エピローグ

 昼も過ぎ、客もまばらなカフェ『BROWNIE』にて。テーブル席の一画を埋める一団があった。


「いやー、そう来たかー……」


 椅子に背を投げ出した少年ジャックが、大きく伸びをしながら息をつく。

 ノートパソコン前に置かれたボウルのポップコーンはほとんど手つかずだ。食べるのも忘れて観ていたらしい。


「……先が読めないね」


「いやぁ、最初は魔法少女とか女の子が見るもんでしょって思ってたけどさ、これ面白いね」


「だろ? だろ? 今ユーチューブで一番ホットなアニメなんだよ。これは伸びるぞー! 感想動画とかだそうかな……」


 ウィルやルカをはじめ少年団メンバーも加わって、やいやいと子供たちが騒ぐ。


 次なにを観よう、ではなく、視聴したばかりのアニメの話でいっぱいだ。よっぽど面白かったのだろう。


――今日の映画会のあと、余裕あったら観るか。


 そんなことを考えながら、ニコラスはカウンターにて夕飯時への仕込みにいそしむ。


 ユーチューブで公開されたチャンの遺作アニメは、投稿から数時間で50万再生を突破するという、大バズりぶりだった。

 ポリコレやフェミニズムを揶揄する部分もあるのでやや炎上気味だが、制作陣曰くこれが狙いなのだという。


「エールを送りたかったんだって。特区内外を問わず、世界中で頑張るクリエイターのために」


 フォーはそう言った。生前、チャンはこんなことを語ったのだという。


『特区に逃げてきたクリエイターばっかり注目されるけどさ、別に戦ってるのは僕だけじゃないんだ。マーケティングの事情で“そういう”話しか書けない脚本家、炎上対策に“世間的に正しい”作品しか描けない漫画家、食っていくためにそうせざるを得ないクリエイターがいる。でもみんな頑張ってるんだ。その場に留まって戦ってるんだ』


 チャンはどこか嬉しそうに語っていたという。


『いずれこの先、“仮面を被った”作品が出てくるよ。一見すると有害なリベラル信奉者が大喜びしそうなシナリオなのに、全部通してみると正反対のメッセージを受け取らざるを得ない、そんな作品がきっと出てくる。優等生を演じる、反骨精神旺盛な作品が生まれるよ。その場に踏みとどまって、静かに抵抗し続けるクリエイターたちの反撃の狼煙さ。

 やがて彼らの築いたものの上に、本当の不良作品が現れる。世間の言う正しさなんてクソ食らえって作品がね。僕の作品は、彼らの抵抗があってこそ成り立つものなんだ。本来ならもう少し後の世に出すべきものなんだろうけど。けど、今、送り出したいんだ』


 フォーには難しい話であまりよく分からなかったそうだ。ただ、次のやりとりは一言一句覚えているという。


『みんな戦ってるんだ。クリエイターも、娼婦も、政治家も一般人も棄民も、皆みんな。今日をなんとかやり遂げようと戦ってる。金のため、誇りのため、家族のため、なんだっていいんだ。目の前の苦難を乗り越えようと、誰もが奮闘している。そういう人たちのエールになればいいなって』


『……あんたの話は難しくてよく分かんないけど、また壮大な夢の話をしてるのだけは分かったわ』


『はははっ』


『ははは、じゃなくて。はあ、まったく。炎上しても知らないわよ』


『それでいいんだよ。だって僕が描いたら――』


――あとに続いてくれる物好きが出てくるかもしれない、か。


 ニコラスは子供たちの様子を見ながら、フォーとの会話を思い出す。

 その時の彼女の表情も。呆れているのに嬉しげで、懐かしそうなのに切なげで。


 そんな彼だからこそ、フォーは愛したのだろう。彼女はすでにマレーシアに去り、今後会えるかどうかも分からない。彼女がチャンへの思いを口にすることも、決してないだろう。


