第9話 守ってあげたい


 史美の家から帰宅しても、秀輝は眠ることなく朝を迎えた。

 ほんの数時間前の出来事が、フラッシュバックするように何度も脳裏に蘇る。震える史美の体をただ抱きしめることしか出来ない自分が情けなかった。

 秀輝は時計を見つめ、目が覚めたであろう史美に電話をかけた。電話をスピーカー機能にして、身支度を整えながら話をしている。

 生気のない史美の声が、スピーカーから聞こえてくる。


「今日、休むよな?」

― 行くよ。―

「何言ってんだ、お前。そんな状態で大丈夫なわけないだろう。」

― 大丈夫だよ。―


 そんな声で大丈夫なわけがない。電話の向こう側でも、心配する史美の母の声が聞こえてくる。


「大丈夫なわけないだろ!体だってフラフラだろう。」

― この間、休んだばかりじゃない・・・。もう休めないよ。―

「いいから今日も休め。なっ、わかったな?」


 秀輝が言い終える前に、史美は電話を切ってしまった。


「おいっ田原!おいっ・・・。」


 秀輝はビジートーンだけが聞こえる電話を、険しい顔つきで見つめていた。



※               ※                



 小学校での第1時間目は体育だった。史美はジャージに着替え、生徒たちを連れ体育館に来ていた。

 生徒たちは体育準備室から跳び箱を運んでいる。史美は跳び箱を準備している生徒を見つめながら、俊一の言葉を頭の中で反芻していた。


“ 自分の気持ち、それから篠塚君のことをよく考えてみなよ。”


 史美には、それが何の事を言っているのか分からなかった。俊一が結婚を諦めたのも、史美の気持ちの問題だと聞こえる。しかも、秀輝の事も考えろと付け加えていた。史美は結婚の事と秀輝の事が、どう結び付くのか何度考えても分からない。史美は心の中の迷路を、ただひたすら彷徨っているだけだった。


「せんせ~い。」


 そんな状態を知らぬ生徒たちは、呆然と立ち尽くしている史美に声をかける。


「せんせ~い・・・。」


 史美を心配する一人の生徒が史美に駆け寄って声を掛ける。


「あ、ごめんね。・・・みんな、2列に並んで下さい。」


 整列した生徒が史美の号令を待っている。


「はい。じゃあ、みんな順番に飛んで下さい。」


 史美は跳び箱が苦手な生徒の補助をするため、2段の跳び箱の隣に立った。次々に跳び箱を飛んでいる生徒を見ながら、史美の頭の中はまた俊一の言葉が駆け巡る。心ここにあらずの史美を、心配そうに見つめる一人の生徒が、気持ちを史美に向けながら跳び箱を飛んだ。


「あっ。」


 その生徒は跳び箱を飛ぶ手を滑らせ、マットの外に転倒してしまう。転倒したまま起き上がらない生徒を見て悲鳴が体育館内に響き渡る。

 史美は生徒たちの悲鳴でやっと我に返る。


「健二君!」


 マットの外に倒れている生徒は、ぐったりして意識を失っている。

 史美は生徒たちを体育館に残し、保険医を呼ぶため保健室に向かった。



※                ※               



 負傷した生徒の意識は回復したが、検査のため病院へと運ばれて行った。史美も同行して検査結果に異常が見られないことを確認してから学校へ戻った。病院で父兄に散々批難されたのは言うまでもない。

 校長室に呼ばれた史美は机の前に立っている。


「困りましたね。田原先生。」

「授業の際は、補助として跳び箱の横にいるというのが鉄則でしょ!」


 池本の金切り声が校長室に響き渡る。


「申し訳ありません。」

「教頭先生、生徒の容体はどうでしたか?」

「軽い脳震盪で済んだようです。2、3日休んで様子見ってとこでしょうか。」


 池本が史美を睨みつけながら、校長の八木沢に報告をする。 


「軽傷で済んだから良かったですが、一歩間違えばあの時の事故と同じようになっていたかも知れないんですからね。」


 先程から池本は、生徒の安否より学校の体面ばかりを気にしている。


「はい・・・申し訳ありません。」

「たった今、PTA会長からも厳しいお言葉をいただきました。」

「申し訳ありません。」

「それからね。これを耳にした御父兄の方たちから、田原先生の指導についても心配する声が上がっていますよ・・・。」

「はい・・・。」


 目を真っ赤にした史美は、俯いたまま顔を上げることが出来ない。


「田原先生には謹慎ということで、如何でしょう?校長。」

「致し方ないでしょう・・・。」

「いいですね。田原先生。」

「はい。」

「あの、健二君の病院には・・・。」


 言い終わらぬうちに、池本は史美の言葉をかき消すように大声で怒鳴った。


「当事者の君が、のこのこ出向いてどうするのですか!君は謹慎です!」


 校長室から出てくると史美は俯いたまま自席に座った。他の教師たちの冷たい視線が一斉に史美に集まる。荷物をまとめた史美は、謝罪のため怪我をした生徒の自宅へと向かった。



