第8話 届かぬ想い

              

 会って話したいことがあると業務中に俊一から連絡があり、秀輝は待ち合わせ場所の日比谷公園に向かった。溜まっていた仕事を片付けていた為、待ち合わせ時刻には大分遅刻してしまった。

 俊一は大噴水の前で秀輝の到着を待っていた。


「お待たせしました。」

「やあ・・・。」


 顔を合わせたものの、それ以上会話は続かない。僅かな間でも二人には長く感じてしまう。都会の雑音も2人は耳に入っていない。


「佐古さん。」


 黙ったままの俊一に秀輝が呼びかける。


「あ、ごめん。」

「い・・・いえ。」

「今日は、篠塚君に聞きたいことがあってさ。」

「聞きたいこと?」

「そう。」

「・・・随分前から何となく気付いてはいたけど、篠塚君って史美のことが好きなんだよな?」


 思いがけない俊一の言葉だった。しかし、和明や眞江たちが気付くように、俊一が気付かないわけはないのだ。


「そうだよな。でなきゃあの時、俺に電話しろなんて言わないよ。」


 何もかも見透かしているような俊一の視線が秀輝に向けられた。


「疑問に思っていることがあるんだけど・・・。」

「何ですか?」

「何で特定の女性と付き合わないの?」

「え・・・。それは・・・。」

「それは、史美のためってこと?・・・。」

「何言ってるんですか。」

「そうでもなきゃ毎度毎度、都合よく史美に付き会えるわけないじゃないか。」


 やはり俊一は気付いていたのだった。


「そうだろ?史美から、いつでも誘いを受けてもいいように・・・。」


 秀輝に対して溜まっていた思いを、一気に吐き出すように俊一は迫った。


「それに史美の言葉を鵜吞みにしていたから気付かなかったが、冷静に考えれば篠塚君ほどの男が一人でいるわけがない。義理堅くて情に厚い、容姿だって史美が言うほど悪くない。現に沙帆ちゃんは、篠塚君にアプローチしているじゃないか。」

「やめてください。」


 秀輝の声が都会の喧騒に紛れて聞こえないのか、俊一は更に言い続ける。


「どうして、あんな可愛い子の気持ちに応えてあげないんだ?」

「やめてくださいよ!」


 大きな声に他の通行人が、驚き振り返って秀輝と俊一を見ている。


「すまない。つい・・・。」


 秀輝と俊一の間に再び長い沈黙が続いた。互いに目は合わせても、言葉が口から出て来なかった。通りを走る耳障りな車のクラクションも二人の耳には聞こえていない。


「篠塚君。」


 漸く俊一が口を開いた。


「はい。」

「史美は俺と結婚する気・・・ないみたいだよ。」

「そんなことありませんよ。」


 俊一は気が抜けたように、大きく溜息をついた。


「この数日間、いろいろ気付かされたんだ。」


 俯いていた俊一は、史美に言えなかったことを秀輝にぶつけ始めた。


「史美が篠塚君に言ってたことって、本来なら俺にも言うべき事じゃないかな?」

「えっ・・・。」

「何で俺じゃなく、篠塚君に言うのかな?」


 思いもよらぬ俊一の言葉に秀輝は戸惑ってしまう。


「不安があるなら、どうして俺に言わないんだ?ずっと、それが気になっていたんだ。」


 訴えるように俊一は秀輝に問いかける。


「それは・・・。」

「俺は、史美と付き合っているんだぜ。」


 俊一の目を見ることが出来ず、秀輝は俯いてしまう。


「まだ、ある。」

「まだ?」

「史美は、ずっと篠塚君を基準にしている。」

「基準?」

「そう。事あるごとに篠塚ならこう言っていた・・・。篠塚ならこうする・・・とか。そう言うんだよ。」

「すみません。」


 責め立てるような口調ではなかったが、秀輝は思わず答えてしまった。


「幼馴染の君等だから、互いに影響を受けているんだって・・・そう思っていたんだけど。」


 俊一は灯が消えたような寂しい表情になっている。話す声も次第にトーンダウンしていった。 


「篠塚君とは、史美と付き合い始めてからだから・・・3年くらいになるけど。もう何十年も一緒にいるように感じる。それだけ史美が、篠塚君の話をよくしていたんだ。」


 秀輝の知らない史美の話が、次から次へと俊一の口から語られている。


「俺も君の話を聞くのがとても楽しかった・・・。喧嘩っ早いわりに泣き虫で、自分のことはからっきしなくせに、世話好きでお節介焼きだとか。まだある。モテないくせに気障なところとかね・・・。」 


