10-13
お待たせしました。それとすみません。今回、滅茶苦茶長いです。
どっかで切ろうと思ってたんですが、どうにもキリが悪くてこうなりました。申し訳ない。
(2024.5.17 7:34 加筆修正)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ねえ。あれ、いいの?」
「……よくはないが仕方ないだろ」
フォーにそう答えて、肺を空にするまで深々と息を吐くニコラスであった。
店の奥に目をやれば、試着室前にてチコが、ぶすくれ顔のハウンドを宥めている。
あの顔、なんか前に動画で見たことがある。散歩コースを急に変更されて異議申し立てる柴犬の顔だ。
いわゆる拒否柴というやつである。
「返事するんじゃなかった。分かんないふりしときゃよかった」
ぶつぶつと恨み言の唸り声が聞こえる。
黙って立っていればモデル専属カメラマンがすっ飛んできそうな麗しい出で立ちも、がばっと股を開いて組んだ足に頬杖をついているのでは台無しだ。
それでも送られてくればちゃんと着てサイズ合わせをするのだから、なんだかんだで真面目ではある。
だがその忍耐力もいつまでもつか。
「本物のプリンセスね。入札のたびに新しいドレスが送られてくるなんて」
「相手は犯罪都市の大物悪党ばっかだけどな」
「随分とのんびりしてるじゃない。大事な女が他の男に金で買われそうになってるってのに」
「購入対象はあくまで『次の五大会合で着てくるドレスを選ぶ権利』だ。口約束とはいえ、約束は約束だ。しちまった以上は仕方ねえだろ。ハウンドもうっかりしてたって反省してるし」
「じゃあ納得する――」
「するわけねえだろ」
「即答じゃん」
「どちらかというと俺個人への嫌がらせな気がする」
「まあ一番殺したの、あんただからね」
そう、これはおそらくターチィ一家当主から俺への嫌がらせだ。
十日前のことである。
結果から先に言うと、ターチィ一家当主とフォーとの交渉は成功した。
当主はツーの罪を認め、一家から除名。近々処分されるという。
フォーが隠し持っていた切り札の成果だった。
「ときにご当主様、そこの女、ツーがわたくしの客を始末し損ねたことはご存じでしょうか? その女は客こそ始末しましたが、重大な見落としをいたしました。それにより、一家は現在大変な危機に陥っております」
先日の交渉時。
開口一番にフォーがそう言うと、当主が口を開く前にツーが鼻で笑った。
「馬鹿なこと言わないでよね。所持品から何からなにまで洗いざらい調べたに――」
「では彼の私用PCのメールボックスは確認しましたか? そこに我々の事業を告発する文書とデータが、各報道関係者向けに自動送信されるようになっていたことを。そのことに関してセルヴィッジ監督にたびたび相談していたことも」
瞬間、ツーの顔がさあっと青ざめた。
当主が目を鋭くすがめた。
「どういうことだい」
「わたくしも後から知ったのですが、わたくしの客、チャン・トウフォは我々の事業について独自に調査を進めていたようなのです。街の人口と妓女候補者の流入数が合わないことを疑問に思い、人を雇いながら調べて証拠を集めておりました。
そのうえで、つい最近知り合ったセルヴィッジ監督にすべてを話し、もし自分に何かあったら代わりに告発してほしいと頼んでいたようです。もちろんセルヴィッジ監督も我々の裏事業のことを知っています。ツーは口封じに失敗したのです」
「嘘つくな! お前がゲロったんだろ、あのクソキモ親父に話したんだろ! 私用PCだってお前が破壊したくせに!」
口調も表情もかなぐり捨てて詰め寄るツーに、フォーは低く呟いた。
「その顔を見るに、あいつは最後まで口を割らなかったのね」
俯きがちの前髪の隙間から、ぎらついた眼光がのぞく。殺気だった視線を当てられてツーが思わずのけぞった。
フォーは顔を平然に戻して、しらを切った。
「お言葉ですが、チュリップ姉さま。わたくしがPCを破壊したのはこれ以上一家に不利な情報を外部へ漏らさぬためです。その証拠に、チャン・トウフォが告発しようとした文書とデータは、すでにロンダン姉さまに送り報告してあります。そうですね、お姉さま?」
フォーがそう視線をやると、スリーは頷きながら嘆息する。
「ええ、受け取っています。今宵の襲撃の一時間前ですけどね。できることなら、もっと早く報告してほしかったのですけど」
「申し訳ございません。馴染客を無残に殺されて、わたくしも動揺していたものですから」
スリーの咎める眼差しを、フォーがしれっと受け流す。
見事な役者ぶりだった。
今回の襲撃において、力技で当主が説得できないことはニコラスたちも重々承知していた。ゆえに襲撃準備に加えて、根回しをしておいたのである。
セルヴィッジ監督に告発を待ってもらえるよう交渉し、告発メールをスリーに報告を済ませておいた。事後報告であれば、一家に背いたことにはならないからだ。
そして今回のフォーの口上は、ヨンハとハウンドが用意した。フォーは基本暗記した台詞をそのまま諳んじているだけなのだが、その様子をおくびも見せない。
舞台は完全にフォーの独壇場だった。
「わたくしは以前よりチャン・トウフォならびにセルヴィッジ監督と交渉してきました。事を荒立てず、穏便に彼らを沈黙させるために奔走してまいりました。ですがその努力も、ツーが焦って雑な証拠隠滅を図ったせいで、すべて水泡に帰してしまいました。セルヴィッジ監督も、わたくしの必死の懇願で告発を思い留まってくれましたが、それもいつ翻意するかわかりません。
挙句の果てにわたくしにすべての罪をかぶせて口封じを図り、結果的に領内の反乱を誘発させました。この責任の所在を明らかにしないまま幕引きを図るのは、我が一家にとって有害無益というほかありません」
堂々たる口上に、周囲からざわめきがさざ波のように広がっていく。
ツーはまだ食い下がってくるが、取り乱すツーと冷静に言い返すフォーでは、徐々に後者の方へ軍配が上がりつつあった。
「嘘よ、嘘、嘘、嘘! だってあんた、捕まった時に全部話したじゃない! あれは何だってのよ!?」
「自分を貶めようとしている者に正直に答えるはずがないでしょう。演技ですよ、演技。ヘルハウンド様はちゃんと気づいていたようでしたけど。ねえ?」
フォーからの流し目に、ハウンドもしれっと返答する。
「私たち代行屋の依頼はチャン・トウフォの死因究明だ。そのためにもフォーの芝居に乗らせてもらった。騙して悪かったな」
「と、いうことでございます。いかがでしょう、ご当主様。これでもまだその女を庇いますか?」
当主は途中から薄ら笑いを浮かべ始めていた。誰よりもこの場を愉しんでいるように見えた。
「フォー、お前は一つ大きな勘違いをしている。お前の言い分は確かに正しいのかもしれん。ツーが有能ではなかったのも事実だろう。だが黒社会においては金がすべてだ。金を稼ぐものが正義、行儀のいい方便なんぞ畜生の餌にも劣る。ツーが主導する代理出産事業はそれでも莫大な富を生むんだよ。その代替案もなしに正当性を主張されてもねえ」
「そうよ、その通りよ……! 私の事業は――」
「お言葉ですが、その功績は亡きナンバー・ワン、リーリお姉さまの功績でしょう。その女に後任が務まるとは思えません」
「なっ……!」
絶句するツーを横目に、当主が「ほう!」と目を細めた。
「ではお前には務まるとでも?」
「もちろんにございます。ご当主様がお望みとあらば喜んでお引き受けいたしましょう。ですがご当主様、本当にそれをお望みですか?」
「……どういう意味だい?」
「非礼を承知で申し上げますが、ご当主様はあまり代理出産業に乗り気ではないようにお見受けします。今回の騒動も、ツーがやらかした後始末のために重い腰を上げたのではないですか?」
ハウンドとヨンハが顔を見合わせた。
後半の質問、台本にはない台詞だ。フォー自身が抱いていた疑問をアドリブでぶつけたらしかった。
「あた……失礼。わたくしが思うに、妓女としての誇りを誰よりも持っているのはご当主様だと思います。この北米に来てまで現地の娼婦に『妓女』を名乗らせるほどですから。そんなあなたが、単に金を産むからと代理出産業を一家の主産業にするとは思えません。
今回の件も、気づいた時には手遅れだったから渋々一家の産業に取り入れたのではないですか? 本当はそんなものに手を出さず、売春業だけで世界を支配してみたかったのではありませんか?」
当主から笑みが消えた。目元の弧がすぅっと直線に戻っていく。図星とまではいわないが、多少当たっている節があったらしい。
「ターチィ領の統治は、初期のころを除いてわたくしたち上位の妓女たちの仕事でした。あなたがどういった目的でわたくしたちに任せたのかは分かりませんが……少なくともあなた自身がこの街を統治していれば、今回の騒動は起きなかったはず。
そういう意味でも、あなたの期待に沿えなかったこと、あなたの国を滅茶苦茶にしてしまったことを、この場で謝罪します。あたしはツーやリーリお姉さまを止められなかった。本当に申し訳ありませんでした」
首を垂れるフォーの頭を、当主が冷え冷えとした目で見下ろした。
なかなかの迫力だった。殺気、というべきか。品定めするような、腹の内を探るような。全身を這い回って確認するような粘着質で冷たい視線だった。
フォーは一瞬息をのんだが、怯むことなく口調を強めた。
ここから先は、台本通りだった。
証拠を握られ、告発寸前になった代理出産業はすでに風前の灯火であること。いくら国内からの支持があっても、明るみになれば決して見逃してもらえないであろうこと。
「他にも理由を挙げればきりがありませんが、少なくともこの事業を続けるのは愚策というほかありません」
「では、どうしろと?」
「わたくしにお任せください」
フォーは顔を上げ、堂々と代替案を語った。それを黙って聞いていた当主は深々と溜息をついた。
「……まあいいだろう。少々撤退が早まるが、どうせ時間の問題だったからねえ。むしろ、今のうちに撤退できるなら行幸か」
まずいと思ったのだろう。ツーが当主に言い寄った。
「ご当主様、あの女の言葉に耳を貸してはいけません。フォーは――」
「スリーだ」
ツーが「えっ」と固まった。当主が顔を上げる。
「序列を変更する。ワンの座は空席のまま、ロンダンは『ツー』の座に、アネモネは『スリー』の座に。そしてチュリップ、今日からお前が『フォー』だ。よって当初の宣言通り、『フォー』を一家の反逆者として処刑する」
それが交渉の結末だった。
こうしてターチィでの騒動は幕を閉じた。
あの大規模な暴動も今回の沙汰を聞き、徐々に収まっていった。なお抵抗する者もいたが、今回のツーの処刑と、一般労働者層の待遇改善が発表されるにつれ鎮静化していった。
ちなみに正式なナンバー変更は五大会合の後ということなので、今はまだフォーと呼んでいる。
「あのアドリブはなんだったんだ?」
「直観? 女の勘っていうか。なーんかね、ターチィって妙に放任なのよ。敢えてあたしら妓女に一家の仕事丸投げしてるっていうか。最初はこっちを試すためかと思ってたんだけど。ツーがやらかしてんの知ってたくせに全然介入してこないし、なんか妙にこっちのこと警戒してるっていうか。まるであたしら妓女にスパイがいて、そいつを刺激しないようにしてる、みたいな」
ニコラスは一瞬顔を引き締めた。
ターチィ一家のスパイ、カラス女のことだ。
となると、当主は気づいていたのか。気づいていて敢えて泳がせていた?
