第7話 遠い I LOVE YOU

                

 ビジネス街は夜になっても賑わいは衰えない。

 家路へと急ぐ者、仲間たちと連れ立って飲み屋へと向かう者、右へ左へと沢山の人々が行き交っていた。

 高層ビルの中から仕事を終えた和明が、帰宅する人の流れと共に出て来る。人を探しているようで辺りを見回している。


「和明!こっち、こっち。」


 ビル入口の少し離れた所から眞江が呼んでいる。和明が駆け足で眞江の許へ向かった。


「ちょっと話があんのよ。」

「うん。」


 少し険がある眞江の言い方に和明は戸惑う。


「お酒でも飲みながら話さない?」

「おぉ・・・。」


 歩き出す2人の姿は、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。



※          ※

             


 2人が入った居酒屋は古き良き時代であった昭和を彷彿させる店だった。そのせいか客層も若者よりも中高年が多い。

 店内は換気扇の排気がされていないのか、焼き鳥の煙が霧のように立ち込めている。眞江と和明は居酒屋のカウンターに肩を並べて座っていた。


「話って沙帆ちゃんのことだろ?」


 話を切り出さない眞江に、和明が待ち切れなくなって言う。


「アタシのところにも電話が来たの。田原のことを教えてって。」

「教えたのか?」

「教えるわけないじゃない。」

「そう・・・だよな。」

「ねぇ、あの子に何言ったのよ・・・。」

「何って・・・。篠塚の事、好きだっていうから・・・。」

「アンタ、篠塚の気持ち分かってるでしょ!」


 最後まで聞かなくても和明が何を言ったのか眞江には分かっていた。沙帆は眞江にもはっきりと秀輝への自分の気持ちを言った。和明と話をして、秀輝の気持ちを覚ますように後押しをされた筈なのだ。


「焚きつけるような事を言ったら、苦しむのは篠塚なんだよ。」

「そんな事ねぇ~よ。」

「何でそんな事言い切れるのよ。」

「だってあんな可愛い子が、好きだって言ってくれてんだぞ。」

「アンタ何年、篠塚の友達やってんのよ!」

「えっ?」


 眞江に詰め寄られ、和明は口籠ってしまう。


「田原には、女の子に縁のないモテない男って思われているけど、アタシ達はそうじゃないって知ってる。都合よく田原の誘いに応じられるのは、いつもそのために篠塚が時間を空けているからだってことも・・・。」

「だから俺は・・・。」


 眞江が和明の言葉を遮って言う。


「他の女に目が行くように、自分の事を好きだって言う沙帆ちゃんと付き合えば、田原を忘れられるかも知れないって思ったんでしょ。」


 和明は眞江に全て見透かされ言葉も出ない。


「普通の男なら、そうなるかも知れない。でも、篠塚は違う。違うじゃない。」

「俺はな、もうウンザリなんだよ。篠塚の辛そうな顔を見るのは・・・。」


 和明も秀輝の事を思い遣っていたのである。


「この間、古谷はあんな事言っていたけど俺はそうは思わない。田原以外にも、きっと同じことを思える女は必ずいる。いるはずだなんだよ!」


 眞江は横にいる和明を突き刺すように見つめる。


「アタシは、そうは思わない。」


 店の店員がヒートアップしている眞江と和明を、怪訝な顔をして見つめている。眞江と和明は、自分たちが店内にいる他の客から、注目を浴びているという事など全く気にしていない。


「・・・沙帆ちゃんだって、篠塚の事を本気で思っているんだよ。」


 苛立ち始めた気持ちを抑えようと、和明は一呼吸置いて眞江に言った。落ち着いて話した和明とは反対に、収まらない眞江はひたすらに訴え続ける。


「前に篠塚がアタシ達に言ったことを忘れたの?」


 何か重要なことを言われたかも知れないが、それが何なのか即座に思い出すことが出来ない。


「付き合っていた女が皆、愛されていない事に気づいて去っていったって・・・。酷いことをしたって、篠塚・・・凄く辛そうに話してた。」


 眞江の言いたいことは理解出来るが、だからといって沙帆が過去の女達のようになるとは限らない。


「でもな・・・。」 


 いつまでも折り合いがつかず、二人の話は平行線のままだった。眞江も和明も互いに主張を言い尽くしたのか、漸く卓上のグラスに手が伸びる。店主の趣味なのか、店内に70年代の演歌が流れていた。