 秀輝の事をディスリスペクトしている話だが、俊一はそれを羨ましそうに話している。


「それでも、史美は篠塚君を一番信頼している。」

「そんな・・・。」

「いいよね。そういう感じって・・・。」


 秀輝は落胆している俊一に、何か話をしなければと焦るが言葉が出て来ない。このままだと、俊一は史美と別れると言い出してしまいそうだ。何か彼を励ませるような言葉はないのか。史美の悲しむ顔が頭にチラつき、気持ちばかり焦ってしまう。


「だから、史美へのプロポーズは撤回しようと思ってる。」


 衝撃の言葉は突き刺すように、秀輝の耳に飛び込んでくる。


「自分からプロポーズしておいて、それを白紙に戻すなんて最低だけど・・・。」

「ちょっと待って下さい。そんな・・・、そんな事をしたら・・・。」

「史美が傷つくって言いたいのかい?」

「だってアイツは、結婚しないなんて一言も・・・。」

「いい加減にしてくれないか!」


 秀輝は突然感情を爆発させた俊一にたじろいでしまう。


「俺だって傷ついているんだよ。こんな事、思いもよらなかったから・・・。」

「佐古さん・・・。」

「まさか、理由を言えなんて言わないよな?そんな事、俺の口から言わせないよな?」


 ショックを受ける史美の顔が、秀輝の脳裏に浮かび胸が締め付けられる。


「史美には、後で伝える。」


 秀輝には、俊一がプロポーズを撤回すると言った理由が理解できない。俊一は何か大きな誤解をしているのではないだろうか。だとしたら、その誤解を解かなければならない。しかし、踵を返して歩き出す俊一を、秀輝は追いかけることが出来なかった。人通りも少なくなった日比谷公園に、秀輝はただ一人呆然と立ち尽くしていた。



※             ※              ※



 秀輝は家路へと向かいながら、その足は自然と史美の住むマンションへと向かっていた。俊一と別れた後、秀輝は自問自答を繰り返していた。


“ プロポーズを撤回するなんて・・・。”

“ 俺が何か原因を作ってしまったのだろうか。”

“ 佐古さんが言っていた理由ってなんだ?”


 幾棟もあるマンションの中を通り、秀輝は史美の住むマンション前に辿り着いた。日付は変わっていないが、夜ともなれば子供たちも眠りにつき人通りもない。下から史美の部屋を見上げる。まだ起きているのだろうか、部屋の明かりが煌々と点いている。

 隣の棟は秀輝の実家である。学生時代の帰り道、何度こうして見上げただろうか。秀輝が史美の部屋を見上げていると、携帯がバイブレーション機能で震える。


“ 具合、良くなったの?”


 史美からのLINEだった。秀輝は、部屋を見上げながらLINEのメッセージに文字を打ち込む。


“ 良くなったよ。”


 OKのLINEスタンプを送信した。


“ 今、何してんの?”

“ 何もしてないよ。”

“ 琢磨くん。今度、バスケの練習があるの。”

“ 付き合おうか?”

“ うん、ありがとう。”


 俊一の気持ちを知らない史美の事を思うと心が痛くなる。


“ もう遅いのだから早く寝なさい。”

“ は~い。おやすみ。”

“ おやすみ”


 メッセージが既読となり、史美の部屋の電気が消えた。携帯電話を胸のポケットに収め、秀輝は自分の住むアパートへ歩き出した。



※             ※             ※ 



 週末ともなると繁華街は、日が昇るまで賑やかさを失わない。その点では横浜も、新宿や池袋に引けを取らない。秀輝は、高校時代からの親友である西條さいじょうまことと居酒屋で酒を飲んでいた。 

