7-10
〈西暦2013年12月23日午前11時6分 アメリカ合衆国ヴァージニア州アーリントン〉
「共闘?」
唐突な申し出に、ハウンドは顔をしかめてワイヤレスイヤホンに手を当てる。
でないとスピーカー真下の大音量クリスマスソングに掻き消されてしまう。
安直に一階ホールのフードコートを選んだのは間違いだったか。
「何が目的だ」
『やだなぁ。ヘルが困ってそうだから助けてあげようってだけじゃない。そんな邪険にしないでよぅ』
左耳の主――ヴァレーリ一家当主のフィオリーノは相も変わらず浮薄な猫なで声で囁いてくる。
対して右耳のイヤホンの主が、虎を想起させる低い唸り声のような声音で続く。
『どの道この状況下でお前ひとりで対処するのは厳しかろう。拳銃一挺しかない駄犬一匹で何ができる? 番犬にすらならん』
ロバーチ当主ルスランの発言に、ハウンドは噛みつくのを堪えた。
こいつ、ほんとニコのこと目の敵にしてくるな。
だがニコラスを戦力として数えていないのは事実だ。彼にはモーガン一家を守ってもらわねば困る。
――大丈夫かな。
ちらと上階を見上げれば、ばちっとあった目が慌てて逸らされる。
まったく。さっきからチラチラ見てるの分かってるからな?
顔に表情が出にくいニコラスだが、その視線とニオイはいつだって正直だ。
そんなニコラスの様子を横に並ぶ母親が笑い、その後ろからやや離れて子供たちがついていく。
一名見るからに剣呑な目を向けている男がいるが、上の妹がなにやら諫めているので大丈夫だろう。
「で、対価は?」
ハウンドは両耳に控える当主2名に端的に尋ねた。対する特区の双璧の返答も非常に簡潔だった。
『そりゃもちろん』
『リストの共有だ』
『今後ヴァレーリは君のリスト入手を全力で支援する。争ったって益はないからね』
『代わりにお前がリストを入手した暁には、我らロバーチにも閲覧させてもらう。それまで助力は惜しまん』
『なんたってヘルは俺の一番大事な同盟者だからねぇ。あ、君の番犬に見せるのは無しにしてね? 価値も分からない馬鹿に見せる代物じゃないし』
『お前は私の最初の盟友だ。支援するのは当然のことだ。ただしあの駄犬には見せるな。関わらせたところで碌なことにはならん』
なんでお前らそこだけは共通してんだよ。ニコがそんなに嫌いか。
ハウンドは嘆息するとイヤホンを外した。
「――了解した。あとはお互い話し合って決めてくれ」
『あと?』
『どういうことだ』
『ん? なんで田舎者の声が――ああ⁉ ちょっとヘル、また二股したでしょ!? 酷いっ俺だけて言ったじゃない!』
『……チッ』
『チッ、じゃねえよこのシベリア産大根男! 俺のヘルになに言い寄ってんのさ!』
重なったイヤホンからぎゃいぎゃい騒ぐ声が聞こえるが(恐らくフィオリーノが一方的に詰ってるだけだろうが)、ハウンドは席を立ち周囲を見渡す。
――いるな。
姿はまだ見えない。だが人ごみから漂ってくるニオイは、何かが潜んでいることを明確に示している。
捕食者ではない。遊戯で命を弄ぶ傲慢な狩人のニオイだ。
――来るなら来い。
待ちわびたのは、何も向こうだけではない。この日を待っていた。
喰い殺してやる。
まだ見えぬ墓荒らしたちを前にして、黒妖犬は静かに目を眇める。
***
「ごめんなさいね、荷物持ちやらせちゃって。足は大丈夫?」
「もう3年近くになるからな。慣れればこのぐらい、どうってことはない」
そう? と首を傾げたエマは「無理しないでね」と微笑み、手元の缶詰に目を戻した。
ニコラスはラザニアに使うペシャメルソースの缶詰などどれでもいいと思っているが、料理によってメーカーを使い分けるエマにはそうもいかないらしい。
ニコラスは迷い、迷い、迷って。結局そうそうに切り出すことにした。
「エマ、話ってなんだ?」
コトリと缶詰を山に戻したエマは、ゆっくりと切り出した。
あたかもボロネーゼの肉に豚を混ぜるかどうかを問うように。
「フレッドが兵士になったのね、私のせいなの」
唐突な発言にニコラスは硬直した。
一体なにを――。
「いや。フレッドは、俺を追いかけてきたんじゃ、」
「うん、そうなんだけど。その原因が私なの」