「また沙帆ちゃんから何かあったら、篠塚のこと諦めるように言って・・・。」


 眞江が思い出したように言う。


「い、言えねぇよ、そんな事・・・。」

「わかった。じゃあ、これ以上何もしないでよ。ね!」


 和明は終始、眞江に圧倒され声もなく頷いた。



※         ※         ※        



 沙帆は秀輝の実家のマンションを訪れていた。伊久子は沙帆の訪問に懐かしさを感じて喜んでいる。電話では何度か話してはいたが、実際会うのは10数年ぶりだ。


「突然、お邪魔してスミマセン。」


 沙帆は伊久子に促され、リビングのソファに座った。


「何言ってんの、遠慮しないで。」


 伊久子が顔をほころばせながらお菓子とお茶を運んで来る。


「お母さん、元気?」

「はい。ヒデ君の話をしたら母も懐かしがっていました。」

「リカちゃんは、もう結婚したの?」


 伊久子が沙帆の姉であるリカのことを聞いている。秀輝が昔、よく一緒に遊んでいた姉妹だった。


「まだ独身です。仕事が楽しいんですって・・・。」

「沙帆ちゃんより2つ上だったわよね?」

「はい。でも結婚する気なんて全然ないんです。」

「そう。」

「姉妹で彼氏もいないから、母も心配しています。」

「あ、ほら、遠慮しないで召し上がれ・・・。」


 沙帆は勧められたお菓子を手に取って食べる。


「秀輝とは、よく会うの?」

「いいえ。ヒデ君もいろいろ忙しいみたいで・・・。」

「忙しくなんかないわよ。しょっちゅう田原さんたちと遊んでいるもの。あ、田原さんていうのは秀輝のお友達でね。隣の棟に住んでいるのよ。」


 沙帆は伊久子から、史美の話が出て顔色を変える。


「田原さんて、ヒデ君の彼女か何かですか?」

「まさか!あんな可愛い子が彼女になってくれるもんですか!なってくれたらいいけど・・・。ま、無理ね。大体、秀輝とじゃ釣りあいが取れないし・・・。」

「そんな事ないですよ!」


 沙帆は自分でも信じられないくらいの声で叫んでいた。


「アラ、そ・・・そう?」


 沙帆のあまりの剣幕に伊久子もたじろいでしまった。


「あの子はね、小学校からの付き合いだからって、モテない秀輝にいろいろ付き合ってくれるのよ。優しい子でね、とっても面倒見のいい子なのよ。ん?あれ、沙帆ちゃん知っているの?」

「少し・・・。この間、ヒデ君に誘われてバーベキューに行ったんです。その時、彼女も・・・。」

「そう、沙帆ちゃんも、これを機に友達になれば?みんなとってもいい子たちだから。」


 沙帆は伊久子から、史美の情報をある程度得て秀輝の実家を後にした。



※         ※         ※       



 バー/ホワイトデーに秀輝、和明、尊、眞江らが史美を囲んではしゃいでいる。眞江たちには、史美が俊一と一時のすれ違いから揉めていることを話していた。その後、俊一から史美へ何も連絡は来ていない。


「サーちゃん。なんかゴメンね。」


 史美は時間を割いて来てくれた眞江に、申し訳ない気持ちでいた。


「何が?」

「だって上尾君と、デートだったんじゃないの?」

「らしくないこと言わないでよ。うちはラブラブだから心配しなくても大丈夫よ。」

「そう?」

「アタシがここにいるのは知っているんだから、来たければ勝手に来るわよ。それに元々、田原の心配なんてしてないわよ。」


 ステージ上では、秀輝と和明が大声を張り上げ唄っている。


「だってアンタには、いっつもアイツがついているでしょ。」


 史美は、唄っている秀輝を見つめた。秀輝は相変わらず見え見えの行動を取る。今日も史美のことを励まそうと、秀輝がみんなを集めたのは明らかだ。


「・・・うん。そうだね。」

「でしょ?」

「なんかね。ホッとするの・・・あの人といると。馬鹿みたいに見え見えなんだけど、何故か元気になるの。」 


 その時、澄ました顔をして伸次郎が店に現れる。


「ほらね、来たでしょ。」


 史美は眞江の表情から、伸次郎に愛されているということを感じた。唄っている秀輝と和明に、伸次郎がハイタッチをして眞江の隣に座る。


「遅くなっちゃったよ。」

「呼んでないけど。」

「ん?あ、そう。」


 眞江が伸次郎に見えないように舌を出しておどけている。史美は眞江と伸次郎の微笑ましい光景に、思わず笑みがこぼれる。


“ 今日は、人の幸せがとてつもなく嬉しい 。”