 誠も秀輝を通して、史美や和明たちとは親交が深かった。数日前に史美の彼氏と会って話をしたことや、史美のプロポーズが撤回されたことを誠に話をしていた。


「お前が気にすることじゃねーだろ。」


 秀輝は、誠の隣で項垂れて元気がない。


「しかしなぁ・・・。」

「二人の間には、俺たちの知らないことがあるんだ。そこまで責任持てないさ。それより、ライバルが手を引いたんだ。少しは喜べ。」

「ライバルって・・・。」

「ライバルじゃねーか。」

「アイツの中の俺は、そんなんじゃねーよ。」


 秀輝は誠の隣で寂しそうに大きな溜め息をつく。

 店に入ってから、どことなく元気のない秀輝に誠が訊ねる。


「何だよ。・・・どうしたんだよ?」

「俺のしている事は、ただの自己満足じゃないかって思えてきてな。」

「どこが?」

「全てさ・・・。」

「何を言ってんだ。」

「俺はアイツが好きだ。だから、アイツのためなら何だってする。」

「分かってるさ。」

「でも・・・。アイツのためって言いながら、実は自分のためなんじゃないかって・・・。」


 誠は黙ったまま秀輝の話を聞いている。


「俺さ・・・。桐原や和明たちが言うほど、アイツとの事で辛そうな顔しているか?」

「いや・・・。むしろ幸せそうな顔してるよ。」

「そうだよな。俺、アイツの喜ぶ顔を見るだけで、何かこう嬉しくて嬉しくて堪らなくなるんだよ。」

「分かるよ・・・。」

「そうか。」

「でも、それは自己満足とは違うじゃねーか。」


 秀輝は思い詰めた表情で、目の前のグラスを手に取り一気に飲み干した。


「西條・・・お前ステラって映画、観たことあるか?」

「いや、ないな。」

「相変わらず、ミーハーな映画しか観ないってか?」

「いいじゃねーか。」

「母親の娘への愛情を描いた名作だ。」

「その映画がどうかしたか?」

「母親のステラはな。社会のはみ出し者、掃き溜めのような場所で生きているような女なんだ。でも後に、将来有望な医者と恋をするんだよな。愛し合った結果、2人の間に女の子が生まれる。その医者は、子供を一緒に育てるつもりだったけど・・・。ステラはさ、シングルマザーとしての道を選ぶんだ。医者の援助も受けず娘のために必死になって働くけど、成長した娘に恋人が出来て衝突も多くなるんだ。」

「大人になれば、自我も芽生えるしな。」

「その恋人は上流階級の人間だから、自分の存在が娘の足かせになると思ったんだな。ステラは娘をかつての恋人、つまり実の父親に託して姿を消すんだ。」

「それで?」

「結婚式当日、彼女は雨に濡れながら万感の想いで娘を遠くから見守るんだ。そして、幸せを見届けた後、人知れず結婚式場から去って行くんだよ。」

「何が言いたいんだ、お前は?」


 誠は回りくどい言い方をしている秀輝に結論を急かす。


「本当に田原のことを思うなら・・・。」

「馬鹿か、お前は。」

「何?」

「そりゃ、映画の話だろ。それにお前は、親じゃねーだろう?」

 

 親の愛と、男女の愛では本質的に違うものなのだ。


「自分だけ満足していて、本当は田原さんの事を思っていないんじゃないかって・・・不安になってんのか?」


 秀輝は黙って頷いた。


「田原さんの事を本気で思っているなら、もっと自分を殺さなきゃダメだなんて思ったりしてるんじゃねーだろな。」

「いや、でも・・・。」

「お前の田原さんを愛しているって気持ちだって大事なことだろうが。」


 親友として振る舞っている秀輝にとって、難しいところだというのは誠も分かっている。しかし、史美を愛している秀輝の気持ちも大切なことなのだ。


「それにお前は、何か見返りを求めているわけじゃないだろう。」

「見返り?」

「例えばよ。こんなに尽くしているんだから、代償として何かして欲しいとかさ。」

「アホか、お前は。」


 馬鹿馬鹿しくて、相手にする気もない秀輝は誠の話を鼻であしらう。


「分かってる、分かってるって。」

「見返りなんて・・・。むしろ、俺の方がアイツにしてもらってばかりだから・・・。」

「そうだよな。分かる、分かる。」 


 誠は、何度も頷きながらグラスの酒をあおった。

 誠は自分のグラスが、空になっているのを見て店員を呼んだ。同じものを注文すると、誠は秀輝に向き直って会話を続けた。


「今まで周りが何を言おうとブレなかったお前じゃないか。今まで通り、ずっと側で彼女を支えてやればいいんじゃねーのか?」


 誠の言葉に秀輝の口元が僅かに緩む。


「そうだな・・・。」


 誠にも秀輝と同じように思いを寄せている女性がいた。誠の会社の後輩で、秀輝も幾度か会っている。少女のような透明感のある女性だった。誠は、秀輝と同様に思いを打ち明けてはいない。


