7-8

――行ったか。


 墓地外から聞こえる微かな騒動に耳を傾け、バートンはベンチにもたれて小さく息を吐いた。


 これからニコラスは、自分が誘導した警官の青年とともに、手帳争奪戦の渦中へと乗り込んでいくのだろう。


 ニコラスにはまだ、すべてを明かしていない。明かせなかった。

 彼女が抱える“呪い”については、特に。


 確証がなかったためだが、ニコラスを思ってのことでもあった。


 ――すべてを呈して守ったものが、守るべきではなかったなど。


 そんな惨いことが、どうして言えようか。


 本心を言えば、彼女に出会ってほしくなかった。


 気の毒ではあるが、あの少女は存在自体が爆弾だ。彼女がそう意図せずとも、関わる者すべてに死をもたらす。


 死の前触れに現れる不吉な獣。

 なるほど、黒妖犬ブラックドッグとはよく言ったものだ。


 電話が鳴った。


 4回半のコールで通話に出る。

 画面は見なかった。絶対にかけてくると分かっていた。


『本当に失望させられるとは思ってもみなかったよ、オズワルド』


 クルテクの声音は怒りを通り越してもはや平坦だった。

 バートンは肩をすくめた。


「ファーストネームをフルで言われるのは数十年ぶりだな」


『この期に及んで減らず口を叩ける胆力には感心するね。君にのった私(・)が馬鹿だった。さっき上司にバレたよ。もう大目玉さ。ここから、君が餌を逃がしたことを報告しなきゃならない私の気持ちを考えたことあるかい?』


「最初から言うことを聞かないと言っただろう」


『自分の言うことは聞くかもしれないと、君は言ったんだ』


「可能性の話だ」


『御託は結構。旧友の情けで最後に忠告はしてやる。――私の読みが当たったぞ』


「……なに?」


 バートンは思わず立ち上がった。真冬だというのに、背と手から汗が噴き出してくる。


 合衆国安全保障局USSAがヘルハウンドに手を出さなかったのには、五大マフィアが匿っていた以外に、もう一つ理由がある。


 彼らは動けなかったのではなく、動かなかったのだ。

 わざわざ手を下す必要もないと、判断したためである。


 そして、近々USSAはその判断を覆すだろうと、クルテクは予想していた。

 その予想が当たった。


 否。すでに動き始めている――!


『じきに猟犬がやってくるよ。一番の天敵を配置したそうだ。噂じゃシバルバと一時共闘を組んだらしいね。最初の獲物は君の教え子かな』


「おい、ツィリル――!」


「じゃあね、オズワルド。もう金輪際、に関わるな』


 電話が途切れるより早く、バートンは駆け出していた。


――マズい……!


 USSAが真の切り札を切った。


 『トゥアハデ』がやってくる。

 『双頭の雄鹿』直属の極秘武装組織が、こちらに向かっている。


 しかもヘルハウンド一番の天敵となれば、『クロム・クルアハ』だ。

 奴は近接特化型の暗殺者、彼女が最も苦手とする相手だ。


 そして、その性格は――。


「ウェッブ、出てくれ……!」


 バートンは祈りながら電話を鳴らし続けた。




 ***




「なあニコラス、電話鳴ってるけど……」


「電源切っといてくれるか。逆探知されると困る」


 おずおず指差すケータに、ニコラスは手元を止めることなくそう言った。


 クロードたちには悪いが、まだ27番地に捕まるわけにはいかない。もうこれ以上、ハウンドに守られたくもない。


「しかしまあ、よくこんなとこに隠したわね」


「まさか消火用ホースの格納箱ぜんぶがガンラックになってるとはなぁ」


 アレサとケータは、こちらの肩越しにしげしげと格納箱を覗き込む。


「けどこれ、点検の時とかバレないのかしら? 年に一度は消防署が来るでしょ」


「そこの管理者証明みてみろ。有効期限が数年前で切れてる。ここはもう地図上は取り壊し待ちの空き地なんだ。停めてある車も、大半が不法駐車なんだろ」


「隠すにはうってつけの場所ってことね。ここをたまり場にしてるチンピラ連中も、わざわざ格納箱開けたりしないでしょうし」


 そう言ってアレサは脇に居並ぶバイクを一瞥して眉をしかめた。

 機能美より誇張優先に改造された車体が気に食わないのだろう。


 一方、ニコラスは点検の最終段階に入っていた。


 バートンのチョイスだけあって、用意された銃火器は必要最小限かつバランスよく揃えられていた。


 M4カービンが2挺、M9自動拳銃が2挺、M110半自動式狙撃銃が1挺。うちM4、1挺はM203グレネードランチャー装着で、手榴弾と発煙手榴弾スモークが5発ずつだ。むろん弾数も申し分なく、ボディアーマーなどの装備品もぬかりない。


