10-12

 いけしゃあしゃあと宣うイヤドの顔を、ハウンドは真正面からねめつけた。


「その要求なら断ると言ったはずだ。中央情報局CIAが私を保護する? 合衆国安全保障局USSAに吸収合併されたお前らに身を委ねろと? 冗談じゃない」


「まあそう言わずに。あとCIAはなくなったわけじゃない。USSAの子分になったわけでもない。大人しく吸収合併されたのも、組織を壊滅させられるより、恭順の意を示して反撃の隙をうかがった方がいいと判断したからだろう。悪い選択じゃないと思うけどね」


「断る。帰れ」


「依頼だけならそうしていたんだけどね。私はあくまで現地工作員、雇われの身だ。CIAに忠誠を尽くす義理もない。だが今回のは私の個人的な理由も入っていてね、引き下がるわけにはいかないんだ」


「知ったことか。USSAがラルフたちの遺体を遺棄した時、黙ってみていた無能どもが今さら何だってんだ。そんな連中の要求なんぞ聞きたくもない」


「でも興味はあるから来たんだろう? でなければ、私の呼び出しに応じるはずがない。それに、ウェッブ軍曹の米軍を味方につけるという提案より、よほど現実的だと思うけどね」


 ハウンドは瞬時に手首裏に隠し持っていた細身のナイフを引き抜いた。


 こいつ、どうやって盗聴を――。


「別に盗聴なんかしてないよ。言ったろ? 馬鹿のふりして片言英語しゃべってると、みんな口が軽くなるんだよ。君の住民はどいつもこいつも君を慕っているからね。その手の真面目な話し合いは、ちょっと店に居座るだけで聞けるものさ。もちろん私が軍曹の友人だと思っていたからこそ、ガードも緩かったんだろうけどね」


「……シバルバでの一件で、ニコラスの制服一式を盗んだのはお前か」


 もはやハウンドはイヤドの首をどう刎ねるか、心臓をどう抉るか狙いを定めていた。


 イヤドは肩をすくめただけだった。


「とある方からの依頼でね。君を傷つけることになっても捕縛したいと目論んだ人たちがいたのさ。まあ結局USSAに先手を取られて台無しになってしまったけどね。こちらとしても君がたかが靴一つで騙されて、敵の包囲網に飛び込んでいくのは想定外だった。実際あの包囲網を突破するには、君自身にも奮戦してもらう必要があった」


「きっかけを与えてやったとでも? 指を一本ずつ切り落としてやろうか」


「優しいね。私の祖国の者なら、一本ずつ折って熱湯をかけて釘を打ち込む。その方が長く続けられるからね」


 口調こそ淡々としていたが、体臭からは自嘲と諦念のニオイがした。


 ハウンドはいったん刃を引っ込めた。この手合いの人間はいくら脅しても無駄だ。


「それで、個人的な理由ってのはなんだ。わざわざCIAの交渉役を買って出てまで、私を連れ出しにきたのはなぜだ」


「警告だ。米軍の協力を仰ぐのはやめた方がいい」


 イヤドは表情から笑みを消していた。自嘲すらも。

 ただただ真剣な眼差しで、こちらの目を覗き込んできた。


「君の言う通り、CIAだってあてにならない。だから連中の言うことなんて聞かなくてもいい。けど、それでも、米軍と協力するのだけはやめておきなさい。たとえそれが大勢を救う道だったとしても、一番つらい思いをするのは君だから」


 なにを、と反論しかけて、閉口する。

 制止に手をかざしたイヤドの表情が、体臭が、かつてのニコラスに似ていたからだ。


 なにもかもがどうでもよくなって、でも現実は直視できない。けれど目の前のことから逃げられないので、過去の思い出を慰めに、渋々目の前のことに手を付けようとしている。

 そんな男が、そこにいた。


「少し昔話をしよう。私の大事な、大事だった友の話だ」


 そう言ってイヤドはガードレールに腰を下ろすと、膝の上で両手を組んだ。


「ウェッブ軍曹からすでに聞いてると思うけど、私はイラク戦争の際、米軍の通訳と現地住民との交渉の仲介を担っていた。

 アメリカ人で、初めて私の友になってくれた男は、いい奴だった。陽気で真面目で働き者で、イラク・アメリカ双方の敵意に晒されやすい私を、いつも守ってくれた。

 落ち込んでいれば片言のアラビア語でジョークを言ってくれた。全然面白くなかったけれど、その気遣いが私には嬉しかった。

 だが――私を初めて撃ったアメリカ人も、彼だった。戦場における極度のストレスのせいで、私の顔が、彼がイラクで最初に撃った自爆犯の顔に見えたんだそうだ。私がそれを知ったのは、彼がイラクを去った後だった。見舞いも謝罪も、別れの挨拶もなかった。それきりだ。私たちの友情は」


「……その友人とやらは、どうなった」


 イヤドは地面を指さし、首を振った。


「この地に眠っている。アーリントンへは行けなかった。隣家に押し入った強盗と撃ち合いになって、誤って自分の娘を射殺してしまった。だから彼は自らに裁きを下した」


 ハウンドはナイフを下ろした。握る手に力はもうこもっていなかった。


「分かるかい? いい奴でもこうなんだ。こうなった。私たちと彼らの間には、越えられない壁がある。祖国のザクロス山脈よりずっと高い山が我々を隔てている。そしてその山は、何人ものイラク人とアフガニスタン人とアメリカ人の躯でできているんだ」


 不意にイヤドは顔を上げた。その視線は、ハウンドが来た方角へ向けられていた。


「ウェッブ軍曹は……いい男だ。君をきっと大事にしてくれる。協力者にもいい奴を選んでくれるだろう。けれどね、どんなにいい奴でもああなる可能性はあるんだ。ましてや君の育ての親は元タリバンだ。君に向けられる憎悪は計り知れない。命を狙う奴だって出てくる。そうなった時、矢面に立つのは軍曹だ。君は、軍曹が戦友たちといがみ合う様に耐えられるのかい?」


 それだけじゃない、とイヤドは頭を振る。


「私がそれ以上に心配しているのは、君が妥協を強いられるであろうことだ。君は元タリバンに育てられた子だが、米軍の誤爆の被害者でもある。その立場で協力するとなれば、ある程度の和解を強要されるだろう。タリバンの子であることを許容する代わりに、誤爆したことも許容しろと言われるかもしれない。

 君は耐えられるのか。『あれは間違いじゃなかった』と言われて納得がいくのか? ウェッブ軍曹に『お前を焼いた兵士を許してやってほしい』と言われた時、君はそいつらを許せるのかい?」


 「それは」と言いかけて、ハウンドは口がカラカラに乾いていることに気づいた。

 言葉が上手く出てこなかった。


「米軍と協力するというのはそういうことだ。……イラクとアフガニスタンでは、戦争に至った経緯も被害も何もかもが違うことは理解しているよ。けど我々には、どうしても超えられない一線がある。どんな綺麗事を並べようと、我々の間に積まれた死体の山は消えてくれない」


 イヤドは「頼む」と口にした。


「お願いだ。どうかCIAに身を委ねてくれ。君が守ろうとしている27番地住民はアメリカ人だろう? 彼らがいい人たちなのは私もよく知っているよ。けど彼らアメリカ人のために、君の悲惨な過去に折り合いをつける必要がどこにある? 

