11-1

【前回のあらすじ】

もはや五大マフィアも敵に回った。

USSAの総攻撃により、27番地はこれ以上ない窮地に立たされる。


それを見つめながら、オヴェドはニコラス・ウェッブとの因縁の対決を心待ちにする。


一方、追いつめられたハウンドは、ある策をニコラスに伝える――。




【用語紹介】

●合衆国安全保障局(USSA)

12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。


●失われたリスト

イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。

このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。



●『双頭の雄鹿』

USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。

また長は必ずポパム家の血筋から迎えられる。将校や政治家等、国の重要人物を代々輩出してきた。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。


●《トゥアハデ》

『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。

現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。

現時点(11節冒頭)で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。

またなぜかオヴェドは名を与えられていない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






 時を遡ること30分前、27番地襲撃より10分前。


「どういうことだ」


 ロバーチ一家当主ルスランの問いは短く、だが息が詰まるほどの圧があった。


 ターチィ一家妓女ナンバー・ツー『ロンダン』は珍しく唇を舐め潤し、低頭したまま答える。


「今、お伝えしたとおりです。我がターチィ一家当主、ヤン・ユーシンが行方不明となりました。現在捜索中です」


「当主とはつい一時間前、会話したぞ。この緊急会合の開催を提案したのも奴だ。重ねていうが、一体どういうつもりだ」


 恫喝の意を隠しもせず、ルスランが柘榴色の眼光を尖らせる。

 ヴァレーリ一家当主フィオリーノも声こそ浮薄で通常運転だが、目は一切笑っていない。


「しかも呼び出したのはうちとロバーチだけだしねぇ。あと、うちが掴んだ情報だとそちらのご当主様、今日の早朝、合衆国安全保障局USSA連邦捜査局FBIの共同捜査員に接触したって話だけど」


「……なんだと?」


「こればっかりは俺も擁護できないなぁ。なぁんにも聞かされてないし?」


 双璧の視線が容赦なくロンダンの後頭部を穿つ。それでもなんとか面を上げる。


「順を追って説明したいところですが……事態が切迫しておりますので、率直に申し上げます。

 ご当主様は《トゥアハデ》の銘ありの一人、『モリガン』によって拉致されました。その可能性が極めて高いです。モリガンという女は変装――いえ、もはや擬態ですね。それを得意とします。恐らく共同捜査員に接触したというのも、ご当主様ではなくその女でしょう」


「話が読めないなぁ」


「そんな世迷いごとを信じろと?」


「証明するものは何もございませんので、ご自由に判断してくださって構いません。

 ただ、ご当主様は以前より、USSAには裏の顔があるという仮説のもと、それを実証するために動いておられました。裏の顔である『双頭の雄鹿』、そして存在しない実働部隊の《トゥアハデ》、両者を真っ先に確認したのはターチィです。これは、お二方もご周知のことと思います」


 当主たちは黙った。なにせ彼らに情報提供をしたのはターチィだったからだ。


「ご当主様は当初より手帳争奪戦の先を見据えておられました。ゆえに”失われたリスト”を入手することを第一とせず、”失われたリスト”を入手した者がどう行動するか、その未来に備えるための調査を最重視しておられました。これであれば、リストを入手できずともつぶしが利きますから」


「それを探るために、あえて毒蛇を自身の懐に潜り込ませたわけか」


「で、思いっきり噛まれたと」


 やはり察しがいい。

 ロンダンは再び低頭した。こういう時の二人とはあまり目を合わせたくなかった。


「ご推察の通りでございます。面目ございません。先日の会合からご当主様のご様子に違和感を覚えてはいたのですが……ここ数日の騒動の事後処理と、組織再編業務で確認が遅れました。まさかご当主様本人を襲って、それに成り代わるなんて」


