第8節 其は我が命なればこそ、其は我と同じ人なり

プロローグ

〈2003年1月17日 午後4時58分 イラク南部ナシリア近郊 アメリカ軍タリル航空基地〉


 その晩も、オズワルド・バートンは夜道を歩いていた。


 道といっても、一面コンクリートで覆われた滑走路のコンクリートが途切れた、茶色に干上がった大地で人の足跡で地固めされた一線を“道”としているだけで、実質獣道と大差ない。

 縁石もガードレールもない、ただ平坦な地をただ黙々と一直線に歩いているに過ぎない。


 歩くたびに灰をやられそうな微小の砂埃が舞い上がる。おまけに砂漠特有の夜間の冷え込みと、障害物がないゆえの突風でかなり寒い。スカーフと着込みが欠かせない夜の散歩だ。


 ゆえにこの基地に駐屯してから数ヶ月、このややリスキーな散歩に興じている酔狂者は、今のところ自分一人だ。


――……いや。あの晩だけは違ったな。


 バートンはスカーフを引き上げ、赤くなっているであろう鼻先を包んだ。


 あの奇妙で馬鹿げた、けれど温かいクリスマスの一幕から、3週間以上が経った。


 イラク戦争前夜ともいえるこの待期期間を、バートンたちはある種の緊張感をもってじっと待ち構えている。


 バートンはイラクに大量破壊兵器があるという中央情報局CIAの情報を疑っていない。


 ただ一つ懸念があるとすれば、CIAの発表が、合衆国安全保障局USSAが既存諜報機関である米国家安全保障局NSAと統合運用されると発表された、その翌日に行われたことだった。


 CIAの懸念は理解できる。

 新設された諜報機関USSAは、国防総省内での発言権を巡って国防情報局DIA(軍事専門の情報機関)と争ったばかりだ。

 

 CIAは焦っている。国防総省内で陸海空軍が持つ各諜報機関と、DIAと席次が同等だったUSSAが、今やそれらすべてを飲み込んだ統合組織として省内で独立しつつある。

 同じ独立機関のCIAが危機感を抱くのは自明だった。


 USSA対テロ戦争の機運が増し、より利便性と情報伝達速度を高めるため分かたれていた組織を統合運用するという考えは分かるが、いささかやりすぎだ。権力集中の度合いが日に日に増している。

 軍上層部の彼らへの不快感も増す一方だ。


 そこに今回のCIAの発表だ。元よりCIAはご同類のUSSAを面白く思っていない。


――功を焦った、などということがなければよいが……。


 そう思った矢先。


「――だからこれ以上は無理だといってるだろ。何度も言わせないでくれ」


 極力抑えられた声量だったが、端々に滲む苛立ちは隠せていない。

 

 バートンは足を止めた。主に二つの理由で。


 一つは場所。この格納庫は、教え子の分隊が待機中の簡易宿舎だ。

 二つは声。驚いたことに、その声の主もバートンの知り合いだった。


 バートンは足先を格納庫へ向けた。


「――……対象の年齢を考慮し、任務ごとに局員による簡易的な査閲を受ける。代わりに部隊内の運用方法はこちらに一任する。それがアンタらが提示した条件だ。俺たちは条件通りにやってるぜ?」


「それはこちらも承知している。僕が言ってるのは、君がを外しかかっていることについてだ」


「外して何が悪い。その方がの能力をより引き出せる。ひいては俺の部隊の生存率も上がる。上官からの許可を受けたうえでの判断だ。あの子はアンタらが思ってるよりずっと賢いぜ」


 意図せず盗み聞きすることになってしまったバートンは、その会話の内容に顔をしかめた。


 心当たりがあった。つい先日のクリスマスの出来事だ。


 意を決して、バートンは格納庫の手動扉を掌で叩いた。


 瞬間。ひりついた静寂が満ちる。黙ったままだと撃たれかねない緊迫感だったので、バートンは早急に「バートン大尉だ」と種明かしした。


「コールマンはいるか。先日の報告書について、お前の意見が聞きたい」


「いますよ。そのまま入ってきてください。今ちょっと動けないんで」


 動けない? 