 君が愛したあの五人のアメリカ人だって、結局、君を任務のために利用しただけじゃないか」


 心臓を潰された気分になった。

 薄々思っていたことを、言われたくなかったことを鼻先に突き付けられた気がした。


 ああ、分かっていたとも。


 ラルフたち五人は私を愛してくれた。

 ただその愛は、任務遂行に必要なものでもあった。


「……君が彼らを大事にしていたのは知っているよ。でももう君は十分頑張ったろう? USSAを相手に、奴らが奪った彼ら五人の遺品のうち四人を取り戻した。ここいらでもういいんじゃないかい? ウェッブ軍曹も君の住民も強い。君がいなくたって何とかするだろう。

 CIAはじきUSSAを提訴する。その証人に、君に立ってもらいたいと思っている。それだけだ。それまで君を死に物狂いで守るし、裁判が終われば自由の身だ。すべてから解放されるんだよ」


「……自由なんてあるわけないだろ。一生首輪をつけられて生き永らえるだけだ」


「でも軍に協力を仰ぐより、はるかに現実的で安全な道だ。そもそも協力してもらえる可能性の方が低いし、協力したところで待っているのは内部分裂の危機だ。それを乗り越えたとしても、はたから見ればクーデターにしか見えない」


 自分が抱いていた懸念をすべて言語化された。もはや何も言い返せなかった。


「監視役が煩わしいなら私がその役を務めよう。私のこの結果は自分で選んだ道だ。納得もいく。だが君はただ巻き込まれただけの子供だろう? どうしてまだ頑張るんだ? なぜアメリカ人のためにそこまで尽くす? もう十分だろう」


 ハウンドは、返答するのに五秒ほど要した。


「別に尽くしたつもりはないさ。ただの言い訳だ」


「言い訳?」


「私さ、ずっと死にたかったんだよ。死にたかったから、ああいう計画を立てたんだ」


 ハウンドは、イヤドから二人ほど離れたところのガードレールに腰を下ろした。


 行き交う群衆の中、耳を澄ませてようやく聞こえるであろう距離。

 つまらない話を独白するにはちょうど良かった。


「あんたは私が頑張ったって言ったけど、私はただ逃げたかっただけなんだ。カーフィラもラルフたちも皆みんな、自分のために死んでいった。それが耐えきれなくて、さっさと自分に罰を与えて全部終わりにしたかった。

 でも死んであとを追いかけたなんて知ったら、カーフィラもラルフも怒ると思ったからさ。じゃあ怒られない言い訳のために何かやってから死のうと思ったんだ」


 遺品回収も、そのためだった。


 もちろん、遺体はおろか遺品すら奪ったUSSAへの怒りはあった。彼らの墓がないことに絶望した。彼らの大事な遺族を悲しませたくないと思ったのも事実だ。


 でもそれらの根底にあったのは、死んでさっさと終わりにしたいという我欲だった。


 残された者がどうなるかより、自分が逃げたくて仕方なかった。

 自分の境遇なら、そのぐらいの我儘も許されるだろうと開き直っていた。


「偽善だったんだよ。どうせ死ぬなら気持ちよく死にたい。逝った先でカーフィラやラルフたちに怒られたくもない。全部ぜんぶ言い訳だった。でもな、その言い訳を本気にしちゃった奴がいたんだよ」


 奇しくもそれは、自分と同じ偽善者だった。


「ニコはさ、私に付き合うって言ってくれたんだよ。私が死ぬなら俺もついていくって。馬鹿だろ? 昔にやったいい加減な約束、本気で信じちゃってさ。本当にアメリカ中を探して、ついてきちゃったんだよ。

 あれは偽善だったっつっても退かねえの。しかも、つい最近まで死にかけみたいな顔してたくせに、いつの間にか自信取り戻して鍛えなおして、前よりずっと強くなって、逃げても逃げてもどこまでも追いかけてくんの。

 んで追いついたかと思えば、黙って座ってるだけなんだよ。黙ってそばにいるだけ。でも逃げると追いかけてくる。だからなんかどうでもよくなっちゃってさ」


「生きる希望が湧いてきた?」


「まさか。死にたい気持ちは変わってない。でも、どうせ捨てる命なら、欲しがってる奴にあげようかなって」


 ハウンドは胸元の、孔雀石のループタイを撫でた。


 これをくれた人もまた私の命を欲しがった。拾いたがった。


「この先どんなことが待ち受けててもいいんだ。辛いことでも痛いことでもどうでもいい。とうの昔に捨てた命だからさ。全部ニコラスと住民にあげる。私には要らないものだけど、彼らは欲しいみたいだから。

 だから私は、彼らの判断にこの身を委ねる。この国の統治者ってのはそういうもんらしいからな」


 27番地の主権は住民にあり、『六番目の統治者』は彼らの代表に過ぎない。

 選ぶも捨てるも、すべては住民の沙汰次第。


「あんたが思った以上に私のことを心配してくれたのは理解した。でもいいんだ。私は、彼らにこの命を任せたい。背負うって言ってくれたからさ」


「……そうか。それが、君の信仰なのかい?」


「いいや。私がそうしたいと思ったんだ。狗に信仰なんてもんはない。祖国でも、神に祈ることは許されなかった。ただ、もし、私にもそういうものがあるとすれば、これまで私を大事にしてくれた人たちとの記憶が私にとっての信仰だ。彼らとの記憶が、私を生かしてくれている」


