7-9

 どれだけ歩いたのか、分からない。どこを歩いているのかも。


 思い出すのは、ハウンドと再会したあの日だ。

 射界先の野犬に喰われそうになっていた子供のために、拠点を離れた。あの時と同じ心情だ。


 死にたかった。


 誰かに罰せられて、死をもって償って、早くフレッドたちのところへ逝きたかった。


 もう何もかも終わりにしたかった。


――もう一度、か。


 もう一度、連れ戻す。あの子を地獄へ行かせはしないと。

 教官に意気込んだ時のことが、頭をよぎる。


 何のことはない。自分があの子を地獄へ連れ戻したのだ。


 そもそも、助ける気などなかった。

 人が喰い荒らされる様を、自分が見たくなかっただけだ。さっさと死んで全部チャラにして、逃げたかっただけだ。


 偽善だった。


 我欲で動いたら、結果的にその子供を救ったというだけの話で。それを、愚かにも「自分が救った」などと勘違いした。


 でなければ、などという発想にならない。


 何ともまあ、偽善者らしい末路だろうか。


 偽善で人を救って、おこがましくもそれを本心からの善行だと誇って。

 結果、あの子を不幸にしただけだった。


――どうすればよかったんだ。


 前かがみになった惰性で足を前に進める。


 行き先なんて知らない。もうどこへでも行けばいい。何もかもが、どうでもいい。


 そんな投げやりな思考で、彷徨っていたからだろう。ニコラスは気付かなかった。


 うっすら雪化粧の施された、整然たる石畳の道も。花を携え粛々と歩く人々にも。


 受付の一人がこちらを見て、ハッとした。そして止めようとする警備員を制止し、同情に満ちた表情で首を振る。


 ニコラスは見ていなかった。

 だから、自分が入ってはならない場所に足を踏み入れたことに、気付かなかった。


――死なせてやった方がよかったのか……?


 スコープ越しに目が合ったあの日を、ニコラスは今でも鮮明に思い出す。


 数百メートルの距離をものともせず、自分を見上げていたあの深緑の眼差しを。


 命の恩人への感謝でもなく、侵略者への憎悪でもなく。ただじっと、汝の行い見たりとばかりに見つめる、獣のような目をした子供を。


 あの時、撃てばよかったのだろうか。あの時、あの子を撃ち殺していれば、あの子を不幸にせずに済んだのだろうか。


 撃つのは簡単だ。

 標的を捕捉して、照準を合わせて、呼吸を整えて、引金を引く。何千何万回と行ってきた動作だ。いつも通り、やればいい。


 けれど、もうできない。

 あの子を知ってしまった。


 いつもヘラヘラしていて、そのくせいざという時は誰よりも真剣で。

 語尾をちょっと間延びさせるのが口癖で。それでいてめっぽう強くて。

 他人思いで。本当に笑った時は、眩しいぐらい綺麗で。


 もう、自分はあの子を撃てない。殺せない。

 なら、一体どうしろというのか――。


「失礼、サー」


 我に返ったニコラスは顔をあげて、さっと蒼褪めた。


 衛兵が二人、立っていた。


 着剣したM14小銃を携えた右胸の白銀の徽章も眩い、星条旗と同じ青・赤・白を基調とした軍服を一部の隙もなく着用した墓守が。


 アーリントン国立墓地を鎮護する、第三歩兵連隊。合衆国に現存する最古の兵士オールド・ガードだ。


 しかも、この衛兵は階級章を外している。無名戦士の墓を守っていた上番の衛兵だ。

 道のりと、衛兵の肩に積もった雪が溶け切っていないことから察するに、交代を行った帰りだろう。


――しまった。


 いつの間にか、白亜の墓石の立ち並ぶ芝生の上に、ニコラスは立っていた。


 衛兵は、墓場の静謐を犯す者、死者を愚弄する者、墓場を荒らすあらゆる無礼を決して許さない。

 そしてこの寡黙な兵士が沈黙を破るのは、無礼者への警告を発する時だ。


「そこにおられると、来られたご遺族の方が困ります。嘆くのであれば、場所をお考え下さい」


 慇懃かつ無情だが、断固たる警告だった。邪魔者は立ち去れということだ。


 ニコラスは短く詫びて、早々に踵を返した。ここにいてはならない存在だということは、誰よりも理解していた。


「サー」


 衛兵が再び呼び止めた。

 振り返ると、衛兵は口の端をわずかに歪めた。


「失礼しました。そういうつもりで言ったのではありません」


 衛兵は背後の上官が頷いたのを見届けると、一つ頷き「こちらへ」と道を開けた。


「見たところ、イラク・アフガニスタン帰還兵の方ですね? このエリアは第二次大戦で散った方々の墓所です。ここで嘆かれてもあなたの戦友の方々は気付けません。どうぞ、こちらへ」


 そこに至り、ニコラスははたと気付いた。先ほどの衛兵の表情は、任務を遂行する彼ができる精一杯の苦笑いだったのだ。


 静かだが厳然たる足取りで進む衛兵のあとに続く。


 動画で何度か見たことはあるが、本当にロボットのような動きをする。人間にこんな動きができるものなのかと、つくづく感心した。


――ここが、アーリントン。


 衛兵の背を追いながら、ニコラスはある種の感動を持って周囲を見渡した。


 写真で見たアーリントンは、蒼穹に青々とした緑が広がっていたが、冬の光景も見事なものだ。


 曇天の下でなお光り輝く白い墓石が、どこまでも続いている。墓石に刻まれたありとあらゆる宗教のシンボルマークが、それだけ大勢の人間が眠っていることを否応なく突き付けてくる。