 すべてミリタリーモデルで、ニコラスが最も使い慣れた得物たちだ。


 M9に至ってはスライドに細かい傷が入っている。

 もしかすると、バートンが昔使用していた物を、そのまま持ってきたのかもしれない。


 米軍制式拳銃のM9は民間ではまず手に入らない。久方ぶりの愛銃との再会に、年甲斐もなくニコラスは高揚した。


 手に持ってみれば、長年履きこんだ革靴のようにしっくり手になじむ。

 試しにガンスピンしてみるが、今使っているトーラスPT92よりよく回った。


 手前に3回、2回、返して2回転させてヒップホルスターに収める。いつもの儀式だ。


 ふと、心底意外そうにまじまじ見つめるケータたちに気付き、ニコラスは咳払いした。


「アレサ、銃の使い方は分かるな?」


「拳銃なら……」


「んじゃこれとこれだな。ケータはこいつだ」


 アレサにM9と発煙手榴弾、ケータにはM4を手渡す。


「自分の目で見て触って確認してくれ。特にアレサ。少しでもいいから銃に慣れてくれ。でないといざって時に使えない」


 二人は神妙に頷くと、慣れぬ手付きで安全装置の位置や、弾倉の着脱を確認し始めた。


 その合間にニコラスは身につけた装備の最終チェック、両手をボディアーマーの懐に突っ込んで一息つく。


「……よし。車に戻ろう。今後について話したい――」


 と、瞬間。ニコラスは言葉を区切った。


 微かだが音楽らしき音がする。

 上からだろうか。


 徐々に近づいてきている。


「ああ」とアレサが腰に手を当てた。


「大丈夫よ。たぶんさっきの悪趣味バイクの連中だわ。遊びを再開したんじゃないかしら」


 遊び? と訝しんでいると、上階から馬鹿笑いをBGMに、ゴロガラと滑車の回転音が近づいてくる。


 スケボーの音だ。


 そう思った直後、スケボー少年たちが上階の坂から現れた。

 かなりスピードが出ている。


 どうやら屋上から地上までノンストップで滑走するつもりらしい。


 なるほど。スケボー乗りからしてみれば、閉鎖された屋外駐車場は格好の遊び場だ。

 地面はコンクリートに覆われて凹凸がなく、屋根がついているからいつでも遊べる。


 こちらに気付いた少年らが歓声で冷やかしながら走り抜けていく。

 こけたらただでは済まない速度だが、お構いなしだ。


「あっぶないわね」とアレサが白い目で腕を組み、対するケータは生暖かい苦笑いで見送る。


 ニコラスは弟分だったロジャースを思い出した。

 彼の場合はローラーブレードだったが、あいつも長い坂を下るのが好きだった。


 懐かしくも苦い思い出を噛み締めていると、不意に坂の上から一人の少年が滑走してきた。


 慣れていないのか、上半身がふらついている。

 危なっかしいと思っていると、案の定、少年は坂を降りた直後のカーブを曲がり切れずに派手に転んだ。


「あちゃー、痛そう……」


「言わんこっちゃない。プロテクターもつけないで無茶するからよ」


「おい、大丈夫か」


 少年に一番近かったニコラスが手を差し出す。「いてて」と上半身を起こした少年は、こちらに気付いて顔を赤らめた。


「怪我ないか」


「ああ、うん」


 恥ずかしげに頭を掻いた少年は、手を持ち上げ、


 いきなり手首を掴んだ。


「っ!?」


 咄嗟に引っ込めようとするが、逆に引き寄せられる。


 この華奢な腕のどこから、と思うほどの腕力に、骨がきしんだ。


「やあ、お兄さん。綺麗な目をしているね」


 それは本能だった。


 ニコラスは少年の手を振り払った。目を覗き込まれた瞬間、直感した。


 こいつは少年ではない。少年の皮を被ったナニかだ。


 が、少年は手を離さない。なんという怪力だ。


 ニコラスはM9自動拳銃を抜き放った。


 胴体部で構えた拳銃の反動が腹に伝わる。

 全弾脳天にぶちこむつもりだったが、少年の方が早かった。


 とっ、と地面を蹴り、ひらりと頭上を飛び越えていく。

 地面に降り立つやいなや、少年はジグザグに後方へ飛びずさった。


「ニコラス!?」


「っ、構えろ! ただのガキじゃないぞ!」


 ケータとアレサが慌てて武器を構える。


 一方の少年はというと、飛びずさった先でぽりぽり腹を掻いた。


「ひっどいなぁ。いきなり撃つことないじゃない。目、褒めただけじゃん」


「テメエのそれは、昆虫マニアがお目当ての標本みつけた時の台詞なんだよ」


「お。じゃあその目、おいらにくれる? 今日のぶん見つけてなくってさ」


 なんだこのイカレたガキは。


 視線を逸らさぬまま、自身の状態を確認する。


 右ひざを立てた片膝立ちだ。左大腿部から下が義足のニコラスにとって一番立ち上がりにくい体勢。

 しかも、いま着けている義足は旧式の単軸義足だ。


 下手に逃げられない。


 恐ろしく俊敏で身軽な少年だ。立ち上がる隙も与えてはくれまい。


 少年は右手をだらりと下げたまま、腰に手を当てきらりと微笑んだ。

 そのあまりに爽やかで無邪気な笑みにゾッとする。


「自己紹介まだだったね。初めまして、お兄さん。おいらは『クロム・クルアハ』。これでも『トゥアハデ』最年少の“銘あり”さ。すごいでしょ」


 『トゥアハデ』?


 聞き慣れぬ言葉に眉をしかめると、少年はこてんと首を傾げた。


「ああ。『双頭の雄鹿』って言った方がいいかな。おいらはそこの猟犬なのさ。お兄さんと一緒だね」


 おいおい、真打登場かよ。


 ニコラスは冷や汗で滑るM4を握り直した。



――『下手すっとこいつらが本命で、今いるUSSAの特殊作戦グループSOG準軍事作戦担当官パラミリなんかはただのお飾りかもしんねーぞ』――



 以前の、セルゲイの言葉が脳裏をよぎる。


 お飾りではない、正真正銘USSAの切り札のご登場だ。


「ニコラス、あれっ」


 上擦ったアレサの指す下階を見れば、地上から数台の車が駐車場に入りこんできている。

 その中に見覚えのある白いSUVに気付いたニコラスは舌打ちした。


「シバルバ一家の連中だ! ここに――」


 空を切る風音に、反射で首を真横に倒す。


 鈍色の刃が横顔を掠め、避け切れなかった耳の一部をそがれた。


「お、お兄さん反応いいねー」


 肩透かしを食らいそうなほど間の抜けた声で感心した少年は、大振りに刃を頭上に構え、振り下ろす。


 山鉈マチェーテではない。肉切り包丁に似た形状の大鉈だ。


――声とやってることが合ってねえんだよ……!