 ラルフたちはともかく、カーフィラのことは今も思い出せない。


 でも一つだけはっきりしていることがある。


 言いつけに背いて先生を助けに行った時、カーフィラは私をぶたなかった。頭を撫でて、抱っこしてくれた。


 名を呼んでくれた。


 それだけだ。父と慕うにはあまりに頼りない記憶だ。

 限られた記憶から判断しても、良い親ではなかったのは確かだと思う。


 けれど、それだけでよかったのだ。

 たとえあれが自分を利用するための演技だったとしても、自分を支配するための方便だったとしても。


 自分が命懸けで救う甲斐のある子供なのだと知らしめてくれたことが、泣きたくなるほど嬉しかったのだ。


 だから彼が何者であってもいい。父親でもテロリストでも構わない。

 誰に何と言われようとも。あの時、あの瞬間、私はあの人の子だった。


 我ながら単純だと思う。

 たったそれだけのことで、あの人からの愛を認めたくて仕方ないのだ。


 でも、それでいいじゃないか。


――ああ、そうだ。


 私は、あの人の子になりたかったんだ。


「私の命はもう私だけのもんじゃない。だったら、私以外の者のために使うのが筋だろう。少なくとも私を生かした人たちは、この私の選択を分かってくれる」


 顔を上げると、イヤドはじっとこちらを見つめていた。ずっと凝視していたのだろう。


 その真剣な表情が、ふっと緩んだ。


「そうか。そこまで言うなら、私からもう何も言わないよ」


 ちょっと落胆したような、安堵したような声音でそう呟いた。

 しかし次の瞬間、顔を上げて。


「だってさ。よかったネ、お兄サン」


 交差点の建物の影に向かって、片言の英語で叫んだ。


 群衆の何人かがぎょっと振り返るが、ハウンドはその場で飛び上がりそうになった。

 決して大声に驚いたのではない。


 瞬時にガードレールから飛び降りて、角を曲がる。


「あ。いや、えっと……」


 ニコラスが慌てふためいた様子で視線を泳がせていた。


 その後ろには同じような表情のチコとヨンハもいて、急いで隠れようとしたのか路地の入口で大渋滞を起こしている。


「……いつから」


「…………お前がナイフを取り出したあたりから」


 ということは、ほぼ最初からか。


「聞いてた?」


「いや、聞いてない。そもそも声が聞こえる距離じゃないし、唇読もうにもお前ら英語で話してなかったし……」


 気まずい沈黙が満ちる。

 それに耐えかねたのか、隠れるのを諦めたヨンハがおずおず手を挙げる。


「あの、潜入準備ができたのですが……大丈夫ですか?」


「ああ。話も済んだしな。行くぞ~、ニコ」


「えっ、ああ」


 ニコラスが戸惑いがちに追いかけてくる。


「大丈夫か?」


「うん」


「本当に?」


「うん」


 ハウンドは振り返って、ニッと口端を吊り上げた。


「ニコに会えてよかったねって話してたんだ。さ、仕事にとりかかろ。夜明けまで時間もないし」




 ***




 どうしてこうなった。


 潜入用に用意された衣装に着替え、姦しい喧騒に包まれながら、ニコラスは立ち尽くしていた。


 説明は受けていた。


 任務概要は、件のプロデューサー『マシュー・アンドレス・バレンシア』の確保。

 潜入メンバーは自分とハウンドとヨンハの三人。


 成功条件はプロデューサーの生存、もしくはチャンのアニメデータの確保。

 敵戦力は、客とこちらの協力者を除く店内外のほぼ全員。


 それについての不満はない。それについては。


「この手の店の妓女はアネモネフォー様の教え子が多いんです。今回の一家の決定に憤りを感じている者も少なくない。彼女たちには目印としてこれをつけてもらっています。これをつけている妓女は味方ですので」


 うん。ヨンハの説明はいつも簡潔で分かりやすい。

 分かりやすいはずなのだが、バグを起こした脳では困惑が先に立つ。


 彼はなぜ、ハートの南京錠がついた首輪を手にしているのだろうか。


「こっちも準備できたぞ。いつでもOKだ」


 更衣室のカーテンが開き、黄色い歓声が上がる。

 現れたハウンドの姿を見て、思わず顔を覆ったのは不可抗力だ。


 ノンスリーブワンピースというか、もはやベビードールだろう。伸縮性のある生地は衣服としての役目より、女性の肉感をより強調するために用いられたと思われる。

 というか、黒ってこんなエロい色だったっけ?


 きわどい太腿のライン、がっつりスリットが入った胸元。

 谷間はネクタイ型チョーカーで隠されているが、それでエロさが半減されるはずもなく。はみ出る贅肉が一切ない筋肉質な脚は、ガーターストッキングにより艶めかしく飾られていた。


 そのうえ頭と尻にはフサフサの狼の耳としっぽがついているのだ。


 いや、これはダメだろ……。


「やっば。ぜったい似合うと思ったけどこれはまじヤバイわ」


「ヘルハウンド様ぁー、こっち向いてぇー♡」


「さっすがチコ! いい仕事するじゃんっ」


「うふふ、そうでしょう、そうでしょう!」


 この登場を待ち望んでいた妓女たちが一斉に写真撮影を開始する。あちこちから響くシャッター音で会話がかき消されるレベルだ。


 きゃいきゃい騒ぐ妓女たちに混じって一人ムキムキのマッチョマンがいるが、なんかもう慣れてきた。


 さらに言うと、ハウンドを撮影している妓女たちの頭にも長い耳がついている。いわゆるバニーガールである。


「この店はコンセプトバーというやつでして、SMプレイ愛好家向けに、Sの嬢とMの嬢で服装が変わるんです。日によって女王様とメイドだったり、女社長と新人社員だったりします。本日はアニマルデーですので、狼とウサギの仮装ですね」


「いやほんとに助かるよ。つい最近、古参だったSの嬢が引退しちゃってねぇ。ピンチヒッターって聞いてたけど、これは想像以上だよ。あの子、うちで働けないかな?」


 喜色満面の店のオーナーに「今回限りでお願いします」とヨンハが笑顔でバッサリ切り捨てる。


 いつもなら真っ先に自分が割って入って断るところだが、今回ばかりは本当に余裕がない。


「どう、ニコ。似合う?」


「………………どうしてもその恰好じゃなきゃ駄目なのか」


「ん~……まあそういう店だからね。ほれ、さっさと行くぞ~」


 しっぽを翻しながらハウンドが踵を返す。この後ろ姿が大問題なのである。


――いや、ケツ……!


 そう、尻が半分丸見えなのだ。

 もう少し具体的に言うと、腰から尾骨にかけてが露わになっている。


 そもそもコルセットをタイトワンピースにしたような服(下着?)なので隠すも何もないのだが、中途半端に尻が隠されていることで逆にいかがわしさが倍増されている。

 これなら剥き出しのティーバックの尻の方がまだマシだ。


 というか尻にあるあのしっぽ、どう考えても大人の玩具をぶち込むアレの位置なんだが、まさか突っ込んでないよな?