※                ※               



 史美から連絡を受けて秀輝は会社を早退した。自宅最寄りの駅に車をつけた秀輝は、力なく柱に寄りかかっている史美を抱えて車に乗せた。

 史美は生徒に怪我を負わせてしまったショックで、茫然自失の状態になっている。

 自力で車から降りることさえ出来ず、秀輝が史美を抱きかかえている。

 帰宅した史美の様子に、珠美は呆然として立ちすんでしまう。


「史美。アンタいったい・・・。」

「おばさん。詳しいことは後で・・・。」


 秀輝は史美をベッドに寝かせ、枕元の横にそのまま座った。


「何か欲しいものはないか?」


 秀輝の問い掛けにも史美は反応していない。


「アタシ・・・。」


 やっと口を利いた史美に秀輝が優しく微笑む。


「ん、どうした?」

「最低だよ。」     

「何言ってんだ。」

「アタシ。あの時、他の事を考えてたんだよ。」


 俊一との経緯を知っている秀輝は、沈痛な面持ちで史美を見つめる。


「生徒の事を考えないで、俊ちゃんとの事を・・・。」

「もういいよ・・・。」

「ねぇ、篠塚。」

「ん?」

「教師失格だね。」


 泣くまいと唇を噛む史美だが、涙が一筋だけ頬を伝っていく。秀輝は必死に涙を堪えている史美の手を、ただ握るしかなかった。


「今は何も考えるな。ゆっくり休めよ。・・・なっ。」


 史美は、秀輝の言葉に小さく頷いた。


「ほら、目を閉じて。」


 言われる通り史美は目を閉じた。閉じた目からまた一筋、涙がこぼれる。


「お前が眠るまで、ずっと側にいるから。」


 史美は秀輝の手の温もりを感じ、安心したのかそのまま静かに眠りについた。


” 史美へのプロポーズは撤回するよ。“


 史美の寝顔を見つめながら、秀輝は俊一の言葉を思い出していた。



※               ※               



 眠っている史美を起こさぬよう秀輝は静かに部屋から出てくる。

 ドアが開く音を聞いた母・珠美が、リビングのドアを開けて出てくる。


「今、寝ました。」

「ご飯でも食べていく?」

「いいえ、帰ります。」


 珠美を安心させるように、秀輝はわざと陽気に答える。

 秀輝は幼少の頃から、史美の母・珠美とは気兼ねの無い関係だった。史美がいなくても公園のベンチで1~2時間お喋りしていたこともあった。


「ゴメンね・・・。」


 珠美は玄関で靴を履く秀輝の後ろ姿に声を掛けた。

 秀輝は無言で首を左右に振る。


「じゃあ俺、失礼します。」

「篠塚君。」

「はい。」

「アンタ、いい奴だね。」


 珠美の優しい言葉に、秀輝の肩は小刻みに震えていた。


「・・・本当にありがとうね。」

「なぁ~に言ってんスか。俺は、あいつの親友なんで・・・。」


 秀輝は珠美に一礼すると、音を立てぬように部屋を出て行った。



※               ※               


 

 沙帆は、自分の部屋に親友の高尾たかお晴子はるこを呼んでいた。晴子もまた、秀輝が以前いた小学校同級生だった。


「えっ!後をつけたの?」

「違うよ。おばさんに聞いた通り、学校に行ったら2人が居たの。」

「同じ事じゃない。」

「そう・・・か。」


 よく考え直してみれば、晴子の言う通りである。一歩間違えば、ストーカーと何ら変わりない。


「諦めたら?」

「えっ?」


 応援してくれると思っていたが、予想外の答えが返ってきたので驚く。


「そんなにその人の事が好きなら、沙帆に勝ち目はないよ。」

「そんな事ない!」

「普通の男なら、諦めているでしょ。だって自分の事を好きでもない女に、尽くしたって意味がないじゃない。」


 晴子の言う事は尤もだった。確かに沙帆は秀輝の口から、史美と付き合いたいと一度も聞いてはいない。


“ 田原が幸せなら、それでいい。”


