11-6

【前回のあらすじ】

特区内企業の参戦により、さらに追いつめられる27番地。

苦戦を強いられる中、ニコラスのもとにハウンドの親友フォーから電話がかかってくる。


一方、USSA長官フォレスターは軍の掌握に成功し、米陸海空軍の協力を取り付けてしまう。


対して、捕らえられモリガンによる強化尋問を受けていたハウンドは、衰弱しているとは思えぬ気迫でモリガンを圧倒する。

気圧された屈辱に打ち震えるモリガン。そんな彼女のもとに、ハウンドの親友フォーが現れ、取引を持ちかけてくる――。




【登場人物】

●ニコラス:主人公


●ハウンド:ヒロイン


●店長:カフェ『BROWNIE』の店長、ニコラスとハウンドの上司


●クロード:27番地商業組合長、禿げ頭と野球帽で隠した愛すべきおっさん


●フォー:ターチィ一家妓女ナンバー・フォー。現在のランクはナンバー・スリーだが、ターチィ一家当主誘拐による混乱により、便宜上フォーを名乗っている。


●モリガン:USSA極秘武装組織『トゥアハデ』の”銘あり”。ターチィ一家妓女ナンバー・ワンに扮して一家を混乱に陥れる。純粋無垢で残忍な性格。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






 特区内企業による攻勢が始まって二週間。


 その日も地上、27番地内の国境付近にて、トゥアハデ兵による地下水道への入口探索がおこなわれていた。


「どうだ?」


 地中レーダー探査を行う兵の一団に、小隊長が声をかける。兵は首を振った。


「駄目です。空洞があるのは確かですが、それが健在な地下水道なのか、あの爆破で偶然できた空間なのか判別がつきません。この付近一帯の通信妨害のせいか、これ以上精度も上げられず……」


「27番地の鼠どもを勢いづかせんためにも、通信妨害を解くわけにはいかん。かといって瓦礫を除去しようにも、正解かどうか分からんうえ、迂闊に手を出せば崩落に巻き込まれる危険性がある、か。つくづく面倒なことをしてくれたもんだ」


「まったくです。このまま探索を続けますか?」


「いいや、空からの監視に切り替える。時間の無駄だ」


 小隊長は、すぐ真横に積みあがった壁のごとき瓦礫の山脈を見上げた。鼠どもの自爆攻撃でできた、自然のバリケードである。


 いつどの方向へ崩れてもおかしくない。このバリケード超えだけで数日かかった。


 幸い、特区内企業が参戦したことで、トゥアハデは探索に専念できている。が、この調子では入口の特定だけで数か月はかかる。

 しかも特定したところで、入口には鼠どもが待ち構えているのだ。


「連中は地下水道の入口を巧妙に隠している。入口を建物で隠し、地上へ出てくる際も、すぐ外に飛び出さず、建物内をある程度移動してから展開する。

 だがその出現範囲もある程度絞られてきている。それをもとに捜索範囲を特定しなおし、探索を再開する。

 そもそも時間をかければかけるだけ、こちらが有利になる戦いだ。危険を冒して探索を続ける意味はない」


「了解しました」


 億劫そうに撤収準備を始める部下たちの傍ら、小隊長は溜息をついた。


 その溜息を、見つめる目があった。




 ***




 捜索中だったトゥアハデ兵から、瓦礫を挟んで約30メートル。


 岩々の隙間に潜ませていた監視カメラ映像を注視しつつ、


「……行った?」


「行ったな。警報解除」


「了解! おーい、もう大丈夫だよー!」


 情報班班長の指示を聞くなり、ルカが叫んだ。


 息をひそめていた全員が安堵の息を吐く。

 店長も強張っていた肩を下ろした。


 警戒が完全に解除され、中断されていた食事があちこちで再開される。

 地下に設置したいくつもの前線基地の一つ。ほぼ枯れつつある水路の上に板を渡しただけの狭い即席テラスの食堂に、活気が戻ってくる。


 もっとも、この三週間の籠城戦で食糧事情もだいぶ乏しくなり、今日の昼食はクラッカーにピーナッツバター、肉が入っていればラッキーの水っぽいシチューだ。


 それでも店長は、温かい食事を出すことを死守していた。

 食事は士気に直結する。圧倒的劣勢な戦況に、鬱屈した地下の生活。それらを強いられる皆の負担を、少しでも和らげたかった。


 戦闘に参加できない自分にとっては、それが戦いだった。


 店長は今しがた一仕事終えた情報班の面々に差し入れのコーヒーとチョコレートを持っていった。

 デザートを食べられるのは戦闘員の特権だった。


 貴重な甘いものの登場に班長の目が輝く。

 だが「上手くいったようだね」と声をかけると、すぐに顔を引き締めた。


「いいや。見逃してもらったってのが正解ですね。長期戦になれば自然と敵が不利になるってんなら、無理して突っ込む理由もない。

 敵の通信妨害に応じてこちらも電波妨害機ジャマ―を設置したから、見つかるかる可能性は低いと思うが、その分、俺たちも通信の使用範囲を制限されてる。損得でいえばトントンですね」