「お互い一生懸けて愛する女がいるんだ。グダグダ迷っていないで、田原さんの笑顔のために何ができるか、何をするか・・・それだけ考えようぜ。」

「・・・分かった、そうだよな。」

「あぁ、そうだよ。」

「アイツの幸せのために生きる人生っていうのもいいよな。」


 秀輝の表情が爽やかに、そして明るく輝いた。

 秀輝のこの言葉に、誠は胸が締め付けられるような思いになった。出来る事なら秀輝の想いが史美に届くことを強く願っていた。


「ま、それもお前らしい生き方なんじゃねーの。」


 秀輝は笑いながら店員が運んできた酒を美味しそうに飲む。


「じゃ、お互いの愛する女に乾杯しようぜ。」

「分かった。」


 笑みを浮かべる秀輝と誠の席に、店員が生ハムでチーズを巻いたつまみを運んで来る。誠はグラスを目の前に掲げ乾杯の仕草をする。秀輝も誠に倣って乾杯をする。そんな誠の気遣いに秀輝は、心が少し強くなったような気がしていた。



※            ※             ※

             


 小学校の体育館で児童たちのバスケットボールの練習が行われている。風通しを良くするため体育館の扉が全て開けてある。天気が良い日は、熱気がこもった体育館をこの状態にしている。

 体育館の児童たちがボールを追い懸命にプレーしている傍らで、車椅子に乗った琢磨が仲間のプレーを食い入るように見つめている。児童たちの保護者の中に、琢磨の母/和佳子わかこもいた。

 史美は気付かれぬように、体育館入口の扉に隠れて琢磨の様子を見ていた。秀輝も史美にならって琢磨の様子を見ている。


“ 頑張って!”


 琢磨にエールを送る史美の心の声が聞こえて来る。

 練習はコート全体を使ったパス練習に変わり、児童たちが館内を走り回る。秀輝は琢磨の視線が、コート全体に行き渡ることに気付き史美の肩を掴む。


「田原・・・。」

「うん。」


 もっと琢磨の様子を見ていたかったが、母親の神経を逆撫でしてはいけない。琢磨の副担任だった史美を、受け入れるはずはないのだ。

 史美と秀輝は、練習が続く体育館を後にした。秀輝の車に乗り込むまで、史美は何度も琢磨がいる体育館を振り返った。


“ 頑張って!”


 秀輝は、史美と琢磨の思いが報われることを祈っていた。当たり前のように歩くことが出来る、そんな日が必ず来ることを・・・。

 秀輝の車が史美を乗せて門を出る。すると出て行くのを待っていたかのように、体育館の陰から沙帆が姿を現した。その視線は、秀輝の車をずっと追っていた。

 史美を迎えに行った際、秀輝は母である伊久子に偶然出くわしていた。伊久子から何処へ行くのか尋ねられて、小学校へバスケットの練習を見学しに行くと言ってしまったのだ。沙帆は留守だった秀輝のアパートから、実家を訪ね伊久子から行き先を聞いたのだった。

 沙帆は体育館の陰から、史美と秀輝が覗いていた体育館入口へと足を運んだ。床用ワックスの臭いが、幼い日々を思い起こさせる。

 中では児童が試合形式の練習をしていた。子供とはいえコーチの厳しい声が体育館中に響き渡る。そのコーチの横で車椅子に座っている児童に沙帆の目が留まる。史美と秀輝が見ていたのは、恐らくあの児童に違いない。理由は分からないが史美も秀輝も、何か祈るように見ていたのが印象的だった。


「何か御用ですか?」


 不意に声を掛けられ振り返ると、琢磨の母である和佳子が立っていた。


「あ、すみません。懐かしさのあまりお邪魔してしまいました。」

「そうですか。卒業生か何か?」

「そうじゃありませんが。先ほども皆さんの練習を、見学されていた方がいらっしゃったので・・・つい。」

「あら?他校の偵察かしら。」


 沙帆は和佳子が言った冗談に、愛想笑いをする。


「偵察?あぁ。そう言われれば、そうかも知れませんね。見学していた方は、聖応小学校の先生でしたから・・・。」


 沙帆の話に和佳子の表情が強張り、緊張したかのように固まってしまう。


「聖応小学校?」

「多分、そんな名前の小学校だった気がします。」


 沙帆は和佳子の変化に気が付く。偵察という冗談を真に受けて返答したことに、和佳子が気分を害したと思い込み慌てて否定する。


「あ、でも偵察じゃないかも知れませんよ。だって練習よりも、あの車椅子の男の子を見ていた感じでしたから。」


 沙帆は言いながら、車椅子の琢磨を指さした。沙帆は目の前にいる母親が、琢磨の母/和佳子だということを知らない。


「そ・・・そんなに見ていたのですか?」

「えぇ・・・結構な時間見てましたよ。」

「そうですか・・・。」


 一瞬にして張り詰めたような空気に変わり、沙帆は何か触れてはいけないものに触れてしまったような感じがした。


「あの・・・。」


 和佳子は沙帆に話し掛けられても気付かない様子で、父兄たちの許へ夢遊病者のように歩いて行った。

 沙帆は思い詰めた表情の和佳子を暫くの間、探るように見つめていた。

 