 ぽっ、と。街灯がついた。


 クリスマス・イルミネーションとは真逆の、橙色のシンプルな明かりが墓所を照らし出す。芝生の葉先に積もった雪の粒が、黄金色に輝く様が綺麗だった。


 容易には触れてはならない、厳粛な美と、静寂がそこにあった。


 ここに、フレッドたちが眠っている。


「お名前は」


 衛兵が尋ねた。一瞬、自分の名前を答えそうになって、慌てて親友の名を告げた。


「フレッド・モーガンだ。1984年生まれで2007年に戦死、享年23歳、最終階級は少尉。それからピーター・テュルク、1988年生まれで同じく2007年に戦死。享年19歳、最終階級は上等兵。それから――」


 思い出した順に、部下たちの名を告げていく。


 8人まで答えたところで、衛兵が足を止めた。


「全員、覚えておられるのですね」


「当然だ」


 咄嗟に口をついて出た返答にニコラスは驚いた。

 なぜだかは分からないが、自分で自分に驚いた。


 衛兵はちょっと驚いた気配を見せたが、さした反応も見せず案内を再開した。


 衛兵が道案内するという滅多に見ない光景に、道行く人が何事かと目を向けてくる。ニコラスとしては、少々肩身が狭かった。


――フレッドの葬儀の時は、軍法会議で出られなかったからなぁ。


 遠くの生垣に囲まれた白磁の建物に目を眇める。無名戦士の墓だ。それをぼうと眺めたニコラスは、改めて自分が今アーリントンにいるのだと実感した。


 不意に、衛兵が立ち止まった。


 第六十区画。墓石を見るに、この辺りがイラク・アフガニスタン戦没者のエリアだろう。


 しかし衛兵は墓石ではなく、墓地の奥の木立を見ていた。


 目を凝らしてみる。


 なんだろうか。黒い小さなものが、墓石に首を垂れるように座り込んでいる。動物だろうか。ずっとここにいたのか、雪が全身にうっすら降り積もって、背の毛並みが灰色に見える。


 あ。いま緑色の目が、街灯を反射して……。


 瞬間。凍り付いた。


 あれは目じゃない。孔雀石のループタイ。


「ハウンド!?」


 ニコラスは神聖な場であることも忘れて叫んだ。


 見間違えようもない。ハウンドが、墓場奥の木立の中で蹲っている。

 一見、誰かを悼んで祈りを捧げているようにも見えるが、黒髪の下から覗く横顔は驚くほど真っ青だ。


 ニコラスは駆け出した。

 単軸義足は走るのに適していない、などということも忘れて全力で走った。


 途中、何度も滑って無様に転んだ。そこからすぐ起き上がって、無我夢中で走った。


「ヘルハウンド!!」


 ハッと振り返ったハウンドが、瞬時に顔を強ばらせた。

「どうして」と言わんばかりの唖然は、すぐさま「この場から離れねば」という焦りの表情に変わった。


 ハウンドが幹に手をつき立ち上がる。一歩踏み出そうとして、その背がぐらりと傾いた。


 倒れる。その寸前で、やっと手が届いた。


 小柄な背を支えるなり、ニコラスはその体温の低さに愕然とした。

 まるで氷像を抱えているようだ。


 髪に積もった雪が融け、氷になって貼り付いている。呼気のせいか、睫毛と眉毛に霜がはっている。

 唇はびっくりするほど青紫色で、そこから白い吐息が微かに漏れている。


 ニコラスは熱を分け与えるように、彼女の頬を包んだ。


「おいハウンド、ハウンドっ! しっかりしろ!」


「ニコ、大丈夫。大丈夫だから、」


「どう見たって大丈夫じゃないだろ!? こんなクソ寒い中なにやってんだ!?」


 腕の中で逃げようと身をよじるハウンドを必死に押し留める。たとえ痛がったとしても、逃がす気はなかった。


 なにより、いつもならものの数秒で抜け出して捻じ伏せるハウンドが、未だに自分の腕から抜け出せないほど弱っていることに、酷く焦った。


 今年の首都は5年ぶりの大寒波で、今日の最低気温はマイナス8度を下回っている。いったい何時間ここにいたのかは知らないが、このままでは凍死してしまう。


「サー、その方とお知り合いですか?」


 衛兵の掛け声に我に返る。

 またも墓場の場を乱したことを自覚したニコラスは、慌てて弁明した。


「退役したあと、ずっと俺を支えてくれた人だ。まさかここで会うなんて、思ってなくて」


「……今日上番だった同僚が話していました。私を含め少なくとも4人が、彼女がこの木立の下にいたのを目撃しております」


 ニコラスは蒼褪めた。


 冬の衛兵交代は1時間ごとに行われる。

 つまりハウンドは最低でも4時間、氷点下の屋外に座り込んでいたことになる。しかも雪が降っている最中だ。


 ハウンドを一瞥した衛兵の鉄仮面に、初めて陰りが見えた。


「我々は基本、死者を悼む人々を立ち退かせるような無粋はいたしません。ですが、この気温で4時間以上も雪のなか座りこんでいるのは流石に心配になります。どうやって説得しようかと、同僚たちと話していたところです」