 あの時、こう言った秀輝の表情は、沙帆の脳裏にしっかりと焼き付いている。


「外見を言っているんじゃないよ。沙帆だって多分、その女に負けていないと思う。でも、そういうんじゃないんだよ。10数年培ってきた2人の絆と、過ごしてきた時間っていうものがあるんだよ・・・。」


 晴子の言葉に沙帆は下唇を噛んで悔しがる。


「それに話を聞いていると・・・。いや、何でもない。」


 晴子は言い掛けた言葉を飲み込んだ。


「何よ。」


 沙帆が睨むように晴子を見つめた。


「いいよ。」

「言ってよ。」


 短い沈黙の後、晴子は諦めたように話し出した。


「篠塚君とその彼女・・・、何かとっても強い繋がりを感じるの。」

「繋がり?」

「そう。離れていても決して切れない繋がりを・・・。」

「そんなのアタシにだって・・・。」

「同じものがあるって言うの?」


 晴子に反論できないことが、沙帆は悔しくて堪らない。


「沙帆は篠塚君と再会して、ノスタルジックな気分になっているだけだよ。」

「違う、絶対に違う!」

「何が違うの?」

「後悔しているの・・・ヒデ君が転校して、それっきりにしてしまったことを・・・。」

「知ってるよ。・・・ずっと泣いていたもんね。」


 引っ越しをして晴れ離れになると子供にはどうすることも出来ない。子供同士が仲良しでも、親がそうでなければ関係は続かないのだ。沙帆は自身に起きた、そうした巡り合わせの不運を嘆いた。


「でも・・・。これからどうするつもりなのよ?」

「明日、ヒデ君のところに行ってくる。」

「行ってどうするの?」

「別に・・・。ただ側にいるだけ。」

「沙帆。」


 晴子は行っても意味がないと、沙帆に思い止まるよう重ねて言った。


「必ずわかってくれるわ。だってアタシは彼女と違って、ヒデ君が好きだから・・・」


 晴子の言葉が届かない沙帆は、秀輝への想いが伝わると信じて疑わなくなっていた。



※               ※               



 沙帆は晴子の運転する車で、秀輝のアパートに向かっていた。

 晴子の目には沙帆が、史美への対抗心から自分を完全に見失っているように見える。そんな沙帆を心配した晴子は、秀輝のアパートまで付き添うことにしたのだ。

 アパートに到着すると、沙帆は秀輝の部屋に向かった。

 不在なのか沙帆は、すぐ車に戻ってきた。


「いないの?」

「きっと田原さんところよ・・・。」

「行くの?」

「決まってるじゃない。」

「場所知っているの?」

「ヒデ君の実家に行ってみる。ここから、すぐ近所だから・・・。」


 沙帆と晴子は、車で秀輝の実家へ向かった。



※               ※               



 晴子を車に待たせたまま、沙帆は秀輝の実家を訪れた。

 インターホンを鳴らすと、伊久子がドアを開け出てくる。


「あら、沙帆ちゃん?」

「こんにちは!」

「どうしたの?・・・秀輝と約束?」

「ええ。約束していたんですけど、ヒデ君忘れているみたいで・・・。」

「しょうがないわね。ま、こんなところじゃなんだから、上がりなさいよ。」

「いいえ。あの・・・おばさん。ヒデ君、どこにいるのかなぁって。」

「じゃあ、田原さんのお家かな・・・。」

「田原さん?」

「最近、田原さん具合が悪いみたいで、この間からずっと彼女の家に行ってるみたいなの。」

「・・・そう・・・ですか。」


 伊久子は、様子がいつもと違う沙帆を心配そうに見つめている。


「田原さんのお家って、どこですか?」

「D棟よ。この隣の棟。」

「ありがとうございます。」


 沙帆は礼を言うと、見送る伊久子のことも振り返らず駆け出して行った。



※               ※               



 沙帆は歩きながら、車中で待っている晴子に隣の棟に行くと合図を送る。 

 ロビーを探して歩くと、マンションの前に小さな公園が見えてくる。周囲を見渡しながら歩いても、秀輝の姿はどこにも確認できない。公園内を目を凝らしてよく見ると、史美がベンチで一人佇んでいる。伊久子の言う通り、史美は体調を崩しているように見える。