※            ※            ※



 空と同様に朱色に染まり始めた家々を、史美は助手席の窓から眺めていた。珍しく無口な史美が気になり、秀輝が話しかける。


「どうした?」

「ん?・・・」

「考え事か?」

「うん。」


 史美は練習の最中、琢磨が史美を探して体育館中を見渡していた事が気になっていた。

 もっと前に琢磨の両親と、話をするべきだったのではないのか。そうすれば、隠れるような真似をしなくても済んだのかも知れない。琢磨の気持ちを思うと胸が痛くなる。


「琢磨くん。アタシの事・・・、探してた。」

「そうだな。」

「琢磨くんに申し訳ない。」

「今は、仕方ないさ。ご両親は学校へのわだかまりが消えていないし、お前のことも誤解しているはずだ。話をしたくても何かきっかけでもない限り、テーブルにさえ付いてくれないさ。」

「・・・そうだよね。」


 病院で琢磨の担当医からリハビリが順調であることは聞いていた。ただ琢磨に気を遣わせ、両親に内緒にさせていることへの罪悪感がどうしても拭えなかった。


「ねぇ・・・。」

「ん?」

「アタシ・・・。何で教師になったと思う?」

「当てていいか?」

「分かるならね。」

「夏休みがあるから・・・。」


 言いながら大爆笑する秀輝の頭を、史美は平手で叩く。パシッといい音が車内に響いて、秀輝が痛そうに頭をさすっている。


「イッテ―な。」

「バーカ!」

「冗談に決まってんだろ。」

「じゃあ何?」


 前を向いたまま、秀輝は微笑みながら答えた。


「・・・子供が好きだからだよ。」


 秀輝の言葉に何かを思い出したように史美の動きが止まった。


“ 子供が好き ”


 在り来りで幼稚な理由と馬鹿にされそうだが、やはりそれが一番基本となるものだと気付いた瞬間だった。子供の成長に関わる仕事がしたい、秀輝に言おうと用意していた答えはそうだった。気取ったことを言おうとしていた自分が恥ずかしくて思わずギュッと目を瞑った。

 教師は人の人生に大きく関わる職業である。個人に付きまとう責任も、一般サラリーマンと教師では大きく異なる。教師が鬱病になる確率は、一般企業の2.5倍というデータもあるぐらいだ。秀輝が常日頃、史美の体調を気遣い口煩うるさく言うのも当然であった。

 秀輝には自分の人生を大きく変えた恩師がいる。まだ史美は会ったことはないが、その恩師はドラマに出てくるような教師だと、秀輝は自慢気に話していた。秀輝の想像ではあったが、その恩師は生徒たちの為に家庭を犠牲にしているという。

 身体的にも精神的にも、相当大きな負担が掛かる職業が教師だ。だからこそ、ベースになっている“子供が好き ”という事が大事になる。

 新任1年目に起きた琢磨の事件の時、秀輝が励ましてくれた言葉を思い出した。


“ お前には、子供が好きっていう最大の武器があるんだ。自信持って頑張れ。”


 暗く沈みかけていた史美に、力が徐々にみなぎってきていた。

 隣で黙り込んでいる史美の顔を、秀輝はハンドル操作をしながら心配そうにチラチラと見ている。


「おい。」 

「ん?」

「どうした?違ってんのか?」


 秀輝が尋ねる。


「・・・ううん。」


 簡単に当てられたことが、ほんの少し悔しい。史美は下唇を突き出してむくれている。


「だろ~。はいっ。」


 秀輝は何かをよこせと言わんばかりに、史美の顔の前に左手を突き出している。


「何よ?」

「当たったから何か寄こせっていう意味なんだけど・・・。」

「はぁ?」

「一万円!」

「ふざけんな~。」


 史美は差し出した秀輝の手を引っ叩く。


「イテッ!何すんだよ。」


 クリーンヒットしたのか、秀輝は予想以上に痛がっている。その姿が何とも可笑しくて思わず吹き出してしまう。


「馬鹿野郎、何笑ってんだよ。」


 秀輝といると、いつの間にかこうして元気になっている。秀輝とのやり取りの中、史美は感慨深く思っていた。


“ やっぱり、この人はアタシを分かってくれてるんだ。”


