9-11

 どこかで、狼の遠吠えが聞こえた気がした。


「どうだ」


「……そもそも文字どこ?」


「空の方だ。ほら、ここの雲の切れ間」


 ニコラスが指差すと、ハウンドは鼻面にしわを寄せ、絵本に顔がくっつくほど近づけた。


「駄目だ。見えん」


「見えないか」


「そういやお前、色盲だったな。すっかり忘れてたわ」


 セルゲイの発言に、ハウンドは不服そうに口元を捻じ曲げた。


 全色盲の彼女が認識できる色は基本、白と黒だけだ。細かい色の判別は色の濃淡で判断するしかない。

 ゆえに濃淡が近しい色だと、見分けがつかなくなってしまう。


 絵本の炙り出しで浮かび上がる色はセピア、つまりは薄茶だ。それが青空のような空色などの色の中に書かれると、彼女には見えない。


 新たに発覚したこの事態に、ニコラスは少なからず動揺していた。


――どういうことだ? この絵本は、ハウンドに危機が迫っていることを警告するものじゃないのか……?


 最初はたまたまかと思って、ハウンドに全ページを確認してもらった。


 しかし、ハウンドには


「なあハウンド、コールマン軍曹ってお前の目のこと知ってたんだよな?」


「もちろん。でなきゃ作戦行動に支障が出るだろ」


 それもそうだ。


 となると、ラルフ・コールマンはことになる。


「んじゃお前、本当に何も知らないのか? アーサー・フォレスターのことも?」


 腕と胡坐を組んだセルゲイが身を乗り出す。ハウンドは唇を尖らせた。


「私が知ってるのは最後のページの“座標”と、この二文だけだよ。『この物語をカーフィラに捧ぐ』ってのと、『大いなる悪戯を、ここに』ってやつ。フォレスターも先住民の言葉も何も知らないよ。だって見えないんだもん」


「待った。今、座標って言ったか? この数字群が?」


 ニコラスは絵本を再び暖炉の火にかざして、文字を浮かび上がらせた。

 最後のページの『この物語をカーフィラに捧ぐ』という一文の上に刻まれた数字群だ。



 2,5 3,1,18,5,6,21,12 20,8,5 4,15,21,2,12,5 8,5,1,4 19,20,1,7



 これをアルファベット変換すると、【双頭の雄鹿に気を付けろ】という一文になるのだが――。


「ああ、うん。アルファベットに変換すると確かにそうなるんだけど、座標にもなるんだよ。ラルフたちが使ってた地図での座標だから、通常の地図座標とは異なるけど」


「覚えてるのか」


「何度も見たからね。ニコほどの記憶力はないけど、位置が位置だったから、頭に残ってさ」


「どこだったんだ?」


「私の家」


「お前の家ぇ?」


 セルゲイが素っ頓狂な声を上げた。

 不可解さが増して、困惑しながらもニコラスは尋ねた。


「お前の家っていうと、お前の育ての親の、カーフィラと一緒に暮らした家か」


「正確にはカーフィラの持ち家の一つだけどね。カーフィラ、本名ゴルグ・サナイはアフガニスタン中にあの手の隠れ家をたくさん持ってた。そのうち、私たちが一番長く過ごした家がそこで、座標はそこを示してた。何故かは分かんないけど……つか、なんで合衆国安全保障局USSA長官の名前が出てくんのよ。この絵本にそれが書いてるとでも?」


「そのまさかだよ。アーサー・フォレスターが『双頭の雄鹿』の親玉だ」


 セルゲイの返答にハウンドは「マジで?」と目と口を見開いた。耳を疑うように顔をしかめるその様に、演技の色はない。素で驚いている。


 ニコラスは腕を組んで小さく唸った。


――謎が振り出しに戻っちまった。となると、やっぱ『大いなる悪戯をここに』ってのが鍵なのか……?


