10-5

 意外にも、27番地とヴァレーリ一家のいざこざは、早々に片がつきそうだった。


「――というわけで、うちと一緒に踊ってくれる奴を探してる。もちろん報酬も出すし、その後の商談に関しても条件次第で乗ろうと思ってる。ターチィとのコネ拡大はうちとしても大歓迎だからな」


「なるほどね。それならうちのスシロに声かけるといいわ。あいつ、護衛部隊の装甲車全般を扱ってるから。なんだっけ、テクニシャン? あ、民生戦闘車両テクニカルね。そうそう、それについても詳しいと思う。私そのあたりよく分かんないけど、あいつに任せておけば絶対に大丈夫よ。ヨンハ、スシロのスケジュールは?」


「多少埋まっていますが工面しましょう。明後日の夜なんかいかがです?」


「頼む。時間は――」


 会話に耳を傾けながら、ニコラスは給仕が運んできたフルーツの盛り合わせの大皿が置けるよう、テーブル上の空いた皿を整理した。


 ドラゴンブレスの如き毒舌を振るうフォーだが、ハウンドの前ではペルシャ猫に早変わりするらしい。

 自分の時と随分態度が違うが、彼女を大事にしてくれるのはありがたい。


 一方、行政能力に関してはあまりないようで、実際のところは側近のヨンハが取り仕切っているらしい。手下との仲も良好そうだ。


 席を立っていたスリーが戻ってきた。


フォーアネモネ、バレンシア様がお見えですよ」


「はあ? 嘘でしょ、今日だけは無理ってあんだけ言ったのに」


「顔を見にきただけ、とのことですよ」


「チッ、あのクソ親父、冷やかしに来たわね」


「あなたに聞いてほしい愚痴があるんでしょう。少し疲れておいででしたから」


「はあ……。スリーロンダン姉さま、ここお願いします。ハウンド、ちょっと席外すから」


 軽く手を振って、フォーはつかつかとホールへ歩いていった。つくづく歩くだけで様になる女性だ。


 スリーが申し訳なさげにハウンドに微笑んだ。


「どたばたしてしまって申し訳ありません。せっかくのご訪問だというのに、席まで移動してもらって」


「構わない。こちらこそ忙しいところに押しかけてすまないな」


 ニコラスたちは、先ほどのVIPルームから、例のバスケットコート並みのラウンジへ移動していた。

 妓女を求める客が押し寄せていたためである。


 特にツーの客は大層駄々をこねたらしく、結果、一人がハウンドの相手をしている間に、残りの三人が客を捌くことになった。

 こちらも彼女たちの商売の邪魔をするのは本意ではなかったので、成り行きに任せた。


「すごいですね。たった数分の会話のために、こんなに大勢が押し寄せるなんて」


 ニコラスが辺りを見回すと、スリーはふふっと完璧な微笑を浮かべた。


「もちろん後で埋め合わせはさせてもらいますよ。それに、こうして殿方に癒しと憩いを与えるのが我々の仕事ですから」


 ニコラスはバーカウンターの人だかりに目を留めた。ワンとその客たちだ。


 カウンタースツールに座る彼女に、男たちがこぞって話しかけては酒を奢ろうと躍起になっている。それも、いかにスマートで優雅に振舞うか、水面下でバチバチにやりあっているのが遠目にも分かる。


 対してツーは席に着き、先ほどの客に猫可愛がりされている。沢山のプレゼントをもらって大はしゃぎのようだ。


 一方、フォーは客と何やら言い争っている。だが両者とも口元は笑っていて、気の許した旧友とじゃれ合っているかのようだった。


ワンリーリ姉さまのお客様は資産家の方が大半ですが、医療関係者の方も多いんです。ツーチュリップ姉さまは美容・アパレル業界。美容に関しては、整形市場をめぐっておふた方が協力されることもあります。特区の整形業界はほとんど手つかず状態ですから。私は経営者の方を中心に幅広い業界の方々とお付き合いさせていただいてます。フォーだと個性的なお客様を担当することが多いですね。ミュージシャンの方や、ラジオ番組の司会者の方だったり」