 だが、ニコラスは子供たちの反応をフォーにみせてやりたいと思った。


 また、子供たちだけではない。


「お、新しいの投稿されたのか」


「待て待て、ネタバレすんな。俺らまだ観てないんだよ」


「録画してあんのか? え、ユーチューブのだから要らない? ネットのもんはよく分からねえな……」


 会議を終え、階段を下りてきた商業組合メンバーが子供たちの輪に混ざっていく。


 この通り、子供にも大人にも大人気なアニメであった。

 魔法少女となった元大人の女性たちが、少女時代のトラウマや葛藤と向き合い克服していくさまが、子供にも大人にもウケるのかもしれない。


 そんな中、ニコラスはメンバーの中から小柄な人影を探す。目当ての人物は最後に階段を下りてきた。

 少し、目をしょぼしょぼさせている。


「今日の夕飯、何時くらいになりそう?」


「午後六時には」


「んじゃあと二時間は休めそうだな」


 そう言って、ハウンドはまた階段を昇っていった。


 ニコラスは店長に目配せした。


「うん。今日はもう上がっていいよ。お疲れ様」


 組合メンバーも少年団も、ジャックやウィルたちまで「こっちは大丈夫」とばかりに手を振ってくれる。

 それを背に、ニコラスはハウンドの後を追った。


 ここ最近、ニコラスたちのカフェへの出勤時間は短くなっている。他にやることが多すぎて手が回らないのだ。


 フォーと協力しての住民避難計画はもちろんのこと、武器装備品の整理・拡充。ドローンで測量した各領の地形図の作成、それをもとにした攻防戦のシミュレーションと、それに応じた訓練の実施。


 これに通常業務が混じってくるのだ。住民はもちろんのこと、ハウンドもニコラスも大忙しだった。


 また、ハウンドにも変化があった。

 問題を一人で抱え込まなくなった。周囲を頼るようになった。


 どんな些細なことでも何かあればすぐ組合を招集し、問題を共有して意見を求めた。


 ハウンド頼りの外交も、彼女一人で出向くことがなくなった。

 護衛には必ず自分がつき、補佐役に組合メンバーの誰かが付き添うことになった。


 住民にも五大マフィア相手に交渉できるようにしてほしいとのことだったが、今回ヴァレーリ一家に舐められたことへの反省だろう。


 これだってそうだ。


「ベッドじゃなくていいのか?」


「ん~……ここがいい」


 自宅に着くと、ハウンドはばったりソファーに身を投げていた。自分がいつも枕代わりに使っているクッションに顔をうずめている。


 これもまた、ハウンドの大きな変化だった。

 以前ならば、仕事を中断して仮眠をとるなど、絶対にしなかった。無茶をしてでも仕事をやり遂げてから休んでいた。


 だがそれだと続かないと気づいたらしい。


 業務を投げても他の誰かが補完してくれる。そのシステムをつくらないと、今後街の運営に支障をきたす。

 そのためにもまずトップである自分が見本になる必要があると考えたらしい。


「あの婆さんに指摘されたのは癪だが、間違ってはないからさ。どの道にせよ、戦い方を見直す必要がある」


 ハウンドはそう言った。


 もしかしたら、自分とフォーの会話を聞いていたのかもしれないが、真相は謎のままだ。

 だが彼女は彼女なりに、今の自分にできる戦い方を模索しているようだった。


「せめて次の統治者の候補に引き継ぐまで、ちゃんとやり遂げたいんだ。色々やってくれたけど引継ぎ前にぶっ倒れましたじゃ、逆にみんな困るだろ。

 あとフォーと彼女の部下みてて思ったんだけど。なんていうか、慕ってくれてんなら、ちゃんと信じないと逆に失礼だよなって。その、これからはみんなが休めって言うなら、ちゃんと休もうと思う。そのぶん、みんなには迷惑をかけるが、途中で倒れたりしたらもっと迷惑かけるし……」


 ハウンドの発言は住民の歓喜の声でかき消されてしまった。


 あのハウンドが自分からちゃんと休んでくれる! ハウンドが休んでくれるなら、自分たちも堂々と休める!