 沙帆は史美のところへ、まっすぐ歩み寄っていく。近付いて来る人の気配を感じて史美は顔を上げた。


「沙帆ちゃん・・・。」

「こんにちは。」


 史美を見つめる沙帆の表情は、明らかに敵意を抱いていた。挨拶もどこか刺々しい。


「・・・こんにちは。」

「具合、悪いんだって?」

「ううん、大丈夫。」

「そう・・・。」

「今日は、どうしたの?」

「ヒデ君、来てるって聞いたから。」

「あ・・・うん。今、飲み物とか買いにコンビニに行ってる。」


 話を聞いている沙帆の表情が、さらに憎しみを帯びて険しくなる。


「何で、ヒデ君がそんなことしてるの?」

「何でって?・・・」


 秀輝は飲みたいもの食べたいものがあったら、買ってくると史美を残して一人で行ってしまったのだ。謹慎中になってから、秀輝は毎日こうして史美の世話を焼いている。しかし、沙帆にしてみれば、史美が秀輝を使い走りにさせているように感じるのだ。


「いつもそんな風にヒデ君を利用しているの?」

「利用って・・・そんな事。」

「じゃあ、何だっていうの?ヒデ君って、あなたの彼氏でもなんでもないでしょ。あなたには、佐古さんっていう彼氏がいるじゃない!」


 俊一から別れ話を切り出されたことは、秀輝以外まだ誰も知らない。


「あなた、ヒデ君のこと何だと思っているの?・・・ヒデ君は、あなたの召使いじゃない!」

「そんな・・・。」

「何よ!」


 反論しようとした史美の言葉を遮り、威圧するように沙帆が一歩踏み出す。


「佐古さんを呼べばいいじゃない。ヒデ君の人の好さに付け込んで、何もかもヒデ君に頼らないでよ!」


 遠くから沙帆の様子を見ていた晴子だったが、只ならぬ雰囲気を察知して車から出て来る。


「俊ちゃんとは別れたの・・・。」

「えっ?」


 バーベキューの時、仲が良さそうに見えた史美と俊一だった。原因は予想もつかないが、あまりに衝撃的過ぎて戸惑ってしまう。


「そ・・・それが何だっていうのよ!佐古さんと別れたからって、ヒデ君には何の関係もないじゃない!」


 沙帆の迫力に史美は俯いてしまう。


「ヒデ君がどんな思いで、あなたと会っているのかわかる?あなた、どれだけヒデ君を傷つけたと思ってんの!」

「傷つける?」

「そうよ!あなた、ずっとヒデ君を傷つけてるのよ。」


 晴子が常軌を逸している沙帆を、なだめようと歩み寄って来る。

「ねぇ、どうして?どうして、いつもヒデ君なの!あなたそんなにヒデ君のこと・・・。」


 その先を言いかけて沙帆は慌てて口をつぐむ。もしかしたら、史美は気付いていないだけなのではないだろうか。口に出してしまいそうだった言葉を必死に飲み込んだ。


「沙帆。そのぐらいにしなさいよ。」


 晴子がたしなめるよう言う。

 沙帆に詰め寄られ項垂れている史美に、晴子が優しく言葉を掛ける。


「あの・・・ごめんなさいね。」


 沙帆は間に入っている晴子を押しのけ、秀輝に対する自分の気持ちを史美にぶつけた。


「アタシ、ヒデ君のことが好き。あなたなんかより、ずっとヒデ君のことが好き。」


 史美にそう言い残して、沙帆は来た道を晴子と共に引き返して行った。


「アタシが篠塚の事を・・・。」



※               ※               



 沙帆が史美に思いをぶつけたことなど露知らず、秀輝は笑顔で飛び跳ねるように帰って来る。顔を向けている史美を見つけ、元気いっぱいに手を振ってくる。


「おい、ハーゲンダッツの新製品出ていたから買っちゃった。」


 反応がない史美の顔を覗き込む。


「どうした?」

「ついさっき、沙帆ちゃんが来たんだよ。」

「えっ・・・。」

「アンタのことが好きだって、沙帆ちゃんそう言ってた。」

「さぁ、早く部屋に戻ろう。栄養あるもの食べて、元気つけないとな!」


 秀輝は史美の言ったことには反応しなかった。史美は差し出された手を握ろうとせず、秀輝に話し続けた。