私が伝えたのよ、あなたの逆鱗。
ニコラスは、息をのんだ。エマはとうとうと語りだした。
「自分で言うのもなんだけどね。私、貧乏と裕福なの、どっちも経験してるの。夫と結婚するまでそれなりにいい暮らしをしてたわ。大学だって普通に通ってた。
けど父が死んで実家の農園が抱えてた借金が発覚して、その直後に夫が事故で亡くなった。父の遺産と農園を売却して、借金は何とかなったんだけど、当時はマートルを生んだ直後でね。アグライアとイレーネは2歳だったし、一番上のフレッドだってまだ11歳だった。途方に暮れたわ」
ニコラスは驚いた。
貧乏人らしからぬ教養のある人だとは思っていたが、そんな壮絶な過去を持っているなど、初めて聞いた。
「けど途方に暮れてるばかりじゃいられないから、子供たちをフレッドに任せてすぐ働きに出たわ。大学時代に資格は取ってたから、上司とコネを作ってしまえば正社員になるのはそう難しいことじゃなかった。
お陰でブロンクスではよく嫌みを言われたわね。元金持ちが貧乏人のフリをしてるって。街を出ていけって言われるのも、一度や二度じゃなかった。お金の無心もよくされたわ。
あなたの――お母さんからも言われたことがあるの。あなたに生まれつき貧乏の人間の何が分かるの、って。お金持ちのあなたは私たち貧乏人を養う義務があるって」
「ばかばかしい」
ニコラスは吐き捨てた。
「みんな大なり小なりそいつなりの“不幸”を経験してる。貧乏人だろうが金持ちだろうがそれは変わらない。
なのに『自分こそが一番可哀想な人間だ』なんて被害者面して、喚き散らして他人に寄生して。拒絶しようもんならすぐ極悪人扱いだ。んな奴の傍に、誰がいたがる?
あの女が救われなかったのは自業自得だ。あいつが救い甲斐のない奴だったのが悪いんだ」
「うん、そうね。けどね、助けを求めるのにも教育がいると思うの。誰もあの人に『助けを求める方法』を教えなかった。それが気の毒で仕方なかったわ」
ニコラスは黙するしかなかった。
どうしてここまでエマが優しいのか、理解できなかった。
「それにね、分からないっていうのは、本当のことだと思ったの。私には十分な教育があった。自分を愛してくれる両親がいた。豊かな農園と、快適な家で育った。最初から何も持っていない人の気持ちは、私には分からない。――だからフレッドも分からなかった。私じゃ教ええてあげられなかったから」
口を開いたが、言葉が出てこなかった。
エマのせいじゃない、と言いたかったが、出てきたのは無意味な呼気だけだった。
「あなたとフレッドが大喧嘩したあと、事情を聞いてすぐ説明したわ。あの子が貴方に言った言葉が、どういう意味を持つのかを。
言葉ってね、弾丸なの。絶望を撃ち砕く時もあれば、希望を撃ち抜いてしまうこともある。人を殺せるの。フレッドはそれを放ってしまった」
「あいつの、せいじゃない。あいつは、」
「あなたを思ってのことだって? 悪意より善意の方がずっと質が悪いわ。反論した側を悪者にしてしまうんだから」
ニコラスは黙り込んだ。エマは眉尻を下げて苦笑した。
今にも泣いてしまうのではないかと、怖かった。
「最初、あの子は理解しなかったわ。けれど時間をかけて考えるうちに、自分なりの答えを出したの。軍に行きたいって言ったのは、その直後のことだったわ。
あなたが海兵隊に入隊したって噂が流れてきたのも、その頃だった。あの子、すごく後悔してたわ。自分があんなこと言ったから、黙って出ていったんだって」
エマはこちらを見た。ニコラスは心底恐ろしかったが、目を合わせた。
絶対に逃げてはならないと思った。
「フレッドはあなたが道連れにしたんじゃないわ。あの子が選んだの。あの子を戦場に追いやった原因は私なの。けど、私にはあの子にそれを伝えないことはできなかった。だって、あの子が傷つけたのは、あなたなんですもの」
だからね。
「また帰ってきて。どれだけ時間がかかってもいい。あなたは私たちの家族なのよ?」
エマにそう言われて、ニコラスは胸ポケットを掴み爪を立てた。
大家にもらった母親の墓があるらしい教会の名刺を、ポケットごと引き千切りたいのを、必死に堪えて。