「……そうか。で、あんたは平気なのか? 処分されると聞いたが……」
「マレーシア支部に転勤ってやつ? まあ事実上の更迭だけど、一家には『あたしがチャンの告発を思い留まらせた』ことになってるから。その担当のあたしに責任がいくのは当然よ。……あいつとしては、自分の身を守る最終手段だったんだろうけど」
話せばよかったのに。
そうぽつりと漏らす彼女の横顔を、ニコラスは何とも言えない気持ちで眺めていた。
「ま、そんなこんなで飛ばされることになったけど、前からヘルに頼まれてたことはきっちりこなすから、心配いらないわよ」
「もちろんそっちも心配だが……代理出産業をそのまま売春業に移行させるなんて大丈夫なのか?」
「世間様が黙ってないって言うんでしょ。もちろん代理母にされた女たちは全員帰国させるわ。賠償金も払って、そのうえでうちで働きたいって連中を集う。一家としてはかなりの損失だけど訴えられるよりマシって判断ね。っていうかさぁ、たぶん訴えても無意味だと思うんだよね」
「というと?」
「契約書にちゃんと書いてあんのよ。『他の業務を担うこともあります。その中に代理出産も含まれます』って。契約書の中間からちょっと過ぎたあたり」
「ああ、いちばん目が滑ってくるあたり……」
「長ったらしい文章あるあるよね。けど書いてはあるのよ。そのうえで直筆で署名しちゃってるから、合意の上での契約って言われればそれまでなのよね。あたしの部下が担当の時はなるべくそのあたりのページ読めって促したんだけどさぁ、読まない奴は読まないからさ」
「そういう騙された女性は帰国させる、と」
「世間知らずの甘ちゃんなだけでしょ。契約書ぐらいちゃんと読めっつーの。……まあ、一度や二度の失敗ぐらい誰しもあるだろうから今回は帰すけどさ」
「国内の人権保護団体の方は? さすがに黙っちゃいないだろ」
「それなんだけどねぇ……たぶん、そっちに任せた方がまずいことになると思うのよ」
まずいこと?
途端、フォーが気まずそうな顔で口をつぐんだ。
「ごめん、ヨンハに口止めされてるんだった。今の聞かなかったことにして」
「いや、今のでなんとなく察しがついた。色々と闇が深いな」
「ほんとそれ。まあそういうの抜きにしても、家庭とかの事情で帰ったところで地獄しかない女もいるのよ。行くも地獄、帰るも地獄なら、自分で選んだ地獄の方が納得がいくってもんでしょ」
自分で選んだ地獄の方が、か。この女性も、そうして腹を決めてこの道を闊歩してきたのだろう。
「ていうか交渉の時のあれなに? あのクソ腹黒若づくりババア、いつものらりくらりしてるくせに、なんでああいう時だけ殺人鬼みたいな目になんのよ。足が震えてないかほんと気が気じゃなかったわ」
クソ腹黒若づくりババア。
素になると本当にあけすけないなと思いながら、「よく耐えきったよな」と言っておく。
「交渉を終えてこっちに戻ってきた瞬間、すごい冷や汗をかいてたもんな」
「へたり込まなかったんだから褒めてよ。てかヘルっていつもあんなのと相手してんの? よくやるわ」
「それは本当にそう思う」
というか、問題はそのあとだ、あと。
喚きながら連行されるツーを見送って、何とか交渉を乗り切ったと思った矢先のことだった。
当主がいきなり中国語でハウンドに話しかけたのである。ハウンドは怪訝な顔をしながらも一言二言受け答えをして、会話はそれで終了した。
その時は特に変わったことはなかったのだが、当主がなぜかこちらを見てニヤニヤしていたこと、ハウンドが首を捻っていることから嫌な予感はした。
直後、ヨンハがやってきて、なぜかこちらを見て。
「あれ、大丈夫ですか?」
と、心配そうに聞いてきた。
曰く、
当主 『そういえば黑犬、近々うちで五大会合を開くんだがねえ』
ハウンド『(「なぜ今その話?」という顔をしながら)この状況でか』
当主 『もちろんことがある程度片付いてからさ。でだ、うちじゃ一等区ではドレスコードが必須だ。けどお前は服選びが苦手ときた。そこでだ、それについてあたしに任せちゃくれないかい?』
ハウンド『あんたがドレス選ぶってのか? まあいいけど……』
当主 『よぅし、言質は取ったよ。なぁに、楽しみにするといいさ。面白いもんを見せてやろう』
と、こういうことだったらしい。
それから三分後、ハウンドの携帯に電話してきたヴァレリー一家当主の気色悪いぐらい興奮した声で「金一番出した奴がドレス選んでいいってほんと!?」という発言を聞いて、ようやく当主に何をされたか理解したのである。
確かに当主が選ぶとは一言も言ってなかった。
「まあ、今回の襲撃の詫びを何かしら要求されるとは思ってたが……」
「ピンポイントであんた狙いにきたわね。あのババア、他人のドロドロした恋愛見物すんの好きだから」
「あのクソババア……」
「イイ性格してるわよね」
フォーは美しく鍛えた脚を惜しげもなく晒しながら「で?」と頬杖をついた。
「あんたはこのドレス選び戦争に参戦しないの?」
「……しない」
「それは金がないから? まさかと思うけど『金で女を買うなんて』みたいな、くだらない理屈でへそ曲げてんじゃないでしょうね」
「くだらなくなないだろ。あんたにとっちゃ誇りある生業なんだろうが、夜職は向き不向きがでかいんだ。性加害で傷つくリスクもある」
「だから他より給料高いんじゃない。ハイリスク・ハイリターンなだけ。そんな職業、他にいくらでもあるじゃない。娼婦だけが特別なわけじゃないと思うけど」
「けどあの子はまだ18だぞ。それに――」
「18歳ったらもう成人でしょ。いつまでガキ扱いしてんのよ。だいたいさぁ、相手はあのヘルなのよ? 15でマフィアのドンを暗殺するような子よ? そんなのが大人しく悪党どもが選んだドレス着ると思う? いくら興味がないとはいえさ。嫌ならとっくに蹴散らしてるわよ」
ニコラスは閉口した。
それについては自分も理解している。本当に嫌ならハウンドはやらない。
だから嫌なのだ。
「それを成り行きに任せてるってことは、このチャンスを生かそうとしてるってことでしょ。あんなに嫌そうな顔しるのに、毎回毎回サイズ合わせしてんのも、あとで写真撮って持ち主に送るためでしょ。交渉切り出す材料としちゃ、これ以上のもんはないわよ。『こないだはありがとうございます』つって、写真もってけば二人っきりで話すきっかけになるんだし」
「それは、そうだが……」
「あたし詳しいこと知らないけどさぁ、ヘルってなんかデカい切り札もってたんでしょ? リストがどうとか。んでそれ最近なくしたんだっけ? ともかく、切り札失くしてもこんだけ人から求められるって、相当な武器よ。あの子はそれを生かそうとしてる。それのなにが悪いのよ。あんたにあの子と同じ戦い方ができる?」
ニコラスは何も言えなかった。反論したい気持ちは喉元にせりあがってきているのに、言葉が出てこなかった。
自分は撃つしか能のない男だ。彼女と同じ戦い方はできない。
「あたしらの中にも、引退後にあることないこと言いふらして稼ぐ、だっさい性悪女がいるけどさ。少なくともあたしもヘルも覚悟もってやってる。この先なにがあっても言い訳したりしない。リスクも大事なもんも全部背負って戦ってくって決めてんの。だったら尊重してやりなさいよ。あんた、あの子の助手なんでしょ?」
ニコラスはしばし黙りこくった。考えて、考えて。
「もちろん尊重してやりたいとは思ってる。けど、ハウンドはまだ、本当の意味での女を知らない気がするんだ。あの子は『女』を奪われた子だから」
するとフォーは口をつぐんだ。首だけではなく、身体ごとこちらに向き直ってこちらの言葉を待った。