 すぐさま身を捩るも、動けない。少年が義足を踏んでいるのだ。


 んのクソガキ。


 振り下ろされる刃に、ニコラスは肩を差し出した。


 ガッ、とM110半自動式狙撃銃の銃床が刃を受けとめ、衝撃が肩から全身を走る。


 折り畳み銃床でなくて助かった。でなければ、今ごろ肩から二股に裂けていた。


 少年は目を見開くも、瞬時に対応した。

 刃を寝かせ、銃床に沿わせて首めがけて鉈を滑らせてくる。


 刹那。少年が腕で顔を守った。

 手首に警棒が直撃している。


 投げナイフよろしく飛んできたそれに、少年が呻いた。


 その空いた胴体を、思い切り蹴り飛ばす。

 そのまま仰向けスーパインでフルオートをぶち込むが、少年は動物じみた脚力で弾丸から逃げ切ると、壁の向こうへ消えてしまった。


「ちょっとなんで撃たないの!?」


「俺、射撃は苦手なんだよっ。ニコラスに当たっちまう」


「そんだけピンポイントで投げられるなら銃だっていけるでしょ!? どっちも金属じゃない!」


 激励なのか叱責なのか分からない妙にごもっともな発言は、凄まじい銃撃で封殺された。


 シバルバ一家が少年の後方から回り込んできている。このままでは挟み撃ちだ。


「ニコラス、立てるか!?」


「いや」


 左大腿部を触ったニコラスは舌打ちした。

 先ほど踏まれたせいか、義足接合部と切断痕がずれてしまっている。


 一度装着し直さないと、立てない。


 ニコラスは周囲を見渡し、いいものを見つけた。


「ケータ、後ろ頼む! アレサはスモーク!」


「「ニコラスは!?」」


「この場で応戦する!」


 そういってうつ伏せになったニコラスは、M110とM4を降ろし、近くの車下へ滑らせた。

 そして見つけたばかりの秘密兵器を引き寄せる。


 アレサが転がした発煙手榴弾が、こちらを白く覆い隠していく。

 集中していたシバルバの銃撃がばらつき始め、その隙にケータとアレサが移動する。


 対するニコラスは、義足を外した。そして腰のM9自動拳銃を引き抜く。


 直後のことだった。


 左前方の白煙が揺らいだ。

 瞬間、切っ先が飛び出してきた。


 少年が顔めがけて突っ込んでくる。


 ニコラスは刃をで受け止めた。

 靴底に刺さった刃を上へいなし、右へ回転。少年の足に9㎜パラベラム弾を叩き込む。


 少年は宙がえりでそれを躱して。


「変わったスタイルだね。新手の戦闘術コンバット?」


「かもな」


 右手に拳銃、左手に外した義足を構えたニコラスは、片膝立ちで少年と対峙した。


 これでもう立てないし、歩けない。逃げられない。

 とても正気の沙汰とは思えない体勢だった。


 だがニコラスは本気だった。ハウンドの助言により考案したものである。


――『義足は壊れる、自分は走れないと思って常に戦うこと。義足の性能に甘えちゃ駄目だかんね。その場で粘って、掩護を待って。必ず迎えに行くから』――


 今、ハウンドは迎えに来ない。

 だがケータとアレサがいる。それまでなんとか持ちこたえるしかない。


 少年が再び襲いかかってきた。

 低姿勢から突っ込み、直前で右へ跳んで真横から急襲してくる。


 ニコラスは少年めがけて


 繰り出される刃を横目に身を屈め、肩から少年に突っ込むように身をよじって、義足を遠心力に任せて振り下ろす。


 踵落とし・殴打バージョンである。

 ただ義足でぶん殴ってるだけというツッコミはなしだ。


 脳天に振り下ろされる義足の踵を、少年は寸でのところで避ける。

 その空いた脇腹に弾丸を叩き込むが、一発かすめただけでまたも躱されてしまった。


「ユニークな戦い方だとは思うけど、ね!」


 次々に繰り出される斬撃を、義足でなんとか受け止める。

 その場から動けない以上、ニコラスの方が圧倒的に不利だ。


 が、こちらとて散々ハウンドの斬撃を受けてきた身だ。

 しかも、この少年の戦い方はハウンドとよく似ている。


 斬撃は重いものの、トリッキーな動きもなく、ハウンドより遅い。

 まだ対抗のしようはある。


「!?」


 少年が大きく後ろにバランスを崩した。


 跳んだ直後に、ニコラスが足元に秘密兵器を差し込んだからだ。

 スケボーだ。


 スケボーごと蹴飛ばす。

 少年は意図せぬ宙がえりをする羽目になった。


 そこを撃つ。


 弾がようやく少年に当たった。肩に一発、腕に一発の計二発だ。


「いてててて……酷いことするなぁ」


 ニコラスは無言で弾倉を交換した。


 会話の必要性を感じなかったのもあるが、弾倉を咥えていたせいで喋れなかったのだ。


「そんなおっかない顔しないでよ。純粋な興味だよ、興味」


「興味だと?」


「お兄さん、彼女のヒーローなんでしょ? ブラックドッグとかいう女の子の」


 唐突にハウンドのことを出されて面食らう。が、瞬時に気を取り直す。


「……まあな。そう呼んでくれたからな」


「ふーん」


 少年はどうでもよさそうに相槌を打った。肩を押さえていた手を離し、その掌に付着した自身の血を指先でこねる。


「いやさ。彼女のヒーローならさ、なんで彼女の願い叶えてあげないのかなって」


「願いだと?」


「そ。彼女の願い事」


 少年はこてんと首を傾げた。空虚な笑みだった。


「なんで叶えてあげないの? ――あんなに死にたがってるのに」


 瞬間。


 音が、消えた。


 戦意も殺意も吹き飛び、頭が真っ白になる。


 少年が愉しそうに哂った。


「あれ、知らなかったの? おめでたいねぇ、お兄さん。考えてみなよ、皆が『失われたリスト』を巡って彼女を取り合ってる。そのために彼女の父親と仲間の五人が死んだ。大事な人を喰い潰し続けた『失われたリスト』を、彼女はどうすると思う? それを見つける鍵が自分であると知ったら、何を願う?」


 消しちゃえばいいんだよ、と少年は語った。


「鍵である自分ごと消して、二度とリストが見つからないようにしてしまえばいい。要するに自殺さ。それが一番手っ取り早い」


 ニコラスは全身の力が抜けるのを、辛うじて堪えた。だが銃は構えられなかった。


 心当たりはあった。


 誰かが用意した食事を決してとらないハウンドが、自分の用意するものだけは必ず口にする。

 最初は自分を励ますために無理に食べてくれているのだと思ったが、次第に嫌な考察に辿り着いた。


 彼女は、自分になら殺されてもいいと思っているから、食べてくれたのではないか?


