7-13
夢を見ていた。
少年時代、隣室にいる母親とその客にバレぬよう、必死に嗚咽を押し殺して物陰に蹲って泣いていた頃の、自分の。
そんな子供の自分を、ニコラスはただ見ていた。
四つん這いで床に突っ伏してすすり泣く幼子を、ただ。
ふと、ニコラスはその子供の肌の色が白いことに気付いた。黒髪も自分より細く柔らかい。
客が部屋に入ってきた。客が幼子の髪を鷲掴み、その泣き顔が露わになる。
涙に濡れた深緑の双眸が、虚ろにこちらを見ていた。
「ハウンド!」
客がハウンドを引きずっていく。
ニコラスは急いで駆け寄ろうとした。
瞬間。ハウンドの頬が、裂けた。
頬だけではない。手、足、首、胴。全身のありとあらゆる部位の皮膚が裂けていく。裂けた箇所から血が噴き出し、床を濡らした。
裂けた皮膚がめくれて、その下に――。
目を覚ました。
全身に滲んだ冷や汗が、容赦なく体温を奪っていく。
暖炉の薪はまだ燃えてはいるが、東海岸の真冬を掻き消すには炎は小さすぎた。
しまった。寝てしまった。ここ数日の不眠が祟ったか。
慌てて腕の中を覗き込む。
ハウンドは泣いていた。
その身を消さんとするかのように我が身を掻き抱き、赤子のように背を丸め震えている。
「ハウンド」
ニコラスはハウンドを抱きしめた。耳元で名を呼びながらその背を撫でてやる。
だが彼女は泣き止まない。幼い頃の自分と同じように、必死に嗚咽を押し殺して。
迷った末、ニコラスは彼女の本名を呼んでみることにした。
「サハル、大丈夫だ。俺はここにいる」
震えが僅かに止まった気がした。ニコラスは耳に唇を寄せ、何度も囁き続ける。
やがて、震えが止まった。全身のこわばりが解け、徐々に力が抜けていく。それに従って、嗚咽も小さくなっていった。
ニコラスは、ほっと小さく息をついた。
「――フィラ」
彼女の唇が小さく動いた。起きてはいない、寝言だ。
ニコラスはその唇に、耳を寄せた。
「……カー、フィラ……」
ああ、父親の夢を見ているのか。本名を呼んだせいだろうか。
「カーフィラ、……どうしよ……」
「どうした」
「死んじゃうんだって」
その言葉に、ニコラスは凍りつく。
その合間も、少女の唇は夢うつつに言葉を紡ぎ続けた。
「……私と関わった人、みんな死んじゃうんだって。ブラックドッグだから……不吉なんだってさ」
どうしよう、カーフィラ。
「ラルフもロムもレムもベルもトゥーレも、みんな死んじゃった……どうしよう。このままじゃニコも死んじゃうよ……」
閉じた瞼から、雫が零れ落ちた。何度も、何度も。
頬を伝ってニコラスの服を濡らしていく。
「どうしよう、カーフィラ。ニコまで死んじゃったら……どうしよう……!」
「っ……!」
ニコラスは少女を掻き抱いた。
「大丈夫だ。俺はここにいる。ちゃんといるから」
「……? ニ、コ……?」
「俺は死なない、その程度で死ぬもんか。偽善者は悪運も強いんだ。黒妖犬の呪いごときでくたばるもんかよ」
肩口に押し付け、力いっぱい抱きしめる。痛いかもしれない。けど、痛くてもいいから気付いてほしかった。
自分はちゃんと、ここにいると。
肩口に、少女が顔をすり寄せた。ニコラスも腕の力を緩め、少女の髪に頬をすり寄せる。
「俺はここにいるよ」
「……うん」
「生きてる」
「ん……」
「そんな呪いで俺は殺せない。だから安心しろ」
そう囁くと、少女が「うん」と微かに頷いた。
言葉が途切れた。
そっと見下ろせば、少女は眠りに落ちていた。わずかに開いた唇から零れる寝息は実に穏やかだ。
それをしばらく見つめて、ニコラスは少女の身体をそっと横たえた。
掛布団に毛布二枚で包み、駄目押しで自身のモッズコートもその上にかける。そしてストーブの薪を補充しに行った。
彼女が寒さで目を覚まさぬように。
ベッドに戻り、枕元に腰かける。
そっと頭を撫でてみる。少女は目を覚まさない。安らかな吐息をたてるだけ。
それを眺めながら、ニコラスも横になった。
瞼の帳が落ちてくるその瞬間まで、その穏やかな寝顔をずっと見ていた。
***
ぬくい。あったかい。
まどろみに浮かんで、ハウンドはその温もりに身を委ねた。
お日様のニオイがする。よく干した布団や毛布の匂い。香料で誤魔化さない洗剤の清潔な香り。
これまでのことは何となく覚えている。
自分の手当てを、焦り顔のヴァレーリ・ロバーチ構成員が必死にやっていた。ならば、ここは両家が用意した
ともかく疲れた。少しでもいいから寝ていたい。
どうせ両家の監視下にあるのだ。多少惰眠を貪ったっていいだろう。
シーツに顔を押しつけてみる。お日様のニオイがますます強くなる。少々硬いが、その分ぬくいので許す。
動いた拍子に、布団の隙間に入りこんだ冷気が背をなぞる。
それに身を竦めたハウンドは、ますますシーツに身を摺り寄せた。