「正確な時期は本人も覚えてないらしいが、7歳になる前に奪われたと聞いてる。月経のこともよく分かってなかった。男の俺には分らない部分もあるが……本当の意味での女を知らない子が、『女』を武器に戦っていくのはとても危険なことなんじゃないかと思うんだ。銃を見たこともない奴が銃を持つようなもんだ。使い方を誤れば、持ち主の命を奪いかねない。あの子には――」
ニコラスは顔を上げ、ハウンドを見た。
ぶすくれながらも、淡々と試着しては撮影に応じている、そんな真面目で一生懸命な彼女を。
「あの子には、これまでずっと時間がなかった。大人になるための時間も、女を理解する時間も、どれも許されなかった。あの子は確かに強いが、それは仕方なく身につけたものだと思うんだ。今すぐ強くならなきゃ何もかも奪われるから」
だからこそ、彼女にはなるべく時間を用意してあげたい。これからのことや、自分のことを考える時間を。
「女の武器云々については俺には分らんが、使うかどうかは考えてからでいいだろ。なのにこの状況だ。迫られてやむを得ず使い方も分からん武器をあの子が使わせられてんのが、俺はすこぶる気にくわない。あと、」
「あと?」
「単純に俺にはこの状況を阻止するだけの金がない。それがめっっっちゃくちゃ腹が立つ」
「あー……金がないって世知辛いわよねぇ、ホント」
フォーは長く息をついた。
「あんたが予想以上にちゃんと考えてんのは分かった。それで? あんたはどんな格好してほしいのよ」
「は?」
「ドレスよ、ドレス。そういう話だったでしょ」
「いや、それはハウンドが選べば……」
「そういうお行儀のいい答え聞いてんじゃないのよ。女ってのはね、自分のために着飾る奴もいれば、他人のために着飾る奴もいるの。あんたこれまであの子から服の感想とか聞かれたことないの?」
そういえばわりと――。
そこに至り、ニコラスはハッとした。思わず口元を覆う。
「なに、まさかやらかしたんじゃないでしょうね」
「……やった」
「ああ?」
「あいつが着た服を一度も褒めたことがない。何度か『どう?』って聞かれたんだけど」
無言のアイコンタクトがあった。
その数秒後、ニコラスはフォーからコブラツイストを極められていた。
「すまん、これは本当に俺のミスだマジですまん!」
「こんのクソボケ男……! あんな分かりやすくサイン見せてるのに無視するとかどういうつもりよっ!」
「無視したんじゃねえよ! あんな綺麗なの見てなに言えってんだっ、綺麗しか感想出てこねえよ!」
「小学生レベルの感想でも黙ってるよりマシでしょうが!!」
解放されて、お互いゼーゼーと息をつき。
「ともかく、今すぐそれ伝えてきなさいよ。感想求めてんのにダンマリとか最悪以外の何者でもないわ」
「いや、それはそうなんだが……」
「だーもうっウジウジうだうだとほんっとムカつく男ね! 今度はなによ!?」
「その、あの子が欲しがってるのは父親だと思うんだ。俺に気があるんじゃなくて」
途端、フォーの動きがピタッと止まった。
「あの子はただ、子供の頃できなかったことを今やってるんだと思う。そこに付け込みたくない。やっと甘えられるようになったんだ。素直に甘えさせてやりたい」
フォーはしばらく天井を仰いでいたらしい。ふーっと長く息をつくと、腰に手を当て、うんと頷いて踵を返した。
「行くわよ」
「? どこに?」
「父親役やろうってんでしょ? 娘がろくでもない男の選んだドレス着させられそうになってんのに、黙って見てるつもり?」
人差し指をクイと立てて、フォーは振り返った。
「一役買ってやるって言ってんのよ。あんたらには恩があるしね」
***
五大会合の当日。
夜も更け盛況さを増すターチィ一等区娼館『青楼』、小洒落たジャズの生演奏がかかるラウンジ会場にて。
ハウンドは真紅のドレスに身を包んでいた。
片方の肩だけ剥き出しにした、ワンショルダーのマーメイドドレス。首元には薔薇のフラワーチョーカーがあしらわれ、蔦とともに首元を飾っている。
その隣には今回のドレス選びを勝ち抜いた勝者が、彼女の腰元に手を添え寄り添っている。
ヴァレーリ一家当主、フィオリーノ・ヴァレーリだ。
今回の争奪戦において一番入札回数が多く、一番ドレスを送ってきた人物でもある。
悔しいが、黙って立っている分には非常に絵になる男だ。ハウンドの隣に立ってもまるで見劣りせず、むしろお互いの存在をより際立たせているように見える。
「で、結局いくらかけたんだ」
ニコラスが尋ねると、当主側近のカルロ・ベネデットは深々と溜息をついた。
「聞くな。これでしばらく大人しくなるだろうが、とんだ高い買い物だ。どうせ最後にはうちが勝つんだから一着いいのを用意すればいいっつってんのに聞きやしねえ」
「いやーまさかこんな催しするとわね。番犬ちゃん的にはOKなの?」
ロバーチ一家(元?)幹部のセルゲイ・ナズドラチェンコがニヤニヤ尋ねてくる。
ニコラスが「約束は約束だ」と返すと、「へえ?」と小ばかにしたように笑った。
「そういうお前こそ、なんでここにいるんだ。ロバーチ一家から追い出されたろ」
セルゲイの背後、ソファーにふんぞり返って黙々とウィスキーグラスを傾けるロバーチ一家当主を一瞥しながらそう言うと、セルゲイはふふんと鼻を鳴らした。
「呼び戻されたんだよ、虫除けにな」
「虫除け?」
「うちの当主はこういう色恋沙汰が絡む場所が大嫌いなんだよ。ほら、俺ちゃんってば顔いいっしょ? 護衛するだけで美女と好きなだけ飲んで話せるとか役得じゃん。ってなわけで、急遽すっ飛んできました☆」
要するに、妓女たちに話しかけられるのが鬱陶しいので人身御供役で呼び戻されたらしい。
喋ると途端に残念になるが、プラチナブロンドの髪に白磁の肌、
実際先ほどから、彼を狙う妓女がひっきりなしだ。
「まあたしかに顔だけはいいな」
「顔はな」
「うるさいですぅー」
そんなやり取りを聞き流しながら、ニコラスはハウンドに目を戻す。会合が終わってなお、彼女を囲む人垣が減る気配はまるでない。
今回はシバルバ一家の新たな当主就任が発表され、かつ特区外から出入りしやすいターチィ領であったこともあって、いつにもまして人が多い。
だからこそ、ハウンドの外交手腕を発揮するにはうってつけの場である。
――頑張ってるな。
思うところはたくさんある。けれど彼女が覚悟して臨んでいる以上、それに水を差す行為はかえって侮辱になるだろう。
「ウェッブ様」
我に返って振り返ると、ヨンハが立っていた。ヨンハはハウンドを一瞥して。
「やはりお綺麗ですね、ヘルハウンド様は」
「あんたの上司よりもか?」
「比べられませんよ、どちらもお美しい方々です。……と、言いたいところですが、やはりアネモネ様を贔屓してしまいますね」
「だろうな」
「ウェッブ様も?」
「当然」
「ははは。即答ですね。ですが、よく分かります」
ヨンハは片えくぼをつくって破顔した。本心からの笑みなのだろう。
が、一転。すぐに顔を引き締めた。
「少々お耳を。先日頼まれた件ですが」
ニコラスは言われるがまま耳を寄せる。そして内容を聞くなり眉をひそめた。
「確かか?」
「はい。褒められたことではありませんが、墓を掘り返して遺体を見分し、生前の遺髪と遺体の指先の皮膚をDNA鑑定にかけました。間違いなくリーリ様は死亡しております」
「そうか。嫌なこと頼んだな」
「いえ、私としても気がかりでしたから」
ヨンハはそう首を振った。
以前、ヨンハはこう言った。
『……チャン様を殺したのは二人の妓女です。あるいはどちらかか。……私としては一人に絞ってしまいたいところですがね』と。
とどのつまりヨンハは、ツーには一人でここまで大それた計画を一人で立て実行できるほどの能力はない、と考えていたのである。
ニコラスも同感だった。襲撃の時の体たらくといい、協力者なしでここまでこれたとは到底思えない。
だがワンは死んだ。
であれば、ツーに協力したのは誰か?