 元テロリストだったハウンドと、元海兵隊員の自分。


 人を撃つ以外に何のとりえもない片足の、かつて敵だった兵士を助手に据えたのは、本当に自分への恩を返すためだけだろうか。


 その疑念が、あえて考えないようにしていた考察が今、的中してしまった。


「けど彼女は死ねなかったのさ。ラルフ・コールマン最後の命令だからね。リストの抹消を危惧したあの男は、最後の最後で彼女に呪いを残したのさ。『生き延びろ』ってね。

 だから彼女は死ねず、五人が死んだ後も逃げずにふらふらイラクを彷徨ってたのさ。いつか『双頭の雄鹿おいらたち』が殺しに来るって分かってたからね。

 んでついに餓死寸前になり、やっと死ねる――と思った矢先に、君とばったり出くわしたわけさ。そして君は彼女を生かした」


 地獄の延長だね。と少年が笑った。


 その言葉の邪悪さと、あまりに無垢な笑みの差が、酷く奇妙で現実離れしていた。


「お兄さんさ、彼女を救いたいんでしょ? ならその願いぐらい叶えてやったら?」


「…………何を」


「決まってるじゃん。お兄さんが彼女を殺せばいいのさ! 元海兵隊員が巨悪テロリストをついに殺害、これ以上ない名誉でしょ?」


 悪魔だ、と思った。


 初めて目にした悪魔は、なんの変哲もないどこにでもいそうな少年の姿かたちをしていた。


「いいじゃん、いいじゃん。これでお兄さんも汚名返上だよ。真の英雄ヒーローさ! おいらとしても、そっちの方が仕事が減って助かるし。一度彼女とはヤッてみたかったけど、ボスの命令で――」