「となると、地上への展開時のルートを新しく開拓しておいた方がよさそうだね。ニコラスには?」


「もう伝えてありますよ。というか彼、このことも想定済みで、新ルートもすぐ通達してきました。大したもんですよ。今日も“散歩”してるみたいだし。ハウンドといい、勤勉でほんと似た者同士だよ」


 班長の返答に、店長は困った笑みを浮かべた。


 “散歩”とは文字通りの意味で、今回の自爆攻撃の被害を免れたビル等の高所を、ニコラスが巡回する行為である。


 ニコラスは街全体の観測に加え、狙撃ポイントの確認のため、こうした残業をたびたびしていた。ここ最近はほぼ毎日だ。


「うちの雇用条件に『ワーカーホリックであること』なんて書いた覚えはないんだけどね」


「ははは。そりゃそうだ。ま、心配せんでください。俺らもほどほどにしておけって口酸っぱくして言ってますから」


 そこまで言って、班長は急に渋面をつくった。コーヒーが苦かったのかと思いきや、そうではない。

 視線の先には、先ほどの監視所でなにやらこそこそ動く三つの人影があった。


「おい、さっきも言ったが追跡するんじゃないぞ」


 影たちがびくりと肩を跳ねさせ、顔を上げる。

 人影の正体は、ルカとジャックとウィルの三人だった。


 ルカは少年団のリーダーとしての機転と判断力を、ジャック・ウィルはその技術力から、後方支援要員として戦闘員に同行することが特別に許可されていた。


「通信妨害でドローンの移動範囲も狭まってる。見つかれば、こっちの拠点が近くにあるって教えるようなもんだ。余計なことすんな」


 班長の気持ちは大いに分かるが、少し発言内容がまずかった。

 この手のおませな少年に「余計なことをするな」は逆効果である。


 案の定、ジャックとウィルが真っ先に噛みついてきた。

 技術力があり、かつシバルバの一件をニコラスらと共に乗り越えた自信があるのだ。


「余計なことってなんだよ。敵を追跡して情報が得られれば、なにか反撃のチャンスが生まれるかもしれないだろ」


「……ここからならバリケードにも近い。敵がバリケードにつくった道も」


「二人の言う通りですよ。地下水路が塞がれてる今、敵はバリケードを乗り越えて街に侵入している。他の敵もです。

 バリケード上の“登山道”に爆弾か地雷でも仕込めば、敵の攻勢を妨害できますし、皆も楽できます」


 ルカまで便乗してきた。三人とも至極真剣である。


 けれど班長とて、子供のすることだからと侮ったわけではない。


「お前らの案は確かに有効だよ。けどな、そのお前らでも思いつく案を、ウェッブは取ってない。なんでだと思う? 

 敵もそのことを一番警戒してるからだよ。バリケード上の道は、この街に通ずる陸上唯一の侵入経路だ。死守するに決まってんだろ。そんなところに爆薬やら地雷やら積んだドローンがのこのこ出てきたらどうなると思う? 

 第一その爆薬を誰が設置するんだ。危険な地上に少数で出て、敵がわんさかいるバリケードに近づいて、気づかれずに設置する自信があるのか?」


 理路整然と反論されて、少年トリオは黙りこくる。班長は頭を掻いた。


「ジャック、ルカ、ターチィ領内の再探索は」


「二等区までなら完了したけど……」


「一等区はまだかな。前より監視の目が増えててなかなか侵入できない。今、どう侵入するか考えてるとこ」


「そうか。ウィル、例の自動飛行プログラムの進捗は?」


「……六割がた完了。けど、これで本当にいいの? ドローン、貴重なんでしょ?」


「ウェッブも言ってたろ、そいつはあくまで保険だ。本当にどうしようもなくなった時のための最終手段だ。そんな状況になったらドローンの損耗がどうとか言ってられんさ」


 そこまで言って、班長は手を叩いた。


「心配しなくても、お前らはウェッブが直接頼むぐらいには頼りにされてる。大人しくしてほしいから適当な仕事投げたわけじゃないんだぞ。むしろこっちは16にもなってないガキにこんなこと頼んで、申し訳ないぐらいなんだ」