不思議だ。いいニオイがして温かいのに、やけに硬い。こんな寝床は初めて――
「ん……」
寝床が喋った。
瞬時にハウンドは覚醒した。
なぜ忘れていた。
自分が倒れて、両家以上に狼狽えそうな人間が、一人いるではないか。
目を見開けば、真ん中をボタンで留められた白布が広がる。その隙間から褐色の張りのある皮膚が覗いている。
恐る恐る見上げてみれば、案の定。
「ニコ」
ニコラスが寝ていた。
それも自分を後生大事そうに抱きしめて。
ハウンドは、そっと腕から脱し、毛布から抜け出した。
うっすら霜のはった窓を見れば、ふくよかな白が枠下から盛り上がっている。雪だ。明日の朝は、数年ぶりのホワイト・クリスマスになるだろう。
ハウンドは身を縮めて丸くなる助手に目を戻した。
――また隈、濃くなってる。
指先を青黒くなった目下に伸ばした。産毛の毛先だけをなぞるように、そっと触れてみる。
ニコラスは起きない。
日頃おっかなく寄せている眉間のしわを伸ばして、口元を半開きに静かな寝息を立てている。
アメリカ人男性にしてはやや小柄とはいえ、ごつい図体を赤子のように丸めて自分を抱いて眠る様は、酷く幼い。
「……ほんと、上手くいかないな」
ニコラスを逃がしたかった。
特区にいるのが一番安全だった時期もあったが、それもミチピシ一家が連邦政府と取引するまでの話だ。
直にミチピシにはUSSAがやってくる。親米派となった一家領を橋頭保に、特区へ乗り出してくる。
そうなれば、もう特区も安全ではない。
そうなる前に、ニコラスを安全な場所へ逃がすつもりだった。
幸いなことにモーガン一家は、エマは、ニコラスを諦めなかった。
ニコラス自身の思いとは裏腹に、エマは彼の名誉回復と救済に全力を尽くしてくれた。それは彼女の弁護士を騙っていたハウンドにも逐一伝わっていた。
ニコラスが身を寄せる先としては、これ以上ないほど最適な場所だった。
逃がすなら、今しかない。
だからバートンの、本来なら絶対に乗らないであろう誘いに乗った。
ケータの祖父と引き換えにという形で、ニコラスを託し、モーガン一家と共に国外脱出の手はずを整えた。
ラルフとゾンバルトの教官ならば問題ないだろうと思っていた。
その結果がこれだ。
「ほんと。どいつもこいつも」
バートンも、店長も、アンドレイ医師も。
なぜ大人たちは、自分の邪魔をするのだろうか。
ラルフは自分の目で見て、聞いて、考えて、決めろと言った。子供であれ、自分の道は自分で決めろ、と。
だから決めた。その通りに生きてきた。
なのになぜ、
今度はどこで間違えた?
「これじゃあ、いつまで経っても死ねないじゃないか」
生きろと命じられた。それがラルフの最後の命令であり、願いだった。
だから自分は死ねない。彼の最後の願いを捨てるわけにはいかない。
だから、ニコラスを救うためだけに生きているのに。
「なんで邪魔するんだろうな~……。皆そんなにニコのこと嫌いかな」
ニコラスの前髪を、刺々しい外見と真逆に意外と柔らかな黒髪を指先ですくう。
眉間に深く刻まれたしわは、伸びきっていても消えることはない。
「……ッ、クシッ」
極力抑えたくしゃみを一つ、ハウンドは我が身を抱きしめた。
暖炉の火は消えていないが、深雪に沈んだ暁闇の室温は、ショーツと包帯だけで耐えうるものではない。
ニコラスで暖でも取るか――。と、思った矢先。
ニコラスの目がぱちりと開いた。
「あ、起こしちゃった? おっはよ~」
いつもの笑みを瞬時にかぶって笑いかける。
ニコラスはのそりと半身を起こした。が、その目はぬぼんと半開きだ。
手を目の前でひらひら振ってみるも、ぱちり、ぱちりと億劫そうに瞬きするだけだ。
寝ぼけている。これはまた珍しい。
睡眠と食事の時間もまばらな自分と真逆に、ニコラスの生活サイクルは実に規則正しい。
起きる時も例外ではなく、必ず目覚ましの数秒前にスマートフォンを鷲掴み、そのまま起き上がってスタスタと洗面所へ歩いていく。
それも同時刻、毎日である。
あまりに機械じみて全く同じ行動をとるので、サイボーグか何かと本気で疑ったこともある。
身体のどこかにスイッチがないかとシャワーを覗いたら、真っ赤になったニコラスに滅茶苦茶怒られたのも、今となっては思い出だ。
「お~い」とハウンドは頬を突いた。ニコラスの反応は無だ。頭を撫でてみる。これまた無だ。今度は両手で頬を摘まんで引っ張ってみる。
ニコラスは始終、成すがままだった。
完全に寝ぼけている。なんだか面白くなってきた。
「おやおや~、今日のニコはお寝坊さんですね~。おはようのキスはいりますか~?」
からかってみるも、ニコラスは頬をムニムニ揉まれるがまま、瞬きをするだけだ。
何これ可愛い。面白い。
今なら腹筋にギンガムチェックを描いたってバレなさそうだ。この場に油性ペンがないのが実に惜しい。
――けどまあ、今日は止めとくか。