誰があの刺客を雇い、情報屋を使ってフォー陣営を唆したのか?
あの刺客を殺したのは――。
「ひとまずツーの近辺をもう一度当たってみます。恐らく処刑と同時になにもかも抹消されるでしょうから。何かわかりましたら報告を――」
ヨンハが唐突に離れた。笑みを浮かべ、一礼して去っていく。
「失礼いたしました。お取込み中でしたか?」
振り返ると、申し訳なさげに眉尻を下げたスリーが歩み寄ってくるところだった。ニコラスは「いえ」と平静を装った。
「大したことではありませんよ」
「それならよいのですが。改めまして、お久しぶりでございます、ウェッブ様。最初にお会いした時も思いましたが、いつもラフな格好をされてるぶん、こうした場でのギャップが魅力的ですね。よくお似合いです」
挨拶がてら流れるように褒めちぎる手腕に感心しつつ、「ありがとうございます」というに留める。
下手に話そうとするとぼろが出るからだ。
だがやはり顔が引きつっていたらしい。スリーが微笑んだ。
「ウェッブ様はあまりこういう場はお好きではありませんか」
「まあ苦手ですね。場違いというか。カフェの厨房で仕事してる方が気が楽です」
「あら。料理もされるんですか?」
「裏方の作業が性に合ってるだけですよ。それで、今日はどうされました」
社交辞令の応酬に耐えかねて、自分から本題に切り出す。目的のない雑談は苦手なのだ。
するとスリーはふふっと笑った。
「失礼いたしました。前置きが長かったですね。本日はお礼をしに参りました。改めて、このたびはご尽力いただき、本当にありがとうございました。妓女たちを代表しまして、厚くお礼申し上げます」
恭しくカーテシーをする彼女に、「いえ、そんなことは」と慌てて言う。
「自分たちはただ仕事をしただけですから」
「ふふ、相変わらず謙虚でいらっしゃる。ヘルハウンド様もそうですが、もっと堂々としていらしてもいいと思いますよ。ヘルハウンド様もウェッブ様も、名の知れた実力者なのですから」
「努力します」
「ええ、是非。……あら、素敵なラペルピンですね。べっ甲でしょうか。もしかしてこれがヘルハウンド様から頂いたという?」
どこからその情報を仕入れたのか。内心苦笑しつつ、ニコラスは「ええ、まあ」と返す。
「なんだか随分なものをもらってしまいました。何を返したらいいのやら」
「ウェッブ様が渡すものならきっと何でも喜んでくれますよ。ですが、もしそういったことでお悩みでしたら、いつでもご相談ください。お客様から奥さまや娘さまのプレゼントの相談をよく受けるんです」
「ありがとうございます」
「でも本当にウェッブ様からのものなら何でも喜ぶと思いますよ? たとえば――」
いきなりスリーがするりと距離を詰めてきて、ぎょっとする。
突き飛ばすわけにもいかず、どうすればいいか迷っているうちに、スリーは懐にすっぽり入ってしまった。
はたから見れば、スリーがこちらにしなだれかかっているように見えるだろう。
その姿勢のまま、彼女は耳元でささやいた。
「たとえば、あなたたちが極秘に測量して作成した、各領の地形図とか」
甘い空気は瞬時に霧散した。即座に表情を無にしたニコラスはしらを切る。
「なんのことですかね」
「とぼけなくても結構ですよ。先日リーリお姉さまを暗殺したあの刺客……あなたはすぐに建物と逃走経路から狙撃地点を割り出していましたが、あれ、土地勘のある人間でないと無理なんです」
「協力者がいましたから。彼らのおかげですよ」
「ええ。ですがターチィ領は航空地図からは分からない、軒や屋根で覆われた路地やアーケードがあちこちにあります。部外者はおろか、一家の者ですら把握してない抜け道もたくさん。
それだけではありません、とスリーは続ける。
「先日の襲撃の際、あなた方は我々の隠し通路を把握していました。ご当主様と私しか知らないはずの、です。そのうえあなた方は道を一本爆破して、ご当主様の行く手を塞ぎましたね? その場に居合わせた護衛がこう言っていたんですよ。『手榴弾を抱えたドローンが待ち構えていた』と。
そういえば、27番地で最近保護した少年がいましたね? かなりのいたずらっ子で、ドローンの改造と操縦に長けているとか」
「ウェッブ様は本当に優秀でいらっしゃる」とスリーは笑った。
「私、とても興味があるんです。あなたがた27番地は情報提供者として各一家から重宝されています。特区の物流の一部も担ってますから、ターチィ以外の他の領にも顔が利く。私たちのことをつまびらかにしておいて、他の領のことはだんまりなんて不公平だと思いません?」
「でしたら改めてうちの組合あてに交渉の場を設けてください。話はそれからです」
「あら、そんなことしなくても、ウェッブ様が口利きしてくださるだけで構いませんよ。公に場を設けては他の一家に漏れてしまうではありませんか」
「お言葉ですが、俺を落とせばハウンドが落ちると考えない方がいいですよ。あいつはいざとなれば俺ごと切る女です。要求があるなら手続きを踏んでください」
ニコラスはそれきり閉口した。これ以上は何を言われても決して口を開くことはないという思いを込めて、じっと見下ろす。
実に強かな女だ。あの時、この女はいの一番に刺客を射殺した。
カラス女ではない。殺せば真っ先に疑われる。ここまで尻尾を見せなかった相手がそんなぼろを出すはずがない。
となれば、この女はなぜ殺したのか?
――この女、わざと黙認したな?
確証は何もない。
だが実際ワンは殺され、自分たちが介入することがなければフォーも処刑され、上位四名のうち残るのはツーだけになっていたはず。
この強かさだ。ツー一人を貶めることなど、赤子の手を捻るようなものだろう。
「まあそんな怖い顔をなさらないでください。ご当主様には黙っておきますから。ただ――」
スリーが胸元にもたれかかった。髪や肌から上品な香の匂いがふわりと漂った。
「私の控室は『
何の話だ、と思った次の瞬間。
ニコラスは尻をつねりあげられて悲鳴をあげそうになった。
振り返ると、怒り狂った魔女のような形相のフォーが立っていた。
「本命がいるくせに他の女になびくなんて、いい度胸してるわね」
「いや、これは――」
「ロンダン姉さまもおふざけが過ぎますよ。ヘルの怒りを買いたいんですか。あの子は怒ると怖いですよ」
「分かっていますよ、アネモネ。ごめんなさいね。ウェッブ様ったら、あんまりにも予想通りの反応をするんですもの。ついからかいたくなっちゃって」
スリーは上品に微笑むと、何事もなかったように去っていった。すかさずフォーからお小言を食らう。
「この愚図、なに油断してんのよ」
「別に油断してたわけじゃ……」
「ロンダン姉さまはフィオリーノ様のお気に入りなのよ。下手に気を許すと面倒なことになるわよ」
「えー、なになに? 番犬ついに浮気したの? やだねぇ、すぐ尻尾振る駄犬はさ」
割り込んできた軽薄な声にゲッとなる。
いつの間にかフィオリーノがやってきていた。その二、三歩下がったところで、スリーが悪戯っぽく微笑んで会釈した。
してやられた。最初からこれが狙いか。
ニコラスは顔をひきつらせた。フォーが「ほら言わんこっちゃない」と視線を飛ばしてくる。
そして、フィオリーノの真横には――。
「えーっと、ハウンド。あのな」
ぶーっと頬を膨らませたハウンドが、無言でツカツカやってきた。遠慮なく懐に飛び込んでスンスンと匂いを嗅ぐ。
「……抱きついて付いた匂いじゃないな。冤罪か」
「分かってくれて何よりだ」
両手を挙げて白旗を挙げるが、ハウンドは唇を尖らせたままだ。完全におかんむりである。
「まあまあ、ヘル。やっと会合も面倒な挨拶も終わったことだしさ、ここはぱぁーっと打ち上げといこうよ。そこの駄犬はほっといてさ。今夜は一晩中、俺に付き合ってくれるんだよね?」
「待て。そんな話は聞いてないぞ。ヴァレーリ(そちら)が購入したのはあくまでドレス選びの権利だろう」
「そーそー。ロバーチ(こっち)はこっちでそいつに用があるんですー。つーか同伴とか初耳なんすけど?」
「ターチィ一家当主に問い合わせたところによると、ドレス選び以外の権利については、ヘルハウンド本人との直接交渉に任せるとのことです。今回ヴァレーリはヘルハウンドから此度の会合同伴の許可をすでにいただいております。初耳というなら、そちらの確認不足でしょう」
