9-15

「先生、先生。あとすこしだからがんばってっ」


 馬の手綱を素早く繰りながら、少女は囁いた。

 背にはだらりと圧し掛かる日本人学者ムラカミの姿があった。


 返答はない。


 家に辛うじて入り込んだ隙間風のように、ヒュー、とか細い呼気を立てるだけ。血のニオイが先生の体臭に代わりつつある。

 ありったけの外套で包んだが、体温の低下が止まらない。


 少女は脚に力を込め、馬の足を速めさせた。


 この地で生まれ、この地で育った馬は、速歩(馬の歩様の一種)で時速50キロメートルに達する。


 この馬の足はそれほど速くはないが、山には強い。急峻なアフガニスタンの山肌を山羊のように進むことができる。

 車なら道路を通らねばならないが、この馬なら山々を突っ切れる。


 カーフィラ自慢の一頭だった。

 彼の母が自分を隣町に匿う際に、連れ出したのだ。


 鞍下の馬布の飾り紐に、行商人がよくつける鈴をつけておいた。

 お陰で山々の各地に潜んでいる軍閥やタリバンは、先生と自分を家路に慌てる親子だと思い、ほとんど素通りさせてくれた。


 実際に馬を動かしているのは、少女なのだが。


 何度目かの尾根に出た。

 下を見れば、こじんまりとした明かりの群れが、雲の切れ目からのぞく星屑のように輝いている。


 村だ。

 少女を忌み子と嫌悪する、カーフィラの故郷だ。


 少女は生唾を飲みこんで、手汗の滲む手をこすり合わせて、手綱を握り直す。


 正直に言うと、村に一人で入りたくない。


 悪い人たちばかりではないのは知っている。でもみんなが長老会に逆らえないことも知っている。


 誰も少女を庇ってはくれない。カーフィラと先生以外は。重傷の先生を背負っていけば、どんな目にあうことか。


 しかし、それでは先生が死んでしまう。


 今すぐ手当てをしないと助からない傷だと、少女の目にも分かっていた。


 意を決して力を込めて顎を引き、少女は山を下り始めた。


 本当は馬を走らせたかったが、震動で先生が苦しそうに呻くので止めておいた。それでもできる限り急いだ。


 この辺りの山は自分の庭だ。小石の位置まで手に取るように分かる。


 先生は、ここから数十キロ離れた谷底の管理小屋にいた。

 地元の人間が羊の放牧の際に使っていたもので、家畜用水となる地下水が枯渇した今は誰も使っていないはずの場所だった。


 だが少女の鼻は見逃さなかった。


 アフガニスタンの農村部で外人がうろつけば、嫌でも噂になる。その噂を辿って、丹念に鼻を使って周辺を捜索して、ようやく見つけた。


 一週間もかかってしまった。


 小屋にはなぜか誰もいなかった。ただ重傷の先生だけが転がされていた。


――母様は怒っておられるだろうか。


 あの日、先生が外人どもに連れ去られた時、カーフィラの母が家に来た。火のついた家から逃れるように、物凄い形相で引きずるように連れ出された。

 早馬で村を飛び出し、先生の部下らしい日本人従業員の家に匿われ、何があっても絶対に出てはならないと言いつけられた。


 その言いつけを破ってしまった。


 先生が見つからない、帰ってこないと従業員がすすり泣きながら囁き合うのを聞いて、飛び出したのだ。

 自分なら見つけられると思った。


 人探しは一番得意な訓練だ。

 語学と合わせてカーフィラが褒めてくれる、数少ない少女の特技だった。


 村の入口に辿り着くと、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 村人はまず先生を見て驚き、怪我を負っていることにさらに驚いた。そして連れてきた者が誰なのか分かると、一様に顔を険しくした。


 針に刺されるような視線に晒されながら、少女は一人の姿を探した。


「キャルブ!」


 狗と呼ばれて少女は弾かれたように振り返った。


 カーフィラの母だった。彼女は自分の名を知らなかった。


 母が口を開く前に、少女は先生を振り返った。


「ひどいけがをしています。はやくお医者さまにみせないと……」


 母は開けかけた口をきゅっと引き結ぶと、素早く先生を下ろしながら男衆に向かって叫んだ。

 彼女が女ながらも元聖戦士ムジャヒディンだったことは、村中が知っていることだ。

 その彼女が緊急事態と判断した。


 村人たちは戸惑いながらもすぐに動き始めた。


「どうなってんだよ、なんで先生が……」


「そんなことより男たちを叩き起こせ! 外人どもが攻めてくるぞ!」


「診療所に連れていった方がいい。この村じゃまともな治療は無理だ」


「それより水路はどうなるんだ。先生が倒れたら、俺たちの畑は……」


「やはり芥子を育てるしかないか……。調子の良いことばかり言って、結局またこれかよ」


「おい! 先生になんてことを言うんだ! これまで俺たちのためにやってくれたことを忘れたのか!?」


「だって現実、ここの水路は完成してねえじゃねえか! 隣の村は先生がつくった水路で救われたのかもしれねえが、俺たちはどうなんだ! こんな中途半端に希望持たせるくらいなら、最初から何もない方がマシじゃねえかっ!」