「それは……分かってるけど」


 ジャックがなおも食い下がる。

 分かっているが、分かりたくないという顔だ。彼らなりに、この状況を何とかしようと必死なのだ。


 店長は、班長の援護射撃に入ることにした。


「子ども扱いするなら、とっくの昔にここから逃がしてると思うよ。ほら、ご飯食べて、一息ついたらまた頑張ろう。特別任務が失敗したら大変だ」


 そう言って、昼食のトレーを差し出す。

 少年トリオは渋々受け取ったが、トレーにチョコレートとソフトキャンディを見つけるなり、ようやく留飲を下げてくれた。


 そんな少年らを見送って、班長が深く溜息をつく。


「逃がしたくても、逃がせなかったからこうなってるんですけどね」


「ああ。大人としては面目ない限りだが、猫の手も借りたい状況だ」


「どいつもこいつも働きすぎなんですよ」


「君もね。でも、皆じっとしてられないんだろ。最悪の予想が的中してしまったからね」


「あれからこっちの様子は? 俺はここ五日、前線にいたから、まだ観てないんですけど……」


 店長は返答代わりに背後を振り返って指さした。


 昼食中の商業組合長クロードに詰め寄る一団がいたのだ。


「おい、クロード。まだ略奪の許可は下りねえのか」


「ロバーチ方面はもぬけの殻だ。奪うなら今しかねえ」


「落ち着け、お前ら。気持ちはよく分かるが……」


 クロードに詰め寄る集団は、今にもリンチを始めそうな勢いである。

 あまりの勢いに何人か仲裁に入っているが、かえって雰囲気が険悪になってしまっている。


 その光景を一瞥して、店長は首を振る。


「ご覧の通りさ。動揺がかなり大きい」


「まあ、そうだよな……。合衆国安全保障局USSAも悪趣味なことしやがる」


 班長が低く舌打ちする。


 一昨日の夜、敵のドローンがUSBを運んできた。

 中にはハウンドが拷問される動画のデータが入っていた。


「水責めだった。君らのおかげで拷問ではなく、強化尋問レベルで済んでいるみたいだね」


「拷問と変わらねえよ。クソっ、こうなるって分かってても、やっぱ堪えるな」


「ああ。あそこの彼らにしても、怒りのエネルギーを敵ではなく、略奪に向けているからまだ冷静だよ。禁止されてるけどね。

 けどあのエネルギーが敵に向いてたら、飛び出してる連中が数人いたと思う。ここ数日トゥアハデ兵が探索に出向いているのも、それが狙いだろう」


「でしょうね。にしても、ウェッブはなんで略奪を禁じてるんだろうな。USSAや特区内企業の連中からかっぱらうのはOKなのに」


 班長がコーヒーを一口啜って顔をしかめる。熱かったらしい。


「五大マフィアを完全に敵に回したくないってのは分かるんですけど。でも連中、特区の全権をUSSAに売り渡したんでしょう? なら味方でもないでしょ。

 時間が経てばこっちについてくれるって見込みもなし。ちょいと領地から物資かっぱらうぐらい、見逃してくれないもんですかね」


「……迷ってる、んだろうね」


 そう呟くと、班長は首を捻った。


「五大が?」


「いいや。ニコラスがだよ。たぶんだけど、恐れてるんじゃないかな」


「恐れてる? なにを?」


「彼、現役時代に民間人暴行の濡れ衣を着せられただろう。本当は助けたのに」


「あー……」


 店長は俯き、手元のマグカップから立ち昇る糸筋を眺めた。


 ニコラスは自嘲的な男だ。偽善者の汚名をきせられ、それを恥じ悔いながら生きている。


 そんな彼にとって、USSAにより国家の敵として扱われ、攻撃されているこの状況は、過去のトラウマそのものだ。


「昔の自分とは違うということを示したいのかもしれないね。ともかく、これはあまりいい状況とは言えない。

 ニコラスがどういう意図で五大領からの略奪を禁止しているかはさておき、このままじゃ仲間割れが起きかねない」


「そうですね。ウェッブも今回の件にはだいぶ参ってるみたいだし、これ以上の負担はかけたくない。彼、今日の散歩中に映画みてたんですよ。この状況で映画ですよ?」


 やはりか。当然だろう。


――本当は、君が一番行かせたくなかったんだろうね……。


 ハウンドが囮になりに飛び出した時、自分は見送ったニコラスを詰ってしまった。

 本当は一番引き止めたかっただろうに。


「私からもフォローを入れておこう」


「頼みます。俺たちじゃ、あんま腹割って話してくれないんで。せめてここに、ケータがいればな……」


「地下水道もずいぶん潰れちゃったからね」


 もともと27番地の地下水道は、有事の際の拠点となるよう改築を重ねてきた。

 だが今回の自爆攻撃で半数以上が崩壊し、ケータたち遊撃隊がこの基地に来るにはいったん地上に出ないといけない。


 いわば27番地の戦力は、【街のあちこちに分断された状態で点在しており、地下で合流ができない】のである。


 この通信妨害が蔓延している状況でだ。


 防衛のたびわざわざ地上に出ているのも、入口に肉薄されるのを防ぐためというのもあるが、各部隊の情報交換のためという側面もある。


「戦闘の合間に、各部隊で地下水道の復旧作業もやってますけど、特区内企業の参戦で手が回らない。なんとか通信設備の復旧の方は維持してますけどね。それもイタチごっこだ。直した途端すぐ壊される」


「苦労をかけるね」


「それが俺らの仕事ですから。まあそれに。地下水道にしても、潰れたおかげで敵の攻撃を地上からに絞れてるわけだし、これもトントンですよ。これで他領の地下水道からも攻め込まれたら堪らない」


「そうだね。おや、もう行くのかい?」


「ああ。一息ならつけましたから。差し入れ美味しかったです。ありがとう、店長」


 そう言って、班長は足早に踵を返した。復旧作業にまた向かうつもりなのだろう。

 店長は「気を付けて」と名残惜しみながら見送った。


――ん?


