第10話 想いを込めて
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謹慎期間が解け、史美は聖応小学校の教壇に戻った。職員室に入ると同僚教師たちの冷ややかな視線が史美に向けられる。
「ゆっくり出来た?」
史美の隣に座っている同僚教師が、引きつった笑顔で話してくる。事情を知っている筈なのに嫌味を開口一番で言ってくる。しかし、それも仕方がない。自分の受け持ち以外の仕事を、この一週間させられたのだから嫌味の一つも言いたくなるのだろう。
「申し訳ありませんでした。」
「いいえ。頑張りましょうね。」
授業開始のチャイムが鳴り、史美たちは一斉に席を立って教室へと向かう。
史美の受け持つ1年生のクラスは校舎2階にある。他の同僚たちが軽快に階段を上っていくなか、史美の足取りは重かった。生徒たちの反応が心配だった史美は、教室の前で立ち止まり深呼吸をする。
“ 頑張らなくちゃ。”
教室に入ると生徒たちは史美の周りに集まり優しく迎えてくれた。
「先生!」
「先生!大丈夫?」
史美に抱きついて離さない生徒は、うっすらと目に涙を浮かべていた。
「みんな、ゴメンね。」
怪我をした生徒も、大した事にはなっておらず元気な顔を見せている。
「さぁ、授業を始めまーす!」
「ハーイ!」
生徒たちの明るく元気な声は、心細かった史美の気持ちを一気に解消させた。
※ ※
定時を過ぎ職員や同僚教師たちが次々に帰宅していく中、史美は一人残って残務整理をしていた。謹慎中の間、引継ぎなどやることが山積していた。
気が付くと職員室は、史美一人だけになっていた。
ふと机に飾られている写真を見る。秀輝や眞江たちが史美を囲んで写っていた。秀輝が史美の横で、大きな口を広げて笑っている。
“ 会いたいなぁ・・・。”
昨夜も秀輝は、史美が眠るまで側に居てくれた。ここ数週間ずっと秀輝と一緒だったが、離れると無性に顔が見たくなる。
史美は、俊一が別れる際に言った一言を思い出していた。
“ 篠塚君のことを、よく考えてみなよ。”
秀輝といると何とも言えない安心感があった。世界中で誰よりも自分を理解し、どんな時も味方になってくれる。
ずっと自分の側にいて欲しいと、今も心の中で強く願っている。
史美の心にボンヤリとした、ある感情が少しずつ浮き上がって来る。
“ えっ?アタシ、篠塚の事が・・・。”
“ まさか・・・、ないない絶対ない。”
浮かんでくる気持ちを、必死に否定しようとする。
否定しようとしても、想いは自然と湧き上がってくる。
“ 側にいてよ・・・。”
そして、それは次第に強さを増していった。
今の史美の気持ちを、秀輝が知ったら何と言うだろう。
秀輝も自分と同じ気持ちでいてくれたら、そんな思いが史美の頭を過る。しかし、直ぐにそんな筈はないと思い直して肩を落とす。
“ 親友じゃねーかよ。”
そんな言葉が返って来そうだ。
そういえば・・・、秀輝は想いを寄せている女はいるのだろうか。史美の前で、秀輝は全く女の話はしない。" サヨナラCOLOR "という映画を観たときに、呟いたセリフは明らかに誰かを思い描いていた。
" そんなふうに想われてみたいな・・・。 "
秀輝にそう言わせる女の子って誰なのだろう。羨ましい・・・な。
そんなことを心の隅で、ふと思ってしまった。しかし、そんな思いを史美は直ぐに打ち消してしまう。
そもそも俊一と別れて時間がそれほど経っていないのだ。
しかも史美は、結婚式のウェルカムボードも頼んでいた。それなのに、今さら何を言っているのだ。
デリカシーがなく、節操のない女と秀輝に思われたくなかった。唇を噛んで後悔しても、過ぎてしまったことは取り返しがつかない。
“ でも・・・やっぱり会いたい。”
史美は写真を手に取り、秀輝の顔を指で優しく撫でた。
「田原先生。」
突然の声に驚いて振り向くと、初老の用務員が扉の前に立っている。
「まだ、残っておいでになりますか?」
“ まだ帰らないのか ”という態度を露骨に出している。
「すみません。もう帰ります。」
史美は写真を定位置に戻し、帰り支度を整え足早に職員室を出て行った。
※ ※
校舎を月明かりが照らし、真っ暗な校舎の影が校庭を覆っている。
史美は誰もいない校庭を、ゆっくり歩いて校門へ向かう。影は真っ暗な闇を作り、史美を一層心細くさせる。得体の知れない恐怖が、闇に潜んでいるようで怖さが一段と増していた。こんな時、隣りに秀輝がいてくれたら。
もしかしたら、秀輝が校門の前で自分を待っていてくれるかも。史美の淡い期待は、踏み出す一歩一歩に勇気を与えてくれる。
校門に向かって歩くと、門の
“ 嘘、どうして?”