「経営もされてるんですか?」


「ワン姉さまとツー姉さま、私はそうですね。フォーはあまりその手のことに興味がないようで、代わりに我が領の防衛を担当しています。彼女の部下はみな優秀ですから。私に関しては二社ほど運営しております。金融業界の方と縁がありまして。もちろんご当主様のお手伝いがメインですから、あまり手をつけられていないのですが」


 つまり、この女性は二つの金融系企業を一手に担うやり手の経営者ということだ。

 それも一家運営の片手間、小遣い稼ぎのようなものだろう。流石は一家の幹部。


 ターチィ一家の内情を少し知ったところで、スリーが呼ばれた。スリーが会釈しながら席を離れた、その時。


「ヘールちゃんっ」


 いつの間にか近づいていたツーが、ハウンドの隣にするんと座った。

 猫が音もなくソファーに飛び乗ったような愛らしい仕草だが、それにしては笑みが艶っぽい。


「待ちぼうけさせちゃってごめんね? 今日に限って外せないお客さんばっかでさぁ。楽しんでる?」


「それなりに。お菓子もフルーツも美味しいし」


「そっか、そっか。よかったぁ。あ、助手さんも甘いもの好きなんだよね? チュリップが何か取ってきてあげようか?」


「ああ、いえ。お構いなく……」


 フルーツや菓子を口にしていたのは、単にハウンドのための毒見なのだが、それ以上にニコラスはツーが置いてきた客のことが気がかりだった。


 彼はつい先ほど、個室でツーや他の妓女を独占して密談する自分たちに、腹を立てていたばかりである。

 一年以上前から予約していたとのことだし、念願の妓女にようやく会えると思ったら会えないでは腹を立ててもしょうがないが……彼は自分たちがツーらと一緒にラウンジにやってきたのを目撃している。


 下手に煽りたくない、と思っていたのだが、なぜか客は自分でもツーでもなく、ハウンドを凝視していた。

 その獲物を見るようなぎらついた視線に、ニコラスは嫌な予感がした。


「ところでさ、ヘルちゃんあっちで話さない? うちのお客さんがね、ヘルちゃんと是非お話したいって」


 そらきた。予感的中だ。

 あの客、ハウンドを妓女の一人と勘違いしているらしい。


 ハウンドは困ったように小首を傾げた。


「お誘いはとてもありがたいんだが、あと一時間足らずで迎えがくる――」


「けどそれってヘルちゃんとこの住民部下でしょ? ならちょっとぐらい遅れたって怒ったりしないって」


「いや、住民じゃなくて依頼主なんだ」


「そうなの? じゃああたしが関所まで送ってあげるよ。車なら五分もかからないし、なんなら27番地まで送ったげるから。うちの部下にもそう言っとくね」


「いや、依頼主をほっぽりだすわけには……」


「ね、ね、ちょぉっとだけでいいからさ。ほんとごめんなんだけど、今日のお客さんちょっとしつこくて。ヘルちゃんは妓女じゃないって言っても引き下がってくんなくて。ヘルちゃんの素性明かすわけにいかないから、友達って言っちゃったんだけど、それがまずかったみたい。ね、ヘルプだと思ってさ。あとでうんとお礼するから、お願いっ」


