エピローグ
「容態は」
昼下がりのカフェ『BROWNIE』にて。
カウンター越し、一番端の席でスツールに腰かけ壁にもたれるセルゲイに尋ねられて、ニコラスはグラスを拭く手を止めた。
「落ち着いてる。現状、身体障害や麻痺も確認されてない。アンドレイ先生が言うには、相手の身体が濡れていたおかげで、ハウンドにいくはずの電流が真っ先に持ち主の元へ向かったんじゃないかと」
「それで命拾いしたってワケ。まっ、いちおう最後の生き証人だし、死なねーことに越したことはねーけどさぁ。感電死の条件フルコンプで起きた直後からピンピンしてんのには流石にドン引きだわ」
「……リストは」
「駄目だった。完全に破壊されてる。修復は不可能だ」
その回答にニコラスは小さく息を吐く。
『失われたリスト』は完全に損失した。
ハウンドのうなじに埋め込まれていた生体チップに、ヌアザの義手の高圧電流が流れたことで、電子回路が焼き切れたのだ。
当然ながら、チップに入っていたデータは全損。
文字通り本当の意味で、リストは永久に失われてしまった。
「で、あのじゃじゃ馬の報告、ガチなんだろうな?」
「ああ」
胡乱気に睨んでくるセルゲイに、ニコラスは頷いた。
「ハウンドには協力者が三人いた。ミチピシ一家当主のカレタカ・オーハンゼー。『パピヨン』のイーリス。そして『シバ』を名乗る謎の男だ」
オーハンゼーに関しては、これまでの状況証拠を鑑みるに
それから『パピヨン』のイーリス。彼女が一番の協力者だったが、先日の件で死亡した。
そして最後の一人の『シバ』。
男性で日本語を話し、ケータに個人連絡を取ってきたことぐらいしか情報がないが、恐らく――。
「11年前のリスト争奪戦の被害者、シンジ・ムラカミ、か」
日本語話者でこちらの事情に明るい人物など、一人しかいない。
ニコラスは頷いた。セルゲイは「なるほどなー」と壁に頭をつけ、天井を仰いだ。
「俺ちゃんが調べた限りじゃ、瀕死の重傷を負って本国へ帰還したとあったが……」
「少なくとも連絡が取れたってことは、生きてるってことだ。生きてるなら証人になる可能性も出てくる」
「可能性も何も、リストがなくなっちまったんじゃ、もうそっちに賭けるしかねーじゃん。あーあー……おめーら覚悟しろよ。俺ちゃんはともかく、ロバーチもヴァレーリも『リストがなくなりました、ごめんなさい』じゃ済まねーぞ」
「分かってる」
『失われたリスト』喪失の損害は、事の真相が再び闇に葬られてしまっただけではない。今回の働きに対する五大マフィアへの対価が完全に失したことを意味する。
リストを持たぬハウンドに、五大マフィアは価値を感じない。すなわちハウンドはもう用済みなのだ。彼女が用済みになれば、二十七番地の安全保障もゼロになる。
そう思われまいと切ってきたハウンドの次の
セルゲイが呆れかえった様子で頬杖をついた。
「おめーといい、あのじゃじゃ馬といい、よくもまあそんな大博打が打てたな。今回はじゃじゃ馬が貯めてたへそくりと同盟条約の譲歩でなんとかしてみてーだが、丸損したマフィアを黙らせるだけのもん用意できる奴なんてそうそういねーぞ。つかよく住民が納得したな」
「俺がここを出た時点で最悪の想定はしてたからな。それに……もともとハウンドは自分が死ぬのを前提にこの街をつくってたから」
身も蓋もない言い方をすれば、ハウンドがいなくとも街の運営が回っていくシステムは、すでに整っていたのである。
外交面で圧倒的に不利になるのは変わりなかっただろうが。
「ふーん。じゃあ、その最悪が実現しちまったとして、五大が採算とれねー金寄こせっつってきたらどうする気だったのよ」
「どうもこうも。生涯かけて細々と金を返していく人生が確定するだけだ」
「それでマフィアが満足するとでも?」
「お前らの満足なんぞ知ったことか。あの時、俺にできることといえば、あれしかなかった。だったらそれに賭けるしかないだろ。何もできることがないから黙ってみてるだけなんて、俺は嫌だ」
布巾を握りしめて吐き捨てる。
するとセルゲイは、「そーかよ」と低く呟いただけだった。
…………ところで。
「そういうお前こそ、なんでまだロバーチの仕事やってんだ」
「なんでかなー、俺ちゃん裏切ったはずなんだけどなー、なんでまだ仕事が回ってくるのかなー? セキュリティ管理ザルかなあー?」