 史美はそう思いながら、ステージ上の秀輝をジッと見つめていた。



※         ※          ※      



 マンション前にタクシーが停まり、史美と秀輝、眞江と伸次郎が降りて来る。

 伸次郎が酔っている眞江を気に掛けて、側に寄り添い立っている。

 眞江と伸次郎の仲睦まじい姿に、史美と秀輝はほっこりしてる。


「今日は・・・なんかありがとうね。」

「何言ってんだ。そんな事より早く寝ろ。」


 乱暴な物言いだが、心配している秀輝の気持ちが伝わって来る。


「アタシの家が一番近いんだから何かあったら電話するんだよ。」


 史美の住むマンションの隣りが秀輝の実家であり、そのまた隣りの棟が眞江の住むマンションなのだ。


「わかった。・・・おやすみ。」


 秀輝たちに手を振りながら、史美はマンションロビーに入って行った。

 史美がエレベーターに乗ったことを確認すると、秀輝が眞江と伸次郎に深々と頭を下げる。


「今日は、ありがとうな。」


 秀輝の呼びかけとはいえ、史美を励ますために集まってくれたのである。


「やめてよ・・・。」

「上尾。」

「なんだよ。」

「・・・ありがとう。」


 秀輝と伸次郎は、奇しくも高校時代の同級生だった。秀輝が互いの共通の友人であったことは、偶然とはいえ不思議な縁である。


「なんだよ、水臭ぇーな。」

「でも・・・。」

「田原さんが眞江の友達なら、それは俺の友達でもあるんだぜ。」

「そうだよ。」

「ありがとう・・・。」

「ないとは思うけど・・・。もし、アタシのところに電話があったら直ぐに知らせるから・・・。」

「あぁ、頼む。」

「じゃあ、おやすみ!」


 眞江と伸次郎が去って行った後も、秀輝は史美の部屋を下から見ていた。史美の部屋の電気はまだ点いていた。秀輝は煙草に火を点け、携帯電話を取り出し保存してある写真を見る。写真の中の史美は、満面の笑顔で写っている。秀輝は煙草を吸い終えるまで、史美の写真を見つめていた。



※         ※          ※ 

    

   

 次の日、仕事を終えた秀輝は、俊一と会うために日比谷公園にいた。各省庁や銀行、各企業の本社などが日比谷公園を囲むように建ち並んでいる。周囲を様々な木々に覆われた公園は、昼間の喧騒とは違い独特な静寂感が漂っていた。

 秀輝が腕時計を覗き込んで時間を確認する。俊一は、まだ現れない。

 街灯の真下に立っているものの、多くの人が行き交う中で俊一を見つけるのは容易ではない。お互い気付かずにすれ違う可能性もあった。


“ 喫茶店とかにすれば良かった。”