「今日のお客さん」以降のくだりを小声にしながら、ツーは祈るように両手を組む。ハウンドは目を泳がせた。


 これがマフィアの野郎どもなら一蹴するところだが、ハウンドは女子供の頼みには弱い。


 加えて、元はといえば自分たちが割り込んだせいだと考えると、断りにくかったのだろう。今後の付き合いのこともある。

 なにせ相手はターチィ一家の実質的幹部である。


 ハウンドは小さく嘆息すると、口をこちらの耳に寄せた。


「ちょっと行ってくるから、チコに遅れるって連絡お願い」


「……本当に話すだけなんだろうな?」


「たぶん。それにあの程度の男なら秒で取り押さえられるし」


「…………なにか与えられても絶対に口にするなよ。香水の類にも気を付けろ。お前だと少量でも利く。異変を感じたらすぐに俺を呼べ」


「分かってるって。頼んだよ」


 ハウンドは苦笑しながら立ち上がった。


 ツーが顔を輝かせてハウンドの腕に縋りついた時。


「チュリップ姉さま、ヘルをどこへ連れていくつもりですか。まさか客の相手をさせる気じゃないですよね?」


 険しい顔のフォーが割り込んだ。


 ニコラスはげっ、と思った。これまでの会話から察するに、この二人、非常に仲が悪いのである。


「えぇー、でもヘルちゃん、いいって言ったよぉ?」


「彼女だってゲストですよ。あちらのお客様には、あたしもお詫びしにいきますから」


 そう言いつつフォーは、ツーからハウンドを奪い返すと無理やり座らせ、なぜかこちらの腕を掴んでハウンドの肩に回させた。


 いきなりフォーに腕を掴まれた挙句、ハウンドを抱きこむようにさせられてニコラスはひどく驚いたが、一番驚いたのはハウンドだった。

 隣にちょんと座って目をぱちくりさせている。


「んー、でもアネモネが来てもなぁ」


「……あちらのお客様があたしを好いてないのは知っています。でもだからといって他の客人を巻き込むのは――」


「ねえねえ、ヘルちゃん。ヘルちゃんってば、前からご当主様から勧誘受けてたよね? ターチィうち専属で働いてみないかーって」


「えっ、あ、ああ。うん、まあ」


 フォーの訴えを無視して笑顔で振り向くツーに、ハウンドは若干引きながら答えた。


 それを聞いてツーは笑みを深めると、少しかがみながらこちらに顔を寄せた。


「じゃあこれを機にさ、妓女やってみない?」


「えっ」


「はあ?」


 フォーから完全に敬語が外れた。

 心底呆れたらしい彼女のアルト声は思いのほかよく響き、ラウンジが一瞬静まり返って、ざわつき始める。


 ハウンドは珍しく困惑していた。


「いや、私には27番地を、」


「うんうん。それは知ってるよ。けどそれって会社経営と似たようなもんでしょ? 私でも経営と夜職両立できてるんだし、ヘルちゃんならもっと上手くやれるって」


「チュリップ姉さま、おふざけもその辺に――」


「それにぃ」


 フォーの声を遮って、ツーはハウンドの耳元で囁いた。

 自分たちが辛うじて聞き取れる声音で、しなだれかかった恋人に睦言を交わすように。


「ヘルちゃんの身体って避妊しなくていいんでしょ? ゴムなしでいけるとか売春婦にうってつけの身体じゃん。絶対向いてるって」


 一瞬、なにを言われたのか分からなかった。


 呆然とツーの顔を見て、ハウンドを見、その顔から表情が抜け落ちているのを見て、なにを言われたのかようやく理解した。


 全身の血液が沸騰した。


「あんた、言って良いことと悪いことが――」


 ニコラスは最後まで言えなかった。

 フォーがツーをはつり飛ばしたのである。


 ツーもこれには予想外だったらしく、床にへたり込み、平手打ちされた頬を手で押さえて呆然と見上げた。


「前から馬鹿だとは思ってたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわね。――誰に向かってもの言ってんのよ。そこにいるのは『六番目の統治者シックス・ルーラー』、ご当主様と同格の、この特区の支配者の一人よ。そんなのに無礼を働いて、ただで済むと思ってんの?」


