第6話 心の奥
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翌朝、史美は琢磨がリハビリテーションに通っている病院に来ていた。当時副担任だった史美は琢磨の両親に顔を知られている。2人を刺激しないように、陰からこっそりとリハビリの様子を見守っていた。
琢磨は歩行訓練用の平行棒につかまり、必死になってリハビリに取り組んでいる。踏ん張る足に力が伝わらないのか、何度も何度も
“ 頑張って!”
側に行って声を掛けたい気持ちを史美は必死に抑えた。完全に歩けるようになるまで、まだ何年もかかるかも知れない。でも、琢磨の人生はこれからなのだ。
“ 頑張れば、必ず歩けるようになるから・・・。”
沢山の願いを琢磨の背中に込めて、史美はリハビリルームを後にした。
玄関ロビーを抜け外に出ると、不意に後ろから声を掛けられる。驚いて振り返ると、秀輝がそこに立っていた。
「琢磨君、頑張っていたろ?」
「どうしたの?」
「この間、お前の様子が少し変だったから。琢磨君に何かあったんじゃないかと思ってさ。」
勘違いをしている秀輝だったが、本気で自分や琢磨の事を、心配してくれている事が嬉しかった。表情が自然とほころんで、気持ちも穏やかになる。
「琢磨君、特に変わった様子はなかったぜ。」
「見て来たの?」
「おう。お前よりも先に着いたからよ。」
秀輝は史美の付き添いではなく、個人的にも琢磨のことを応援していたのだ。相変わらず可愛げのない言い方だが、史美はとてつもなく嬉しく感じていた。
「俺は琢磨君の御両親に面が割れてねーからな。琢磨君の様子は近くで見れたぜ。」
「少しずつだけど、歩けるようになったよね。」
「あぁ、お前の喜ぶ顔が観たいんだろうな。スッゴイ頑張っていたぜ。」
「うん。」
秀輝は、微笑む史美を見て安心している。
「ねぇ、そのためにだけ来たの?」
「ん?」
史美に核心を突かれた秀輝は慌てて言い繕う。
「べ・・・別にそれだけじゃねーよ。たまたま近くを通ったからよ・・・。」
白々しさ丸出しの秀輝が可笑しくて、史美は堪え切れなくなり笑い出してしまう。
「アンタも暇なのね。」
「うるせーな。」
「ヒ・マ・ジ・ン。」
史美は秀輝の耳元に小声で囁いた。
「ハイハイ。どうせ、俺っちは暇ですよ。」
「彼女、いないもんね~。」
一瞬、沙帆の事が頭に過る。
しかし今、目の前にいる秀輝は、先日の深刻な表情を浮かべた秀輝ではなかった。
「ねぇ、お腹空いたんですけど・・・。」
「ハイハイ・・・。」
「ラーメン食べたい。」
「よく食うよ、お前は。」
「うん。」
史美は弾むように秀輝の車に乗り込んで行った。秀輝には、この史美の笑顔が全ての活力の源だ。この笑顔のためなら、どんなことでも出来ると心に強く思っていた。
※ ※
眞江に招集をかけられて、和明と尊はバー「ホワイトデー」に集まった。店内は仕事帰りのサラリーマンやOLで賑わっている。マスターの牧野が注文の酒を運んで来る。配り終わってカウンターに戻ろうとする牧野を眞江が呼び止める。
「マスター。今日って、田原来ないんだよね?」
「断言は出来ないけど、今日は寄れないからって本人から連絡あったよ。」
「そう。ならいいんだけど。」
「眞江ちゃんたちが来ていることは言わなかったよ。」
「それでいいの!」
「篠塚君と一緒らしいよ・・・。」
史美と秀輝が一緒なのは眞江たちにも都合が良かった。
「何、秘密会議?」
「マスター。」
調子に乗ってふざける牧野に、眞江が不快感を前面に押し出す。
「嘘、嘘。ごめん、ごめん。」