「それで当主本人は行方不明というわけか。大胆な毒蛇もいたものだ。本物を喰らって擬態するか」


「しかも組織再編中ってことは、人事も弄ってたわけでしょ。側近周り刷新されて事態に気づくのに遅れた?」


「……その通りでございます。申し訳ございません」


 これ以上ない不覚だった。

 モリガンという女が流した毒は、予想以上にターチィという組織を蝕んでいたのだ。それを見抜けなかった時点で、自分の運命は決まった。


 そしてこの二人が、自分を気遣うなどありえないということも、よく理解していた。


 フィオリーノは人好きのする笑みでにっこり微笑んだ。


「うんうん。こればっかりは予想外のことだったろうしねぇ。この手の経験が浅い君が気づけなかったのは仕方ない。で、俺らにどうしろって? 謝罪よりそっちのお願いの方が先じゃないかなぁ?」


「救援ならせんぞ。貴様の立ち振る舞いにも興味はない。自力でなんとかするんだな」


 ほら、やっぱり。


 ロンダンは心の内で舌打ちした。

 これまで培った経験を総動員して哀れな女を演じたというのに、眉一つ動かさないとは。


――こういう時の保険のために取り入ったのだけれど……やはり甘くはないわね。どっちもやな男。ヘルハウンド様が苦労するわけだわ。


 やれやれと内心舌を出しながら、ロンダンは奥の手を切ることにした。


 当主ヤンには最終手段として残しておくよう釘を刺されていたが、今がすでにこれ以上ない異常事態だ。

 止むを得まい。


「むろん、今回のことは我が一家の失態、お二方の手を煩わせる気はございません。そして本日の招集要請も、ターチィがヴァレーリ・ロバーチ両家に救援を求めるためではありません」


「前置きが長い。結論を先に言え」


 ルスランの声音に苛立ちが混ざる。雰囲気はとっくに顔が引きつるほどの不機嫌っぷりだが、ロンダンは敢えて余裕綽々に微笑んで見せる。


 男を振り回すのは女のさが

 それにこの男が、自身を恐れない強い女を好むことは、ヘルハウンドとのやり取りで知っている。


「では結論から。特区は今、未曽有の危機にさらされております。我が一家の考えとしては、これこそが『双頭の雄鹿』本来の狙いであったと推測しています。”失われたリスト”を巡る争奪戦も、あくまでこの計画から目を逸らすため。

 真の狙いは我々の攻略であったと思われます。実際、現在USSAは我がターチィを喰らいました。これで五大のうち三家が、すでにあちら側の手に落ちたことになります」


 自ら国へ下ったミチピシは言うまでもないが、新たに当主を迎えたシバルバ一家も今や立派なUSSAの傀儡だ。


 衝動的に自陣へ『双頭の雄鹿』を招き入れた結果、当主を殺害され、その後の内乱でこれまで住民に敷いてきた恐怖の楔も消え去った。


 恐怖政治は強者にのみ許された特権だ。当主を殺されるような弱い一家では、人心は集まらない。

 ゆえに、進駐してきたUSSAにあっという間に食われてしまった。


 そして非常に不本意ながら、ターチィもまたその道を歩み始めている。


 これらの出来事が、すべてUSSAの思惑通りだったとしたら――?


「特区の勢力はUSSAに傾きつつあります。それだけではありません。『双頭の雄鹿』は本来、あくまで政治・経済界や軍部に顔が利く程度の秘密結社です。それがここ十数年で、独自の軍事力を保有し、表立って強制介入するほど大胆な行動をとるようになりました。