『悪戯とは、他人を幸せにするためのスパイス』
ラルフの言葉だ。ニコラスの睡眠妨害をするような悪戯は、その信条に反する。
今日は大人しく添い寝するだけにとどめておこう。その方がニコ熟睡してくれるし。起きたら慌てるけど。
仕方ない。悪戯はお預けだ。
「は~いニコ、まだ寝てましょうね~。まだおっきする時間じゃないからね~」
「……ん」
「はいはい、こっちおいで」
ごろりと寝そべり、ポンポンと隣を叩くとニコラスは素直に横たわった。そのまま身を預けてくる。
その微笑ましさに、ハウンドの口元が自然とにやける。
ま、どうせ夜が明けるまでのひと時だ。起きたらまた真っ赤になって逃げだすに決まってる。
起きた時が楽しみだ。
そうニヤニヤしながら、ニコラスの寝顔を拝んでいた、その時。
ニコラスは目を開けた。そして両手をこちらに伸ばした。
「――へ」
手を首と腰に回されて、ハウンドは硬直した。そのままぐいと引き寄せられる。
ニコラスの顔が近づいてくる。
吐息が髪に、頬に、唇にかかる。顔が傾き、鼻先が鼻先を掠めた。
「えっ、ちょ、ちょっ……!」
思わず目を閉じる。
直後こつん、と額に何かが当たった。恐る恐る目を開ければ、ニコラスが額をこちらに押し当てていた。
睫毛が触れあいそうなほど至近距離から見つめられて、ハウンドの思考は完全に停止した。
「……ないな」
「は? え、あ、ちょっと!」
そのまま肩口に顔をうずめられて、ハウンドは本格的に慌てた。
どうして。ニコはいつも、私から逃げるのが普通で……。
足が足に絡めとられる。冷えた義足に足先が当たってびくりと身体を震わせば、ニコラスはますます強く抱きすくめてくる。
胸板に押し潰されて乳房が潰れた。ごつごつした指先が、そっとこちらの背骨をなぞって、ぞくりと皮膚が粟立った。
ハウンドは大混乱に陥った。
おかしい。自分が寄ると、逃げるのがニコだ。どんなに寄っても、追いかけてこないのがニコだ。
だから傍に置いていたのに。
自分が去っても平気な奴だと思ったから相棒にしたのに。
こんなのニコじゃない。こんなニコ、知らない。
「ニコ、ニコ、待って。待ってってばっ」
擦り寄ってくる顔を両手で押し留める。途端、ニコラスは悲しげに目を細めた。
なんだその顔。なんでそんな顔するんだ。
狼狽えるこちらをよそに、ニコラスは押し留めるこちらの手を取って、掌に顔をすり寄せてくる。
ハウンドは顔から首元まで真っ赤になった。
ともかく、逃げないと。
からかい慣れていても、からかわれ慣れてないハウンドは大急ぎでニコラスの腕から抜け出そうと藻掻いた。
「どこへ行くんだ」
耳元にかすれ声で囁かれて、ハウンドはびくりと肩を跳ね上げた。
全身の産毛が逆立つ。吐息がうなじをくすぐって、背筋と谷間へと流れていく。顔面の温度がさらに上がった。
これはまずい。なんかよく分からないけど、今すぐ逃げ出さないと非常にまずい。
ひとまずハウンドは一旦動きを止め、この場から脱出する方法を必死に考えた。
***
やっと大人しくなった……。
寝ぼけ眼のまま、ニコラスはそっと息をつく。
まったく、あんな大怪我をして一人でどこへ行こうというのか。もう少し自分を大事にしてもらいたい。
――まあ、元気そうだし。いいか。
起きて早々に自分の頬を突いたり引っ張ったりしているぐらいだ。多少は回復したのだろう。ならば大人しく、この場でもう少し寝てもらおう。
何より眠い。ともかく眠い。三日間連続の徹夜に、その間、三回もの戦闘。その末にやっとありつけた睡眠だ。
ともかく眠れるだけ眠っておきたい。でないと夜明けの作戦に支障が出る。
腕の中のハウンドが再びもぞもぞと動き始めた。往生際の悪い。
まどろみながらも悩んだニコラスは、妙案を一つ思い出した。
なかなか寝付けない子供を寝かしつけるおまじないである。
昔はエマやフレッドが、ロジャースや妹たちによくやっていたものだ。効果はてきめんだとか。
――やってみるか。
寝ぼけて碌に思考が回っていなかったニコラスは実行することにした。正気であれば絶対にやらなかったであろう手段を。
腰と背に回していた手を離し、両手でハウンドの顔を挟んで固定する。
「ぴゃっ」
ハウンドから変な声が出た。何だか今日はよく奇声を上げるなと思いつつ、ニコラスはハウンドの目元に口づけた。
〈西暦2013年12月24日午前5時55分 アメリカ合衆国ヴァージニア州南部キング・ジョージ ドック・サイド・シティ〉
「ニック兄、あのさぁ」
「クリスマスだし、気持ちはわかるけど、」
「怪我してる女の子に手出しちゃダメだよ」
「せ、せめて治ってからの方がいいと思う……」
グレイス、アグライア、イレーネ、マートルとモーガン一家の妹たちに囲まれたニコラスは、ベッドに腰掛けたまま気まずい思いで目を逸らす。
それをロジャースがニヤニヤと腕組みして見守っている。