牧野がカウンターに戻ったのを確認し、尊が眞江に集めた理由を訊ねる。
「何だよ、話したいことって・・・。」
「うん。実はね。この間、沙帆ちゃんに誘われて一緒に食事をしたの。」
「篠塚も一緒か?」
「ううん、2人で・・・。」
「何かあったのか?」
「あったから俺達を呼んだんだろ。」
分かり切った質問をする和明に、尊が苛立ち“ 察しろ ”と目で訴える。
「尊。大丈夫だから・・・。」
眞江が尊を宥めるように言う。
「田原と篠塚に関係する話なんだろ・・・。」
声もなく眞江が頷いた。
「沙帆ちゃん。篠塚の事が好きだって・・・。」
和明と尊が互いに目を合わせる。眞江は困惑しているようで、深いため息が漏れる。3人とも言葉が出ない。
「あの子・・・。篠塚に何かしそうで・・・。」
「何かって?」
尊は、眞江の感じている不安を聞き出そうする。
「例えば・・・。告白でもするんじゃないかって・・・。」
「いいじゃないか。これで篠塚も田原の事を忘れられんだろ。」
沈黙していた和明が喋り出す。
「アンタ、本気で言ってんの?」
眞江が安易に結論を出そうとする和明を睨みつけた。
「だってよ、田原は結婚するんだぜ。どうにもならないだろ。」
「随分、薄情な物言いだよね。」
「じゃ、何か。田原が結婚しても諦めんな。いつまでも思い続けろって言うのか。それよりも篠塚を慕ってくれるいい子がいるなら、勧めるのが本当じゃないのか。」
和明に詰め寄られ眞江は黙ってしまう。和明の言うことは分かっているし、間違っていないと思う。しかし、理屈で推し量ることが出来ないのが人の心だ。
「沙帆ちゃんがどうであろうと、篠塚には何も響かないよ。」
2人のやり取りを黙って聞いていた尊が静かに口を開いた。どうしてそんな事を言うのだと和明は尊を見つめている。
「あいつは、もう決めているんだよ。これから先も、ずっと田原の事を・・・。」
報われない思いを注いだところで何になると、今まで繰り返し秀輝に言ってきた。
しかし、秀輝は決まってこう言っていた。
“ 田原が幸せなら、それでいい。”
「俺たちがしてやれることは、決まってんだよ。」
尊の言わんとしている事は分かっている。しかし、それでも眞江は秀輝の想いが報われて欲しいと願っている。
「俺たちは今まで通り、黙って見守るしかないんだ。」
眞江は俯いたまま沈黙している。和明も暫く俯いていたが、目の前のグラスを掴んで酒を一気に飲み干した。
「青春だね~。」
酒をトレーに乗せて、牧野が眞江たちのテーブルに運んで来る。
「ごめん。耳、ダンボにしていたから、よ~く聞こえちゃってさ。」
「マスター・・・。」
眞江が困った顔で牧野を見つめた。
「ねぇ、恋っていう字はさ。心が下にあるから下心があるっていうじゃんか。」
「あ、成程・・・。」
和明一人が、牧野の
「一方 “ 愛 ” という字は、心が真ん中にあるから真心だっていうんだよ。」
「マスター・・・。それってサザンの曲の歌詞でしょ。」
眞江は呆れて苦笑いをする。
「あ、バレた?・・・。」
「なんだ、何かの格言かと思った。」
感心していた和明が残念そうに天を仰いだ。
「でもさ・・・篠塚君の史美ちゃんへの気持ちって、正に“ 愛 ”だと思わない?」
牧野の言葉に、眞江たちは顔を見合わせ揃って頷いた。
「あ、お客さん帰るみたいだから・・・。」
牧野は常連の客が帰るのを見つけ、眞江たちに手刀を切って去って行く。
眞江は牧野の背中を見ながら、秀輝の真心が史美へ届けばいいと心から願った。そして、そこまで想われている史美が、本当に羨ましいと思ったのだった。
“ 田原・・・。アンタ、本当に気付かないの?”