 車の外に目をやると、いつの間にか陽が落ちて辺りは暗くなっていた。史美は車窓から見える一番星の輝きに、子供たちの未来を投影させていた。 



※            ※             ※



 琢磨に会いに行った次の日、史美と俊一は逗子にある大崎公園を歩いていた。岬の頂上にあるこの公園は、眼下に逗子マリーナを見下ろし、天気がいい日には富士山も眺めることが出来た。

 大崎公園に着くまで、車中の史美と俊一は殆ど会話がなかった。史美の家から僅か40分ほどで到着したが、その時間が数時間にも感じていた。

 無口な俊一の様子に釈然としないまま、後を追うように歩いている。いつもは、史美に引っ張られるように歩く俊一だが、今日は先へ先へと足を踏み出している。公園の展望広場に到着すると、眼下には瑠璃色の海と果てしなく続く水平線が広がっていた。


「わーっ、いい眺めね。」


 吹き上げてくる海風は、心地よく爽快感に溢れていた。俊一は史美とは対照的に、険しい顔つきで水平線を見つめていた。


「そうだね。」


 俊一の返事は、どこか上の空だった。そこから会話が続かない史美と俊一は、また沈黙してしまう。


「ねぇ・・・。」


 沈黙に耐えられなくなった史美が口火を切る。


「ん?」

「・・・なんか、この間から怒っている?」

「いや、そんな事ないよ。」

「ううん、琢磨くんのことで、ちょっとムキになって言っちゃったから・・・。」

「それは、俺が悪かったから・・・。」


 いつもより俊一は元気がなかった。表情も仕草も、どことなく寂しそうだ。


「そうじゃなくて・・・。」


 言いかけた俊一だが、それから先の言葉が出て来ない。


「俊ちゃん・・・。」

「結婚のことだけど、やっぱりやめようと思って・・・。」

「えっ?」


 予想外な俊一の言葉に、史美は衝撃を受ける。


「先に延ばすってこと?」

「いや。」

「じゃ、何?」

「別れよう。」

「どういうこと?」


 史美と俊一の側に、ブルジョア風の女性が犬を連れてやって来る。史美と俊一は、この女性が去って行くのを待っていた。暫く大型犬と佇んでいたが、ひとしきり景色を堪能して颯爽と去って行った。


「史美と付き合って3年だよね。」

「そう・・・かな。」

「付き合う事を後押ししてくれたのは篠塚君だった。」

「そうなの?」

「うん。当時、俺も自信が無くてウジウジしてたから・・・。」


 3年前、別の男と付き合っていた史美に、俊一は猛烈にアタックしていたのだ。史美は、その情熱さに次第に惹かれていったのだ。ただ史美の前で弱気な発言が目立ち、それが気になって秀輝に相談していた。


“ わかった。大丈夫だから・・・。”