「へえ。意外と手、早いじゃん」などと聞こえるが、無視だ、無視。
そして大変申し訳ない話、何をやったのかさっぱり覚えていない。
ベッドから抜け出そうとしたハウンドを捕まえたところまでは覚えているが、彼女の「ぎにゃあああああああああ!」という悲鳴で、何もかもが飛んでしまった。
一方。
「よしよし、びっくりしたのね。そう怖がらなくていいのよ」
部屋の隅で毛布にくるまってプルプル震えながらダンゴムシしているハウンドを、エマが撫でてやっている。
その横で、体温計を手にしたバートンが憮然とした顔で立ち上がった。
「おい、熱が下がらんぞ。どうするんだ。移動に支障が出るぞ」
「バートンさん、あなた天然って言われない?」
アレサが呆れ果てた様子で腰に手を当てた。
その横に「た、ただいま……」とげっそり顔のケータがやってきた。
「今ヴァレーリとロバーチ追い返したけど……覚悟した方がいいぞ。あれ後でぜったい詰められる」
「……そんなに?」
「取りあえずカルロ・ベネデットがすげーしつこかった。あとロバーチの方は当主自ら出てきて滅茶苦茶怖かった」
ヴァレーリ一家側近にロバーチ一家当主の相手をする羽目になったケータに、ニコラスは申し訳なく思った。
というか俺、ほんと何やったんだ……。
「――……もん」
ダンゴムシ、じゃない。毛布にくるまったハウンドから声が漏れ出た。
直後、がばりと毛布がめくれ、真っ赤になったハウンドが顔を出す。目が据わっているように見えるのは気のせいか。
「べべべ、べつ、別にびっくりしてないし、ニコにしてはちょっとだいぶすごい大胆なことしてきたからびっくりしただけだしっ。あんな下手くそなキス瞼にされたぐらいで動揺したりしないもん!」
「落ち着けハウンド、俺が悪かったから」
「もちちゅいてるっ!」
「落ち着け」
駄目だこりゃ。ニコラスは天上を仰いだ。
というか、日頃あんなにべたべたスキンシップしてくるくせに、なんで俺がやったら駄目なんだ。訳が分からん。
一方、一同は騒然となった。
「え、マジ? キスだけ?」
「キスだけでああなっちゃったの?」
「本番じゃなくて?」
「お姉ちゃんたち、しっ!」
「おいおいマジかよ。シャイとかそのレベル越えてるぞ」
「あらあら……」
「ふむ。つまりこの体温上昇は肉体的接触による羞恥によるもので、熱ではないのだな」
「バートンさん、それたぶんトドメ」
「まあキスは慣れてないとびっくりするよな。ニコラスも苦労するなぁ」
ケータの言に、はたと気付く。
考えてみれば、ハウンドは中東のイスラム圏の出身だ。欧米のスキンシップ文化に慣れていない。
それを考えれば、慌てふためくのも無理はない――。
――いや。やっぱ納得いかねえわ。なんでお前はよくて俺は駄目なんだよ。
いつも慌てる俺みて笑ってるくせに。ニコラスは遺憾の意を表して無言に腕組みした。
そんな時、バートンが咳払いをした。
「和やかな時間に割り込んで申し訳ないが。そろそろ時間だぞ」
***
〈西暦2013年12月24日午前7時1分 アメリカ合衆国メリーランド州ウィコミコ〉
「雪道なのに随分かっ飛ばすわね……」
不安げなアレサの声は、一同の心情を代表していた。
いくら車体が重くて全輪にチェーンを装着しているとはいえ、10トン級の十輪大型チップ運搬トレーラーである。ブレーキを踏もうものならスリップするのは確実だ。
監視衛星対策に、天井部が緑色の防水シートで覆われて外が見えないのも、不安を掻き立てる要素の一つだった。
対して、ハウンドだけは唯一落ち着き払っていた。すっかりいつもの調子を取り戻したらしい。
怪我の具合が心配だが、泣いたり逃げたりするよりは遥かにマシだ。
「大丈夫。運転してるのはロバーチ一家の連中だ。雪道どころか氷道を走ることに慣れた連中だ。この程度の速度なら問題ないだろ。それに、この車体ならぶつかっても潰れるのは向こうだし」
「洒落になってねえ……」
青い顔でぼそりと呟くケータに、ハウンドからの返答は鼻歌のみだ。のんびり愛銃の回転式散弾銃に弾を込めている。
それを終えて。
「で? 何か言うことないの」
ハウンドに問われ、バートンは腕組みしたまま目を開けた。
「何がだ」
「ニコを逃がすって約束だったはずだけど?」
「だが本人はそれを望んでいない。君は知らんだろうが、ウェッブの頑固さは私の教え子の中でもトップクラスだ。説得するのは骨が折れる」
「だから勝手に作戦を変更したって? モーガン一家まで巻き込んで」
「巻き込んだのは私の本意ではない。それに……彼らも共に逃がす気だったのだろう?」
モーガン一家の視線がハウンドに集中した。ニコラスもまたハウンドの横顔を見つめた。
視線を一手に受け、観念したようにハウンドは白い溜息をついた。
「半年ぐらい前から、第37偵察小隊の遺族の近辺に、
