10-11
「スシロ、傷みせな。手当てしてないの、あんただけよ」
フォーは救急箱を小脇に抱えてそう言った。
北区の折檻所から車で三分とかからない距離の、二等区西部の娼館街の一角。
シバルバ国境警備の詰所として活用していた三階建てビルに、フォーたちは立てこもっていた。
脱獄してからまだ一時間と経っていなかった。
「姐さん、俺のことはいいから」
「つべこべ言わず黙って座りな。今のあんた、あたしが殴って倒せそうなぐらいぼろぼろよ」
そう言うと、スシロは渋々地べたに胡坐をかいた。
低身長であることがコンプレックスのこの部下は、ともかく弱いと言われることに我慢ならない性格だった。
こうすれば折れると踏んだが、案の定だ。
「ヨンハは」
「……折檻所をくまなく探したんすけど、見つけられなかったっす。ここにもいないってことは、看守どもの言うとおり、本当に釈放されたのかも」
「そ、なら安心ね」
「?」
「こんな状況であたしらを釈放したがる連中なんて、一人しかいないでしょ。きっとヨンハはヘルと一緒にいるわ」
「代行屋の姐さんですか。ならあいつは大丈夫か……、あ。姐さん、代わります」
「あたしの怪我の処置ならとっくに済んでるわよ」
そう言って、フォーはさっさと立ち上がった。
「ほっとくとピーピー泣き喚きながらどこまでもついてくる馬鹿がいたのよ。うるさいったりゃありゃしない」
スシロは答えなかった。その反応を、フォーも見る気はなかった。
『アネモネ、アネモネ。鼻血でてるよ。止血しないと……』
『うっさいわね。喧嘩なんだから鼻血ぐらいでるに決まってんでしょ。あんたこそなに、あのへなちょこパンチ。ああいうのは腰を入れてやんのよ』
『ひ、人を殴ったの、初めてで……。あ、止まって。足元ガラス、』
『んぐらい見えてるわよ、あたしに指図しないで』
『でもせめて手ぐらい――』
『はあ……そういうこと。それが狙い? あたしね、そういうちんけな親切と言葉で善人よそおって、タダ寝しようとする客が一番嫌いなのよ。その程度で股開くと思ってんの?』
『ち、違うよ。ただ――』
馬鹿な男だった。
育ちのいいボンボン客で、チビの眼鏡で小太りで、店に来てもお目当ての女にスケッチのモデルを頼むばかりで触れもしない。
手を握るだけで真っ赤になる、みるからに童貞くさい冴えない男だった。
そのうえ価格交渉もせず、言い値を馬鹿正直に払っていた。体のいいカモだった。
それを自覚しているくせに、へらへら笑うばかりで何もしない。
臆病で女々しくて情けなくて――そのくせ、夢(アニメ)のこととなると何があっても絶対に譲らなかった。
いい年こいてガキみたいにキラキラした目で夢を語る姿が眩しくて、いつもイライラした。
いつからだっただろうか、そのイライラがなくなったのは。
自分に難癖をつけてきた客から殴りかかられて、彼が庇ってくれた時?
その客に愛用のスケッチブックを破られて珍しく殴り返した時?
ああ、いや違う。たぶん、
『君、踊るのが好きなんだろ? なのに怪我のせいで踊れないなんて、そんなの拷問みたいなもんじゃないか』
あたしが踊らないと死んでしまうとマジで思い込んでいた、馬鹿なところだ。
あまりの馬鹿さに腹を抱えて笑ったら、驚いた猫のように固まってたっけ。
――どうでもいいか。
もう全部なくなったのだ。彼の夢も、自分の夢も。
何もかも手に入らない人生だった。
ケンタッキーのド田舎の町に生まれ、物心がついた頃には父親は薬物過剰摂取で死んでいた。
アル中の母は新しい男に夢中で育児には興味がなかった。
唯一、親と呼べるのは母方の祖母だけで、故郷のすべてを毛嫌いしていた。
故郷の話でこんなものがある。
ある日、少女をレイプしたと告発されたとある老人が、裁判の数日前に地元の湖に死体となって発見された。
その背には16発もの弾丸が撃ち込まれていた。
だが警察は一切捜査せず、老人の死は地方紙のごく一部に掲載されただけで、それを読んだ町の住民は誰かの私的殺人を、正義の鉄槌と誇りに思った。
そういう町だった。
舐めた奴は殺す。政治家とエリートはみんなペテン師。自分たちの人生が上手くいかないのは、後からやってきた黒人やアジア人の移民どもが、自分たちの功績を掠め取ったから。
祖母は、その典型的ともいえる
町で数少ない病院の看護師として働きながら、実の娘が捨てた孫娘を、荒れくれ者で無教養なホワイト・トラッシュ(白人低所得者の蔑称)にさせまいと躍起になった。
「自分がなりたいと思えば、なんにでもなれる」と、祖母は事あるごとにそう言った。
立派な人ではあったと思う。
女手一つで自分を育てながら、終盤に差しかあった人生のすべてを自分に捧げてくれた。もちろん心から感謝している。
ただその「なりたいもの」はあくまで祖母が望むなりたいものであって、そこから一歩でも外れると怒り狂い、泣き喚き、どんな手を使ってでも道を修正させた。
幼い頃はそれでもよかった。祖母以外に頼れる者はいなかった。
