プロローグ
それは、合衆国安全保障局(USSA)長官アーサー・フォレスターの宣戦布告から、ものの数分後の出来事だった。
「くそっ、先手を取られた」
ハウンドの呻きが、戦闘指揮所内の怒号にかき消されていく。
正面モニターに映し出された27番地の地図の国境線沿い、およそ五分の一がすでに赤く染まっている。通信班所属のオペレーターがしきりに応答を呼びかけているが、返ってきたのは想定の三分の一だ。
所属不明の敵による襲撃とのことだが、このタイミングでこの規模の攻撃ができる組織など、一つしかない。
――最初からこれが『
ニコラスは歯噛みし、近くのオペレーターの肩を掴んだ。
「先に近隣部隊に状況を報告させろ。この状況だ、国境警備隊はすでに戦闘に入っている可能性が高い。無暗な呼びかけはかえって邪魔になる。下手すりゃ傍受されるぞ」
「わ、分かりました!」
即座にオペレーターたちは行動してくれるが、状況は芳しくない。
「駄目だ、隔壁封鎖が間に合わない……! 第一防衛ライン、突破されます!」
「N-3ブロックにいるガンマ隊から緊急通信! 北東、ヴァレーリ領上空より
「どうなってんだよ、おい。ヴァレーリ領からなんでヘリが飛んでくんだよ。まさか五大マフィアが、ヴァレーリもロバーチも裏切ったってのか……!?」
27番地住民クロードの沈痛な声は、その場にいる全員の声を代弁していた。
だがハウンドは首を振る。
「裏切ったってのはおかしな表現だ。しょせん連中はマフィア、自分に有利と判断すれば親でも売る」
「けどお嬢、俺たちは――」
「ああ。だから、そうならないようずっと対策をしてきた。だが現にこうして襲撃を受けてる。ってことは、ヴァレーリ・ロバーチ両家が本当に
ハウンドはすかさず鋭く視線を飛ばす。
「ロバーチ領付近にいる全部隊に通達。ロバーチ領内の対空システムが稼働しているかどうか報告させろ。大至急だ」
「はい!」
「それからセルゲイ・ナズドラチェンコを叩き起こせ。ロバーチとの敵対が確認され次第、拘束する」
「イエス・マム!」
大急ぎで取りかかる住民たちを前にして、ハウンドは数歩下がって壁に背をつけた。動揺している時の彼女の癖だった。
片手で顔を覆う彼女のもとに、ニコラスはすぐに駆け寄った。
「ハウンド、さっきの報道」
「……USSAが、『双頭の雄鹿』が偽の“失われたリスト”を公表する可能性は私も考えてた。けどこの方法は連中にとっても諸刃の剣のはずなんだ」
額の冷や汗をぬぐい、口元を覆ってハウンドは正面モニターを睨む。
「リストメンバーは『双頭の雄鹿』の資金源の要だ。だからこそ連中は、リストの存在そのものが悟られないよう丁寧に抹消してきた。もしリストの存在を明かすとすれば、証拠品と証人双方が完全に抹消されていて、かつ偽のリストメンバーをでっちあげる準備が整っている状態で、メンバーの承諾を得なければならない。でなけりゃ『双頭の雄鹿』の方がリストメンバーから切られる」
「だから今回、お前を抹消しに、強硬策に乗り出してきたってことか?」
「けどあの生体チップが破壊されてからまだ一月だぞ。早すぎる。リストメンバーは千人を超える。重要人物に絞っても交渉するだけでも、一年はかかるはずなんだ」
なのに、どうやって。と、ハウンドの声がしぼんでいく。
一方、ニコラスは一つの考えに至っていた。今この瞬間まで、それに気づけなかった自分の迂闊さと不甲斐なさに臍を噛み締めた。
USSA――『双頭の雄鹿』が諸刃の剣ともいえる強硬策に打って出られた理由。それは――。
***
「最初から準備していたからに決まっているでしょう。あの小娘が特区に潜んでからこの四年あまり、『
うっそり宣うターチィ一家当主ヤン・ユーシンを、本物のヤン・ユーシンがベッドの上からねめつけた。
もちろん偽物の正体は、『双頭の雄鹿』
「元よりそういう計画だったのよ。クロム・クルアハとヌアザが引っ掻き回したせいで、かなり予定が狂ってしまったけど。リストメンバーの説得に関しては、ブラックドッグが生存していると判明してからすでに動いていたわ」
オヴェドは大したものだと思った。
口調も、よくよく聞けば声の高さも違う。だがなぜかターチィ一家当主にしか見えない。完璧に成り代わっている。
