9-12

――とある学者の手記




 ●8月10日 酷暑


 例の兵士崩れの男たちが村を訪れてからひと月以上が経った。あれから特段、村に変わったことはない。平穏そのものだ。

 おかげで、この村と隣村とを繋ぐ水路工事を、半工程まで終わらせることができた。


 今年の夏も日照りが凄まじい。

 来年の夏までには水路も完成し、この地の旱魃も多少マシになるだろうが、今年はまた村の人々に我慢させてしまうことになる。


 心底申し訳ないと思う一方、焦ったところで水路は完成したりしないので、今できることを着実にこなしていこうと思う。


 私が水路工事に励むぶん、ゴルグさんはその護衛で駆けずり回っていた。

 タリバン崩れの強盗に奴隷商、時には米兵が誤って機銃を撃ってくることもある。


 血の気の多い村の自警団では大騒動に発展してしまうことも多いので、英語を含む多言語を話すことができ、かつ冷静で経験も豊富なゴルグさんの護衛は、私としても大変心強い。


 もちろんサハルもゴルグさんにくっついて、工事現場で寝泊まりしている。


 日本からのスタッフたちともすっかり仲良くなったようだ。

 サハルはゴルグさんの村になぜ私しかいないのか疑問だったらしく、「一緒に住めばいい」と言ってスタッフをしきりに誘っていた。


 私たちは苦笑するしかなかった。ゴルグさんへの村の立ち入りは、私しか許されていないからだ。


 むしろ、あの外人嫌いで有名なゴルグさんの御父上が、私だけでも水質調査のしやすい立地に住むことが許されただけでも、重畳というべきだろう。


 サハルには、この辺りの大人の事情はまだまだ難しいだろう。


 一方で、ちょっと不安な点もある。ゴルグさんの腕の包帯が未だに取れないのだ。


 大したものではない、と本人は言うが、決して傷口を見せてくれない。

 様子を見るに、膿んでいるとか、熱が出ているとかではないようだが……。一体どうしたのだろうか。



 ●8月12日 酷暑(たぶんしばらくずっと!)


 今日はゴルグさんの村から彼の御母上が訪問した。

 彼の御父上には「現場労働者への炊き出しの手伝いに」ということにしてあるが、本命はサハルの誕生日の贈り物製作の助っ人である。


 案の定というか、ゴルグさんは縫物など初めてで製作にかなり苦戦していた。

 それでも父親として他人には任せたくないようで(そのくせサハルには決して「父」呼びを許さないのだから困ったものだ)、気難しい顔をしながら糸と針と格闘している。


 その様子に御母上は呆れ返っていた。「この調子では一年かかっても無理だ」とまで言われてしまった。


 だがしかし、ゴルグさんも一人では無理だという自覚はあったのだろう。ようやく御母上の助力を乞うことにしたようだ。


 ところが御母上もさるもの。なんと知り合いの女房たちを総動員したらしく、女房総出でゴルグさんに針仕事の指南を始めたのだ。

 しかも皆、自前の道具に糸と布を持ち寄ってくれて、私としては頭が下がる思いだった。


 一方のゴルグさんは、既婚の女房らに囲まれ、針仕事のあれこれ指南をされるという、まずありえない光景に目を白黒させていた。


 あまりにも珍しかったものだから、サハルを呼んで二人でこっそりその様子を盗み見たりもした。

 サハルは針仕事を見るのが初めてだったので、始終不思議そうに首を捻っていた。


 ただゴルグさんは真剣だった。

 普通の男であれば、女から指図されるだけでも嫌な顔をするだろうに、丹念に耳を傾け、失敗しながらも黙々と作業を進めていた。


 最初はあまりに拙い彼の手際を軽んじていた女房も、次第に真剣になっていった。

 中には、家に隠し持っていた秘蔵の上質な糸を持ってきてくれる者、首都で流行りの図案をわざわざ取り寄せてくれる者、知り合いの呉服屋を呼びつけて布や糸を選ばせてくれる者もいた。