「やめろ、やめろ、こんな時に!」


「今はともかく先生の治療が優先だ! 道を開けろ!」


 大人たちの言い争いに、少女はぐっと奥歯を噛み締めた。


 吠えては駄目だ。誰も聞いてくれないし、今、必要なことじゃない。

 カーフィラならそう言うだろう。


 すると、視界をするりと布が遮った。バターと焼いた小麦の香りが染みついた、母の袖だ。


「子供が聞くもんじゃないよ。あんたはよくやった。言いつけを破った説教は後だ、よく客人を連れ帰ってくれた」


 村人から覆い隠すように、するりと袖布が全身にまとわりついたと思ったら、さっと頭を撫でて去っていく。


「ゴルグを呼び戻しておいた。連絡が取れたのはつい昨日だが……あと5日もあれば帰ってくる」


指揮官カーフィラが?」


「ああ。だから安心をし。……さあ、今は先生の側にいておあげ。重い病人や怪我人ほど、近くに誰かいて欲しいものさ」


 そう背を撫でて、母は去っていった。


 少女は言われた通り、大人たちの邪魔にならぬよう、先生の枕元に座った。


 先生は固く目を閉じたまま、微かに口を動かしていた。

 喘いでいるのかと思ったが、そういう動きではない。少女は耳を近づけた。


「……こ、信子……、……司……」


 ノブコ、ツカサ。

 先生の家族の名だ。


 自分に語学を教える片手間、写真を見せてくれながら嬉しそうに、少し恥ずかしげに話してくれた。


 写真は、黒い革で包まれた本に挟まっていた。


 手帳。


 少女は考えた。


 きっと今、先生が一番側にいて欲しいのは家族だろう。家族の写真があれば、元気になるかもしれない。


 先生が暮らしていたカーフィラの家まで、自分の足なら20 分とかからない。夜目だって利く。


 村の中心の方で、騒ぎが大きくなった。


 長老会の面々が出てきたらしい。中にはカーフィラの父もいる。村で少女を最も毛嫌いしている男だった。


 少女はこっそり先生の枕元から離れた。


 長老会が出てきたとなれば、事の経緯の説明に詰問されるに違いない。どうせまた悪者にされる。

 母は庇ってくれるかもしれないが、彼女も長老には逆らえない。


 だったら居ない方がいい。


 そんなことより、今は手帳を取りにいこう。家族の写真を見せれば、先生もきっと元気になる。


 少女は立ち上がり、音もなく駆け出す。


「サハル」


 先生の声がした。


 息切れしたような、微かな声しか出なかったはずなのに、何故かはっきりと耳に届いた。


 いつだったか。あの山のてっぺんまで駆けっこをしようと言われて、当然のように先にゴールして後から追いかけてきた先生の、あの声だ。


 懇願するような、呼び止めるような。


 少女は足を速めた。


 よほど心細いのだろう。急がねば。


 けれど家路地の暗闇に身を投じても、村を出て山道に入っても、先生の声はどこまでもどこまでも追ってきた。


「サハル、サハル、サハル――」





「サハルッ!!」


 ハウンドは目を開けようとして、眼球に走る激痛に溜まらず目を閉じた。


 身体が上手く動かない。

 肺が猛烈な不快感を訴えている。今すぐ咳き込みたいのに、歯が癒着したように噛み合わさって離れない。


 口をこじ開け、何かが入ってくる。それが指だと気付いた時、背中を思い切り叩かれた。


 激しく咳き込んで水を吐き出す。


 ああ、そうだ。

 私は川に落ちて――。


 ようやく目を開けることができた。

 濡れた睫毛にびっしり霜がついて、それが眼球に刺さりそうになっていた。


「い、ひん、は」


「ケータに渡した! 今は自分の心配をしろ、右手列車に挟まれてたんだぞ……!?」


 そう言われて、見れば右腕が変にだらりと伸びている。脱臼したらしい。


 川に落ちた後、落下してきた列車と川底とで挟まれたのかもしれない。

 それをこの男が助けてくれた。


「上がれるか。両手を前に出して……そうだ。一、二の、三っ」


 氷の上に押し上げられる。


 ハウンドは氷の上を藻掻くように滑って、ニコラスの上陸場所を空けた。


 川は流氷の海原と化していた。

 完全に凍結していたところに、ラッセル車や貨物列車が落下して氷が割れ、散り散りになって衝突と漂流を絶えず繰り返している。


 ハウンドたちが先ほどまでいた水面も、浮氷が殺到してきて見えなくなっていた。

 現在乗っている氷は比較的大きくぶ厚いが、いつ割れても、引っくり返ってもおかしくない。


「ニコ、足……」


 ニコラスの左足の義足がなかった。


「挟まれた、お前の手を、外すのに……梃子にした……俺の足は、壊れても、また直せばいい」


 座った体勢のまま、後ろ向きにニコラスが自分を引きずっていく。


 ペンギンが氷の上を歩かず滑るのと一緒だ。こっちの方が早い。


「呼吸に、集中してろ。ゆっくりで、いいから、確実に、やるんだ」


 ハウンドは返答しようとして、妙に情けない声が出た。

 溺れかけた影響か、出血のせいか、もう指一本動かせなかった。


 ニコラスが進み、滑り、水に落ち、這い上がって、また進む。


 それに合わせて自分もまた濡れ、上がった瞬間から凍っていく。それをすかさずニコラスが抱き寄せて体温を分け与えようとする。


「ニコ、もういいから……」


「うるさい」


 顔が喉元に押し付けられた。


 温かいか冷たいかももう分からない。