「……エマの、気持ちは嬉しい。ずっと面倒みてくれたことも、俺の代わりに借金はらってくれてたことも、感謝してもしきれない。けど俺は……そんな資格、ないと思う」
「フレッドに申し訳ないからって言うのは無しにしてね。あなたの手を取ったあの子の選択まで否定しないでちょうだい」
きっぱり告げられて、ニコラスは言葉を詰まらせた。
今日はとことん黙ってばかりだ。
一方のエマは、気分を害した様子もなく眉と眦を下げて苦笑した。
「そんな顔しないで。私はあの日、フレッドがあなたを連れてきてくれてよかったと思ってるだけよ」
「……うん」
「さっ、パパっと買い物すませて帰りましょう。今日はご馳走だからね。早めに準備しないと」
「……手伝うよ」
「あら嬉しい。ニックがご飯手伝ってくれるなんて何年ぶりかしら。鈍ってない?」
「たぶん」
「そう、楽しみ」
にこりと微笑んだエマは籠を抱えると会計の列に並ぼうとした。その籠を奪って、代わりにニコラスが列に並ぶ。
「店内みてていいよ。まだ見たいもんあるだろ」
「ありがと。順番きたらちゃんと呼んでね」
「うん」
エマから離れると、途端にロジャースたちが早足でやってくる。
子供たちに質問攻めにされる彼女に、ニコラスは申し訳なく思った。
彼女と彼らの時間を奪ってしまった。せっかくのクリスマスなのに。
「失礼。通してくれないか」
ニコラスはすぐ脇へどいた。
レジに並ぶ列が出入り口を塞いで、背後のカップルが立ち往生していた。
「どうぞ」
「ありがとう」
恋人らしき男の腕に寄り添う女性が微笑んだ。やや気が強そうだが、なかなかの美人だ。
ふと、その真横の男に目をやって。
「!?」
ぎょっとした。
ヴァレーリ一家側近カルロ・ベネデットだ。
カルロはさりげなく唇に人差し指を当てると、通りすがりに籠の中へレシートを落としていった。
すかさずそれに目を通す。
――共闘締結。協力しろ。――
ニコラスはレシートを握りつぶすと、目線だけで周囲を見渡した。
いる。私服姿で判別しにくいが、ニコラスの脳は彼らの顔をきちんと記憶していた。
ヴァレーリ一家とロバーチ一家、その構成員がモールのあちらこちらにしれっと立っている。
家柄がでるのか、立ち話を装って男同士でつるむロバーチ一家と対照的に、ヴァレーリ一家はカフェや店内を練り歩きながらごく自然な振る舞いで溶け込んでいる。中には女・子連れ者もいる。
ムキムキの男同士で顔を寄せ合って突っ立っているロバーチ一家とは大違いだ。さっそく巡回警官に目を付けられている。
――共闘、ってことはハウンドと当主たちで話し合いがあったってことか。
レジを終え、店を出たニコラスは、エマたちの元へ向かいながら下階を見渡す。
たしかハウンドはフードコートのエリアにいたはず……いた。
ガラス張りの手すりの向こう、ニコラスはトレー回収台兼ゴミ箱の傍に立ち尽くす小柄な背を見つけた。
何やら周囲をしきりに見渡している。
瞬間。
戦慄した。
ハウンドの右後方、人ごみをぬって歩み寄る、目深にフードを被った小柄な人影。
横顔が一瞬見えただけだったが、ニコラスの目は見逃さなかった。
「後ろだハウンドッ!」
手すりに乗り出し、叫ぶ。
ハウンドがハッと顔をあげた直後。
ブーンという音が耳を掠め、背後の店頭にあった等身大サンタクロース人形の首が弾け飛んだ。
しん、とモールが静まり返る。
直後。
着弾。着弾。着弾。
次々に手すりのガラスが消し飛んでいく。
ニコラスは近くの植え込みに飛び込んだ。
四散したガラス片が、シャラシャラと場違いなまでの軽やかさでタイル床を滑っていく。
それはまるで星屑を撒いたかのようで、凍てついた静寂にそれはそれはよく響いた。
転瞬。モールは怒涛のパニックに陥った。
「ハウンド、ハウンド! どこだ!?」
叫びながら一階を見回すも、逃げ惑う群衆で埋め尽くされて、彼女の姿はまるで見当たらない。
クロム・クルアハの姿もなかった。
真横の手すりのガラスが砕け、頭を引っ込める。
向かいの服売り場の鏡越しに見れば、真反対の通路に、戦闘服に身を包んだ武装兵が次々に展開している。
『トゥアハデ』のご登場だ。
その銃口が、一斉にこちらを向いた。
銃撃。