しれっとハウンドを連れていこうとするヴァレーリ陣営に対し、ロバーチ陣営が待ったをかけ、やいやい言い争いが始まった。
ハウンドが辟易したように溜息をついた。どいつもこいつも彼女の意思はガン無視だ。本当にろくでもない連中である。
「会合の同伴であれば、会合後の同伴はまだ許可を得ていないということだろう。ヘルハウンド、こっちに来い。先日の武器購入の件で話がある」
「へーい、じゃじゃ馬、こっちおいでー。つかそれ終わんないと俺ちゃんが遊べないからはよこっち来てお願いだから」
「ヘール、早くいこ。俺のドレス着てくれたってことは、そういうことなんでしょ?」
「悪いことは言わん。今日は大人しくこっちについてきてくれ。これでロバーチについていったら、今後うちとの交渉がすこぶる面倒になるぞ」
四人が好き勝手ハウンドを呼びつける。
ハウンドは「乙女ゲームのルート選択かよ」などと呟いているが、随分と夢のないルート選択だ。待っているのはどれもバッドエンドだろう。
「ハウンド、どうする?」
「どれも嫌だ……うちに帰りたい」
だろうな、と思いつつ。
「じゃあ五つ目の選択肢にしてみるか?」
「えっ?」
ハウンドが目を真ん丸にして振り返った。四人もまた「は?」と言わんばかりにこちらを見た。
「五つ目、このまま会場を抜け出してチコの店でピザパする。店なら貸し切ってあるぞ」
「はあ? なにそれ。行くわけ――」
「ピザ!? 行く、ぜったい行く!!」
フィオリーノの発言を蹴飛ばして、ハウンドが飛びついた。その目はピザへの期待でキラキラだ。
決まりだな、とニコラスは笑った。
「と、いうわけだ。俺たちはここらでお暇させてもらうぞ」
「はあ!?」
「……話はまだ終わってないが」
「あーあー、やっぱこうなんのかよ……」
「ここはドレス選びと同じく、本人の同意のもと同伴権利をかけて競売にかけた方が後腐れがないと思うんだがな」
口々に不満を言い募る四人の前に一人の人物が進み出た。フォーだ。
「それはなりません、ベネデット様。ご当主様が申し渡した通り、ドレス選び以外の権利につきましてはヘルハウンド様次第。そしてこのルールは27番地より要求されたもので、ヘルハウンド様の権利侵害防止を旨として設けられました。どの方であろうと、彼女の意思に反した決定は許されません」
「ならそのルールの変更を要求する。ヴァレーリ・ロバーチ・27番地各自の関係を良好に保つためにも、ある程度の妥協は必要だ。だろう?」
カルロがハウンドに目を向ける。ハウンドは迷ったそぶりを見せたが、彼女が答えるより早くフォーが拒絶した。
「お断りいたします。我らターチィとしても、27番地との関係悪化は避けたいですから。何より、たった今、ヘルハウンド様はウェッブ様を選ばれました。『ドレス選び以外の権利については、ヘルハウンド本人との直接交渉に委任する』……であれば、今回の勝者はウェッブ様です。まさか当主側近ともあろうお方が、自分たちが選ばれなかった腹いせにルールの変更を要求するなど、そんな姑息な真似は致しませんよね?」
カルロが黙りこくる。が、今度はセルゲイが反論した。
「ちょい待ち。それだとこの番犬がどう考えても有利だろ。やり直しを要求する――」
「あ、フォー。こいつがこないだ話したハッカーだ。性格はアレだが腕は保証するぞ」
「へえ、こいつが。スシロ」
「はい、姐さん!」
ニコラスが言及すると、フォーは指を鳴らした。
即座にスシロが部下とともにすっ飛んでくる。で、そのままセルゲイを羽交い絞めにした。
「えっえっ、なに? なにこれ、なんなの!?」
「よお、ハンサムな兄ちゃん。ちっと向こうで話そうや。俺たちゃあんたに興味があってね」
「俺ちゃんは興味ありません!! あぁ、せっかくの美人なチャンネーと遊べる機会が……!」
哀れなセルゲイがスシロたちに連行されていく。その様子を無感動に眺めていたルスランのもとに、今度はヨンハがひょっこり現れる。
「お初にお目にかかります、ロバーチ一家ご当主様。自分はターチィ一家所属妓女ナンバー・フォー『アネモネ』お付きの――」
「御託はいい。要件はなんだ」
不機嫌そうに睥睨するルスランの視線は極寒である。しかしヨンハも負けじとにっこり笑顔を浮かべた。
「では単刀直入に。マレーシア湾港の使用権について興味はございますか? 主要湾港内で、ベトナム企業が撤退した直後の、欧米も中国もまだ手を付けてない場所です。たしか先日、船舶保険会社の運営を立ち上げられたとか」
「……聞こう」
「ありがとうございます」
ルスランがヨンハとともに、先ほど座っていた席に戻っていく。これで残るはあと二人だが、この二人が一番厄介だ。
「根回ししてやがったな。要らん知恵つけやがって」
カルロが舌打ちした。恨めしげに睨んでくるフィオリーノといい、このまま引き下がる気はないらしい。
さて、どうしたものか。奥の手を使うか。それともまずカルロから攻略していくか――。
ハウンドが袖を引っ張った。
「ニコ、あれ」
「あれ使うのか? それなら奥の手の方を――」
言いかけた口に、華奢な指が当てられる。
「ダ~メ。借金してまで他人のために金使うのはよくないんでしょ?」
「……フォーから聞いたのか」
「まあね。てか、もともとこういう時のために用意してたんだから別にいいよ。渡すのはどれでもいい?」
「…………任せる。けどあんま軽々しく使うんじゃないぞ」
「分かってるって」
預かっていたスマートフォンを渡すと、ハウンドは慣れた手つきで画面を操作した。直後、カルロの懐からピロンと音がした。
訝しげに懐から端末を取り出し、画面を見るなりカルロはわざとらしく溜息をついた。
「何のつもりだ、ヘル。こんなもんで譲歩しろとでも――」
ピロン、ピロン、ピロン、ピロン。
「おい、なんか言え。黙って画像送ってくんな」
ハウンドは応えず画像を送り続ける。
もちろん送っている画像は、今回のドレス選び争奪戦参加者から送られたドレスを着た写真である。ちゃんとスタジオを組んで撮影したブロマイドだ。
「まあまあ、そう言わず。今ならなんと贈り主のホットな情報付きだ。売るもよし、加工するもよし、脅迫材料にするもよしだ。あ、売るなら一枚300ユーロ以上な。売り上げの二割はこっち持ちで」
「あのなあ。その手のネタを俺が持ってないとでも思ってんのか。こんなもんより今は
ピロン。
そう鳴った直後、カルロの表情が固まった。黙って手元の端末を凝視している。
ハウンドが送った画像をみせてくれる。ニコラスは眉間にしわを寄せた。
昔、カルロがハウンドの助手を務めていた頃、彼が彼女に贈ったドレスを着た写真だった。
「売るなら一枚500ユーロ以上で♡」
「粗末に扱ったらぶっ殺すぞ」
ハウンドに続いてそう言うと、カルロはしばらく黙っていた。
そしてまたも仰々しく溜息をつくと、素早く端末を操作して懐にしまい。
「さあ行きましょうか、首領。ドレス着てもらえてよかったですね」
「嘘でしょカルロ、今ので買収されたの!?」
フィオリーノが目を剥いた。だがこれで勝敗は決した。
「アフターサービス期待してるぞ、ヘル」
「はぁ~い。ってことでまたな、フィオリーノ」
「そんなぁ……! せっかく頑張って奮発したのに!」
「はいはい。今度プライベートで護衛してやるから、それでチャラってことで」
「いやだ、いやだ! 一晩中相手してくれるって言ったもん! 俺だけ見てくれるって言ったもん!」
「言ってないぞ~」
ハウンドはそう言うが、聞いていない。フィオリーノが嫌々と駄々をこねた。
どう見ても幼児の振る舞いだが、それでも様になるのだからイケメンという生き物はつくづく得である。
だがこれで何とかけりはつきそうだ。ニコラスは肩を下げた。
助かった。これでフィオリーノが折れてくれなかったら、奥の手を使うしかなかった。
フォーが肩眉を吊り上げて話しかけてくる。
「よかったわねぇ、500万ドルの借金しなくて。ま、あたしとしては全然してもらって構わないんだけど」
「……色々と口利きしてくれたことは感謝する。その、借金の話はなかったことに……」
「残念だわ、腕利きの狙撃手を一生こき使ってやるつもりだったのに」
「駄目だぞ、フォー。いくら君でもニコはあげない」