 ただ薄い皮膚の下で脈打つ動脈の振動を感じた。まだニコは生きている、それが実感できるのが嬉しかった。


「あと少し、あと少しだからな……」


 自分への問いかけか、自身へ言い聞かせているだけか。

 その言葉をひたすら繰り返しながら、引きずる音がただ続く。


 徐々に声は小さく、鼓動も遅くなっていくのに、自分を抱きしめる手は絶対に離れなかった。


 このまま彼の腕の中で死ぬのも悪くない、そう思った時だった。


「あ」


 ニコラスの声がした。


 引きずる音が、滑る音に変わっていた。

 ああ、また川に落ちる――。


「ッ、掴んだ! 引き揚げろ!」


 唐突にぐいと物凄い力で引かれた。


 もはや視界は完全に見えなくなっていたが、下半身を包む柔らかな感触は分かった。

 雪だ。


 誰かが落ちかけた自分たちを掴んで、川岸に引き上げてくれた。


「番犬はまだ意識がある。ヘルの方がやばい」


「そっちは雪の上を転がせ。少しでも水分を落としてから火に当てろ」


 カルロの声が、いつにもなく早く高かった。

 セルゲイの声が、いつもより低く静かだった。


 普段と正反対の様子から、自分の容態が悪いことを察した。


 口に何かを突っ込まれた。

 それが何か判断する前に、強烈な刺激臭が鼻を直撃した。流し込まれたものが喉を焼き、思わずむせ返る。


 瞬間、口元を手で押さえられた。


「吐くな。飲め。応急処置だが、ちったあマシになる」


 むせ返ろうとする身体が、反射的に跳ね上がるのが分かった。

 拷問かと思えるような苦痛に耐え、なんとか嚥下すると。


「よし、飲んだな」


 持ち上げられてドラム缶に突っ込まれた。待ち構えていたのは大量の湯である。


「しばらく浸かっとけ。まだクッソぬりいだろうが、服溶かさねーと脱がせられねーからよ」


「……すごくぬくい」


「だろうな」


 そう言って、セルゲイは手にした薪をドラム缶下へどんどん放り込み始めた。よく見れば、焚火の上にドラム缶が乗っている。

 一方のカルロは救急キッドを開いて輸液の準備を始めていた。


 無言でテキパキ動く二人を見て、


「そんなに心配しなくても心停止にはなってないと思うよ」


 と、呟くと二人は一瞬だけ固まったが。


「たりめーだ。ここまできてリストおじゃんにされて堪るかよ」


「礼は形あるもので」


 と言って、作業を再開した。


 そこに悲鳴が届いた。ニコラスだ。


「待て、服が凍って引っ付いてんだ。今、火で溶かすから……いでででっ、ちょ、引っ張るな! 皮膚が剥がれる……!」


 濡れた服を脱がそうとロバーチ構成員が群がっている。

 低体温症になりかけている人間には正しい対処だが、いささか乱暴すぎる。


「代わる。ニコを風呂に入れてやって――」


 上がろうとして、二つの手に無理やり戻される。溢れた湯が焚火にかかってジュウ、と白煙が上がった。


「はい、温めた酸素。ひとまずこれ吸っとけ」


「傷は全部かすっただけか。なら輸液でいいか」


 セルゲイに酸素ボンベを強引にあてがわれ、掴まれた右手にカルロが問答無用で翼状針をぶっ刺す。


 抵抗しようにも余力がなく、かつ極めて正しい対処なので反抗する理由もない。不承不承ながら、ハウンドは大人しく身を委ねることにした。


「あとこれ」


 セルゲイから渡されたものに、ハウンドは盛大に咳き込んだ。


 一見、湯気の立つマグカップで、無色透明の湯らしきものが入っているだけに見えるが、ニオイが絶対に湯じゃない。何だこの刺激臭。


「ゲホッ、なんだこれ」


「気付け薬用の激安ウィスキー、ハバネロソース入りな。一発で目覚めんだろ?」


「むしろ失神するわ」


「さっき飲めたんだからいける、いける」


 これ飲まされたのか。


 ハウンドは口元をひん曲げて、一週間洗っていないパンツを持ち上げるがごとく、カップをできる限り顔から遠ざけた。


「いいから飲めって。外と中、両方から温めねーと意味ねーんだよ」


 大真面目な顔で説教して、セルゲイは踵を返した。今度はニコラスの処置をしに行ってくれるらしい。


 日頃ちゃらんぽらんしているが、なんだかんだ生真面目な男である。


 とはいえ、これを飲めというのは無茶が過ぎる。


「ひとまず湯飲んどきゃいいんだよな? ならこれでいいか?」


「止めとけ。腹壊すぞ」


 いま浸かっている湯を指差すと、カルロは首を振ってそう言った。




 湯の効果か、それともアルコールとカプサイシンの強制摂取によるものか、はたまた酸素吸入と輸液が効いたのか。

 ものの数分でハウンドは自力で動けるようになった。


「相変わらず馬鹿みてえに回復が早えな、お前は」


「それが取り柄だからね。ニコを入れてやってくれ。ニコの義足あし、骨直結型だから早く温めないと凍傷がえぐいことになる」


「とっくに対処済みだ。ほれ」


 カルロが指さした先、追いはぎにあった直後のようなぶすくれた表情で、毛布にくるまったニコラスが湯気の立つバケツに足を突っ込んでいた。

 そんな彼にケータがこれでもかと追加の毛布を巻きつけている。


「死んでも借りをチャラにしたいとさ」


「借り? ロバーチに借りなんてつくった覚えないぞ」


「26番地の一件 (4節参照)だろ。軍人上がりのロシアンマフィアが、アメリカ人の狙撃兵に鼻っ面へし折られて黙ってるわけがない。報復する前に勝手に死なれちゃ困るんだろ」