 教え子の返答に訝しみながら扉を開け踏み込んで、すぐに納得した。


「……もうちょっと声を押さえたらどうだ。起きてしまうぞ」


「俺もそう言ったんすけどね~」


 ほらなと言わんばかりに肩眉を吊り上げた銀髪の青年――ラルフ・コールマンはがたいに似合わず剽軽に肩をすくめると、腕の中を覗き込んだ。


 少女が眠っていた。


 柔らかそうな黒髪に隠れる、長い睫毛。この地の人間にしては肌が白く、その青白さは生来のものというより、日に当たることを極端に避けたかのような白磁だ。

 細い手足に似合わぬ軍服をまとい袖をまくって、少女はラルフの腕の中ですよすよと寝息を立てている。


 ハウンド、だったか。コールマンを含むチームはそう呼んでいた。


 頬を緩めて愛おしげに少女の髪を撫でる教え子を、溜息を堪えながら見やる。

 そこに、剣呑な声を背にぶつけられた。


「バートン大尉、現時点あなたが当たっている任務でデルタフォースに関与するものはないはずですが」


「旧友に対して随分な挨拶じゃないか」


「今は仕事中だ」


「そうか。なら応えよう。隊を上げて直接関与することはない、というだけの話だ。隊員個人への調査は随時行っている。間が悪いのなら日を改める」


「……君、この子を知ってるな?」


 確認として発せられた言葉は、舌打ちで締めくくられた。


 ツィリル・ボドラーク。

 元陸軍所属。バートンの旧友にして同期であり、27歳で退役してからCIAで活躍するベテラン局員だ。

 ちなみにバートンとのプライベートでやり取りする際の呼称コードネームは『クルテク』だ。メールでも通話でもそう呼ぶのが彼との約束だ。


 旧友は組んだ腕の上で指を小刻みに叩いて見るからに苛立っている。


――また変わったな。


 バートンは嘆息を飲み込んだ。


 前にあった時は、いかにもエンジニア上がりのオタク気質な早口で喋る男だった。その前は、元ビジネスマンという肩書が似合う自信に満ちた笑顔の絶えぬ男だった。二人きりの時になると、陽気というより間延びした雰囲気のどこかとぼけた男になる。


 職業上、仕方のないこととはいえ、バートンにはどれが本当のクルテクが分からずにいた。


 ジャンパーの縫い目に入りこんだ砂塵を爪先でこそぎ落としながら、『神経質な男』を演じるクルテクは、流暢なイギリス英語で忌々しげにまくし立てる。


「問題ないよ。彼女には常に睡眠導入剤を服用させてる。ちょっとやそっとじゃ起きないさ」


「そんなものを飲ませているのか」


「父親が焼け死ぬ様を目の当たりにしているからね。やむを得ない処置だ」


 バートンは目を戻した。


 少女を抱くラルフはもう笑っていなかった。真顔で膝に頬杖をつき、じっとこちらを窺っている。


 訓練生時代つぶさに観察していたバートンは知っている。この状態の彼は、酷く腹を立てている時の態度だ。

 あたかも狼がじっと身構え、獲物に飛びかかるタイミングを見計らっている時の沈黙だ。少しでも動けば、瞬時に喰らいつく。

 

 そんな彼に、クルテクも勘付いたのだろう。こちらを見て「外で話そう」と指差した。


「言っとくが、彼女の管轄はうちじゃない。のものだ。僕らと違って、彼らは君の話なんて聞かないよ」


「んぐらい知ってるさ。こちとら散々突かれてるんでね」


「……言うことは言ったからね」


 そう言って、クルテクはさっさと踵を返して外へ出てしまった。残されたバートンは、しばし迷った後、振り返って声のトーンを落とした。


「事情が分からん以上、あまり口出しすべきじゃないんだろうが……私も彼に賛成だ。あまり深く関わるべきではない。アメリカ人ではない以上、その子の扱いは決してお前とは同等にならん。いずれ苦しい別れをする羽目になるぞ」


「分かってますよ。ただこっちも事情が事情でして。この子には、何がなんでも自我を持ってもらわないと困るんすよ」


「それが任務のためだと?」


「もっと言えば、この子の“善意に基づく決断”を育てる必要があるんです。我が国の正義のために」


 朗らかな笑顔にそぐわぬ辛辣な発言に、思わず息をのむ。


 前々から、本質を見抜くことに長けた男であることは報告で聞いていた。だが見聞きするのと、実際に目の当たりにするのでは話が違う。


 驚いた。真夏の蒼穹が似合う晴天の男が、一瞬でこうも陰りを見せるものなのか。

 それとも、清も濁もすべて飲み込む底知れぬ青さゆえか。


「詳細は話せませんが、俺たちはとあるものを探してましてね。それこそ国がひっくり返るほどのとんでもない代物なんですが、その鍵がこの子なんすよ。この子が俺たちに心を開いて協力してくれないと、俺たちはこの戦争に負ける」