期待していたとおりの展開に、驚いた史美は小走りで校門に向う。
「こんなところで何してんの!」
「さっき近くを通りかかったからよ。どうしてるかなぁと思ってさ・・・。」
笑ってしまうくらいの白々しい嘘が、史美の心を優しく包み込む。
「職員室の明かりが見えたから・・・まだ仕事してんのか・・・と思ってさ。何つーの、ちょっと覗いていたんだ。」
秀輝の足元を見るとタバコの吸殻がいくつも転がっていた。史美を待って長時間、そこにいたのが明らかであった。
「嘘つき・・・。」
史美はタバコの吸殻を指差した。
「心配してくれたんだ。・・・ありがとう。」
秀輝はいつものように憎まれ口を叩かず、素直な史美に面食らっている。
「電話してくれれば、すぐ出てきたのに・・・。」
「・・・うん。でも、仕事の邪魔かなぁって。」
「家でも出来るし・・・。」
「そっか・・・。」
「こんなところでタバコ吸いながら立ってたら、不審者に間違われるでしょ。」
「そんなことねぇ~よ。」
「そんなことあります。自分の顔、鏡で見てみなさいよ。」
「ハードボイルドが不審者に見られるわけね~だろ。」
” 出た・・・。”
史美は秀輝の口癖に呆れてしまう。
「もうっ~、学校を汚さないでよ~。」
史美が吸ったタバコの吸殻を片付ける。
「あ、悪い悪い。」
吸殻を片付ける史美を見て、慌てて秀輝もそれに倣った。
吸い殻の後始末をしている最中に、1台の車が史美と秀輝の横を勢いよく通り過ぎて行った。
「何だよ、危ねぇーな。」
その車は学校横の歩道に停車した。
男女2人が車から降りて、史美と秀輝に歩み寄って来る。
「三咲さん?・・・。」
物々しい雰囲気を漂わせ、琢磨の両親が史美と秀輝の前に立った。
「あの・・・何か?」
哲郎は無言で史美に、少しずつ近づいて来る。その表情は怒りに満ち溢れ、体は小刻みに震えている。
「アンタ、うちの息子と何してたんだよ。」
和佳子が哲郎の腕を掴み引き止めようとする。
「何をって・・・。」
「人の生活を監視して、何を企んでいるんだ!」
「監視?・・・。」
「LINEや電話で、うちの琢磨を丸め込むつもりだったんだろ?それとも何か調査でもしていたのか?・・・全部、学校側の指示か!」
哲郎が大声で怒鳴る。
「違います、学校とは何の関係もありません!」
史美の必死の訴えも哲郎の耳には届いていない。
「知っているか?あの事故以来、うちの家族の将来は大きく変わってしまったんだ。琢磨は夢も希望も失った。俺たち夫婦もあの日から・・・。」
常軌を逸している哲郎の様子に、秀輝はゆっくりと史美を後ろに下がらせ哲郎との間に入った。
「三咲さん、アタシはただ・・・。」
史美が前に出ようとするのを、秀輝は庇って後ろへ下がらせる。秀輝は哲郎を警戒しながら、史美と一緒に後ろへ下がる。
「もういいじゃないか。そっとしておいてくれよ。」
哲郎がじりじりと、史美と秀輝に詰め寄って来る。
「なぁ、何が目的なんだ?また裁判でも起こそうっていうのか?勝ったんだから、もういいじゃないか・・・。これ以上、何をしようっていうんだ!」
和佳子は、手を後ろに組んでいる哲郎の手元を見て顔を強張らせる。手にはキラリと光るものが握られていた。
哲郎は叫びながら持っていたナイフを振りかざし史美に襲い掛かる。
「キャーッ」
振り下ろす哲郎の腕を、秀輝が取り押さえる。少林寺拳法の心得のある秀輝は、暴れる哲郎からナイフを叩き落とし
「何考えてんだ!アンタ正気か?」
腹部に受けた衝撃で、哲郎は路面をのた打ち回っている。
秀輝は振り返って、震えている史美のもとへ駆け寄る。
「田原。大丈夫か。」
恐怖で震える史美を、秀輝は優しく抱きしめた。