 後悔しながら待ち続けると、暗がりの中から俊一が足早にやって来る。


「いつも待たせてすまないね。」

「いえ、とんでもないです。」

「話って何かな?」

「あの・・・。どうして田原に連絡しないんですか?」

「どうしてって・・・。」 


 秀輝から唐突に質問され俊一は戸惑ってしまう。返事を待っているのは、俊一であって史美ではない。俊一は連絡しなかったのではなく、待っていただけなのである。


「田原から聞きました。結婚のことでちょっと揉めてるって・・・。」

「揉めているわけじゃないけど・・・。」

「そう・・・ですか。」

「史美、篠塚君のところへ行ったんだ。」

「田原、別に佐古さんと結婚したくないわけじゃないんですよ。ただ、状況や環境が変わってしまうことが不安なだけなんです。」


 俊一は、ただ黙っている。


「それに、田原の学校が訴訟問題で色々あったことはご存知でしょ。田原、クラスの副担任だったじゃないですか・・・。」

「あぁ、知っているよ。だけど、もう騒ぎは収まったって聞いているけど・・・。」

「学校側が強引に収束させただけですよ。」

「・・・どういうこと?」


 俊一は怪訝な顔を秀輝に向けた。


「生徒は怪我を負ったままじゃないですか・・・。」


 俊一は判決が出た時点で、問題は解決したと思っていたのだ。秀輝に言われ、生徒のその後という肝心なことに気付いていなかった。


「田原が、その問題の生徒と連絡を取り合っているってご存知ですよね。」

「あぁ、詳しくは知らないけど・・・。」

「その子、漸くリハビリも必死にやるようになって・・・。これから、それをずっと続けていかなきゃいけないんですよ。」


 何故、そんなに詳しく知っているんだというような顔で、俊一は秀輝を見つめている。


「史美は本当に、色んなことを篠塚君に話すんだね。」

「いや・・・あの、それは。」

「何だか・・・寂しいな。」

「それは多分、俺が暇人だからですよ。仕事で忙しい佐古さんに、余計な心配かけたくなかったんじゃないですか。」

「余計な心配?」


 秀輝の言う通り、史美にはそういった傾向が昔からあった。秀輝は、俊一を大切に思うからこそ何も話さなかったと言っているのだ。果たして本当にそうだろうか。


「とにかく田原、佐古さんからの電話を待っているはずですから。」


 秀輝は、俊一の顔色が変わったことに気付く。

 俊一は秀輝から視線を逸らして何やら考え込んでいる。


「佐古さん?」


 俊一は思考の迷路に迷い込んでいるのか動きが止まっている。秀輝の声は全く届いていないようだった。


「じゃ、佐古さん。田原のことお願いしますよ。」


 俊一からの返事を聞かないまま、秀輝は逃げるように帰って行った。一方的に話を結論付け去って行った秀輝を、追いかけようと思うが俊一の足は何故か動かなかった。



※         ※          ※      



 史美は自分の部屋で携帯電話を見つめていた。

 俊一からの電話はまだない。

 何気なく携帯電話のアルバムをチェックする。アルバムには、先日のバーベキューの写真が数枚保存してあった。

 秀輝を写した写真を見て物思いにふける。俊一へのプロポーズの返事をしようとするが、どうしても二の足を踏んでしまう。まだ、その理由は分かっていない。

 もったいつけているわけではない、はっきりした理由が分からないまま、返事をしていいものなのか判断がつかないのだ。

 携帯電話に着信があり、驚きながらも電話に出る。


― 俺、篠塚・・・。―

「なに?どうしたの?」

― 佐古さんから連絡あったか?・・・。―

「ううん。ないけど・・・。」

― そっか・・・。―

「心配してくれているの?」

― そんなもんしてねーよ・・・。―

「アタシ・・・、俊ちゃんに電話するよ。」


 史美が俊一からのプロポーズに応えようとしていることが秀輝には分かった。


― そ・・・そうか。―

「うん。俊ちゃんから電話もらうのは、やっぱりおかしいし・・・。」

― そう・・・だな。―

「うん。」

― じゃ、頑張れよ・・・。―


 秀輝は、そう言って電話を切った。

 携帯電話を握ったまま、暫く放心状態になっていた。垂れ込めた雲のような虚無感が、重苦しく史美の心の中に漂っている。

 再び携帯電話に着信が入った。それは俊一からの着信だった。



※         ※          ※      



 数日後、バー/ホワイトデーに史美たちが集まった。

 秀輝と俊一が、まだ来ていなかった。秀輝からは仕事で遅れるという連絡が、史美のLINEに入っていた。


「どうしたのよ。何か報告があるんでしょ?」

「うん。篠塚が来ていないから・・・。」

「仕事で遅くなるって、連絡入っていたんでしょ。」

「うん。」

「佐古さんは?」

「もうすぐ来ると思う。」

「報告ってさ・・・ま、なんとなく分かってはいるけどね。」


 眞江は和明と尊の様子を窺う。史美を祝ってあげなければという気持ちと、秀輝を思う気持ちが複雑な状況を生み出してしまう。

 そこへ、俊一が息を切らせて入って来る。


「申し訳ない。」


 遅れてきた手前、俊一は慌ただしく席につく。


「実はね。いろいろあってお騒がせしましたが・・・。アタシ、俊ちゃんのプロポーズを受けることにしました。」


 和明等3人は祝福の言葉をかけるでもなく、まるで示し合わせているかのように無言になってしまう。いずれこうなると分かってはいたが、秀輝の気持ちを知っている3人は締め付けられるように胸が痛くなる。俊一も祝いの空気感が漂ってこないことに少し困惑している。