「アタシ、もう大丈夫だから、早く沙帆ちゃんのところに行ってあげて。アンタのこと、あんなに思ってくれているじゃない。」


 秀輝がどこか遠くへ行ってしまう不安を堪え、史美は振り絞るように声を出した。秀輝は黙ったまま何も答えない。


「アタシ、アンタに頼ってばっかり。甘えてばっかり。」

「いいじゃねーか、それでも。」

「よくないよ!」

「いいよ。」

「よくない!」

「いいよ。」


 秀輝の優しい声に、史美は必死に首を横に振る。これ以上、秀輝に甘えられないと理性が働く一方で、もう一人の自分は必死に秀輝の気持ちにすがっていた。堪えていた涙が、史美の頬を伝っていく。


「いいんだよ・・・。」


 秀輝は誰よりも優しい顔で史美に言った。


「頼るって悪いことかよ。甘えちゃいけねーのか。俺なんか年がら年中、お前に甘えてばっかりじゃねーか。」

「えっ、アンタがいつアタシに甘えた?」


 史美への気持ちを言えるはずもなく、秀輝は口籠ってしまう。史美は追い討ちをかけるように言った。


「ねぇ、いつ甘えたのよ。」


“ お前の笑顔が、いつも勇気をくれるんだよ。”


 そう言い出してしまいそうになるのを、悟られないようにさり気なく飲み込む。


「ねぇ、いつよ。」

「う・・・うるせぇな。いっぱいあり過ぎるから、そんなに簡単に出てこねぇんだよ。」

「なによ、それ。」


 秀輝の乱暴な言い方に、史美は口を尖らせふくれっ面になる。


「俺はお前の親友なんだから、素直に言うことを聞いてりゃいいんだよ。」


 そう言いながら秀輝は、ベンチに座ったまま俯いている史美の前にしゃがみこんだ。目の前に座る秀輝を上目遣いに見つめると、乱暴な口振りとは別の優しい眼差しで史美を見つめていた。


「休みは、たった一週間しかないんだ。それまでに心も体も元気にならなくちゃ。」

「休みって、アタシは謹慎処分を・・・。」


 史美は学校側から一週間の謹慎処分を受けていたのだ。


「そんなこと子供たちは知らねーよ。それにな、怪我をした子も自分のせいで先生が休んでるって・・・心配したらどうするんだ。」

「えっ?」

「クラスの子供たちは、みんなお前が大好きなんだ。田原先生に早く戻って来てほしいって、きっと思ってる。」


 子供たちの笑顔が、秀輝を通して次々に浮かんでくる。


「自分のために、子供たちのために・・・。俺を頼れよ。今は、そういう時!」


“ どうして、そんなに優しいの?”

“ 何でそんなに優しくしてくれるの?”


 声にならない言葉が頭の中を駆け巡る。


「それまで、俺はずっとお前の側にいるからよ。」


 秀輝は史美の手をしっかり掴み、涙でいっぱいの瞳を見つめる。


「大丈夫だよ。」


 何の保証もない秀輝の “大丈夫” は、この時も史美の心を優しく包んでいた。



※               ※               



 自分の部屋で琢磨は、タブレットのLINEと睨めっこをしている。定期的に来る史美からのメッセージが来ないのだ。

 琢磨は転校間際にもらった、史美からの手紙を箱から出す。


「先生、どうしちゃったのかな?」


 携帯電話の電話帳から、史美の番号を出す。史美と琢磨2人の取り決めで、緊急時以外は電話連絡をしないと決めていた。まだ、一度も史美の携帯電話に掛けたことはない。琢磨は何度も何度も、史美の番号を検索している。


「本当にどうしたんだろう・・・。」


“ 先生、病気にでもなっちゃったのかなぁ・・・。”


 怪我を負ってから数ヶ月、琢磨は大人たちの嫌な部分を見せられ続けていた。自分の怪我のせいで両親を失望させたこと。そのせいで一時期、夫婦仲が悪くなってしまったこと。三咲家から笑顔が消えてしまったのだ。学校も転校し、友達とも離れ離れになった。転校先の学校も不登校になり、毎日が暗い洞窟に閉じ込められたようであった。母親は、そんな琢磨に耐えきれず精神を病みそうになっていた。 