「あ、言い忘れてました。ウェッブ様、こちらを」


 駆け寄ってきたヨンハが差し出したものを見て、ニコラスは卒倒しそうになった。


「……なあ、これ口輪だよな?」


「はい、犬につけるあれですね」


「いやなんで口輪? もうこれ罰ゲームだろ」


 するとヨンハは「なにを言っているんですか」とばかりに不思議そうな顔で解説した。


「コンセプトバーとはいえど、妓女にやっていい行為には限度がありますから。客がおいたをしないよう見張り役のスタッフがいるんですよ。つまりは番犬です」


「狼の見張りを犬がやるのか……? ふつう逆だろ、狼の方が強いし上だぞ?」


「まあそこは雰囲気ということで。それに、ヘルハウンド様の番犬役となればウェッブ様しかないと思っておりましたが……他のスタッフを呼びましょうか?」


「いやいい。俺がやる。というか俺だけにしてくれ、頼むから」


 「かしこまりました!」とヨンハが実にいい笑顔で返答する。そのうえで、もう一つポケットから取り出した。


「では口輪とセットで首輪もお願いします。首輪の鍵はヘルハウンド様に預けておきますから、外す時は彼女に言ってくださいね」


 こいつ絶対わざとだろ。


 だが断るわけにもいかない。あんな格好のハウンドを他の男に任せるなど冗談ではない。


 もういいや。どうとでもなれ。


 すべてを諦めたニコラスは、満面の笑みを浮かべるヨンハから首輪と口輪を受け取った。




 ***




 準備の段階で色々と衝撃をくらったおかげか、店内の様子に気後れすることはなかった。SM系列の店だけあって、やはり提供サービスはなかなか過激だ。


 ニコラスはなるべくハウンドの後ろ姿を視界に入れないようにしながら、ぴったりくっついて歩いた。


「あれ、あんないたっけ?」


「どれどれ? おっ、めっちゃいいじゃん! すげー上物だぞあれ。ねえ、君! こっちで一緒に――ヒッ」


 ハウンドに声をかけた客が一瞬で真っ青になって口をつぐんだ。

 こういう時、生来の目つきの悪さが本当に役に立つ。


「こら。お客様に威嚇しちゃダメでしょ~?」


 一方のハウンドはノリノリである。Sっ子小悪魔系女子でいくことにしたらしく、日頃の小生意気な態度が見事にはまって完全に店に溶け込んでいる。

 誰も彼女が『六番目の統治者』と気づいてないようだ。


 だがあくまで潜入は潜入だ。

 こんなどこの馬の骨ともしれん男どもに、演技とはいえなんでハウンドを差し出さにゃならんのか。


 手を出す輩は本気で腕ごとへし折ってやる。


「申し訳ありません。今日の彼、どうもご機嫌斜めらしくて」


 機嫌が悪く前にヨンハがさっそく客をなだめに入る。

 あれだけ痛々しい腫れと痣があった顔は、メイクと前髪で見事に隠されている。


 客は「なんだよ」と不服そうではあったが、一応は納得した。

 そこにハウンドがするりと顔を覗き込む。


「なぁに、お兄さん私と遊びたいの? あんな番犬一匹にビビっちゃうくせに?」


 客が金魚のように口をパクパクさせて真っ赤になる。


 ハウンドは妖しげに微笑んでウィンクした。


「声かけるならせめて子豚ちゃんから犬っころに昇格してからにしてね~。抵抗しない獲物って退屈だから」


 最後の台詞を低く唸るように呟けば、客はもうイチコロだった。


 ハウンドに向けられていた値踏みの視線が、一気に羨望と期待の視線に変わる。

 それでも欲望の眼差しに変わりはないのだが、以降ハウンドに声をかける者はほとんどいなくなった。


「お見事です、ヘルハウンド様」


「ニコが睨みきかせてくれてるからね。で、標的ターゲットってあれ?」


「はい。あれです」


 ヨンハの指さすを方向を見て、ニコラスは「うわあ」と顔をしかめた。


 店最奥のボックス席、妓女たちに囲まれる男がいた。


 こじゃれた髭に適度に伸びた髪を一つ結びにした気だるげな中年男。服といい顔立ちといい、いかにも遊び慣れた風体で、妓女の腰に手を回す様も堂々としている。


 件のプロデューサー、バレンシアである。


 あと彼の周りの妓女だけ少し格好が少し違う。獣耳が生えているのは他と変わらないが、狼とウサギ以外の動物も混じっている。

 加えてなぜか格好が、水兵服のような襟付きの上着にスカートだ。


「バレンシア様はここの常連ですから、特別サービスが受けられるんですよ。ちなみにお気に入りは御覧の通り、セーラー服を着たケモ耳っ子です。特に狐耳の子がお気に入りですね」


「度し難い野郎だな」


「あれに今回の作戦の命運がかかってるのか……」


「まあ人の性欲に果て無しと申しますので」


 憤然と腕を組むハウンドの横でがっくり肩を落とす。


 今からあの好色親父を落としにいくのか、ハウンドが。


 なんとか気を取り直してヨンハに尋ねる。


「狐耳以外で標的の好みはなんかあるのか?」


「基本はM系の嬢が好みですね。ともかく攻めが好きで、アネモネ様ともよくサド談義をされておりました」


「サド談義」


「どういじめるのが興奮するとか、どの器具がおすすめかとか、そういう話ですね」


「……そうか。で、ハウンドは今回真逆のS系嬢なわけだが、大丈夫なのか?」


「大丈夫です。というかあの方、S系嬢を懲らしめてMに堕とすのが大好物でして」


「本当に度し難い野郎だな」


 他人の性癖なんて本当に聞くもんじゃないな、と思っていた矢先、ハウンドがするりと標的――バレンシアに近づいた。


「初めまして~、席ついてもいいですか~?」


「んあ? 初めて見る顔だな。新人か?」


「ピンチヒッターで入りました~。今日が初出勤で~す」


 席の端にとんと腰を下ろし、これ見よがしに足を組むと、テーブルにあった高そうなシャンパンを手近なグラスに注ぐ。


「おいおい、それ俺の酒だぞ」


「えぇ~? でもさっきからここの女の子、みんな好き勝手に飲んでるじゃないですか。一杯ぐらいご馳走してくださいよ。あ、それここのテーブル? やったぁ~、一個もーらいっ」