 何をしたのか分からなかったが相談した後から、俊一は見違えるように変わった。


「篠塚君から一発、キツイ一撃をもらったんだ。」

「えっ?」


 それは、まさに秀輝らしいやり方だった。


「 “しっかりしろ” “ 自信を持て” “ 史美を悲しませるな ”ってさ。」


 殴られた顎を擦りながら、俊一は当時を懐かしそうに思い出していた。


「痛さと恐ろしさで、震えが止まらなかったなぁ・・・。」

「ゴメン。」

「何で史美が謝るんだよ。」

「だって・・・。」


 相談したのは史美だということが分かっている以上、痛い思いをさせた俊一には後ろめたさを感じてしまう。


「凄いよね、・・・篠塚君って。」

「うん。」

「この間も・・・。」

「この間?」

「会社帰りに、俺のところに来て史美のこと散々庇っていたよ・・・。」

「えっ?」

「ホント一生懸命だった。田原は結婚したくないわけじゃないって・・・。何度も何度も頭を下げながら・・・。」


 史美の脳裏に、必死になって頭を下げている秀輝の姿が浮かんで来る。


「俺には、そんな真似出来ないよ。」

 確かに、そんなお節介焼きな真似は誰も出来ない。

「何、言っているの?」

「敵わないなぁ…。」

「俊ちゃん、言っていることがよく分からないよ・・・。」


 俊一は、まるで譫言うわごとのように話している。


「俺は振向いてもらいたい気持ちばっかりで、史美のことを考えていなかった。」

「それは、アタシだって・・・。」

「違う・・・違う、全然違うよ。」


 何か過ちに気付いたように俊一は、大きく首を振る。


「史美がLINEで励ましている男の子のことだって、俺は篠塚君ほど真剣に思うことが出来ない。」

「だって俊ちゃんには、関係ないじゃない。」

「篠塚君は関係あるのかよ?」


 それを言われれば、史美には何も返す言葉がない。黙り込む史美を見て、俊一は確信したように呟いた。


「史美と俺とでは、生き方や考え方の方向性が違うんだよ。」

「どういう事?」


 俊一は黙ったまま俯いている。


「俊ちゃん。」


 再び沈黙という重いカーテンが二人の間に引かれる。史美には俊一の心が全く見えなくなっていた。


「ねぇ、俊ちゃん。」

「もう何も言わないでくれ。」

「ちょっと待ってよ。」

「ずっと前から、考えていたんだ。」 


 俊一の目に光るものが見える。


「自分の気持ち、それから篠塚君のことをよく考えてみなよ。」

 それから史美と俊一は何も喋らなくなった。

 帰りの車中も2人は、何も言葉を交わさなかった。



※            ※             ※



 車を降りた後、史美は暫くその場に立ち尽くしていた。そして、思考力を無くしたかのようにフラフラと歩き出した。国道沿いの歩道を歩いていると、走り抜けていく車の風に煽られて体がよろめく。史美とすれ違った会社帰りのサラリーマンが心配そうに振り返る。

 史美はふと俊一が秀輝との親密さをしきりに気にしていた事を思い出していた。


“ 史美と篠塚君は、親友かも知れないが、その前に男と女なんだぞ。”


 もしかしたら誤解をしているのかも知れない。


“ いや、・・・でも。・・・そんなことない!”


 僅か数秒の間で、その考えは消えた。そもそも秀輝は史美の事を女扱いしていない。それは俊一も側にいて感じていたはずだし、何よりも付き合う後押しをしてくれたのは秀輝なのだ。自分が想いを寄せている女に、他の男の応援などするはずがない。映画や小説じゃあるまいし、そんな人間が現実にいるわけがない。


“ 自分の気持ち、それから篠塚君のことをよく考えてみなよ ”


 そう語った俊一の表情が、史美の脳裏にしっかりと焼き付いている。寂しく悲し気だが、史美を諭すような口振りでもあった。ここ数ヶ月間、将来の事を必死に考えていたに違いない。俊一が一人思い悩んでいたことに、まるで気付いていなかったのだ。

 なんて人の気持ちに鈍い人間なのだという自責の念が込み上げてくる。自分という人間がこれほど嫌になったことはなかった。街中の音全てが、史美を責め立てるように聞こえてくる。

 耐えきれなくなった史美は、目を瞑ってしゃがみこみ耳を塞いだ。 


“ もう、やめて!”


 ゆっくりと目を開いて辺りを見渡すと、そこは秀輝のアパートへ続く道の途中だった。こんな時に、どうして篠塚のところに・・・。

 史美は逃げるように、そこから自宅へと走り出した。



※            ※             ※

              


 その日の授業は最悪だった。まさに何事にも上の空で、一日何をしていたのか記憶が全くない。心配そうに駆け寄ってきた子供たちの顔さえも思い浮かべることが出来なかった。


“ あの子たちに申し訳ない。”


 やっとの思いで職員室に戻り、机に突っ伏して頭を抱え込む。自分を責める言葉が頭の中で駆け巡る。何のために教師になったのだと、こんなことで取り乱してどうすると自分を叱咤するが効き目がない。


「田原先生?大丈夫ですか?」


 同僚の教師が心配そうに史美の顔を覗き込む。


「すみません。ちょっと疲れが溜まってしまって・・・。」

「そうなの?ちゃんと眠れているの?」

「はい。」


 そう返事をしたものの、実は一睡もしていない。

 史美と同僚教師のやり取りを、池本が苦々しい表情で見つめている。


「まだ、一週間始まったばかりよ。明日、大丈夫なの?」

「はい。大丈夫です。」


 史美は暗鬱な気持ちを振り払うように起き上がる。


「気持ちが弛んでいますね。しっかりしなさい。」

 池本は吐き捨てるように史美に言い放ち、校長室に入って行った。


“ そんなことっ・・・。自分が一番わかってる!”