毎晩聖書を音読し、教会にも必ず通った。学校の子たちがどれだけ楽しそうにテレビのドラマやアニメの話をしていても、祖母の「あんな不道徳なものを読んでると馬鹿になる」という言葉を本気で信じていた。
酒や薬に溺れる地元の大人たちを祖母と一緒に軽蔑し、「あんな大人にはなるまい」と固く心に誓っていた。
ただそれも、16歳の夏までだった。
どれだけ祖母が壁を築こうと、多感な少女の好奇心からくる衝動は防ぎきれなかった。
バイト終わり、クラスメイトとの付き合いで渋々ついていったバーで、それを見た。
床から天井に伸びる一本のポールに絡みつき、オルゴールのバレリーナのようにクルクル回る艶めかしい女たち。
勉強、バイト、日課の音読、祖母の愚痴の聞き手役、同じことが繰り返されるだけの毎日に飽き飽きしていた自分にとって、その光景はそれまでの日常すべてを破壊した。
毎週月曜日と水曜日、祖母の夜勤の日を狙って店に通い、踊りをずっと眺めていた。
店員にもダンサーにもすぐ顔を覚えられた。
気をよくしたダンサーに誘われて、試しに見よう見まねでやってみたら、店内から歓声が上がった。
皆から口々に「才能がある」と褒められて有頂天になった。
どれだけ勉強やバイトを頑張っても、祖母に褒められたことはなかった。
今ならわかる。あのダンサーは、自分の代わりに面倒な客を引き受けてくれる新人の処女が欲しかったのだ。
店員や客が喜んだのも未来の新人娼婦の誕生を祝っただけで、褒めたのも世間知らずな小娘を言いくるめる方便でしかなかった。
祖母にもすぐばれた。
それこそこの世の終わりのように泣き崩れ、怒り狂い、納屋にあったライフル銃を持ち出して銃口を突きつけ、自分に二度とああいう店にいかないと誓うよう迫った。
その姿を見て、祖母も結局この町の住民と同じなのだと気づいた。
それからは、祖母の言う通りの人生を歩んだ。
祖母の嫌う彼氏と別れ、祖母の好みの服を着て、祖母の言いつけ通りバイトと勉強の合間に家事をこなした。
友達と遊ぶこともなくなった。金曜の夜にダウンタウンへ繰り出していく同級生が羨ましかった。
高校を卒業する頃には、さすがの祖母も高齢のため思うように稼げなくなった。コミュニティカレッジにはバイトをしながら通い、介護士の資格を取った。
「今度はあたしが面倒見てあげる」と言ったら、祖母ははじめて「お前を誇りに思う」と言ってくれた。
それだけが心の慰めだった。
就職してからは、それはもう酷いものだった。
言われたことができない、優先順位が分からない。物忘れもひどく、メモを取ってもメモを取ったことすら忘れている。
施設利用者によって対応が異なるのでマニュアルもあてにならない。
しかも人手不足で新人教育もおざなりだったため、察しのいい奴は勝手に学習して適応していったが、自分には無理だった。
学校のペーパーテストは多少よくても、社会ではまったく役に立たないのだと思い知った。
一年も経たずにクビになった。
祖母にそれを伝えると「やっぱりあんたもあのバカ娘の子だね」と言われた。
解雇後に知ったが、自分にはグレーゾーンと呼ばれる発達障害の傾向があったらしかった。
医師からそれを聞いてがっかりした。
いっそちゃんとした障害だったら支援を受けられたのに、中途半端な身ではそれすらできない。
何もかもが嫌になった。
診断を聞いた晩、初めて家出をした。幸い、給料の大半を貯めていたので多少の金はあった。
マンハッタンに入ったところで祖母から電話があった。
朝食の用意もせずどこをほっつき歩いていると言われ、その場にあったゴミ箱に携帯電話ごと投げ捨てた。
以来、祖母には会っていない。
世話になった負い目から娼婦になった後も仕送りは続けていたが、祖母から電話がかかってくることはなかった。
いつも送金直後に金が引き出されるので、まだ生きてはいるのだろう。
ニューヨークに出てからは、昼はオフィスビルの清掃員、夜はタクシー会社のテレフォン・オペレーターとして働いた。
取り締まりが厳しくなるニューヨークで春をひさぐ術は、タクシー会社のとある運転手から学んだ。
この男がかなりの性悪で、職にあぶれたコールガール何人かと結託して、彼女たちが捕まえた客を乗せて郊外に行き、親戚が運営する安モーテルを格安で貸し出して、その分け前を彼女たちからせしめていた。
運転手になる前は売春斡旋業をやっていたらしく、酔うと聞いてもないのにまるで歴戦の兵士の武勇伝のようにべらべら喋った。
都合のいい男だった。
そこから先は実地研修だ。
何度か警察に捕まったこともあったが、コツさえつかめばそれなりに上手くやれた。
客の機嫌を取るのは、祖母のご機嫌取りよりはるかに楽だった。
唯一の楽しみは、オフの日に馴染みのバー備え付けのダンス用ポールで踊ることだった。
もちろん誰からも教わっていない。
テレビや他のクラブで見たダンサーの踊りを見よう見まねで好き勝手踊るだけ。
その時だけは自由だった。
チコに出会ったのもその時だ。
最初は面倒なのに巻き込まれたと思ったが、話の分かるいい奴だった。
それからは彼が切り盛りするゲイバーのダンサーとして働いた。