 一方のハウンドはというと、眼球に絵本の紙がくっつくんじゃないかという距離まで目を近づけて、ぐぬぬと唸り始めた。

 自分だけ読めないのが納得いかないらしい。


 見かねて「俺が読み上げようか」と声をかけるも、ハウンドは首を振った。


「それは駄目。ラルフに『読むときは一人で読みなさい』って言われたから」


「んだよ、その謎のこだわり……」


「約束は約束だもん」


 セルゲイが呆れる中、ハウンドはまたも真剣な表情で絵本との睨めっこを始めた。

 対してニコラスは今の言葉を反芻する。


――『読むときは一人で読みなさい』、か。


 色の識別ができないハウンドには、先住民の言葉は読めない。

 先住民の言葉が読めなければ、絵本の謎も告発文、【リーダーはアーサー・フォレスター】という一文も【証人はブラックドッグ】という一文も読めない。


 つまり、この絵本の告発は、ハウンドではないに向けられたものということになる。


――だが何のために……?


 その時だった。


 山小屋の扉を、激しく引っ掻く音がした。ガリガリと、なにかが木の板を爪で引っ掻いている。


 ニコラスは瞬時にブッシュマスターACRの初弾を装填した。セルゲイもまた自前のAK101自動小銃を構えた。


「熊か?」


「いや、音が軽すぎる。これは」


 ハウンドがスンスンと匂いを嗅ぐ。直後、顔をしかめて扉にそっと近づく。


「おい、ハウンド」


「いや、このニオイ……」


 ハウンドは扉に鼻を近づけた。

 途端、扉を引っ掻く音がさらに強まった。吼え声まで混じり始めた。


 そこでニコラスはピンときた。


「もしかして、『盲目の狼ブラインド・ウルフ』のお伴か?」


 ニコラスは銃を下ろし、近寄って扉を開けた。

 瞬間、大きな影がハウンドめがけて飛びかかった。ハウンドが短い悲鳴を上げた。


 セルゲイが「うおっ」と驚いて、銃口を向ける。それをニコラスが手で押し下げて。


「落ち着け。ただの挨拶だ。ほら」


 指差した先では、大きな銀灰色の狼がハウンドの顔を舐め回していた。

 驚いたハウンドはあたふたと両手を振り回しているが、なにぶん小柄なのと狼の熱烈アピールで抜け出せないようだ。


 呆気に取られているセルゲイに、ニコラスは説明した。


「コールマン軍曹の遺族で、『盲目の狼』のお伴だ。ここに来るまで、俺の案内をしてくれてたんだ。お伴がここにいるってことは――」


 玄関の外を覗いて、ああ、やっぱりとニコラスは肩を撫で下ろす。


「『盲目の狼』、こちらまで来てくださったんですか」


 雪に沈む宵闇の木立に立ち尽くす老婆に、ニコラスは駆け寄った。


 高齢ゆえか、通信機器の類を一切持っていない彼女に、こちらの状況をどう伝えるか考えあぐねていたところだ。

 雪山野宿には慣れているといったが、流石の彼女でもこの寒さは堪えたのかもしれない。


「ハウンドとは無事に合流できました。ひとまず、中へ――」


「『荒れ野を往く犬ローミング・ワイルドドッグ』、悪いが今すぐ支度をしておくれ。イーリスに危険が迫っている」


 その静かな、硬直した声音に、ニコラスは息をのんだ。

 どういうことだ、と尋ねようとした時、背後から声がかかった。ハウンドだ。


「ちょっと待って。イーリスがここに来てるのか? また病院から抜け出してきたのか?」


 『盲目の狼』は伏せた目元を僅かに寄せて、ハウンドの方を向いた。


「この声は……もしかして、お前さんがあの子狼かい?」


 ハウンドはしまったとばかりに口をつぐんだ。

 その様子を感じ取ったのか、盲目の老婆は何度も頷いた。


「ああ、そうか、そうかい。お前さんが……。――お前さんとイーリスが何を約束していたのかは知らないが、わたしらがあの隠れ家に辿り着いた時、イーリスはもう隠れ家で私らを待っていたよ。それからはわたしと一緒に行動していた。今も、あの山の向こうの麓で、お前さんたちの帰りをずうっと待っている」