 突如、少年の背後の車が吹き飛んだ。

 幼児が転がすミニカーのように横転する車両に、少年が閉口する。


「いいところだったのに。ほんとおじさん碌なことしないね」


「……よく口の回るガキだ」


 背後から現れたバートンはM203に次弾のグレネードを装填すると、自身の前に立ちはだかった。


「教、官」


「義足を装着しろ、ウェッブ。いったん退くぞ」


「過保護だね。だから、そんな甘ったれが出来上がるんだ」


 車両の影から武装した謎の一団がぞろりと現れた。

 いつの間に潜んでいたのか。ざっと二十人は下らない。


 少年は肩をすくめた。


「迎えが来ちゃった。今日はここまでだね」


 撃たれているとは思えぬ軽やかな足取りで踵を返した少年は、振り返ってにっこり笑った。


「ま。お兄さん、そういうわけだからさ。ちゃーんと考えといてね。彼女を殺すかどうか。けどきっと、彼女は君に殺されるのを待ち望んでると思うよ」


 そういって、少年は一団を引き連れ立ち去った。


 無音が終わり、銃声が戻ってくる。


 けれど、ニコラスは動けなかった。


 バートンが左手の義足を奪い、無理やり装着し始めた。


「教官」


「立て、ウェッブ。まだシバルバが残っている。戦闘はまだ終わってない」


「俺が、」


「いいから立て! 移動するぞ――」


「俺が、あの子を不幸にしたんですか。俺が、俺のせいで」


 逃がしたつもりでいた。道連れにすまいと。

 地獄に居座るのは、俺たちだけで十分だと。


 気まぐれの偽善でたまたま救った子が、唯一自分に礼を言いに来てくれた。


 何に代えても報いてやりたいと思った。そのためなら死ぬのも惜しくないと思うほどに。


 けれど違った。


 俺があの子を地獄へ連れ戻したのだ。

 俺の偽善が、あの子を生き地獄へ墜とした。


「っ……! ともかく逃げるぞ! 話はそれからだ!」


 強引に肩に腕を回したバートンは、力任せに自分を立たせた。


 そこに、一台のワゴンが急停車する。


「足を確保してきたわ! あとはケータだけよ!」


「よくやってくれた」


 運転席のアレサに礼を言ったバートンは、後部座席に自分を放り込む。

 直後、冷や汗まみれのケータが駆け込んできた。


「い、言われた通りありったけのグレネードと手榴弾ぶち込んできたぞ! けどシバルバの奴ら、なんか滅茶苦茶ふえてる!」


 ケータの背後から怒号が急接近してくる。

 一体どれだけの兵力をつぎ込んだのか、先ほどより数が倍に増えている気がする。


 だがその音も、ニコラスには水の中から聞いているようで、くぐもって反響してよく聞こえなかった。


 バートンが何か叫んでいる。

 ケータが運転席に乗り込み、助手席のアレサが頭を抱えて蹲っている。


 車が動いた気がした。

 景色が後方に飛び去り、シバルバの怒号も銃撃も一緒に押し流されていく。


 ニコラスは動けなかった。


 ケータが焦った顔で何か叫んだ。振り返ったバートンが何か怒鳴っている。


 車体が揺れたのはその時だ。


 爆炎が前方を覆い、ニコラスは視界を失った。




 ***




「全員生きてるか!?」


 頭部・胴体・四肢を触って怪我の有無を確認したバートンは、同乗者に向かって叫んだ。


 横転した車内で、運転席と助手席の男女が呻いている。


 シバルバ構成員が放った携行式対戦車擲弾発射器(RPG)が、車両後部に直撃したのだ。

 それでも全員ほぼ無傷なのは奇跡だ。


 バートンは運転席の青年の肩を叩いた。


「起きろ! 野次馬に乗じて逃げるぞ。特区外ならシバルバも自由に動けん。今のうちに――」


「……っ? ニコラスは?」


 ハッとしたバートンは後部座席を見渡した。

 向かいの扉が外れ、外から丸見えになっている。


 その先に野次馬が見えた。

 ざわめき居並ぶその中央に、見覚えのあるオリーブグリーンのモッズコートの背が、消えていく。


「待てウェッブ!」


 バートンの叫びもむなしく、ニコラスは人ごみに消えていった。




 ***




 初めて出会った時から、かなり風変わりな人だった。


「君、名前は?」


 そう問われ、サハルは目を瞬いた。


 この国一番の精鋭兵と聞いていた。

 それに見合った屈強で大柄な若い男だった。


 そんな男がニコニコと笑いながら地に片膝をつき、こちらを覗き込んでいる。


 こちらが最も喉元を切り裂きやすい体勢なのだが、わざとなのだろうか。自分を試している?