 しかし、史美の励ましと慰めで、閉ざされた心に光が差し込んできたのだ。明るく前向きになった琢磨に、両親も徐々に活力を取り戻して行った。

 琢磨は、思い切ってLINE電話のボタンを押す。


「あ、先生?琢磨です。先生、どうしたの?LINE、既読にならないから。」

ー 琢磨くん、大丈夫なの?・・・。お母さん、知っているの?ー


 史美の声は、琢磨を気遣い心配していた。


「お母さんは、一階にいるから大丈夫。」

ー 琢磨くん?ごめんね。先生、ちょっと最近学校を休んでいて・・・。ー

「病気なの?」

ー 病気じゃないんだけどね、ちょっと・・・。ー


 史美の声に力がない。


「田原先生!元気出してよ!」

ー 琢磨くん・・・。ー

「今度は、僕が先生を励ましてあげるから。」


 史美が電話の向こうで泣いているのが琢磨にも分かる。


「先生、泣いているの?」

ー ありがとう!大丈夫よ。先生は琢磨くんの言葉でもうすっかり元気になった。また、LINE送るからね。ー

「はい、待っているから。」


 琢磨の耳に涙で鼻をすする史美の声が聞こえた。

 携帯電話を暫く見つめていた。


“ 僕が先生を守るんだ。”


 史美の事が気掛かりで仕方がない琢磨は、携帯のLINEにメッセージを書き込んだ。



※             ※              



 和佳子が足早に2階から降りて来る。帰宅していた哲郎は、落ち着きのない和佳子を呼び止めた。


「和佳子。どうした?」

「い・・・今、琢磨の部屋で。」

「だから、どうしたんだ?」

「琢磨、誰かと電話していたのよ。」

「電話くらいするだろ。」

「田原って教師、覚えてる?」

「田原?・・・あ、あの聖応小学校の・・・。」

「そう、琢磨の副担任だった。」

「その田原と琢磨が電話していたっていうのか?」

「 “ 田原先生 “って言う琢磨の声も聞こえて来たし・・・。何かコソコソやっているみたいなの。」


 数年前の悪夢が、哲郎と和佳子の脳裏を過る。


「何をしているんだ?」

「わからないわ、でも・・・。」


 和佳子は数日前、体育館の扉の陰から、琢磨を監視していた人物がいたという事を思い出す。和佳子から、その時の話を聞いているうちに、哲郎の表情は、見る見るうちに変わっていく。激しい憎悪と怒りに満ちている。 


「まさか・・・。うちの琢磨に何か吹き込んでいるわけじゃ・・・。」

「それか、琢磨の様子を監視して何か企んでいるんじゃないかしら・・・。」

「監視ってどういう・・・。」

「裁判に訴えるためのネタ集めよ。」

「そんな事は、二度とさせない。」


 固く食いしばった哲郎の唇から血が滴り落ちていた。



※               ※               



 史美の家からの帰り道、途方に暮れながら秀輝は歩いていた。打ちひしがれる史美の力になれぬ自分の不甲斐無さが悔しくて堪らなかった。時折通る車のヘッドライトの眩しさにも目を細めることなく歩いている。どうすれば史美の笑顔が戻ってくるのか、秀輝はその事ばかりを考えていた。