 殺り合うなら正々堂々がいい、ということだろうか。マフィアの意地というのはよく分からない。


 まあ助けてくれたことには変わりない。あとで謝礼をはずんでおこう。構成員にはウォッカの差し入れがいいだろうか。


 そんなことを考えながら、よいせとドラム缶をまたいで地面に降り立つ。

 服を脱ごうとして、ふと、カルロが手を差し出していたことに気付いた。


「すまん」


 無下にする気はなかったと謝ると、カルロは「いいや」と肩を竦めた。


「忘れてた俺が悪い。そういやお前、そういう女だったな」


 ハウンドはむっとした。


 こういう面倒くさい態度を取り始める時は、相当頭にきている時だ。

 考えてみれば、こちらの都合で散々振り回したのだ。腹を立てて当然だろう。


 下心満載の助力とはいえ、助力は助力。完全にへそを曲げられる前に機嫌を取っておかないと、もっと面倒なことになる。

 フィオリーノは論外だが、カルロだって大概なのだ。


 ハウンドは服を絞りながら弁明した。


「アフターフォローならちゃんとするってば。リストはともかく、報酬だってきっちり払う。いま要求されても無理だぞ」


「そういうとこだぞ」


 何がだよ。


 訳が分からず睨み上げるも、カルロはわざとらしい溜息をつくばかり。なんだか腹が立ってきた。


 結局カルロは訳を明かすことなく、毛布を渡して「あとは連中に任せる」と立ち去ってしまった。


 直前に指差した先には、車両からストレッチャ―を下ろし始めるロバーチ医療部隊と、その隣の車両から降りてこちらを凝視するルスランの姿があった。


――これはへそくりすっからかんコース確定だな。フィオリーノも動いたみたいだし、リストも絶対要求されるよな~……。


 ハウンドは、今後払わねばならない謝礼と避けられない交渉の応酬の未来図に思いを馳せ、虚空を見上げた。


「ハウンド」


 視線を戻すと、ケータだった。こちらにも毛布を持ってきてくれたらしい。


「ありがとう。それと、遺品も」


「ああ、うん。これこっちに寄こしたニコラスが川に飛び込んだ時は、マジで悲鳴上げちゃったけど……でも、うん。本当に無事でよかった」


 渡してくれた毛布で念入りに手を拭いて、遺品を受け取る。


 ハウンドは顔をしかめた。表紙と背表紙の溝に泥が詰まっている。


「これ落ちるかな」


「乾かしてから落とせばなんとか。染みは残るかもだけど」


「残るか……」


「遺族だってそのぐらいは勘弁してくれるだろ。命懸けで取り戻したんだから」


「……そうだな。けどトゥーレは私を選んでくれたから」


 トゥーレヴァルド・セーデン一等軍曹は自分を守って死んだ。


 遺族のマルグレーテたちからすれば、見ず知らずの現地の子供より、自分たち家族を選んで欲しかっただろう。


「だからせめて、何か返せればなって思ってさ」


「……そっか」


 ケータは眉尻を下げると、ポンと背を撫でた。


「ならまずは元気になってからだな。飲み物貰ってくる。何か口に入れた方がいいだろ」


「ありがとう。……あ、ケータ。セルゲイがニコに何か飲まそうとしてたら止めといて。あれハバネロ入りの」


 と、言いかけたが遅かった。


 向こうでニコラスがマグカップ片手に盛大に吹き出し、それをセルゲイが指差して馬鹿笑いをしていた。


 ケータが「あーもうっ」と溜息をつきながら駆け寄っていく。途中、雪に刺さっていたスコップを手に取ったあたり、報復はやってくれるらしい。


 生真面目なところもあると思ったセルゲイだったが、やっぱり前言撤回だ。妙なところですべてを台無しにする男である。


 白い吐息を吐いて、毛布を手繰り寄せる。

 浮き沈みを繰り返しながら、川を下っていく流氷をぼんやりと眺めた。


 死なないといけないと思っていた。

 一人だけ生き残ってしまったから。


 だから生きろと願われた時、絶望した。

 後を追ってくるなと言われたような気がした。置いていかれたと思った。


 けれど。ああ、確かに。


――あなたの言う通りでしたよ、ラルフ。


 ハウンドは一人、胸の中で独り言つ。


 迎えは来た。


 本当にただの偶然でしかなかったけど、あなたではなかったけど、置いていかれたわけではなかった。


 だからもう死なない。死ねない。


 ラルフはちゃんと約束を守った。だったら私が約束を破るわけにはいかない。


 振り返り、ニコラスに目を戻す。


 げっそりした顔で口元を拭う彼の姿に、ほんの少しだけ笑った。


 観念した。彼はどこまでも追ってくる。

 地獄の果てまで獲物を追いかけるとはよく言ったものだ。彼の方が、よっぽど黒妖犬ブラックドッグではないか。


――名前、取られちゃったな……。


 うなじを掻いて腕を下ろし、ハウンドは一歩踏み出した。




 ***




 奇妙な音がした。


「え」


 倒れ込むハウンドに、誰もが硬直した。


 後ろから軽く突き飛ばされたような倒れ方だった。


 即座に狙撃を想起し、ニコラスは目を走らせた。

 彼女の毛布にも服にも滲み出る赤はなかった。代わりに、その細首に何かが巻き付いていた。


 あれは――手?


「つかまえたぞ」


 川岸の木立の影に、ヌアザが立っていた。

 濡れた体はほとんど凍り付き、腹からベルトにかけて紅い氷柱が下がっていた。


 その右腕から太いワイヤーが伸びて、ハウンドの首を鷲掴んでいた。


「あの方からの命は、女の抹殺とリストの抹消……」


「まずい……!」


 ニコラスが叫ぶのと、ヌアザの右腕が青く光るのは、同時だった。


 スタン機能付きの筋電義手。


 かつてともに行動していたロバーチ構成員を焼き殺した電流が、ハウンドに直接襲いかかった。


 声にならぬ絶叫が上がる。

 ハウンドは膝から崩れ落ちた。倒れ伏してなお、電流は止まらない。


「撃て、撃て、撃て!」


 ルスランの怒声が銃声で掻き消される。


 瞬時にしてヌアザは人の形を失した。顔の半分を消し飛ばして、背後の幹に倒れ込んだ。


 けれど電流はまだ止まらない。


「ワイヤーだ! 義手を破壊しろ!」


 ニコラスは叫ぶなり、隣の構成員の銃を奪った。その真横でケータが飛び出した。


 ケータが大きく踏み込んで半身を捻り、スコップを投擲する。


 ニコラスはワイヤーに照準を定めた。


 スコップの刃先は誤つことなく義手に命中し、弾かれ回転して雪面に突き立った。


 数発の弾丸は、不失正鵠にワイヤーを切断した。


 電流は止まった。

 義手は完全に沈黙した。


 残ったのは、倒れピクリとも動かぬ少女だけ。


「ハウンドッ!!」


 ニコラスは銃を投げ捨てて、少女に手を伸ばした。




 ***




 冷気で皮膚が切れそうな極寒の夜。月も星の明かりもない宵闇を、ゴルグ・サナイはバイクでひたすら疾走していた。


 目指すは西、あと六つ山脈を越えた先にある己が故郷。


 これまでに車、馬、バイク、馬、またバイクと乗り換えて、2日間走り続けた。


――先生。


 自身の迂闊さに臍を噛む。


 客人であり、恩人のシンジ・カワムラが拉致されたと聞いたのは、3日前のことだ。

 拉致されてからもう随分経つというのに、パキスタン連邦直轄部族地域トライバルエリアの山脈地帯にいたせいで気付けなかった。


 情報収集にと麓の難民キャンプへ降りた際、母の古い戦友がそこで辛抱強く待ってくれていなかったら、もっと時間がかかっただろう。


 灌漑事業に勤しむ国際NGO団体の長が、なぜ突然拉致されたのか。


 理由はゴルグの懐の中と、右腕にあった。


――組むべきではなかった。


 ハンドルグリップを握り潰したくなる衝動を、吸い込んだ冷気で鎮火する。


 設立されたばかりの軍閥だった。

 アメリカに媚びを売る北部同盟を見限り、その唾棄すべき下等組織にすら勝てなかったタリバンを負け犬と見下し誕生した、新興勢力だった。


 いや、勢力とも呼べぬような、ごく少数の組織でしかなかった。


 けれど一つだけ、切り札を持っていた。


 『失われたリスト』

 湾岸戦争後の苛烈な経済制裁であえぐイラクの人民のため、国連主導で行われた人道支援の影で利権を貪っていた、世界中の愚劣な連中の名を収めた極秘リストだった。


 新興勢力はこれを、アフガニスタンから外国人――特にアメリカを追放する最終兵器として用いようとしていた。


 新興勢力は弱小だったが、長は若く、かなり頭の切れる男だった。


 中東を蹂躙する欧米列強に反感を抱く記者を買収してリストを入手。

 そのデータを、オマーン湾沿岸のパキスタンで活動していたイスラエル国籍の海洋生物学者から、金品を強奪した際に偶然入手した米粒ほどの生体チップに写し、それを腕に埋め込んで持ち歩いていたのだ。