 本当にこの男が、このを率いる長なのだろうか。


 サハルは脇に立つ男を見上げた。このを指揮する上官だ。

 上官はしかめっ面をしたまま、頷いて発言を許可した。


「……『ブラックドッグ』、です」


「そりゃUSSAが勝手につけた呼称だろ。本名だよ。本当の名前、なんていうの?」


 サハルはいよいよ困った。


 蔑まれるのは慣れている。憐れまれるのももう飽きた。理由もなく暴力を振るわれるなんて日常茶飯事。むしろ、それらに適応するために鍛えられた。


 だがこうして、真っ向から好意の眼差しを向けられるのには慣れていない。

 唯一こう接してくれた人といえば、カーフィラの客人だったあの先生ぐらいだろうか。


「……カーフィラに、いっちゃだめって、いわれました」


「ああ、それが君のの命令か。んじゃ仕方ないな」


「指揮官じゃない」


 思わず口が滑って、慌ててサハルは口を押えた。


 人前で彼を父親と呼ぶのは固く禁じられてきた。うっかり呼ぼうものなら、即こぶしが飛んできた。

 ――いや。最後だけは、頭を撫でてくれたっけ。


 だがそれも、自分を手懐けるための手段だった。


 カーフィラは自分を支配するために、両親のいない自分の心に付け込んだのだと。自分を助けてくれたあの男が、そう言った。

 目の下に黒子のある、嫌なニオイの男だ。


 けれど大人がそういうのなら、きっとそうなのだろう。


 結局自分は、カーフィラに愛してもらえなかったのだ。


 一方、男はきょとんと目を見開くと、ふにゃりと緩めた。


「ごめん、ごめん。ちゃんとパパの言いつけ守ってんだな。偉いぞ」


 そう言ってあっさり立ち上がった男にサハルはますます混乱した。


 この男は何がしたいのだろう。自分から情報を入手したいのではないのか。


 男の背後を、サハルはそれとなく伺った。


 四人の男が立っている。

 みな背が高くて手足の太い若い男たちだ。


 うち二人は同じ顔をしている。髪の色を除けば、水面を覗き込んだようにそっくりだ。

 残りの二人はのっぽとチビだ。チビといっても自分の倍以上の背丈はあるし、ここにいる男の中で最もがっしりしている。のっぽの方は眼鏡をかけていて細かった。


 サハルは鼻をひくつかせた。


 そっくりの二人からは、『ワクワク』のニオイがする。

 自分が『狗』だと知らない村の幼子が、一緒に遊ぼうと誘う時のニオイだ。


 そっくりの表情はそれぞれ違っていて、一人はニヤニヤしていて、もう一人は無表情なのに、ニオイは顔と同じくそっくりだった。


 チビからは『怒り』のニオイがする。

 『苛立ち』も混じっている気がする。怖いニオイだ。


 けどなぜか胸が痛くない。いつもはキュウと掴まれたように痛むのに。それが不思議だった。


 のっぽからは『悲しみ』のニオイがする。

 息子をジライで失った母親のような深い深い悲しみだ。


 顔は笑顔なのにニオイは真逆で、そのあべこべさが変だった。


 そして、目の前の男。この男が一番よくわからない。


 四人からは多少ながらも『警戒』のニオイがした。上官に至っては特に濃い。


 なのに、この男からは『警戒』のニオイが一切しない。


 漂ってくるのは『好き』と『ワクワク』、『不安』、それぐらいだ。

 『嫌い』、『怖い』、『憎い』のような、胸がキュウと痛くなるニオイがしない。


 夜明けの、冷え切った大地を温めるお日様のように温かくて、思わず近寄ってしまいたくなるニオイだ。


 だが、いくら温かそうに見えても太陽は太陽。近づけば、涸れ川のようにカラカラに干上がってしまう。


 ゆえにサハルは、この男が一番恐ろしかった。


 そんなお日様に似た男は、腰に手を当てると再びこちらを覗き込んできた。


「さて。今回の任務には君を必ず参加させるように~ってお達しなんだけどさ。君はどうしたい?」


「――へ?」