「そう、だったのか」


「サー。どうかその方を、暖かい場所へ連れて行ってはくれませんか。我々はここから動けませんから」


「ああ、分かった」


 ニコラスはハウンドを背負った。義足側のバランスが崩れそうになるが、気合と経験でなんとか踏ん張った。


 ハウンドはもう、抵抗しなかった。


 敷地外へと足を向け、ニコラスは衛兵を振り返った。


「取り乱して悪かった。見つけてくれてありがとう。すぐに連れていく」


「……戦友の方への墓参りは、よろしいので?」


 ニコラスは言葉を詰まらせ、俯いた。


「ずっと……、合わせる顔がないと思ってたんだ。今日来たのも成り行きで、花すら用意してない」


 つい、と立ち並ぶ墓石に目を向ける。


 もし亡霊というものが存在するなら、自分たちは今、亡霊の群衆の中に立っているのだろう。

 もしかすると、フレッドたちも見ているのかもしれない。


 無言に、もの言いたげな顔でじっとこちらを見つめて。


 だからニコラスも、彼らがいるかもしれない虚空を見つめて、こう言った。


「だから、今度はちゃんと土産もってくるよ。できるだけ早く。遅刻したうえに手ぶらで顔出したんじゃ、あいつらにどやされる」


 衛兵は「そうですか」と呟くと、カッと高らかに踵を鳴らした。

 そのこちらを見る眼差しに、なぜか既視感を覚えた。


「では、またの来訪をお待ちしております。我々は、亡き英雄を悼み忍ぶ人々への門を閉ざしません。お気軽にお越しください」


「ありがとう」


 ニコラスはハウンドを抱え直すと、ゆっくり踵を返した。


 立ち去る最中、背に衛兵の視線をずっと感じていた。




 歩くこと、数十分。


 敷地外が見えてきた。そのせいか、背中のハウンドが暴れ始めた。


「こら、大人しくしてろ」


「だからもう大丈夫だってば」


「雪のなか4時間も座りこみする馬鹿の大丈夫なんか当てになるか。つかお前、なんでここにいるんだ。マクナイト爺さん奪還作戦の指揮とってたんじゃなかったのか」


「それは、」


 ハウンドが不平を言いかけた、その時。


「――ニック……?」


 そよ風に野花が揺れるような、ごくわずかな囁きだった。思わず聞き逃してしまいそうなほど、小さな。


 けれどニコラスの足を止めるには、それで十分だった。


 恐る恐る、振り返る。


 一番会いたくて、一番会いたくない人が、そこにいた。


「ニック? ニックよね……?」


 背の高い女性が一人、立っていた。


 大きな目はこれ以上ないほど見開かれ、優しげな茶色の瞳が見る見るうちに潤んでいく。


 短く切りそろえた黒髪は、以前より艶がなくなった。滑らかだったコーヒー色の肌には消えないしわが刻まれていた。

 けれど凛然たる美しい立ち姿は、昔のままだった。


「エマ」


「ああ、ニック。ニック……!」


 籠の花束が手から零れ落ちた。その後を大粒の雫が続いていく。


 口元を両手で押さえて泣く親友の母に、ニコラスはただただ立ち尽くした。




 ***




「考えたねぇ。やっぱあの子、賢いや」


 アーリントン国立墓地より2キロ東。


 ポトマック川を遡上する巡視船の甲板で、クロム・クルアハは双眼鏡越しに件の少女を凝視した。


 クロム・クルアハの任務は、ヘルハウンドを抹殺することだ。だが、ただ殺せばいいという話ではない。

 時と場所によっては、裏目に出ることは大いにあり得る。


 アーリントン国立墓地が、その一つだ。


 あの墓地はアメリカ人の精神的支柱だ。たとえ凶悪テロリストを暗殺するためとはいえ、墓場を汚せば大問題になる。

 むしろ、なぜそんな人物をこれまで野放しにしてきたのかと、合衆国安全保障局USSAが逆に糾弾されかねない。


 いくらUSSAといえど、国民の逆鱗には迂闊に手を出せなかった。たとえ、その逆鱗の上で標的がのうのうと座りこんでいようと、だ。


「やっぱり来たな、あいつ。なんで助けちゃうかなぁ」


 クロム・クルアハは女性と話しこむ男の背を睨んだ。


 凄腕の狙撃手と聞いていたが、こちら『トゥアハデ』の狙撃手が己の背に照準を合わせているなど、夢にも思っていないらしい。


 お陰で見るからに本調子でなさそうな少女が、周囲に視線を飛ばして警戒する羽目になっている。

 一体どちらが守られているのやら。


 経歴を見た時はもしやと思ったが、アレは駄目だ。


 所詮はヒーロー気取り。

 己の不幸に酔い、周囲から同情されて構ってもらいたいだけの、つまらない男だ。


 と、そこに背後から部下が衛星電話を差し出した。


「クロム・クルアハ様、『ヌアザ』様よりご連絡です。火急の案件だと」


「またぁ?」


 クロム・クルアハは呆れ嘆息した。


 『トゥアハデ』指揮官のヌアザはいつも「緊急だ」といって人を呼びつける。

 その実、本当に緊急事態であったことはほぼない。


 ただの心配性で、自身の命令に即対応する部下を見て満足するだけの、せっかちなおっさんだ。


 クロム・クルアハは億劫げに電話を取った。


「なに」


『ブラックドッグを殺すな』


 相変わらず唐突な物言いに、クロム・クルアハは苛立った。


「なんで」


『様子がおかしい』


「彼女がこれまで一般人らしい行動なんていしたことないでしょ。五大マフィアにハッタリかまして領土ぶん捕るような子だよ」


『それを踏まえたうえでの長官のご判断だ』


 USSA長官アーサー・フォレスターの名を出され、クロム・クルアハは殺気だった。

 控える部下が生唾を飲み込む音がする。


 それに気付いているのか、いないのか。ヌアザは腹立たしいほど淡々と続けた。


『奴が自責の念から自殺に及ぶ可能性は以前から高かった。だが今回の奴の行動に関しては妙だ。まるで我々に殺されるのを待っているかのようだ』


「最後に差し違えようってつもりじゃないの?」


『だったらなぜアーリントンを選んだ。我々が一番手を出しにくい場所を、なぜ死に場所に選んだ?』


 クロム・クルアハは黙った。その黙らねばならないこと自体が、忌々しい。


『ともかく奴は何やら企んでいる節がある。それが明確になるまで、手出しはするな。長官直々の厳命だ。くれぐれも軽はずみな真似はするなよ』


 それだけ告げると、ヌアザは一方的に通話を切った。


 その衛星電話を、クロム・クルアハはLカップコーラのカップの中に投げ込んだ。


 相変わらず人の神経を逆立てることが得意な男だ。あえて、自分が最も言うことを聞くであろうやり方で釘をさしてくる。

 癇に障るったらありゃしない。


――そうだ。いいこと思い付いた!