 店長は足を止めた。自分の携帯が鳴っているのだ。


 位置的に地上に近いせいだろうか。それとも班長ら通信班の奮闘による賜物か。


 この時代に少々古臭いとは思うが、自分は携帯を基本持たない。


 有事用のものは持っているが、私物の携帯は亡き妻に頼まれて持っただけで、電話以外の機能はほとんど使っていない。

 その電話機能も、カフェ『BROWNIE』の転送先として使っているだけだ。


 つまり、この電話はカフェ『BROWNIE』にかけられたものである。


――これは……国外の番号?


 店長は見覚えのない番号に眉をひそめた。


 ローズ嬢ではない。

 彼女はニコラスの使い捨てプリペイド携帯の番号を教わっている。かけるならそちらだろう。


 代行屋への依頼の線もあるが、27番地の現状がこうも大々的に報道されてる状態で、依頼を頼もうなどという酔狂者はいないだろう。


 では、いったい誰からだろうか。




 ***




 店長が見知らぬ番号に首を捻っていた頃から、時を遡ること二週間前。


 フォーがニコラスと連絡を取ってから、三日後のこと。


「27番地との和平交渉、ねえ」


 気だるげに、かつやる気なさげにモリガンはそう呟いた。


 フォーは真顔をなんとか死守していた。

 この女と面会するだけで三日も振り回され、待たされた苛立ちもあるが、それ以上に女の変貌ぶりに震撼していた。


 ターチィ一家妓女ナンバー・ワンだった頃の清楚さや可憐さは見る影もない。

 女は化けるものとよく知っていたが、面の皮の下がこうも無垢な邪悪に満ちているなど、誰が予想しただろうか。


 怖い。得たいがしれない。何を考えているのか理解できない。


 それでも退くわけにはいかなかった。


――腹くくれ、フォー。頭も顔も足りてないくせに、気迫で競り負けてどうすんのよ。


 自分を𠮟咤激励しながら、フォーは「そうよ」と顎を反らしながら言った。


「あんたらもお察しの通り、27番地は完全に孤立してる。物資も底をつきかけてる。これ以上、籠城戦を続けられると困るのよ」


「それでなぜあなたが出てくるのかしら?」


「あたしが27番地の住民避難計画に一役買ってたのよ。特区廃止に備えてね。全部パーになったけど」


 まぎれもない事実ゆえ、フォーは堂々と言い放った。


 当初の予定では、27番地住民を少しずつシバルバ領内の港へ移動させ、フォーが用意した船に乗せてマレーシアをはじめ東南アジア諸国に分割して密入国させる手筈だった。


 以前ヘルハウンド自身も、東南アジアを介して日本へ密入国した経験があり、その時のツテを生かした計画だった。


「そういうわけで、非戦闘員だけでも見逃してもらえないか、その仲介役を頼まれたのよ。代わりにあんたらが欲しがってる情報の一部を提供するとも言ってる。

 なんなら地下水道の一部の位置情報も教えてやっていいって言ってるわ。あんたらだって、この戦争が長引いたら困るでしょ。世論もうるさくなってるし」


 ワンは「ふぅん」と髪の毛先をいじりながら、見向きもせずこう言った。


「つまりあなた、ニコラス・ウェッブによう頼まれたのね。自分からパシられにいくだなんて献身的じゃない」


 やはりバレてるか。


 フォーは冷や汗の滲む拳を背に隠しながら、あの男との会話を思い出していた。




『以上がベネデットからの情報だ』


「……ターチィうち以外も最悪の状態ね。ていうかあんた、よくここまで調べられたわね。あたしより知ってんじゃない」


『まあ、ちょっと過保護で物騒で偉そうな伝令が頑張ってくれてな』


「? よく分かんないけど、それであんた、これからどうする気なの?」


『あんたに頼みたいことがある』


 そう言うと思った。だから電話をかけたのだ。


 この男には借りがある。借りを返さぬままくたばってもらっては寝覚めも悪いし、自分の名も廃る。


「このあたしをコキ使おうって言うのね。言ってみなさいよ。何してほしいの?」


『USSAに和平交渉を持ちかけたい。その仲介役を頼みたい』


「和平交渉ぉ?」


 素っ頓狂な声を上げてしまったのは、当然の流れだった。


「え、今さら? なに、降伏でもする気なの?」


『いや、まったく』


「じゃあ住民の一部だけ逃がしたいとか」


『無理だな。USSAが見逃すはずがない。人質か、ハウンドの拷問材料に使われるのがオチだ』


「じゃあ何がしたいのよ。ここまで刃向っておいて今さら和平交渉だなんて、USSAむこうが承諾するとは思えないんだけど」


『単刀直入に言えば、こっちが何もしなくても、現状USSAから和平を持ちかけてくる可能性が高いんだ。だったらこちらのタイミングで仕掛けたい』


 そう言って、ニコラスは説明を始めた。


『戦争には一応作法ってもんがある。侵攻する前の宣戦布告とかだな。立場がデカくなるほど、そういうのを気にする必要がある。特に、民主国家は世論を無視しての強行突破はできない』