当時はLGBTの地位向上がニューヨークのトレンドで、レズを装って「自分は売春をしているのではなく、ただ恋に生きてるだけのダンサーだ」と言い張れば警察もうるさく言わなかった。
女の子相手の客も少なくなかった。
もちろん休日の日には車で別の町へ出かけ、男相手にプライベートエスコートで稼いだ。
チコは黙っていてくれた。口が固いのもいいところだった。
この頃になると、ひと月で介護士の頃の倍は稼ぐようになった。
ようやく自分にもツキが回ってきたと思った。
そんな時だ。彼と出会ったのは。
「君かい? チコが言ってたすごいダンサーって。初めまして、僕はチャン・トウフォ。親が漢文好きなせいでファーストネームが恐れ多くなっちゃったから、チャンって呼んでほしいな」
最初は本当に嫌だった。
そもそも男の客とは店で会わないことが暗黙の了解で、その鉄則に踏み込んできた挙句、スケッチさせてほしいなどと意味不明な頼みをしてくることにマジであり得ないと思っていた。
チコの馴染客でなければ引き受けなかっただろう。
とはいえ悪い客ではなかった。
ただ二、三時間スケッチのモデルになるだけで、男客に値切られる前以上の額がもらえた。
しかも自分は好き勝手踊っているだけでいい。破格の依頼だった。
それでも嫌だったのは、あんな場末の酒場でガキみたいな目で能天気に夢を語っていたからだろう。
取り締まりで職を失って酒と薬に溺れる売春婦や男娼が、チコに慰めてもらいながらやけ酒する。
そんな店で、テレビの教育番組にでてくる子供が大人に対して将来なりたいものを語るように、平然と綺麗ごとを話すのだ。
チコ相手に喧嘩を売る奴はさすがにいなかったので、みんな舌打ちするだけで済ませていたが、それにすら気づいていないお気楽ぶりがマジで腹立たしかった。
あまりの煩わしさに、追い出そうと無茶な要求をしたこともある。
だがそいつは困った顔で笑うばかりで(さすがに一杯100ドルのショットガンの飲みあいを持ち掛けたときは顔を引きつらせていたが)すべての要求をのんだ。
ますます嫌いになった。
誕生祝いに小枝の花束を持ってきたこともあったっけ。ともかく、やることなすこと何もかもが腹の立つ男だった。
「姐さん」
長い回想から我に返ると、自分は窓辺に立っていて、振り返ると武装したスシロが立っていた。
「どう?」
「ダメっす。武器弾薬も漁られたっぽくてほとんど残ってねえ」
やはり武器の類は没収されていたか。
けれど、スシロはさらに悪い知らせをもっていた。
「それと……一家は暴動鎮圧をヴァレリー一家に要請したらしいっす。夜明けと同時に投入される予定だって」
「ハッ。やっぱヘルには断られたのね。ざまあないわ」
「姐さん……」
「さっきも言った通り、あんたらは夜が明ける前にここを発ちな。ヨンハの言う通りなら、まだシバルバの窓口は閉じてない。あんたらなら高飛びもできるでしょ」
食ってかかろうとするスシロをとどめて、フォーは窓の方に向き直った。
あの忌々しい折檻所が燃え盛るさまを眺めながら、小さく呟いた。
「これでいいのよ。馬鹿な女が馬鹿な男の夢に乗っかって失敗した、それだけの話よ。時間さえ稼げば一家に多少のダメージは与えられる。あんたらまで付き合うことはないわ。とっとと行きなさい」
そう、これは罰だ。あの時、チャンを事件から遠ざけなかった、愚かな自分への罰。
彼との日々は、楽しかった。
あの日の喧嘩騒動から打ち解けて、チャンと少しずつダンスの話をするようになった。
もともと教養の高い男だったので、どんな話題も知識が豊富で飽きなかった。
やがて自分はダンスの、彼はアニメの話をお互いするようになった。
画家が自分の絵を見せ合うように、どの振付がいい、どの曲が合っている、サビの部分でどの大技を使うのが魅力的か。
そんな話をするようになった。
一方でチャンはアニメについて女性視点の意見をたびたび自分に求めた。
ある日、自分をモデルにした主人公のアニメをつくりたいと言いだした時は冗談かと思ったが、彼は本気だった。
普通に恥ずかしかったし、他人にみせるようなものでもないと思っていたので、怒って凄んでなんとか諦めさせようとした。
けれど結局、先に折れたのはこちらだった。
その時のチャンのはしゃぎようといったら! 幼児のように飛び跳ねて喜ぶものだから、呆れかえってしまった。
次第に、チャンとダンスの話をするのが楽しみになっていった。
素直に驚いた。自分にもまだなにかを追いかけたいという情熱が残っていたのだ。
チャンの熱に当てられたのかもしれない。
あるいは、復讐だったのかもしれない。
自分を見下したすべての人間に、自分を否定した祖母に、自分みたいな馬鹿女でも何かやれるのだと見せつけてやりたかった。
そしてそれは、とあるフェミニスト活動団体がチコの店に押し入ってきた時から、自分の使命になった。
あの女どもは、どうしてもあたしを男に買われる哀れな被害者にしたかったらしかった。
同意の上でやっていると言っても、これが一番向いている仕事なのだと言っても聞きやしない。
何を言っても「あなたは騙されている」、「洗脳されているだけなのだ」と言われ、同情と憐れんだ目を向けられた。