 欧米諸国を蛇蝎の如く嫌いながら、英語を解し電子機器の取り扱いにも明るかった。極めて用心深く、どんなに自分を慕う部下であっても決して信用しなかった。


 だが自分はその一枚上手をいった。


――若造が。


 以前押しかけた工事現場で目にしたサハルをネタに脅せば、外国人排斥と愛国心に訴えかければ御せると思ったのだろう。

 自分が裏切らないようにと、裏でサハル誘拐も企てていたようだが、詰めが甘い。


 ゴルグは目線を下げた。


 包帯の巻かれた右腕。手首の皮下。

 ここに『失われたリスト』の全データが入っている。


 英語や電子機器を難なく使いこなせるのは、長だけではない。


 イスラエルの学者から奪った生体チップの残りを、これ見よがしに武勇伝として目の前で見せびらかしながら語った、その高慢さが仇となった。

 こちらが牙を隠し、ことさらに驚いてみせれば呆気なく騙された。


 この手の自惚れ者はプライドが高く、自分より劣る者を見下す。

 部下や、無知を装った自分への態度がその証拠だ。


 だから大事な物を隠す際も存外堂々としている。


 誰にも目のつかぬ場所にコソコソ隠すのではなく、あえて大胆に部下の目の付くところに置いてあったりする。


 本拠地ともいえる一番大きな隠れ家の、部下たちが寝泊まりする部屋の近く、共有スペースに置かれた本棚の左端。

 厳めしい文字で『現代経済学』と記されたぶ厚い本の中に、しおりを挟むように小さなUSBが挟まっていた。


 あとは隙をみて生体チップを入手し、データを移してしまえばいい。


 長も部下も、ゴルグが自前のパソコン等の電子機器類を隠し持っていることすら気付けなかった。


 情報は時に核兵器並みの威力を持つ。


 こんな輩に、リストという核兵器ボタンを管理させるのは危険だと思った。いずれ祖国を害すると確信した。


――この国は我ら戦士だけのものではない。


 そうだ。サハルのような子供たちのためにも。この荒廃しきった祖国を、少しでもマシな状態にせねばならない。


 あの子がこの先、笑って生きていけるような国を。


 それが先生の反対を押し切って、男たちについて行った理由だった。


 しかし、自分もまた詰めが甘かった。


――よもや先生まで巻き込むとは。


 ぎり、と奥歯を軋らせる。




 難民キャンプで先生が拉致されたと聞いた翌朝、ゴルグはすぐに長を問い詰めた。


 最初はのらりくらりと躱していたが、次第に億劫そうに真相を語り始めた。


「奴の所持品だった手帳にリスト内容を書き写して情報屋に売った。他の軍閥が入手するようにな」


 耳を疑った。


 なぜそんなことをしたのか、と問えば長はあからさまに馬鹿にしたような表情を浮かべた。

 言ったところでお前は理解できまいという風だった。


「カモフラージュに決まっているだろう。リストの漏洩に気付いた小賢しい連中がいる。忌々しい虫けらどもだ。そいつらを欺くために、餌がいる」


「その餌とやらになぜ先生の手帳が出てくるんだ。しかも軍閥だと? 意味が分からん」


 無知なふりをして話を振れば、長はあっさり引っかかった。


「分からんか? その虫けらどもはまず手帳を持っていた軍閥を捕え、拷問にかける。軍閥は入手経路なぞ知るはずがないから無駄足に終わる。すると連中は次に手帳に記された名の人物を探し始める」


「名前……?」


「お前の言う先生とやらだ。従順な男でな、名前を書けと言ったら本当に素直に従ったぞ」


 こいつ、最初から先生を囮に使う気で近づいたのか。


 表情筋を総動員して真顔の仮面を保つ。

 まだだ。まだ牙を剥いてはならない。賢い獣は獲物に飛びかかる瞬間がいつなのかを知っている。


 そうやってゴルグが耐える様を、理解できず黙っている低能とでも勘違いしたのだろう。長が調子に乗った。


「あの学者はこのアフガニスタンに尽すために来たのだろう? だったらもっと尽くしてもらえばいいではないか。案ずるな、あの学者は我が祖国のためになることなら、喜んで降りかかった運命を受け入れる――」


 ゴルグは最後まで言い切らせなかった。


 瞬きの間に、長が殴り飛ばされ床を転がる。


 無様に横たわった長は、のろのろ呆然と、驚愕の表情で見上げてきた。周囲の部下らも同様だった。


 これまで過去の栄光ばかりに縋る、無能で非力な中年親父を演じていただけに、誰もがゴルグの真の姿についていけなかった。


「貴様らのような輩を何と呼ぶか知っているか。テロリストだ」


 牙を露わに唸るゴルグに、長は初めて表情に恐怖の色をにじませた。


「今ごろ地の下で、先人の聖戦士が咽び泣いていることだろう。こんな輩をはびこらせるために、我らは血を流したのかとな」


 それだけ吐き捨てて、ゴルグは隠れ家を飛び出した。


 リストを入手した以上、もう彼らに用はなかった。




 夜通しで走り、村に到着した頃には山々の稜線が白み始めていた。


「貴様……今までどこをほっつき歩いておった、この粗忽者めが……!」


 真っ先に目を血走らせた父が詰め寄ってくる。それに続く長老会の面々や村人の顔も険しい。


 何かがあったとすぐに察した。


「すべては貴様が護衛を怠けたせいだ、どうしてくれる……!? これでまた乾いた大地で耐え凌がねばならん……貴様のせいだぞ!」


「落ち着いてください、父上。一体なにがあったのです」


「どうもこうもこれを見るがいい!」


 父が袖を掴んで引っ立てた。

 それを振り払うことなど、小枝を手折るぐらい容易かったが、ゴルグはぐっと堪えた。


 そして村の中央、井戸のある広間近くの一軒家に群がる人を見て胸騒ぎがした。


 村に唯一ある小さな診療所だ。


 群衆をかき分け急いで中に入れば、嫌な予感は的中した。


「ゴルグ!」


 母がいた。


 そのすぐ近くに、血塗れで横たわる先生の姿があった。


 ひと目で拷問を受けたのだと分かった。横向きに寝かされたその背は火傷と裂傷だらけで、腰に巻かれた包帯はすでに真っ赤だった。


「貴様のせいだ! これで我が村の畑はお終いだ! ようやく使える人間が来たと思ったから貴様に護衛を任せたのだぞ!? それを貴様は――」


「ゴルグ、あの子を見ていないかい? あの子がいないんだ」


 喚き散らす父を押しのけて、母が詰め寄った。


 父は驚いていた。ゴルグも驚いた。

 母が父に逆らうなど、これが初めてではなかろうか。


 いや、今はそれどころではない。


「どういうことですか」


「あの子が先生を連れ戻してくれたんだ。先生の頼みで隣村に匿ってて……ああ、違うそうじゃない。ともかくあの子がいないんだよ。先生の側にいなさいと言ったのに。お前、見ていないかい」