 妙案が浮かんだクロム・クルアハは、目を輝かせて船首の手すりに飛びついた。


 ヌアザの命令は、ヘルハウンドに手を出すな、だ。なら彼女の方から手を出すように仕向ければいい。


「おいらってば、あったま良い!」


 手すりを飛び越え、両手を広げて全身で江風を受けとめる。


 そういや昔の映画でこういうのあったな。乗っていた船が氷山に激突して沈んで、男の方がカッコつけて女だけ助けようとして死んだやつ。

 どうして二人とも扉に乗って救助を待たなかったのか、自分にはまるで理解できない。


 ともかくだ。


 クロム・クルアハは鼻歌を歌いながら携帯を取り出した。それを見た部下たちが、背後で露骨にほっと息をつく。

 それが気にならないほどクロム・クルアハは上機嫌だった。


 連絡先は、USSA情報部。

 明日、『二冊目の手帳』移送に携わる局員のうちの一人だ。


――善は急げっていうしね。


 クロム・クルアハはワクワクしながら電話を待った。


 彼にとっては、自分の愉しみを達成することが善だった。




 ***




 一方的な別れと、思わぬ再会とを果たして混乱気味だったニコラスだが、ハウンドがいてくれて心底助かったと思った。


「この部屋を使ってね。シャワールームは真横だから。あなたは、」


「一緒の部屋でいいです」


「そう? じゃあそれでお願いね。あと――」


 エマからゲストハウスの説明を受けるハウンドの後ろをついていきながら、ニコラスはともかく逃げたくて仕方がなかった。


 いずれちゃんと向き合いたいと思っていたのは本心だ。

 特にエマとは、いつか必ず話をしたいと思っていた。


 だがこんな急でなくったっていいだろう。


「母さん、本当にここに泊める気か」


「ロジャース、そういう言い方は止めなさい。クリスマスシーズンの今、DC内のホテルはどこも埋まってるわ。もう夜なのよ? 今から二人に宿探しをさせるつもり?」


 背後のリビングからこちらを睨んでいたロジャースが、露骨に舌打ちした。


 一番上の妹で長女のグレイスが「ちょっと」と脇を突っつくが、改善する気はまるでない。


 その下の双子アグライアとイレーネは無言にソファーに腰かけ、末の妹マートルはキッチンから不安そうにこちらを窺っている。


 皆が皆、思い思いの表情でこちらの一挙一動を注視している。

 何か言いたげなその視線が、ニコラスには痛くて仕方なかった。


「踏み込んだことを聞くのだけど、ニックとはどういう……」


「支援者です。リンファ・ロッシー。改めて、後援者代表を引き受けてくださってありがとうございます、ミス・モーガン」


 ハウンドの返答に胡乱気に首をひねったエマは、すぐさま目を見開いた。


「じゃああなたが弁護士のリンファ・ロッシーさん?」


「ええ」


「まあ、なんてこと。ごめんなさい、まさかこんなにお若いなんて思わなくて」


「よく言われます。これでも25です」


 実際18だけどな。


 そう内心で突っ込んだニコラスは、エマたちの前でハウンドと呼ばないよう気を付けることにした。


 一方、ハウンドの偽りの名前と肩書を信じたエマは、花が咲いたようにほころんだ。


「こちらこそ連絡してくださってありがとう。ニックったら、帰国してるのに全然知らせてくれなくて――」


「ほっときゃよかったんだ。そんな奴」


 和らぎかけた空気が再び凍てつく。


 エマが目で止めなさいと訴えるも、ロジャースは止まらない。そのうえ矛先を今度はハウンドへ向けた。


「アンタも物好きだな。こんなのを支援するなんて。デキてんのか? 別の男さがした方がいいぜ」


「ロジャース!」


 止められぬと判断したエマが、ハウンドの前に割って入ろうとした。


 だがこの場で一番体格のいいロジャースを止められぬはずもなく、ロジャースは圧をかけるようにハウンドに近づいていく。


 つい、と。ハウンドが面を上げた。


 ロジャースがたじろいだ。


 気持ちは分かる。ハウンドの真顔は得も言われぬ気迫があるのだ。


 カラーコンタクトで黒く塗りつぶしたハウンドの双眸が、奥底でぬらりと光った。

 剣が鞘から引き抜かれた瞬間だった。


「そちらの事情は聞いています。ですが支援者として、彼を精神的に追い詰めるような真似は許しません。いくらご遺族といえど、言って良いことと悪いことがあります」


「ふざけてんのか。元はといえばそいつが――」


「ではあなたならどう選択するのですか」


 鼻白むロジャースに、ニコラスはまずいと思った。


 臨戦態勢のハウンドは、本当に容赦がない。


 ニコラスは「おい」とハウンドの肩に手をかけた。それを、すかさず叩き落される。


 手刀かとも思えるその威力と拒絶に、ニコラスは息をのんだ。

 本気で怒ってる。


「ウェッブがモーガン軍曹と任にあたっていた時、二人は自爆犯と遭遇した。それもなんの罪もない幼子を連れてだ。自爆犯を止めるには、幼子の目の前で母親を射殺することになる。殺さねば自分たちの命はない。非常に厳しい選択を迫られる場面だった」