「一緒に行動してた……? じゃあ別れてから一度も病院に戻ってないのか」


 ハウンドは真っ青になった。そして次の瞬間、山小屋から飛び出した。


「おいハウンド!」


「スノーモービルが二機ある、私らが使ってたのだ!」


 そう言い捨てて裏手に回っていく。

 ニコラスは取りあえず「どういうことですか」と老婆に迫った。


『盲目の狼』は深刻な表情と声音で、囁くように答えた。


「イーリスとはお互い、万が一の時は狼の声でやり取りするようにしていたんだ。通信機では傍受の危険性があったからね。狼の声なら、雪山で響いても怪しまれることはない。長い遠吠えを三回、それが緊急事態の合図だ。――さっき、この子が遠吠えに応えた。長い遠吠えを三回だ」


 ニコラスは自身の顔から血の気が引いたのが分かった。


「イーリスに何かあったんだ。急いで支度をしておくれ。今すぐ戻らなければ」




 ***




 深夜の雪中登山など、まともな人間ならまずしない。雪崩、方向感覚の喪失、野生動物との遭遇、低体温症、数え上げればきりがない。


 だが人間離れした強力な助っ人がいるなら話は別だ。


「こっちは駄目だ。音がする。向こうを登ろう」


 セルゲイの後部に座った『盲目の狼』が叫ぶ。


 それに応じてお伴の狼が先行し、雪面を飛び跳ねるように駆け出した。熊や狼などの野生動物がいれば、彼が率先して吠え牽制する。

 とても頼もしい先導役だった。


 雪崩が発生したのは、ニコラスたちが別の斜面を登り始めた直後だった。


「もう少しで稜線のはずだ。辛抱だよ」


 『盲目の狼』たちの案内で、幾度となく回り道を強いられながらも、ニコラスたちは猛スピードで山を登っていった。


「いたぜ。熱探知を回すまでもねーな」


 稜線に辿り着き、スノーモービルをドリフト停止させて、セルゲイが眼下を指差した。


 光が見えた。ゆうに十は越えている。


 ハウンドの肩越しに、狙撃用スコープを単眼鏡がわりに覗き込めば、二人乗りからなるスノーモービルが、群れを成して森を進んでいる。

 統一された武装に充実した装備から、その正体は言うまでもない。


『双頭の雄鹿』暗部実働部隊『トゥアハデ』は、山の麓の農場めがけて侵攻していた。イーリスが潜伏中の農場だ。


「急ごう。私らの方がまだ近い。急げば間に合う」


 ハウンドはそう叫ぶなり、スノーモービルを斜面へ向けた。




 ***




 農場畜舎の扉を押し開けるなり、鼻を鳴らしたハウンドの顔色が変わった。


「イーリス!」


 半ば悲鳴に近い悲痛な声で、ハウンドが光めがけて走った。


 裸電球が照らされる中、イーリスは出立前と同じくそこに座りこんで、カップ&ソーサーで何かを飲んでいた。

 几帳面に結い上げられていた髪は、なぜか乱雑に下ろされていた。


 ニコラスたちも急いで彼女の元へ駆け寄った。

 そしてハウンドの悲鳴の訳を理解した。