「おい」


 上官の『苛立ち』と『怒り』のニオイが濃くなった。自分に向けられたものではなかったが、頬がピリピリした。


「なんすか先輩」


「なんだじゃない。あれほど勝手な真似はするなと言っただろう。そもそもコレの管轄はうちじゃない」


「けど短期間とはいえこれから俺らの仲間になるんすよ? 今後のためにも多少の信頼関係築いたっていいでしょ。背中から刺されるのはごめんっすよ」


 口をつぐんだ上官をよそに、お日様の男は「で?」と小首を傾げた。


「君はどうしたい? 任務からは逃れられないとしても、君は何がしたい? 何のために戦う?」


 ああ、そういうことか。


 サハルは姿勢を正し、両の踵をつけた。答え方はすでに教わっている。


「テロリストをするためです。テロリストだった父が犯したあやまちをつぐなうために、全力で戦います」


 途端、背後の四人がどよめいた。

 上官のニオイに『悲しみ』と『痛み』が混じったが、それ以上にサハルは目の前の男が豹変したことにたじろいだ。


 笑顔は霧散し、お日様のようだったニオイは瞬時に『怒り』に変わった。

 真昼の灼熱の太陽だ。


 そのくせ表情は、削げ落としたかのように無だった。


 サハルはくすぶる炭を思い出した。燃えているように見えないのに、ちょっと近寄るだけで皮膚をひりつくほど熱いのだ。


 しくじった。こう答えればいいと教わったが、間違ったらしい。


「……なるほどね。そう調したわけか。道理で大人しいわけだ」


 吐き捨てるように呟いた男の手が、視界を覆った。


 殴られる、と目をつぶった直後、温かいものが乗っかった。見れば、男の掌が自分の頭を撫でていた。


「いいか。君はこの任務から逃れられない。俺は君を逃がしてやれないし、この国の兵士として、それはできない。――けど。これから君は、自分の目で見て、聞いて、考えて、決めるんだ」


「自分で……?」


「そうだ。君の道は君が決めろ。これは頼みじゃない。命令だ」


 いいな?


 そう言われて、サハルはひとまず頷いた。


 言われた意味はよく分からないが、命令ならば従うだけだ。大人の彼が言うのだから、きっととても大事なことなのだろう。


 そうこうしているうちに、彼の顔に笑顔が戻った。

 ころころ変わるその表情とニオイに、サハルは目が回りそうになった。


「とまあ、確認はこのぐらいにして、と。よりによって呼称コードネームがブラックドッグとはね~。黒髪で犬呼ばわりされてたからって、いくらなんでも安直すぎだわ。センスねえな~」


「勝手に名を変えようとするな。軍の取り決めだぞ」


「どうせ公式文書から抹消されるんですから、取り決めもなにもないでしょ。非公開の俺らが使うこの子なんてなおさらだ」


 即座に反論した男に、上官が口ごもった。サハルは目を見張った。


 上官の言うことは絶対と教わったが、この男は当たり前のように口答えしている。不思議な人だ。上官が怖くはないのだろうか。


「こちとら命懸けで戦うんっすから、呼び名ぐらい好きにしたっていいでしょ。そっちの方がテンション上がるし。さてさて、どうすっかな~。どうせならカッコイイのがいいよな~」


「あのな、お前」


「かといって覚えられないのは困るし、変えすぎて他班が混乱するとまずいし。凝った名前だと先輩が通信で噛みそうだしな~。先輩、舌短いすもんね」


「ふざけんな。ガキの名前ぐらい噛めずに言えるわっ」


 上官の抗議をまるで無視して、男は「よしっ」と膝を打った。


「今日から君の名前は『ヘルハウンド』だ。ブラックドッグの別名とも言われてる。まんまなのが気に食わないけど、こっちの方がなんかカッコいいし、これなら他班も混乱しないだろ。伝承じゃ不吉な妖精なんて言われてるけど、墓場を守り死者を悼む、森に迷った子供を村へ届けてやったりもする、心優しい番犬なんだ。君にピッタリだろ」