「っ、それと兄貴の遺体を囮にしたのは話が違うだろっ……!」


「囮となることを選んだのは軍曹自身の意思だ。モーガン軍曹は、撃てなかったウェッブを守るために自らを犠牲にした。そして死に瀕してなお、敵を倒すことを望んだ」


「その証拠がどこにあるってんだ! 全部そいつの証言じゃねえか!」


「だが唯一の証人であることは事実だ。そしてあなたは、何も見ていない。第一、あなたが『兄の遺体が親友によって囮にされた』と知ったのはなぜだ。ウェッブがそう話したからだろう?」


 ロジャースが言葉を詰まらせた。ハウンドの舌鋒がより鋭利に尖った。


「都合のいい話は無条件で信じて、都合の悪い話は証拠がないと否定する。ふざけるのも大概にしろ。これまでずっと安全な本国で生きてたあなたが、何をもってウェッブを裁く気だ」


「てめっ……!」


「やめろ!!」


 今度こそニコラスはハウンドの肩を掴んだ。


「ニコ」


「頼む、やめてくれ。言って良いことと悪いことはこっちにだってあるだろ」


「けど」


「俺が行くって決めたんだ」


 そういうと、ようやくハウンドが口をつぐんだ。


「俺は、望んで兵士になったんだ。フレッドはそんな俺についてった。俺が巻き込んだんだ。俺の責任だ。頼むから、彼らを責めるのだけは止めてくれ。一番つらいのは彼らなんだ」


 米軍は志願制だ。戦場で命を散らす覚悟は、本人も家族もしてきただろう。


 けれど、突然大事な人を奪われ、その最期すら看取れない遺族の悲しみは計り知れない。遺体すら見るに堪えない状態で還ってくることだって珍しくない。


 望んで戦場に行って地獄を見た自分が、泣き言をいうのは無しだ。

 それも遺族相手には、決して言ってはならない。


 ハウンドは渋々言葉の矛を収めた。不機嫌そうに黙りこくるも、自分の前から立ち退こうとはしなかった。


 パン、と。エマが手を叩いた。


「少しクールダウンする必要がありそうね。二人ともさっきの部屋に行っていて。食事は持っていくから」


 そこまでしなくていい、という言葉をニコラスは飲み込んだ。


 エマが笑っていたからだ。

 流す涙も涸れ果てて、大事なものを失った悲しみを受け入れた人間の哀しい笑みだった。


 末の妹マートルはすでに泣いていた。それを慰めるアグライアとイレーネも泣いていて、長女のグレイスは必死に唇を噛み締めていた。

 ロジャースは黙って立ち尽くしていた。


 ニコラスは黙ってエマの後をついていった。彼ら兄弟と向き合う言葉も勇気もなかった。


 奥の部屋に着いて扉を閉めると、エマは切り換えるように無理に明るい声を出した。


「ニック、あなたまだDCにはいるの?」


 ニコラスは返答に窮した。いるにはいる。だがそれは、手帳争奪戦に参戦するためだ。


「よかったら、明日一緒に買い物に行かない? アーリントン墓地の隣にね、昔からある大きなショッピングモールがあるの。今はクリスマス一色で見てるだけでも楽しいわ」


「いや、俺は……」


「うちの子たちには後で集合ってことで別行動してもらうから。あなたと話がしたいの」


 断固たる口調に、ニコラスは言葉を詰まらせた。

 これは断れない。


 エマはハウンドの方も見た。


「ロッシーさん、あなたにもぜひ来てほしいわ。一緒に来てくださる?」


「……分かりました」


「本当にいいのか。せっかくのクリスマスなのに」


 おずおずと尋ねると、エマは力強く頷いた。ある種の覚悟を秘めた表情だった。


「ええ。私はあなたと話をしなければいけない。さっきの話を聞いて確信したわ。それに、あなたと買い物だなんて久しぶりだもの。昔からよく夕飯の買い物を手伝ってくれたものね」


 あれは家に帰りたくなかったのと、夕飯の準備を手伝うとエマが褒めてくれたからで……。


 そうこうしているうちに、エマは「じゃあ明日の朝、呼びに来るわね」と部屋を出ていった。


「お休み、二人とも。また明日ね」


 パタン、と扉が閉じた。途端、しんと静まり返った部屋の静寂が圧し掛かってくる。


 ちらと隣に腰かけるハウンドを窺う。


 膝に頬杖をついたハウンドは無表情ながらも虚空の一点を睨んでいる。何かを真剣に考えている。


 その横顔をふたたび一瞥して。


――汗……? この季節に?


 ニコラスは眉をしかめた。


 やはり様子がおかしい。身体が温まって元気になったと思っていたが、やはりどこか具合が悪いのではないか。


 ニコラスが声をかけようとしたその時、携帯が鳴った。


 ハウンドのプリペイド携帯だ。


 こちらに見せぬよう画面を確認したハウンドは、すぐに懐に仕舞ってしまった。

 けれどニコラスは、動体視力に任せてその画面を盗み見ることに成功した。


 見たのは、一通のメールだった。


――『パピヨン』と『シバ』?


 聞いたことのない送り主にニコラスは訝しむ。その意味に気付くなり、疑惑は深まった。


 パピヨンとシバ。どちらも犬種の名だ。

 あの絵本に載っていた、五人のコードネームと同じだ。これは偶然か?