 サハルへの贈り物はきっと素晴らしいものになるだろう。女房たちも、サハルが着飾る日を楽しみにしてくれた。


 御母上もサハルの元気そうな様子を見て嬉しそうだった。


 時々、ゴルグさんに内緒で恋歌を歌い教えながら、一緒に洗濯物を干したり芋を洗ったりしていた。

 ゴルグさんに聞かれると「まだ早い」と怒られてしまうからだ。


 「いつだって女はおませなものさ」と笑う御母上の笑顔は、悪戯好きの少女そのもので、私もなんだか楽しくなってしまった。

 村ではいつも暗い顔をしておられるので、御母上のああいう笑顔が見られて本当に良かった。



 ●9月21日 晴天、夜の冷え込みが厳しい


 楽しい日々というのは、長くは続かないものだと思い知らされる日だった。


 以前、村に現れた例の兵士崩れの男たちが、今度は工事現場に直接やってきたのだ。

 たまたまゴルグさんが巡回でいない時で、私は騒ぎを大きくすまいと、ひとまず私のテントに招いた。


 今回の水路工事で、村は外国人の手が入ることをかなり嫌がった。

 もし騒ぎが大きくなって、そのことが村の長老たちの耳に入れば、工事そのものが中止されてしまうかもしれない。


 そうなってはまた長い期間、人々が旱魃で苦しむことになる。


 そうでなくとも昨年は赤ん坊が十数人、冬を越せなかった。今年はもっと増えるだろう。これ以上、水路の完成を長引かせるわけにはいかなかった。


 たまたま御母上が来てくれる日で助かった。異常事態と察した彼女は、すぐにサハルを連れてスタッフらと共に隠れてくれた。


 男たちは相も変わらず物々しかった。


 丸腰のこちらに銃を置きもせず、ゴルグさんはどこかと尋ねた。私は正直に答えた。


 すると男たちは顔を寄せ合って小声で話し合った後、なぜか私のテント内を物色し始めた。

 私は黙って耐えていた。


 盗まれて困るものといえば、今こうして日誌を書いている手帳と、そのカバーに挟んだ家族写真だ。

 それ以外のものはどうとでもなる。


 だから私は、男たちが去っていくのを、無言で見守っていた。


 しばらくして、頭らしき男が部下から手帳を受け取っていた。

 私がいま記している日誌のだった。


 私は基本、手帳もペンもカバーも昔から使い慣れた同じデザインの物を愛用していた。

 頭が受け取ったのは、そういう予備用の手帳だった。


 頭は手帳を数ページめくって、何も書かれていない新品であることを確認すると、私に突き出して「名前を書け」と言った。


 嫌な予感がした。

 私は断ったが、有無を言わせぬ雰囲気を感じて、仕方なく言われるがまま新品の手帳の最後に自分の名前を書いた。


 すると頭は満足したのか、テントからは出ていったものの、工事現場から離れようとはしなかった。

 あくまでゴルグさんを待つつもりらしかった。


 仕方なく私は無線でゴルグさんに連絡を入れた。ゴルグさんは一時間も経たずに帰ってきてくれた。


 男たちとゴルグさんは、それはもう凄まじい剣幕で言い争い始めた。