勝手に決めつけて頭ごなしに説教する態度が祖母にそっくりで虫唾が走った。
挙句の果てに、あの女どもはこう言ったのだ。
「大丈夫よ。あなたが正しい仕事につけるよう、私たちが支援してあげるから。そうね……福祉の仕事なんてどう?」
そのあとのことは覚えていない。
気づくとチコに羽交い絞めにされていて、チャンが顔を腫らしてヒステリックに泣き喚く女たちをなだめていた。
女たちは自分を「せっかく助けてあげようとしたのに」だの「恩知らず」だの言って犯罪者を見るような目で帰っていった。
その次の日から、チコの店はなくなった。あの女どもが警察に嘘の通報をしたからだった。
その時に、自分の復讐(ゆめ)が決まった。
「あたし、特区に行くわ。特区一の女になって思い知らせてやる」
米国史上最悪と謳われた犯罪都市の名は、自分の耳にも入っていた。
いいだろう。
千人だろうが万人だろうが抱かれてやる。
こんな馬鹿女に涎を垂らして夢中になる連中を冷めた目で見下してやる。
どいつもこいつもあたしで馬鹿になればいい。
チコは止めた。チャンは何も言わなかった。ただ「君がそう決めたのなら」とだけ言って、連絡先を聞いて帰っていった。
その時に、彼との付き合いは終わったと思った。
それからは、あっという間だった。
何でもやった。
髪を金に染め、整形をし、稼いだ金は美容とトレーニングと部下の育成にすべてつぎ込んだ。
他の妓女を貶めるのも躊躇はなかった。どんな手を使ってでも、のし上がってやろうと思った。
部下も使えそうなのは何でも使った。一般労働層から多く選出したのは、別に善意があってのことではない。
故郷の町の人間のように、諦めきった目でうろつく彼らが目障りだっただけ。
チコを貶めたあの女どものようにはなるまいと思っていたので、それと真逆の振る舞いをしたらなぜか部下たちは素直についてきた。
馬鹿な男たちだった。
ヘルハウンドと出会ったのは、三等区から二等区の妓女になったばかりのことだった。
彼女が当時おこなったシバルバへの苛烈な報復は特区中の噂の的で、誰も彼女の相手をしたがらなかったので、自ら立候補した。
『六番目の統治者』に気に入られれば出世の近道になると思った。
一目で普通の少女ではないと気づいた。
あの頃の彼女はともかく獰猛で、ちょっと目を離したら喉笛を喰いちぎられそうな雰囲気を漂わせていた。
それでも臆するのは癪だったので、冷や汗を浮かべながら思い切って噂は本当かと尋ねてみた。
「本当だ。もともと裏切る可能性が高い連中だった。しょっちゅう無断欠勤するし、仕事中もバックレる。自分が犯したミスも必ず人のせいにしたがるし、給料は人一倍要求してくる。そんな奴らだった」
「へえ、なら殺して正解だったんじゃない?」
「……本当に弱い人間はそういうものなんだ。たぶん。だから誰からも救われず棄てられる」
救えなかった、と彼女は言った。救わなきゃよかった、ではなく。
いい子だと思った。
それから彼女の友人になった。自分から申し出た。
二等区から一等区に移るのもすぐだった。
やがて、四番目の座に就いた。
過去の汚い手口がたたって三位以内にはなれなかったが、自分としては頑張った方だと思う。
チコも特区に呼び寄せ、地位もそれなりに安定し、それなりに満足していた頃だった。
チャンがひょっこり自分のもとに現れた。
それも、自分をモデルにした主人公のアニメの完成データを携えて。
「上映しようと思うんだけど、まずは君に観てほしくて」
馬鹿な男だった。
最初はすごく腹が立った。今さら戻ってきて何を、と罵倒もした。
だが、なんだかんだであの男の安否を気にしてしまう自分は、もっと馬鹿だった。
それから色々あったが、またあの楽しい日々が始まった。
つかの間の夢のひと時は、本当に幸せだった。
「なんだってスポンサーはヒロインをただの女子高生にしたがるんだ。苦労も何もしてない平凡な女の子にあんな決め台詞、変に決まってるじゃないか。あんな台詞は酸いも甘いも噛み締めてきた大人の女性だからこそ映えるんだよ。彼らはなにも分かってない。中身が大人の女子高生がいたっていいじゃないか」
珍しく酔い潰れてこぼした愚痴に、喜んでしまうほど浮かれていた。
自分のろくでもない人生にも意味があったと言ってくれる、チャンの言葉が嬉しかった。
あのアニメはチャンの夢だったが、あたしにとっても夢だった。
――一分でも多く、時間を稼ぐ。
夢は潰えた、泡沫のように。消えてなくなった。
だが一つだけ、ターチィ一家に、ツーに一泡吹かせる術がまだ残っている。
そのためにチャンの大事なPCを破壊したのだから。
ツーから奪ったあの監督、ダリル・セルヴィッジ監督は誠実な男だった。きっとあれを目にすれば、予想通りの行動をとるだろう。
ああ、でも。
「あんたのアニメ、劇場で観たかったな」
観客がスタンディングオベーションで彼を迎え、彼の努力が報われる瞬間が見たかった。
アニメのキャラクターを通して、自分の人生が肯定される瞬間を見てみたかった。