 秀輝のアパートの前には沙帆が立っていた。秀輝は職場から直接史美の家に行っていたので、沙帆はその間ずっと待っていたのである。

 アパートの前で待つ沙帆に気付かず、秀輝は険しい表情のまま通り過ぎようとしていた。


「ヒデ君!」


 沙帆は秀輝に声を掛けた。

 呼び止められ我に返った秀輝は、声のする方へ振り返った。


「沙帆ちゃん。」

「ヒデ君・・・。」


 沙帆は秀輝の顔を見るなり、満面の笑顔になる。秀輝は自分のアパートに着いたことも気付かず、そのまま通り過ぎようとしていたことに戸惑っていた。


「大丈夫?」

「あ、ごめん。」

「随分、遅いんだね。」

「・・・どうぞ。」


 ドアを開ける秀輝に促され、沙帆は部屋に上がった。

 半日立ちっぱなしだった沙帆は、部屋に上がると崩れ落ちるように座り込んだ。


「今日はもう遅いから、早く寝た方がいいよ。」


 日付も変わって、終電もとっくに終わっている時間だった。


「ヒデ君。」

「ん?」

「田原さんに行っていたの?」

「仕事だよ。」

「・・・ヒデ君って、嘘が下手ね。」


 秀輝は、黙々とお茶の用意している。何も喋らなくても史美のところに行っていたことぐらいは分かっていた。


「聞きたいことがあるの。・・・いい?」


 秀輝は黙ったまま淹れたてのお茶を沙帆の前に置く。


「ヒデ君と田原さんのこと・・・。」


 聞こえていないかのように、秀輝は沙帆のために寝床の準備をしている。折り畳みのテーブルを立て掛け、部屋を片付け始める。


「ねぇ・・・ヒデ君。」

「狭いけど我慢してね。」


 台所へ行こうとする秀輝を、沙帆はその手を掴んで引き止める。


「聞きたいの。・・・教えて。」


 沙帆は真っ直ぐに秀輝を見つめている。


「田原のことって言われても、そんな一言で言えるもんじゃないし、沢山あるから・・・。」

「教えて・・・。」


 暫く考え込んでいた秀輝だが、意を決したように話し出す。


「俺、6年に上がる時に転校したろ?」

「うん。」

「転校先の小学校で同じクラスになった。俺さ、一目惚れなんてするタイプじゃないんだけど、アイツだけは違ってた。出会った時まるで、お姫様とか天使のように見えたんだ。」


 出会った頃を思い出したのか、秀輝の顔が嬉しそうに微笑んでいる。


「好きだったから、よくちょっかいを出していたよ。席も隣になることが多かった。ライバルが多くてさ。当然、俺なんか箸にも棒にも掛からない。他に格好いい奴が沢山いたからね。その格好いい奴等が、みんな田原のこと好きになるんだよ。ま、お呼びじゃないって感じだよ。」


 秀輝は笑って話をするが、沙帆は真剣に聞いていた。秀輝と過ごせなかった空白の数年間の大きさを、沙帆は改めて感じている。


「田原と俺は、不思議と感じていることが一緒だった。悲しいことや辛いこと、悔しいことも腹の立つことも何でか同じになるんだ。」


 好きになる要素の一つに価値観が同じということがよく言われている。このことは女性雑誌の特集に、必ずと言っていいほど挙げられている。


「テレビで悲しい出来事が流れると、いつも隣で泣いているんだ。人の痛みが分かるヤツなんだよ。多分、その人と同じ気持ちになっちゃうんだろうな。」

「ヒデ君もそうじゃない?」

「俺は分かろうと一生懸命努力しているだけ・・・。それが自然に出来ているアイツとは違うよ。アイツは相手の気持ちが・・・人の心がよく分かっている。」


 史美の事を思い出している秀輝の顔は、とても穏やかで幸せそうに見えた。


「一番大切なことなんじゃないかって思うんだ。人の気持ちがわかるってさ。俺は、全然出来ていないけど・・・。」

「そんな事ないよ。」


 秀輝は笑って首を横に振った。


「俺、一度だけ親父に “ 表に出ろ ”ってケンカを売ったことがあるんだ。原因は忘れたけど、お袋を悲しませた親父が許せなくてね。」

「えっ・・・おじさんに?」


 秀輝の父は自治会の力仕事など、その屈強振りを発揮していた人だった。目つきや仕草、体つきなど凄味があり、幼いながらも沙帆は少し怖がっていた。その父親に凄んだ秀輝は、相当思い詰めていたのだろうと沙帆は思った。


「殴り合いにはならなかったけど、お袋からも少し外で頭を冷やしてこいって言われて・・・。何故か俺、田原の家に行っちゃったんだよ。俺の顔を見て、何かあったとすぐに感じたんだろうな。何も聞かず何も言わずに家に入れてくれて・・・。ずっと、側に居てくれた。」


 秀輝の話に沙帆は黙って顔を伏せた。自分だって秀輝の側に居れば、そのぐらいこと造作もないと沙帆は唇を噛んで悔しがる。


「そうそう、高1の時デートをしたことあるんだ。当然、フラれちゃったけど。そりゃそうだよね。アイツは可愛いからさ、他の男が放っておかないんだよ。ファンクラブがあったんだって、スゲーよな。」

「フラれてもヒデ君、ずっと好きだったんでしょ?」

「忘れようと他の女の子と付き合ったりしたけど、そういうのって相手に分かっちゃうんだよね。本当にアタシのことが好きなのって、何回も言われたよ。・・・当たり前だよね、付き合っている女よりも、田原のことを優先しちゃうんだもん。当然だけど、相手も俺のことが嫌になって終わり。」