アハハハと乾いた笑みをこぼしながらキーボードを打つ姿は虚無で悲壮に満ちている。
あれだ。新兵時代、週一でやっていた隊舎の大掃除で、やっと綺麗にした廊下を泥も落とさず踏み荒らしていく隊員を見た時の同僚の顔に似ている。
あの時、踏み荒らしたのは尉官だった。
そしてニコラスは、なぜセルゲイがこの状況に陥っているのかを目撃していた。
「裏切って居場所ないから養って♡」
ぬけぬけと宣ってきたのは、ハウンドが目を覚ました直後である。
きゅるんと目を潤わせた非常に腹の立つ顔での申し出に、ハウンドは物凄く嫌そうな顔をしたが、世話になったのは事実。
しばらく27番地で保護してやることにした――らしいのだが。
なんとそこにロバーチ一家幹部がやってきたのである。
当主の側によくいる、あの第一遊撃隊部隊長の覆面男が。
「閣下から仕事を預かってきた。ほとぼりが冷めるまでこれをすべて片付けておけ」
紙の書類満載の段ボールを10箱ほど目の前に積み上げて、そう告げたのである。
当然セルゲイは目を剥いた。
「はあ……!? つかこれ、いちおう機密――」
「安心しろ。裏切者の貴様が利用しても問題ないものしか寄こしてない」
「いやそういう問題じゃなくて」
「先日FSBとやりあったからな、しばらくここにこもって仕事しろとのお達しだ。それとも貴様、まさか裏切ったら始末されて終わりだとでも思ったのか?」
覆面の隙間から酷薄に光る青い目でジロリと見据えて、こう言い放った。
「裏切ろうが、くたばろうが、一度我らの同志になった者は永久に我らの同志だ。逃げられると思うなよ? つべこべ言わず働け。――あ、ヘルハウンド様。奴の生活費はこちらに請求してください。差し押さえた奴の口座から差し引きます。それと奴の目付け役を何人か、こちらに置かしていただければと」
「いいよ~」
こうしてセルゲイは27番地で強制労働に従事することとなったのである。
今もせっせと働いているセルゲイの真後ろでは、テーブル上にサブマシンガンを置いたロバーチ構成員がポーカーに興じながら、油断なくセルゲイを見張っている。もちろん四六時中だ。
その気の毒っぷりは、あのケータですら差し入れにコーヒーを持ってきてやるレベルである。
「ニコラスー、オーブンそろそろいい頃合いだと思うけど」
「……これ以上は、焦げると思う」
店番の少年二人が厨房からひょっこり顔を出した。ジャックとウィルだ。
礼を言ってニコラスは厨房へ向かう。中からパイを取り出し、次いで賄いのグラタンを二皿取り出す。
「そのパイって余ったりする?」
「……おいしそう」
「いや。多分余らないから、また今度だ」
ええー、とぶーたれた少年二人だったが、グラタンを差し出すところりと態度を変えて、いそいそとスプーンを手に作業台前のスツールに座った。
従業員が賄いを食べる定位置だ。
ふと思い立って、厨房から顔を突き出す。
「ナズドラチェンコ、マッシュポテトとひき肉のグラタンいるか?」
「……滅茶苦茶辛くして」
「自分で調節してくれ」
ひとまず先にタバスコをカウンター上に滑らせると、セルゲイはそれを掴み、なんと差し入れのコーヒーにタバスコを入れ始めた。
そこに玄関が勢いよく開く。
「俺にも何かくれ。赤ワイン、フルボトル付きで」
「お前もか」
コートを脇に抱え登場したカルロに、ニコラスは口にしかけた嫌味を飲みこんだ。
こちらはこちらで、セルゲイに負けないげっそり顔だ。
「一応聞くが、何があった」
「ヴァレーリ一家に復帰した」
非常に反応に困る返答だ。
よかったなと返せばいいのか、ご愁傷さまとでも言うべきか。
「それで? 現役復帰して早々ボスに無理難題でもふっかけられたか」
「いや。
「何やってんだよお前……」
一体なんと言い返したんだと尋ねようとしたところ、セルゲイが割り込んだ。しかもなぜかちょっと嬉しそうである。
底なし沼に落ちた人間が、傍を通る人間を見つけた時のような、嫌な笑みだった。
「Ты что, только что сказал "иди на хуй, пенис" ? (なんだ、くたばれチンポ野郎とでも言ったのか?)」