弾丸で引き裂かれた葉が舞い上がる。
火の粉の如く散りゆくそれに、ニコラスは舌打ちした。
狙いは、俺か。
ニコラスはエマたちを探した。そして近くの婦人服売り場のレジカウンターにいる彼らを見つける。
「全員その場から動くな! 絶対に頭上げるんじゃないぞ!」
「おいニック兄! 何が――」
何重ものフルオート射撃がロジャースの言葉を遮る。妹たちから声にならない悲鳴が上がった。
ロバーチ一家が発砲を開始したのだ。続いてヴァレーリ一家も反撃を開始し、モール内の混迷がますます高まっていく。
銃撃の切れ間をついて、ニコラスは店内へ飛び込んだ。こういう時、走れない己の脚がつくづく憎い。
何十発という弾痕が追ってくる。
ニコラスは半ば匍匐するように前進して、そのままレジカウンター内に頭から突っ込んだ。
「全員無事か!?」
「あ、ああ」
気圧されるロジャースを横目に、ニコラスは一家一人ひとりに目を移す。
上の妹グレイスは蒼白な顔で耳を押さえ、双子のアグライア・イレーネは互いを、末の妹マートルはエマにしがみついていた。
エマは全身を震わせ子供らを抱きかかえていたが、その目は冷静に周りを見渡していた。
ニコラスは腰のM9自動拳銃の安全装置を外しながら館内を見回し、売り場脇の通路上の看板に目を付けた。
「全員あれ見えるか。非常口だ。俺が掩護するから、その間に通路奥へ走ってくれ」
「おいニック兄」
「一階に出たらすぐ建物の外へ出るんだ。人ごみに流されないでくれ。全員が向かう先が正しいとは――」
「いい加減にしろ!」
ロジャースが怒鳴り胸倉を掴んだ。
エマが「止めなさい!」と腕を掴むが、ロジャースはますます締め上げてくる。
「いつもいつも、そうやって黙って勝手しやがって……! なんで何も言ってくれねえんだ! 街でた時だって、一言いってくれりゃ、兄貴は軍へ行かずに済んだかもしんねえじゃねえか!」
ニコラスは息をのんだ。その目に浮かんでいたのは、以前のような憎しみではなかった。
少年時代、まだ自分とフレッドの後をついてきた頃の、「待って」とすがるべそっかきのロジャースだった。
「なんで黙って出ていった!? なんで別れも言わずにいなくなった!? 俺たち家族なんじゃなかったのかよっ!」
ロジャースの腕を掴むエマの手から、力が抜けていく。
グレイスがぐっと堪えるように唇を噛み締め、アグライア、イレーネ、マートルの目にじわじわと涙が溜まっていく。
ニコラスは全身から力が抜けていくのを感じた。
それから俯いて、ゆっくり口を開く。
「俺が、……俺が黙って街を出たのは、フレッドとの喧嘩だけが原因じゃない。あの日、あの女は、俺の母親は、また
今度はロジャースが息をのむ番だった。
エマが思わず口を覆い、グレイスは絶句した。アグライアたちは何を言っているのか分からず困惑していた。
「急にキスされて押し倒されて頭が真っ白になった。ともかく滅茶苦茶に抵抗しまくって、……気がついたら、母親が顔から血流して蹲ってた。そんで泣き出してさ。あんまり呆気なかったから逆に驚いた」
その蹲る姿を見て、ぞっとした。
「そっくりだったよ。客にいびられて泣いてたガキの頃の俺に。それで俺は『ああ、こいつが母親なんだ』って思い知ったんだ」
吐き気がした。何もかもが嫌になって家を飛び出した。もう何も見たくなかった。
フレッドやエマにこの醜態を見られたくなかった。
そしてドア閉じる瞬間、あの女は叫んだのだ。
ニコラス、と。
今まで絶対に呼ばなかったくせに。育児支援金を受け取るために適当につけた名だと言っていたくせに。
愛情など欠片もなく、我が子にまで見捨てられる恐怖から引き留めようとしたことは明白だった。
なのに、足を止めてしまった。
ほんの僅かに喜んでしまった自分をぶち殺したかった。
はじめて、血の繋がりというものを認識した。
これが呪いでないというなら、一体なんだというのか。
「ごめんな、ロジャース。俺の家族はやっぱあの女なんだ。あの女しかいねえんだ」
ごめんな、家族になれなくて。
ニコラスはその腕をそっと押しのけた。もうロジャースは刃向かおうとはしなかった。
「行ってくれ。ここは食い止めるから」