 大喜びの住民を前にしてハウンドはぽかんとしていたが、それを聞くなり申し訳なさそうに首をすくめた。そのしょんぼり具合に気づいて、慌ててみんなフォローに入ったが、実際これは洒落にならない問題だった。


 というのもここ一月、ハウンドが勤勉すぎるせいで、住民が休みにくい体制ができていたのである。


 ニコラスや店長、アンドレイ医師が再三休めと言っていたのはこのためであった。


 上司が勤勉すぎると、部下が休めない。残業しまくっている上司を横目に堂々と定時退社できる部下は多くないのだ。


 とはいえ、アメリカ人でもないハウンドが街のために奮闘してくれているのは事実であり、なにより彼女は一度自殺を試みた身だった。


 死にたがっていた彼女が自分たちのために頑張ってくれているのは嬉しい。だが彼女からあまりに仕事を奪っては、落胆してまた万が一のことを考えてしまうのではないか。

 その心配から、皆ヤキモキしながらも言い出せなかったのである。


 だが住民の方もこの一月でそろそろ限界だった。ゆえにこのハウンド本人からの発言は、大変嬉しいものだった。


 出張依頼も減らした。夜間に行っていた交渉事もすべて昼に回し、海外勢とのミーティングがない限り、夜は朝までちゃんと寝る時間を設け、余暇の時間もつくった。


 一般人からすれば当たり前のことだ。けれどハウンドが、その当たり前を返上することで、27番地は守られてきたのである。


 ハウンドの生活は徐々に『普通』になっていった。

 睡眠時間が五時間を切る日が週に何度かあるのが課題だが、そういう日はこうして店長や組合が協力して仮眠する時間をつくってくれる。


「ほら、毛布」


「ん」


「今晩もファン・デーレンとローズ嬢とミーティングか?」


「うん。時差の影響もあるし、二人とも忙しいから、深夜ぐらいしか時間取れなくて……」


 もにゅもにゅ呟きながら、ハウンドは毛布にくるまった。


 「洗い立てだぁ~」などと間延びした声が聞こえる。この調子だと一分も立たずに寝落ちするだろう。

 ちなみにクッションカバーも洗い立てである。どうせ抱え込んで寝るだろうと思ったら案の定だ。抜かりはない。


「あ~でもミーティング終わったら映画観る~……」


「そうか。あんま無理すんなよ」


「ん~……」


 これもまたニコラスにとって嬉しい変化だった。


 今回の一件から、ハウンドは『手帳』を読むようになった。これまでずっと避けていた、カーフィラとの思い出を自ら探すようになった。


 ここ最近、夕飯時にやっている映画会がそれだ。カーフィラがかつて観ていたという映画を観ることで、彼との記憶を掘り起こそうとしているようだった。


「ハウンド、食いたい『絵本ご飯』あるか? 夕飯と夜食、二品選べるぞ」


「ん~……」


 ハウンドは毛布から腕だけにゅっと出すと、テーブル上のペンとメモを手繰り寄せて走り書きをし、こちらに突き出した。

 それを受け取ると、腕は毛布の中に格納され、くるりと毛布団子をつくった。殻にこもるカタツムリである。


「できたら起こしてね」


「はいはい」


 その様子に苦笑しつつ、ニコラスはさっそく指定ページの『絵本ご飯』に取り掛かった。




 ***




 こうして始まった本日の映画会は、絵本六ページ、ソノラン・ドッグとともに始まった。ちなみに視聴したのは『タイタニック』の後半である。


 エンドロールが流れるなりハウンドは一言。ソノラン・ドッグを齧りながら、不服そうにこう言った。


「なんで二人でドアに乗らなかったんだ?」


 絶対に言うと思った。


 ニコラスは苦笑した。


「悲恋ものにそういうのを言うのは野暮だと思うぞ」


「けどどうせなら二人で生き残ってハッピーエンドの方がずっといいだろ。夢の中でキスするぐらいならさ」


「二人とも低体温症で頭が働かなかったんじゃないか?」


「う~ん、それはあるか……」


 ハウンドは不満げにソノラン・ドッグを口に詰め込みながら、小難しそうに唸った。最後の一個だ。


 ニコラスはデザートの用意をしに席を立つ。


「これさあ、昔アフガンで流行ったんだよね」


「『タイタニック』が?」


「うん。都会の方の闇市でね。当時はタリバンが首都を陥落した直後で、原理主義的なかなり厳しい規制が敷かれてたんだけど。アフガン人って基本支配されるの大嫌いだからさ、みんないうこと聞かないんだよね。