ハウンドが腕に抱きついてきた。突然のことで思わず肩が跳ね上がる。
そんなこちらの様子に呆れ果てた顔をしながら、フォーは溜息をついて腰に手を当てた。
「要らないわよ、あたし以外の女にぞっこんな男なんて。そういう男に振り回されるのは、もうこりごりなのよ」
そう言ってフォーは踵を返し、数歩歩いたところで足を止め、振り返った。
「そういえば、あんたの母親もダンサーだったんだって?」
「え? あ、ああ。まあ。売れないダンサーだったが」
話の流れがつかめず困惑していると、フォーは「へえ」と不敵に笑った。
「じゃあ、ちょっと観ていきなさいよ。あたし、あんたのママより踊るの上手いから」
それだけ言って、フォーはいまだ不貞腐れたままのフィオリーノのもとへ向かった。
「フィオリーノ様、ヘルハウンド様の代わりと言っては何ですが、わたくしはいかがでしょう? ちょうど今からショーを行う予定でして」
「ちょっと話しかけないでくれる? 俺いますげー機嫌悪いから」
「フィオリーノ様、面白いもの、見たくないですか?」
フォーの声質が変わった。被った猫を脱ぎ捨てた、蓮っ葉であけすけのない不遜極まりない妓女がそこにいた。
顔を上げたフィオリーノの目がすうっと細まる。鼠を見つけた猫のように。
「面白くなかったら?」
「ご自由に」
「それ殺してもいいってこと?」
「もちろん」
「ふぅん? じゃあいいよ、やってみな。けど俺、二言はないよ?」
「望むところですね」
挑発的に微笑むと、フォーは身を翻した。
ラウンジ奥の舞台の上、天井にまっすぐ伸びる金属ポールへ歩を進めながら、着ていたものを次々と脱ぎ捨てていく。
周囲の視線が自然とフォーに釘付けになった。演奏が止み、代わりに群衆のざわめきがラウンジに満ちていく。
フィオリーノは楽団の近くの席に腰を据えると、指揮者を呼びつけて曲を注文した。
「オペラ《カルメン》よりハバネラ。少し早めで」
楽団はすぐに応えた。フォーもまたそれに応えた。
するりとポールにまとわりついて、高く高く昇っていく。だが昇っている動作は一切見せない。
まるでワイヤーか何かで吊り上げているように、はた目にはフォーが重力を無視して昇っていくようにしか見えない。
それでいて格式高い名劇場のバレリーナのように清淑で、息をのむほど艶めかしいのだ。
今や会場の誰もがフォーに釘付けだった。
ここでフィオリーノが曲を変えた。
「シューベルト、『魔王』」
一瞬でテンポが変わる。気まぐれな女の恋歌から、焦る父を唆す魔王の歌に。伸びやかな曲長が緊迫したものに様変わりする。
だがこれにもフォーはついていった。
伸ばした手足の柔らかな動き、しなやかにどこまでも曲がる女体。それでいて身体はポールに留まったまま、宙をくるくると回りながら次々に技を決めていく。
次第に興が乗ってきたのだろう。フィオリーノはどんどん曲を変えていった。
クラッシック、ジャズ、カントリー・ミュージック、はてはロックにヒップホップにポップミュージックまで。
次から次へ変わる曲に合わせて、フォーも手練手管を変えついていく。
会場から歓声と拍手が沸き起こった。
「綺麗だね」
「ああ」
ハウンドに、ニコラスはそう答えた。昔の光景を思い出しながら。
あの日、舞台で踊る母も綺麗だった。だがその思いをこれまでずっと否定し続けてきた。
我が子より舞台を選んだ母が憎かった。許せなかった。哀しかった。
けれど、なんだかそれに囚われ続けているのも、馬鹿らしくなってきた。
なんだ。母さん、踊るの下手だったんだ。フォーの方がずっと上手いじゃないか。
でも――。
「綺麗だな」
そうだ。綺麗だった。美しかった。
あの日、あの晩、あの女は間違いなくスターだった。ただ一人の少年だけのスターだった。
それに気づかぬまま死んだのだ。ざまあない。
「お二人とも、どうか今のうちに」
振り返るとヨンハが立っていた。すでにルスランとの商談を終えたらしく、さりげなく群衆の間に道をつくって出口へ案内してくれた。
「もうすぐ12時です。舞踏会を抜け出すにはちょうどよい時間でしょう」
それを聞いてニコラスたちは顔を見合わせて笑った。
「なら魔法が解ける前にさっさとずらかるか」
「だな。ダンス踊ってくれる王子より、ピザの方が大事だ」
笑顔のヨンハに見送られ、小走りで会場を後にする。人気のない廊下を二人きりで走るのが、こんなに楽しいものだとは思わなかった。
館を出て、正面エントランス前の階段の上で夜風に当たりながら、ハウンドが大きく伸びをする。
「あ~、空気が美味い! 外サイコ~!」
「やっぱああいう場所は肩凝るな」
「ね~」
ハウンドはアップされていた髪も早々に解き、首元のチョーカーも外してしまう。よほど窮屈だったのだろう。
ショールだけでは寒かろうと、ニコラスは自分のモッズコートをハウンドの肩にかけた。最初の夜会の時はフォーに怒られっぱなしだったが、多少はマシになっているはずである。
そこでふと、ハウンドの首元に目が留まった。
「これ、着けてたのか」
ハウンドの細首に、不釣り合いで武骨なパラコードがかかっていた。ニコラスが渡した弾丸のネックレス、HOG’s Toothだ。
「ん? ああ、これね」
「ずっと着けてたのか?」
「そりゃもちろん。服は指定されてたけど、アクセサリーは何も言われてなかったし。だからあのチョーカーにしたんだよ。この紐、緑っぽいらしいし、弾丸の部分は花で隠せばいけるってチコがさ」
どうやらネックレスを誤魔化すためにこのチョーカーを選んだらしい。
「昔、『連れてってくれ』なんておも~いお願いしてきた、嘘つくのがド下手の寂しんぼがいてね。置いてったら拗ねちゃうでしょ」
「……別に拗ねたりしない」
「えぇ~? 本当に~?」
「いいからコート着ろ。風邪ひくぞ」
「はぁ~い」
やや強引にコートのファスナーを閉める。両頬に集まった熱をなんとか無視して、腕を差し出す。
「階段、大丈夫か?」
「だいぶ慣れてきたから平気」
「無理すんなよ。いざとなったら抱えるから」
「こんなとこでお姫様抱っこする気?」
「靴ずれするよりマシだろ」
「あ、そういうのは平気なの。ふぅん……」
含みのある言い方に「なんだ?」と目を向ければ、ハウンドはじぃっとこちらを見つめるばかりで。
「ニコってボーイッシュな服が好み?」
「は?」
そんな突拍子のないことを言い出すのだから、目が点になってしまった。
「いきなり何の話だ」
「いや、だって。私が女らしい恰好するとすぐ目そらすんだもん。もしかしていつものウェイターの格好が一番好きなの? あれの時が一番目合わせてくれるし」
ニコラスは返答に窮した。
いま聞くのか、それを。いや、悪いのは逃げ回っていた俺か。
「あーその、逆に聞きたいんだが、ハウンドはああいう格好が好きなのか? その、こういうドレスとかだけじゃなくて、こないだの潜入で着てた服みたいな……」
「SMコンセプトバーで着た狼コスのやつ? まあぶっちゃけると、服にはあんま興味ないかな。色分かんないし。着心地がよくて動きやすければそれでいいや」
「そ、そうなのか」
「ただああいう服着ると、相手が油断するんだよね。一目で武器もってないって分かるし、こっちが若い女だって分かると舐めてかかる相手は多いからさ。露出多い服はいいぞ~。男相手だと大抵は怯むし、上手くいけば戦う前に戦意喪失して突っ立ってるだけになるしな。素手で戦えば武器もってなくても問題なし! 良いこと尽くしだ」
そりゃあ半裸の美少女が銃持った相手に身一つで突っ込んできたら怖いだろう。弾避けるし、素手で殺しにかかってくるし。
突っ立っていたのも、あまりの光景に思考停止に陥っていただけな気がする。もちろん中にはノックアウトされた奴もいるかもしれないが……。
「けどガチで強いやつ相手だと効果薄いんだよね~。『トゥアハデ』の双子も効果なかったし、ルスランもいつもと反応変わんなかったし」
「ちょっと待て。ルスランにもやったのか?」
「いつもの『家庭訪問』でね。周りの兵士は雄たけびあげてた」
「だろうな……ってそういうことじゃなくて」
「ルスランからはその服なんの意味があるんだって聞かれた。失礼な奴だよな。この魅惑のボディを見てあの反応だぞ」
あいつ、天然か。いや、この場合ハウンドも天然なのか?