 髪で隠れていて分かりづらいが、イーリスの顔は驚くほど浮腫んでいた。

 元のほっそりした面立ちが想像できぬほどで、指はカップの持ち手に通らないほどパンパンに膨れ上がり、指先は紫色に変色していた。

 呼吸はヒューヒューと浅くか細く、今にも止まりそうだった。


 あまりの短期間での急変ぶりに、ニコラスは呆然と立ち尽くした。


「なんで病院に戻ってないんです……!? 薬は!? ニコ、急いでお湯を沸かしてくれ。早く温めないと――」


「ここまできたら、もう飲んだって、変わらないのよ。それに、あなたを置いて、いけるわけないでしょう……」


 イーリスは震える両腕で、ハウンドを抱きしめた。その腕の動きだけで、もう満足に動かすこともできないのだと嫌でも察してしまった。


 イーリスは、抱きしめたハウンドに顔を摺り寄せた。


「ああ、無事でよかった。おかえりなさい、ハウンド」


 その声が、すべてを表していた。


 ハウンドがびくりと肩を跳ね上げて動きを止める。お伴の狼が悲しげに鼻を鳴らした。


「突発性拡張型心筋症」


 ポツリと呟いたセルゲイに、ニコラスは思わず振り返った。


「指定難病の一つだ。心筋が弱まる疾患で、遺伝が一つの要因とされるが、根本的な原因はまだ分かってない。心臓移植以外に治療法もない。呼吸促拍と全身の浮腫みからして、急性症状が再発したってとこか」


「よく、調べているわね。さすが元FSB、と言った、ところかしら」


 息も絶え絶えにイーリスが立ち上がろうとするが、できない。その場にへたり込んでしまう彼女に、ハウンドが慌てて支える。


「ドナーの用意ならもう整えてあります。ニコ、今すぐ搬送しよう。病院はここから遠いが、ヘリを呼べばなんとか――」


「ウェッブ軍曹、何をすべきか、分かっているわよね?」


 ハウンドの言葉を遮って、イーリスがこちらを見据えた。

 今にも途絶えてしまいそうな呼吸なのに、血走った目が逃さぬとばかりにこちらを捉えた。


「皆を連れてここを離れなさい。敵が迫っているのは、あなたたちも分かっているでしょう。ここまで肉薄されたら、足止めが必要よ」


「駄目だ!」


 ニコラスが答えるより早く、ハウンドが叫んだ。


「絶対に連れていく。イーリス、今すぐ薬飲んで。少しでも症状を抑える。必ず病院に連れていく」


「……『トゥアハデ』の狙いは第一にあなた、それから私と遺族よ。そして『トゥアハデ』は遺族を捕らえた」


 イーリスがソーセージのように膨れ上がった指で、近くのノートパソコンを指差した。

 そこにあった動画をセルゲイが再生する。


 動画では、ケータ、アレサ、ベネデットの三人が後ろ手に縛られた状態で跪き、パメラとマルグレーテが強張った顔で、三人の頭部に銃口を向けていた。


「27番地宛てに送りつけてきたわ。パメラとマルグレーテは、敵に言い包められたのかもしれないわね。どの道、敵は、あなたを捕えるために、なりふり構わなくなっている。次はたぶん、私」