上映できたら先行公開でゲスト出演してねと言われて、馬鹿じゃないのと笑った。
特区の妓女がそんな公の場に立ったら炎上どころの騒ぎではない。けれどチャンは真剣だった。
彼は、いつだって夢に本気で全力だった。
守りたかった。けれど、それも叶わぬというなら――。
「道連れにしてやるわ。あたしともども破滅させてやる」
四番目の女は低く唸った。我が身を焦がすような声だった。
***
――暇だな。
三等区内のアニメグッズショップに佇んで、ニコラスは不謹慎ながらそう思った。
現役時代からそうだったが、作戦実行前の待機時間というのは、往々にしてなぜか体感時間が長く感じられる。
今から一時間前――。
「となると、ヴァレーリの鎮圧部隊が到着するまでがタイムリミットか」
「はい。それまでのあと七時間で、本作戦を完遂させねばなりません」
ニコラスにそう返すと、ヨンハはネクタイを締めなおした。
「概要は先ほどヘルハウンド様が説明された通りです。件のプロデューサーを確保し、アニメデータを奪取。それでアネモネ様を説得したうえで、当主に交渉を望む……」
「まさかチャンの企画交渉を打ち切った監督が、例のセルヴィッジ監督のプロデューサーだったなんてね」
「監督の下に監督、ワケが分からないネ」
チコに続いてぼやいたイヤドに、ハウンドが訂正する。
「いいや、逆だ。ハリウッド映画の場合、監督よりプロデューサーの方が権限を持ってる。プロデューサーってのは興行最高責任者のことだからな。有名なのだとラストシーンの変更権限か。映画ってのはヒットしてなんぼだから、最終的に監督の好みより客ウケが重視される。だからラストシーンを決められるのはプロデューサーなんだ。ちなみに監督を選ぶのもプロデューサーだぞ」
「え、それまずいんじゃないノ? このマシュー……」
「アンドレス・バレンシア」
「そうそう、それ。この人、一度チャン断ってる。んで次のセルヴィジ監督も、この人の部下……え、違う? 映画そんな上下関係ナイ? でもワタシ不安ネ。この人、チャン裏切った人。ホントにチャンのデータまだ持ってる?」
「それは定かではありませんが、少なくとも作品に関しては誠実な人だと思いますよ」
ヨンハがそう言うと、イヤドは「本当に?」と訝しげに見上げた。
「ツーが妨害したのもあると思いますが……バレンシア様がチャン様の企画を断ったのは、作品の内容ではなく売り出し方に問題があったからなんです。この攻めたストーリーでは従来通りの正攻法では無理だと。チャン様も『内容けなされるよりド正論突き付けられる方が辛い』とおっしゃってました。内容自体は絶賛してくれたそうです。それに、そもそもセルヴィッジ監督をアネモネ様に紹介したのも、バレンシア様ですよ」
「え、そうなの?」
「バレンシア様はもともとアネモネ様の常連なんですよ。だからアネモネ様は、チャン様との交渉を打ち切るのであれば代わりを用意してほしいと頼んだんです。それで紹介されたのがセルヴィッジ監督です」
そこでニコラスは思い出した。
バレンシア、初めてフォーたちと出会った夜会で、フォーを呼びつけた客の一人だ。
フォーは冷やかしにきやがったと舌打ちしていたが。
「で、そのバレンシアとかいうプロデゥーサーが、この三等区内にいると?」
「はい。彼は週に三日、ここに滞在して遊ぶんです。一日目が一等区、というふうに一日ごとに遊ぶ場所を変えます」
「じゃあ今日は三等区の日?」
「そういうことです。三等区であれば、彼の行きつけも二、三か所に絞られますから、特定もすぐできます。しばしお待ちを、支度は私が整えますから」
そんなわけで、ヨンハはものの数分でバレンシアがいる店を特定し、店に潜入する準備を始めた。チコとイヤドもそれに駆り出されている。
対して潜入する側のニコラスたちは、こうして店にほど近いグッズショップで待機している、というわけだ。
にしても暇だ。いつの間にかハウンドもどこかに行ってしまったし。
「ん?」
ニコラスは思わず足を止めた。
視線は自然と、フィギュアがぎっしり詰まった棚の一角に吸い寄せられていた。
銀の装甲をまとったサイボーグ警官。昔好きだったロボコップのフィギュアだ。
随分と精巧な造りで、太腿内に格納可能な拳銃と、拳から出るデータスパイクまで再現されている。ポップ表示によれば、目も光るらしい。
欲しいな、と思って慌てて首を振る。
いやいやいや、こんな時に何を考えているんだ、俺は。任務に集中せねば。
待機場所にグッズショップを選んだのは失敗だったか、と思って前を向くと。
「あ」
ハウンドと目が合った。
棚の陰からひょっこり顔を出し、まさに今、声をかけようとしたかのように口を半開きにしていた。
ハウンドは自分を見、棚のロボコップのフィギュアを見て、それを何度か繰り返し。
にこぉと、日ごろの胡散臭い笑みが嘘のような、滅茶苦茶いい笑顔になった。
「え、なになに。ニコこれ欲しいの? かっこいいよな~、ロボコップ。しょっちゅうガンスピンやってるもんな~? いいじゃん、これ買っちゃおうよ。絶版ものの限定品じゃん。絶対にいま買っといた方がいいって」