 で、当然のごとくこういう禁制品の映画がイラン経由で密輸されてて、みんなタリバンの目を掻い潜って隠れ観してたんだよ。そんなこんなで『タイタニック』が若者を中心にブームになったらしくてさ。そんなに人気なら私にも見せてやろうって、カーフィラが複製したDVD持って帰ってきてくれたんだよ」


「じゃあ一緒に観たのか」


「と思うじゃん? それがカーフィラ、恋愛ものだと気づかなかったらしくてさ。前半のシーンで気づいたっぽいんだけど、キスやハグぐらいなら私の目隠しすればいいかって、その時はまあスルーされたのよ。けどその後さ、その……裸をスケッチするシーンあったでしょ。たぶん、あれがね」


「あー……」


 要するに、ヌードシーンで教育上不適切と判断され、お蔵入りになってしまったらしい。


「あの人が慌ててテレビ消した理由がよく分かったわ」


「恥ずかしがり屋だったんだな」


「いや、人前でこんな堂々といちゃつく欧米人もどうかと思うぞ? てかなんで裸のスケッチするのよ。せっかくドレス着て着飾ってるのにさ」


 それをなぜ俺に聞く。


 もしカーフィラが生きてここにいたら、返答次第でぶち殺されそうだなと思いつつ、デザートをテーブルに運ぶ。


「けどまあ、これであの妙な訓練の謎も解けたな」


「妙な訓練?」


「この映画を観た時、冬だったんだけどね。映画観てから数日後に、カーフィラ、なんか急に私を川に連れてってさ。真冬の水に落っこちた時にどうしたらいいかとか、氷の上にどう乗ったらいいかとかの訓練したのよ」


「え、真冬の川に突き落とされたのか」


 それはさすがに、と言いかけたが、ハウンドは首を振った。


「いや。自分が飛び込んでひとしきり泳いで上がってきただけ。最初はいちおう解説してくれてたんだけど、途中から寒すぎて声にならなくてさ。慌てて焚火の火に当てた」


 何やってんですか、お父さん。じゃない、カーフィラ。


 というか彼、ぜったい最後まで映画みただろ。んで、ハウンドと同じ感想に至ったと。


――たぶん二人一緒に助かる方法がないか試したんだろうな……。


 ニコラスは何とも言えぬ表情のまま、その時の光景を想像した。

 (恐らく)いかつい髭面の男がガタガタ震えながら、幼女とともに焚火に当たるさまを。


「周りからは気が狂ったのかって心配された。あとで先生にめっちゃ怒られてしゅんとしてた」


 そりゃそうだ。きっと見栄を張って絶対寒いとか言わなかったに違いない。容易に想像がつく。


「それ考えるとさ」と、ハウンドがデザートの皿に手を伸ばす。


「意外とおっちょこちょいというか、変なところもある人だったんだな~って思って。なんかめちゃくちゃ厳格で怖いイメージしかない人だったけど、思い出してみるとそうでもないというか。――お、これ『シアー・ピア』じゃん! 新しい絵本ご飯?」


「やっと気づいたか」


 はしゃぐハウンドに口元をほころばせる。


 『シアー・ピア』、アフガニスタンのミルクファッジで、いわゆるミルクキャラメルのようなお菓子である。

 レシピはイヤドから教わった。


 絵本一ページ目。残雪の残る山肌を歩く狼親子を現したシーンだ。

 残雪の隙間から新芽の緑や茶色の岩肌がのぞく山道を、二頭の狼が寄り添いながら歩いている。


 思わぬ故郷の菓子の登場に、ハウンドはご機嫌だった。


「お、これレーズン入ってる。ラッキ~」


「向こうじゃ入れないのか?」


「大体はナッツ類だけかな。といっても、私が食べてたの、カーフィラか先生が持って帰ってきてくれたやつだけだから。アフガニスタン全土探したらあるかも。けどドライフルーツたっぷりなのもいいね~」