ニコラスは眉間に手を当てた。もはやどこからツッコめばよいのやら……。
「ってことはやっぱニコはああいう服は苦手? 私はあれメリット大きいから着てるけど、トラウマとか刺激すんなら控えるが……」
「ああいや、そういうわけじゃない。トラウマとかそういうのじゃなくて、単純に目のやり場に困るというか、その――」
ごにょごにょと言いごもってしまう。内心では頭を抱えていた。
困りに困って、脳内にドルフとバートン教官を召喚してみる。己の父親代わりになってくれた人たちだ。彼らなら、なんと言うか。
『ああ? んなもん、ナイスおっぱいって言っときゃいいんだよ! 目の前に立派な乳あったらそりゃ拝むだろ!』
『常識的に考えて戦闘時における過度な露出は得策ではないだろう。軽量化すればよいというものではないぞ』
駄目だ。まるで参考にならない。
というか。
――こいつ、俺が反応しないと本気で思ってんだな。
母親の影響で俺が女性を嫌っていると思っているせいか。それとも俺を父親代わりにみているせいか。
いずれにせよ、ハウンドは俺を男として見ていない。というか恐らく、恋愛感情に至るほどまだ精神が発達していない。
女の武器とその使い方は理解していても、それがどういうメカニズムで効果を発揮するのかは分かっていないのだ。
銃の使い方は知っていても、その仕組みと構造は知らない、みたいなものだろう。
だからこうも言動がちぐはぐなのだ。分かっているようで、なにも分かっていない。
きっと彼女の心の時計は、これまでの悲惨な出来事でずっと止まっていたのだ。時を止めることで、心を守っていた。
それが今、ようやく動き出したところなのだろう。
ならば、今はなにも言うまい。
俺に対して無防備なのは、それだけ安心してくれているということだ。それでいいじゃないか。
ニコラスは無理やり口を開いた。ともかくハウンドの質問に答えねば。
「服は、お前が着たいものを着ればいい、と思う。俺はそういうののセンスないから。俺の好みに合わせる必要もない。ただ露出の多い服は控えてほしい、特に戦闘時は。普通に危ないし。あとボーイッシュな服が好みとかの話だが――」
ハウンドと目が合った。じっとこちらを見上げる深緑の双眸は、いつにもまして真剣だ。だからこそ、こちらも真剣に向き合わねばと思う。
好み。好みか。
たしかに思い浮かべる彼女はいつもウェイターの格好をしている。トレードマークの黒いフライトジャケットを着ていて、ポケットに手を突っ込んで、明かりを背にこちらを見下ろしていて。
でも、それは。
「そうだな。いつもの格好のお前が一番好きかもな。俺を拾ってくれた時、あの格好だったから」
ボロボロで負け犬だった俺を拾ってくれた、綺麗でおっかないヒーロー。
美しいと思った。
髪も、瞳も、服も、靴も、すべてが漆黒で、肌とワイシャツだけが白い。白黒映画の中から飛び出したような姿なのに、なにもかもが鮮やかでキラキラと光って見えた。
最高にクールだった。
「かっこいいと思ったんだ。だから服の好みを言うなら、あの格好が一番す、き……」
言葉が尻切れトンボになった。
ハウンドは真っ赤になっていた。時たま見かける恥じらってもじもじしているやつでも、慌てふためいているやつでもない。
口元がちょっとニヤけていて、それを必死に抑えているような。沸騰寸前のやかんのような……なんだか見ているこっちも赤面したくなってきた。
というか俺、ものすごくこっぱずかしいことを言ったのでは?
互いに赤面したまま黙りこくり、顔を背ける。何とも言えない空気が漂っていた。
どうしよう、と思っていた矢先。
ハウンドがおもむろにフードを被った。そして――
「ふんっ!」
「ハウンド!?」
ギュンッ、とフードの紐を絞った。ものすごい勢いでフードが閉まり、ハウンドの顔が見えなくなる。
そしてそのままふらふら歩きだした。
「待て待て待て! そのまま歩くな前見えてないだろ、ここ階段だぞ!」
「平気だもんっ。匂いでなんとかなるもんっ」
「馬鹿そこ段差! ああもうっ」
「ギャーッ! こんなとこで抱えるなぁ!」
「足くじくだろ! 歩きたかったらフード取れ!」
「ヤダっ」
「わがままかっ」
ギャーギャー暴れるハウンドを何とか抱えながら階段を駆け下りる。
周囲から何事かと目を向けられるが、腕の中のハウンドを見てああと納得したように頷かれる。
なんだ。子連れのパパか。
断じて違う。
というか、何人かは「こんな夜更けに娘を連れ回して……」という批判じみた目を向けてくるので、ニコラスは大急ぎで迎えに来ているはずのチコたちのもとへ走った。
***
「なーにやっちゃってんだか。せっかく途中までロマンチックな雰囲気だったのに」
「でもなんだか二人らしい気がするネ」
「それもそうね」
イヤドにそう頷いて、チコは隣を盗み見た。
「嬉しそうね、イヤドちゃん」
イヤドはきょとんと目を丸くした。初めて見る表情だ。意外と本心を見せてくれない常連客だった。
してやったことに気をよくしながら、チコは大きく頷いた。
「ええ。とぉっても嬉しそう」
「そう、かナ。うん、そうかも」
イヤドはゆるく微笑んだ。どことなく寂しそうで、眩しそうで。
「そうだね。二人が楽しそうで私も嬉しいよ」
「そうね」
チコは気づかないふりをした。
***
ターチィ一家当主ヤン・ユーシンは、スリーとともに長い廊下を歩いていた。
青楼にはあちこちへ通じる抜け道がある。ここもその一つ、一等区北部エリアの折檻所に通じている。
背後から微かに歓声が聞こえる。
地下ゆえに反響しているのだろうが、すでに北部エリアに入っているはずなのにまだ聞こえるのだから、相当盛り上がっているのだろう。
「盛況ですね」
「ああ。最後の最後で見事に化けたもんさ。お前のいい競走馬になるかもねえ」
先日の交渉、フォーが書かれた台本を読んでいるのは分かっていた。だが馬鹿なりに本質を突いてきた。
これだから色恋沙汰は面白い。女も男も、愛する者が絡んだ途端に牙を剝く。
スリーは優雅に不遜に微笑んだ。人を食ったような笑みだった。
「そうですね。ですが50年後も立っているのは私の方です」
「おやおや、80のババアになっても現役でいるつもりかい?」
「少なくともご当主様より長生きするつもりですよ」
「ハッ。言うじゃないか」
だがそれでいい。女はそうでなくては。
誰かに傅き支配を待つだけの女など、つまらない。女を貪るのは男ではない。女こそが男を喰らうのだ。
しかし一転、スリーは柳眉をひそめた。
「ですがご当主様、出過ぎたことを承知で申し上げますが」
「分かっている。結果的に相応の益は得られたが、高い買い物だったのも事実だ。忌々しい限りだが、代行屋二人に借りができちまったねえ」
フォーはもちろんのこと、あの代行屋二人も、これにはさすがに気づけまい。
このターチィ領が、たった一人の女を囲うための箱庭であったなど。
「あの女がもたらした情報は確かに有益だった。『双頭の雄鹿』とか言ったか? とんだペテンに踊らされたものだ。そんなのに寄生されるこの国もこの国さね」
「では……」
「変わらないよ。このままチュリップを始末して終いさね。お前にも苦労をかけたな」
「もったいないお言葉にございます」
「代行屋の坊やは気づいたかい?」
「どうでしょうね。いい目を持っているのは確かですが、
「やはり女が弱点か。となると、あの小娘がついている限りは篭絡するのは無理そうだねえ」
「御心配には及びません。ヘルハウンド様にはアネモネが上手くコンタクトを取ってくれています。彼女が動かない限り、彼が動くこともないでしょう。ヘルハウンド様の勧誘は、またの機会に」
「分かっているさ。だが大魚を追いかけて龍を逃がした気分だよ、まったく。せっかく滝を昇る鯉がいたというのに、惜しいことをしたものだ」
折檻所に到着する。低頭して迎える部下たちに応えながら、スリーを振り返る。
「チュリップを連れてこい。あたしが選んできた枷だ。あたし手づから引導をくれてやる」
一分後、スリーがツーを連行してきた。その部下たちも。
ツーはだいぶ荒んでいた。一番いい牢に放り込んだが、髪も爪も身なりも以前の見る影もない。
もとより傲慢不遜で他人をコントロールすることが好きな女だった。そして、気に入った者にはどんな手を使っても縋りつく。
その厄介さゆえに枷として選んだ。
引っ立てられたツーは、こちらの顔を見るなり怯えた顔をした。だがすぐにニタっと嫌な笑みを浮かべる。
虚勢か、それとも気が触れたか。
スリーが一礼して背後に引き下がる。それを横目に、当主は一歩前に進み出た。
「先刻の宣言通り、お前に死刑を言い渡す。とはいえ、お前はあたしが選んだ女だ。美しく死なせてやろう。毒か首刎ねか、好きな方を選ぶと」
トン、と背後から衝撃が走った。
当主は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
だが腹部に走る灼熱で、腹を刺されたと理解した。
簪を引き抜き、背後に振りぬく。だが相手が避ける方が早かった。