 今にも撃ち合いが始まるのではないかと、こちらは気が気ではなく、大急ぎで現地労働者を家に帰したほどだ。


 だが男たちはがんと出ていこうとしない。

 聞き取れた範囲で翻訳してみたが、どうも男たちはゴルグさんに一緒に来いと誘っており、ゴルグさんはそれを断り続けているらしかった。


 そんな時、男たちの一人が騒ぎ始めた。

 指差した方向には、御母上がサハルやスタッフたちと隠れているテントがあった。


 男が用を足しに席を外した際、テントの隙間から中の様子が見えたのだろう。


 スタッフを庇った御母上が真っ先に引きずり出された。

 すぐに止めに入ろうとしたが、男は急に驚いた声を上げて後ろにひっくり返った。


 サハルだった。サハルは御母上を庇うように四つん這いで地に手足をつき、人の声とは思えぬ物凄い唸り声を上げていた。

 これには男たちも度肝を抜かれたらしく、慌てて後ずさった。


 そこにすかさずゴルグさんが立ち塞がった。

 ゴルグさんが背中に手を添えると、サハルはすぐに静かになった。


 そんな彼女を、男たちの頭がじっと見ていた。


 私はしまったと思って、すぐにサハルを抱えてテントの中に逃げ込んだ。

 ゴルグさんの弱みを、男たちに見られてしまったと思ったのだ。だが時すでに遅しだった。


 しばらくして、ゴルグさんがテントに戻ってきた。


 男たちが去ったこと、しばらく村を留守にさせてほしいことを、私に伝えてきた。


 私は断れないのかと聞いたが、ゴルグさんは「なるべくすぐ帰る」と言うばかりで、それ以上は何も言ってはくれなかった。


 三日後、ゴルグさんは村を出るという。せっかく贈り物も出来上がってきていたのに。


 私は男たちへの対応を誤ったことを後悔している。もっと最初から毅然とした態度で臨むべきだった。


 念のため、事の経緯を証拠としてここに書き記しておく。

 何も心配することはない、そう信じたいのだが、どうにも胸騒ぎがする。


 一体男たちは何のためにここへ来たのだろう?



 ●10月22日 晴れのち曇り


 ゴルグさんが村を出て一月が経った。彼は今、どこにいるのだろうか。


 サハルは元気だ。

 毎朝起きて、ゴルグさんが植えた花壇の薔薇の面倒を見て、勉学に励みながら、私や御母上の手伝いをしてくれる。


 だがとても寂しがっている。


 毎晩ゴルグさんが向かった先の山を眺めながら眠りにつき、起きたら真っ先に玄関に向かって、彼が帰ってきてないかの確認をするのだ。


 幸いにも水路の工事は順調だ。この調子なら、今年中になんとか仕上げられるかもしれない。

 だが私の気持ちは晴れない。


 早く帰ってきてくれないだろうか。



 ●  月  日 


 イヤな予感が的中した

 さいしょからおかしいとは思っていた


 こんな村にPKOがくるなど聞いていない


 私をさがしている

 ぶきをもった男たち、白人、えいご


 サハルを逃がす

 手紙 お母上に

 となりの村、スタッフのしゅくしゃ


 これをよんだひと、ゴルグさんにはとなりの村にいると――(ここから先は文字が乱れていて判読不能)