 そうだったのか。ちょっと失敗したかと落胆したが、当の本人は嬉しそうなので今は良しとする。

 次回に生かそう。


「レーズンといえばさ。昔、カーフィラに面白いもん見せてもらってさ」


 ハウンドは指を振りながら話し始めた。思い出話に花が咲き始めたようだ。いい傾向である。


 ニコラスはメモ帳を置き、彼女の話に集中した。


「アフガニスタン北部の方にね、ダリー語で『カンギナ』っていう果物保存用の泥の容器があってさ。よくブドウの保存に使われるんだけど、これに入れとくと秋に採ったブドウが次の春まで食べられんのよ」


「半年も持たせられるのか。冷蔵庫要らずだな」


「昔の人の知恵だよね。あと冬や春だと時期じゃないからブドウの値段も上がるでしょ? だからそういう時期に売って稼ぐんだって。商魂たくましいよね~」


 もっと教わっておけばよかったな。


 寂しげにつぶやくハウンドに、ニコラスはためらいがちに口を開く。


「もしかしたらもう教わってるかもしれないぞ。これから思い出せるかも」


「そだね。今は思い出すことが先決か」


 ハウンドは皿を置き、ミルクティーに手を伸ばす。皿の上のシアー・ピアはナッツの欠片に至るまですっかりなくなっていた。


「にしてもニコ、このお菓子、そんなに食べてほしかったの? 言ってくれりゃ味見ぐらいしたのに」


 ん?


 おもむろにそう言われて、ニコラスは戸惑った。


「いや、俺は指定されたページのを作っただけだが」


「あれ、そうなの?」


「ああ」


「んん? ……あ、もしかして」


 ハウンドは立ち上がると、キッチンカウンターに向かった。自身が先ほど書いたメモを手に取り、「あー」と声を漏らす。


「ごめん、ごめん。これ、『1』じゃなくて『7』なのよ。紛らわしかったね」


 ハウンドは頭を掻いた。それを見せられたニコラスも、「あ」と声がでた。


 ぱっと見ただけで『1』と判断してしまったが、よくよく見れば1の真ん中に短い横線が入っている。

 これは『7』だ。


 数字の『1』と『7』は形状が似ている。ゆえに人によっては区別するために、『7』にだけこういう線を入れるのだ。


「すまん。見間違えた」


「いや。これは私の方が悪い。これ、ゾンバルト少尉の書き方でさ。数学は基本あの人が教えてくれてたんだけど、その影響で私もこう書く癖がついちゃってね。みんなからは紛らわしいって不評だったんだけど」


「ゾンバルト少尉っていうと、コールマン軍曹たちの上官だった、あの?」


「そうそう。ちょっと堅苦しい人でね。ラルフたちがフリーダムなもんだから、いつも手を焼いてたよ」


 へえ、と思って、不意にニコラスは硬直した。


 待て。この数字。


「ニコ?」


 ハウンドの呼びかけに答えず、カウンター上の絵本に手を伸ばす。そして七ページを開く。


 普通の『7』だ。


 続いて、最後のページの例の数字群を見る。


 『7』に線が入っている。


 ニコラスは愕然とした。


 ページを次々にめくり、本文とページ端に記された数字を見る。そしてもう一度最終ページの数字群を見る。

 ニコラスは胃に氷塊を詰め込まれた気分になった。


 明らかに筆跡が違う。


――なぜ気づかなかった。


 ページを記した人物と、最後の数字群を記した人物。この二人は別人だ。


 恐らくは元の絵本を描いた人物がいて、そこに別の誰かが最後のページにあの数字群を書き込んだのだ。


 誰が?