「何?どうしたの?」

「どうしもしないよ。よ、良かったな・・・おめでとう。」


 和明たちの笑顔がぎこちない。


「なんか、皆には本当に迷惑かけたみたいで・・・。」


 秀輝がいないことに気付き、俊一は何気なく店内を見渡す。


「篠塚君は?」

「仕事だって・・・。」


 寂しそうに史美が俊一に伝える。俊一は史美に、秀輝に呼び出され説得されたことを話していない。ただなんとなく、話せなかった。理由は俊一自身も分からなかった。


「篠塚が来ていないけど、2人の婚約祝いを始めましょう!」


 和明がグラスを掲げて乾杯の音頭をとった。


「マスター、料理の準備お願いしま~す。」


 賑やかに宴が開かれる中、秀輝がこの場にいない違和感を史美は感じていた。



※         ※          ※     



 史美と俊一の婚約祝いがホワイトデーで開催されている頃、秀輝は一人会社に残り残業をしていた。残業というほどのものではないが、どうしてもホワイトデーには行く気になれなかった。途中、幾度となく史美からLINEに連絡が入るが返事はしなかった。

 史美の結婚を祝ってあげなければと、頭で分かっていても心が体を動かしてはくれなかった。俊一は優しいし外見だって申し分ない、何より史美のことを大切に思っている。その上、一流企業に勤めるエリートだ。高給取りだから経済的にも将来、史美に苦労を掛けることなどないはずだ。幸せな家庭が築かれることは間違いないのだ。

 自分如きがしゃしゃり出て、史美のことを心配することもなくなるだろう。


「・・・これでいいんだ。」


 秀輝の携帯が振動で震えだし、LINEにメッセージが表示される。


“ まだ、仕事?無理しないで頑張ってね。”


 史美からLINEのメッセージが入る。

 涙が自然と込み上げてくる。幾度となく送られてくる史美からのLINEメッセージは、十数件にもなっていた。秀輝は携帯の電源を切った。


「これでいいんだ。」


 誰もいない静まり返った事務所で、秀輝は肩を小さく震わせながら静かに泣いた。



※           ※



 ホワイトデーで行われた史美の婚約祝いに秀輝は出席しなかった。

 緊急の仕事でもないのに、終電ギリギリまで事務所に残っていた。史美の幸せを願わねばならないのに、祝いに駆け付けられない自分の器の小ささに苛立っていた。事務所を出る時に、苛立ちまぎれに壁に拳を打ち付けた。

 史美の事ばかりで考えて、自分がどうやって帰宅し何時に家に着いたのか全く記憶がない。帰宅しても秀輝は眠ることが出来ず、そのまま夜を明かしてしまった。出社する時間が来ても、心が思うように体を動かしてはくれなかった。始業開始時間5分前に連絡し、会社を休むことを上司に伝えた。秀輝の体調を心配する上司の言葉も耳に入らず、会話の途中で一方的に電話を切った。