「あ、おいっ!」


 バレンシアが止めるのも聞かず、ハウンドはこちらが差し出した盆のカナッペをつまんだ。もちろん毒見済みのやつだ。

 注いだグラスもヨンハが皿を片付けるふりをして、アップルサイダーに入れ替える。


 末席とはいえ、いきなり乗り込んできて好き勝手飲み食いし始めるハウンドに、妓女たちがぽかんとする。


 一方のバレンシアは表情が変わった。


 周囲にいる妓女の格好と性的嗜好でなんとなく想像がついていたが、この男、大人の世界に踏み込んだばかりの調子に乗っているマセガキを躾けるのが好きらしい。


 そして目の前に、本物の十代後半のS系嬢がいるのだ。しかもハウンドは童顔かつ身体つきは完全に大人の女性で、相当な美人だ。


 食いつかないはずがなかった。


「おうおう、なんだ。腹が減ってたのか? ほらこっち来い、ここにフライドチキンあるぞ」


「いらな~い。それお客さんの食いかけでしょ? なにが入ってるか分からないご飯なんていりませ~ん」


「はははっ、言うねえ!」


 バレンシアは完全にハウンドをロックオンしたらしかった。席を立ち、ハウンドの隣にどっかり腰を下ろす。


 だがその手が触れる前に、ハウンドはさっと距離を取る。


「チキン触った手で触れないでくださ~い。手、洗ってきてくださ~い」


 もはや大人をおちょくるクソガキである。


 だがバレンシアの好みにピタリとはまったらしい。苛立った素振りどころか、ますます興が乗った様子で話しかけてくる。


「なんだ、なんだ。新人の分際で随分な態度じゃないか。一対一の対応がお望みか?」


「ん~、お客様次第かな~」


「おいおい、どんだけ振り回す気だよ」


「だってつまらない男の相手とか萎えるじゃん。あんたが退屈じゃないって保証がどこにあんの」


 いきなり声を低めたハウンドに、周囲が一気に静まり返る。

 日頃からマフィアの当主相手にタメを張る彼女だ。気迫が違う。


 一瞬気圧されたバレンシアだったが、すぐに挑発的な笑みを浮かべた。


 かかった。


「上等だ。おい、そこの。部屋は用意してあるな?」


 ヨンハが「もちろんです」とVIPルームの鍵を差し出す。


 それをもぎ取って立ち上がり、ハウンドに放った。


「そらよ。ご所望の個別対応だ。案内ぐらいはしてくれるんだろうな?」


「ふ~ん……。ま、いっか。ついてきて~」


 ハウンドが先行し、バレンシアが後に続く。


 ヨンハが目配せし、協力者の妓女たちが他の妓女をなだめて素直に退散していく。


 ニコラスは距離を保ちつつハウンドの後を追いながら、上着を脱いだ隙に腰の自動拳銃をさりげなく引き抜いた。


 エレベーターを上がり、VIPルーム前の護衛に手を挙げて、ハウンドとバレンシアが中へ消えていく。


 それを確認したニコラスは即座に距離を詰め、部屋を閉めた護衛が振り返ったところで組み付いた。

 いきなり関節を極められ、銃口を突きつけられて、護衛があえぐ。


 そこに追い付いてきたヨンハがしゃがみこんで前髪を掻きあげた。


「私です。分かっていますね?」


 護衛はコクコクと頷いた。

 さすがの護衛も妓女ナンバー・フォーの付き人は知っているらしい。


 手早く拘束して、廊下の隅に転がしておく。


 ヨンハがマスターキーで部屋を開け、すかさずニコラスが飛び込む。が。


「おう、ニコ。こっちは終わったぞ~」


 ニコラスは構えた拳銃を下げた。


 標的はすでに拘束され、無様にケツを突き出して四つん這いに床を転がされていた。

 しかもボールギャグに目隠しまでされて、声にならぬ声で叫んでいる。


「ヨンハ、ここの防音は?」


「ばっちりです」


「なら多少騒いでも問題ないな」


 ハウンドは部屋の奥から医療用ワゴンを転がしてきた。

 もちろん並べられているのは拷問器具、ではなくそれ系の玩具や鞭である。


 いや、ある意味拷問か?


 ハウンドが哀れな標的からボールギャグと目隠しを取る。

 そこでバレンシアは自分の置かれた状況を理解したらしい。


「お、お前らっ、フォー子飼いの連中か……!? 俺は何もやってないっ、データを渡したのだって、ツーに無理やり迫られたからだ! 分かるだろ?」


「心配しなくてもばらしゃしねえよ。あんたの発言次第だがな」


 ニコラスがそう返すと、バレンシアは「違う!」と顔を真っ赤にして怒鳴った。


「そういうこっちゃねえよっ、この店に通えなくなるんだ! やっと見つけた俺のオアシスだぞ? しかもみんな可愛くてエロくて口が固い! 身も心も癒してくれるんだ! こんな店が俺の通える範囲であるんだぞ? 男の夢がっ、ここにはあるんだっ……! それを奪おうってのかっ!?」