「ハウンド、そのゾンバルト少尉ってお前を逃がしてくれた人なんだよな?」


 こちらの反応に戸惑いながらも、ハウンドは「ああ」と頷く。


「ラルフたちが捕まる前、真っ先に撃たれたのがゾンバルト少尉で、私が彼を引きずって戦線を離脱した話はしたよな? あの後、援軍が来るのを見て、私は少尉を置いて戻ったんだ。それで捕まった。その後は……話した通りだ。

 少尉の情報を受けて救援部隊が駆け付けたころにはすべてが遅かった。けどこれまで起こったことと、現場の状況証拠から、デルタフォースは何かおかしいと気づいたんだと思う。それで少尉が」


「任務を放棄し、お前を連れて逃走した。残された隊は脱走兵と戦闘する体をよそおって、合衆国安全保障局USSAの追跡を妨害した。だが少尉の逃走先にいた米陸軍部隊に、USSAが偽の情報を流したことで、少尉は射殺された、そうだな?」


「うん……」


「ゾンバルト少尉以外にこの数字の書き方する人は?」


「私の知る限りいなかった。ラルフの班の中じゃ、少尉だけだったと思う」


 間違いない。この最後のページの数字群を書いたのはゾンバルト少尉だ。


 急いで書きなぐったような数字の羅列。


【双頭の雄鹿に気をつけろ】

【『失われたリスト』の証人はブラックドッグ】

【リーダーはアーサー・フォレスター】


 数字群には、この三つの告発文が秘められている。


 そしてこれこそがこの絵本の真骨頂だ。この数字群がなければ、絵本は告発としての意味をなさない。


「ハウンド、この絵本について、ゾンバルト少尉が何か言ってたことはなかったか? コールマン軍曹や、他のメンバーでもいい」


 ハウンドはしばし考え、ああと頷く。


「そういえば、ラルフに一度絵本を返してほしいと言われたことがあったな。描き忘れたことがあるとか言って」


 やはり。


 ニコラスは続きを促した。


「それは、ゾンバルト少尉も一緒だったか?」


「うん。絵本もってラルフと一緒に話してた。なんか言い争ってた気がするけど、私には聞き取れなかった」


「そうか。じゃあ、それがいつだったか覚えてるか?」


「ラルフたちと再会した時だね。私は『失われたリスト』捜索の道案内役だったから、ラルフたちがリストを発見した後は、当時のCIAの施設に預けられて疎遠になってたんだよ。

 預けられてから一年後だったかな、久々にラルフたちの任務に参加することになってさ。私はまた会えるのが嬉しくて喜んでたんだけど、ラルフたちはあんまいい顔しなくてさ。んで開口一番に、ラルフから『絵本ちょっと借りていい?』って言われて」


「それはコールマン軍曹が、USSAの思惑を察知したってことか?」


「可能性はあると思う。私を呼び出しに来たの、CIA職員じゃなくてUSSA職員だったから」


 つまり、ラルフ・コールマンは危機を察知して絵本に例の数字群を書き加えようとしたわけだ。

 だが実際に書き込んだのはゾンバルト少尉である。


 なぜ自分で書き込まなかった? 

 なぜ上官に頼んだ?


 その時だった。


 スマートフォンがけたたましい音を立てて震えた。

 緊急事態を告げる、27番地独自のアラーム音だ。


 ニコラスたちはすぐさま自宅を飛び出した。急いで一階のカフェに向かう。


「何事だ!?」


 ハウンドの声に返答する者は誰もいなかった。

 それほどまでに、皆が店内の壁面に設置されたテレビ画面にくぎ付けだった。


 ニコラスたちも画面を見上げた。そして唖然とした。


〈繰り返し、速報をお伝えします。たった今、合衆国安全保障局、USSAのフォレスター長官が“失われたリスト”なるものを公表いたしました。

 長官によれば、このリストは反米テロ組織が資金源獲得のために作成したものとされており、同時多発テロ容疑者の『アル・カイーダ』、およびイラク独裁者アブドゥラ・アワドにも資金提供された可能性が高いと報告しています。