 ある人物が、長であるアーサー・フォレスターに接触してからです。フィオリーノ様もご存じでしょう? 27番地に単独で潜入してきた、あの――」


 突然、ルスランが立ち上がった。


 次の瞬間には、豪奢な椅子を片手で軽々と振りかぶっていて、ロンダンはあまりのことに固まるしかなかった。


 投げつけられる、と思った矢先。背後から足を払われ、抱きとめられる。


 その頭上を、椅子がすさまじい風圧とともに通過した。


 椅子が砕け散る音に鈍い音が混じった。

 何かが吹き飛ばされ、この応接室の扉を突き破って廊下に転がった。


 反射的に構えた腕を視界からどけ、ロンダンは青ざめた。


 椅子で顔面が潰れた男が、カーペットに這いつくばって呻いている。


 当主ヤンが拉致された時、真っ先に報告してくれた当主側近の一人で、自分が駆け出しの頃いちばん世話を焼いてくれた男だった。


「お怪我はありませんか」


「いえ、ありがとうございます」


 自分を庇ってくれたフィオリーノの側近、カルロ・ベネデットへの礼もそこそこに、ロンダンはよろよろと立ち上がった。


 ルスランは何事もなかったように男を指さして。


「今、そいつがお前を撃とうとした。心当たりは?」


「ありませんが、予想はついています」


 ロンダンは男に歩み寄った。


 男は潰れた顔のまま床にひれ伏し、「お許しください」と繰り返した。


「逆らえばご当主様の命はないと言われました。申し訳ございません」


 ロンダンは応じなかった。


 髪留めマジェステのピンを引き抜き、一閃。躊躇なく男の肩に突き立てる。


「蛇毒です。三種類を混合したもので、通常の血清は効きません。死にたくなければ答えなさい、同胞フンバォ。誰からの指示です? お前以外にあと何人います?」


 男の背がぶるりと大きく震え、息をのんで固まる。だがすぐに床についた手がグッと握られ、潰れた顔のまま男は面を上げる。


「……あの女です。それと、今日来た人間の、半数以上が」


 ロンダンは答えを待たず、男の顔を抱きしめた。


 肩のピンを引き抜き、男のうなじに突き入れる。環椎から頭蓋の内部に突き入れて、延髄を破壊し、絶命させる。


 尋問したところで無意味だ。どうせ脅されただけで何も聞かされていまい。


 双璧を振り返る。


「責はすべて私が引き受けます。全員射殺してください。もはや手遅れです」


「そのようだな」


 ルスランが端末を耳に当てる。フィオリーノが真顔のまま嘆息した。


「その判断の早さに免じて、君の側近だけは残しておこう。うちからも数名派遣する。君も動かす手足がないと困るだろ」


「……感謝いたします」


「あらあら、意外と手が早いのね。もっとお淑やかだと思ってたのに」


 その声を聞いて、ロンダンは凍りついた。


 廊下の先、エレベーターホールから一人の女が、漆黒の武装兵を引き連れて歩いてくる。

 モリガンだ。


 駆け付けたルスランの手下が銃口を向けるが、発砲は阻まれた。


「やめておいた方がいいですよ。そちらの応接室にはあらかじめ爆薬を仕込んでおきました。ちょうどあなたたちの足元です」


「貴様……!」


 モリガンの影から現れた人影に、ロンダンは奥歯を軋らせた。


 泣き黒子の男は苦く微笑んだ。


「あなたも生真面目ですね。五芒星条約第一条、『五大当主が出席する会合は、基本、特区の最中心部の五大各領に面し、五大が唯一共有する“零番地”のセントラルタワーにて行うこと』、でしたっけ? 

 助かりましたよ。ここなら出入りできますから。てっきり、いつもの円卓部屋を使うかと思ったんですが。念のためにこちらにも仕掛けておいて正解でしたね。ああ、申し遅れました。私はオヴェドと申します。仮の名ではありますが、今はこれにてご容赦を」


 やられた、とロンダンは呻いた。

 自分がここに双璧二人を呼び出したこと自体、罠だった。


「フィオリーノ様、ルスラン様、申し訳ございません」


「……ま、さっきのあれで大体の最悪は想像つくよね」


「少なくともこれで貴様の情報の信憑性は上がったわけだ」


 フィオリーノとルスランはこちらに見向きもせず拳銃を抜き、初弾を込めていた。

 脅迫の真偽はともかく、大人しく投降する気はさらさらないらしい。


 男――オヴェドが肩をすくめた。


「はったりのつもりではなかったんですがね。まあいいでしょう。フィオリーノ・ヴァレーリ、ルスラン・ロバーチ、私と取引をいたしませんか?」


「「断る」」


「即答ですか……。困りましたねぇ、一応は納得してくださったんですけど」


 すると双璧はそろって不快げに顔をゆがめた。この正反対の二人が同じ言動をとるなど、初めてのことではなかろうか。


 途端、オヴェドは苦笑を愉楽の笑みに変え、慇懃に頭を下げた。

 道化師が戸惑う観客を強引に舞台へ引き上げるように。ぬけぬけと、おちょくるように。


「場所を移しましょう。ちょうど今から、面白いショーが始まるところなんです。ここより円卓部屋の方がよく見えるでしょう」


 なにが、と問う前に、爆音がそれに答えた。


 ロンダンは呆気にとられた。何機ものヘリが、ビルの窓を横切って真っすぐ飛んでいく。あの方角は――。


「重ねて申し上げます。フィオリーノ・ヴァレーリ、ルスラン・ロバーチ、我々と取引いたしませんか? 命など惜しくないあなた方でも、目の前で獲物を掠め取られるのは我慢ならないでしょう?」