ニコラスは義足を懸命に動かしながら走った。固まったままの親友の遺族を置き去りにして。
***
「おい」
「銃あるか。できれば射程が長いの」
カルロの問いかけを即座に遮断する。
カルロはもの言いたげに口をつぐみ、無言で部下に顎でしゃくった。部下は持っていたARX100自動小銃を手渡した。
流れでフォワードアシストを叩こうとして、空振りする。
そういやあの手の機構があるのはAR系だけだった。
一度構え、銃床の具合を確認。パッドが微妙に揺れるが、この程度なら問題ない。
銃床の長さを調整して照準をのぞく。ホロサイト付きなので
「使ったことは」
「ない」
「当てられるのか」
「三発くれ」
そういってニコラスは構え、振り向きざまに放った。
まずは一発目。
弾丸が敵の右上を素通りしていく。左に120修正。
二発目を放つ。
今度は敵頭上を通った。下へ40修正。
敵の弾丸が真横を掠めた。けれど、ニコラスは微動だにしない。
三発目。
命中。弾丸は敵の顔面中央を撃ち抜いた。
「掩護する。タイミングはそっちに合わせる」
ヴァレーリ構成員があんぐり口を開けた。
カルロは両眉を吊り上げると、懐から
「使え。ナズドラチェンコと繋がってる」
ニコラスは急いで片耳にはめ、
『はーい、ご連絡ありがとうございますぅー。こちらナズドラチェンコ・コールセンターサービス、』
「ハウンドを探してくれ。できるだろ」
軽口を遮って早急に用件を伝える。
思い切り水を差されたロバーチ一家幹部セルゲイ・ナズドラチェンコだったが、ペースを崩そうとはしなかった。
『まあまあ、番犬ちゃんそう吠えないの。あのじゃじゃ馬ならとっくに見つけてる――って言いたいところなんだけど。あいつ、なんか調子悪くね?』
「前回のデンロン社での負傷が治りきってないんだ」
『負傷したのは?』
「両肩」
『つまり両腕まともに動かせないってことね。こいつはちとまずいな』
セルゲイはすぐさま位置情報を伝達した。
それを聞いたカルロが部下を引き連れ、ニコラスもそれに続いて移動を開始する。
手から嫌な汗が噴き出し、ニコラスは銃を握り直した。
――ハウンド……!
***
――こいつ、ニオイがしない……!?
咄嗟に飛んでテーブルに飛び乗ったハウンドは、襲い掛かってきた少年に驚愕した。
人間は感情の変動で体臭が微妙に変わる。分泌されるホルモンがそれぞれ異なるためだ。
だから怒ってる時はピリピリしたニオイになるし、嬉しい時はほわほわしたニオイになる。
殺気、敵意も同じだ。
だがこの少年からはそういうニオイが一切しない。嗅ぎ取れるのはじゃれつく幼子が放つ無垢なニオイだけだ。
殺気も敵意もない。なのに、一片の情け容赦なく鉈を振り下ろしてくる。
幼児が遊びでバッタの足をもぐように。
「そんなに逃げないで。おいらと一緒に遊ぼうよ」
ハウンドは答えず、フードコートのテーブルからテーブルへ飛び移る。
逃げ惑う群衆で床へ降りることができないからだ。
ちらと上階の『トゥアハデ』武装兵を一瞥する。
――撃ってこないってことは、殺す気はないってことか……?
ハウンドは舌打ちした。
『双頭の雄鹿』め、勘付いたか。
「おいら、クロム・クルアハ。君の名は?」
「……」
「ちょっと無視しないでよぅ」
しつこい。ハウンドは振り向きざまにMTs255
白兵戦はなるべく避けたい。こいつは自分と同類だ。
向こう傷も介さず相手に取り付き、零距離からの決勝打を連続で打ち込む。
死を恐れず、さりとて死なず。肉を断たせて骨を噛み砕く。
両肩の負傷で両腕が本調子でない自分は不利だ。
しかも相手は男。たとえ年下だろうと筋力ではこちらの方が元で劣る。
――バードショットならいけるか。
ハウンドは装填済みの12ゲージ8号弾を構えた。この肩ではスラグ弾は無理だが、比較的反動の軽いバードショットを両手で構えれば。
「動くな! 武器を捨てて投降しろ!」
ハウンドはばっと顔をあげた。
警官が数名こちらに銃口を向けている。先ほどまでモール内を巡回していた連中だ。
少年、クロム・クルアハのニオイが変わった。
下水道の汚泥をさらってきたような、重く強烈な殺意のニオイがぬらりと立ち昇る。
――まずい……!