 これは、この“失われたリスト”が同時多発テロ、イラク戦争、アフガニスタン紛争に関与したこと示唆しており、開戦に至った経緯の通説が大きく覆る可能性が――〉


「――は?」


 漏れ出た声が、やけに空虚に響いた。だが次に映った光景にはもっと度肝を抜かれた。


 速報を伝えるニュースキャスターの顔の横に、切り抜きの映像が映された。


 捜査関係者らしき人間に囲まれる一人の女性。

 ターチィ一家当主ヤン・ユーシンだ。


〈フォレスター長官によると、この情報は今回極秘に逮捕した五大マフィアの一つ、ターチィ一家現当主より入手したとのことで、状況証拠から信憑性は極めて高いとのことです。この情報が正しければ――〉


「おい。今、映ったのって……」


「どういうことだ。ターチィがUSSA側についたってことか?」


「いやそんなことより! “失われたリスト”はなくなったんだろ? なんでUSSAが公表してるんだ。連中も知らないはずじゃなかったのか?」


 店内は軽いパニック状態だった。

 店長も組合も呆然と立ち尽くすばかりで、ニコラスも思考が追い付かない。何が起こっている?


 不意に我に返って、隣を見た。

 ハウンドは唇を噛み締めて、画面を睨んでいた。


「やられた。この手があったか」


「どういうことだ、ハウンド」


「こいつはフェイクだ。あいつら、偽のリストを公表しやがった」


「偽の……?」


「現時点で“失われたリスト”はこの世に存在しない。だがことは、五大マフィアたちをはじめ大勢が知っている。

 となれば、唯一の生き証人である私を抹消しても無意味だ。《『双頭の雄鹿』がリストを作成し、人道支援の影で活動資金の荒稼ぎを行ったかもしれない》という情報が残る以上、奴らの懸念材料が消えることはない。

 だったら、偽のリストを『本物』として公表してしまえばいい。そうなれば――」


〈――あ、現場と繋がりました。たった今、フォレスター長官による記者会見が――〉


 画面が切り替わり、一人の男が映った。ニコラスは思わず呻いた。


 USSA長官にして、『双頭の雄鹿』の盟主。すべての元凶。

 アーサー・フォレスターがそこにいた。


〈皆さん、こんにちは。USSA長官のアーサー・フォレスターです。我々は今回、五大マフィアが一つ、ターチィ一家当主の逮捕に踏み切りました。このことを国民の皆さんにすぐ公表できなかったことをこの場でお詫びいたします。ですが、我々が極秘裏に作戦を進めたことで、我々は決定的な情報を入手いたしました。

 それは同時多発テロに始まる一連の中東での惨事が、一人のテロリストによって引き起こされた可能性があるということです〉


 フォレスターの横に映し出された顔写真に、ハウンドの喉がヒュッと音を立てた。


 そこに映っていたのは、ハウンドの養父、カーフィラことゴルグ・サナイ氏だった。


 〈この元タリバン兵の男は、“失われたリスト”を使ってテロ組織や独裁者に資金提供を行い、幾度となく米国を陰から攻撃し続けてきました。そしてその意志は娘に引き継がれ、その娘が現在、特区27番地に潜伏していることを我々は確認しました。――失礼。〉


 フォレスターは言葉を区切り、補佐官と思しき人物の報告に耳を傾けた。周囲の報道陣が何やら慌ただしくなる。


 その様子に目もくれず、フォレスターは果断に――自分たちの目には、目をぎらつかせて――前に向き直った。


 〈たった今、大統領も記者会見を開かれたようです。特区の全区画を国の管理下に置く大統領令に署名されました。ゆえに我々USSAも特区に巣食うすべての犯罪者に向け、宣戦布告をさせていただきます。


 現刻をもって特区は廃止。

 これよりUSSAは、一連の惨劇に終止符を打つため、27番地に対し特別軍事作戦を決行することを、ここに宣言いたします――!〉











――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

10節はこれにて完結です。次回が最終節となります。

一番長い節になると思いますので、もしかしたら前半・後半に分けるかもです。


最終節の投稿は、一週間のプロット作成期間を挟んで開始します。

【次の投稿日 6月7日(金)】


どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。

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