 ラウンジ内は完全に凍り付いていた。

 血相を変えたワンとスリーが瞬時に事態を把握して歩み寄るが、フォーは止まらない。


 腰に手をあて、剥き出しの長い脚を惜しげもなく晒して、仁王立ちでツーを見下ろす。


「あんたの目の前にいる小娘はね、月にあんたの四倍稼ぐのよ。枕営業しか能のないあんたとは違うの。分かる? 身の程を弁えろっつってんのよ、このクソビッチ」


 魔女のような爪を鼻先に突き付けられて、ツーは真っ赤になった。

 目に涙がじわじわと溜まっていき、それが零れる寸前でぱっと身を翻してラウンジを飛び出していった。


 呆気にとられるこちらを横目に、ハウンドが小さく息をつく。


「サバ読み過ぎだよ、フォー。黎明期の頃と違って暗殺依頼は年に数回程度だ。今だと月に五万ドルがせいぜいだよ」


「あの馬鹿より多いことに変わりはないでしょ。倍も稼いでりゃ充分よ」


「アネモネ」


 途端、フォーは口をつぐんだ。ワンとスリーが立っていた。


 フォーは一転、顔を引き締めると片膝を折り、頭を垂れて見事なカーテシーをした。ピンヒールにも関わらず、よろめきもしなかった。


「リーリお姉さま、ロンダンお姉さま、先人に無礼を働いたこと、如何なる罰もお引き受けいたします。ただ今は、今宵一、高貴なお客様の名誉を晴らすことが先決と判断いたしました。お許しください」


「ワン、スリー、聞いてくれ。フォーは――」


「……いいえ。大体のことは見て察したわ。今回ばかりはチュリップのおふざけが過ぎたようね」


 ハウンドの言葉を待たず、ワンもまた頭を下げた。スリーもそれにならう。


「言葉は取り消せないけれど、どうか許してあげてね。チュリップも悪い子ではないの」


「お詫びは後日、丁重に行わせていただきます。アネモネ、お二人を別室に」


 スリーに促されて、ニコラスたちはフォーの先導を頼りに席を立った。


 できることなら今すぐハウンドを抱えて外へ連れ出したかった。ハウンドも、こちらの差し出した手を拒まなかった。


 その合間にワンはツーの客の元へ向かい、接待を始めた。ツーの失態の後始末なのだろう。


 客もトップが直接詫びにくるとは思ってなかったらしく、しどろもどろになっていた。


 それを見てスリーもまた、背筋を正し、ラウンジ内の客一人一人に目を合わせながらよく通る声で言った。


「お客様方、せっかくのお時間をこのようなお目汚しで潰してしまったこと、誠に申し訳ありません。ターチィを代表してナンバー・スリー、ロンダンがここにお詫び申し上げます。今宵も残りわずかではございますが、どうか我々に皆さまへの謝罪の機会を与えていただきたく存じます。つきましてはこの場にいる皆様全員に、当家の全サービスを対象に、お一人様一回、無償でご提供させていただきます。また気分を害された方は遠慮なくご退出ください。お代は一切頂きません。その代わり後日、我々がお客様の元へお詫びにご訪問することをお許しください」