「Dovrebbe chiamarsi “testa di cazzo”. Oppure si dovrebbe dire “testa di minchia”. (それ言うならチンポ頭な。もしくは陰茎頭か)」
あ、こいつら俺の分からん言葉で会話始めやがった。
ニコラスはとっとと退散することにした。
マッシュポテトをすくって、焼きたてのパイに手早く盛り付けていく。
その間にも、ロシア語とイタリア語からなる (恐らく)碌でもない会話が続いていく。
「И что? Что вы в итоге сказали. (で? 結局なんて言ったのよ)」
「Mi hanno ripetuto che assomigliava molto alla ragazza di cui eri innamorato, "No, semmai la ragazza assomigliava al vostro benefattore", replicai, e lui si arrabbiò molto. (そんなにあの子に似てたかってしつこく絡んできたから、どっちかつうとあんたのパトロンでしょうって答えたらブチ切れられた)」
「Почему вы ведете себя так, словно едете на Ferrari по минному полю……? (お前のその地雷原フェラーリで爆走していくスタンスなんなの……?)」
「Sei l'unico con cui non voglio parlare. (お前にだけは言われたくない)」
なんだか不毛な雰囲気が漂い始めた会話を捨て置いて、ニコラスはパイをトレーに乗せた。付き合ってられん。
「なに話してんの?」
「……二人とも大分きてるのは確かだと思う」
マフア二人の惨状に、厨房から顔をのぞかせたジャックとウィルがひそひそと話し合う。
しばし考え、ニコラスは野次馬少年二人に一つ提案をした。
「その賄い、もう二品作ってやるから、先にあの馬鹿二人に出してやれ」
「はあ? やだよ、なんで」
「……僕、腹ペコ」
「別にタダで出してやれってんじゃない。頭を使え。あの二人、あれでも一応ヴァレーリ一家とロバーチ一家の重役だからな。取り入っておいて損はないぞ」
すると二人は「ふーん」と訳知り顔で頷き、ニヤリと笑うとグラタンを持ってセルゲイとカルロの元へ向かった。
今はまだまだ未熟だが、27番地でも有望な未来のドローン兵と特技兵だ。セルゲイやカルロから学べることは多いだろう。
マフィアだろうが、使えるものは何でも使うに越したことはない。
早速セルゲイたちとの交渉を始めた少年二人を眺めながら、ニコラスはコートを羽織り、クローシュを被せたトレーを片手に階段へ向かった。
***
階段踊り場の窓から見える表通りは、平日の昼時にもかかわらずどこか閑散としている。
街全体が喪に服しているためだ。
本来一番込み合う時間帯にマフィア二人しかいなかったのも、店番がジャックとウィルだけだったのも、そういう理由だ。
店長たちは今、ヴァレーリ一等区内にある教会にて、イーリスの葬儀に参列している。
当主フィオリーノの気まぐれか、ヴァレーリ一家はイーリスの遺体を回収して葬儀まで取り行ってくれた。
ハウンドはそれに感謝し、ヴァレーリ一家からの条約変更の申し出を受け入れた。
イーリスの遺体は自然還元葬の処置が施され、アッパー半島のあの森へ還されるのだという。多くの27番地住民が眠る、あの地に。
ニコラスは大通りを通過するトラックの運転手の腕に、黒い布が撒きつけられているのを目撃した。
ニコラスにとって、イーリスと出会った期間はほんの僅かでしかなかった。
だが住民は、ハウンドの統治を支えた陰の立役者として彼女を慕っていた。
病に倒れ現場を退いてなお、ああして弔意を示す者が現れるほどに、イーリス・レッドウォールは27番地にとってかけがえのない人物だった。
そしてもちろん、ハウンドにとっても。
12階の自宅へ戻り、寝室へ向かう。
医師アンドレイから絶対安静を言いつけられ、店長からも「寝てなさい」と言われて、ハウンドは葬儀に参列できなかった。
寝室をノックする。
返答はない。
案の定の反応に溜息をつき、ニコラスはトレーを食卓に置いて、屋上へ上がった。
いた。
ハウンドは毛布を肩にかけ、フェンスにもたれかかって、ヴァレーリ一等区の方角を見つめていた。
