって秀輝君からみんな聞いているもの。確か・・・学校の先生だったわね?子供たちのために、日々奮闘しているって言っていたわよ。」

「そんな・・・。」

「まるで自分の事のように自慢するの。それが度が過ぎちゃうと、他のお客さんにも話すのよ~。あなたのこと・・・。」


 それは史美の知らない秀輝の話だった。


「でも、あなたも凄いなって思った。」

「えっ?」

「こんなにも人を好きになる秀輝君も凄いけど、それほどまでに想われるあなただって凄いのよねぇ・・・。」


 はなは淹れたてのコーヒーを史美の前に差し出す。


「はい、どうぞ。」

「・・・頂きます。」


 優しく穏やかな香りが店いっぱいに広がっていく。


「美味しいです。」

「そう?この店の特製ブレンドよ。秀輝君だって、このコーヒー飲んだことないのよ。」


 はなはそう言いながら、自分もそのコーヒーを飲む。


「ホント、美味しい!あなたにも挽いた豆をあげるから、お家で飲んでみなさいよ。」

「すみません。」


 史美はその後、店が開く直前まではなと2人で心ゆくまで話をしていた。



※        ※         ※



 はなの店から帰ってきた史美は、そのまま自分の部屋に閉じ籠っていた。音楽を聴く気分にはなれないし、秀輝のことが気になって何か他の事をする気になどなれなかった。


“ それほどまでに想われるあなただって凄いのよねぇ”


 史美は先程のはなの言葉を思い出した。


“ 凄くなんかない!”


 頭の中を駆け巡るはなの言葉をかき消そうと何度も頭を振った。ギュッと閉じていた目を開けたその先に、小学校時代の卒業アルバムがあった。

 史美は何かにすがるように卒業アルバムに手を伸ばした。卒業アルバムを手に取り、自分たちのページ写真を眺める。まだあどけない少年時代の秀輝の写真が懐かしい。

 秀輝が転校して来たばかりの頃、よく頭を小突かれ追い掛け回されていた。中学時代、部活の帰り道に自宅マンション前でよくお喋りをした。はなが言っていたが、秀輝は史美が帰ってくる時間を見計らって外で待っていたらしい。それは、高校時代もそうだった。


“ 俺はお前の親友だぜ。”


 秀輝は傷ついた自分の側に、いつも寄り添って力になってくれた。


“ 大丈夫!”


 口癖のように言うこの言葉は、いつも史美に一歩踏み出す勇気を与えてくれた。 

 自分の代りにナイフで刺され、しかも警察沙汰にならないように、命の危険も顧みず史美を気遣ってくれた。本当に本当に、秀輝は命懸けで愛してくれていた。締め付けられるような胸の痛みと共に、卒業アルバムにポタポタと涙がこぼれ落ちていく。

 そんな秀輝に、自分は恋や結婚の相談をしデートの場繋ぎをやらせ、会えない恋人の身代わり役をさせていたのだ。沙帆が自分へ向ける怒りの理由が、今になって漸く理解できた。


“ ゴメンなさい。”