「大丈夫だからな。」
秀輝に抱き締められ背中を摩られても、目の前で起きた出来事に震えが止まらない。
突然の出来事に呆然と立ちすくんでいた和佳子だが、道端に転がっているナイフを見つけ夢遊病者のように歩き出す。
和佳子はナイフを拾い上げ、フラフラと史美の方へ歩いて行く。恐怖で震える史美を慰めている秀輝は、和佳子が近寄って来ることに気付いていない。
漸く秀輝が和佳子の気配に気付いた時、その手には先ほどのナイフが握られ、史美の背中を刺そうとしていた。
今から飛びついても遅いと思った秀輝は、和佳子に背を向けていた史美と体を入れ替える。
秀輝の背中に和佳子がぶつかる。
和佳子は、ぶつかった反動で弾かれ尻餅をついた。
「うっ。」
秀輝の微かな声に、史美は腕の中から顔を見上げる。
「篠塚?・・・」
呼びかける史美の声に、秀輝が反応しないことに気付く。
秀輝の腰に回した手が金属のような冷たい何かに触れる。その手を注意深く動かすと、秀輝の腰に和佳子が刺したナイフが刺さっていた。抱き締められている腕の隙間から、手を真っ赤に染めた和佳子が見える。
「嘘・・・。」
史美の左手が秀輝の血で真っ赤に染まる。
「痛っ。」
秀輝が崩れるように膝から落ちていく。史美は倒れた秀輝を抱きかかえた。秀輝は刺された傷を押さえながら、呆然としている三咲夫婦に叫んだ。
「おい、早くここから逃げろ・・・。誰かに見られる。」
三咲夫婦は、思いもよらぬ秀輝の言葉に戸惑っていた。
「何をしてんだよ!人が来ちまうだろ!」
哲郎の声を聞いた近隣住民が、通報しているかも知れない。
「早くしろっ、琢磨くんが可愛くないのか!」
秀輝の言葉で三咲夫婦は我に返り、乗ってきた車で現場から立ち去って行った。秀輝はその光景を見て安心したように微笑む。
「ハハハッ、分かりゃいいんだよ。」
「篠塚!」
「刺されるってな、やっぱり痛てぇな。」
笑いながら呟く秀輝は、史美の腕の中で意識を失っていく。
「・・・篠塚?篠塚―っ!」
しかし、意識朦朧となっている秀輝の耳には届かない。
史美は携帯電話を取り出して、119番に電話を掛ける。
「大至急、救急車―っ!救急車をお願いします!」
史美は秀輝を抱き締め、必死に叫んだ。
※ ※
史美と秀輝を乗せた救急車がサイレンを鳴らし、搬送先の病院を目指し疾走する。救急隊員の応急処置で、秀輝は再び意識を取り戻していた。
「篠塚、しっかりしてお願い。」
秀輝の手を両手で握り締め祈っている。
「かすり傷だ。・・・心配するな。」
痛みを堪え傍らにいる史美を見つめる。救急隊員は、搬送先の受け入れ準備について担当スタッフと連絡していた。
「いいか、田原。病院に着いても、三咲さんに刺されたなんて言うなよ。」
秀輝は救急隊員に気付かれないように小声で話をする。
「えっ?」
「医者はな、事件性を感じた場合、警察に通報する義務があるんだ。だ・・・だから、色々聞かれるかも知れないけど、俺が間違って自分で刺しちまったって答えるんだ。いいな。」
「嫌・・・そんな事出来ない。」
「ば・・・馬鹿野郎。警察に通報されたら、琢磨くんはどうなるんだよ。せっかくここまで、お前が琢磨くんのためにやってきたことが無駄になっちまうだろ!」
リキんだせいで痛みが走ったのか、秀輝は苦痛で顔を歪める。
「それから明日の朝早く、校長にも報告しなきゃダメだ。俺が搬送されるところを用務員に見られている。」
そんな事はもうどうでもいい、史美は秀輝の容態が何より心配だった。
「おい、ちゃんと聞け。あの用務員がある事ない事、報告するかも知れない。だから、その前にお前から言うんだ。病院と同じことを言うんだぞ。いいか、わかったな。」