ベッドでちゃんと休め、という言葉をニコラスは飲みこんだ。
ハウンドの手に、一冊の小説があった。
『リネーアと巨人』という題目の、とある少女が巨人と共に冒険をする物語だ。
トゥーレヴァルド・セーデン一等軍曹の遺品だった。
その表紙には作者直筆のメッセージが添えられている。
――小さな読者へ、あなたの側に。――
ハウンドがプレゼントされた時から記されていたという一文の下に、付箋が張ってあった。
そこに記されていたのは、イギリス大使館の電話番号と日時だ。
遺族たちは、イギリス本国にて保護されることとなった。
どういう経緯かは知らないが、以前ニコラスが出会ったあのイギリス工作員が工面してくれたらしい。
その工作員を救出したロバーチ一家が、遺族らの脱出の手引きをした。
早急に国外脱出することを迫られた遺族らは、ハウンドが目覚めるまで側に居たがった。けれど結局叶わず、それぞれメッセージを残して発っていった。
『これをあの子に渡して。これから先、連絡を取り合えるかどうか分からないけど、私はあの子と話がしたいの。夫のことも、あの子に何があったのかも』
パメラから受け取った手紙は今、ハウンドの手の中の、小説に挟まれている。
パメラだけではなく、『盲目の狼』や、マルグレーテの娘たちからの手紙も。
一方、マルグレーテは手紙を書かなかった。
代わりにあの付箋のメモ書きと、亡き夫の遺品を残して発っていった。
一般人からすれば、戦地での遺品をわざわざ集めずとも、家に残った物が遺品になるだろうと考える。
けれど遺族からすれば、そうではない。
遺族は、遺体や遺品が欲しいのではない。
彼らが一番欲しているのは、愛した故人が戦地から自分たちの元へ帰ってきたという事実の方なのだ。
大事なあの人が自分の元へ帰ってきたという事実をもって、ようやく遺族は故人の死と向き合い始めるのである。
マルグレーテはその故人そのものである遺品を置いていった。
愛する夫や娘たちのために執筆した私書を、ハウンドの元に残していった。
そこにどんな思いが込められていたのかは、ニコラスには分からない。
けれどハウンドの枕元にそっと小説を置く後ろ姿を、ニコラスは見ていた。
だからこれ以上の詮索はしない。
ここから先は、ハウンドとマルグレーテだけが知っていればいい。
「ん。ありがと」
肩にコートをかけてやると、ハウンドはコートを手繰り寄せた。その手は真っ赤だった。
「せめて中に入れ。部屋の窓からでも教会は見えるだろ」
「ん~……、でもイーリス、寒かっただろうなって思って」
あの凍てついた大地で、一人病に苦しみながら蹲っていた彼女を思い出す。
しばし目を伏せ、ニコラスはハウンドの頭を小突いた。
「いてっ、なによ」
「そんなこと言ってるとイーリスに化けて出てこられても知らないぞ。亡くなった後まで彼女に説教をさせるつもりか」
「…………そうだね。亡くなった後ぐらい、ゆっくりしたいよね」
そう言って、ハウンドはようやくフェンスから離れた。
部屋へ戻ると、ハウンドはすぐに鼻をひくつかせた。
「いいニオイがする」
「ああ。さっき焼いたんだ」
椅子に腰掛けるハウンドの前に、ニコラスは皿を置き、クローシュを取った。それから隣に座る。
肉のパイ包み焼き。イーリスから教わったレシピの一つだ。
この街に訪れてからずっと、彼女は自分に料理や菓子作りをやたらと教えたがった。
「これ、絵本ご飯よな? 最後から二ページ目の」
「ああ、しばらく食べてなかったろ。仲直りのシーンのやつだ」
暁闇、草木のほとんどない乾いた高原で、子狼は父狼とようやく再会を果たす。その光景を、五頭の犬が遠巻きに見守っている。そのページを再現した。
茶色い高原は肉のパイで、狼や犬たちはマッシュポテトで作った。暁闇は赤ワインを煮詰めたソースで表現してみた。
さっそくナイフとフォークで切り分けて、ぱくりと口にするなり、ハウンドは首を捻った。
「なんかこれ食べたことある気がする」
「イーリスのレシピだからな。中をひれ肉の代わりに特大ミートボールにしてみたが、それ以外は一緒だ」
「そっか」
ハウンドは黙々と食べ進めた。
けれど、いつもより一口が小さい。ちょっとずつ、ちょっとずつ切り分けては口に運び、いつもより長く咀嚼して飲みこんだ。