 ***


 〈2014年1月30日 午前11時25分 アメリカ合衆国ミシガン州 アッパー半島 デルタ郡 クックスまであと10キロ地点〉


 地平線まで雪と氷で覆われた大地を、『ヌアザ』はただ見ていた。


 常人であれば感嘆の溜息でも漏らすのだろうが、ヌアザにとっては別の意味でこの光景が有益だった。


 見渡す限りの白一色。

 遮蔽物らしきものは何もなく、申し訳程度の木立と道路標識に轍、あとは前方へ一直線に伸びる線路。

 そして、ヌアザたちが乗車中のカナディアン・ナショナル鉄道の貨物列車ぐらいだろう。


 奇襲を予防するのに、これほど適した場所はない。


――ブラックドッグたちの戦力は常に少数。五大マフィアの協力も限られた今となっては、正面切っての戦闘はまず不可能。奇襲を選択せざるを得ない。


 であれば、こちらは“最も奇襲しづらい場所”に居続けるまでだ。


 隠れる場所のない真っ平らな大地。線路に爆弾を仕掛けようにも雪と氷で阻まれる。

 そもそも仕掛けようと近づいたところで、列車周辺の360度を偵察班が目を光らせている。

 地吹雪で視界がホワイトアウトしても、上空で待機中の監視衛星と偵察ドローンが見逃さない。


 奇襲どころか、仕掛けることすら不可能な布陣だ。


 現在ヌアザがいるのは列車先頭部の車掌車、人質と直属の精鋭も登場している。万が一に備えて、後方貨車のコンテナ内にも兵士を忍ばせている。


 新たに確認した事実に満足し、ヌアザは座席の背もたれに深く座り直した。

 従業員用の粗末なもので、座り心地は最悪だがこの程度で音を上げるような鍛え方はしていない。


 ヌアザたち『トゥアハデ』は、人質を連れてスーセントマリーに向け北上していた。

 このアッパー半島の北東端、カナダ国境線沿いにある運河沿いの都市である。


 その郊外に『双頭の雄鹿』メンバーが所有する私有滑走路があり、給油済みの航空機が待機している。

 到着次第、人質を連れて近くのUSSA支部に飛ぶ。あとは煮るなり焼くなり好きにすればいい。


「ヌアザ様、目標がグラッドストンに向かったとの報告が入りました」


「かかったな」


 部下からの報告に内心ほくそ笑む。


 敵に元FSBの諜報員がいることは把握している。ゆえに敢えて情報送信の痕跡抹消に粗を残し、送信地点に偽の部隊を一部残しておいた。

 人質をかくまっていると誤認させるためだ。


 報告によれば、連中はトレナリー近郊の例の農場から、南下してミシガン湖沿岸の街グラッドストンに向かったという。

 我々とは逆方向だ。


 ちらと人質を一瞥する。


 例の兵士の遺族、パメラ・バンデラスとマルグレーテ・セーデンは驚くほど大人しくなった。

 暴れたところで背後に控える『スェウ』と『ディラン』の双子が秒で制圧するが、従順なのに越したことはない。


 肉盾も三名用意してある。

 応急処置の関係でイギリス工作員は流石に連れてこられなかったが、機を見て適当に解放すればいいだろう。


 さらに万が一に備えて“撒き餌”も用意してある。


――イーリス・レッドウォールを確保できなかったのが悔やまれるが……まあいい。


 ヌアザは目を閉じた。

 寸前、双子が何やら顔をしかめて耳打ちし合っていたが、いつものことだ。


 つくづく気色の悪い兄弟だ。ゲイでもあるまいに、何故ああも距離が近いのか――。


 轟音。


 突如鳴り響いた咆哮に、ヌアザは飛び起きた。


 長く低く響き渡る、叫声にも似たそれは、警笛か。


「何事だ!?」


「ヌアザ様、あれを……!」


 部下の一人が窓から顔を出し、後方を指差した。それを見て唖然とする。


 鋼鉄の物体が、後方より猛然と迫っていた。

 列車、なのだろうが、その形状はあまりに異質だった。


 例えるなら空母、その船首を真正面から見据えたような車体だ。

 黒灰一色の武骨な形状、船首のような先端には星のエンブレムが金色に輝いている。


 それが吹き荒れる地吹雪をものともせず、むしろ我こそが吹雪の発生源とばかりに、轟々と雪煙を巻き上げて突進してくる。

 荒波を驀進する軍艦のように。


 あれは、なんだ?


「ラッセル車……」


 遺族の一人が、そう小さく呟いた。マルグレーテ・セーデンだ。


「あれを知っているのか。どこから来た? 答えろ」


 突然詰め寄られて、女は口ごもった。

 すかさずヌアザは拳銃を引き抜き、女の娘の一人に銃口を突きつけた。声にならぬ悲鳴を上げて、女が娘を抱え込む。


 ヌアザは語気を強めた。


「答えろ。あれはどこから来た」


「ば、場所は分からないわ。けど持ち主はたぶん知ってる。知り合いの雪上車愛好家よ。マニアックなコレクターで、雪上車だけじゃなくて引退したラッセル車も収集してたわ。極東ロシア出身の、コテージのオーナーで……確か近々展示するから、グラッドストンの車両基地の一部を間借りしてるって」