連絡を終えた救急隊員が、史美と話をしている秀輝の体を押さえる。
「篠塚さん、傷口が開いてしまいますから喋らないで下さい。」
受け入れ先が決まり、救急車は搬送先の病院に着いた。救急隊員たちはストレッチャーに乗った秀輝を救急救命室に運ぶ。史美も秀輝の手を握り締めたまま、救急隊員と供に救急救命室に向かう。病院の看護師が救急救命室に入室しようとする史美を制する。
「付き添いの方は、こちらでお待ち下さい。」
史美は救急救命室の前で、放心したように立ち尽くす。手術中のランプが、史美の頭上で赤く点灯しオペの開始を知らせた。
※ ※
秀輝が病院に搬送されたことを史美から連絡を受けた秀輝の両親は、救急救命室の前で手術が終わるのを待っていた。和明たちも同様に、史美からの知らせで駆け付けていた。
秀輝の両親が駆け付けてから、かなりの時間が経過していた。手術中のランプは灯ったまま消えていない。
「おばさん、あ、アタシ・・・。」
伊久子は取り乱している史美を優しく抱きしめる。
「大丈夫よ。」
和明から知らせを受けた沙帆も、息を切らせて駆け付けてくる。眞江が駆け寄ってくる沙帆を見て和明に詰め寄った。
「アンタが呼んだの?」
「当たり前だろ。」
「何考えてんのよ!」
「おい、二人ともよせ。」
尊が言い争っている眞江と和明の間に割って入った。
沙帆は史美を見つけると伊久子から引き離し、怒りを込めて頬を平手で打った。
「何があったの?何があったのよ!」
沙帆は史美に掴みかかり、収まらない怒りをぶつけた。
「何でヒデ君が、何でヒデ君がこんな目に遭うのよ!」
電話で事情を聞いていた伊久子は、興奮している沙帆を史美から引き離す。
「沙帆ちゃん、やめなさい!何をするの!」
「だって、おばさん!」
「秀輝はね。間違って自分で刺したのよ。」
「そ・・・そんな馬鹿な話、信じるの?」
「秀輝が、そう言ってるのよ。」
「ヒデ君、大丈夫よね?大丈夫なんでしょ?」
伊久子も厚史も、険しい表情のまま沈黙していた。
沙帆は、その場に泣き崩れる。
眞江は史美を抱え、治療室前のソファに座らせた。史美たちがいる救急救命室の前は、深い海の中にいるように音もなく静まり返っていた。
手術中の灯りが消え、手術用ベッドに横たわる秀輝が看護師たちに付き添われて出てくる。
史美が誰よりも早く、執刀した医師を見つけ駆け寄る。厚史が史美に続き、医師に手術の結果を訊ねる。
「先生、秀輝は?」
「ご安心ください。命に別状はありません。今、麻酔が効いていますから、お休みになっていらっしゃいますが・・・。」
和明たち一同は医師の言葉で、皆安堵の胸をなで下ろしている。その中で史美だけが激しく嗚咽していた。
「改めまして・・・。この度、執刀させて頂きました芳山と申します。」
芳山は、手術帽を取って史美と厚史に頭を下げた。
「ありがとうございました。」
厚史に
「刺されたナイフを抜かなかったのが良かったでしたね。」
「そうですか。」
「ただし、傷は深いですから絶対安静ですよ。」
「それから、ちょっとご相談なんですが・・・よろしいですか。」
芳山医師は、史美と厚史に手招きして廊下のはずれに連れ出す。
周囲を気にしながら、芳山医師は史美と厚史を前に話し出した。
「術前、ちょっとした問題が起きまして・・・。」
「問題・・・ですか。」
「ナイフが刺さっていたので事件性の疑いがあります。事件性の疑いがある場合、警察に通報する義務が我々医師にはあるんです。」
史美は俯いたまま芳山医師の話を聞いている。それは、秀輝が救急車の中で言っていた医師の義務についてだった。
「はい。」