※ ※
史美は秀輝と食事を済ませ、横浜市内をドライブした後、家に帰宅した。自分を励まそうと見え見えの秀輝だったが、史美にはそれが嬉しくて堪らなかった。
秀輝を見送った後、梅雨の到来を知らせるかのように、空からポツリポツリと雨が降って来る。雨音は部屋の中からでもノイズ音のように聞こえてくる。
沙帆との事は、秀輝と一緒にいた事でモヤモヤした気持ちは晴れていた。空模様とは対照的に、史美は少し晴れ晴れした気持ちでベッドに倒れこんだ。
「あ~疲れた・・・。」
ベッドに横たわり “ 今日は、このまま寝よう ”そう思ったが、ふとテーブルに置いてある携帯電話が気になり何度も視線を移動させる。
史美は寝る前に、秀輝に礼でも言っておこうと携帯電話に手を伸ばした。すると、いきなり呼び出し音が鳴り、史美は携帯電話を手に取る。
「あ、俊ちゃん?」
電話の相手は俊一だった。
「うん、わかった。すぐ行く。」
夜遅い時間ではあったが、近くの公園にいるというので支度を整え家から出て行った。
※ ※
公園の側に俊一の車が停めてあり、史美はそれに乗り込んだ。雨脚は急に強くなり、車の屋根に激しく打ち付けていた。俊一は、いつもより元気がないように見える。
「どうしたの?急に・・・。」
俊一は、どこか思いつめたような顔をしている。
「・・・どうかした?」
あっけらかんとしている史美の様子に、俊一は唖然としてしまう。最近、考え事が多く何かに思い悩んでいるような史美を心配していたのだ。そして、まだプロポーズの返事は貰っていなかった。俊一は、ここ数日の間プロポーズの返事や結婚の事を真剣に考えていた。秀輝を呼び出し史美の様子を聞いたりもしていた。
「どうかした?って・・・。」
“ どうかした?”という史美の言葉に、俊一は思わず固まってしまう。
「な~に?」
史美は動きが止まっている俊一の顔を覗き込む。甘えるように顔を近づけてきても、俊一は表情を崩すことはなかった。
「何って・・・。プロポーズの返事、それから俺たちの結婚のことに決まっているだろ。」
「あぁ!・・・。」
忘れていたわけではないが、秀輝と沙帆の一件があって気を取られていたのだ。
「返事・・・聞きたいと思ってさ。」
「うん。」
「結婚のこと、オーケーかな?」
「ん・・・うん。」
「何、それ?」
「式とかって、いつ頃するか、もう決めているの?」
史美の脳裏に秀輝や仲間たちの事が浮かんだ。
「出来れば、なるべく早く挙げたいな。」
「えっ?」
挙式を急ぐ俊一に、史美は戸惑いを隠せなかった。
「仕事の事もあるし・・・。そんなに早くは、ちょっと・・・。」
「じゃあ史美は、いつくらいにしようと考えているんだ?」
「いつくらいって。そんなこと急に言われても・・・。」
「急に?」
意外なセリフに俊一は言葉を繰り返してしまう。
「だって、今日いきなり会って・・・。」
「いきなりってそれ、どういうことだよ。」
語気を強めた俊一の言葉に史美は黙り込んでしまう。確かにプロポーズされてから、かなりの日数が経っていた。その間に返事はいつでも出来たし、具体的な予定も考えられた筈なのだ。
「じゃあ、いつしようって思っているんだよ!」
突き刺さすような俊一の視線が、史美に向けられる。
明確な返事が返せず、史美は沈黙してしまう。そんな史美の様子に、俊一は苛立ちを募らせる。
「なんで黙っているんだよ。」
史美自身も言葉が出てこない理由が分からなかった。
「俺と結婚する気あるのかよ!」
はっきりしない史美の態度に俊一は声を荒げてしまう。史美は俊一の声の大きさに驚いて体を強張らせる。
「史美、この間のバーベキューからおかしいぞ。」
「バーベキュー?」
「自覚ないのか?」
史美は沙帆との事で、楽しめなかったバーベキューを思い返す。