 たどたどしい返答に苛立ちながらも、グラッドストンという単語を聞いて、すべてを悟った。


「っ、偵察は何をしていた、あんな馬鹿でかいの、なぜ見落とした……!?」


「地吹雪で発見が遅れました。監視衛星並びに偵察ドローンの情報では、異常なしと……」


「そんな馬鹿な話があるか。あり得ん……!」




 ***




「ところがどっこい。あり得るんだなーこれが」


 ニヤニヤ笑いながらキーボードを弾くセルゲイを、ニコラスは半ば呆れ、半ばゾッとしながら見やっていた。


「正確な情報を入手できても、使い手が馬鹿じゃ意味がねーっつう典型例だな。正直ひっかればめっけもんのつもりだったが……こうも見事に引っかかるとはね」


 セルゲイのパソコン画面には、衛星画像や動画が複数ウィンドウで展開している。もちろん、すべて偽の情報だ。


 手口としては、フィッシング詐欺と同様だ。

 通販サイトを装ったメールを標的に送りつけてクレジットカード情報を盗む、その応用である。


 ダミーの衛星画像や監視動画をメールで送りつけ、自動的にファイルを開くように設定しておく。

 使用者がちょっとでも目を離した隙に展開できれば、使用者が既に開いているであろうアプリやプログラムがダミーで覆い隠されて、使用者に本物と勘違いさせるというわけだ。


 無論、展開しているところを見られれば即座に気付かれるし、覆い隠すといっても×で閉じてしまえばそれまでだ。


 だが敵はまんまと騙された。現場兵士だったニコラスには分かる。これは引っかかってもおかしくあるまい。


「現場の兵士ってのは判断力の速さを問われる。いちいち送信されてくる画像や動画が偽物かどうかなんて確認しねー。まず内容に目がいくもんだ。

 画面のデザインが多少違おうと『なんか変更したんだな』ぐらいにしか思わねーし、メルアドのドットが一つ足らん程度のことなら余裕で見落とす。

 そもそも送られてきたのが、自前の偵察ソフト由来かメール由来かの区別もつかねー馬鹿もいる。だからこーいう簡単な手口に引っかかる。送信先が分かってりゃこっちのもんよ」


 ケケケと奇妙な忍び笑いをこぼすセルゲイは心底愉しそうだった。

 こういう嫌がらせがもともと好きなのだろう。つくづくこいつが敵でなくてよかった。本当に。


 その時、運転席に立っていた男が叫んだ。

 運転手役を買って出てくれた男で、このラッセル車の持ち主の極東ロシア人である。


 それを聞いてセルゲイが叫ぶ。


「突っ込むってよ」


「接敵するぞ、ハウンド。衝撃に備えろ」


 ニコラスは背負ったブッシュマスターACRのスリング位置を調整しながら、操縦席脇の手すりを掴んだ。

 ハウンドもまた、無言のまま手すりへ手を伸ばした。




 ***




 突き上げるような衝撃が車両全体に奔る。

 衝突されたのだとすぐに気付いた。


「っ、速度を上げさせろ。引き離す。陽動展開中の部隊も呼び戻せ、今すぐだ。それから地元警察を動員してグラッドストンに向かわせろ。ラッセル車の連中を確保させるんだ」


「ヌアザ様! たった今、報告でグラッドストン駅がロバーチ一家に占拠されたと……」


「なんだと?」


 これには流石のヌアザも耳を疑った。


 ロバーチ一家は本国ロシアの意向に逆らえない。この地に工作員を展開させるすべての国と密約を締結した今、一番動くはずのない組織であった。


 再び激震が奔る。


 転ばぬよう座席を掴んで耐えたヌアザは、低く呻いた。


「政府伝にロバーチ一家は我らに手を出さないと確約したはずだ。何が起こっている……!?」




 ***




「一体、何を考えておいでですか!?」


 ロシア連邦保安庁、通称FSBの対外政策担当職員ラリーサ・カリサヴィナは、目の前の大男に詰め寄った。


 密約とはいえ、本国とUSSAとの間に締結した制約だ。

 本邦が破るならまだしも、たかが一マフィアの独断専行などあり得ない。こんなことをして連邦政府クレムリンが黙っているはずがない。


「あまり期待はしていませんでしたが、もはやこれは契約違反です。相応の制裁を覚悟した上での行動ですか、ルスラン・ロバーチ」


「制裁? いつも低能な暗殺者を寄こしては碌な攻撃もできずに逃げ帰る、あれで制裁のつもりか。本邦はついに人材や技術だけでなく、常識すら枯渇したとみえる。次に枯渇するのは資源か」


 大男、ロバーチ一家当主のルスラン・ロバーチの視線は、未だに合わない。視界に捉えてすらいないのだ。対等な相手と見ていない証拠だった。


 だが女とてここで黙るわけにはいかない。


 この男は祖国の敵、根っからの叛逆者だ。見過ごせるはずがなかった。

 何よりしくじれば、すべての咎を背負わされるのは自分なのだ。


「これまでの制裁はあなたが言動を制限するための物です。ですが今回は違います。今回の独断専行は――」


「船舶保険会社の立ち上げを考えていてな」


「は?」


「現在、我が祖国は船舶保険の大半を外資系企業に頼っている。この先、我が祖国が西側からの姑息な制裁を受けた場合、その制裁に船舶保険に関するものが入っていたらどうなる? ロシア船舶のすべてを保険適用外とするとされたら? 資源輸出に頼る我が祖国は大打撃を受けるだろう。早急に国内の船舶保険会社を立ち上げる必要がある。ロシア人からなる、ロシア人のための保険会社だ」


 女は息をのんだ。この男がそれに気付いていることに驚いた。


 保険適用外とされた船舶を通常、港に入れてもらえない。何かしらの事故やトラブルを起こした際、補償するものが何もないからだ。


 船が港に入れなければ、輸出はできない。

 資源輸出で財を成す我が国にとって、痛恨の一撃となり得る弱点だった。


 それを今この場で、交渉材料として切ってくるとは――!