「USSAって……国の機関じゃない。なんで私たちに監視なんか、」
呆然と呟いたエマははっと口をつぐんだ。ハウンドをしかと見据えて。
「あのショッピングモールの黒づくめ、彼らがUSSAの部隊?」
「正確には、USSAが保持する影の部隊ですが」
「……私たちを、ニックの人質に?」
「恐らく」
モーガン一家だけでなく、ニコラスも息をのんだ。
初耳だったが、さほど驚きはしなかった。ハウンドを直接害せないのならば、助手である自分の弱みを、などと思ったのだろう。連中のやりそうなことだ。
「ねえ、ハウンドさん。あなたは一体何者なの? 少なくとも弁護士じゃないでしょう?」
「年も25じゃねえだろ。どう見たってうちのマートルとどっこいどっこいだぜ、なあニック兄?」
ロジャースに振られて、ニコラスはハウンドを見た。ハウンドは、むすりと黙りこくったままこちらを一瞥して、渋々頷いた。
***
〈西暦2013年12月24日午前8時7分 アメリカ合衆国メリーランド州オクソン・ヒル〉
事の次第を聞いたカルロは、「へえ」と片側の口端を吊り上げた。
「それじゃあ全部話したのか」
「まあね」
「よく納得したな」
「監視に心当たりがあったそうだ。賢い女性だよ、あのエマって人は」
「ふぅん。それで、番犬は何か言うことないのか」
そう尋ねられて、ニコラスは隣の口減らずな運転手をじろりと睨んだ。
「なんでよりによって、お前が同行なんだ」
「ようやく口開いたかと思えばそれかよ。お前らが一番重要だからに決まってんだろ。その他のチームは全部囮だ」
やはりか。
車窓を肘置きに頬杖をついたニコラスは、今回の作戦の概要を脳内でおさらいする。
特区帰還作戦――別名『帰るまでが遠足ですよ』(ハウンド命名)は、何とも気の抜ける作戦名と裏腹に、実に巧妙かつ大規模な展開をみせていた。
参加者は特区の双璧ことヴァレーリ・ロバーチ一家、ハウンド率いる27番地住民で、同盟者たるターチィ一家がこのバックアップにつく。
作戦段階は三つ。
第一段階、双璧が国内外で活発に活動する。
ヴァレーリであれば政治・経済界、マスコミの人脈を駆使して昨晩の事件のもみ消しを図り、ロバーチであれば幹部を海外に派遣し消費した人員・武器弾薬の補充をかける。
無論、これらはただの陽動だ。これらをターチィ一家が積極的に喧伝し、騒ぎを大きくする。
第二段階、ロバーチ一家の数個小隊が各自別ルートで特区への移動を開始する。
囮としてはこちらが本命だ。USSAからすれば、あたかも誰かを護衛しながら移動しているように見えるだろう。
小隊メンバーは昨晩の作戦には不参加であり、完全丸腰で移動するため、捕まったとしても全く問題はない。またこの段階では当主ルスラン自ら参加する。
第三段階、ここでようやく自分たちが移動する。
チームは三つ。
《ハウンド・ニコラス》のAチーム
《ケータ・アレサ》のBチーム
《バートン、モーガン一家》のCチーム。
以上の三チームが、各自別ルートから単独で特区を目指す。
もちろん無線で双璧からの支援はあるが、護衛は基本ない。万が一捕まった際のお互い面倒がないように、ということだ。
回収は比較的監視の目がゆるい27番地住民が行う。
「で、俺たちはどのルートから向かうんだ」
叩きつけるような吹雪をものともせず走行するボルボXC40の、漂白された前方を睨みながらニコラスは尋ねた。
カルロは肩をすくめた。
「秘密だ。と、言いたいところだが、空路でいく予定だ。立候補者が出たんでな」
「立候補者?」
「俺たちに協力してくれる奴ってことさ。絶対に窓開けるなよ。外にも出るな。吹雪で監視カメラがおじゃんになってる隙に行く」
言われなくたって開けねえよ。
そう内心毒ついたニコラスだったが、到着するなり驚愕することになる。
目的地、もとい協力者は、ニコラスの思いもよらぬ人物だった。
***
「お待ちしておりました。こちらへ」
出迎えた衛兵は、詰所の兵士を下がらせると車を誘導した。ニコラスは思い切り顔をひきつらせた。
「おい、ここ」
「ああ、アーリントン国立墓地だ。連中もまさか自ら懐に飛び込んでくるとは思わねえだろ」
「『犯人は犯行現場に戻ってくる』って言うけどね」
ハウンドの皮肉に、ニコラスは応じる余裕がない。
正確には、自分たちがいるのは墓地ではない。
マイヤー・ヘンダーソン・ホール統合基地。
陸軍、海軍、海兵隊による共同基地で、アーリントン国立墓地に隣接するれっきとした駐屯地である。
懐どころか心臓の真上だ。いや、その心臓を守る細胞群の真っ只中に、飛び込んだというべきか。
「協力者ってあんたのことか」
2日前、アーリントン国立墓地で自分を案内した衛兵は、機械仕掛けの人形のようにこくりと頷いた。
「はい。事情はバートン退役大尉より伺っております」