「……どちらにだ? アフガニスタンか、イラクか」


「両方っすね。少なくとも米軍はアフガンからの即時撤退を余儀なくされるでしょう。下手すりゃ半世紀近くは中東から出禁かな。そして強引に居座れば、間違いなく国際的な立場を完全に失う。国力がありますから常任理事国の剥奪とか国連追放とかはないでしょうけど、弱体化した瞬間に間違いなく同盟国に掌返されますね。どっちにせよ碌なことにならないっすよ」


「ロシア中国あたりが諸手挙げて囃し立てるのが目に浮かびます」とけらけら笑う教え子に、バートンは相槌すら返せなかった。


 にわかには信じがたい。

 これが他の人間であれば、間違いなく一笑に付している。むしろ、重大な機密漏洩を犯したことを咎めただろう。


 けれど、発言者がラルフ・コールマンであったことが問題だった。


 特殊部隊員向けの度重なる狙撃課程訓練、それに付随する尋問訓練等を通して、ラルフの人物像は詳細かつ長期の観察とプロファイリングによりデータ化されている。

 それによれば、ラルフが嘘をつくのが苦手な人間だ。


 反骨精神は旺盛、かつ自由奔放。その一方、気に入った上官・同僚に対しては積極的に補佐したがる世話好きで、なんだかんだで命令は必ず遵守する。


 ゆえになおさら、事の深刻さをひしひしと理解した。


 ラルフの推測があながち真実から外れたものでないことを。

 彼が命令に背いてでも危機をこちらに伝えようとしていることも。


「この子のためだなんて、これっぽっちも思っちゃいませんよ。本来兵士に向かないこの子の優しさに付け込んで、思い通りにコントロールしようと思ってる碌でなしです。正真正銘の偽善ですよ。マインドコントロール仕込んでる最中の人間に、心配なんか要りません」


 そうニコニコ笑う男に、バートンはしばし黙した。


 未だ返答は浮かばない。しかし、一つだけ言えることがあった。


「――相変わらず嘘が下手だな、お前は。碌でなしを名乗るなら、せめて表情に悪意の一つや二つ、込めてみたらどうだ?」


 今度はラルフが黙った。笑顔は霧散し、虚を突かれたように眉尻を下げて、ぽりぽりと頬を掻く。


「詮索も説教もする気はないが、後悔から無理に自分を卑下するのはよせ。たとえ結果はどうあれ、本気でその子の幸せを願っているのだろう?」


「…………将来は秘かに楽しみにしてますよ。けど怖い方が強いです」


「怖い?」


 少女が寝返りを打った。ラルフの脇に顔をうずめるように、身を丸めて小さく丸まった。それを微笑ましげに眺めて、ラルフがポツリと呟く。


「バレるのが怖いんすよ。この子が大人になった時、俺たちの偽善に気付いた時、何を思うんだろうって」


 なあ?


 そう呟きながら、少女の顔を覗き込む青年の頭頂部を、バートンは沈黙のもと見下ろした。


「恨むかなぁ、憎むかなぁ。嫌われたくねえな~……。せっかく仲良くなってきたのにな~。教官。この子、絶対美人になりますよ。それもとびきりの美女にね。そんな美人に嫌われるとか。俺、心死にそう」