 苦笑いしている秀輝だったが、その顔には罪悪感が滲み出ていた。


「他の女の子と付き合って、分かったことがもう一つあるんだ。」

「分かったこと?」

「自然なんだ・・・アイツと居ると。自分を、飾らなくていいし・・・。いつも、ありのままの自分でいられるんだ。それとアイツといる自分も何でか好きでさ・・・。」


 沙帆は思った。秀輝の前で、自分はどうなのか。秀輝に振向いてもらうために、身の丈以上のことをやっているのではないだろうか。


「振向いてはもらえないけど。でも、俺は幸せ者だなって思ってる。自分の命より大事な人に巡り合えたからね・・・。だって一生懸けたって、見つからないかも知れないじゃないか。」


 史美のことを話している秀輝の目は、キラキラと輝いている。


「神様が・・・。もし神様がいて・・・自分の命と引き換えにアイツを幸せにしてくれるなら、いつでも差し出せる。」


 自分を見つめる沙帆に、秀輝は慌てて続きを付け加えた。


「あ、そんなこと言ったて、証明する機会ないけど・・・。」


 照れ笑いをする秀輝とは対照的に、沙帆は真剣に話を聞いていた。

 秀輝を見つめる視線が余りにも真剣なので、ふと我に返って沙帆を見つめる。落胆しているわけでもなく、また怒っているようでもない。沙帆の視線の圧力に負けて、秀輝は顔を背けてしまう。気がつけば、もう数十分独りで喋っていた。


「あ、ゴメン。」


 調子に乗って史美への惚気話を、沙帆に聞かせたことを申し訳なさそうに謝る。


「・・・謝らないでよ。」

「もういいよね。やめよう、やめよう。」

「ヒデ君。」

「・・・何?」

「アタシも、今のヒデ君と同じだよ・・・。」

「沙帆ちゃん・・・。」

「ありがとう、もう寝るね。こっちでいいんだよね。」


 沙帆は秀輝が用意した布団に入って目を閉じた。秀輝は部屋の電気を消すと、一人台所へ向かった。冷蔵庫から冷えたお茶を出して、コップに注ぎ一気に飲み干す。

 沙帆は布団の中で寝たふりをしている。秀輝は、沙帆の布団を避けながら自分のベッドに横になった。秀輝と沙帆は互いに背を向けて横になっていた。史美を思う秀輝の気持ちは、沙帆の背中にヒシヒシと伝わって来る。また、秀輝も自身の背中に沙帆の想いを感じ取っていた。

 眉間にしわが出るくらいに目を閉じても眠る事は出来なかった。2人にとってその夜は、とても長く感じる夜になった。 



※               ※               



 梅雨の空は雲が垂れ込め、どんよりとして街の雰囲気も重苦しい。険しい表情の哲郎が、強い足取りで足場に覆われたビルの中へ入って行く。

 哲郎は、会社を休んで弁護士事務所を訪れていた。琢磨のことで以前、聖応小学校に対し訴訟を起こした弁護士事務所である。大手の弁護士事務所とは違い、そこは小さな個人事務所だった。哲郎は先程から、資料室兼相談室のような部屋で必死に訴えていた。


「そんな!何故ですか?」


 哲郎の大きな声は、狭い事務所に一瞬で響き渡る。


「だから何度も申し上げているじゃありませんか。前回の時も、学校側の過失を立証出来ませんでしたし・・・。向こうは、金の力と組織力で対抗してきます。うちのような小さな事務所では、とてもじゃありませんが太刀打ち出来ないんですよ。」

「向こうから何か仕掛けてきそうなんです。助けて下さい、お願いします。」


 哲郎はテーブルに額を擦り付けながら必死の思いで訴えている。


「そう申されましても、無理なものは無理なんですよ。」

「そこを何とかお願いします。向こうに裁判でも起こされたら、こっちはもう破産ですよ。」

「とにかく、うちでは引き受けられません。」


 哲郎の切実な願いは、弁護士に通じずることなく容赦なく切り捨てられた。例えようもない絶望感が、哲郎の心を一気に覆っていく。体から力が抜け頭の中が真っ白になる。


「もうよろしいでしょうか。」


 項垂れている哲郎を急かすように、弁護士は資料室兼相談室のドアを開ける。哲郎は一向に腰を上げようとはしない。


「私も案件を幾つか抱えておりますので、お引き取り願えませんでしょうか。」


 哲郎は弁護士に促され、重たい腰を上げて席を立った。事務所を出て行くその足取りは、まるで鎖に繋がれているかのように重かった。

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