 この見事な立ち振る舞いには、客も次第に落ち着いていった。同時に、ニコラスたちへ集中していた視線も縮小していく。


 その隙にとフォーに促され、ニコラスたちはラウンジを後にした。




 ***




 ラウンジを出るなり、


「はぁー疲っれた。あのクソ長くて面倒な口上も覚えておくもんね」


 首と肩を軽く回したフォーは、くるりと振り返るなり。


「でっ」


 デコピンをしてきた。爪が長いこともあってなかなかの威力だ。


「何やってんのよ、この愚図! あんたこの子の助手なんでしょ? ちゃんと守りなさいよ!」


「わ、悪い」


 ニコラスは素直に謝った。先ほどハウンドを庇ってくれた恩もある。


 が、しかし、フォーはハウンドにも矛先を向けた。


「あんたも!」


 ハウンドの頬をむにゅんと引っ張って、吊り目がちな目尻をさらに吊り上げる。


「ツーにだけはあれほど気を付けろって言ったのに、さっきのなんてあいつの常套手段のオンパレードじゃない! なにホイホイついて行こうとしてんのよ!」


「ふぁはひはなふぁいあふふぁんふぉははふふぁはっへ (私なら最悪なんとかなるかなって)」


「そういうとこが甘いっつってんのよ!」


 頬を引っ張り回されているせいでなにを言っているのか定かではないが、彼女がハウンドに甘いのは確かなようだ。それより。


「さっきの……ミス・ツーはそんなに厄介な人なのか」


 そう尋ねると、フォーは姿勢を正すと腰に手をあてた。この手の勝気なポーズが本当によく似合う女性である。


「あのクソビッチ、もういい歳のくせに全盛期のノリで客取んのよ。その尻拭いを新人にやらせるわけ」


 どういうことだろうか、と考える間もなくフォーは解説を続けた。


「あいつの売りはベッドに入ってからなのよ。けど客の相手すんのも若い頃のようにいかない。一晩に二、三人がせいぜいよ。だからそれ以上の客を取るとさばききれなくなる。だから自分が見繕った新人にそれをやらせるのよ、実地研修だって言ってね」


「出世街道に乗りたい新人にはのし上がる絶好の機会だし、ありがたい申し出でもあるんだけどね」


 と、ハウンドが合の手を入れるが。


「冗談じゃない。自分が相手したくない客を押し付けてるだけよ。処女厨への餌付けでしかない。あんなの教育だなんて言わないわ、ただの新人潰しよ。ハズレ客引いてトラウマになった子が何人いることか」


 と、フォーは吐き捨てた。


 ニコラスも同感だった。ああいう客の中には、信じられないほどろくでもない奴だっているのだ。


「それよりフォー、大丈夫か? 確実にダシにされたと思うが……」


「どうでもいいわ。あいつが被害者ムーブで客引きすんのなんて、いつものことだもの」


 鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまったフォーの代わりに、今度はハウンドが説明した。


「ツーの悪癖でな。わざと他人を怒らせてやらかしてから客の気を引くんだよ。ナンバー持ちの妓女が恥かいてベソかいてるなんて滅多にない光景だろ? だから客の方もここぞとばかりに強気にでるんだよ。自分が優位に立てると思ったとたん態度がデカくなる奴、たまにいるだろ? あれ。で、客が慰めるふりで近寄ってきて、あわよくば一夜を共にしようと口説いてくんのを、ツーは弱った振りしながら待ち構えてるわけ。あとはぺろりと平らげて、客は完全にツーの虜になるって寸法さ」


「ベッドに入ってからのあいつ最強だからね」


「撃墜率100パーセントらしいな」


「ムカつくことにね。ああ、今思い出しても腹立つ」


 女性陣の会話に、ニコラスは目が回る思いだった。


 つまり、先ほど泣いて飛び出していったツーのあれは、演技だったということだ。


 先ほどまでの楽しそうな女子会は何だったのか。主語のデカい発言はあまりしたくはないが、やっぱ女って怖い。


「ていうか、あんたこそ大丈夫なワケ? さっきのあれ、侮辱ってレベルのもんじゃないわよ」


「ん~、でも事実だしなぁ~……」


 事もなげに笑うハウンドに、フォーは思い切り顔をしかめた。さっそく「あのねえ」と詰め寄るが、今度はニコラスが割り込んだ。


 こういう笑い方をする時の彼女は、一人にしてほしい時だ。


「それよりハウンド、さっきチコから連絡があった。急いで報告したいことがあるそうだ」


「えっ、マジ? 迎え以外のこと?」


「たぶん。ミス・フォー、どこか空いてる個室ないか? 話をする場が欲しい」


「ミス要らないわよ、グズ男からの敬称なんて嬉しくないし。……“蝋梅ラーメイの間”ってとこに行きなさい。あそこ、あたしの控室だから誰も来ないわ。あとでヨンハを向かわせるから、欲しいものがあるなら言って」