 ラルフはトホホと肩を落とした。一方で、その眼差しは固く、決意に満ちていた。


 バートンは手遅れを悟った。


 もうこの男は道を違えない。曲げない。

 このまま突き進む気だ。


「……きっと分かってくれるさ」


「どうすかね~」


「オズ」


 鋭く低声が咎めた。クルテクだ。

 扉の隙間から、顔を半分覗かせてこちらを睨んでいる。


「早くしてくれ。こっちだって暇じゃないんだ」


 ひとまず生返事を返して振り返るも、ラルフはすでに少女を抱えて格納庫奥へと消えようとしていた。


「コールマン」


「ありがとうございます、教官。久々に愚痴聞いてもらってすっきりしました」


 それだけ告げて、ラルフは立ち去った。闇に消えた銀色は、戻ってくることはなかった。


 仕方なく格納庫を出ると、即座にクルテクから嫌みをぶつけられた。


「随分と懐かれてるな。狙撃の師とはいえ、たかだか数週間の訓練で、そこまで親密になれるもんかい?」


 僕の時は始終ヘラヘラしてるだけなのになぁ。


 間延びした口調で肩をすくめた旧友に、バートンは再び溜息をつく。


 また話し方が変わった。

 ラルフといい、コイツといい、自分の周りには厄介な人間が多い。


「そういうお前こそどういうつもりだ。あんな年端もいかない子供を使って」


「さてね。少なくともCIAうちは反対したよ」


 ということは、新設されたばかりのUSSAの思惑ということか。


 バートンは眉根を寄せた。


「連中は何を企んでいる?」


「失敗したのさ」


「失敗?」


「そう。その尻拭いを僕が押しつけられた。そしたら意外に成果を出しちゃったもんだから、後からぬけぬけと口挟むようになったのさ。僕から言えるのはそれだけだ」


 それを聞くなりバートンは眦を吊り上げた。


 あの少女が何かしらの重要人物で、その心を開くのに失敗したがために、いったん距離を置いて別アプローチを試みた、というならまだ理解できる。が――。


「まさかあの少女を監視役に、デルタフォースの運用技術を盗み気じゃないだろうな」


「そう勘繰りたくなるのはよく分かるけど現実的じゃないね。たかが8歳児にそんな芸当ができるもんか」


「なら連中が委嘱する任務を遂行できる能力を持ち、かつ消しても問題ない部隊だからか」


「使い捨てにするにしては割に合わないと思うけどね。そういう君こそ、随分と入れ込んでるじゃないか。あの男がそんなに気に入ったかい?」


「気にいるも何も教え子だ。彼らに道しるべを指し示すのが私の役目だ」


「道しるべ、ねえ。――君、彼が兵士に向いてると本気で思ってるのかい?」


 バートンは一瞬言葉を詰まらせた、が。


「……向いてはいないだろう。兵士とは職業だ。敵の事情だの境遇だのをあれこれ詮索してしまう人間は向かん。だが奴の類まれな膂力と、どんな状況下でも衰えぬ精神力は類を見ないものだ。使えると判断した。だからデルタは奴を選んだのだ」


「ふぅん。僕が教官なら真っ先に落とすけどね。あんな危ない奴に、任務を任せるなんて冗談じゃないよ」


「危ない?」


「危ないだろ。あれは根っからの理想主義者だ。だがただの理想主義者じゃない。大抵の理想主義者は自身の欲深さを自覚してないし、現実とのギャップに耐えきれずに壊れておしまいだ。けど奴さんはその点、毛色が違う」


 間延びした口調に潜む強い嫌悪と拒絶に息をのむ。ひそやかに心火が燃え滾っている。

 バートンは初めて見る旧友の激昂に少なからず動揺した。


「理想と現実は本来相反するものだ。それを奴さんはそれを無理やり両立させてくる。『ごめん』と本気で詫びながら、本気でナイフを突き立てられる男だ。理想を夢見る現実主義者なのさ。だからこそ質が悪い。しかも軍の尋問に耐えうるだけの胆力があって、天然の人たらしときた」


 厄介だぞ、あれは。


 クルテクは、そう吐き捨てた。


「自分の理想が他者を踏みにじることを自覚した上で踏みにじってくるからな。冷静なだけの狂人、生粋の革命家だよ。国が違えば立派なテロリストさ。軍が彼を捕まえてくれてよかったよ。あんな度し難いのが野放しなんて冗談じゃない」


「…………散々な言われようだな。そんなにコールマンが嫌いか」


「好き嫌いの問題じゃない。危険だ。どうせお前にも喋ったんだろ、あの少女のことを。あれは“生ける地図”で“鍵”だ。パンドラの箱を開けるためのね。変な欲なんか出さずにさっさと処分すればよかったんだ。災厄をもたらす財宝に何の価値がある?」


「ならその災厄の鍵をなぜコールマンに預けた? 危険人物なんじゃなかったのか」


「知らないよ、そんなの。連中に聞いてくれ。自分の欲望を国益のためと言い張るのが得意な奴らの考えることなんか、知りたくもないさ。――あと言っとくけど、君も例外じゃないからね?」


 そう言って、クルテクは目元をすうっと細めた。もともと細い目元が、剃刀のように見えた。


「彼の思惑はどうあれ、ラルフ・コールマンの独断はすでに上の知るところとなっている。僕らは“鍵”さえ開けてくれればいいんだ。それを猫糞ねこばばしようってんなら、容赦なく潰す。君もだ。友人としては、君たちが変な気を起こさないことを祈るばかりだよ。連中はうちより気が短いからね」