「伺ってるって……ここはあんたら
「問題ありません。昨晩、上官のデスクに手紙と共に返還してまいりました。ここにいるのは、ただの第3歩兵連隊第4大隊所属の兵士です」
あまりに淀みない口調に絶句する。
彼らセンチネルは米軍の誇りだ。
米軍最古の部隊、亡き英雄を鎮護する寡黙な衛兵たち。
センチネルが胸に掲げる識別バッジは、
それだけ狭き門をくぐり抜けて得た称号なのだ。
それを返還してまで、なぜ――。
「周囲には早めに到着した遺族を案内すると伝えてあります。堂々となさっていてください」
そう言って、衛兵はニコラスたちを基地内へと案内した。
クリスマスの朝ということもあって、人の数はまばらだ。
民間人の姿はなく、いるのは雪かきに勤しむ兵士と、朝練を終えて厩舎へ戻る騎兵だけだ。
「あれを」
衛兵が指差した先を見つめる。
そこには救難ヘリコプター、HH-60ぺイブ・ホークが着陸していた。
すでにエンジンが駆動している。じきに離陸するのだろう。
「今朝がた、ドーバー空軍基地より棺が二つ、アーリントンに運び込まれました。本来であれば車両で搬送するのですが、この大雪ですから。ヘリで運ばれてきました。ご遺族の方々を待たせるわけにはいきませんので」
衛兵が振り返った。その頑なな双眸は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「もうすぐ離陸体勢が整います。私がパイロットを引き離しますので、その隙に」
「いいのか、あんた」
基地内に犯罪者を招き入れただけでなく、軍用ヘリ強奪を教唆した。
懲戒免職はおろか、軍法会議ものだ。下手すれば禁固刑だ。
そこまでして、助ける義理があるのか。
言外にそう問うと、衛兵は顔を歪めた。
職務上、常に無表情を強いられる彼の、不器用な笑みだった。
「そうおっしゃるだろうと思いました。ですが、こればかりは譲れません。どうしてもあなたにお伝えしたいことがありまして」
「俺に?」
「『ロッカーに入ってる手紙を宛名の女の子に届けてください』」
ニコラスは目を見開いた。
その、言葉は。
「あんた、」
「はい。ピーター・テュルクの兄、イードル・テュルクと申します」
ニコラスは息をのみ、合点がいった。
既視感があるはずだ。あのティクリート撤退戦で、自分と共に闘ってくれた部下の、兄なのだから。
「あの日、弟は民間人を送り届けた後、援軍を待たず、すぐティクリートへとんぼ返りしました。ハンヴィーにありったけの武器弾薬を詰め込んで」
「ああ。お陰で俺たちは助かった。新兵とは思えないぐらいタフな奴だったよ」
「ですが、国連軍に民間人を引き渡す際の説明を疎かにしました。それが、あなたがたへの冤罪を生む引金になった。あなた方が被る羽目になった汚名は、弟の独断専行と、隊を不用意に扇動したことに原因があります」
ニコラスは黙り込んだ。
ピーターは人懐っこい青年だった。ノリが良くて、下ネタが好きで、そのくせ女に関してはちょっとピュアなとこがあって、それをよく同僚たちにからかわれた。
未熟だったが、仲間思いの奴だった。
だからあの日、街を取り囲んでいた民兵の後背から、掩護もなしにハンヴィーで突っ込んだ。
その決死の突入の甲斐あって、ニコラスたちは合流を果たし、送り届けられた武器弾薬で何とかしのぐことができた。
だがピーターは死んだ。民兵の放ったRPGが彼のハンヴィーを直撃したのだ。
「俺たちは恨んじゃいないさ。それぞれがベストを尽くした。その結果が報われなかったってだけの話だ」
「そう、ですか」
「目元がそっくりだな」
「よく言われます」
そう言って、衛兵ははにかんだ。
そして俯き、再び顔を上げる。口元をぐっと引き結んで。
「弟の最期と、その言葉を、あなたは伝えてくださった。マスコミを前に自身の汚名を晴らすより先に、亡き戦友の言葉を届けることを、あなたは優先した」
「……生き残るってのは、そういうことだろ。一番の貧乏くじさ」
「そうかもしれません。ですが、まさか宛名の女性を探し出して届けるとは思っておりませんでした。俺の仕事なのに」
ヘリコプターのローター音が徐々に大きくなっていく。
衛兵イードルは軍帽のつばを引き下げた。それが軍帽が飛ばされないためではないと、分かっていた。
「ずっと、報いねばと思っておりました。兄として、墓守として。ありがとうございます。あなたは弟を連れて帰ってきてくれた」
鼻の奥がツンと痛んだ。
連れて帰るなど。
生きていなければ、何も意味はないというのに。
「いつか、弟に会いにいってやってください。そして叱ってやってください。あの馬鹿の迂闊と、死んだことを」
どうか息災で。
それだけ告げると、イードルは見事な敬礼をして、ヘリに向かっていった。
ニコラスはそれを黙って見送った。
そっと、腕に手が触れた。見れば、ハウンドが指先で袖を引っ張っていた。