「その手の保険市場はイギリスが牛耳っています。ロシア主体の保険企業など、審査で通すはずが」


「通ったぞ」


「……はい?」


「審査なら通過済みだ。三時間ほど前、瀕死のイギリス工作員を保護してな。交渉を開始したのはそれからだが、一時間で返答してきたぞ。EUからの許可も下りた。あとは貴様らが許可するかどうかだな」


「っ、ですが、本件は国との確約です。そちらから身勝手に破っておきながら、新たな交渉を持ち込むなど、無神経にもほどが――」


「セルゲイ・ナズドラチェンコ」


 その名を聞いて、女は完全に硬直した。


 忘れもしない。我がFSBの名を失墜させた裏切者の名だ。

 どうしてそれが急に――まさか。


「貴様らの元同僚、セルゲイ・ナズドラチェンコが先ほどのラッセル車に乗っているそうだ」


「なっ……!?」


 女は思わずのけ反った。


「そんな話は一度もっ」


「聞かれなかったからな。そもそも貴様ら身内の不祥事など我らにはどうでもいいことだ。我が祖国は裏切者を決して許さない。その裏切者にまんまと出し抜かれた貴様らを、祖国は何と評価するだろうな」


 女は口を何度か無意味に開閉し、引き結んで歪めた。


「罪滅ぼしのつもりですか、ルスラン・ロバーチ」


 伏せられていた目がようやく上がった。柘榴色の双眸が初めてこちらを捉え、その得も言われぬ迫力に全身が総毛だつ。


 女は生唾を飲みこみ、だが敢えて挑発的な笑みを浮かべた。

 この男の経歴なら、嫌というほど頭に入っている。


「あなたには第二次チェチェン紛争の際、治安維持にあたっていた同僚並びに上官の殺人容疑がかかっています。代行屋ブラックドッグはチェチェン人ではなく、アフガニスタン人です。そのことをちゃんと理解しているのでしょうか。集団虐殺ジェノサイドに加担しておきながら、今さら人助けなど、虫がよすぎるのでは?」


 男が黙った。


 予想通りだ。この男の本質は、マフィアではなく兵士のままなのだ。ゆえに、こういう理屈が一番効く。


 女は内心悦に浸りながら、さらに口を開いた。が、男の方が早かった。


「貴様には確か娘がいたな」


「今度は私への脅迫ですか。そんなものに、私は」


「ならば問おう、貴様は娘を犯し、惨たらしく殺した侵略者を、たった一つの善行を行っただけで許すのか」


 女は今度こそ言葉を失った。完全に想定外の返答だった。


「もっとも、私が殺した男の娘は、とうにドゥブロフカの劇場で吹っ飛んだがな。――だが、そういうことだ。我らロバーチは罪滅ぼしも償いもしない。そんなもので我らは許されぬ。許されぬならば、一切ことごとく殺すまでだ」


 女は無意識に後ずさった。目の前に立っている男が理解できなかった。


「最初に『一体なにを考えているのか』と言ったな? 決まっているだろう、鏖殺だ。殺戮だ。我らは常に殺し甲斐のある強者を求め、彷徨うだけのけだものに過ぎん。

 ――こうなったのは貴様らの責任だぞ。貴様らが寄こす獲物が皆、弱くつまらん相手なのが悪いのだ。たかが数人の工作員の排除で、我らが満足すると思ったか? 