 鋭い一瞥をなげつけて、クルテクは踵を返した。

 足音もなく闇へ戻っていく友の背を、バートンは消えた後も黙って見続けていた。




 ***




 ごり、と背骨をなぞる感触に、バートンは回想を中断した。


 懐かしき過去から、遥か彼方の現在へと意識を戻す。


「再会そうそう物騒なことだな、ツィリル」


「クルテクだよ。その名は5年前に捨てた」


 振り返れば、いつもの旧友が、いつもの間延びしたとぼけた顔で、銃口を突きつけていた。

 バートンは水平線へと目を戻し、肩をすくめた。


「モーガン一家ならとっくに発ったぞ」


「知ってる。出立した時間もその行先もね。うちの会社を舐めるなよ」


「それはCIAか、それともUSSAか。どちらだ」


「両方だよ。合併されるということは、そういうことだ。驚いたよ。まさか逃亡先にキューバを選ぶなんてね。君はグアンタナモがどこにあるのか知らないのかい?」


 グアンタナモ。

 州名と州都名を同じくする湾港都市だが、その名が知れ渡ったのは都市機能の利便性ゆえではない。


 グアンタナモ米軍基地。

 1903年より米国が永久租借し続けており、アフガニスタン・イラク等から移送したテロリストと思しき容疑者の収容と尋問を行う収容施設を持つ。


「君も存外酷な男だね。この赤道直下の海原で、一家をタンカー船のコンテナに詰めて移送させるかい。荒事に慣れた密売人ならまだしも、うら若き女性にはさぞ堪えるだろう。あれ、トイレ中でするんだろう? しかも一日に貰える水も限られてる。鉄板に囲われ身動きも取れず、じりじり日差しに焼かれるのはさぞ苦行だろうに」


「いや? そう悪いものではないさ。なにせ、のが大変都合がいい」


 背に当たる銃口が一瞬引いて、直後、先ほど以上の力で押しつけられた。抉ろうとしているかのようだ。


 バートンは哂った。


「手口を知っているのはお前だけではないということだ。そもそも、何年の付き合いだと思っている」


「……いつ逃がした」


「知らん。行き先も手段もすべて一家に任せたからな。確かにこの国にはグアンタナモがある。だが、それがあるからこそ存外味方も多いのだよ。君らは基地周辺にいる住民のうち誰が反米主義者か見分けがつくか?」


 クルテクは沈黙した。

 自分が本当に一家の行き先を知らないことを、これまでの経験から嗅ぎ取ったのだろう。知らない以上、これ以上の詮索も糾弾も無意味だ。


 バートンは水平線から空に目を戻した。


 蒼天に一条の飛行機雲が残っている。

 カリブ海からの暖気の影響か、湿気の多いこちらの空には飛行機雲が残る。機体が飛んだ矢先から消えていく故郷の空とは大違いだ。


 その一条の飛行機雲が、あの晩、歩いた道を思い出させた。


 バートンは教え子によく似た空の蒼を睨んだ。


 賽を投げる時だ。


「ツィリル。私は一点だけ、お前を恨んでいる」


「へえ。どれかな」


「お前がすべてを知りながら傍観に徹したことだ。――この海原の先に、彼らはいるのだろう? お前はそれを見ていたはずだ」


 背に当てられていた銃口が一度だけ、ひくりと震えた。

 バートンは振り返ることなく畳みかける。


「死んだことを責めるつもりはない。我々は死神に魅入られた者たちだ。地獄を闊歩し、業を深めながら、命と引き換えに国家に安寧をもたらす。兵士とはそういうものだ。だからそれを糾弾する気はない。……だがその死を愚弄したことは許さん。殺害を脱走と欺瞞して戦友われわれを欺き、遺族の想いを踏みにじった。未だ彼らが生きていると信じて待ち続ける遺族の祈りと願いを、考えたことはあるか」


「……言いたいことがそれだけなら拍子抜けだね。言っただろう、って。言いつけを破ったのは5人の方だ。あれほど兵器として扱えって言ったのに。人間扱いするからこうなる」


「真っ当な人間なら当然の行いだ」


「だから消されたのさ。よく言うだろう? 『良い人間ほど先に死ぬ』ってね」


 カチ、という震動が背骨を震わす。拳銃の安全装置が外されたのだと判った。


 バートンは笑った。ここまで時間を割いてくれた友の恩情に謝意を表して。


 ああ、やはり。この男は変わらなかった。


――すまんな、『パピヨン』。私では役不足だったようだ。


 現在の戦友ともに詫びて、バートンは目を閉じた。


 銃声が鳴った。


 簡素な発砲音は、すぐに潮騒にまぎれて、消えた。

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