 イーリスが軽く咳き込んだ。直後、カヒュッと音を立てて、後ろに倒れかかった。


「横にするな、座らせろ! そっちの方が呼吸しやすい!」


 ハウンドにそう言われてニコラスは慌ててイーリスを支えた。


 その隙にハウンドがイーリスの荷物をひっくり返し、錠剤をいくつか取り出すと、銃床で砕いた。カップの湯で溶き、イーリスに飲ませる。


 ちびりちびりと湯を飲んでいくイーリスの背を、ハウンドが泣きそうな顔でさすっていた。

 ニコラスもまたイーリスの肩を抱え、彼女の症状が落ち着くのを見守るしかなかった。


 その肩を支えていた手に、イーリスが手を重ねた。乗せただけだったが、必死に掴もうとしているのが分かった。


「連中は、この子を捕えるためなら、何でもするわ。かつてコールマン軍曹たちを、拷問したようにね。私もきっと、餌にされる。させるものですか」


 手を通じて震えが伝わってくる。それは怒りからくる震えだった。

 燃え盛る薄紫の双眸で、イーリスはニコラスの手の甲に、僅かに爪を立てた。


「行きなさい、ニコラス。皆を連れて。あとのことは私にやらせてちょうだい。返してやりたい借りが、山ほどあるのよ」


「駄目だ! 置いていくもんか、あなたも一緒に行くんだ!」


 割り込んだハウンドがイーリスの手を掴んだ。

 イーリスはちょっと困った顔をして、赤子をあやすような目でハウンドを見た。


「ハウンド、お願いだから、言うことを聞いてちょうだい」


「嫌だッ!」


 とうとうハウンドは泣き出してしまった。

 相変わらず下手くそな嗚咽で、何度も頭を振って。


「人に好き勝手背負わせといて、また生きろっていうのかよ。また見送れっていうのかよ、そうやって誰も彼も、私のこと置いていくんじゃないか……!」


 ボロボロと涙を落とすハウンドを見て、イーリスは酷く驚いた様だった。しかし、すぐにふっと笑って。


「ああ、泣けるようになったのね」


 イーリスは泣きじゃくるハウンドを抱きしめた。慈愛に満ちた眼差しで、彼女の髪を何度も撫でた。


「私の、コートを……」


 震える指がコートのファスナーを探した。もう上手く動かせないのだろう。


 ニコラスはコートのファスナーに手をかけ、一気に引き下ろした。そして息をのんだ。


 イーリスの腹部、ズボンに挟まるようにして、二冊の手帳があった。


「あなたの養父、ゴルグ・サナイ氏の遺品と、その身代わりダミーに使われた、シンジ・ムラカミの手記よ。これを、あなたに」


 差し出されたそれを、ハウンドが震える手で受け取った。その手にも雫がぽたぽたと落ちていく。


「あなたは、コールマン軍曹の教えを本当に忠実に守ったわ。『大いなる悪戯を、ここに』。あの絵本はね、あなたが本当に信頼する誰かに託すことですべて始まるの」


 その瞬間、ニコラスは理解した。


 だからあの絵本は、ハウンドではなく第三者に読めるようにしてあったのだ。

 あの絵本は――。


「今度は、あなたの番」


 イーリスは、ハウンドに手帳を預けると、今度はこちらに手を差し出した。

 その手を、ニコラスはしっかりと握った。


「ウェッブ軍曹。この子をお願いね」


「――はい」


 イーリスが手を離した。


 その手に縋ろうとするハウンドを、ニコラスが背後から抱き留めて止め、手を引いて畜舎を飛び出した。

 それが自分の役目だと分かっていた。


 ハウンドは逆らわなかった。

 彼女だって分かっていたのだ。イーリスがもう長くないことも、足止め役が必要なのも。


 それでも彼女は、ただただ泣いていた。




 ***




 ウェッブ軍曹のことを最初に聞いた時、夫にそっくりだと思った。


 まだ教授ではなく、博士号を取ったばかりの苦学生でカフェでバイトをしていた頃の、若い頃の彼に。


 口下手で皮肉屋で自嘲癖があって、人と付き合うのが苦手で意外と気が弱いところがあって、そのくせ一度決めたことは絶対に譲らないほど頑固で。

 家事も裁縫も菓子作りも一級品なのに、なぜか料理だけは下手で。


『ええっ、私が入院してから、一度もパイ包み焼きもフリカッセも出してないの? あなたいつまで昔のこと引きずってるのよ。もう料理だってあなたの方が上手いじゃない』