「ニコ。お前、どこまで知ってる?」


 唐突な問いのその意味と意図を、ニコラスは分かっていた。


「すべてだ。俺の知る限りの全部」


 あからさまに顔をしかめたハウンドが小声で毒ついた。「クソジジイ」がどうのこうのと言っていた気がするが……。


「つまりお前は、私が数カ月かけて用意したもん全部蹴って残った挙句、また危ないことに首を突っ込むつもりなわけね。これまでの私の労力と時間返せ」


「無下にしたのは謝るが、俺に黙ってやったのは承服しかねる」


「分からず屋」


「どっちが」


「あんぽんたん」


「否定はしない」


「……むっつりスケベ」


「お前罵倒に困ったら取りあえずむっつりスケベ言うの止めろ。風評被害で訴えるぞ」


 沈黙。


 ハウンドが深々と溜息をついて項垂れた。そしてようやく核心の話を切り出した。


「『二冊目の手帳』の移送が早まった。明日の午後3時、場所は国立墓地真横の大型ショッピングモール、ファッションセンターだ」




 ***




「ちわーっす。ただいま戻りましたー」


 冷ややかを通り越して、呆れ果てた視線を一身に受けながら至った執務室。


 さして堪えてもいないセルゲイは明るく元気に入室した。


 真っ先に出迎えたのは、ロバーチが誇る第一遊撃隊部隊長にして当主右腕の、絶対零度の視線である。


 あらやだ怖い。


 ちなみにいつも覆面なので顔は見たことがない。が、どうせロシア版モブ顔に違いないとセルゲイは思っている。


 ルスランに至っては椅子に深く腰掛けたまま、振り向きもしない。

 仕え甲斐のない当主である。


「で? 報告はそれだけか」


 視線とたがわぬ冷淡さで部隊長が尋ねた。


 なので、セルゲイは満を持して。


「ヘルハウンドはすでに『失われたリスト』を入手しています」


 冒頭からぶっこんだ。


 静寂。


「……確かなのか」


「正確には、入手する手立てを持っている、というべきですかねー。どっちにせよ、ヴァレーリが言ってた【鍵が二つ必要】って説は、ないと思いますよ」


 質問に応えずそう続けると、ようやくルスランが目線だけ寄こした。

 続けろ、ということだ。


 セルゲイはノートパソコンを取り出した。そして今回の分析結果をもとに作成した図を表示する。

 各国を弧上の線で結んだ、航空路線図によく似た図である。


「こりゃ……地図、じゃないよな」


「通信接続状況のインフォグラフィックっすね。情報を視覚的に表現した図のことです」


「これ、中心にあるの、例のカフェか?」


「はい。ヘルハウンド根城のカフェ『BROWNIE』っす。以前からおかしいとは思ってたんすよねー」


 ヘルハウンドが統治者となってから3年、27番地はたびたび襲撃を受けている。

 彼女の根城たるカフェ『BROWNIE』も例外ではなく、幾度となく巻き込まれてきた。


 だがヘルハウンドは、本拠地を『BROWNIE』から変えようとしなかった。


 修復のためいったんは離れることはあっても、なぜか必ず『BROWNIE』に戻ってきている。


「うぬぼれじゃないすけど、俺はハッキングに関しちゃそこそこ自信があります。その俺ですら、27番地の専用回線への侵入には半日かかる。何かカラクリがあると思って調べたら、案の定っすよ。あの女、カフェを中心に新しいケーブル、地下通路に張り巡らせてやがった」


「新しく敷設したということか?」


「っすね。それも一からぜんぶ敷き直してます」


 ロバーチをはじめ、五大マフィアは外部からの干渉・監視を阻止すべく、各一家が独自の暗号アルゴリズムを組み込んだ特別な通信回線を使用している。


 だがケーブルは特区設立以前からあった、旧デトロイト市が敷設したケーブルを改良して使用している。

 ケーブルを新しく敷き直して使用するなどという、七面倒なことは流石にやっていない。


 しかしあの女は、そこまでして通信網を一から築いたのである。

 それも、特区外、世界へと繋ぐ大規模な極秘通信網を。


「ここ2年、ずっとカフェ近辺のケーブル調べてたんすけどね。やっとこさ尻尾掴みました。カフェ一階北側の右から二本目の柱下、床下に走ってたケーブルがビンゴでした。恐らくあの女の自室に繋がってます。痛い思いして捕まった甲斐がありましたよ」


「サボりたくて捕まったわけじゃなかったんだな」


「やだなー俺がそんなことするわけないじゃないっすかー」


 まるで信じてない部隊長の白けた視線が突き刺さる。

 やたら目力が強いのは、覆面のせいだけではあるまい。


 その視線から目を逸らしつつ。


「まあともかく、ここからが本番っすよ。――接続先を見てください。中国、ロシア、キューバ、リビア、シリア、イラン、その他もろもろ。アメリカに因縁のある国ばっかっすよ」


「つまりヘルハウンドは、『失われたリスト』を入手する前提で、それを暴露するための準備をずっとやってきた、ということか」


 ようやく口を開いたルスランに、セルゲイは頷いた。


「そうとしか考えられないっすね。こんな大掛かりなこと、リスト手に入るかもわからない状況でやると思いません」


――つーか、すでに入手してる可能性もあるんだよなー。


 先ほどの通話、ヘルハウンドは『リストなら三日で送信される』と言った。


 送信する、ではなく、送信されると言ったのだ。


 通常、リストを入手していないのであれば、「手に入れしだい送信する」と答えるのが妥当だ。

 それをあの女は、まるで手に入れることが確定しているかのように話した。


――あの言い方、まるで自分の意思に関わらず送信手段があるともとれるが……。


「けどなんで暴露先が反米国家なんです? 石油食糧交換プログラムに関与した国の中に、アメリカは含まれてなかったはずでは……」


「関与していた、ということなんだろう。もしくはUSSAが独断で関与していたかだ」


 部隊長の疑問に、ルスランは腕を深く組みなおした。


「これまでUSSAはヘルハウンドの確保に気味が悪いほどの執着をみせてきた。仮にUSSAが『失われたリスト』に何かしら関わっていて、それが独断であった場合、公にされると甚だ不都合なことだろう。それを反米国家に知られたとなれば、面子が潰れるどころの話ではない」