「篠塚君と沙帆ちゃんの事、何がそんなに気になるんだ?」
「別に気にしてなんか・・・。」
史美の言葉を遮るように俊一は声高に叫んだ。
「気にしてるじゃないか!」
史美は俊一の迫力に圧倒され、思わずたじろいでしまう。
「俺のことなんか、全然頭にないって感じだし・・・。」
「そんなこと・・・。」
興奮している俊一は、史美に弁明の余地を与えない。
「わかってるよ。篠塚君と史美は親友だって言うんだろ。でも、おかしいよ。なんで沙帆ちゃんと篠塚君のことで、そんなにムキになって考えるんだよ。篠塚君があの子とどうなろうが、史美には関係ないだろ。」
「関係ない?」
“ 関係ない ”という俊一の言葉が史美の心の
「関係ないわけないでしょ。篠塚は親友だもん。付き合う女の子が、篠塚に合っているかどうか心配するのは当たり前でしょ!」
「当り前じゃないさ!史美と篠塚君は、親友かも知れないが、その前に男と女なんだぞ。」
男と女という俊一の言葉に、史美は再び閉口してしまう。
「沙帆ちゃんは、篠塚君が好きなんだ。だったら親友の史美が、応援するのが本当じゃないのか?」
俊一に返す言葉が史美にはなかった。
「史美、どうしちゃったんだよ。結婚したくないんだったら、ちゃんとはっきり言ってくれよ。俺はさ、正直言って返事はすぐくれるものだと思っていたよ。考える時間も必要だと思ったから返事を待った。でも、それから結構経つのに電話すらないじゃないか。俺はプロポーズしたんだぜ?ちゃんと真剣に考えてくれよ!」
「・・・考えてるよ。」
「どうかした?ってなんだよ。そんな言い方ないだろ?」
「・・・ゴメン。」
史美が肩を落としまま呟いた。
俊一は史美をしばらく無言で見つめている。
「俺は、そんなに長くは待てないよ。」
俊一はそう一言言い残し、史美を置いて車で走り去って行った。
史美は打ち付ける雨の中、暫く俯いたまま呆然として立ちすくんでいた。
※ ※
部屋で秀輝は、パソコンに向かって必死に執筆していた。
時計に目をやると日付が変わっていた。
史美と会っていたことが活力になっていたのか、執筆作業は驚くほど順調に進んだ。
「もう2時か・・・。さあてと、そろそろ寝るか。」
雨脚が強くなっていたことに、気付かないほど秀輝は執筆に集中していた。凝り固まった体をほくすように背伸びする。
突然、インターホンが鳴る。秀輝の脳裏に、先日の沙帆との出来事が蘇った。
“ まさか、また沙帆ちゃん・・・。”
部屋の照明は点いているし、居留守を決め込むことは出来ない。沙帆の気持ちを思い遣ると胸が痛む。締め付けられるような思いのまま秀輝はドアを開けた。
立っていたのは史美だった。
「どうした?・・・。」
傘もささずに歩いてきたらしく、雨で頭からずぶ濡れだった。瞳には薄っすらと光るものが見えたが、表情は唇を噛みしめ涙がこぼれるのを必死に堪えていた。秀輝の言葉にも無反応な史美は、立ったまま一歩も動かない。
「何してんだよ、風邪ひくぞ。入れよ。」
秀輝は史美の手を取り、部屋へ入れた。箪笥から史美の着替えにトレーナーとタオルを出した。
「頭をよく拭いて、早くこれに着替えろ。」
案内されるまま部屋に上がった史美は、渡されたトレーナーを手に脱衣所で着替える。鏡に映る自分が何かを言いたそうで史美は目を背けた。
「おい、着替えたか?」
「・・・うん。」
秀輝に促され史美はベッドの上に座る。秀輝は、湯呑茶わんにお茶を注ぎ史美に手渡した。
「ビールがいい。」
「アホ。風邪引いたら、どうすんだ。」
史美は手渡された熱々のお茶を飲んで、ホッと一息つく。秀輝は淹れたお茶を飲みながら、史美と向かい合わせになって座る。
「なんて顔してんだお前は・・・。」
秀輝はそう言いながら優しく微笑んだ