 史美は、声をあげて泣いた。



※         ※          ※         



 翌日の夕方、思いもよらぬ人間が史美を訪ねて来る。


「西條君・・・。」


 ドアを開けると秀輝の高校時代の親友・西條誠が立っていた。


「こんにちは。」


 会社帰りなのか服装はスーツ姿だった。


「突然、ゴメンね。篠塚から頼まれてさ。」

「頼まれた?」

「田原さんの様子を見てきてくれって・・・。」


 秀輝は病床に居ながら、まだ史美の事を気にかけている。


「篠塚は?大丈夫だった?」


 医者から問題ないと言われても、やはり秀輝の様子が気になっていた。


「あ、上がって・・・。」

「いや、田原さんの顔を見に来ただけだから・・・。」


 誠は秀輝の見舞いを済ませ、その帰りに史美のところに寄ったと言う。


「大丈夫?・・・なワケないか。」

 真っ赤に充血した史美の目は、今の史美の気持ちを表していた。


「アイツなら心配いらないよ。田原さんが大丈夫なら・・・。」

「アタシが大丈夫ならって・・・。」


 史美は帰ろうとする誠を引き止める。自分の知らない秀輝のことをもっと聞きたかった。


「やっぱり、上がっていって。西條君に聞きたいことがあるの。」


 すがるように訴える史美の目を、誠は拒むことは出来なかった。

 誠は用意してくれた座布団に座って、さり気なく部屋を見渡した。卒業アルバムが無造作にベッドの上に置いてあること以外は特別気にするようなものは無かった。

 史美は誠の前に、淹れたてのコーヒーを差し出した。


「なんて言ったらいいか・・・。大変な目に遭ったようだね。」


 肯定も否定も出来ず、史美は黙っていた。


「ひとつ聞いてもいいかな?」

「何?」

「篠塚の怪我のことだけど・・・。」

「うん。」

「護身用に持っていたナイフで、間違って自分を刺したなんて言っているけど。アレ、誰かに刺されたんだよね?・・・」


 言いたくても史美の口から言うことは出来なかった。刺された激痛に耐えながら、史美のためにしてくれたことを。その時の光景が脳裏に蘇り、史美の目から涙が零れる。


「ゴメン。言えないならいいんだ。」 

「・・・ゴメンなさい。」

「いや、俺の方こそ・・・ゴメン。」


 今の自分は優しくされる資格さえないと、心で何度も叫び続ける。


「察しろってことだよね。」

「ううん、そんなこと・・・。」

「篠塚に怒られちまうな。」


 史美と秀輝に起きたことを、誠には見抜かれているように感じる。


「怪我の事は、そんなに気に病むことはないよ。男なら誰だって強がって見せるし、こんなの当たり前の事だからさ。」

「えっ?」 


 親友のくせに何てことを言うのだと、史美は誠を睨みつけた。


「しかし、アイツらしい告白の仕方だよね・・・。」


 誠もやはり秀輝の気持ちを知っていたのだ。


「もう分かっているよね?アイツの気持ち・・・。」


 史美は黙って一度だけ頷いた。


「・・・そう。」


 誠が深い溜息をついた。


「とうとう分かっちゃったか・・・。」


 史美はドレッサーの上に置かれている写真の秀輝を見つめた。


「アイツ、ずっとずっと前から田原さんのこと好きだったんだ。」


 自分だけ・・・。自分だけが知らなかった秀輝の想いだった。


「でもさ、俺は篠塚が羨ましいや。」

「えっ?」


 怪我をしたことの何が羨ましいのか、理解に苦しむことばかり誠は言っている。


「自分の気持ちって言葉にすると、何だか軽そうに聞こえるじゃない。だから、人に想いを伝えるのは難しいんだよね。」


 誠は、深く溜息をついた。

 

「アタシが、篠塚に甘え過ぎたから気付かなかっただけだよ。」

「田原さんは一度フッたんだ。まさか、ずっと好きだったなんて誰だって思わないよ。それに、アイツよく誤解されるじゃない。男女関係なく、度が過ぎるほどのお節介焼くからさ。お節介焼かれた方は、自分の事を好きなのかも知れないって誤解してしまう。よく注意してたじゃない田原さんも桐原さんも・・・。」

「でも・・・。」

「そういう篠塚を知っている田原さんだもん。気付けっていうのが、土台無理な話さ。」


 慰めや気遣いの全てが、史美の心に突き刺さる。


「なんか随分カッコいいことやってくれちゃってさ。羨ましいよ、やっぱり・・・。世界で一番大切なヤツのために、体を張ることが出来るなんてさ・・・。」


 数日前の出来事を、まるで見透かしているかのように言う。 

 誠は史美が見つめている秀輝の写真を見ていた。飾られている写真に映る秀輝は、本当に幸せそうに楽しそうに笑っている。写真をしみじみ見ている誠は、何も語らなくなり黙っている。史美はそんな誠が気になって、様子を窺うように横顔を見つめている。