「下手すりゃ組織ごと取り潰しってことになりかねないっすよね。これまでの外交的努力が全部ムダになる可能性だってある」


 頷く代わりにルスランがじろりと睨んでくる。まだ言うべきことがあるだろうと問い質す目だ。


――どうすっかなー。あれまで喋っちまうと、動き制限されそうだし……。


 セルゲイは無表情に迷った。


 ルスランには個人的な借りがある。だがこちらの目的を邪魔されては困る。かといって、嘘や誤魔化しが利く類の男でもない。


 ここは、知らないふりをしておくべきか。


 そんな時だ。


「けどこれ、なんでフランスと日本があるんですかね?」


 部隊長は首をひねりながら、地図上の二国を指差した。


 絶妙なタイミングで話を逸らしてくれた部隊長に心から賛辞を送りつつ、セルゲイは適当に合いの手を打った。


「あの女の協力者がいるとかじゃないすかね。ここまで大掛かりな通信網、ガキ一人にできるもんじゃないし」


「……ヴァレーリ一家が伝えてきた件については。お前はどう思っている?」


 おんやま、珍し。

 あの鉄仮面・秘密主義者のルスランが、他人の意見を求めるとは。


 意外に思いつつも、セルゲイは簡潔に答えた。


「完全にブラフっすね。そもそもあの詐欺集団がただの親切心で情報を流すはずがない。移送の件はともかく、少なくとも『二冊目の手帳』が鍵って話はガセじゃないすかね」


 ヘルハウンドが『失われたリスト』を入手しているかどうか。

 なぜ彼女が『二冊目の手帳』を欲するのか。


 分からないことはまだ多い。


 分かっていることがあるとすれば、依然としてヘルハウンドが、『失われたリスト』の鍵であるということだ。


 ならば、確保すべきはヘルハウンドただ一人。


「今回のヴァレーリのリークで、ミチピシとターチィが争奪戦から降りました。これで候補はうちとヴァレーリとシバルバの三家だけだ。それだけでもかなりの収穫じゃないっすかね」


「――だ、そうだが。意見があれば聞こうか」


「おおむね当たってますよ」


 カーテンの裏からするりと現れた人物に、セルゲイは仰天した。


「てめっ、なんでここに……!?」


「なんでも何も。いくら突っついても答える気がなさそうだったんでな。だったら飼い主に聞くのが一番早いだろ」


 ふふんと鼻で笑うカルロ・ベネデットの面は、殴りたくなるほど実に憎たらしい。


 特区の娼婦どもはカルロをやれ硬派だ苦労人だと持て囃すが、とんでもねえ。

 当主と同様、煮ても焼いても食えない、とんだ性悪猫だ。


 その性悪猫を、ルスランが猛虎の二つ名に恥じぬ眼光で射貫く。


「で?」


「あなたの左腕が答えた通りですよ。『二冊目の手帳』の移送が行われるのは事実です。けどそいつが『失われたリスト』の鍵であるかは、首領ドンの単なる推測に過ぎません」


「貴様の当主は何を企んでいる?」


「さあ。あの方の思考を理解できる者は現状ヴァレーリにはいませんので。けど少なくとも、『二冊目の手帳』を追って奴が動くのは間違いないでしょう。たとえそれが罠だったとしてもね」


「罠だと?」


「ついさっき報告を受けたんですがね。移送が早まったそうです。明日の午後3時、場所はアーリントン国立墓地の真横にある大型ショッピングモール、ファッションセンターです」


 セルゲイは部隊長と目配せした。


 ペンタゴンから一キロと離れていない。敵陣どころか、総大将の目と鼻の先である。


「奴がそんな危険を冒すとは思えんな」


「行きますよ。必ず」


「なぜ」


 カルロは懐からスマートフォンを取り出すと、2枚の画像を表示した。


 一枚はヘルハウンドの写真。もう一枚は――。


「これ、例の5人の兵士じゃねえか」


「ああ。過去、ヘルに関与したと思われる陸軍兵士だ。こいつの腕、見てみろ」


 そういって、カルロは一人の兵士を指差した。5人のうち一番小柄なヒスパニック系の青年だ。


 名はたしか、ベルナルド・バンデラス。

『ボクサー』を名乗っていた兵士だ。


「こいつがどうしたよ」


「よく見ろ。腕時計してるだろ。それも割と値の張るやつ」


「内側につけてること言ってんのか? 兵士なら珍しくもなんともねえよ」


「特殊部隊の中には、高級腕時計を装備する者もいると聞きます。現地に潜伏した際に、金の代わりに使えますからね」


 部隊長の相槌にうんうんと頷く。


 通常、男の腕時計は文字盤を手首の表側につけるが、たまに内側につける者がいる。

 兵士、パイロット、レーサーといった職種の人間だ。


 銃やハンドルを握ったままでも、文字盤が見られるようにするためだ。兵士に至っては、文字盤が反射するのを嫌うという説もある。


 一方、カルロは苛立ったようにスマホの枠を叩いた。


「んじゃこっち見てみろ。ヘルの右手首についてるもん」


 ズームされた画像を、セルゲイたちは覗き込んだ。


「……」


「つけてるだろ、時計。それも男物で同じメーカー。しかもバンドの留め金部分のメッキが剥がれてる。文字盤を内側にしてなきゃ、こんな傷はつかない」


「……その兵士の所持品を餌に、おびき寄せたと?」


「所持品というより、遺品ですね。その可能性が高い」


 ルスランの問いを、カルロはそう訂正した。


 その様子を一瞥したセルゲイはぎょっとした。


 ルスランの目が、酷く憐れんでいるように見えたからだ。


 が、それも一瞬。すぐ元の鉄仮面に戻ったルスランは続きを促した。


「証拠は?」


「ありません。ですが、そうだとすると、あの女が先日の一件で派手に暴れた理由の説明がつきます。これまで滅多に特区外へ出ようとしなかったあの女が、たかが人質奪還のために自ら敵アジトに乗り込んだ。遺品の回収も兼ねていたとなれば、辻褄が合うでしょう。実際、あの女は遺品の回収に異様なまでの執着をみせます」