『君こそ忘れるなんて酷いじゃないか。結婚する時にも言っただろう、君以上に美味しいものが作れる気がしなかったんだよ。だから作らなかっただけさ』


『ああ、あの物凄く分かりにくかったプロポーズね。お陰で一年も損したわ。結婚してればタダであなたのお菓子を食べれたのに』


『君のように、初対面の相手に面と向かって、料理が不味い、私が作った方が美味いと伝えるだけのストレートさを発揮できなかっただけさ』


『またそういう言い方をして……』


『だがこれでおあいこだろう?』


 人を言い負かすと、殴りたくなるような得意げな笑みを浮かべる人だった。


 歳を食って、教授になり生徒を持つようになって、多少その悪癖も鳴りを潜めたが。


――久々に見たわね、あの腹立つ顔。


 もう自分に殴るほどの体力は残っていない。

 だが真っ先に思い出すのがあれなのだから、惚れた弱みというやつは、つくづく度し難い。


 霞む視界で、走り去っていく二人の背が消えていく。

 その消えた先の闇を、イーリスはしばらく見続けていた。


「あなたたちへの謝罪も、ずいぶん後回しになってしまいましたね、『盲目の狼』」


 イーリスは自分より遥かに、たおやかに穏やかに歳を重ねた老婆を見上げた。

 瞠目したまま、老婆はずっと微笑んでいた。


「パメラとマルグレーテに、本当にすまなかったと」


「ああ」


「奪った挙句、お願いまでしてしまって、ごめんなさい」


「なぁに、構わないさ。どんなに惨たらしい残酷な最後であろうと、息子があんたを恨むものか。あの子はそういう子さ」


 それは母としての、圧倒的な自負だった。


 あまりに堂々たる返答に、イーリスは何度も目を瞬いた。その尊さが、自分との器の違いが、ただただ眩しくて佇むしかなかった。


「あなたは、よかったの? ・ナズドラチェンコ」


 首を向けられず視線だけを投げれば、青年はさして驚いたふうでもなく、へえ、とかいた胡坐の上で頬杖をついた。


「よく調べたな。俺ちゃんの本名だ」


「ふふふ、これでも、記者の端くれだもの」


 ウクライナに拠点を置く、ロシア独裁に反旗を翻した政治団体『未来党』、その党首の親友だった男。

 すでにメンバーの大半が投獄され、処刑され、組織も完全解体された今。未来党の名残といえるものは、この青年の名前だけだ。


「どれだけ堕ちようと、あなたは亡き朋が送った名を捨てなかった。だから一発で分かったわ」


「そーかい」


「ふふ。あの子は似てる? あなたの親友に」


「冗談じゃねーよ。あんなのがもう一人いて堪るか」


 青年はそう吐き捨てて、柱から背を離した。


「俺ちゃんはただ、あの泣き虫じゃじゃ馬のご機嫌取りやってるだけだ。あれが協力してくんねーと、ガチでやり合う羽目になるんだよ、番犬付きでな。面倒はごめんだぜ」


 そう言って、畜舎の外へと向かっていった。『盲目の狼』とお伴の狼もまた、青年に続いた。


 畜舎には、イーリスとノートパソコンだけが残された。


 けれどイーリスは、ここにはいない、もう一人の人物に向かって話しかけていた。


「あなたは逆に、最後まで“犬”を名乗っては、くれなかったわね」


 数秒の沈黙の後、返答が返ってきた。

 下ろした髪の下に隠していた、イヤホンを通じて。


 ニコラスたちは、イーリスの症状を気にかけるあまり、彼女が隠していたイヤホンにも首元のマイクにも気付かなかったのだ。


 聞こえてきた声は、酷くくぐもっていて低かった。


『“犬”を名乗るのは仲間の証だそうだからね。僕は仲間じゃない。彼らの遺体も還せないような無能は、日陰者の鼠風情がちょうどいい』


「……そう」


『いくのかい、『パピヨン』』


 それは、どこか途方に暮れたような声だった。咎めるような、拗ねたような。


 イーリスは少しだけ苦く微笑んだ。


「ええ、私の役目はここまで。あとは、『シバ』と、あなたたちに託すわ。それと、彼にも。――に、言っておいて。自慢するだけの、ことはあったって」


『……伝えておこう』


 それを聞いて、イーリスはようやっと全身の力を抜いた。


 これですべての役目を果たした。


 あとは手首に装着した、これを操作するだけ。ここから先は、私怨のための戦いだ。