「もうちょっと噛み砕いて言ってくんない。政治とか難しい話は苦手なのよ」


『早い話、USSAはハウンドを悪者のまま排除したかったんだ。けどそれができない。俺たちがハウンドの出身が公表したせいで、世論の同情が集まってるからだ。

 USSAは今、ハウンドに手を出しにくくなってる。この状況で強引に彼女を倒そうとすれば、今度はUSSAが悪者になるからな』


「その悪者にならないような立ち回りとして、USSAから和平交渉を持ちかけてくる可能性があるってこと? それが自分のタイミングで仕掛けたいってのとどう繋がんの」


『くると分かってる状態で食らうパンチより、不意打ちで食らうパンチの方が腹立つだろ。そういうことだ』


「なるほど。よく分かったわ」


 非常に分かりやすい例えに納得していると、向こうで小さく笑う気配がした。


 フォーは両眉をもち上げた。


「意外と余裕そうじゃない」


『そうでもない。煮えくり返る腸をどうやって鎮めるかずっと考えてる。手が出しにくいとは言ったが、USSAがハウンドを丁重に扱うはずがないからな』


「……冷静になりなさいよ」


『分かってる。それともう一つ』


「なに」


『和平交渉で時間稼ぎをする間に、五大マフィアに伝えておきたいことがある。誰に伝えるかはあんたの判断に任せる。けど、あんたらにとっても悪い話じゃないはずだ』


 そう言って、ニコラスは一つの提案をしてきた――。




――確かに悪い話じゃない。特に、追いつめられてるうちと『特区の双璧』にとっては渡りに船だわ。


 問題は、どうやってUSSAこいつらの目を掻い潜るかだ。


 フォーは下半身に力を込めて、モリガンを睨みつけた。

 その視線を、羽虫が飛んでるなと言わんばかりのどうでもよさそうな顔で、モリガンはひじ掛けに頬杖をついた。


「勘違いしているようだから、一応もう一度言っておくわね。立場を弁えなさい。あなたたちはただ私たちの要求に従うだけなの。要求するなんてもってのほかだわ。

 大方、交渉で主導権を握りたかったから先に提案してきたんでしょうけど、どうして私たちが27番地虫けらの言い分を聞いてあげなくちゃいけないのかしら」


「その割には手をこまねいてるじゃない」


「遊んであげてるだけよ。だって私たちは待つだけでいいんですもの。何もしなくたって、ひもじくなれば勝手に穴から這い出てくるわ。害虫ってそういうものでしょう。水や殺虫剤を巣に流し込まないだけ慈悲深いと思わない?」


「なら世論はどうするの。あんたらの戦争をこの国は支持してないわ」


「どうとでもなるわ。USSAがなんの機関かもう忘れたのかしら。情報工作はこちらの十八番よ。素人の拙いネット投稿で太刀打ちできると思ってもらっては困るわ。だいたいあの小娘以外にも、特区にはあなたたちみたいな大きな虫がいるじゃない」