「ありがとう」


 ニコラスはまたも素直に礼を言って歩き出した。今度はハウンドに腕を差し出すのを忘れずに。


 けれどそんな背を、物憂げな面持ちで見つめる女性がいたことには気付けなかった。




 ***




 傷つけられて弱っている彼女の頼みは、何であろうと叶えるつもりではあった――のだけど。


「……ハウンド、上着ならいくらでも貸してやるが、この体勢はさすがにきついんじゃないか。俺そんなにデカくないし」


「大丈夫、大丈夫。私、小柄だからいけるって」


 小さいつったって、もうあの頃みたいなチビじゃないだろ。もう懐で抱え込める時期はとっくに過ぎている。


 ソファーに座るこちらを背もたれに、両膝の間に身体を丸めて座りこむ細い背を眺めながら、ニコラスは溜息をつく。


 相変わらずの無防備に小言を言いたくなるが、今は我慢だ。

 自宅ならともかく、いつもは飄々と何事にも余裕そうな彼女が、こうも素直にあどけなく甘えることなどまずない。先ほどの会話が、やはりきつかったのだろう。


 ツーだか何だか知らないが、あの女、二度と近寄らせないようにしよう。


 ハウンドが、羽織ったジャケットを手繰り寄せる。


「毛布、頼むか?」


「ううん。これがいい」


 そう言って、折りたたんだ足の膝に顔をうずめた。

 あの悪魔のようなヒールも脱いですっかりご満悦だ。声色は。


 ニコラスは黙っていた。こういう時は何も言わない方がいい。


 自分の時もそうだった。何も聞かず、黙って寄り添ってくれるハウンドがありがたかった。


 だから自分もそうしてあげようと思った。


「さっきのあれなんだけどさ」


 座り始めて数分が経って、彼女の呼吸にも耳が慣れてきた頃。


 ポツリ、ポツリと。解けた氷柱から水がしたたり落ちて雪に穴を開けるように。彼女は語り始めた。


「生殖機能がなかろうと、女は利用できる。それでいいと思ってた。だからさっきの発言はばちが当たったというか」


「罰?」


「だって私、遺族に泣いて許してもらったろ。泣くのは弱者の証だ。女の武器だ。弱ったふりして相手を同情させて、利用した。その罰が当たったんだなって」


 それは違う、とニコラスは言いたかった。


 遺族がハウンドに心を開いてくれたのは、彼女が心から五人の兵士たちを悼み、一人戦い続けていたからだ。墓すら許されなかった彼らのために、遺体を、遺品を回収しようと死に物狂いで抗った。

 そんな彼女だからこそ、遺族も彼女を許したのだ。たとえ五人の死因に関わっていたとしても。


 そう、飛び出しかけた言葉を、ニコラスはぐっと堪えた。

 ここでまくし立てては、ハウンドはまた生ける石像に戻ってしまう。かつての自分がそうだったように。


「あの時は本当に涙しか出てこなかった。けど結果的に涙を利用して遺族に許してもらったのは事実だ。女でないくせに女を利用した罰が当たったのかな〜って」


 狗のくせになぁ。


 それきり、ハウンドは口を閉ざした。数分経っても、それは変わらなかった。


 ニコラスはずっと置き場を失っていた右手で、躊躇いがちにハウンドの頭を撫でた。


「……俺は、痛まないのと、痛みに慣れるのは別だと思ってる」


 掌の下で、僅かに頭が動いた。


「俺の母親は本当に酷い女だった。屑ってのは、ああいう人間のことを言うんだろう。毎日毎日、虐待されて、けどそれもだんだん平気になっていった。それが俺の日常になったからだ。でも親友と、フレッドと出会って、その家族と出会って、やっぱり俺の家はおかしいんだって気付いた。痛みに慣れ過ぎて、麻痺しちまってたんだな」


 ハウンドは答えなかった。代わりに足にできてしまった靴擦れを、指先でなぞっていた。


「もしおまえが痛みに慣れているせいで平気だって言ってるなら、それは違うと思う。痛えもんは痛えんだよ。女も男も関係ない。酷いことを言われたら怒っていいし、泣いてもいいんだ」