『なら、僕からは最後にこれを』


 途端、地面に置かれたノートパソコンの画面が切り替わった。音声通話ソフトが起動し、勝手に電話をかけ始める。


「……あなた、酷い人ってよく言われない?」


『自覚はあるさ。けど、今の僕にできる感謝はこれぐらいしかなくてね』


 いけしゃあしゃあに語った彼だったが、最後にはっきりとした声で告げた。


『イーリス・レッドウォール、あなたのすべてを賭した協力に心からの感謝を。どうか、良い旅を』


「ええ。さようなら」


 通話が切れた。代わりに、ノートパソコンの呼び出し音が鳴り続ける。


 イーリスは手首の起爆装置を撫でた。


 通話が繋がるのを、今か今かと待ち続けた。


『――……イーリス? 君かい?』


 ああ、とイーリスは声を漏らした。


 今、一番会いたかった、愛しい人の声だった。


『イーリス、今どこに――』


「ライオール、あの子がね、やっと泣いたのよ。置いていかないで、って」


 通話の向こうで、息をのむ音がした気がした。

 それから訪れた沈黙に、耳を澄ます。


 古い携帯ラジオから流れるジャズの音。色んな言語と、色んなトーンの声が目まぐるしく飛び交う、落ち着いた雰囲気には程遠い、人々の息づかい。


 カフェ『BROWNIE』の音。


 互いの仕事に駆けずり回り、最後の最後にようやく得た、二人で一緒に築き上げた居場所だった。


 やがて、「そうかい」と絞り出すような、震え声がした。


『君が、置いていくんだね』


「ええ」


『それが、君のけじめなんだね』


「ええ。ごめんなさい」


『……いいさ。君の猪突猛進ぶりは、今に始まったことではないからね』


「最後でも、皮肉を言うのね」


『僕らしいだろう?』


「ええ、本当に」


 ああ、もう声も出すのも億劫だ。それを酷く残念に思いながら、イーリスは最後の力を振り絞った。


「ねえ、私の家憑き妖精ブラウニーさん」


 イーリスは囁くように語りかけた。


「あの子たちが帰る家を、守ってあげてね」


 返答は、すぐだった。


「もちろんだとも、僕のお嬢さん。先に行って、待っていておくれ」


 瞬間、通話が途切れた。


 ノートパソコンの中央に穿たれた穴から、蜘蛛の巣のようなひび割れが広がっている。


 直後、通話を強制遮断した不埒者が、畜舎になだれ込んできた。


「イーリス・レッドウォールだな?」


 やけにもったいぶった、嫌味な喋り方をする男だった。

 顔のそっくりな大男を二人連れていて、ぞっとするほど冷ややかな目をしていた。


 こちらが答えるより早く、男は右手を掲げた。

 返答は捕縛してからでいいという判断なのだろう。せっかちな男だ。


 イーリスは、心の底から微笑んだ。


 この時を待っていた。




 ***




 ヌアザは、部下が女に殺到するのを、無感動に眺めていた。


 生かしての人質は期待していなかった。この女はもう長くない。せいぜい惨たらしく殺して、27番地あたりに送りつけてやればいい。


 獲物が怒り狂えば狂うほど、冷静さは失われ、捕らえやすくなるのだから。


 ヌアザは女を見た。その俯いた口角がつり上がっているのを目にした、転瞬。


 業火が目を焼いた。


 ヌアザは部下もろとも吹き飛ばされた。

 轟音のあまり音が消え、迫る炎が身を包んで、瞬時に外へ押し出す。


「んのあま……っ!」


 雪の上を転がったヌアザは歯ぎしりした。


 すぐに周囲を見渡すが、被害はさほど大きくない。

 せいぜい一番近くにいた数名が重度の火傷を負っただけ。それ以外は爆風にやられただけで、ほぼ無傷だった。


 だが女は――。


 ヌアザは畜舎を振り返る。


 隙間という隙間から炎が噴き出している。屋根の一部が飛んで、火だるまになって落ちていく。

 柱が燃え落ちて、屋根が崩れるのも時間の問題だろう。


 あまりに火の勢いが強すぎて、女の姿は影も形もなかった。


「骸も渡さぬ、か」


「見事」


 背後で、全身の煤を払いながら、何食わぬ顔で双子が呟く。


 それに酷く苛立ちながら、ヌアザは撤退を指揮した。

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