 悪者退治の候補者はいくらでもいるということか。


――駄目だ。勝てる気がしない。


 場数が違う。頭の出来が違う。唯一、勝算がありそうな度胸すら軽くあしらわれてしまう。

 こちらの虚勢を冷静に見透かして、容赦なく叩き潰してくる。


 勝てない相手には挑まず媚びへつらうのが自分の処世術だった。これまでは。


 フォーはいったん一呼吸いれ、腹をくくった。


「そう。だったら別をあたるわ」


「そうやって興味を引こうたって無駄よ。あっさり退いて好奇心を煽るのは妓女の常套手段、よく知ってるわ」


「あんたの揚げ足取りには興味ないのよ。でも一つだけ言っておくわ。


「へえ。何を?」


「知らないわよ。何かあったらご当主様にそう言えって言われただけ。それだけよ」


 途端、モリガンの顔色が変わった。

 微笑は消え、空恐ろしいほどの無表情で食い入るようにこちらを見つめてくる。


 かかった。


 フォーは生唾を飲み込んだ。


 マレーシアへの異動を命じた時、当主ヤン・ユーシンはこう言った。


『もし、我が一家に刃向う者が現れたら、こう言うといい。私はすべてを知っている、とな』


 だからその通りに言った。正真正銘、ただのはったりである。


 だが嘘をついても意味はない。この女は見抜いてくる。

 下手に取り繕っても、こぼれ出たボロから刃を突き入れ抉られるだけだ。


 当主が何を知っていたのかは知らない。だが一つだけ分かっていることがある。


 この女はどんな雑魚でも手を抜かないということだ。


――この女はあたしの勘の良さを警戒してた。だったら、万が一の可能性を必ず考えるはず。


 部下の能力に甘えてのし上がってきた。学もなければ、愛想もなく、腹芸もろくにできないからドSの毒舌家のキャラで押し通してきた。


 自分の武器は度胸と根性だけ。それでもこの戦い、退けない。退いてたまるか。


――あんたら、あたしのダチに手を出したのよ。


 強く若く美しい孤高の統治者、ヘルハウンド。突如現れ、圧倒的な武力と手腕で五大と対等に渡り合った特区の新星。

 頼りにしていたし、頼りにされて嬉しかった。年下だったが、憧れだった。


 敵わなかろうが、知ったことか。何が何でも食らいついてやる。

 はったりだろうと、堂々としているだけなら馬鹿でもできる。


 勝手に詮索しろ。策に溺れるがいい。


 胸を張るこちらを、モリガンはじっと見つめていた。


 一世一代の大博打、不可視の賽の目が転がり続ける。


「……いいでしょう。口利きだけはしてあげる」


 賭けは勝った。運命の女神はこちらに微笑んだ。


 けれど、喜ぶその背に矛を突き立ててくるのが、この性悪女神というもの。


「でもごめんなさい、私たちが言ってもどうにもならない人たちもいるの。その人たちの交渉は、あなたに任せるわ」


 え、と思う間もなく、モリガンは背後の扉を開けさせた。


 その先の光景を見て、フォーは蒼褪めた。


 開け放たれた円卓の会議室。

 かつて五大マフィア各当主が肩を並べていた、裏社会の覇者たる証左でもあったその一室は、一つの一家によって占領されていた。


 シバルバ一家。

 USSAが擁立したと言っても過言ではないメキシコ系麻薬カルテル、シバルバの新たな当主と、その幹部とみられる大勢の男たちがそこにいた。


「新しく生まれ変わったシバルバ一家はね、当主と主要幹部から構成される会合で一家の方針を決めるんだけど、メンバーの一人でも反対したらその議決は棄却される方針なの。画期的でしょう? 全部で百人もいるのよ」


 さあ、説得してごらんなさい。と、モリガンは嗤った。


「時間なら好きなだけあげる。媚びを売るなり股を開くなり、なんでもしたらいいわ。ああ、でも。シバルバのご当主様も幹部の方も、領内の内乱鎮圧で駆けずり回ってたからだいぶお疲れなの。あなたに全員の相手が務まるかしら?」


 それは、実質的な人身御供だった。


 男たちは突然の展開に驚いたようだったが、投げ込まれた生贄に目をぎらつかせ、大いに歓迎した。


 やられた。交渉失敗だ。27番地主導の和平交渉はできない。


 この女にとって、自分の奮闘もまた、ただの余興でしかなかったのだ。だから暇つぶしにこういうことができる。


 こうなった以上、最低ラインを死守するしかない。


 27番地のため、自分たちのためにも、もう後には退けない。フォーは会議室へ足を踏み出すしかなかった。




 ***




 あまりに急すぎる、一方的な申し入れだった。


「わ、和平交渉……?」


 聞き間違いかと言わんばかりにクロードが目を瞬いた。他の住民も似たような反応でぽかんとしている。


 店長はニコラスの表情を盗み見た。

 ニコラスはこれ以上ないほど険しい顔をしていた。


 事の発端は、今日の夕方に遡る。

 地上にて監視を行っていた部隊が、困惑ぎみに一台のドローンを持ちかえってきたのだ。


「なんかよく分からんが……『27番地との交渉求む』ってスピーカー流しながら飛んでたんだ。試しに撃ち落としてみたが、爆発物の類はついてねえし、中からこれが出てきてさ」


 それはUSBだった。


 その場にいた全員が顔を強張らせ、殺気だった。

 前回のハウンドの件といい、第二弾が来たのではないかと疑ったのだ。


 しかし、USB内に入っていた動画データは拷問でも脅迫でもなく、なんとUSSA長官アーサー・フォレスター本人からの和平交渉の呼びかけだった。


 動画はさらに続く。


『我々は、君たちの予想外の健闘に敬意を表し、また君たちが故意に抱え込んでいる民間人に被害が出ることを恐れている。よって、このような交渉の場を設けさせてもらった。停戦といかずとも、一時的な休息は君たちの望むものであると思っている』


「なにが望みだ。ここまで追い詰めてんのはテメエらじゃねえか」


「まるで俺たちが民間人を盾にしてるみたいな言い様だな」


「交渉してえんなら、まずハウンドを解放してからにしろってんだ」


 住民らの怒りの声に、クロードが「静かにしろ」と一喝する。


 フォレスターは交渉日時と場所、条件を述べ始めた。


『交渉は三日後。公平性を保つため、会場には公式メディアを招き、彼らの報道の前で行うものとする。

 場所については、我々としては27番地北部の国境付近を希望する。なお今回の申し出を信頼できないという声も多いだろう。

 そこで我々は君たちに譲歩し、27番地内での交渉を提案する。君たちと民間人が避難している地下水道、その入り口付近で交渉を行いたい。何かあれば君たちはすぐ地下へ逃げ込める、最適な会場だ。

 これは我々の最大限の譲歩である。この条件が飲めないという場合は、こちらが指定する会場に出向いてもらう。我々としても交渉人ならびにマスコミ関係者の安全は確保したい。