「我々も迂闊だったのですが・・・。あの傷でしたから、てっきり意識は薄れていると思いまして・・・。本人の前で警察への通報をスタッフに指示してしまったんですよ。」
芳山は申し訳なさそうに、手術中に起きた出来事を史美と厚史に話している。
「私の声が聞こえたのでしょうね。突然、起き上がって自分で刺したと言い出したんですよ・・・。」
芳山医師の言葉を、史美は胸を抉られるような思いで聞いている。
「背中ですよ、自分で刺せるわけないじゃないですか。」
芳山は理解し難いと懸命に史美と厚史に説明している。
「しかも、通報したら手術は受けないと暴れるもので・・・。」
それは明らかに、史美を庇っての行動であった。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。自分で刺したことについては、彼女からも聞いていますので・・・。」
厚史の説明に史美は隣で小さく頷いた。
「あなたはその時、御一緒だったんですか。」
疑うような芳山の視線が史美に向けられる。
「・・・はい。」
「ま、あのまま押し問答を続けても埒が明きませんからね・・・。遅れれば遅れるほど傷口が広がってしまいますし・・・。相当な理由があったかも知れませんが・・・。とにかく治療優先ですから・・・。本人の希望通り通報はいたしませんでした・・・。」
いたたまれなくなった史美は、芳山医師に事実を告げようと一歩踏み出した。厚史は思い留まるように史美の肩をつかんで引き戻す。
「自分の不注意にも拘わらず周囲の方々を巻き込んでしまって・・・。大変申し訳ありませんでした。」
「は?」
「あいつの言うとおりにしては頂けないですか?」
「・・・しかし。」
「ご迷惑はおかけしませんので・・・。」
芳山は目を閉じて、ジッと考え込んでいる。
「わかりました。手術に立ち会った者にも伝えておきます。」
「お願いします。」
「あなたも、そういうことでよろしいですね。」
芳山医師が、史美の顔を見つめて念を押す。厚史は何も言わず史美の顔を見つめ、同意を求める。
「・・・はい。」
「それでは私はこれで・・・。」
芳山医師は史美と厚史に、そう告げてその場を後にする。厚史に支えられながら、史美はロビーに歩いていく。ロビーでは伊久子が、和明たちに状況を話していた。
「皆さん心配かけてすみません。もう大丈夫ということなので、お家に戻って頂いてよく休んでください。」
「はい。じゃあ。」
和明が引き上げの合図を皆に送る。
「田原。一先ず、帰ろう?」
眞江が史美の肩を抱く。史美は俯いたまま動かない。眞江が再度帰るように促すが、史美は首を大きく左右に振ってその場から動こうとしない。
「気持ちはわかるけど、今日は帰ろう?」
「嫌・・・。」
自分を庇って傷を負った秀輝を、残していけるわけがない。一歩間違えば、自分のせいで秀輝は死んでいたのだ。
「田原・・・。」
眞江が史美を外へと促す。
沙帆は、そんな史美を険しい目で睨んでいる。
見兼ねた伊久子がそっと史美の側に行く。
「秀輝は、アタシたちがついているから大丈夫よ。だから、もう帰りなさい。」
史美は首を横に振り聞こうとしない。
「あなただって今日は大変だったはずでしょ。体をきちんと休めて万全にしてちょうだい。あの子だってそう思っているから。」
史美は相変わらず首を横に振って、その場から動こうとしない。
「桐原さん、田原さんをお願い。加藤君も古谷君も有難うね。それから、沙帆ちゃんも。」
和明と尊が史美を強引に抱え込み救急救命室から連れ出した。
「離して、離して!」
史美の声が病院内に響き渡っていた。
※ ※