「でもみんな人前で泣く人のこと許さないじゃん。一人前のすることじゃないって」


「そりゃ泣けるものならみんな泣きたいからな。お前だけ泣きたいわけじゃないって、腹が立つんだろ」


「じゃあやっぱ泣かない方がいいじゃん」


「いいや。泣いたっていい」


 ニコラスはきっぱり述べた。


「泣くのを我慢するのは大人の特権だ。だからガキのお前は我慢しなくていい」


 なんだそれ、とハウンドはむくれ顔で振り返った。


「私もう18だぞ」


「こうやって抱っこをせがんでるうちはまだまだガキだな」


 ハウンドはうっと言葉を詰まらせ、唇を尖らせた。


「むう……ニコだって泣いてたくせに」


「公の場じゃなかったからセーフだ」


「なにそれ、ずるい」


「ずるいのも大人の特権だからな」


 ハウンドはぬうと唸った。けれど一転、クスクスと上半身を震わせた。


「そっか。ニコにとって私はまだ子供か」


「当たり前だろ。歳がいくつ離れてると思ってんだ」


「そんなガキに拾われたのに?」


「だからこうして返してる。残りの人生かけてな」


 そっか~、とハウンドはひとしきり笑って、再び頭を膝に戻す。


「私がまだガキならさ、悩みを自分で解決しなくてもいいのかな?」


 それは独白でもあった。ニコラスは「もちろん」と答えた。


「大人でも悩みは誰かに助けてもらいながら解決するもんだ。誰かに助けてもらうのは恥ずかしいことでもおかしなことでもない。まあ相応の対価を要求されることもあるが……俺はお前に助けてもらった。なら今度は俺の番だ」


 教えてくれ。俺に何をして欲しい?


 そう尋ねると、ハウンドは顔を前に向けた。視線を上に下に向け、虚空を眺めながら、言葉を慎重に選びながら答えた。


「話を、聞いてほしい。本当はニコが言ってたみたいな、自分で解決すべき問題なんだと思うけど。私じゃどうしようもなくて」


 ニコラスは一息間を置いてから、なんだと尋ねた。


「私さ、カーフィラのことあんまり覚えてないんだ」


 ハウンドは靴擦れを親指でなでながら、そう呟いた。


「カーフィラが命懸けで逃がしてくれたあと、結局捕まっちゃって。ラルフたちと出会うまで合衆国安全保障局USSAで再教育されてたんだ。それで色々と……記憶があいまいで。もっとたくさん覚えてることあったはずなんだけど、覚えてるのは痛い目にあった時のことばっかで」


 あまり語らなかったが、ニコラスは概ねを察した。


 USSAはハウンドに「カーフィラは悪者テロリストだった」と教えることで、彼女から記憶を奪ったのだ。


 間違ったことを正しいことだと信じ込ませ、負の感情を植え付け、偽りの拠り所を与えて支配する。

 あの連中がやりそうなことだ。


「実際あの人は私を兵士として育てたし、こうして首にこんなもの埋め込んだわけだし。暴力も……私が危ないことした時しかしなかったけど。でも、テロリストだから酷いことをしたんだって言われたら、全部そうにしか見えなくなっちゃって。でも手つないでもらった時とか、抱っこしてもらった時とか、本当に温かくて嬉しくて。けどそれもお前を支配するためにやったことだって言われて、もう何が本当なのか分からなくなっちゃって」


 あの人は父親だったのか、テロリストだったのか。


「ラルフは、それは私が決めることだって、言ってたんだ。カーフィラが父親なのか、テロリストなのか。私が決めればいいって。でもあの人のことほとんど覚えてないのに、どうやって判断したらいいんだろうって思って」