「いい」
「ええ~、本当にぃ~?」
見られた恥ずかしさのあまり、すこぶるぶっきらぼうな声でそっぽを向いた。
「いいっつってんだろ。任務前にフィギュア買う馬鹿がどこに……って、おいっ。なに勝手にかごに入れてんだ。買わねえっつってんだろ」
「意地っ張りで恥ずかしがり屋の助手のために一肌脱いでやろうと思いまして」
「なんでお前はそうやって俺をヒモにしようとするんだ……買うなら自分の金で買うわ。つかなんで三つも取ってんだ。一つありゃ十分だろ」
「なに言ってんだ。こういうのは観賞用と保存用と遊ぶ用で三つ買うもんだぞ」
「遊ぶ用……? ともかくいいって。そんなに買い占めたら他の奴に迷惑だろ。第一、これ一個200ドルもするんだぞ? こんなのにお前が金を使う必要は――」
そこまで言いかけて、口をつぐんだ。
ハウンドが見るからにしょげてしまったからだ。というか、なんか拗ねてる。
これあれだ。親友(フレッド)一家に居候していたガキの頃。
フレッドの母エマが仕事で忙しいので、代わりに俺とフレッドが家事を担当していた際。当時まだ七歳だったフレッドの妹がやたら俺たちを手伝いたがった時に。
――「お前にはまだ無理」っつったら拗ねて泣いちまって、なにやっても泣き止んでくれなくて困ったっけ。
そう。幼子がちょっと背伸びしたがる時に口にする、「できるもん!」のあの顔だ。
フィギュア一つで何をそんなに……と口にしかけて、思い留まる。
考えてみれば、ハウンドは親を知らないのだ。
育ての親のゴルグ・サナイ氏に拾われたものの7歳で死に別れ、そのあと出会ったラルフ・コールマン軍曹ら五人の兵士たちとも12歳で死別している。
しかもその両方ともに、普通の女の子として育てられたことはないのだ。
もちろんサナイ氏もコールマンたちも、それなりに愛情をもって接したのだろうが、環境や状況的に子ども扱いが許されなかったことも多いだろう。
そう考えると、ここ最近のハウンドの幼い振る舞いに納得がいく。
自分もかつて、見たこともない父親を求めて、近所のサンドイッチ屋のドルフや狙撃の師であるバートン教官に、その面影を探していた時期がある。
――ガキの頃にできなかったことを、今になってようやく体験してるんだろうな……。
頬をやや膨らませてぶすくれるハウンドを見て、ニコラスは迷った。ものすごく迷った。
11も年下の、しかも恩のある女の子に玩具を買ってもらうなど、大人として、男としてのプライドが許さない。
だがハウンドを存分に甘やかしてやりたいとも思う。
大人のプライドか、ハウンドか。
ちら、とハウンドを見ると、ハウンドは上目遣いで一瞥して、俯いてしまった。膨らんでいた頬はへこみ、眉尻と肩がしゅんと下がった。
天秤は後者に傾いた。
「……じゃあ、交換でどうだ?」
「交換?」
「俺がお前の好きなフィギュア一個買うから、お前はそれ買ってくれ。それでおあいこだ」
そう言った途端、ハウンドはぱぁっと顔を輝かせた。
「マジ? ほんとに買ってくれんの……!?」
「ああ。ただし一個だ、だからロボコップ二つ棚に戻せ」
「む~、仕方ないな……。絶対三つあった方がいいと思うけど」
そう言いながらも、ハウンドは素直に従った。
その後、ハウンドは上機嫌にフィギュアを選び始めた。鼻歌を歌うほどのご機嫌ぶりに思わず口元がほころぶが。
「うしっ、これにする!」
選んできたフィギュアにはちょっとびっくりした。
「……ハウンド。この『センチネル』ってフィギュア、箱に『さあ君もこいつの顔の皮を剥ごう!』って書いてあるんだが」
「おう。そいつ『トランスフォーマー3』いちの悪役だからな」
「なんでまたこんな物騒な仕様にしたんだ。子供泣くぞこれ」
「だから超限定品のレアもんなんだよ。お前も観ればわかる。こいつの悪辣さが、こいつが一体なにをやらかしてくれたことか、よくもアイアンハイドを……」
ハウンドが何やらぶつぶつ呟き始める。
このセンチネルとかいうキャラ、よほどの悪事をしでかしたらしい。今度DVD観てみるか。
そんなことを思いながら、ニコラスは会計に向かった。
「ハウンドは、わりと映画好きだよな」
店の外に出てガードレールに腰かけて。
さっそく買って交換したフィギュアで遊び始める相棒を横目に見やりながら、ニコラスは手元のフィギュアの箱に目を落とす。
もちろん自分だって映画は好きだ。
だがアフガニスタン出身の、それも元タリバン兵に育てられたハウンドがハリウッド映画に明るいのは意外だった。
ハウンドは「ああ」と顔を上げると、
「カーフィラがよく見せてくれたからね」
「サナイ氏が……? けど彼、元タリバン兵だろ。欧米のもんとか嫌いじゃなかったのか?」
「欧米人は嫌いだったよ。けど欧米人が築いた文化や技術は高く評価してた。カーフィラの口癖でね。『本はイギリスのを読め、映画はアメリカのを観ろ』って」
意外だった。てっきり欧米と名の付くものはすべて嫌っていたと思っていたが。