秀輝が収容された病院は、横浜のMM地区の中にある病院だった。横浜の中心的な地区ではあるが、日付も変われば昼間の騒がしさも薄れている。
病院を後にした史美たちは、MM地区の歩道を歩いていた。車の往来だけで歩道を歩く人は、史美たち以外は誰もいなかった。時折、トラック数台が通り過ぎて、道路脇の砂と埃を巻き上げる。
史美は眞江に支えられ、フラつきながら歩いていた。
「大丈夫?」
ショッキングな出来事の後で、足元も覚束ない史美の顔を眞江は心配そうに覗き込む。
「篠塚・・・あの傷。アイツ、誰かに刺されたんだろ?」
秀輝の容態が心配だった和明は史美に訊ねる。史美は、誰にも言うなという秀輝の言葉通り沈黙を貫いてる。
「和明、アンタね!」
傷ついている史美を思い、眞江が和明に激高する。
和明は様々な矛盾に堪え切れなかった。
「田原・・・お前、ホントに何も見てないのかよ!」
「篠塚が遊んでいたら間違えて刺したって、そう言ってるんでしょ。」
眞江は史美に詰め寄る和明を引き離して言う。
「だって背中だろ、そんなの誰かが刺したに決まってんじゃんか。篠塚を誰かが刺したなら、そいつは警察に捕まらずに、のうのうとしているんだぜ。悔しいじゃねーかよ。」
「和明!そんな事、今話さなくても・・・。」
和明は何も語らない史美の肩を掴んで、真相を聞き出そうとする。
「田原・・・。間違えて刺したなんて嘘だろ?」
史美は秀輝との約束を貫いている。
「ちょっと、いい加減にしなさいよアンタ!」
史美から引き離そうと、眞江が和明の腕を掴んで引っ張る。
「お前は悔しくねーのかよ。誰かが田原を刺そうとしていたのを、アイツが庇ってのことだろうが・・・。」
眞江も尊も和明に言われずとも、史美の様子や状況から見て分かっていた。しかし、頑なに沈黙を守っている史美に、真相など聞けるはずもなかった。
「あんなに田原のことを想っていた篠塚が・・・。何よりも田原のことを大事に想っていた篠塚が、何でこんな目に遭わなきゃいけねーんだよ。」
「和明!」
黙って聞いていた尊が、勢いで喋っている和明を制するように言う。和明も喋り過ぎた自分に気付いて急に黙り込む。
和明たちが必死に取り繕わなくとも、史美は既に秀輝の気持ちに気付いていた。秀輝の行動は、誰がどう見ても友情という一線を越えている。救急車の中でも命の危機も顧みず、必死に身の振り方を史美に伝えている。
「ねぇ・・・。」
その場の空気を変えるように、史美がか細い声で眞江に尋ねる。
「ん?」
「みんな、いつから?」
史美の言葉が眞江と和明、そして尊の心に重く伸し掛かる。即答出来ないことが、その全てを物語っていた。
「どうして?」
“ どうして教えてくれなかったの?” 史美の短い言葉には、そんな気持ちが込められていた。返す言葉もない和明たちは、顔を上げることが出来ず俯いている。
「アタシだけ何にも知らないで・・・。」
秀輝の気持ちを思い遣る史美は、その場に泣き崩れしゃがみ込む。
「ごめん・・・。」
史美の顔を覗き込むように、眞江は座り込んで静かに呟いた。
眞江たちも、もう知らぬ振りは出来ない。秀輝は自分の不注意で、背中にナイフが刺さったと、あくまでも過失を主張している。しかし、誰も秀輝の言う事など信じていない。何らかのトラブルから、史美を守るために秀輝が嘘をついているのは明らかだった。その行為は十数年隠していた、史美への気持ちの表れだった。
「アタシは、中学の時から気付いていた・・・。本人から聞いたのは5年くらい前だけど・・・。」
「俺たちも、4~5年前くらいから・・・。」
互いの顔を見合わせながら、和明と尊と伸次郎が答えた。
「篠塚から、ずっと言われていたの。」