 そう言ったカルロは、懐からあるものを取り出した。USBメモリーだ。


「うちの先代が徴収した27番地棄民の遺品のリストです。死亡もしくは行方不明になった棄民に対して、あの女はその遺品の返還まで求めました。ここまで要求したのはあの女ぐらいです」


「んじゃ、明日移送される『二冊目の手帳』も誰かの遺品の可能性があるってことか?」


「ああ。それも、ヘルにとって近しい人物のな」


 セルゲイは唸った。


 ますます理解できない。


 これまでの情報を精査するに、あの女は何かしら『失われたリスト』を入手する術を知っている。

 それを暴露するための場も整えてきた。


 そこまで用意周到に準備してきた女が、たかが遺品のために自身の計画をぶち壊すだろうか?


 あるいは――。


――ぶち壊すことが前提なのか……?


 いや。まさかね。


 セルゲイが頭に浮かんだ説を打ち消していると、ルスランが執務机に前のめりになった。


「つまり、我々には二択の選択肢があるというわけだ。罠を承知で飛び込むか。鍵がみすみす敵の手に渡るのを、指をくわえて眺めるか」


「我々ヴァレーリとしては、ヘルが捕まるのはごめんこうむりますね。そこでなんですが――首領よりひとつ、提案を仰せつかっております。お聞きになりますか?」


 最初からそれが目的かよ。ロバーチうちを使う気満々じゃん。


 ライバル一家のやり口に呆れつつ、セルゲイはルスランの様子をそっと伺った。


 どうもうちのボスは、あのじゃじゃ馬に何かしらの思い入れがあるらしい。非常に珍しいことだ。


 はてさて、どう出るか。


 見守る中、ルスランは両の指を組み、目を伏せた。そして刮目する。




 ***




〈西暦2013年12月23日午前11時6分 アメリカ合衆国ヴァージニア州アーリントン〉


「……4時間きったな」


「だね」


 ニコラスとハウンドは、二階エスカレーター踊り場から眼前を見渡す。


 あと数時間で、このショッピングモールのどこかで、『二冊目の手帳』の移送が始まる。


 争奪戦が始まる。


「さっきも話したけど、事が始まったらニコはモーガン一家の防衛に全力で回れ。拳銃ハンドガンしかないんじゃ話にならないし」


「ああ」と答えつつ、ニコラスは数時間前にM4とM110を手放したことを心底悔やんだ。


 あのクロム・クルアハとかいう謎の少年の襲撃で予定が大幅に狂ってしまったが、ニコラスの目的に変更はない。

 むろん、ハウンドの言うことを聞く気もない。


 自分は、ハウンドを守るためにここにいるのだ。


 何より。


――やっぱ冷や汗が収まってねえ。


 ニコラスはハウンドのうなじを睨み、体調悪化を疑惑から確信に切り換えた。動作もどこか緩慢だし、顔色は蒼白なまま。

 意地でも手を使おうとしないのも非常に気がかりだ。もしかすると、手足の震えが止まらないのではないか。


 間違いなく、前回の負傷が響いている。


 そのうえで、こんな状態にもかかわらずハウンドが手帳強奪を諦めないのも気がかりだった。

 いつもなら体勢を立て直すなり、住民の協力を仰ぐなりして然るべきなのに、なぜか一人でやることに固執している。


 放っておけなかった。


――いっそ巡回してる警官の武器でも奪ってやろうか。


 一階を二人一組ツーマンセルで巡回している警官をニコラスは睨んだ。


 拳銃だけでなく、サブマシンガンのMP5を装備しているのは、近年多発している無差別発砲事件に備えてのことだろう。

 ストッピングパワー(犯人などの目標を行動不能にする力)を増強した、大口径モデルの.40S&W弾仕様だ。


 そこに。


「ミス・モーガンと話してこなくていいのか」


 痛いところを突かれ、ニコラスは言葉を詰まらせた。


「子供たちと買い物中だ。邪魔すんのは野暮だろ」


「けどお前と話がしたくてここに来たんだろ」


「話したくなったら向こうから声かけるさ」


「お前の方から話しかけに行けばいいだろ。育ての親みたいなもんだろ? 彼女、ずっとお前が話しかけるのを待ってるんじゃないのか」


「親じゃない」


 ニコラスは即座に否定した。


「あの人はフレッドの母親だ。俺の母親じゃない。ただの他人だ」


「ニコ、」


「時間が惜しい。また見回りに行こう。ルート変えりゃ30分後でもいいだろ」


 ニコラスは腕を差し出した。ハウンドは渋々とその腕を取った。

 ウィンドウショッピング中のカップルを装って、『二冊目の手帳』移送候補のポイントを監視するためだ。


――逃げてるわけじゃない。


 あの人が母親だったらと、フレッドたちが自分の家族だったらと、何度願ったか分からない。

 けれど、それは叶わない。


 これは、けじめだ。


 俺の親は、あのダンサー気取り娼婦のろくでなし女なのだ。

 泣きながら自分の作ったカップケーキを口に詰め込んでいた、あの女なのだ。


 腕を掴むハウンドの握力が、ぎゅっと強まった。

 見れば心配そうに眉根を寄せたハウンドがこちらを見上げている。


――他人のこと心配してる場合かよ。


 一回り小さな手を撫で、ニコラスはゆっくり歩きだした。それにハウンドが寄り添うように続く。


 不安だらけのショッピングが再開された。


 何が起こるのか、何が起ころうとしているのか。

 ニコラスにはまだ、判断がつかなかった。

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