「いいから撃て! あんたらがやられるぞ!」
こちらの叫びに警官はたじろいたが、引金は引かなかった。
相手が子供だからと躊躇したのだろう。それが仇となった。
轟音。
警官の背と口から血が噴き出した。胴体を穿った弾丸が背を貫通したのだ。
振り返れば、クロム・クルアハは鈍色の回転式拳銃を構えている。
続いて二発、三発、四発。
警官が次々に撃ち抜かれ、悲鳴を上げる間もなく絶命していく。
トーラス・レイジング・ブル。
怒れる牡牛の異名をもつ大口径拳銃だ。その破壊力は絶大、防弾チョッキすらこの銃の前では紙同然と化す。
ハウンドは即座に反撃した。バードショット弾を抜き、スラグ弾を装填。
片膝立ちで、両手で構える。
撃発。
クロム・クルアハの真後ろ、クリスマスツリーが真ん中から折れ飛んだ。
駆け抜ける激痛に思わず呻く。
傷の浅い右肩に反動が抜けるよう、右手で構えた。命中率を上げるべく両手で構えた。
それでも当たらず、このざまだ。
「おっほ。それがスラグ弾? いつもは片手撃ちなんだよね? すごいなぁ。おいらはこの454カスールで精いっぱいだよ」
「……よく喋るガキだな」
「それさっきも言われたんだよねぇ」
けどさ。
頭上に影がよぎった。飛びずさろうとするも、痛みで動きが遅れる。
ハウンドはその場で斬撃を受けとめた。
「っ……!」
重い。両肩がアイスピックでえぐられたように痛む。
「その肩で何発撃てるかなぁ?」
ニコニコと笑いながら、クロム・クルアハが刃にますます体重をかけてくる。
肉切り包丁を空見する、大振りな鉈を軽々ふり回しているのでもしやと思ったが、見かけに反してかなりの怪力だ。
頭上の重みが、ふっと抜けた。
しまったと思う間もなく、鳩尾に蹴りが直撃する。
ハウンドは身を丸め、床を転がった。
後頭部をぶつのは避けたが、傷が開いた。紅く擦れた血痕が床に破線を残した。
「ありゃりゃ。傷口開いちゃったねぇー。でもまだもつよね?」
悶えたくなるのを必死に堪え、立ち上がって。
ハウンドは硬直した。
指先で摘ままれ、ぷらぷら揺れているジップロック袋。
その中に厳重に密封された一冊を顔の高さにまで上げ、クロム・クルアハは目元を弧の字に歪めた。
「さあ、もっと遊ぼうよ」
「クソガキが」
血が急速に沸騰する。
腸の奥底から、深緑の目の少女がぞろりと這い上がってくる。
代われ。身を委ねろ。わたしの方が上手く殺る。
墓荒らしは皆殺しにしなければ。
――駄目だ。まだ駄目だ。
ここにはニコラスがいる。彼に『サハル』は見せられない。
見せれば最後、彼は絶対に救おうとしてしまう。救えない者のために命を捨ててしまう。
ハウンドは顎から滴る汗を、無言でぬぐった。
***
――あんの馬鹿、やっぱり傷が……!
床に残る血痕に、ニコラスは焦った。
量からして両肩の傷が開いている。両手の銃剣を駆使する戦闘スタイルのハウンドには致命的だ。
「ベネデット、何人かこっちに寄こせるか!?」
「寄こせると思うか!」
爆音に近い銃撃音に負けじとカルロが叫ぶ。
『トゥアハデ』の猛攻が続いていた。
ヴァレーリ一家はもちろん、元軍人構成で荒事に慣れっこのロバーチ一家からも続々と被害が出ている。
この弾幕では下階にいるハウンドへの掩護は不可能だ。身を乗り出した途端、撃たれてしまう。
『こちらナズドラチェンコ、手帳らしきものを視認した。ガキがもってやがる』
「そのガキ狙えるか。そいつが連中の指揮官だ」
『冗談だろ。どう見てもまだ15、6のガキだぜ?』
「対峙すりゃわかる。ありゃガキの皮被った化物だ」
そう吐き捨てて、ニコラスは柱から半身を乗り出した。
フルオートのまま、引金を引いて一秒単位で離す。
始終フルオートではすぐ弾がなくなるし、いちいちセレクターをいじっている猶予もない。
フルオートのまま指きりで区切って撃つのが一番効率がいい。
乗り出す位置を毎度変えながら、頭を出しては撃ち、引っ込めるを繰り返す。
当初はあれこれ指示を出してきたヴァレーリ・ロバーチ両家だったが、今は完全に放置だ。こちらの射線上に飛び出してくる奴もいなくなった。
勝手にやらせた方がいいと判断したのだろう。大いにありがたい。
『……ま、確かにあのじゃじゃ馬がヴァレーリ当主を殺ったのも15の時だったな。んじゃま、まずは正面を片付けますかね』
そう一人納得したセルゲイの声に続いて、くぐもった低いロシア語が聞こえた。
当主ルスランの声だ。直接指揮を執っているらしい。
その時だ。
正面。中央ホールを囲う環状の通路。