 その言葉だけでゴルグは概ねの事態を察した。


 先生は拉致される寸前、サハルを母に頼んで隣町に匿わせたのだろう。あそこには先生が指揮するNGOスタッフの宿舎がある。


 そしてサハルはそこから飛び出して、一人先生を救出すべく探し回っていたのだろう。それほどにあの子は賢い子だった。


 ゴルグはサハルの勇敢さと聡明さに心を打たれた。


「恐らく家に戻ったんだろう。あの子はあまり村に居たがらないから」


 そこまで言った時だった。


 銃声が鳴った。


 弾かれたように顔を上げる。

 渓谷にある村ゆえ、山肌に反響する音の位置は特定しづらい。けれどゴルグの鍛えられた耳は音の位置を瞬時に特定した。


 我が家の方からだ。


「外人だ、白人が攻めてきたぞ……!」


「銃だ、銃を持ってこい!」


「女子供を逃がせ! 皆殺しにされるぞ!」


 慌てふためく群衆を押しのけて、ゴルグは外に飛び出した。


 診療所脇に繋がれていた馬に目が留まる。あぶみの長さが異常に短い。

 サハルが乗っていたのだとすぐに分かった。


「待てっ、貴様どこへ行くつもりだ……!? あの狗の元へ行く気か!?」


 馬に飛び乗る自分を見て、追ってきた父が怒鳴った。


「認めんぞ! 貴様はこの村の戦士だろう!? あの狗のために戦うことは許さんぞ! 貴様はここで戦うのだ!」


 ゴルグは無視して鐙の長さを素早く調整した。武器ならすでに、背と腰に小銃と拳銃を装備している。


 馬は突然現れた主人に驚いた様だったが、脚でしっかり馬体を包むとすぐ頭を下げ、自らはみを噛んだ。

 忠義を示す馬に、感謝を込めて首を撫で、踵を返させる。


「貴様も白人どもにかどわかされたかっ、ええ!? 血も繋がっていないあの雌狗がそんなに大事か、女だからか!?」


 駆け出そうとするこちらに、父はなおも追いすがってきた。母だけでなく息子にも無視されるのが、我慢ならなかったようだ。


「ただ徒に女を甘やかし可愛がるだけで正義面をしよって……! いつからそんな白人かぶれになった……!? 言われずとも守ってきたわっ。女も子も村も国も、すべて我ら戦士が守ってきたのだ! ソ連人が攻めてこようと、国中の民が飢えようと、世界中が見向きもせずとも! 我ら戦士が、はるか太古よりずっと、この地を守ってきたのだッ! それのなにが間違っているというのだ!! なぜ儂を認めん!?」


「なにも間違っておりません、父上。あなたがこの村をずっと守ってきたことは、私がよく知っております」


「ならば、なぜ――!?」


「父上、子を守ることは、そんなにおかしなことですか」


 父が面食らったように黙った。その痩せ衰えた姿を、ゴルグは馬上から見下ろした。


 愚かで盲目で意固地な男だった。

 だがこの男が、こんな枯れ枝のような姿になり果てるまで、この村のため戦い続けたのも知っていた。


「あなたがすべてを賭してこの村を守ったように、私もまた子のために、この命を賭けたいのです。父親とはそういうものでしょう」


「お前……ま、待てっ。待たんか、ゴルグ!」


 父の制止に応じず、ゴルグは掛け声とともに馬体を力強く挟んだ。


 途端に馬が、火がついたように駆け出す。

 父の顔は見なかった。振り返る気もなかった。


――父親、か。


 ゴルグは自身が言った言葉を苦く噛み締める。




『なぜ名前で呼んであげないんですか』


 名付け親の先生は珍しく怒りの表情を露わに、腕を組んでいた。


 サハルが自身の名を忘れ、もう一度、彼女と本気で向き合おうと決意した後も『狗』と呼び続ける自分に業を煮やしたのだろう。


 当然の反応だった。


『私は……あの子には、私を恨んだままでいて欲しいのだ。私はあの子の父親ではない。そんなものにはなれん。私は所詮、虐殺に加担した極悪人だ』


『そうですか。ではあなたを愛したいというあの子の意志は無視するのですね』


 痛いところを突かれた。

 先生は穏やかな人ではあったが、こういうところは本当に容赦がなかった。


『……ときどき恐ろしくなるのだ。私がハザラの仇と知った時、あの子がどんな反応をするのか。……私はきっと、私が思ってる以上に臆病者なのだろう』


 そう呟くと、先生は腕を解いた。

 いつもよく見る、困ったような苦笑を浮かべていた。


『それは大人になったあの子が決めることだと思うんです。あの子がどう思うかは、あの子にしか分からない。けど今は、子供のあの子と向き合ってみませんか? あんな愛らしい顔で笑うんですから』