 なお交渉は数日に分けて行う予定であり、君たちにはその都度、会場を変更することを許可する』


――まずい。


 店長は危機感を覚えた。


 これは和平交渉などではない。こちらが隠しているの地下水道の入口を探るためのものだ。


 27番地は現在、地下水道を拠点に地上へ攻勢を展開している。


 それに際し、自分たちはの地下水道の入口をいくつか設けた。入口は空いているが、侵入しても行き止まりで罠が待ち受けている。


 これまで27番地は、この偽の入口を活用することで、トゥアハデを何度も退けてきた。

 偽の入口付近に伏兵を忍ばせ、罠に気づいた敵が出てこようとしたところを狙い撃ちにするのである。


 加えて、時には本物の地下水道を途中で封鎖し、偽に見せかけることで、本物と偽物がどれなのか区別がつかないようにしてきた。


 それを本格的に探りにきた。


 ご丁寧に毎度会場を変えていいなどと宣っているが、とどのつまり交渉を重ねれば重ねるほど、こちらは本物の入口を敵に明かすことになる。


 事前に偽の入口に交渉人を潜ませようにも、偵察ドローンが常時上空を徘徊している状況ではそれもできない。

 一方、条件を断れば、敵が指定する会場に出向かざるを得なくなる。


――しかも交渉の場にマスコミが来るということは、和平交渉のことをマスコミも知っている。となれば断れない。断ればこちらが悪者にされる……!


 通信妨害でこちらは報道内容をろくに確認できてないが、27番地のネガティブキャンペーンをUSSAが繰り広げていることは想像に難くない。


 要するに、USSAは攻撃材料が欲しいのだ。

 世論のハウンドへの同情が吹き飛ぶほどの悪行ぶりを、こちらに踏ませたがっている。


 27番地が完全にテロリストの巣窟であると、世界に喧伝したいのだ。


――大幅に譲歩してきたのはそれが狙いか。厭らしく嫌な手だが上手い。


 そのうえUSSAはまだ本気ではない。

 ハウンドへの同情が集まっている今、世論に遠慮してで済ませているだけだ。


 仮に自分たちが世界から完全に悪者判定をされれば、USSAは諸手を挙げて大攻勢を仕掛けてくる。

 すでに物資が付きかけているこちらに、勝ち目などない。


 この交渉にしたって、ただの戯れだろう。敵はこちらが飢えるのを待つだけでいいのだから。


 店長はもしもの未来と、敵の思惑に震えあがった。恐怖と怒りでだ。


『返答は本日の夜明けまでとする。それまでに返書を携えたドローンをヴァレーリ領一等区へ飛ばしてほしい』


「ふざけてんのか! そんな条件のめるか!」


「こっちの地下水道探る気満々じゃねえか」


「断れニコラス。お嬢を嬲り者にしてる連中と、こんな茶番やってられっか」


 ついにクロードまで激高してニコラスに詰め寄った。


 いけない。断っては駄目だ。


 すでにUSSAの根回しは済んでいる。

 断れば、こちらが悪者にされる。敵が大挙して押し寄せてくる。


 店長は必死に冷静になるよう周囲に呼び掛けた。だが誰も聞く耳を持たない。


 当然だ。ハウンドが痛めつけられる様を皆、観たばかりなのだ。


――だからか。このタイミングであの動画を送ってきたのは。


 店長は、敵のあまりに卑怯な手口に歯ぎしりした。


 敵はこちらが交渉を断るのを待っている。

「和平交渉を提案したが、断られたので仕方なく」民間人もろとも、全力で叩き潰そうとしているのだ。


 店長は詰め寄る住民をかき分け、ニコラスのもとへ駆け寄った。


 この場で一番怒りを感じている者がいるとすれば、彼だ。

 頭の回る彼ならば、すべて視えているだろう。USSAの汚い手口も、交渉に応じなかった場合の末路も。


 すでに、こちらに打つ手がないことも。


 そのやるせなさは痛いほど分かる。

 それでも冷静にならなくてはならない。怒りに任せて衝動のまま動いてはならない。


「ニコラス、断っては駄目だ。この交渉は――」


「受ける」


「……え?」


「交渉を受ける」


 住民が静まり返る。が、すぐに沸騰した。


 なにを考えているのか、どう考えてもこれは罠だ。住民が口々に叫ぶ。

 非難の視線がニコラス一人に殺到する。


 そんな眼差しに、ニコラスは一つ一つ目を合わせて、クロードに視線を向けた。


「クロード、俺たちはなんだ」


「へ?」


「俺たちは何者だ。棄民か、それともテロリストか」


「んなもん決まってんだろ。俺たちは27番地住民だ。れっきとしたアメリカ人だ。テロリストなんかじゃねェよ」


「そうだ。俺たちはテロリストじゃない。この戦いで、俺たちはそれを証明しなきゃならない」


 それを聞いて店長は、あ、と思った。


 だから彼は、他領での略奪を禁じていたのか。


 ニコラスは周囲を見回し、よく通る声で続ける。


「通信妨害で限られた報道しか確認できてないが、みんなも世間が俺たちをどう思ってるかは何となく察してるだろ。

 テロリストだ。殺されて当然の極悪人だ。俺はそれを否定したい。俺たちはアメリカ人で、27番地住民だ。テロリストじゃない。

 ハウンドだってそうだ。彼女はアメリカ人じゃないが、俺たちの大事な恩人だ。そうだろ?」


 異論はない。


 そうだ。この場にいる人間全員が、彼女に助けられてここにいる。


「これは、テロとの戦いなんだ。本当のテロリストが誰なのか、それを示すための戦いだ。人も足りない、弾も武器も水も食料も足りない。こんな状態で手段なんか選んでられない。