容姿、姿勢、振る舞い、雰囲気、そのすべてがヤン・ユーシンそのものだ。側近ですら気がつかなかった。
ましてやヤン・ユーシンと会ったこともないマスコミが、真偽を見定めるなど不可能だろう。それを眺める大衆も。
今や全米がターチィ一家当主の逮捕を本気で信じている。USSAがなした正義に沸き立っている。
誰もその逮捕した人物が本物かどうかなど、疑いはしない。
「……こっちが本命だった、ってわけかい」
ヤンが呻く。負傷と監禁により、かつての美魔女っぷりは見る影もなく、年相応の姿に戻っている。
が、その眼光だけは変わりない。
「お前がこれまで担ってきた諜報と妨害工作は、時間稼ぎでもあったわけだ」
「そういうことよ、ご当主様。あの子に逃げられたら元も子もないもの。反米国家にでも亡命されたら面倒なことになるわ。だからこそ、ブラックドッグを足止めしつつ、実行の準備を整えてきた。そしてついに、うなじに埋め込まれていた生体チップの破壊を確認した。本物の“失われたリスト”はこの世から消え去った。あとはあの子を始末してしまえばお終いよ」
そう言って、モリガンは仰々しく嘆息する。
「クルアハもヌアザも本当にバカね。雌狼を狩るのなら餌を撒くより、巣ごと壊してしまうのが一番手っ取り早いのに。とんだ失態だわ。男の人ってどうして苦労してまで追いかけにいくのかしら。シュウもすぐ処刑してしまうし。あの子、確かに頭はそんなによくなかったけど、緩衝材としてはすごく優秀だったのに。切り刻むなら手足だけにしてほしかったわ」
「切り刻んだ、だと?」
「ご当主様の国でいうところの凌遅刑みたいなものよ。ほんと勘弁してほしかったわ。ヌアザったらほんと趣味悪いの。あんな醜いもの見せられて、組織の結束が深まるわけないじゃない。どうせならブラックドッグみたいな可愛い娘にしてほしかったわ。いつも強気な娘が身も蓋もなく泣き叫ぶのって愛らしいでしょう?」
モリガンは頬を紅潮させて両手を合わせた。デートの行き先を決めていいと言われ、はしゃぐ少女のように。
そこにターチィ一家所属専属妓女『ワン』だったころの清純さと母性は欠片もない。
遊びでバッタの脚をもぎ、蟻の巣穴に落とすように、女はただひたすら無垢に無造作に、邪悪を口にする。
これにはヤンも呆れかえったようだった。ここまで悪辣な女だとは思わなかったのだろう。
オヴェドも同感だった。
外見こそ麗しい、どんな女にも化ける美しき魔女だが、その内は糞尿と腐敗した臓物が溶け混ざりあったような醜悪が詰まっている。
「どうやらあたしは、お前を見誤っていたようだねえ。少し口を閉じてな。夜鷹じゃあるまいし、耳が腐り落ちるなんて御免だね」
「あら、元配下の愚痴も聞いてくださらないの? 本当に大変だったのよ。シュウの代わりに各国の諜報機関と交渉したり、バカ二人が暴れた後始末をしたり。おかげで国内からだいぶ目をつけられてしまったわ。もっと楽に動けたはずなのに」
「……」
「あらあら、だんまりを決め込むのね。困ったわ。点滴の中身、変えてしまおうかしら。だってあなた、もう必要ないものね」
「………………小娘には、あの双璧がついている。奴らが見逃すとでも?」
「見逃さざるを得ないのよ。まさかご当主様、私たちが『特区の双璧』をマークしてないとでも? 真っ先に落としにかかったわ。ヴァレーリにはちょっと手を焼いたけれど、概ね予定通り。ヴァレリー一家もロバーチ一家もブラックドッグの始末に合意したわ。もちろん、ターチィ一家もね」
「了承した覚えはないがねえ」
「それは
「あたしの顔で勝ち誇るのは大いに結構だが、もう少し足元を見たらどうだい。お前が脱ぎ捨てた
「気づいたのはフォーの側近でしょう。ヨンハ、だったかしら。ええ、確かにあの娘には過ぎた男だわ。でも私の方が一枚上手」
「私にも感謝してくださいよ、モリガン。手の皮膚の移植を勧めたのは私なんですから」
オヴェドが口をはさむと、モリガンは頬を膨らませ目を潤わせた。
同級生に意地悪されたと訴える小学生のように、シルクグローブの下の包帯に覆われた手をさする。
「分かっているわよ。おかげで手首から下を丸々一枚剝ぎとられることになったわ。せっかく綺麗にしていたのに」