 そっちかい。


 非常に迫真迫る口調ではあるが、尻をこちらに突き出したまま言わないでほしい。


 なんにせよ、愉しんでいるようで何よりだ。だがこちらにも事情というものがある。


「そっか、そっか。大変だったな~。けど私らが用があるのはそっちのデータじゃなくて、もっと前のやつでね」


「前のデータ……? あの時の交渉のやつか? それなら確かにあるが、」


「持ってるんだな?」


「持っては、いる。けどあれは――ひゃう! おいっ、なにすんだ……!?」


 尻をぶっ叩かれてバレンシアが涙目で首をよじる。が、その光景を見て絶句した。


 ハウンドの手に握られていたのは特大のパドルだったのだ。しかも片面にびっしり鋲が打たれてトゲトゲしている。


 ハウンドはにっこり笑った。


「まあまあ、こういう店だからさ。せっかくだし愉しみながらいこっか」


「ま、待て! 話す、話すから……きゃうん!」


 尻を叩かれるたび、汚い悲鳴が飛び出してくる。

 大人になってからのお尻ぺんぺんはさすがに恥ずかしいのか、バレンシアの顔は羞恥心で真っ赤っかだ。


 いったい俺は何を見せられているんだろうか。


「これあとどのくらい続くんだ」


「大丈夫ですよ。あの様子だともって30分といったところでしょう」


 30分も続くのか。


 ニコラスはげんなりした顔で壁の一部とかしながら、尋問が終わるのを待った。




 ***




 血相を変えた部下が飛び込んできたのは、脱獄から四時間が経過したころだった。


 ヴァレーリ一家の鎮圧部隊が到着するまで、あと三時間。


「アネモネ様、えらいことになりました。一家の治安部隊が35番地に侵攻してます」


「はあ? 35番地? デモ隊が占拠してんのは33番地と34番地でしょ。んでまた」


 そこまで言いかけて気づいた。


 三等区35番地、チャンの会社がある区画だ。あそこにはチャンの同僚が住み込みで働いている。


 フォーは舌打ちした。


「んのクソビッチ……!」


「はい。ナンバー・ツー『チュリップ』率いる治安部隊です。まだ少数ですが、進行方向的に、狙いはそこじゃないかと」


「おいおい、ちょっと待て。それどう考えても陽動じゃねえか。チャンの旦那の同僚を人質に取ろうってんだろ」


 側にずっと控えていた部下スシロが割って入った。


 さすがの自分でも理解した。

 これは、詰所に立てこもる自分たちを穴倉から誘い出すための罠だと。


「姐さん、ここは堪えてくれ。チャンの旦那の同僚たちなら、別動隊を――」


「そんな人員割けるだけの人数が残ってんの?」


「……っ、けどこいつはどう考えたって罠だ。この詰所はシバルバ侵攻用の要塞だ。ここなら襲撃されても数時間は持たせられる」


「そうね。でもごめん。ここにずっと立てこもっても、あたしが持たないわ」


 チャンをあんな惨たらしく殺した連中だ。その同僚に情けをかけるはずがない。


 彼らのことは自分もよく知っている。最高の仲間だとチャンがいつも自慢していたから。

 特にチャンの後輩の女性スタッフとは、特区に来る以前からの付き合いだ。


 フォーはマニキュアの爪が割れるほど強く、窓枠に爪を食い込ませた。


「時間が稼げればいいから。お願い、出撃の準備して。あのアマの狙いがあたしなら、あたしが行けば彼らを逃がせると思うから」


 部下たちは何も言わなかった。

 ある者は俯き、ある者は天井を仰いで目を瞑って、黙ってついてきてくれた。


 35番地は数日前と様変わりしていた。

 金品を強奪され空っぽになったブティック。腹をさらけ出して燃え上がる一家御用達のタクシー。


 車窓を流れていく切り取られた一部の光景、それだけでターチィの花園が終焉を迎えたのが嫌というほどわかった。


 フォーは娼館街の入口に転がっているものを見て吐きそうになった。


 バールや鉄パイプなどが突き立てられ、ハリネズミのようになった数人の死体。

 恐らくは、娼館街の店長や経営者たちだろう。


 三等区の妓女は一等区北部エリアへの避難が認められたが、それ以外の者は許されなかった。


 底辺を強いられた男たちは、女に寵愛された男たちを許さなかった。

 その男たちもまた捨てられたというのに。


「姐さん!」


 スシロの声で我に返る。前方、フロントガラス越しにチャンの会社のアパートが見えた。


 その出入り口付近、三等区に不釣り合いな高級車が何台も停まっている。ツー専属の部下が使用する車だ。


 遅かった。


「っ、スシロ……!」


「うっす! 全員着いたな? 建物の出入り口をすべて封鎖しろ! 虫一匹逃がすな! 第一、第二チームは俺に続け、中の捜索を――」


 言い切る前に、スシロの指示は無駄になった。


 建物正面入り口から、ツーの部下たちがチャンの同僚たちを人質に現れたのだ。


「あんたらっ……!」


「ご機嫌麗しゅう、アネモネ様。掃きだめの穴倉に引きこもって震えていると聞いておりましたが、こんなところに何の御用で?」


 ツーが二番目に気に入っている侍者だったか。

 チャンの後輩の女性の首に腕を巻き付けて、銃口を突きつけていた。


 身長差と力加減が下手すぎて、後輩は爪先立ちになって必死に呼吸していた。


――時間、時間。あたしがあいつらの目を引き付ければ、スシロたちながんとか……!


 フォーは覚悟を決め、一歩前に踏み出した。背筋を伸ばし、勝気な表情をつくって笑ってみせる。


「始末した男の部下にまで手を出すなんて、あんたらよっぽど暇してるのね。そんなに退屈なら遊んでやってもいいけど?」


「ははは、生憎ですが我々は汚れた穴(・)には興味がなくてですね。こっちで遊んだほうがよっぽど面白いものがみられると思いませんか?」


 侍者が後輩の髪を掴んで顔をこちらに晒した。フォーは連中が何をするつもりなのか悟って絶望した。


「ご安心ください。あなたの命は取りませんよ。その方が長く愉しめるとチュリップツー様からもぉっ……!?」


 侍者が口を押さえて膝から崩れ落ちる。フォーは呆気にとられた。


 後輩が侍者の口を横一文字に切り裂いたのだ。

 いつの間に隠し持っていたのか、手には細身のナイフが握られていた。


「チコ、監視カメラに写っていたのはこいつか」


「この場にいるのから選ぶならね」


 男たちの背後、建物の影から巨体がのそりと現れた。見間違えるはずもない。チコだ。


 男たちがぎょっと振り返る。侍者が血をまき散らして叫んだ。


「ちがっ、ぉれじゃなひっ、ほいつとおいつが……!」


 侍者の言葉を待たず、銃声が二つ鳴る。侍者が指さした男が二人転がった。


 それを見届けて、後輩は侍者のうなじにナイフを突き立てた。


 そこからは早かった。

 銃声が鳴り、ナイフが煌めく。


 撃たれ、切り裂かれた男たちが次々と転がっていく。ろくな抵抗もできず、男たちはあっという間に制圧された。


「は、ハウンド……!?」


「やっほい、フォー。八日ぶり。――っと、君たちも怖い思いさせたな。けどナイス演技だったぞ」


 後輩、否、ハウンドが地面に伏せる同僚たちの肩を叩く。

 直後、チコの影から恐々と一人の女性が顔を出した。アラブ系の男が彼女を守っている。


 フォーはようやく理解した。

 ハウンドが後輩に扮してわざと捕まり、反撃の隙をうかがっていたのだ。


 銃声の主もすぐに見つかった。


「アネモネ様! お怪我は!?」


「ヨンハ……!」


 ライフルを構えたニコラス・ウェッブに連れられて、右腕の付き人が駆け寄ってくる。顔は腫れ痣まみれで、足も引きずってはいたが、元気そうだった。


 フォーはその場にへたり込んでしまった。

 慌てて部下たちが駆けつけ話しかけてくれるが、何も頭に入ってこない。


 俯いた視界に、ケースに入ったDVDを差し出された。


「はい、データ。完成品じゃないんだけどね。君の常連のバレンシアは変態だったけど、本物の創作者クリエイターだったよ。ツーから脅されたが、完成品じゃないことを理由にこいつは渡さなかったそうだ。あとは彼らが完成させてくれるとさ」