 ***




「それでタワーごと占拠されただあ!? なにやってんだ、ロバーチだけでもとっとと突っ込ませろ! ボスに遠慮して突入遅れましたとか、俺らが後で殺されるわっ」


『実際、ロバーチの連中は突入しかけたさ。止める俺らの身にもなれってんだ』


 ノートパソコンに指を走らせながら、セルゲイが怒鳴る。

 画面の中のカルロは額に手を当て嘆息していた。


『こっちは本国からもストップがかかってんだ。首領ドンの命も握られてる以上、これ以上の抵抗はできん。武装解除もされずに建物の外に追い出されただけ、まだ御の字だ。第一、お前らのとこだってそうだろ』


「うるせえ! ロシア大統領府クレムリンがなんぼのもんじゃいっ、突入させろ! そっちよかボスの方がよっぽど怖えわ!」


『そのボスの命令だからロバーチも大人しくしてるんだろうが。どいつもこいつもお前らみたいな自殺志願者だと思うなよ』


 しょうもない言い争いに聞こえるが、両者ともいつも以上に声が高く早かった。


 ターチィ一家への《トゥアハデ》の浸食、それによるヴァレーリ・ロバーチ両家の当主の拘束。

 矢継ぎ早に起こる想定外に、特区の双璧の幹部といえど動揺が隠せていない。


 そんな矢先、セルゲイのパソコンから警告音が鳴った。セルゲイが叫ぶ。


「……っ、クラック! 攻撃されてんぞ、前線通信車Cの3!」


「了解! 本部こっちで対処する! Cの3は部隊通信の維持に全力を尽くせ!」


 通信班班長が応じ、全員がサイバー攻撃に対処する。子供のウィルまで駆り出しての総動員だ。


「あ」


 奇しくも最初に気づいたのは、ウィルだった。


「……! まずい、こっちが逆に……!」


「本体の捕捉が狙いか!」


 班長が呻くが、時すでに遅し。

 27番地のネットワークに、敵が侵食していく。


 すぐさま全員で防衛にあたるが、間に合わない。


 班員の一人が叫んだ。もはや悲鳴に近かった。


「駄目だ……! 突破される、乗っ取られるぞ! このままじゃ、うちの通信網が完全にダウンする……!!」


『物理的に切断しろ! うちの系列企業もそれでやられた。同時多発の物量攻撃だ、27番地の人員じゃ対処しきれん!』


「ぶ、物理的に? なにを……」


「どけっ!」


 突然のカルロの警告に、班員が理解し損ねていると、セルゲイが椅子を蹴倒して押しのけた。


 厨房入り口の壁に設置してあった消防斧を引っ掴み、指揮所の通信配線板に回り込んで、振り下ろす。


 木の根を断ち切るように、次々に配線を切断していく。

 セルゲイの行動に呆気にとられた班長だったが、すぐさま我に返る。


「切れ、全部切れ! むこうに乗っ取られるよりマシだ! 前線への連絡はアナログでいくよ!」


「はい!!」


 通信班から何人かが外へ飛び出し、残りはセルゲイと共に配線を切断していく。


 一方ニコラスは、前線指揮と並行して、別の窮地の真っただ中にあった。


「何を考えているんだ! あの子を前線に出すなんて……!」


 店長がいつもの温和さをかなぐり捨てて詰め寄ってくる。


 クロードがオロオロと止めようとはしているが、その手に力はない。

 他の住民も同様だった。皆、一様に不安げに、「なぜ」と咎める目を向けてくる。


 部隊再編の指揮を執るためと称して、ハウンドが《トゥアハデ》の囮になるべく前線へ向かったことを、誰もが反対していた。


 だからハウンドは黙ってここを飛び出したし、ニコラスも黙って見送った。


「いくら私が軍事に疎くても、これだけは愚策だと断言できる。今すぐハウンドを呼び戻してくれ! 連中の狙いがあの子だってことは、君もよく分かっているだろう!?」