「それは失礼いたしました。ですが役に立ったでしょう?」
「恩着せがましい殿方って損してると思うの」
「同志のよしみというやつですよ。そう邪険にしないでください」
そう苦笑すると、モリガンはむうと唇を尖らせた。今は顔がヤンなこともあって、幼さより妖艶さが勝る。
「私、ダミーでもちゃんと丁寧に整えるのよ。髪もアップしてメイクもして、ドレスも着せてあげたのに。あのヨンハって男、墓を暴いた挙句、傷物にしちゃうんだもの。無粋の極みだわ」
「……よく言う。メイクもドレスも、死体を切り刻んで加工したことがバレないようにするためだろう」
ヤンの唸りに、モリガンは嬉しそうに微笑んだ。だがそれは、いたぶっていた獲物がまだ死んでないことを喜ぶ類のものだった。
モリガンの武器は、他者の皮を被ることだけではない。
脱ぎ捨てた皮の隠蔽まで完璧なのだ。
遺体の顔を整形し、咥内をいじって歯科所見をつくり、毛髪を植毛して、偽の死体を用意する。
今回はDNA鑑定対策に、手首下の皮膚も移植した。
モリガンがターチィ一家妓女『ワン』だったころ、太客がこぞって医療関係者だったのは偶然ではない。彼らが、彼女の裏方の小道具係だった。
一番お熱だったのは、あの大学病院の院長だ。あれほどの地位にまで昇りつめたというのに、やることが遺体を切り刻んで偽物をつくりあげることなのだから、哀れではある。
ヤンは低く舌打ちした。
「フォーはいい部下を持った。惜しむらくは、顔の皮膚を切り取る度胸がなかったことだ」
そう。ヨンハがDNA鑑定の結果、『ワン』が死亡したと判断したのはこのためだった。
なにせ、髪も皮膚も本人のものなのだから。
「ええ、人間というのは不思議なものでして。取りやすいものが取りやすい位置にあると、そこから取ろうとするそうです。ましてや墓を暴き、故人に傷をいれようとする禁忌を侵す者は、なおさら傷を入れることを本能的に拒む。よくもまあ考えついたもんです」
「あら、とってもいい案じゃない。ダミー死体の露出を極力減らして、髪は必ずアップして、おくれ毛をつくっておくの。すると調べる人間は必ずおくれ毛から髪を採取していくのよ。これなら髪の毛ぜんぶを自前で用意しなくて済むわ」
「今回は手の皮膚も採取されましたけどね」
「だってわざわざ手袋外して採取する人間がいるだなんて思わないじゃない。けどなんで手から採るって分かったの?」
「あなたが存命していた場合、彼がどこから採取したがるか考えただけですよ」
モリガンは「ふぅん」と興味なさげに呟くと、すぐさまおしゃべりに戻った。ヤンが聞くまいと固く目を閉じていてもお構いなしだ。
オヴェドは呆れながらも付き合うことにした。
まもなくすべてが終わる。
この日のために、入念な準備をしてきた。
あと一時間もすれば、27番地は陥落するだろう。
――失態、ね。
たしかにクロム・クルアハとヌアザの行為は結果として遠回りになってしまった。
だが特区解体の呼び水になったこと、五大マフィアの弱体を進行させたことを踏まえれば、その功罪は甲乙つけがたい。
むしろ一番の失態は、ニコラス・ウェッブという男を成長させてしまったことだろう。
――特区に来た直後の彼であればいくらでも工作のしようがあったんですが……もう無理でしょうね。
因果なものだ。あの時の兵士が、今になって牙を剥くか。
マークするどころか、存在すら認知していなかった。
海兵隊の狙撃兵。
ラルフ・コールマンの隊を一網打尽にすべく、援軍防止のために行った妨害工作。そのための生贄の一人。
捕縛と尋問の期間を踏まえて、一月は足止めしてやるつもりだった。戦力の逐次投入を誘発し、ずるずると戦線を拡大して膠着させる予定だった。
それなのに、あの男率いる海兵隊はたったの五日で戦闘を終わらせてしまった。
偶然国連が目を付けたおかげで、コールマン隊に一番近かった前線基地は冤罪釈明と調査団の受け入れで機能停止に陥り、無事目的は達成された。
だがあの男は戻ってきた、これ以上ない脅威となって。今になって帰ってきた。
しかも、それを育てたのは我々なのだ。これほどの皮肉があるだろうか。
――面白いですねぇ、この浮世は。これだからやめられない。