 同僚教師も気不味い空気感を察知して、何事もなかったかのように静かに史美から離れていく。

 同僚たちの視線も行動も何もかも全てが史美を避けているように見える。ゾクゾクするような冷ややかな空気が職員室全体に漂っている。

 机に飾られている仲間たちの写真の秀輝の部分だけがクローズアップして見える。


“ 篠塚・・・。”


 心の声は、何度も秀輝の名前を呼んでいた。 



※              ※              



 何気なく時計を見ると、時刻は10時ちょうどを指していた。

 秀輝はPCの前で、コンクールに応募しようとしているシナリオ作成に没頭していた。しかし、先程から良い場面が思い浮かばす何度も何度も同じところを書き直している。

 PC画面を見つめ何度も何度も溜息をついていた。溜息をつくと幸せが逃げると、何度も耳にしたことがある。


“ 何やってんだ、俺は・・・。”


 自分の幸せが逃げるのはどうでもいい、史美の幸せだけは逃げてもらっては困る。自分の溜息が史美への悪影響に繋がらないかと必死になっていた。


“ 俺は世界一の大馬鹿野郎だな・・・全く。”


 無意識のうちに史美の事ばかり考えている自分に苦笑いする。PCから離れた秀輝は、ベッドの上に横になり何もない天井を見上げた。白い天井に史美の笑顔が浮かび上がる。


“ あいつ、何してんだろう・・・。”


 ベッドの横のテーブルにある携帯電話を手に取り、史美へのLINEのメッセージを確認する。メッセージは未読のままで既読になっていなかった。秀輝の脳裏に俊一の言葉が浮かんだ。


“ 史美へのプロポーズは撤回するよ。”


 携帯電話の電話帳を表示し、史美へ電話を掛ける。何度呼び掛けても史美が電話に出ることはなかった。


「まさか!」


 飛び起きた秀輝は、取るものも取り敢えず史美の自宅へと向かった。

 


※            ※             ※

             


 ベッドに寝込んでいる史美の傍らで、秀輝はずっと手を握っている。幾度となく電話で呼びかけた秀輝は、応答のなかった史美を心配し駆け付けていた。

 秀輝にだけは連絡はしないと決めた史美だった。こんな自分を秀輝に見られたくない。しかし、史美の心は秀輝を求めていた。

 秀輝が駆け付けた時、既に史美は酒に酔っていて酩酊状態だった。ビールの空き缶が6缶床に転がっている。

 史美は虚ろな目で秀輝を見つめている。


「アタシ・・・。フラれちゃった。」


 握り締めている史美の手にも思わず力が込められる。

 史美の話を秀輝は黙って聞いている。


「嫌な女だよね・・・アタシ。」

「そんなことねーよ。」

「嘘つけ。」


 遠くを見るように呟く史美は、完全に捨て鉢になっていた。


「アタシの気持ちだってさ・・・。」

「何が?」

「アタシの気持ちを考えろって。」

「・・・そうか。」

「ねぇ、アタシの気持ちって何だろうね?・・・。」


 秀輝は微かに微笑むだけで、何も答えず黙っていた。


「ねぇ、何?教えて・・・。」


 甘えるような声で訊ねても、秀輝は黙ったまま史美を見つめている。


「おい秀輝、黙ってないで答えろ!」


 握られている手を解いて、史美は秀輝に抱きついた。


「ねぇ。」


 秀輝の耳元で史美が囁く。


「何?・・・。」

「アンタは、アタシのことが好きなの?」


 秀輝を見つめる史美の目から涙が溢れて出てくる。

 泣き崩れ酩酊状態の史美に、秀輝は掛ける言葉もなく黙っていた。2人の間だけが時間がゆっくりと流れ、まるで別次元にいるように感じる。夜のしじまに時を刻む秒針の音が、やけに大きく聞こえてくる。

 泣き疲れたのか、史美はそのまま秀輝の胸の中で眠ってしまう。

 傷だらけで剥き出しになっている史美の心が痛々しい。伝わって来る痛みを堪えるように、秀輝の体は小刻みに震えていた。

 か細い史美の体が腕の中から消えてしまいそうで、秀輝は労わりながらも強く抱き締めた。

 寝顔を見る秀輝の目から、涙が一筋零れる。


「あぁ・・・愛してるよ。」


 秀輝はそう言いながら、史美の乱れた髪を慰めるように撫でた。


「ずっと、ずっと前から愛してる。」


 安心したように眠っている史美には、秀輝の魂の告白も届いてはいなかった。

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