「何があったか聞かないの?」
「ん?・・・。うん。」
秀輝の優しい声は、張り詰めていた史美の心を柔らかく解してくれた。
「話したくなったら、ゆっくり話せばいいさ。」
涙が自然と溢れて、史美は秀輝の前でひとしきり泣いた。秀輝の前だと素直に泣いてしまう悔しい気持ちと、あとはよく分からない悲しい気持ちが混ざり合っていた。
泣くだけ泣いたら気持ちはスッキリとして、史美は落ち着きを取り戻した。数時間前の俊一との顛末を、何度も振り返りながら話し始める。但し、秀輝と沙帆の事は、何も話さなかった。秀輝は、史美の話を最後まで黙って聞いていた。
話し終えた後、秀輝は暫く考えていた。史美も秀輝の言葉をじっと待った。
「大丈夫だよ。」
それは秀輝が史美に必ず言う言葉である。何か特別な保証があるわけでもないのに、この言葉を聞くと史美は何故だが落ち着くことが出来た。
秀輝は、史美の湯呑茶わんに再びお茶を注いだ。
「すぐに佐古さんから “ ごめんね ”って電話が来るから。」
秀輝がにっこり笑って話す。その笑顔につられて史美も自然と表情が緩む。
「うん。」
いつも秀輝は、重く沈んだ史美の気持ちを優しく
雨は、いつの間にか止んでいた。
外は夜が明け始めたのか明るくなっていた。
雲が晴れたのかカーテンの隙間から夜明けの光が、一筋の線となって差し込んでくる。
カーテンの色も、次第に黄金色に染まっていく。
「もう朝かぁ・・・。」
「ウソ?もうそんな時間?」
史美が驚いてカーテンを開けると、小高い丘の稜線から朝日が昇ろうとしていた。
「お前、今日は学校休んだほうがいいな。」
「えっ?ヤダよ、こんな事ぐらいで・・・。」
「ふざけんな。」
秀輝が真剣な顔つきで、怒ったように言う。
「教師という仕事を舐めるな。睡眠っていうのはな、人間にとって一番大事な行為なんだよ。そんな不眠状態で満足な仕事が出来るのか。第一まともな精神状態じゃないだろが・・・。お前が受け持っているのは、赤ちゃんに毛が生えたような一年生だっていう事を忘れんな。1秒だって目が離せない、気を抜くことだって絶対許されない時期だ。お前が居眠りこいてる間に、子供たちに何かあったらどうするんだ。親はな、お前を信頼して子供を預けてんだぞ。」
秀輝の言う通りだ。教師という仕事は、生半可な気持ちでは務まらない。学校では子供たちの命を預かっているのだ。史美は秀輝の言う通り黙って頷いた。
「よし。」
「アンタは、どうするの?」
自分で押し掛けておいて何を言っているのだろう。史美は自分のために一睡もしていない秀輝が心配になった。
「寝ていないじゃない。会社大丈夫?」
「う~ん、俺も休んじゃおうかな。」
「えっ・・・。」
“人には仕事を舐めるなって言っておいて・・・。”
秀輝はたまに一瞬、カチンとくるような物言いをする。しかし、それはやはり全て史美のためだという事がすぐ分かる。
「今日は、ずっと田原の側にいるよ。」
ホッとして安心する気持ちを抑えて、史美は秀輝の思いやりを断る。
「いいよ、大丈夫だよ。」
「お前の大丈夫は、大丈夫じゃないってことだろうが・・・。」
眉間にしわを寄せながら言う秀輝だが、直ぐに優しい声に変わり笑顔になる。
「俺の事なんか気にしなくていいから・・・。」
「ごめん。」
そんな秀輝の笑顔が優し過ぎて、史美はまた涙が溢れ出そうになる。
「ま、俺はお前の親友だからよ。とことん付き合ってやるさ!」
秀輝はワザとおどけて、泣きそうな史美の頬を指で突く。
「たまには、いいじゃねーか。」
「会社に何て言って休むのよ。」
「熱が出て気分が悪いんです~とか、何とか言ってりゃ・・・どうにでもなるさ。。」
そう言うと秀輝はゲラゲラと笑い出す。何が面白いわけでもないが、いつもつられて笑ってしまう。