 ハウンドが背後の同僚たちを指さした。後輩の女性が強く頷く。


「修正は私たちが担当しました。ここまで完成品に近いものなら何とかなると思います。チャン先輩ほどの出来栄えには届かないでしょうが、やれるだけやってみます」


 フォーは震える手でケースに手を伸ばした。両手で手に取って、抱え込む。


 遺ったのだ。チャンの夢も、自分の夢も。消えてなどいなかった。


「でだ、ここからが本題なんだけど。フォー、まだやれそう? 今からツーとターチィに一泡吹かせに行くんだけど」


 ドライブに行くようなノリで、ハウンドが尋ねた。


 聞かれずとも、答えは決まっている。


 フォーは深呼吸をしてから、面を上げる。


 顔を血に濡らした女は微笑んだ。その獰猛で凄惨な女の友人になれたことを、フォーは心の底から誇りに思った。




 ***




 夜明けまであと一時間。


 ターチィ領最高峰の妓館『青楼』は慌ただしさを増していた。なにせ30分後にはヴァレーリ一家の鎮圧部隊が到着する。


 一等区ヴァレーリ領国境線沿い、関所の向こう側ですでに部隊が鎮座し、門が開くのを今かと待ち構えている。


 とはいえ、ヴァレーリ主導の鎮圧では困る。あくまでターチィ一家がヴァレーリの部隊に鎮圧させるのだ。そのための準備だろう。


 スリー指揮のもと、護衛や侍者がせわしなく走り回る。

 それらを統括するスリーもまた休む間もなく報告を受けては指示を飛ばす。不眠不休だろうに、疲れの色を一切見せないのだからつくづく隙のない女性だ。


 一方のツーはスリーと真逆だ。当主の護衛を担当しているのか、青楼最高位のラウンジで部下とともに控えている。

 が、ツー本人はお気に入りの護衛を侍らし、カウチソファーに寝そべって好き勝手だべっている。


 とはいえ、このラウンジが当主専用の応接室と直結しているらしく、当主に会うためにはここを突破せねばならない。


 また当主もスリーも、ツーの護衛を当てにしていないらしく、身辺警護はおのおの直属の部下たちで固めていた。

 恐らくツーにおもだって動かれても面倒なので、適当な仕事を与えてラウンジに隔離した、というのが正しい状況だろう。


 とどのつまり、当主との面会を果たすには当主、ツー、スリー三者の護衛を突破せねばならない。


「……ここまであっさりセキュリティ突破されるとなんか力抜けるわね。27番地って監視カメラのハッキングもできんの?」


 ノートパソコンの画面を覗き込みながら、フォーが憮然と呟く。


 ニコラスはスコープから目をそらすことなく「いや」と言った。


「今ちょうど腕利きのハッカーが一人うちに居候中でな。そいつのおかげだ」


「それって元ロバーチ一家の幹部のこと? よく雇う気になったわね」


「ハウンドが使うってんならそれに従うさ。あいつのその辺を嗅ぎ分ける鼻は確かだからな。あと、こういうハッキングされたくないならクラウドセキュリティを見直すか、プライベート接続で回すことをお勧めする。統合やら細かい調整が面倒になるそうだが」


「あとで進言しておくわ。まあ……この面会が成功すればの話だけど」


 フォーがいったん言葉を区切った。無線機器インカムに手を当て、耳を傾ける。


「ヨンハたちが配置についたわ。いつでもどうぞ」


「了解した。ハウンドの方も問題ない。予定通り25分後に作戦を決行する。各位、時刻合わせした時間で動いてくれ」


「……あの子もそうだけど、あんた、あたしのこと疑わないの? もしかしたら当主に駆け込んで裏切るかもしんないわよ」


「しない。俺はともかく、あんたはハウンドを絶対に傷つけない」


「なんで」


「あいつの鼻を気遣ってくれたろ。夜会の時、あんたを含めた四人とも香水をつけてなかったが、服に使う洗剤から化粧の香りまで選り好んでくれたのはあんただけだ」


 フォーとの初対面は印象最悪だったが、一つだけ好印象だったものがある。

 フォーの体臭だ。


「あんたからはカルダンモンとクミンの香りがした。お察しの通り、あいつは料理に使う香辛料の匂いは平気でな。よく気付いたな」


「警戒心が強いけど食い意地は張ってそうな子だったから。もっともあの子がうちで何か口にすることはなかったけど。あの子が食いたそうに見てる物の香りを選んだのよ。香り一つで客の機嫌をコントロールできるなら安いもんでしょ」


「でも日常で使うもんの香りをすべて統一すんのは相当な手間だろ。特に女性は。少なくともあんたがハウンドを敵に回すようなことはしないと思った。俺にとっちゃそれだけで十分だ」