 何もする気になれず、水さえも口にしていない。ベッドに横たわり一日中、自室の天井を見つめていた。

 アパートの住人の出入りが、部屋の中からでも明瞭に感じることが出来た。一日のサイクルも、早回し映像のように過ぎて行く。

 次の日も、そしてその次の日も秀輝の体は自由に動かなかった。まるで死体のようにベッドの上に横になっていた。

 瞬く間に時間は流れ、外は陽が落ちて夜を迎えようとしていた。

 静寂の中、部屋のチャイムが突然鳴った。秀輝は鳴り響くチャイムに応対せず横になったまま動かない。しかし、しつこくチャイムは鳴り続けた。


「ねーっ大丈夫?」


 チャイムだけでなく、ドアを叩く音も聞こえて来る。


「ねぇ、アタシ。いるんでしょ。」


 聞き覚えのある声がドアの向こうから聞こえてくる。同時に秀輝の携帯がテーブルの上で、ブルブルと震えだし暴れている。


「大丈夫?篠塚!」


 それは史美の声だった。

 史美の声を聞き、秀輝は反射的に飛び起きた。そして、あれほど動かなかった体が、信じられないくらい軽快になっていた。

 ドアを開けると史美が心配そうに立っていた。


「なんだ・・・どうした?」

「それは、こっちの台詞だよ!LINEも既読にならないしさ。」


 史美は、やつれた顔で現れた秀輝に衝撃を受ける。


「・・・ごめん。」

「あ・・・ううん、大丈夫ならいいよ。」


 いつものように明るく元気な秀輝ではなかった。


「どうしたの?」

「体調不良ってやつだな。」

「仕事、そんなに大変だったの?」


 立っているのがやっとのようで秀輝は壁に手を置いていた。


「ちゃんと食べてる?」

「あぁ・・・。」


 玄関から見える台所に使われた形跡はない。


「嘘。食べていないんでしょ。」


 秀輝は俯いて無言のままだ。


「何か適当に作ろうか?」

「いいよ。食欲ねーんだ。」

「体調崩しているなら、実家に帰ればいいのに・・・。」


 一瞬だけ秀輝の表情が曇る。


「帰りづらいなら、アタシがついていってあげるから。」


 秀輝は睡眠不足のせいで、瞼がくぼんだようになっている。


「アンタ、寝ていないんじゃない?」


 史美の推察通りなのか、秀輝の返事がない。


「ちょっと、上がるよ。やっぱり何か作る。」

「ちょ、ちょっと待てよ。」

「何よ、食べなきゃ元気出ないでしょ。」

「アホか、お前は。婚約したんだろうが・・・。」

「だから何よ。」


 史美は口を尖らせて、秀輝に突っかかる。


「婚約中の女が、他の男の家に夜フラフラ上がったりしたらおかしいだろ。」

「アンタ以外の男ならね。」

「大丈夫だよ。普段、真面目に仕事したことないから体がビックリしただけだよ・・・。」


 いつものように冗談を言っている秀輝に戻ったように見えた。しかし、史美はどこかモヤモヤした気分になっていた。


「今日一日、ゆっくりしたからよ。」

「ホントに?」


 心配そうに覗き込む史美の顔は、今にも泣きだしそうだった。


「あ、ウェルカムボードなら心配すんな。式当日までには間に合わせっから・・・。」

「・・・うん。」


 一応返事はしたものの、そんな事はどうでも良かった。


「やっぱり・・・。中、上がっていくか?」

「えっ。」

「冗談に決まってんだろ。」

「バ~カ。」


 史美と秀輝は顔を見合わせ吹き出すが、2人の間に少し気恥ずかしさが出て黙り込む。コンマ数秒の間が、スローモーションのようにゆっくりと過ぎていった。


「か・・・帰るね。」

「田原。」


 秀輝に呼び止められ振り返る。


「婚約、おめでとう。」


 絞り出すような秀輝の声に、史美は何故だか涙が出そうになった。帰る道を何度となく振り返る。秀輝はドアを開けたまま、まだ史美を見送っていた。角を曲がり見えなくなるまで、部屋のドアは閉まる事なく開いたままだった。



※         ※          ※ 

    


 沙帆は電話もLINEも繋がらない秀輝のことが不安で、気持ちが落ち着かなかった。居ても立っても居られなかった沙帆は、躊躇することなく和明に連絡していた。沙帆は和明から、史美が俊一と婚約したことを聞く。


“ ヒデ君、きっとショックを受けて・・・。”