「行ける?」
「ああ」
ニコラスは歩を進めた。前進以外の選択をする気はなかった。
***
「お前、ヘリの操縦もできるんだな」
「だから俺が同行してんだよ。シートベルトしてろ。間違いなく追手がくるぞ」
カルロが操縦桿をわずかに倒す。
前傾したHH-60ぺイブ・ホークが滑るように速度を上げた。
とはいえ、視界と天候は良好とはいいがたい。側面から吹き付ける風で、機体が始終ガタガタと揺れている。
これがもっと軽い機体だったら風に流されて姿勢制御すらままならなかっただろう。
「このままメリーランドとペンシルバニアを突っ切ってエリー湖へ向かう。すでに
「その前に捕捉されたら?」
「適当なとこに降りて移動だ。どのみちこの天候だ。監視衛星も使い物にならんし、予報じゃあと一時間足らずで吹雪く。探知されても無理には追ってこねえよ。俺たちもどこまで飛べるか分からんしな」
それまでにできるだけ距離を稼ごうという腹か。
ニコラスが納得している横で、背後から乗り出したハウンドが前方を指差した。
「なあカルロ、追手きたらあの雲のなか突っ切ったら? 撒けるんじゃない?」
「馬鹿言え。ただでさえこの悪天候で雲の中なんか突っ込んだら、
「雪の中の飛行ってそんなに危険なの?」
「ここみたく下に建物があるならまだいいが、全天曇り空で周囲が一面真っ白な視界だとすぐに視界を失う。着陸時のダウンウォッシュで巻き上げた雪でバーティゴ起こして事故った話はよく聞くからな」
「へえ~」
「ともかく雪が本降りになる前に、この雪雲を抜けねえと。風防に着氷して視界真っ白なんて洒落にならん」
カルロが睨んだ上空には、水銀の如くどんより垂れ下がった鉛雲が地平線の先まで覆い尽くしている。乗り物に関しては門外漢だが、かなり危険なフライトなのだろう。
ニコラスは大人しく乗っていることにした。
とはいえ、ニコラスとて黙って乗っているだけではない。いつでも追手を見つけられるよう、窓からの監視に務めていた。
その矢先の出来事だった。
「おい。左斜め後方、何かレーダーに反応ないか?」
数秒間をおいて、ヘッドセット越しにカルロが低く呟いた。
「いま確認した。2機だな」
「空軍か?」
「いや。基地の位置的に空軍なら右後方から来るはずだ。それに動きが早すぎる。こっちが離陸したと同時に飛んでるな」
「待ち構えてたってことか」
「かなり囮は撒いたつもりだったんだがな。掴まってろ」
そう言うなり、カルロはヘリを急旋回させた。ヘリは徐々に降下し、下界の街が次第に大きくなっていく。
傾く機体内で器用にバランスを取ったハウンドが、運転席へ首を伸ばした。
「カルロ、市街地を飛べ。流石の連中も国民の真上で戦闘は――」
カンッ、と金属の鳴る高らかな音がした。機体の外装甲からだ。
「……撃ってきたぞ」
「撃ってきたね。『トゥアハデ』だ」
見境のない、と舌打ちしたハウンドが後方を睨む。ニコラスは窓越しに目を凝らした。
吹雪で見えにくいが、横切る白にまぎれて黒い機体が真っ直ぐこちらに向かってきている。
「
「軍から貰ったおさがりか」
「ああ。しかもこの機体と同じ
カルロが小さく悪態をついた。
救難ヘリは通常、どんな天候下でも安定した飛行ができるよう設計されているものが多く、MH-53も例外ではない。
つまり、この悪天候のなかでも存分に戦えるということだ。
ハウンドがカルロに尋ねた。
「この機体の武装は?」
「棺桶運ぶのに武器なんか積んでるわけないだろ。あるとしたらフレアぐらい――」
けたたましい警報音が鳴った。
「ミサイル!」
「早速かよっ」
ミサイル接近を感知したALE-47空中対抗ディスペンサーシステムが、自動でフレアを射出する。
橙色の光が尾を引いて後方で散開する。それを追って、敵の空対空ミサイルが空中で接触した。
爆発、轟音、震動。
ただでさえ姿勢が不安定な機体を、爆風がさらに揺さぶってくる。
「っ、カルロ! フレアあと何発!?」
「5回だ! おい番犬、撃ち落とせないのか!?」
「テメエの操縦がポンコツでなけりゃなっ」
と言ったものの、現実的にほぼ不可能だ。
ただでさえヘリからの狙撃は困難を極める。おまけにこの吹雪だ。まず当たらない。
その時だ。ハウンドが前方の一点を指した。
「カルロ、あそこ!」
平地のど真ん中に、ぽつりと小さな森があった。幅は数百メートルもないだろう。
「低く飛んで、なるべく」
「……お前さっきの話聞いてたか? ダウンウォッシュはこっちにも危険があるんだぞ」
「けど目くらましにはなるだろ。それにこいつには
ニコラスも畳みかけると、カルロはわざとらしく深々と溜息をついた。
***
機体が降下する。それを追って、敵機もまた降下する。
高度150を切った。それでもなお、カルロは機体を下げ続ける。
目の前に、森が迫った。