「おいおいっ。電話しているとき、側でそうやって馬鹿笑いすんなよ。」
秀輝は人差し指を口の前に立てる。
「やだよ!」
史美は秀輝にペロッと舌を出して、からかうように部屋から逃げる。史美と秀輝は狭い部屋の中を、鬼ごっこでもやるように駆け回る。
「だからそうやって騒ぐなって言ってんだよ。」
「わかった、わかった!」
史美は秀輝に捕まり降参のポーズをする。狭い部屋の中を駆け回るのは、予想以上に疲れる事だった。
「もう、朝から信じられない。」
史美を元気付けようとする、秀輝の白々しさも見え見えでよくわかっている。でも、その白々しさに、いつも助けられていた。
バカバカしくワザとらしい秀輝だが、その真剣さが史美には可笑しい。騒いだせいなのか、空腹感でその場に座り込む。
「あーっお腹減った。」
※ ※
本牧にある本牧山頂公園に、秀輝は史美を連れて来ていた。そこは山というより小高い丘の上にあって、磯子の工業地帯を一望できる場所だった。
「気持ちいいねぇ。」
雨上がりは、空気も草も木も何もかもが瑞々しい。
「そうだろ・・・ここは地域の人しか知らないから、観光客もいないしな。」
秀輝は芝生の上にゴロッと寝転んだ。
「冷てぇ!」
「晴れたからって、乾くにはまだ早いよ。」
雨で湿っている芝に寝転んで、秀輝の背中と尻が濡れていた。
史美は石で出来た椅子の上に乗って、遠くの景色を眺める。数台設置されている貨物用クレーンが、まるで恐竜が首をもたげているように見える。
「いい眺め・・・。港の風景もいいけど、こういうのもいいねぇ。」
「夜なんかもっといいぞ。工業地帯のライトが、まるで星のようキラキラして・・・。」
「今度、夜連れてってよ。」
「ん、うん。」
俊一と行くと言い出すと思っていた秀輝は、思いもよらぬ返事がきて一瞬戸惑ってしまう。当の本人は、戸惑う秀輝の事も知らずにはしゃいでいる。
はしゃいでいた史美が、突然振り返って真顔で秀輝をじっと見つめている。
「何だよ、どうした?」
史美は秀輝の横に肩を並べて立つ。
「そういえば、ズル休みしているんだなぁ…と思ってさ。」
「お前も典型的な日本人だなぁ・・・。」
「だって・・・。」
「教師だって人間じゃねーか。調子いい時もあれば、その逆もある。心も体も休めるって決めたんだから、今日は割り切って休暇を楽しむんだよ。」
「そうだけど・・・。」
眼下に広がる風景を見ながら、頭の中にクラスの子供たちの顔が浮かんでいた。
“ みんな、ごめんね・・・。”
「大丈夫だよ。」
「うん。」
口癖になっている秀輝の言葉が、史美の心を陽だまりのように暖かくしてくれる。
史美は秀輝の肩に寄りかかり、晴れ渡る空を仰いだ。空いっぱいの青と滲んでいるような雲の美しさに、深く感動をして溜め息が出る。
「ねぇ・・・。」
「ん?」
「アタシ。俊ちゃんとの結婚に何で返事が出来ないか、自分でも分からないんだ。」
「うん。」
「プロポーズされて本当に嬉しかったの。でも・・・。」
秀輝は隣で相槌だけ打っている。
「俊ちゃんと結婚したら、他の何かとても大切なものを失っちゃうような気がして・・・。」
「うん。」
「それが怖くて自然と避けていたのかも・・・。」
「そうか・・・。」
「だから返事が出来なかった・・・。」
「そうか・・・。」
「うん。」
怖いと言った史美だが、秀輝といる今は何故か落ち着いていた。陽の光が暖かく海からの風も心地いい。
「田原・・・。」
「なぁに?」
「今日はもう、余計なことは考えんな。頭と心をゆっくり休ませて楽になれよ。」
「・・・わかった。」
そよ吹く風が心地よく、史美は秀輝の隣で目を閉じた。
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