その最奥に陣取る『トゥアハデ』の、右側面の分隊が前進し始めた。
即席バリケード越しに防御に徹するこちらにしびれを切らしたのだろう。
つられてもう一分隊が前へ出る。
ロバーチは、それを待っていた。
突出した二分隊にフルオート射撃が降り注ぐ。
三階へ移動していたロバーチ別動隊による側面攻撃だ。
やはり元軍隊なだけあって動きが早い。監視カメラをハックしたセルゲイの誘導も一役買っている。
マフィアを称賛するのは気に食わないが、今回ばかりは敵でなくて助かった。
『このまま十字砲火に追い込むぞ。こっちのタイミングで前進――』
瞬間。三階に展開していたロバーチ構成員が倒れた。
続いて一人、もう一人。
血狼煙が、ガラス張りの手すりを紅く彩っていく。
その赤く彩られた中央に、蜘蛛の巣状の穴があった。
「狙撃! 11時の方向、三階!」
叫ぶやいなや、ニコラスは引金を引き絞った。
三階に展開していたのは、ロバーチ一家だけではなかった。
正面左、三階11時の方向から黒い戦闘服の一団が現れる。そこに記されたロゴは――。
「
カルロが呻き、セルゲイの舌打ちが無線機器越しに響く。
巡回警官の通報を聞きつけたか、それともUSSAによる仕込みか。
本来味方であるはずのFBIの登場がこうもありがたくないとは、なんたる皮肉。
「連中、ついにFBIを顎で使える立場になったらしいな。天敵ぶつけてきやがった」
「罠だったってことか?」
「ああ」とカルロは弾倉を替えながら言った。
「恐らくこの移送計画そのものが、ヘルをおびき出すための罠だ。“二冊目の手帳”を移送する気なんて端からないのさ。罠の可能性は踏んでいたが、FBIをぶつけられるとは思わなかったな。この手際の良さ、もうモール周辺は包囲されてるかもしれん」
「どうする気だ」
「こちらのことはこちらで対処する。お前は今すぐ飼い主の元へ行け。なぜかは知らんが、連中はどうしても彼女を生け捕りにしたいらしい。さっきからヘルにだけ弾が飛んでいかないのがその証拠だ」
息をのむこちらに、カルロはしっしっと手を振った。
「いいからとっとと行け。ヘルが取られた
近くの構成員が弾倉をこちらに滑らせてくる。
それを受け取って、ニコラスはホロサイトを外すと、照星・照門を起こした。
距離は二百メートルに合わせる。現在の敵の配置だと多少前後するが、目視で何とかすればいい。
一呼吸つき、銃撃音に耳を傾ける。
オーケストラにも似た、いくつもの射撃音が不規則に交錯している。その音の切れ目に、ニコラスは意識を集中させる。
射撃音が二つ、同時に途切れた。
続いて3秒後に、もう二つ。
瞬間、ニコラスは物陰から飛び出した。
スライディングの要領で床に身を投げ出し、
正面の敵が二名、顔や首を撃たれて倒れる。
弾倉交換を終え頭を出したタイミングを狙った。
植え込みに到達する。2秒が経過していた。
1秒待って、今度は三階を狙う。
発砲。今度はFBI隊員二名が倒れる。
前方の盾持ちとその後方役がやられたので、隊全体の前進が止まった。
そこにロバーチ一家の反撃が集中する。
その隙に、ニコラスは走った。
「必ず連れてくる! それまで退路用意しとけよ飼い猫!」
カルロにそう叫び、ぎこちない走りで非常階段へ急いだ。
***
『あらあらぁー、頼りにされてんじゃないの。ご愁傷様ぁ』
「まったくな。反吐が出る」
ニコラスを見送って、カルロは深く溜息をつく。
奴め、こちらがマフィアだということを忘れてはいるんじゃなかろうか。
しかも行きざまにFBI二人を片付けていきやがって。つくづく憎たらしい番犬だ。
『おやおや? ナイーブなカルロ君は今カレに気遣われて感傷的な気分になっちゃいましたかねぇ』
「黙って駄犬のナビゲーとしてろ、元革命家」
刹那の沈黙。
のち、セルゲイの声音が急降下した。
『調子こいてんじゃねえぞ、ナポリの猫が。下の穴も緩けりゃ上の穴も緩いってか』
「そう切れるなよ。お前みたいなのが民主活動家メンバーだったってのが意外だっただけさ。チェチェン帰還兵の負け犬どもとつるんでんのも、同類意識からか?」
『腹掻っ捌かれて死ね、クソ猫』
ぶつりと切れた通信に、カルロは肩眉を吊り上げた。
これでセルゲイが単身リスト争奪戦に参戦したのは、事態を引っ掻き回すため、という線が消えた。
ただの愉快犯かと思っていたが、存外義理堅い男なのかもしれない。
だが油断はならない。
義理堅いということは、一家を裏切ってもヘルハウンドに義理を通す可能性もあるということだ。
今後も注視する必要があるだろう。