「ご当主様……!?」
事態を察した側近たちが駆け付けようとする。
だがツーの部下たちが阻んだ。なぜか拘束が解かれている。
「お腹をやられるのって結構痛いですよね。衝撃だけでも死ぬかと思いました」
その声を聞いて、当主は総毛だった。違う、スリーじゃない。これは――。
「き、さま」
「老いましたね、ご当主様。私のこと、本当に気づかなかったんですか?」
スリーが顔をぬぐい、髪を脱ぎ捨てた。
「リーリ……!」
地べたに這いつくばるこちらを、ワンがにこやかに見下ろしていた。
死んでなどいなかった。
ワンはさりげなく簪を握る手を踏みつけ、踵でにじった。
「駄目じゃないですか。一番弟子を見間違えるなんて。それともついにぼけちゃったんですか?」
「ロンダン、は」
「彼女ならまだ会場ですよ。それと一つ、嘘をつきました。代行屋のあの番犬はロンダンにもなびきませんでしたよ。あんなに女慣れしてないのに、ロンダンの渾身の誘惑に顔色一つ変えないんですもの。大した一途さです。あそこまでぞっこんだと、逆に奪ってみたくなりますね。あんな小娘がそんなにいいのかしら」
意識が遠のいていく。手で押さえて止血するが、その手ごと蹴飛ばされて悶絶する。
「お姉さま……。ああ、リーリお姉さま……!」
呆然と座り込んでいたツーがワンに駆け寄った。
揺れる眼球はワンしか見ていない。あまりの急展開に頭が追い付かないのだろう。
ワンは震えるツーを抱きとめ、優しく髪を撫でた。
「驚かせてごめんなさいね。怖かったでしょう?」
「うん、うん……。でもリーリお姉さまが生きててよかったぁ。ほんとに、ほんとに、死んじゃったんだって……!」
「黙っていてごめんなさいね。話す時間がなくて」
「ううん。いいの。だってこうして迎えに来てくれたし」
ツーはひしりとワンにしがみつく。
当主は自らの失態を悟った。ワンの枷として用意した女は、とうの昔に陥落されていたのだ。
「手が早いですよ、『モリガン』。私が来るまで待ってくれと言ったじゃないですか」
初めて聞く声がした。狭まる視界で眼球を巡らす。
いつの間にか男が立っていた。泣き黒子のある優男だ。
「あら、失礼しちゃうわね。まるで私にこらえ性がないみたいじゃない」
「違うんですか?」
「分かってないわね。喰らう側だと思い込んでる人間が喰われるときにみせる、この顔がいいんじゃない」
カランと音がした。
握りしめていた簪を、ワンが遠くへ蹴飛ばした音だった。
ああ。自分はこんな状況で武器を手放してしまうほど、老いたのか。
優男の部下が自分を取り囲んだ。問答無用で注射薬を投与して止血し、担架に乗せようとする。
だが自分を助けるためでないことは、担架につけられた拘束バンドから見て明白だった。
優男がくすくす笑いながらしゃがみこみ、顔を覗き込んでくる。
「お久しぶりです、ご当主。この度は我々に協力して『モリガン』を匿ってくださり、ありがとうございました」
「おまえ、は」
「名なら覚えなくてもいいですよ。便宜上、今はオヴェドと名乗っておりますが、どうせまた変わりますから。あなたが我ら『双頭の雄鹿』に協力するふりをして情報を引き抜こうとしたこと、これは許しましょう。隙を見てブラックドッグを中国へ引き渡そうとしたことも、まったくよくありませんがまあ目を瞑りましょう。
ですが我々を出し抜こうとしたことはいただけない。恐らくこのまま大陸に戻って中国政府に恩を売るつもりだったのでしょうが……最後の最後で油断しましたね」
「ええ。詰めが甘かったですね、ご当主様。随分と気前よく役職をくれるとは思ってたけど、合点がいったわ。あなた、だいぶ初期の段階で気づいてたのね。だから私を囲い込もうとした。立場を与えてしまえば、色々と行動を制限できるものね。潜入工作員の弱点だわ」
当主は血を吐きながら、男と女を睨み上げた。本当は唾ごと吐きかけてやりたかったが、その力ももうなかった。
「よく、言う。あたしの国を、滅茶苦茶にしやがって」
「あら、わざとじゃないんですよ? この子がどうしてもって言うから」
ワンが腕の中のツーを覗き込む。ツーが「え」と声を漏らした。
「ターチィ一家がこれまで黙認されてきたのは、アメリカ国内の社会正義という後ろ盾があってこそ。その後ろ盾を自ら手放す代理出産業なんて、本当はやりたくなかったんですよ?」
「でも姉さまあれは、あの女たちが、悪いんじゃない……!」
呆けていたツーの目元がみるみるうちに吊り上がっていく。
か弱い女から鬼女へ。ツーは唾をまき散らして怨嗟を振りまいた。
「なにが女を保護する団体よ。あのどブスどもがっ、チュリップや姉さまを、まるで汚らしいものみたいに……! 男に身体売るくらいなら、女のために子供産めって言ったのよ……!? ガキなんて誰が孕むか!
そうよ、あのブスどもの卵子なんて、こっちで勝手に醜い男の精子と番わせてやればいいのよ。優秀な男の精子だって言って、楽しみに待ってるあいつらに、自分と瓜二つの醜いガキ突き付けてやればいいのよ! 姉さまだって、いい案だって言ってくれたじゃない……!」
「ええ。だからあなたの好きにさせたのよ。ごめんなさいね。もとはと言えば、あなたに話した私が悪いんだわ。あなたは優しい子だから」
そう言ってワンが抱きしめた途端、ツーが大人しくなる。母親に抱きかかえられて泣き止む赤子のように。
「ううん。いいの。ちゃんと復讐できたから。迷惑かけて、ごめんなさい」
「いいえ、私の方こそ無理をさせてしまったわね。苦しかったでしょう。だからもういいのよ? あなたは普通の女の子なんだし」
「ううん。チュリップもお姉さまと一緒にいく。一人にしないで」
「いいの? 本当に?」
「うん! お姉さまと一緒がいい」
「そう。ありがとう、チュリップ。嬉しいわ」
ワンは心から嬉しそうにほころんだ。
「じゃあ、遠慮なくもらうわね」
「え?」
それがツーの最後の言葉となった。
ワンに首筋に注射薬を打たれ、音もなく崩れ落ちる。
「おま、え」
「心配いらないわ、ご当主様。殺してないから。少し年は過ぎてしまっているけど、この子はまだ若いから、余すことなく全部使えるわ。まあ私には必要ないのだけれど」
その無邪気な笑顔に、悪気のかけらもない声に、当主はぞっとした。
『モリガン』。その名を聞いて、かの島国における破壊と殺戮を司る戦女神を思い浮かべる者は多い。
だがこの女神モリガンと同一視される存在がある。
モルガン・ル・フェ。妖精モルガン。
騎士王アーサーを死に追いやった邪悪な魔女。
この女の由来は、恐らくこちらからだ。
工作員として名を挙げたこの女は、他者を殺してその人物に成り代わるのを得意とする。
妖精が人間の赤子を自分の子をすり替える、取り替え子(チェンジリング)のように。他者を壊し、その人生を奪って入れ替わる。
破壊の女神と邪悪な妖精を兼ね備えた生粋の悪女。
ワン――モリガンはもはや意識のないツーに一方的に語りかける。
「ねえチュリップ、他人を推すのって、実はとっても危険な行為なのよ。自分だけはあの人を分かってあげられるという思い上がり。その優越感に浸る自己陶酔。だからこそ、その欲求を満たしてくれる人間に人はのめりこむ。それを理解することが女にとって一番の武器になるのだけれど……あなたには最後まで分からなかったみたいね。
でも大丈夫! これからはずっと一緒よ。だって私があなたになるんだもの」
白目を剥き、涎を垂らして気絶するツーの前にしゃがみこんで、モリガンは嬉しそうに言った。
蟻の巣に水を流し込んで、それを楽しげに眺める幼女のようだった。
優男が呆れたように言う。
「顔は剥がないんですか?」
「要らないわ、そんなの。自前ので十分。そのために育てたのよ?」
「勿体ないですねぇ。ではこれは私がもらっていくとしましょう。ちょうど新しいのが欲しかったんです」
優男がツーの髪を掴んで引きずっていく。モリガンはこちらに目をやって、「あら」と微笑んだ。
「まだ意識があるのね。さすがご当主様。活きがいいわ」
担架に拘束されるこちらを、にこやかに見下ろす。
その顔が徐々に見えなくなっていく。視界の端が黒く、狭まっていく。
「安心してください、ご当主様。私の知り合いに……ああ、お客様というべきでですね。お客様に大学病院の院長先生がいるんです。その人のもとで治療に専念していただきます。ああ、そうそう。私が撃たれた時も、本当は防弾コルセットの上に輸血パックを巻いていただけなんですけどね。院長ったら、車の中で起き上がった私にびっくりしちゃって、危うく事故に――」
あまりに場違いな、無邪気にはしゃぐ声。
それが反響して遠ざかっていく。
当主は自分が利用されることを悟った。だがもはや、どうしようもなかった。
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次の投稿日は5月24日(金)です。
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