 似たようなフレーズに聞き覚えがあった史美は、2人でDVDを観ていた時のことを思い出していた。それは観終わった時に、秀輝が言った言葉だった。


“ 愛している人のために、自分の命や時間を使えるなんて羨ましいよ。”

“ 愛する人が幸せなら・・・それでいいんだよ。”


 それは自分に対する秀輝の想いだったのだ。募っていく思いは、史美の目から涙を止めどなく溢れさせる。


「ア・・・アタシは、そんなに思ってくれるような女じゃないよ。」

「・・・そんな事ないよ。」


 慰められることを拒むように、史美は首を何度も横に振った。

 穏やかだった誠の声が、弱気な言葉を聞いて怒りに変わる。 


「何言ってんだよ、そんな事言うなよ。」


 突然大声を出す誠に、史美は驚いて顔を上げた。


「そんな事言ったらガッカリするぜ、アイツ。」


 怒っていた誠の声は、次第にトーンダウンして優しい声に変わっていく。


「人から想われるには、そんなに立派な人でないとダメなの?仕事が出来るとか?・・・社会的地位が高い人だから?偉大な事をしているから好きになるの?誰からも尊敬されるような人でないとダメなの?」


 誠の声が、まるで秀輝が言っているかのように聞こえる。


「その人の笑顔が可愛かったり、ちょっとおっちょこちょいなところが堪らなかったり・・・。そんな何気ないことに、気付いたある特定の人だけが次第に惹かれていって、いつの間にか好きになっていく。そういうもんじゃないの?」


 確かに秀輝の良さは、史美にしか分からない。世界中の誰よりも、秀輝の事を理解しているのは自分だという自負もある。


「篠塚にしか分からない何かが、田原さんにはきっとあるんだよ。だから、そんな事言っちゃだめだよ。」

「・・・うん。」


 誠は勢いで捲し立てた口調を改め、再びトーンを抑えて話し始める。


「実は俺にも、好きなひとがいるんだよ。その女のためなら何でもするよ。」

「そう」

「うん。」

「付き合っているの?」

「いや、片思い中・・・。」

「西條君の気持ち、伝わるといいね。」

「うん。でも、もう気付いていると思うよ・・・。」

「そうなの?」

「俺は、篠塚とは違うよ。」


 笑顔で熱く語る誠の表情は、どこか秀輝に似ている。史美に見つめられ、誠はハッと我に返る。


「あ・・・なんか調子に乗って喋り過ぎちゃったかな?。」


 史美は必死に首を横に振った。もっと、もっと自分の知らない秀輝の話が聞きたかった。


「ゴメン。そろそろ帰るよ。」

「えっ、どうして?」

「約束があるんだ。」

「そうなの。」

「悪いけど・・・。」

「ううん、ありがとうね。」


 誠は立ち上がり、玄関へ向かった。


「実は、篠塚のことを心配しているひとが待っているんでね。大丈夫だってちゃんと伝えに行かないと・・・。」

「えっ?」


 まさか沙帆の他にも、秀輝の事を想っている女がいるのかと一瞬不安になる。

 誠が最初に慰めてくれたように、秀輝は誰にでも優しくしてしまうところがある。頼られると放っておけない性格なのだ。だから優しくされた女性は、いつも勘違いをしてしまうのだ。


“この人は、私の事が好きなのかもしれない。”


 史美は何度も、秀輝に誤解を生む行動は控えるようにと注意していた。


「さっき言ったでしょ。俺の大切な人・・・。」

「あ・・・。」


 取り越し苦労だったことが分かりホッとする。そして秀輝の心配をしているという、誠が愛する女の子の気持ちが有難かった。


「今日、これから会う約束をしててね。ま、篠塚にとっての田原さんみたいなもんかな。」

「・・・そう・・・なの?」


 秀輝と誠は、やはりどこか似ている。誠の想うひとは、自分と似ているのか・・・。


「じゃあね!」 


 誠はVサインと爽やかな笑顔を残して、史美の家から去って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る