 どうしたらいいのかな。


 膝に顔をうずめるハウンドは途方に暮れていた。あの夜の時のように。迷子の顔をしているのだろうと思った。


 ニコラスは、迷いながら口を開いた。


「そうだな。俺は逆に覚えすぎるせいでしんどくなるから、その手のことの解決策は分からないが」


 ハウンドが振り返る。不安そうに、けれどこちらを案ずるように。


 そんな彼女の優しさに頭を撫でて返しながら、ニコラスはゆっくり応えた。


「きっかけを、探してみるのはどうだ?」


「きっかけ?」


「親に映画館に連れてってもらった奴が、大人になってから映画館を見て親を思い出す、みたいな。そういう思い出のきっかけのことだ。色んな場所に行って、色んな事をして、そうしてるうちに、何か思い出すきっかけが見つかるかもしれない」


「思い出すきっかけ、か」


 ハウンドは口の中で反芻して。


「そうだな……一番きっかけになりそうなのは、馬かな」


 馬。

 特区の外に出れば何とかなるだろうが。


「バイクじゃ駄目か?」


「バイクはなぁ。乗ってて楽しいけど、言うこと素直にきくからな~」


「素直にきく方がいいんじゃないのか」


「なに言ってんの。馬は言うこときかないから面白いんじゃん」


 そうなのか……?

 乗馬経験が皆無の身にはよく分からない感覚だ。


「まあ、今は特区から出るのは危険だし、やれることは限られるかもしれないが……探してみないか? 俺も手伝うから」


「……うん。そうだね」


 ハウンドは折り曲げていた脚を伸ばすと、うんと背伸びをしてヒールを履き直した。けれど、爪先に引っかけて遊んでいるだけだった。


「ありがと、ニコ。ちょっとすっきりした」


「どういたしまして」


 この程度のこと、いくらでもやってやる。


「そういえば、さっきのチコの連絡って何だったの?」


「あ、いや。あれはただの口実で――」


 と、言いかけたところで着信が入った。相手はチコである。


「噂をすれば、だね」


「だな。スピーカー、オンにするぞ」


 ニコラスは3コール後に出た。


「俺だ。何かあったのか?」


『ああ、仕事中にごめんなさい。どうしても伝えておきたいことがあって。実はあなたたちに依頼を頼んでから、イヤドちゃんに色々と調べてもらってたの。そしたら――』


 その内容を聞いて、ニコラスとハウンドは顔を見合わせた。


『確証はないわ。まだ噂でしかないから。ただもしこれがチャンの死に関連してるなら……』


「分かった。貴重な情報ありがとう、チコ。それと、30分ぐらい遅れると思うから、適当に時間潰してて」


『何時間でも待つわよ。チャンの無念を晴らすためだもの』


 別れを告げて通話を終え、ハウンドはひとまずと言葉を区切った。


「情報班に連絡して、その噂とやらの真偽を確かめよう」


「ああ。もしこの情報が本当なら、フォーとツーが不仲な理由の説明がつくな」


 ツーの上客をフォーが奪った。

 その上客は、著名なハリウッドの映画監督だったという。


 ツーからすれば、格下の妓女に客を奪われるのはさぞ屈辱だっただろう。それほどの客となればなおさらだ。


「私に意地悪したのも、フォーへの当てつけだったのかもな」


「意地悪のレベルをとうに超えてるがな」


「今度会っても噛みついちゃ駄目だぞ?」


「……」


「ニ~コ~?」


「…………善処する」


 不満げなこちらの様子に苦笑して、ハウンドはソファーからぴょんと飛び降りた。


「ひとまず。フォーから情報も貰ったことだし、被害者の職場を当たってみよう。同僚から何か聞けるかもしれないし」


「そうだな。ん」


「えっ、なにその両手」


「抱える」


「はいぃ? いやいや、いいよ。自分で歩くって」


「でも靴擦れできてんだろ」


「いやいやいやいや! こんなとこで抱えられるとかやだよ、滅茶苦茶見られるじゃん!」


 さっき俺を椅子にしていたくせに、何を今さら。


 けれどハウンドにとってはそうでないらしく、真っ赤になって首をぶんぶん振っている。


 やっぱりハウンドの恥じらいポイントはよく分からない。








――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は3月15日(金)です。

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