 けどそれじゃ駄目なんだ。テロリストの戦い方をすれば、俺たちは本当にテロリストにされちまう。ハウンドもテロリストとして断罪されて殺される」


「じゃあ正々堂々戦えってのか? この状況で?」


「そうだ」


 住民の一人にニコラスは即答する。固く決意に満ちた目で見据えて。


「俺たちはテロリストじゃない。だからそういう戦い方をする。無関係の人間は巻き込まない、奪わない。

 不安だよな? んなこと言ってられるかって思ってるよな? だったらその思い、ぜんぶ指揮官の俺にぶつけてくれ。不安も不信も不満も全部引き受ける。

 俺は偽善者だ。負の感情を向けられるのはこの場で一番慣れてる。安心して恨んでくれ。俺のせいで皆はこれからもっと不利な戦いを強いられるんだ」


 店長は、自分が飛んだ思い違いをしていたことを思い知った。


 また汚名をきせられるのを恐れていると思っていた。

 民間人を命がけで救いながら、偽善者と罵られた過去を繰り返すまいとしているのだと思っていた。


 違った。


 彼はすべてを背負う気なのだ。期待も、不信も、すべてを。


「それでも、俺はみんなに戦ってほしい。俺は、あの子をテロリストにしたくない。

 俺はかつて、あの子を地獄から逃がし損なった。今度はしくじらない。あの子をすべてから解放して自由にする。好きなとこに行って、好きな服着て、好きなもん食って、それで笑っていてほしいんだ。

 だから俺はテロリストにはならない。偽善者だの、卑怯者だの、悪党だの言われても、俺がテロリストになれば、あの子もテロリストにされちまう」


 そこまで言い切って、ニコラスは静まり返った周囲を見渡した。


「……いきなりそう言われたって、困るよな。すまん、熱くなりすぎた。

 夜明けのぎりぎりまで待ってる。みんなの意見を聞かせてくれ。俺がこの方針を覆すことはないが、可能な限りみんなの意見は尊重したい。

 USSAが俺たちの命を保証するなんてあり得ねえだろうが……離脱したいって奴のためにも、なんとか逃げ道を探ってみる」


 そう言って、ニコラスは黙って踵を返し、水路の奥へ立ち去ろうとした。


 最初に硬直が溶けたのはクロードで、そんな彼に気づいて慌てて引き留める。


「……あ。ああいや、お前がそんなに喋るの初めて見たから驚いたっつーか……。いや、ちょっと待て。ニコラス、まさかお前が交渉に出る気なのか?」


「当然。言い出しっぺだからな」


「いやいやいや、どう考えてもダメに決まってんだろ。お前、うちの司令塔だぞ? お前が要なのは敵だって知ってんだから――」


 クロードに続き、アトラスや他の住民らも時間停止の魔法が溶けたように、大急ぎでニコラスの説得を始める。


 皆いつになく多弁なニコラスに圧倒されて、ひとまず彼を止めながら各々心を整理しているのだろう。


 だから店長は、静かに手を挙げた。誰よりも先に彼に応えたかった。


「私は君を信じるよ、ニコラス」


 彼が足を止め、振り返る。

 その琥珀の瞳に一瞬だけ不安がよぎったのを、店長は見逃さなかった。


 ああ、やっぱり怖かったんだね。

 こうすると決めて、見限られることも覚悟して、それでも誰かに信じてほしいと願っていた。


 ――『ねえ、私の家憑き妖精ブラウニーさん』――


 妻の今際の言葉が蘇る。


 心配いらないよ、イーリス。守るとも。彼と、彼女の居場所を。


「さて、意見も述べたことだし。交渉役が必要なようだね? だったらここに適任がいるじゃないか」


 店長はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、両手を広げた。

 仏頂面だと客が安心できないからと、若い頃イーリスと一緒に練習して身につけた、人を安心させる笑みを。


 ニコラスが、先ほどの自信はどこへやら、遠慮がちに尋ねてきた。


「行ってくれますか、店長」


「もちろんだとも。私の前職は教授、学者だよ。交渉人は私に任せてくれ。議論ディベートなら大得意さ」


 住民から「おお」と声が上がる。

 安堵に胸をなでおろす者、ニコラスに賛同の意を示す者、不安を抱えながら考える者。多種多様などよめきに包まれる。


 けれど、その空気は決して悪いものではない。


「……ふむ。なら私も同行させてもらっていいかね?」


 唐突に声が上がった。


 振り返って、店長は思わず目を見開いた。


 そこにいたのは、あまりに意外な人物だった。






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次の投稿日は8月2日(金)です。


【お休みのお知らせ】

本職が繁忙期のため、8月16日(金)はお休みとさせていただきます。

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