「俺の役目は27番地住民みんなを守ることです。あいつからは、自分よりみんなを優先しろと頼まれてます」


「あの子が自分を優先したことなんて今まで一度もなかったじゃないかっ……! 私はっ、君だけでもあの子の味方であってほしいと――」


「あいつかこれまで通り、自分が犠牲になればみんなが救われると思ってたなら、絶対に止めました。でも今回は違う。あいつはもう、昔のあいつじゃありません」


 襟首をつかんでいた店長の手が、わずかに緩んだ。

 周囲も水を打ったように静まり返る。


 ニコラスは丁寧に深呼吸をした。

 ちゃんと言葉を放つために、伝えるために。


「俺たちにはまだハウンドの他に、切り札が二つあります。それに、あいつに言われたんです」




『今から言うことを、よく聞いてくれ。どう作戦に組み込むかは、ニコに任せる』


 いつぞやの夜明けに、袖を掴んで別れを拒んだ少女が、そこにいた。

 あの日、渡した弾丸のネックレスを握りしめた、小さな拳が胸をとんと叩く。


『私は、六番目の統治者シックス・ルーラーだ。ここの支配者だ。住民が一人でも残っている限り、私には、彼らを庇護する責任がある。どんな姿になっても、生きて帰る義務がある』


 すっかり大人になった少女は、唇を噛み締め、震える深緑の瞳で見上げてきた。


 とっくに覚悟を決めた、けれど、縋るような眼差しで。


『……ごめん。今は本当に、これ以上思いつかない。できるだけ時間を稼ぐ。頼む。どんな手を使ってもいい。みんなを守ってくれ』




「あいつはもう死にたがっちゃいません。俺は、今のあいつの選択を信じます」


 店長の手が離れた。

 皆の視線も変わった。咎める眼差しから、決意の眼差しへ。


 重苦しい沈黙が、弾けんばかりの熱を帯びたものに変わっていく。


「俺が、必ずあいつを迎えに行きます。だから今は、あいつを信じてやってください」




 ***




「おやま。あっさり出てきましたね。今回ばかりは慎重にいくかと思ったんですが……」


 意外そうに画面を見上げるオヴェドの背を睨みながら、ロンダンは苛立ちを隠せなかった。


 なぜ、出てきた。


 座標ごとに分割された映像が、一人の少女を映している。

 戦線がほぼ崩壊し、再集結を図る27番地住民を横切り、真っすぐ前線めがけて突っ込んでいく。


 これにはフィオリーノもルスランも険相を構えていた。


「手間が省けていいじゃない。さっさと包囲して殺しちゃいましょう」


「……いえ。できるだけ距離を取ってください。彼女との接近戦は危険です。それと、狙撃兵による奇襲への警戒を。全部隊に通達してください」


 オヴェドの返答に、モリガンは不服そうだった。


「狙撃兵って……27番地で警戒すべき存在なんて一人だけでしょう。慎重すぎじゃない?」


「ニコラス・ウェッブは過去、死亡した親友の死体を囮に敵部隊を撃破したことがあります」


 初耳だった。


 不愉快そうにすがめていたルスランの片目がわずかに開く。


「性格はどうあれ、狙撃手としての性質はちゃんと持ち合わせている男ということです。どんな手を使ってくるか分からない」


「大事な女を餌にしても?」


「十分あり得ます」


「ふぅん。わりと薄情なのね」


 《トゥアハデ》二人の会話を聞きながら、ロンダンは考えを巡らした。


 もっとも武器も端末も奪われ、両脇から銃口を突きつけられた状態では、考えるぐらいしかやることがない。

 むしろ拘束もされなかったことが屈辱であった。


――ニコラス・ウェッブ。


 ただの番犬だと思っていた。

 忠義に厚く、頭も切れるが、あくまで個人主義。ヘルハウンドを守ること以外は決して動かない男だと思っていた。


 なのに、そのヘルハウンドを囮にする?