アッパー半島から帰ってから、ハウンドは家の中ではあまり仮面を被らなくなった。
あまり笑わなくなったし、喋らなくなった。
けれど、イーリスや店長が語ってくれた昔話を聞く限り、これが彼女の素顔らしかった。
好物を出すと、最初ではなく最後に食べるようになったし、好きなものほどちまちま食べたがった。
住民の前では変わらず陽気に明るく振舞っているが、家の中に入ると驚くほど静かになった。こちらが黙っていれば、ほぼ一日中黙っていることもある。
スキンシップもほとんどなくなり、話す時はまずニオイを嗅いで、一呼吸置いてからこちらの様子を伺う、そんな内気な一面も見られるようになった。
それから――。
こげ茶のソースに雫が落ち、丸く模様を描いて滲んだ。
「美味しい」
「そうか」
泣き虫になった。
ニコラスは俯く小さな頭を撫でた。
ハウンドは何度も目元を拭って堪えようとしたが、その手をやんわり止めた。
泣きたければ、気が済むまで泣けばいい。
かつてイーリスは言っていた。
生き残った者は、また明日も生きていけるよう、死者と別れの儀式を済ますのだと。
今の彼女には、別れの儀式が必要だ。
「元気になったら墓参りに行こう。俺もまだお別れしてないから」
ハウンドは何度も頷くと、テーブルに突っ伏して泣き始めた。
その震える頭を、いつまでもいつまでもニコラスは撫でていた。
***
霞んで見えなくなっていくその小さな背を目で追いながら、ゴルグは泣いていた。
もっと褒めてやればよかった。
もっと抱きしめてやればよかった。
もっと名を呼んであげればよかった。
もっと、もっと、もっと。愛してやればよかったのに。
後悔に囚われ、くだらぬ意地を張って、一体どれだけ時間を無駄にしただろう。
何を犠牲にしても、守ってやりたいと思ったのに。
結局自分は、あの子に災いの種しか遺せなかった。
「すまない、サハル。すまない、先生。すまない、ファラー、アレゾ……」
亡き妻と娘の名を呼んで、酷く咳き込んだ。血を吐いたようだが、その味ももう分からない。
全身の感覚がなくなりつつあった。
引き裂くような轟音が近づいてくる。戦闘機の音だ。すべてを焼き払う死の天使の羽音だ。
サハルはもう、逃げ切っただろうか。
「神よ」
とうに感覚の失した、震える指先を血に浸す。
いいや。もはや神でなくともいい。
悪魔でも、邪神でも、ソ連兵でも、アメリカ人でも、誰でも構わない。
誰か、誰か、誰か――。
「あの子を、」
***
助けてくれ、と記された文字は、歪み震えていた。
己の血で、最後の力を振り絞って書いたのだろう。
これが『手帳』の正体だった。
ページのほとんどが破られた、ところどころが焼け焦げたそれの、唯一残ったページに記されていたのは、娘を想う父の最期の言葉だった。
血痕で記された文字を、ニコラスはそっと指でなぞった。
手帳を閉じ、本棚にしまう。その隣には、ラルフ・コールマン軍曹の描いた絵本があった。
彼も、きっとこれを読んだのだろう。だから次へ託した。
そして絵本はイーリスに託され、自分へと回ってきた。
――『今度は、あなたの番』――
そう言って握ったイーリスの手のぬくもりを、力を思い出し、ひとり拳を握りしめる。
ニコラスは本棚を振り返った。
「大丈夫だ」
ちゃんと届いたから。あなたたちが繋いでくれたから。
ニコラスは前へ向き直り、部屋を後にした。
背負うものの重さと熱を感じながら、本を閉じるように、戸を閉めた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の投稿日 1月12日
これにて9節は完結となります。ずっと書きたかったものを書けて一安心しました。
世界がどんどん戦火に巻き込まれていく中、こうした作品を書き続ける意味は何なのか、改めて問い直されている気がします。
「もう書けない」と撤退されたミリタリー作家さんもおられました。
それでも書き続けている自分は、きっと作家としてのエゴが強いのだと思います。
こうして今日もここに来てくださった皆様に、心からの感謝を。
次回も来ていただけることを願って、締めくくらせていただきます。それでは、また。
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