「……はあ、あんた筋金入りの忠犬ね」


「褒められたと思っておく」


「皮肉言ってんのよ。まあいいわ。期待されたなら応えてやらないとね。それがあたしの仕事だもの」


 そう言ってフォーは立ち上がった。


 絶妙なバランスでゆるく巻かれた髪を指でつまむ彼女に、背後からチコがのぞき込む。


「仕上がりはどう?」


「完璧ね。ありがと、チコ。それと巻き込んでごめん」


「いいのよぉ。おかげでこうして、あなたの大事な晴れ舞台の飾り手をやらせてもらえるんだもの」


「血みどろの舞台だけどね」


「でも覚悟の上なんでしょ?」


「当然」


 フォーはショールを脱ぎ捨て、階段を降り、地上にて待つ部下たちのもとへ向かう。


 狙撃と隠蔽だけのために選んだ二等区の建設中工事現場が、さながらレッドカーペットを練り歩くスターに見えた。


「どんな舞台でも踊ってみせるのがダンサーってもんよ。死の舞踏会でも踊ってやろうじゃない」


 これはもう大丈夫だな。


 ピンと背筋を伸ばして歩くその背を一瞥で見送って、ニコラスは胸の内に沸き上がった痛みを無視した。

 無意識であっても重ねることは侮辱に当たると思った。


 深呼吸で切り替える。

 前方スコープの先、あの闇のどこかにハウンドが潜んでいる。


 ターチィ一家には思い出してもらおうか。


 彼女が『六番目の統治者』呼ばれるようになった、その所以を。




 ***




 ハウンド命名『ダイナミックお邪魔します』作戦は、そのふざけたネーミングと裏腹に、実に緻密かつ迅速に進められた。


 開戦の狼煙は、一発の弾丸だった。


 ツーがいるラウンジの窓辺に立っていた護衛が真っ先にやられ、次いで屋内の連中が次々に撃たれていった。


 ツー陣営は大急ぎで襲撃を報告し、応援を要請した。


 スリーは綿密かつ丁寧に護衛を配置していたが、要請を受け、仕方なくいくつか護衛を割いてツーのもとへ向かわせた。


 それが狙いだった。


「真面目だね~、放置してりゃいいのに。ニコの位置じゃラウンジ奥のツーは狙えない。あんなバカスカ撃ってりゃ、こっちの位置ぐらい気づきそうなもんだが」


 ハウンドが苦笑すると、同じく侵入チームのスシロが肩をすくめた。


ロンダンスリー様でもツーの命令には逆らえないっすからね。つか、こういう攻め方もあるんすね」


「優秀な狙撃手がいればな。敵が待ち構えてんのにわざわざ正面突破してやる義理もない」


「なるほど。勉強になるっす」


 ハウンドは駐車場の茂みから音もなく抜け出した。


 手薄になった箇所の外壁をよじ登り、青楼へと侵入する。


 神殿と王宮を掛け合わせたような外観とだけあって、もはや城攻めだ。


 監視カメラはハッキングですべて無効化されており、あとは赤外線探知と人の目を搔い潜ればどうとでもなる。


 外壁にいた護衛数人に忍び寄り、口を押えて首を掻き切る。

 排除し終えたら外壁越しにロープを投げ、スシロたちを招き入れる。


 外壁から庭へ向かい、建物を目前にして待機する。


 現時点で時刻は6時39分。

 予定ではあと一分でヴァレーリ一家治安部隊が関所から入ってくる。


 その時を狙いすまして、ヨンハから無線が入った。


『ヘルハウンド様、予定通り一等区発電所に仕掛けました。いつでもいけます』


「やってくれ」


『承知しました』


 そう言った直後、青楼から、一等区から明かりが消えた。


 一瞬で闇夜に包まれ、あちこちから混乱の声が聞こえてくる。


 ハウンドたちは茂みから飛び出した。

 暗視装置を付けたスシロたちが手近な護衛を片っ端から片づけていく。


 ターチィ一家はさらなる混迷に陥った。


 加えて予定の時刻となり、ヴァレーリ一家から関所の開門をせっつかれる。


 倒れた護衛の無線からは「どこに敵がいるのか」やら「ヴァレーリ一家を通していいのか」やら指示を仰ぐ声でカオス状態だ。


「予備電力に切り替えろ!」


 叫びに呼応して、建物の部屋のいくつかに明かりが戻る。


 だがこちらには狙撃手がいる。


 真っ暗闇の中に浮かぶ明かりなどいい的だ。すかさずニコラスが何発か撃ち込む。


 ターチィは慌てて明かりを消した。


「んじゃ予定通りに」


「うっす。陽動なら任せてください。暴れるのは大得意だ」


 頼もしい返事を背に、ハウンドは暁闇に身を躍らせる。


 懐かしい雰囲気だ。ヴァレーリ一家前当主を襲撃した時のことを思い出す。


 頭に叩き込んだ地図を頼りに先を急ぐ。


 暗闇でうろたえる護衛は撃ってくる者は片づけ、そうでない者は無視して素通りした。

 ヴァレーリ・ロバーチ一家相手に比べれば、なんとも楽な城攻めだった。


 だが当主に近づくにつれ、そうもいかなくなった。


 早急に予備電力を復旧させ、猛然と撃ってくる。

 位置的にもニコラスの援護ができず、ハウンドは停滞を余儀なくされた。


――さすがに当主の護衛は一筋縄じゃいかないか。


 どう攻めたもんか、と思った矢先。ニコラスから無線が入った。


 曰く、当主が部屋から消えたという。


『部屋から出た形跡もない。恐らく隠し通路かなんか使ってる』


「ん~、やっぱ使ったか。んじゃこっちも奥の手、使おうか」


『いいのか?』


「いずれバレることだからね~。それにこの手の地図情報は他一家にも高く売れるし」


『あんま危ない橋わたるなよ』


 そう嘆息して、ニコラスが無線を切る。

 端末を確認すれば、27番地のチャットの方に、ニコラスからの指示が確認できた。


 ハウンドは待った。


 二分後。建物が揺れた。


 下からの突き上げる震動に狼狽する護衛を差し置いて、当主の部屋に飛び込む。


 部屋はもぬけの殻だった。

 だが部屋の奥、床の間の真紅の掛け軸の向こうから白煙が漏れている。


 直後、そこから人が飛び出した。


 隠し通路を使って脱出を図ろうとしていた当主とその護衛たちだ。

 通路を爆破されて慌てて戻ってきたらしい。


 ハウンドはすぐさま飛び掛かった。ものの数秒で一人を仕留め、続いて二人、三人。


 だが多勢に無勢だった。


 粒ぞろいの護衛相手に、さすがのハウンドも短時間では仕留めきれない。


 護衛が時間を稼ぐ間に、当主が次なる隠し通路へ急ぐ。


 ハウンドは護衛の一人を盾に撃って牽制するが、間に合わない。

 その隙にハウンドも囲まれてしまった。


 背後から数人の銃口が向けられる。


「待て!」


 当主が叫んだ。

 そのこめかみには、赤い光点が浮かんでいる。


 ニコラスの狙撃銃から発せられたレーザー照準の光線だ。


 こちらの隠し通路を先に爆破すれば、次はそちらへ向かうと思った。ニコラスの射程範囲内の窓の前を通る。


 計画通りだ。


 当主を人質に取られて、護衛たちの銃口がようやく下がる。


「参ったねぇ。隠し通路のことは妓女たちにも話してなかったんだが」


27番地うちじゃ近ごろ地上型ドローンの運用にはまっててな。飛行型ドローンはなかなか侵犯させてもらえないもんで」


「なるほど。前言撤回だ。お前も番犬も本当に可愛げがないよ」


 かくして『ダイナミックお邪魔します』作戦は成功した。


 当主を人質に取られ、一家は降伏。


 ヴァレーリ一家もまた、当主フィオリーノ・ヴァレーリに直接連絡すると、部隊は入国をやめ関所前に居座った。

 高みの見物を愉しむことにしたらしい。


 開け放たれた正門から、フォーが堂々と入ってくる。

 その後にヨンハが、スシロが、部下たちが続く。


 その光景をツーは苦々しげに、スリーは無表情に、当主は面白そうに眺めていた。


「いいのを捕まえたようだねぇ、アネモネ。代行屋を味方につけるとは大したもんだ。だがこれからどうする? 一家に背き、同胞に弓引いたお前の大義はどこにある? ただのあの男の弔い合戦かい」


「その話をしに参りました、ご当主様。それから、わたくしは一家に背いたわけではございません。あくまで一家に巣食うごく潰しを排除しにきただけです」


 当主の目が「ほう」と細まる。


 冬の名残が強く残る正門前の庭園にて、最後の交渉が始まった。

 ここから先は、フォーの戦いだ。


 庭の隅から見守っていると、脇にニコラスがこっそりやってきた。

 じっと注視し、引金に指をかけてはいるものの、その目に不安の色はなかった。


 頭を垂れていたフォーが表を上げる。艶やかな真っ赤な唇が、ゆっくりと開いた。








――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は5月10日(金)です。

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