 いや、それ以上に。アーサー・フォレスターの演説はあの男も聞いたはず。USSAの狙いはヘルハウンドだ。彼女さえ殺せばすべて片が付く。


 この状態で、彼女が前に出ることを、あの男は許したのか――?


――彼女に頼まれたか、あるいは……他に勝算がある……?


 だとしたら、あの男は覚えているだろうか。

 あの夜会でのやり取りを。


 あの時はからかい半分、牽制のつもりであったが。


――焼きが回ったわね。あんな男に気づいてくれることを期待するなんて。


 ロンダンは一人小さく苦笑し、それを俯いた前髪で隠した。


 その時だった。


 着信音が鳴り響く。


 壁際のサイドテーブル、先ほどオヴェドたちが取り上げた、こちら三人の端末が鳴っていた。

 フィオリーノとルスランのものだ。


 表示された名は。


「標的です。ブラックドッグからの着信です」


 近くの兵士がオヴェドにそう告げる。オヴェドは肩眉を吊り上げ、こちらを見た。


「だ、そうですよ。出られますか?」


「勝手にすれば?」


「こちらから言うことは何もない」


 顔面に叩きつけるような物言いに、オヴェドは肩をすくめ、端末二機を手に取った。そして同時に通話ボタンをタップする。


『よお、黒子野郎。そこにいるんだろ?』


 開口一番、ヘルハウンドはそう言った。息は切れていたが、哂っていた。


 オヴェドは呆れたような顔をした。


「元飼い主に吠え立てるなんて酷いじゃないですか。そんなお行儀悪く育てた覚えはありませんよ」


『ああ? お利口さんだろ。の声をちゃんと覚えてるんだからな。知らない人に声かけられたらどうするって、親に習わなかったか?』


 オヴェドから薄ら笑いが、もっと深くなる。


 ロンダンはヘルハウンドとオヴェドの関係を考察するより、その顔に総毛だった。


 なんだその顔は。


 歪んでいるなんてものではない。

 怒り、悲しみ、喜び、憎しみ。それらの表情をばらばらに切り刻んで、各ピースを適当に選んで張り付けたような、ちぐはぐで形容しがたい顔をしていた。


 なんだ、あれ。気持ちが悪い。


「お利口さんならこの状況は理解してくれますね? あなたが投降するなら――」


『絵本』


 ヘルハウンドが言葉をかぶせた。


 突拍子もない単語に、ロンダンは理解し損ねた。

 だがオヴェドはもう、笑っていなかった。


「……なんですって?」


『お前らは証拠隠滅し損ねた。こっちに切り札はまだある。ラルフ・コールマンが遺した最後の悪戯さ。場合によっちゃ、私以上の価値があると思うぞ? なにせあれには、アーサー・フォレスターの名が載ってるんだからな』


「切って。はったりだわ」


 モリガンがそう言った。


「その女が追い込まれた時によく使う手よ。”失われたリスト”の証拠品は完全に抹消した。『双頭の雄鹿わたしたち』が総力を挙げて丁寧に消したのよ。そんなの残ってるわけ――」


『だったらそこの二人に聞いてみたらどうだ』


 瞬間、オヴェドとモリガンが振り返る。


 特区の双璧、フィオリーノとルスランがそろってため息をついていた。


「やってくれたな」


「あーあ、これで強制参加、確定じゃん」


 ロンダンは驚いた。


 ほんのわずかではあったが、氷の鉄仮面と称されるルスランが笑うとこなど、初めて見た。

 いつも軽薄な笑みしかみせぬフィオリーノでも、あんなに柔らかく笑えるのだと、初めて知った。


 ああ。


――ほんと、敵わないわね。


 交渉人として、女としての格の違いを見せつけられ、ロンダンもまた溜息をつきながら笑った。


『さあ、第二ラウンドの始まりだ。私を追いかけるか、絵本探しにいくか。好きな方を選ぶといい。その隙にうちの住民は逃げ出すぞ? さあさあ、どれを追う?』


 黒妖犬が高らかに、小生意気にせせら笑う。それが勝気な少女からの宣戦布告だった。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は6月21日(金)です。

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