 沙帆は仕事を早退して、秀輝のところへ向かった。秀輝の住むアパートに着くと、部屋のチャイムを鳴らす。電話と同様に何度鳴らしても応答がない。


「ヒデ君!アタシ、沙帆!開けて。」


 沙帆は叫びながら、何度もチャイムを鳴らした。


「ヒデ君、どうしたの?開けて!」


 沙帆の声に隣人が迷惑そうにドアを開けて睨んでくる。睨んでいる隣人の圧力など気にもせず、沙帆は部屋の中の秀輝に向かって呼ぶ。


「開けて!ヒデ君、お願い。」


 部屋の中から微かな音が聞こえ、ドアの鍵が開けられる。沙帆は鍵が開くと同時に部屋に入った。

 すっかりやつれ唇も乾いた状態の秀輝が立っている。


「ヒデ君!」


 フラついて立っているのがやっとの秀輝を、沙帆は思いのまま抱き締めた。支えながらベッドまで運び秀輝を寝かせる。


「大丈夫?」

「沙帆ちゃんか・・・。」

「どうしたの?何も食べてないの?」


 沙帆の呼びかけに答えられないほど秀輝は憔悴しきっていた。


「病院、今救急車呼ぶから・・・。」


 電話を掛けようとする沙帆の手をつかむ。


「そこまでじゃないよ。」


 か細く笑う秀輝に沙帆は涙が込み上げてくる。


「お粥でも作ろうか?」


 秀輝はゆっくりと首を横に振った。


「今、作るから待ってて・・・。」


 意識が朦朧としながらも、秀輝は台所に向かう沙帆の後ろ姿を見つめていた。



※         ※          ※      



 また秀輝のLINEが、なかなか既読にならない。以前とは違う秀輝の様子が気になっていた。以前は既読になるのに時間は掛からなかった。昼休みなど空きの時間を見つけては、携帯のチェックをしていた。


“ 婚約、おめでとう。”


 秀輝の寂しそうな笑顔が、史美の脳裏に焼き付いている。


“ これで最後みたいな言い方・・・。”


 史美には、そう聞こえてしまった。秀輝のアパートからの帰り道は、世界に一人ぼっちされる感覚に襲われていた。

 学校の業務を終えた史美は、不安を抱えつつも約束をしていた俊一と会うためにファミリーレストランに向かっていた。婚約したからには、いよいよ結婚に向けての準備をしなくてはならない。式場選びや結納など決めなくてはいけないことが山積している。

 ファミリーレストランは長時間居座っても問題なく、打ち合わせをするにはもってこいの場所だ。先に到着していた俊一は、様々な資料や雑誌を持参していた。

 食事を簡単に済ませ史美と俊一は、手持ちの資料を広げて情報収集を始める。


「式場っていっても、ホント色々あるなぁ。」


 今の時代、結婚式を挙げる場所も様々である。スキューバダイビングでの水中結婚式なんていうのもある。式場は、海の中というわけだ。


「スカイダイビングっていうのもあるな。凄いや・・・。」


 雑誌を見て盛り上がる俊一をよそに、史美はやつれていた秀輝の顔を思い出していた。具合が良くないのに、やせ我慢をしていた秀輝が心配だった。


“ やっぱり強引にでも何か食べさせるんだった。”


 史美は秀輝の顔を見ただけで、帰ってしまったことを後悔していた。


「お皿をお下げいたします。」


 ウエイトレスの声に、史美はふと我に返る。先程から結婚について矢継ぎ早に話す俊一の存在を忘れていた。


「だから休みの日を使って、式場選びをしないとな。」

「ん?・・・うん。そうだね。」

「それから、史美のお父さんとお母さんに挨拶もしたいし・・・。」

「・・・うん。」


 気乗りしない史美の返事だった。


「ん?忙しいのか?」

「ん?うん・・・そういうわけじゃないけど。でも休みの日を全部、準備に充てるのはちょっと・・・。」

「どうして?」

「琢磨くんのバスケの練習があったりするから。」

「琢磨くんって確か・・・。」

「うん。怪我をした男の子。」

「え?まさか、観に行っているわけじゃ・・・。」

「観に行ってるよ。・・・本人は知らないけど・・・。」


 裁判沙汰になった児童の家族に、過剰に接している史美に俊一は驚きを隠せない。


「マズいだろ・・・そんなことをしていたら。」

「分かってる。」

「それなら、どうして?裁判にもなって争ったんだろ?史美の行動次第では、どんな手段に訴えてくるか分からないだろう。」

「そんな事にはならないよ。アタシと学校は関係ないもん。」

「そうはいかないよ。」

「琢磨くんのご両親は、そんな人じゃないよ。」

「何でそんなことわかるんだよ。裁判を実際に起こした人間じゃないか。史美を糾弾して、裁判でも起こされたらどうするんだよ。実際、金目当てに裁判沙汰にすることだってあるんだ。」