「何を?」
「自分の気持ちを知ったら、親友だって信じている田原を傷つけてしまうって・・・。10年前と同じことは出来ない。それだけは絶対に出来ないって・・・だからアタシたち、何も言えなかった。」
秀輝との十数年間の思い出が、早送りの映像として脳裏に映し出される。
「田原・・・。」
一番近い存在である秀輝の気持ちに、どうして気付くことが出来なかったのか。そう思うと浅慮だった自分が許せない。
「何もアンタが、そんなに思い詰める必要はないよ。アンタにだけじゃないもん、篠塚ってさ誰にだって同じように優しくするところがあるじゃん。そんなの気付けるわけないよ、仕方ないじゃない。」
“ そんな事ない。”
必死に慰める眞江の言葉も、今の史美には何も響かない。
尊が眞江の肩を掴んで、そっとしておくようにと目配せをする。
“ もうそれ以上、取り繕うとするな。” 尊の目がそう言っていた。
和明が通りを走るタクシーを停める。タクシーに乗り込んだ史美と眞江は、そのまま自宅へと帰路についた。
夜が明けるまで時間はあったが、史美は眠る事は出来なかった。
※ ※
史美は翌朝早く、聖応小学校の校門前で校長の到着を待っていた。宿直で残っていた用務員に、昨夜の騒ぎを知られていたからだ。帰宅後、史美の携帯電話には池本からの着信履歴が残されていた。
用務員への聴取が行われる前に、史美自身で伝えなければ様々な憶測が飛び交ってしまう。言い争っていたと報告される前に、史美は秀輝の言う通りに先手を打って報告した。考えられる事態全てを予想した、秀輝からの指示だった。
史美は校長室で、昨日の一件を秀輝の指示通りに報告していた。道路に残っている秀輝の血痕は、誤って刺してしまったことによるものだと説明した。ただ、数年前の事件関係者だった用務員に、昨夜のうちに史美と三咲夫婦が口論していたと電話連絡がされていた。数年前、事件のやり玉に挙げられていた用務員は、三咲夫婦の顔を覚えていたのだ。
教頭の池本は、額に血管を浮き出しながら怒鳴っている。
「重ねて聞きしますが、刃物による傷害事件ではないのですね。」
「はい。」
「では、こういう事ですね。三咲さんたちが田原先生とお話をしている時に、片隅で待っていた君の友人がナイフで遊んでいた。ところが、遊んでいたナイフの扱いを間違えて、背中に刺さってしまった。救急車を呼ぶ騒ぎになったのは、そのせいだというわけですね。」
「はい。」
「しかし、何だって君の友人は、刃物なんか持ち歩いているんだね。・・・。」
八木沢は不思議そうに首をひねっている。
「仰る通りですね・・・。理解に苦しみますよ。」
池本は侮蔑的な視線を史美に送り、まくし立てるように続ける。
「君の友人だけという、奇跡的な事態で済みましたがね。一歩間違えばあの児童の親が再び騒ぎを起こして、警察沙汰になっていたかも知れないんですよ・・・。」
決して史美たちを気遣っての言葉ではなく、池本は相変わらず身の保身ばかりを考えていた。
「田原先生。あの児童の親が、あなたを訪ねてきたということは、今まで関わりを持つような何かをされてきたということですか?」
昨夜の一件で、琢磨とのことは隠せなくなっていた。
「・・・はい。」
「どうして、そのような事を・・・。数年前にあれほど言ったではありませんか!あの児童と関わり合いを持ってはいけないと・・・。」
呆然として座っている史美は、池本の言葉に何も反応しない。
「我々の許可もなく勝手な行動を取ったせいで、どれだけ学校や生徒たちに迷惑をかけたと思っているんですか。」
池本は言いながら、座っているソファのひじ掛けを何度も叩いている。