オヴェドは一人、静かに嗤った。来るべき戦火を待ち望んで。
***
「ベータ隊通信、完全に
「国境警備隊の損耗率、二割を超えましたっ。もう、限界です……!」
「全部隊を第二防衛ラインまで下げさせろ。負傷者は第三まで後退――」
「駄目ですっ。敵部隊、および敵攻撃ヘリ、食いついて離れません! このままでは第二防衛ラインも突破されます!」
オペレーターの返答に、ハウンドが唇を噛み締めた。
襲撃者はまごうことなき精鋭だった。
以前27番地を襲撃した連中は完全に前座だ。撤退しようとするこちらに、ぴったり張り付いて離れない。
「ちょっと朝っぱらから何の騒ぎよ……俺ちゃん、今日十日ぶりのオフなんだけどー……」
「いいから早くこっち来いって!」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよっ!」
セルゲイが寝間着のジャージ姿のまま、ジャックやルカたち子供たちに追い立てられてくる。叩き起こされたらしい。
「んで、今度はなんの用――」
「今すぐロバーチ一家と連絡を取れ。状況次第ではこの場で拘束させてもらう」
セルゲイの首に、ハウンドの銃剣が突き付けられる。
ここに至り、セルゲイの寝ぼけ眼が瞬時に据わる。
「何があった」
「USSAに襲撃された。ヴァレーリ国境付近の警備隊はほぼ壊滅、それ以外も死傷率が二割を超えてる。今、第二防衛ラインまで後退して部隊を再編中だ。加えて、ヴァレーリ領上空北西よりヘリが三機襲来中。我々はヴァレーリ・ロバーチ両家がUSSA側についたと推測してる」
それを聞いたセルゲイは、すぐさま自身のスマートフォンを取り出し、指を走らせて確認する。
しばらくして、画面から目も離さず。
「
「というと?」
「ロバーチがUSSA側についたんならBMP-1は出てこない。味方ヘリに対して対空砲を向ける理由がない。出てきてんならロバーチは以前、USSAとは敵対関係だ」
「I-18とH-7だ。確認急げ!」
ハウンドの叫びにオペレータたちが急いで画面に向き直る。
対して、ニコラスはセルゲイに近寄った。
「一家から連絡は?」
「……緊急用の捨てアカのショートメッセージだけ。それ以外は何も。コードはEの4」
「
「ああ。1は“五大マフィア他一家勢力による攻撃”、2は“特区内武装勢力による攻撃”、3は“特区外武装勢力による襲撃”」
「4は?」
「……“本国からの攻撃もしくは妨害”だ。面倒なことになった」
セルゲイが甲高く舌打ちする。
本国、すなわちロシアからの攻撃ないし妨害を受けているということだ。
直後、オペレーター数人が振り返り叫ぶ。
「確認取れました。I-18およびH-7、双方とも対空部隊の展開を確認!」
「ロバーチ領付近の部隊からも報告! 同一家領内の各地区で対空部隊の展開を確認。ただどの部隊も攻撃はせず、待機中とのこと」
「ヴァレーリ領内の国外組とも連絡が取れました。同一家の構成員から急に領内から追い出されたと……」
「国外組の安否は?」
「それは大丈夫です。ヴァレーリ一家からは口頭警告のみで、直接攻撃はなかったと。現在、地下通路を通じて領内中心部へ順次帰還中です」
それを聞いたハウンド、並びにニコラスたちはひとまず肩を撫でおろす。
こんな状況下で人質を取られても、要求に応じられない。要らぬ犠牲が増えなくてよかった。
とはいえ、戦況が極めて不利なことに変わりはない。どうすべきか――。
「ニコ」
ハウンドが小さく呟いた。傍らにいた自分にだけ聞こえるような声で、すがるように。
ニコラスは黙って向き直った。
何を言おうとしているのか、大体想像がついた。想像通りなら即座に否定するつもりだった。
それに、ハウンドは気づいたらしかった。体臭から嗅ぎとったのだろう。
彼女は口を開きかけ、閉じ、前に向き直って目を固く閉じた。そして目を開け。
「ニコ」
「なんだ」
「頼みたいことがある。それと……約束を、してほしい」
そう言って、彼女は囁いた。
喧騒に搔き消される寸前のそれに、ニコラスはじっと耳を傾けた。
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