「なんだっけな。『イギリス人は口を開くだけで相手を不快にさせる能力に長けた人種だが、文章を通すと途端にしおらしく内省的になる。アメリカ人は傲慢で節操のない破天荒な連中だが、その奔放さゆえに奴らのつくる映画は常に新しい』、みたいなこと言ってた」
やっぱりめっちゃ嫌ってた。
「褒めてんのか貶してんのか分からん評価だな」
「まあ、地方出身の人にしては、かなり先駆的な人ではあったよ。父親がシューラ―(アフガニスタン農村社会の自己統治機関)の長老だったから、彼に直接食ってかかる人はいなかったけど、村では浮いてたかな。アフガンの農村地域は保守的な人が多かったから」
ハウンドはフィギュアを持つ手を膝に落とし、天を仰いだ。地上が明るすぎるせいで、夜空に星は一つも見えなかった。
「ともかく新しい知識を得ることに余念がない人だった。パソコンとか携帯電話の電子機器類も普通に使えたし、灌漑工事に合わせて通信環境も整えてたから自宅でネットも普通に使えたよ。村で使ってたの、カーフィラか役人か、先生たち日本のボランティアぐらいだったけど」
「新しいもの好きだったんだな」
「いや、あれは単純に戦う備えをしていただけだと思う。勝つためには、まず敵を知り己を知り、互いの能力を正確に把握しておくことが基本だろ? 欧米の本や映画に手を出してたのも、そのためだと思う。私の教材としても使ってたし」
「教材?」
「アクション映画とか観てるとさ、これは演出っぽい動きだな~とか、このアクション現実でも使えるな~って思うのあるじゃん? 特にハリウッド映画は銃をよく使うから、装填や弾倉交換なんかの勉強のためによく見せられたかな。あとは、本当の手榴弾はこんな爆発したりしないとか」
「あー、車のエンジン撃っても実際は爆発しないとか」
「そうそう、それ。あ、ロボコップも、人はあんなに撃たれたらとっくに死んで倒れてるって言ってた」
「それ観た奴はたいてい言ってるな」
「でも表現としては面白いよね。まあそんな感じでさ、小さい頃からよく映画は観てたんだよ。留守番することも多かったし、私が退屈して勝手に外に出ないようにしてたのかも。
けど娯楽として観るようになったのは、ラルフたちと出会ってからかな。それまでは映画を観る時は面白くても笑っちゃいけないものだと思ってた。カーフィラ、一緒に観てても全然笑わなかったから。もしかしたら本当は嫌いだったのかも」
手段を選ばない人だった、とハウンドは言った。
「私さ、カーフィラに狗として育てられたけど、今ならちょっと理由も分かるんだ。その年に生まれた赤ん坊の半分が冬を越せないような村で、目に障害のある身寄りのない子供を育てる余裕のある奴なんていない。
それに時期も悪かった。あの頃は、マザーリシャリーフ虐殺のことみんな覚えてる頃だったから」
マザーリシャリーフ虐殺とは、1998年にタリバンがアフガニスタン北部の都市マザーリシャリーフで起こしたハザラ人への大量虐殺のことである。
女子供や老人を含め、大勢が暴徒の餌食になった。
「緑の目はパシュトゥーン人に多くみられる瞳だから、まあ、そういうことだ。私にそんな記憶はないし、事実かどうかは分からないけどさ、混ざり子だと思われたんだ。
そんな穢れた子を村に置きたがる奴なんていない。どこぞの男と適当に結婚させられるか、もう一度人買いに売り飛ばされるか、そういう未来しか私にはなかった。一度、村の女に殺されかけたこともある。殺した方が幸せだからって。
それが分かってたから、カーフィラは最初に私を引き取ったんだと思う。狗に堕としてでも、自分のそばに置いた方がマシだと思ったのかもしれない。でもまあ――」
ハウンドは下腹部を撫でた。
「結局、本当の狗になっちゃったんだけどな。もちろん私の願望ももちろん入ってるよ。あの人が私を引き取ったのは、たぶん贖罪だ。あの人は奥さんと娘さんを北部同盟との戦いで亡くしてたから、代わりが欲しかったのかもしれない。だから父と呼ぶことは許されなかった」
手を足の間に投げ出して、肺を空にするような長い息を吐く。
「私は……あの人のことを何も知らない。思い出すのは、山間から
ハウンドはそう自嘲した。寂しくて、切ない笑みだった。
しばらくニコラスは黙り込んで、慎重に言葉を吟味し、ゆっくり口を開いた。
「ハウンドは、カーフィラのことが好きなんだな」
「へ?」
ハウンドが虚を突かれたように身を起こした。その様子をじっと眺めながら、目元を和らげる。
「今までの言葉、ずっと彼のことを嫌いたくないって言ってるように俺には聞こえる」
「そ、りゃあ、育ての親だし……いちおう」
「じゃあそれでいいんじゃないか? 父親がいるってのはいいもんだ。血が繋がってなくてもな」
ニコラスは両の太腿に肘をついて前のめりになった。
こんな騒動のさなかでも、喧しく騒ぎながら過ぎ去っていく群衆を眺めながら、今まで出会った人たちのことを思い出す。
エマ、ドルフ、バートン教官、店長、イーリス。
みんな血の繋がりはない。けれど彼らとの出会いが自分を一人の大人にしてくれた。
母親からの愛がなくとも、彼らの優しさとぬくもりは心の慰めになった。
皆、自分にとって大切な人たちだ。
再びハウンドの方を向く。