 もっと強い相手を寄こせ、より殺戮し甲斐のある相手を寄こせ。寄こせぬのならば、我らから探しにいくまでだ」


 女はもう震えることしかできなかった。


 この男が自分を殺すことに何も躊躇いを持っていないのは、理解していた。

 だが、国を敵に回す脅威すら考えぬ殺戮機構だと、誰が考えようか。


「敵はアメリカ合衆国随一の諜報機関、USSA暗部の実働部隊『トゥアハデ』だ。相手にとって不足なし。――出撃だ。殺しにいくぞ」


 男の一言で、手下どもが一斉に続いた。床にへたり込んだ女には、誰一人目もくれず。




 ***




「よかったのか」


「ああ? 何がよ」


「ロバーチ一家だ。状況的にお前、ネタに使われそうだが……」


「構うもんかよ。もともと互いの利害が一致したから組んだ契約だ。いらねーってんなら他を当たるまでだ。ところでよ、サイバー防衛専門のインストラクターに興味ねーか? 今ならなんと四割引きの格安で――」


「お前がうちの内部情報を切り売りしないって約束するならな。あと求人応募なら、隣か、27番地の商業組合をあたれ」


「チッ、使えねー番犬」


 露骨に舌打ちするセルゲイに、ニコラスが嘆息で答える。


 そんな様子をハウンドは、一瞥もせず手元の装備点検に集中していた。何かに没頭していないと、気が狂いそうだった。


 敵を殲滅する、今はそれだけを考えていればいい。少しでも他のことを考えたら、自分がばらばらになってしまう気がした。


 その時だった。目の前に、大きな手が差し伸べられた。


「ハウンド、これ」


 掌に乗っていたのは、孔雀石のループタイだった。

 そこでハウンドは、シバルバでの一件で、ニコラスと互いのループタイを交換したのを思い出した。


 思わず視線を左右交互に流す。


「ごめん。ニコのループタイ、落としちゃって」


「知ってる。もう拾った」


 そう言ってニコラスはこちらの襟を立たせると、ループタイの紐を緩めて自分の首にかけた。


「俺が持ってると、なんか落ち着かないんだ。もう目の色隠してないから、必要ないかもしれないが……」


 武骨な手がネクタイの留め具をそっと引き上げた。


 ハウンドは胸元に戻った深緑に目を落とす。



『あら、目の色隠しちゃったの? 残念、綺麗だったのに』



 ああ、そうだ。そう言って店長と一緒に選んでくれたんだっけ。着けてくれたのも彼女だ。


 弱いから要らぬと投げ捨てたはずだったのに、イーリスはそれを拾い上げてくれた。


「ううん。ありがと。こいつがないと、始まらないよね」


 ハウンドは口角を無理矢理つり上げた。


 なぜって? 常に胡散臭そうに笑っているのが黒妖犬(ブラックドッグ)だからだ。


「じゃ、ちょっと行ってくるね」


 そう言うなりハウンドは列車の外へ身を躍らせた。天井部に張り付いて、衝撃に備える。


 直後、ラッセル車が再び突貫する。


 衝突。轟音。

 盛大に火花が散り、先端を僅かにひしゃげさせて、ラッセル車が僅かに後退する。


 瞬間、ハウンドは跳んだ。


 後部を盛大に凹ませたコンテナの上で受身を取り、腰に括ったワイヤーをコンテナの扉の手すりにしっかり結び直す。


 十数秒後、二人の足音が降り立った。


「準備はOK?」


「ああ」


 助手の、――否、相方の力強い返答に、ハウンドは久々に心からの笑みを浮かべた。





















―――――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は12月1日(金)です。




本作は残り二節で完結(予定)となります。ここから先は作者の気力・体力が許す限り、完結まで突っ走ろうかと思います。


ということで、各節の合間に頂いていた3カ月の執筆期間を1週間に短縮し、そのまま次節を投稿していこうかと思います。

(仕事の関係上、年末年始が繁忙期なので、12月24日~1月8日まではお休みを頂きます)


具体的なスケジュールは以下のとおりです。


―――――――――――――――――――


2023年 12月22日  9節 投稿完了


2024年 1月12日 10節 投稿開始

    4月19日 10節 投稿完了


   (一週間 休刊)


    5月3日 最終章 投稿開始


―――――――――――――――――――


なお途中で体調を崩す、トラブルに見舞われるなど不測の事態が発生した場合は、前もって告知いたします。その時は本当にごめんなさい。


本作も、いよいよ完結となります。

非なろう系の処女作で、ここまで長らく応援してもらった作品は、そうないだろうと思っています。


改めて読者の皆様には、心より感謝申し上げます。あなた方のお陰でここまで走ることができました。


恐らく来年の夏あたりまで続くであろう本作ですが、最後のその瞬間まで楽しんでいっていただけたらと思います。

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