 振り返る。


 どこで教わったのか、サハルは恋歌をこっそり口ずさみながら、花壇の薔薇の雑草を抜いていた。

 こうすれば、また明日には花が咲くと、信じて疑わないふうだった。


 そんな、ワクワクしながらじっと待ち望む姿が、やけに目に焼き付いた。




 サハルは今、あの花壇の家にいる。

 誰も彼女を脅かさぬ安寧の家が今、何者かによって襲撃されている。


 山を駆けあがり始めると、線状に飛び交う光が見えた。赤い曳光弾、西側の銃火器だ。


――先生を攫った白人どもか。


 恐らく家に戻ってくる者を待ち伏せていたのだろう。先生の次はサハルというわけだ。


 させるものか。


 襲撃者がこちらに気付いた。

 暗視装置をつけているのだろう。確実にこちらを狙い撃ちしてくる。


 ゴルグは馬を急停止させ、脚と手綱で素早く指示した。


 馬は即座に従い、突然膝を折って横たわった。

 無論、撃たれたわけではない。命令に従って横向きに伏せたのである。


 その真上を放たれた弾丸が掠めていく。


 ゴルグは横たわった馬体を遮蔽物に、反撃を開始した。


 サハルほど夜目は利かない。だがここら一帯の地形は完全に把握している。


 草が申し訳程度に生えた岩場。

 どこに隠れるか、どこなら撃ちやすいか。戦士の自分には手に取るように分かる。


 数発命中したのだろう。敵の銃火が少し弱まった。


 その隙にゴルグは馬を立たせ、内心詫びながら尻を鞭打つ。驚いた馬は敵陣めがけて突進した。


 向こうから驚いた声がする。


 すかさずゴルグは発砲しながら突進し、窓から家に飛び込んだ。


 一回前転して着地する。


 当然のようにいる敵の足をフルオートで薙ぎ払い、振り返って、銃床を振り下ろそうとしている襲撃者の眼球に指を突っ込んだ。


 関節を曲げ、掻き混ぜて引き抜く。


 つんざくような絶叫が上がった。


 応援に駆け付けようとしていた連中が、部屋への突入を躊躇した。


 ゴルグは壁に立てかけていた薪割り用の斧を掴み、廊下へ飛び出す。


 振り下ろし、かち割り、裂いて、斬り飛ばす。


 廊下の突き当りから来ていた敵が慌てて引っ込んだ。


 獣じみた咆哮を上げながら斧を振り回すこちらに対し、距離を取って射撃で対応しようというわけだ。


 斬る、裂く、割る、千切る、噛む、潰す。

 原始的な痛みを想起させる戦闘であればあるほど、本能的恐怖を掻き立てる。


 だから距離を取りたがる。


 襲撃者は廊下突き当り通路の壁沿いに隠れた。


 計画通りだ。


 ゴルグは廊下から再び部屋に飛び込み、壁を撃った。


 壁越しに撃たれた敵の悲鳴が聞こえた。


 当然、敵も負けじと壁越しに撃ってくる。が、ゴルグは再び廊下へ飛び出し、斧を手に角を曲がって襲いかかった。


 近距離、遠距離、近距離、遠距離。


 二つのスタイルの戦闘を組み合わせ、ひたすら繰り返す。


「サハル、どこだ!?」


 初めて、名を叫んだ。


 何度も呼びかけるが、返事はない。


 時間が経つにつれ、焦る気持ちが募っていく。よもや、自分が呼ばなかったせいで、また名を忘れてしまったのだろうか。


 敵を屠りながら、必死に思考を回す。


 考えろ。あの子が隠れそうな場所はどこだ。

 賢い子だ。決して人が探さないようなところに――。


 瞬間、ハッと気づいた。


 ゴルグは居間に駆け込んだ。すでにここの敵は殲滅済みだが、その遺体をまたいで真っ先に暖炉へ向かった。


「サハル!」


「……っ! カーフィラ!」


 いた。サハルだ。


 暖炉上の煙突の中に隠れていた。大人ならまず通れないが、子供の彼女なら入れる。


 降りてきたサハルは煤だらけで、腕に何かを抱いていた。


「ごめんなさい、カーフィラ。ごめんなさい」


 サハルは手帳を抱いていた。先生がよく持ち歩いていた物だった。

 中を開けば、一枚の写真が入っていた。先生と家族の写真だ。


「これ見たら、先生が元気になると思って……」


 ゴルグは何も言わず、項垂れる小さな頭を一撫でして抱き上げた。


 戦士として浅はかな振る舞いだが、幼子の考えることだ。

 彼女なりに、先生に元気になってほしいと思っての行動だろう。


「逃げるぞ。私の指示に必ず従え。いいな?」


 サハルは転がる死体に困惑しながらも、こくりと頷いた。


 何となくではあるが、彼女はすでに死というものを理解している。だがその死が、足元に転がる襲撃者とまだ結び付けられないのだ。


 こんな時にこの人たちはなぜ寝ているのか。

 その違和感を、恐怖に怯えながら必死に考えているようだった。


 ゴルグはサハルの頭を抱え、肩に押し付けた。


「見るな。お前には必要ないものだ」


 サハルは言われた通り、肩から決して顔を上げなかった。


 割れた窓枠に目をやれば、白んでいた地平線は赤へと変わり、黒々とした山脈の影をコントラストに燃え上がっていた。


――まずいな。


 夜が明ければ、空爆が始まる。

 先生のような民間人相手にあそこまでする連中だ。村ごと焼き払ってもおかしくない。


 急いでこの場を離れねば。


 ゴルグは中庭に出た。


 留守の合間も手入れをしてくれていたのだろう。未だに青々とした薔薇の枝葉の中をくぐり抜け、中庭の四方を囲う壁の一部にゴルグたちは辿り着いた。


 ゴルグの家は少し特殊な造りをしている。

 いざという時の逃げ道をいくつか用意していて、壁下のこれもその一つだ。


 底をくりぬいたドラム缶を地中に埋めてつくった、十数メートルからなるトンネル。

 トンネルの先は、大きな岩同士に挟まれた獣道へ通じていて、岩が内に張り出しているため空からも見つけにくい、秘密の脱出ルートだ。


 ゴルグは壁の一部を銃床で叩き壊した。薄く泥を塗って隠していた脱出路の入口が露わになる。


「先に行け。外に出たらそこで待機だ」


 サハルは一つ頷くと素早い身のこなしでするりと入っていった。


 一方のゴルグは裏工作を始める。トンネルを塞ぐためだ。

 そのための用意も整えてある。


 ゴルグはトンネルのある壁脇の、積んであった肥料袋の中から、丸印の書かれた袋をトンネル入口に引きずった。


 榴弾が中に入っている。

 比較的簡単な即席爆弾IEDで、あとは発火装置を取り付けるだけにしてある。携帯電話で着信をかけると起爆する仕組みだ。


 ゴルグは手早く懐から発火装置とワイヤーを取り出し、処置を済ませた榴弾信管のアダプターに取りつけにかかった。


 不意に、呻き声がした。


 作業を中断し、即座にその場に伏せて様子を伺う。

 殺し損ねた奴がいたか。


 薔薇の茂みに隠れて様子を伺っていると、案の定、家屋から男が一人中庭に入ってきた。


 すでに致命傷を負っているのか、腹を押さえ、ふらつきながら中庭に入ってくる。


 男が倒れ、動かなくなる。

 その拍子に、男が手にしていた何かが、ぱさりと地面に転がった。


 軽い音だ。

 武器が落ちた音でも、布や服が落ちた音でもない。軽いがそれなりに重量のある、まるで本が落ちたような――。


 念のためゴルグは茂みを迂回して、それが何か確認した。

 そして硬直する。


 手帳だ。


 それも先ほどサハルが持っていたものと全く同じ、先生が愛用していた、黒の革張り手帳だ。


 “従順な男でな、名前を書けと言ったら本当に素直に従ったぞ。”