木々の枝葉が腹をこするのではないかという位置で、カルロは森直上を通過した。
枝先に降り積もった雪がダウンウォッシュで撒き上がり、白い視界をさらに漂白していく。
後背に迫っていた敵機が慌てて上昇した。空間識失調に陥るからだ。
その隙に、カルロの機体は森を突っ切り、またも急上昇した。
二人分軽くなった機体は、軽々と天へ昇っていった。
***
雪の海で、ニコラスとハウンドは同時に顔を出した。
「生きてる?」
「なんとか。お前の方こそ傷は」
「ちょっと痛い」
数メートル先のハウンドが、泳ぐように雪をかき分けてくる。
この状況下では義足をまともに動かせないニコラスは、歯痒くも大人しく待った。
平地のど真ん中にあった森に積もった雪は、風で集められたせいかやけに深い。それが幸いした。
高度50メートル近くから、ザイルをなるべく長く垂らして降下したとはいえ、ビル4階建てから飛び降りるに等しい距離だった。
それでも無傷で済んでるのはこの深い、まだ降って間もない柔らかな雪がクッションになってくれたからだ。
ハウンドが下半身をせっせと掘り起こしてくれる。ニコラスが雪から脱した時には、敵機の音は完全に遠ざかっていた。
「だいぶ距離は稼いだろうが、接近すればザイル垂らしてんのが見える。すぐに追手がくるぞ」
「だね」
ハウンドが頭をぶるぶると振るった。犬が身震いで水を跳ね飛ばすように、器用に全身の雪を払っている。
ニコラスも真似してみるが、上手くいかない。
「何やってんの」とけらけら笑ったハウンドが、こちらの頭に手を伸ばした。それをニコラスはさりげなくかわして、自分で雪を払った。
先ほどの狼狽えぶりをみるに、彼女との接触は極力避けた方がいいだろうと、思ったのだが。
「え、なんで避けるの」
どこかショックを受けた顔で立ち尽くすハウンドに、ニコラスは「え」と固まった。
ハウンドも「ん?」と首をひねった。
数秒の沈黙。
直後、首をひねっていたハウンドがぴゃっと肩を跳ね上げ、真っ赤になった。
口をぱくぱく開閉させ、手を左右上下にあたふた振り回して訳の分からぬジェスチャーをしながら、早口でまくし立てる。
「いや、その。えっと、あれは想定外だったというか。ニコがああいうことする奴と思ってなかったからいつも逃げてたのにまさかの迫ってくるで攻守逆転してびっくりしてキャパオーバーになったというかその」
ただでさえ小さな声がどんどん尻すぼみになる。しかもなぜか徐々に後ろへ下がっていく。
なぜ逃げる?
「別に、嫌だった、訳じゃ、ない、です。はい」
消え入りそうな声音で後退し続けたハウンドは、そのまま幹の背後におさまって隠れてしまった。
残されたニコラスは一人、彼女の言葉を噛み砕いた。
つまり――?
――どういうことだ???
ニコラスは心底困惑した。
嫌ではないというなら、なぜ逃げるのか。というか、自分はべたべた触っておいて、触られるのは嫌というのはどういうことだ。
突然スキンシップへの嫌悪感が沸いたのか。それともずっと我慢してたのか。
ニコラスは一生懸命に考え、考え、考えて。
――まあ、嫌われてないならいいか。
非常に雑な結論で納得した。
余談だが、過去訓練生時代、担当教官に「未知の事態に遭遇すると対応がとたんに雑になる。だがその大胆な対応が功を奏することもあり、欠点とは言い切れない」というなんとも微妙な批評を貰ったことがある。
ニコラスの特徴の一つである。
「ひ、ひとまず位置確認しよっか」
ハウンドはあちこちのポケットをまさぐってスマートフォンを取り出した。自ら口にした「テッテレー」という効果音がやけに寒々しく聞こえるのは、あえて触れないでおこう。
「逆探知されないか?」
「新品だから大丈夫だよん。さてさて、ここは……」
電源を入れ、さくっと初期設定を済ませたハウンドは、早速地図アプリを開いた。
「う~ん。案の定というか、放牧地のど真ん中だね。近くに牛小屋、というか厩舎かな。それみたいなのがあるだけね」
「27番地から迎え寄こせないか?」
「スノーモービル持ってないんだよね~。こりゃ公道に出るまでかなり歩かにゃならんぞ」
ハウンドが困ったように頭をかいた。
肩越しに地図を覗き込んだニコラスは、ふと、一点を指差した。記憶にある名がそこにあった。
「ここはどうだ。駐車場あるし、公道に面してる。ここなら迎え呼びやすいんじゃないか」
「教会か。ちょい距離あるけど。う~ん、傾斜とか考えればここが最短か。んじゃここで――ニコ?」
「いや」
ニコラスは胸ポケットを握りしめた。数日前、恩着せがましい大家から貰った名刺が入っていた。
運命の女神とやらは、随分と性根が腐っているらしい。
「急ごう。追手がくる」
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