にしても、セルゲイのような男も手玉に取るとは、魔性の女とはよく言ったものだ。
本人にその自覚がまるでないところも含めて実にあざとい。
たかが18の小娘が生意気なことだ。
しかも、その見つめる先には一人しかいないときた。
――うちの首領が目の色変えるはずだわ、まったく。
カルロは消えなくなりつつある隈の残る目元を揉み、再び戦闘に参加していった。
***
「くそ、くそ、くそっ! あの野郎、かっこつけやがって……!」
ロジャースは座りこんだまま、何度も拳を床に打ち付けた。妹たちはお互いに抱き合い、母エマも黙ったままだった。
動けなかった。
ニコラスと別れたあの後、言いつけ通り家族を連れて非常階段へ向かおうとした。そこで銃撃戦が始まった。
凄まじい量の流れ弾に、一家は咄嗟に近くにあったエスカレーターの中へ逃げ込んだ。
跳弾でエスカレーターはすぐ動かなかった。
だが射線に対し垂直に位置していたエスカレーターはいい障壁になってくれた。
そこでロジャースたちは銃声の聞こえる一階、二階を避け、三階へ向かった。
その三階から非常階段へ向かおうとしたところ、またも銃撃が始まって動けなくなったのだ。
今はスポーツ用品店の奥に隠れているが、ここもいつ戦場になるか分からない。
そう。戦場だ。
――『ずっと安全な本国で生きてたあなたが、何をもってウェッブを裁く気だ』――
うるせえ。本国にだって地獄はあった。戦場に負けず劣らず悲惨な生活をしていた者は、あの街には掃いて捨てるほどいた。
戦場だけが地獄なわけじゃない。
けれどニコラスは、兄フレッドは、その両方の地獄を知っている。
そしてフレッドは、戦場の地獄に飲まれてしまった。
――また俺だけのけ者かよ。
いつも三人だった。遊びも勉強も喧嘩も、何をするにしても。
いつだって三人一緒だった。それこそ、本物の兄弟のように。
大人になって別れることがあっても、また三人で集まって他愛のない話ができるのだと、疑いもしなかった。
なのに、ニコラスは出ていってしまった。
自分はおろか、フレッドにも母にも何も言わずに。
慕っていた。それこそ、本当の兄のように。
昔から警戒心が人一倍強く、無口で体も小さくてフレッドとは何もかもが正反対だった。
そのぶん恐ろしいほど頭がよく、冷静沈着、喧嘩の作戦はいつもニコラスが仕切っていた。
ガキなのに連戦連勝だったのは、ニコラスの作戦のお陰だった。
不器用だったが、誰よりも思いやりのある面倒見のいい男だった。
自慢の兄だった。
そんな兄が、黙って出ていった。
なぜ出ていった?
自分たちが嫌いになったのか?
それとも自分たちに本当は心を開いていなかったのか?
ずっと一人怒りを抱えて生きてきた。恨んですらいた。
フレッドが戦死した時、それはもう取り返しのつかない感情になっていた。
その兄の本心を、先ほど知った。
「……んだよ。なんで言ってくんなかったんだよ」
ニコラスが言わなかった理由なら分かっている。
昔からそういう奴なのだ。どれだけ自分が痛かろうと苦しかろうと、心配をかけまいと黙っている男なのだ。
自分が欲しがったローラーブレードのための金を、郵便箱に突っ込んだ時もそうだった。
そのせいで、母親に酷く殴られたというのに。
何も知らない自分は無邪気に喜んでいた。
――『ごめんな、ロジャース。俺の家族はやっぱあの女なんだ』――
ニコラスの声が耳奥にこびりついて離れない。
また何も知らなかった。何も知らずに勝手に怒って恨んで生きてきた。
俺は――。
「ロジャース」
母が呼ぶ声がした。顔を上げれば、母は大きな箱を抱えてこちらに向かってきている。
クリスマス用にラッピングされた、50センチ四方の大きな箱だ。
「たぶんこれがそうだわ。あなたなら使いこなせる」
「母さん……?」
「行ってきなさい。置いていかれるのが嫌なんでしょう?」
毅然たる口調に、息をのむ。
母は背筋を伸ばし、真っ直ぐこちらを見下ろしていた。決意を促して叱りつける時の、母の目だった。
「『いま自分にできることをする』、それがモーガン一家の家訓よ。さあ、行きなさい。ニコラスに本当の家族ってものを教えてあげなさい」
しばし黙して、ロジャースは思い切り両頬を叩いた。
そうだ。ニコラスは今戦っているのだ。
上等だ。戦場の地獄、とくと味わってやろうじゃねえの。
ロジャースは箱のラッピングを、勢いよく引き裂いた。
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