――なぜここにこれが……。


 ゴルグは思わず手を伸ばして、それを拾った。


 瞬間。


「ソレの正体を知っているようですね」


 反射的にゴルグはその場から飛びのいた。


 無数の弾丸が、自分が立っていた場所に着弾した。土を抉って粉砕し、砂塵と舞う。


 中庭入口に若い男が立っていた。目の下に黒子がある。


 ゴルグは何も言わず後ろに回した手で腰をまさぐった。

 一発だけ、発煙弾がある。


 これで敵の気を逸らして素早く壁に向かい、発火装置と取りつけて、トンネルに潜り込む。あとは起爆すればこちらの勝ちだ。


 ゆっくり立ち上がるこちらを見て、黒子の男は隣の白人に耳打ちした。ヌアザ、と聞こえた。


 刹那。全身が総毛だつような寒気を覚えた。


 狙われている。そう理解した瞬間、ゴルグは背後に倒れ込んだ。


 先ほど頭があった位置を、弾が通過する。


 ゴルグは地面を転がって起き上がり、黒子の男たちに突進した。


 こちらに向かってくるとは思っていなかったのだろう。反応が一瞬遅れた。


 白人が銃口を向けるが、ゴルグが斧を振るう方が早かった。

 右腕を斬り飛ばし、柄で突き飛ばす。


 次いで拳銃を構え黒子の男を狙うが、潜んでいた敵の反撃の方が早かった。


 形勢逆転。

 あっという間に窮地に立たされたゴルグは、すぐさま発煙弾を起爆した。


 煙幕の中をぬって、壁へ走る。


 肥料袋に飛びついて、急いで発火装置と取りつけた。


 背後の黒煙がうねり、切れ目から敵が飛び出した。

 拳銃を向けるが、蹴られて落とされる。ゴルグはナイフを掴むが、すでに敵の銃口はこちらを向いている。


 相打ち。


 それが頭をよぎった刹那、敵が小さく悲鳴を上げた。足に何かが噛みついている。


「っ、サハル……!」


 なぜ戻ってきた、という言葉を飲みこんで、敵の喉笛を搔き切る。


 そしてサハルを抱き上げ、トンネルへ走る。


 再びサハルをトンネルに押し込んで、自分も続こうとして。


 銃声が鳴った。


 太腿に灼熱が走り、激痛へ変わる。


 血の噴き出る腿を押さえ、ゴルグはトンネルに頭から突っ込んだ。

 必死に中を這い進むも、すぐに駆け寄ってくる足音が聞こえた。


 止むを得ずゴルグは携帯電話を取り出し、起爆した。


 無機質な着信音が鳴り響く。


 直後、ゴルグはトンネル外の閃光に目を焼かれた。




「――ラ、カーフィラッ!」


 悲痛な叫びに目を開ける。


 岩場を背に座りこんでいた。どうやら脱出路には辿り着いたらしい。


 見れば、トンネルは完全に崩落している。

 即席爆弾の衝撃と爆風は、ゴルグを吹き飛ばしたばかりか、トンネルを潰すことにも成功したのだ。


 だが。


「どうしよう、どうしよう……!」


 サハルが泣きじゃくりながら自分の腹を押さえている。

 見れば、千切れたドラム缶の破片が腹に突き立っていた。左脇腹、肝臓の位置だ。


 致命傷だった。


 そのことを冷静に理解したゴルグは、ふと、手にあの手帳を持っていたことに気が付いた。


「サハル、よく聞け」


「い、いりょう。いりょうキッド……!」


「いや。私はもう助からん。だから、」


 頭を振ったサハルの涙が頬に飛ぶ。


 サハルは自分の腰袋の中身をひっくり返した。応急処置用の医療キッドを探しているのだ。

 自分が怪我で動けない場合は、それを持ってくるよう教えた。


 だが彼女は使い方を知らない。


 血塗れの手で医療キッドを開き、これじゃない、ちがうと、器具を掴んでは離すを繰り返す。


「サハル、もういい。お前は使い方を知らんだろう」


「いやです!」


「だが」


「いやだっ!!」


 とうとうサハルはその場に突っ伏して泣き始めてしまった。


「おとうさんっ……!!」


 朦朧とし始めた意識に、電流が走った。


 父と呼ぶなと、厳しく言いつけてきた。それだけは、どうしても許せなかった。


 虐殺に加担し、妻も娘も守れなかった自分が、父と呼ばれることが許せなかった。


 けれど今、目の前に、自分を父と呼ぶ幼子が泣いている。


――神よ。


 ゴルグはすべてを決意し、瞑目する。


 たとえ仇であろうと、許されなくとも、この子が父と呼んでくれるなら――。


 ゴルグは手帳に手を伸ばした。


 あの長が餌にと撒いた手帳、その文字が書かれているページのすべてを引き千切る。

 それにポケットから取り出したライターで、火をつけた。


 燃えて炭と化した欠片が宙へ舞い上がる。


 顔を上げたサハルは呆然とそれを見上げた。


「サハル、それを取ってくれるか」


 医療キッドを指差すと、ぱっと顔が明るくなる。だがゴルグが医療キッドを手にしたのは、自分のためではない。


 ゴルグは右腕の包帯を解いた。


「後ろを向け。少し痛むぞ」


 サハルの髪を掻き分け、うなじに部分麻酔を投与して、必要な処置を行う。


 きっと罪深いことなのだろう。

 今からこの少女を、惨劇の渦中に巻き込もうとしているのだから。


 だが今は、これしか方法がない。


「これでいい」


 縫合を終え、抗生剤を投与して、髪を下ろし隠す。


「傷口がかゆくなってきたら、糸を取るんだ。そっちの手帳は……持っていけ。先生にお返しせねば」


「カーフィラ……?」


「いいか、サハル。今から言うことを、よく聞きなさい」


 浅い息を繰り返しながら、静かに語りかける。サハルは神妙な面持ちで頷いた。


「お前は、きっとこれから、災厄に見舞われるだろう。それは決してお前のせいではないが、それから逃れることはできない」


 利用しろ、すべてを。


 そう言うと、サハルは困惑したように何度も瞬いた。そのあどけなさに胸が締め付けられる。


 今から自分は、この子を一人で置いていく。

 誰も守る者がいない世界に、独りぼっちで置いていく。


「お前はこれから奴らに追われる。捕えられて、色々と聞かれるだろう。聞かれたらこう言え。『以前村に来た、銀髪に青い目をした男にすべてを話す』、と」


 恐らく、あのアメリカ人は軍人だ。そして間違いなく精鋭兵だろう。

 アフガニスタンの奥地に真っ先に降り立つ連中は、どいつもこいつも手練ればかりだった。


 “どうするか決めたいから、ちゃんと知りたいんだ。”


 そう言った青年の目は、少年のようにまっすぐで、老人のような静けさがあった。綺麗事と切り捨てるには、得も言われぬ気迫があった。


「その男を、信じるかどうかは、お前が決めろ。だが一番は、お前の命を守ることだ。いいか。すべてを利用して、生き延びろ。必ずだ。これは、命令だ」


 いけ、とゴルグは少女の背後を指差した。


 すでに呼吸もままならなくなっていた。この子に自分の死を看取らせたくはなかった。


「いけ。走れ。追手が来る前に」


「でもカーフィラ、」


「走れッ!」


 ゴルグは怒鳴った。途端、サハルは驚いたように飛び上がる。手帳を胸に抱え、途方にくれた顔で右往左往しながら、その場に立ち尽くした。


 それを追い払うように、ゴルグは怒鳴りつけた。獲物を吠えたてる狗のように。


「走れ、サハル。逃げて、生き延びろ。走れ、走れ、走れ――!」


 弾かれたように少女が踵を返す。


 その背に向かってゴルグは走れと繰り返した。


 それが少女にかけた、最後の言葉になった。









―――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は12月22日(金)です。

次回で9節は完結となります。

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