「君は先日、謹慎が解けたばかりなんですよ。・・・一体どういう神経をしているんだね!」
事が公になり、父兄からの糾弾を恐れている池本は怒りが収まらない。
「田原先生・・・。怪我をした君の友人は大丈夫なのかね?」
校長の八木沢は、興奮している池本を落ち着かせ史美に訊ねる。
「・・・はい。」
「そうか・・・一先ず安心だな。」
「校長、そんな悠長な事を・・・。大体、社会人にもなって子供じゃあるまいし、ナイフなんか持ち歩いてるなんて・・・。全くロクなもんじゃありませんよ。」
傷つき精神的に疲弊していた史美だが、池本の発した言葉に反応して立ち上がる。
「ロクなもんじゃないって、それどういう意味ですか!」
「言葉のとおりですよ。第一、一般人が何故そんなものを持ち歩くのですか!自分の不注意で怪我をしたのですから、言わば自業自得です。全く・・・。こちらとしては、いい迷惑で・・・。」
池本が言い終わらぬうちに、史美は衝動的に飛び掛かっていた。
池本は、いきなり史美に襟元を掴まれ狼狽える。
「撤回して下さい。」
「何をするんだ君は!」
「田原先生、お止めなさい。」
八木沢は掴みかかる史美を引き離そうとするが、初老の八木沢には思うように出来ない。困った八木沢は、職員室にいる他の教員たちを呼んで池本から史美を引き離した。
「君はクビだ!」
「さっきの言葉、撤回して下さい!」
史美は他の教員たちに羽交い絞めにされ身動きが出来ない。
「ら・・・乱暴は止めたまえ!き・・・君のような教師は、この学校には必要ない!早々に出て行きたまえ!」
「撤回して下さい!」
教員たちに押さえられながら史美は叫んでいる。
「田原先生!落ちついてください!」
史美を抑えている教員が耳元で叫んだ。校長室隣にある職員室からの騒がしい声が史美の耳に聞こえてくる。校長室へ入ってこようとする教員を、八木沢が手を広げて追い返した。数人の同僚たちに押さえられながら、史美が校長室から連れ出される。
「田原先生、次はありません。あなたがこのまま在籍していると、学校全体にも悪影響が出てしまいます。最終的には理事長のご判断を仰ぐ形となりますが、お辞めになって頂くしかないでしょうね。」
八木沢は穏やかな口調で背を向けている史美に辞職を促した。
辞職の言葉を聞いた史美は、その場にガックリと膝を落とした。その場にいた者誰一人、史美を庇うものなどいなかった。
校長室から出てきた史美を、他の教員たちが好奇の目で見つめている。針のムシロのような雰囲気の中、史美は悔しさを堪え立ち上がった。口を真一文字に結び、黙々と机の上の私物をカバンに入れていく。
「だから言ったでしょ。この学校は守ってくれないって・・・。」
隣に座る同僚教師は、史美を嘲笑するように言って職員室を出て行った。
史美は目をつぶって、次々湧き出る悔しさを堪えた。
チャイムが鳴り教師たちが、逃げるように職員室から出て行く。池本が校長室から出て来て、片づけをしている史美を睨む。
「手続きは早々に済ませますのでね。身の回りの整理をお願いしますよ。あなたはもう、この学校の教師ではないのだから・・・。」
個人データをパソコンから抜き取り、史美は開いている引き出しを強く閉めた。
「先程も申しましたが、今日は一先ず帰って処分の連絡を待ってください。」
校長の八木沢に一礼をして職員室を出て行く。自分を慕ってくれた子供たちの顔が、史美の脳裏に浮かびガックリと膝をついた。2年と数ヶ月になる聖応小学校での教員生活が、今日をもって終わったのだ。
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