「お前にとっては、コールマン軍曹たちと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に、カーフィラが大事な人だったんだろ? ならそれでいいじゃないか。お前が厳しい訓練に耐えて戦士になったのも、その人に褒めてほしかったからだろ?」
「それは……それが言いつけだったから。他に頼れる人なんかいなかったし」
「別に親の全部を好きになれって話じゃないさ。殴られたのは嫌だった、でも父親って呼んでみたかったし好きな映画も知ってみたかった。それでいいんだよ。俺も、あんな母親だったが、俺の作ったカップケーキ泣きながら食ってたあの姿だけは、嫌いになれなかった。前にお前も言ってたろ。『親だからって許す必要はない』って。なら逆もしかりだ」
愛してもいい。憎んでもいい。
「相手はもう墓の下なんだ。どれだけ悩んだって正しい答えは得られない。死人はなにも喋っちゃくれないからな。だったら、俺たちが一番納得がいく答えでいいだろ」
「……随分と勝手だな」
「ああ。勝手さ。けど親だって好き勝手したんだ。俺たちが好き勝手に答えを出しても文句はないだろ。それこそおあいこってやつだ」
ハウンドもまた、前に視線を向けた。ガードレールに並んで座って、お互い、道行く人とネオンの輝きを眺めながら。
彼女は、小さく笑ったようだった。
「そうだな。それでいいのかも」
ニコラスたちはそうやって、しばらく人ごみを眺めていた。
***
ぼうっとしていたのもつかの間。
ハウンドは手元のスマホを一瞥すると、「ちょっと行ってくる」とガードレールからぴょんと飛び降りた。
「どこに?」
「そこのホットドッグ。腹減った」
こんな時にも食い意地か。
「俺が毒見できるやつにしてくれよ」と言うと、「分かってるって」と言いながらハウンドは人ごみの中にするりと潜り込んで、あっという間に消えてしまった。
チコがやってきたのはその直後だった。
「あら、ニコラスちゃん、ハウンドちゃんは?」
「すぐそこのホットドッグ屋だ。腹が減ったんだと」
「まあ、意外と食いしん坊なのね。あの子、アタシのお店じゃボトルの水しか飲まないから」
外ではそうなのだろう。毒見がないと食えない体質ゆえに食える時に食い意地が張るのか、もとから張っているだけか。
いずれにせよ、いつもの食いっぷりをみるに、外での食事には苦労が多かろうな。
と、思った矢先。チコが真剣な表情をしていることに気づいた。
「ねえニコラスちゃん。踏み込んだことを聞くのだけど、ハウンドちゃんってもしかしてアラブとか中東の出身だったりしない?」
ニコラスは一瞬で警戒心を引き上げた。こちらの反応にチコは慌てて両手を振った。
「ごめん、ごめん。そのね、イヤドちゃんがアタシたちに隠し事してて、ちょっとお仕置きしたことあったじゃない? カラスの情報屋がなんとか。それについて首を突っ込む気はないけど、その時にあの子、イヤドちゃんと英語じゃない言葉で話してたのよ。結構な言い争いだったから、気になっちゃって」
それを聞くなり、ニコラスは総毛だった。
まさか、さっきハウンドがスマホを見ていたのは――。
「チコ。今、イヤドはどこだ?」
「さっきヨンハの手伝いに行ってくるって別れたけど……ちょっ、ニコラスちゃん!?」
ニコラスはチコの制止も聞かず駆けだした。
嫌な予感がした。
***
「オー、お姉サン時間通りネ。約束守る人、ワタシ好きヨ」
人ごみに流されぬよう、信号機の支柱を背にしたイヤドが手を振った。
ハウンドはそこから二歩先の、赤信号で立ち止まる人に紛れて佇み、男を睨みつけた。
「その気色の悪い話し方やめろ。お前、普通に英語喋れるだろ。訛り方がわざとらしいんだよ」
そう言うと、イヤドは笑った。けれど目は笑っていなかった。
「同郷相手はさすがに欺けないか。この話し方、便利なんだよ。こっちが話せないと分かるとみんな口が軽くなる。英語が世界の標準語だと思ってるアメリカ人は特にね」
この中華系が半数を占めるターチィの雑多な群衆で、アラビア語の、それも日常会話でほとんど使われないフスハーに注意を向ける者はそういない。
ハウンドもまた、その会話に合わせた。
「要件は」
「この間の答えが聞きたくて」
この間、というのはチコの店に押し入ってイヤドを捕縛した時のことだ。
あれは、イヤドが情報屋だったことを隠していたから捕まえたのではない。
住民もニコラスも気づけなかったろう。
この男から漂うニオイに。この男が誰と一緒にいたのか。
イヤドは人好きのする笑みをにっこり浮かべた。これがこいつの仮面らしかった。
「返答がないならイエスと取らせてもらうよ。もう一度だけ聞こうか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の投稿日は二週間後の5月3日(金)です。
GWで本業が繁忙期に入るため、少し猶予をいただきます。よろしくお願いします。
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