 結婚という自分たちの未来があるというのに、自ら藪を突くようなことをする史美が俊一には理解出来なかった。


「そんな風に言わないで!。」

「な、どうしたんだよ。」 

「大事な大事な子供が大怪我をしたのよ。障害が残って車椅子生活なんだよ。そのせいで夢も希望もいっぺんに失ったの・・・。」


 史美の迫力に俊一は言葉を失って黙り込む。


「それなのに・・・。それなのに学校側は謝罪もせず、一方的に子供に全てを押し付けたのよ。裁判だって子供を守るために、起こしたのよ。」

「だからって・・・。」

「琢磨くんは、やっと希望を掴んで前に進んでるの。だから、アタシは応援したい。力になってあげたいの。」

「でも、その子の両親が理解してくれるかどうか・・・。」

「アタシには、分かるの。ちゃんと話せば気持ちを分かってくれるって。篠塚だって、そう言ってくれたの。」


 史美は真っ直ぐで力強い目で俊一を見つめる。それは今まで見たことがない史美の姿だった。



※         ※          ※ 

     


 食事を終えた史美と俊一は、タクシーに乗り帰路についていた。史美と俊一は先程の気まずさから会話が無くなっていた。

 隣に座る史美を横目で見ると、しきりに携帯電話のLINEをチェックしていた。俊一に気付かれないようにしているつもりなのか、時折外の景色を見ているフリをしている。手を繋ぎ寄り添ってはいるが、互いの心の距離がとても遠く感じる俊一だった。


「史美。」

「ん?」

「愛してるよ。」

「・・・ありがとう。」


 そう言って史美は軽く微笑んだ。そして、また窓の外を眺めている。その言葉は俊一の心に衝撃を与えた。


“ ありがとう ”


 それは俊一が期待していた言葉ではなかった。涙が込み上げてくるのを、俊一は唇を噛んでグッと堪えた。


“ 史美・・・。”


 顔は前を向いているが、心で何度も史美の名前を呼んでいた。念じるように何度も呟く。しかし、史美の家に着くまで2人の間に会話はなかった。



※         ※          ※ 

    


 先日の一件以来、沙帆は秀輝の部屋を度々訪れていた。沙帆は甲斐甲斐しく、秀輝の身の回りの世話をしている。沙帆の看病もあってか、秀輝は食欲も回復し元気を取り戻していた。しかし、気持ちは未だ回復はせず、仕事を5日間休んでいだ。


「ねぇ・・・今日は何食べたい?」


 大切な人のために過ごす時間は、沙帆にとって何事にも代え難い幸せな時間だった。しかし、どんなに明るく振る舞っても秀輝の顔は笑顔にならなかった。


「ヒデ君。」

「ん?」

「怒らないでね。」

「うん。」

「田原さんのこと、考えているの?」

「いや、そんなこと・・・。」


 見え見えの嘘が沙帆には分かってしまう。


「田原さんは、婚約したのよ。いつまでもヒデ君が想っていても、何もならないのよ。」


 婚約という言葉に衝撃を受け、一時は絶望的な気持ちになっていた。しかし、元々史美と付き合えるなどと思ってはいないのだ。史美と自分とでは、見た目も中身もあまりに違い過ぎる。自分のような男が側にいるのは、史美にとっても迷惑なはずなのだ。

 それなのに、婚約という言葉だけで自分の道を見失いそうになっていた。俊一は大手企業に勤める将来有望のエリート社員だし、必ず史美のことを幸せにしてくれるはずだ。

 俊一と結婚すれば今まで通りに会えなくなるかも知れない。でも、それなら今までとは違う方法で史美を見守ればいいのだ。秀輝は、やっとそれに気づいたのだった。


「沙帆ちゃん、ゴメンね。この数日間、見っともない姿を見せちゃって・・・。」

「何言ってんの。アタシは嬉しかったよ。ヒデ君が、アタシにも弱いところを見せてくれたから。」

「ゴメン。」

「ヒデ君・・・。」

「でも、田原のことは諦めるとか、そういう問題じゃないんだ。」

「どういうこと?」


 秀輝は黙っていた。沙帆も何故、秀輝が黙っているか分かっていた。


“ 史美以外の人は愛せない。“


 秀輝はそう言いたかったのだ。言葉に出さなくても気持ちを察してくれと、その目が悲しそうに語っていた。


「・・・ヒデ君。」

「ゴメン。」


 秀輝の目にうっすらと涙が浮かんでいた。

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