「ヘル、ハウンド――」


 呼ばれた名を、口の中で転がすように呟いてみる。

 不思議なことに、自分の中でぴたっとはまったような気がした。


 男は歯を見せてにかっと笑った。


「そうそう。んでハウンドは英語で犬って意味だ。覚えやすいだろ? んで俺が『ハスキー』だ。そう呼んで。シベリアンハスキーって知ってる? 狼にそっくりな犬種でさ。あ、犬種ってのは犬の種類な。そういう種類の犬がいんだよ。君、狼みたことある?」


「えっ……あっ、あの」


「うん?」


「あなたも狗になるのですか……? かみさまから見放された子でもないのに?」


 『狗』と忌み嫌われて育った。

 サハラの顔に、パシュトゥーンの目をした、汚れた混ざり子だと。


 カーフィラはそれを否定したが、決して自分の名を呼ぼうとしなかったのは、結局そういうことなのだろう。


 自分は人ではなく、狗なのだ。

 そんなものに、この人もなるというのだろうか。


 『ハスキー』と名乗った男は、目をキラリと輝かせて頷いた。


「うん。だって仲間だし」


 衝撃のあまり、サハルは硬直した。


 仲間。そんなもの、今まで会ったことも見たこともなかった。

 仲間というだけで、この人は狗にすらなるのか。


 そんなこちらにお構いなしに、男はそっくりを指差した。


「んでそこの双子は『レトリバー』と『ラブラドール』な。顔がそっくりだしいいだろ」


「「ちょっと」」


 そっくりは全く同じタイミングで口を開いた。


「いくらオレらの顔が同じだからってそりゃないでしょ。確かにゴールデンレトリバーとラブラドールって似てるけど」


「愛犬家から殺されますぜ」


「うっせえな、こういうのは覚えやすさ重視なの! んで、あっちで気難しそうに腕組んでるおっさんは『ボクサー』。うちの衛生兵」


「おっさん呼ばわりすんじゃねえよ。俺はまだ32だ」


 指さされたチビでがっしりした男が、思い切り顔をしかめた。

 けれど『ハスキー』はけろりと。


「けど俺の7つ上っすよね?」


「そのでっけえケツ蜂の巣にしてやろうかクソガキ。チンコの毛も生えてねえくせに」


「生えてますよちゃんと! 銀色で見にくいだけですぅ!」


 『ハスキー』がぎゃんと吠えたところで、咳払いが聞こえる。


 見れば、細身の眼鏡男がいつの間にか近くに立っていた。


班長チーフ、僕の名前は?」


「あ、トゥーレさんは『コリー』で」


「コリーか。いいね、むかし飼ってたんだよ」


 そう笑った眼鏡男――『コリー』は膝を折るとこちらに手を差し出した。確か、西側の国の挨拶で“アクシュ”といったか。


「よろしくね、ハウンド。この班で一番の年寄りの『コリー』だ」


 差し出された細い手におずおずと手を伸ばす。ゆっくり手を握られ、その力強さにサハルは驚いた。


 本気を出せば、自分の手などいとも簡単に折ってしまうだろう。そうならないよう加減してくれているのがわかった。


 恐る恐る見上げれば、『コリー』は嬉しそうに微笑んだ。今度は表情とニオイが同じだった。


 一方かなり不服だったのか、勝手に命名された三人が『ハスキー』へ詰め寄っていく。


「おいラルフてめえ、トゥーレ相手だとやけに殊勝じゃねえか」


「ちょっと班長、オレらの犬種もっとカッコイイのにしてくださいよぉ。ウルフハウンドとか」


「『ドーベルマン』とかどうっすか? 軍用犬だしイカしてるでしょ」


「『ドーベルマン』は先輩だから駄目」


「おい俺を巻き込むな」


「てかゴールデンレトリバーとラブラドールの何が不満なんだよ~。どっちも可愛いだろ!」


「「命名理由が気に入りません」」


 上官を巻き込んで大騒ぎを始める四人に、サハルは訳が分からず立ち尽くした。


 脇に立った『コリー』がクスクスと笑った。


「騒がしくてごめんね? いつものことだから」


 いつも。これが。


 サハルは目を丸くした。

 こちらの国の精鋭兵は、想像よりずっと陽気で喧しいようだ。


 一人納得していると、ポンと『コリー』の手が頭に乗った。今日はよく頭を撫でられる。


「初めましてヘルハウンド。僕らのチームへようこそ」


 チーム。確か、彼らの言葉で『集団』だったか。

 けれどサハルはそれを、『群れ』と訳した。


――群れ。


 見守っていた『コリー』がようやく四人の間に割って入り始めた。だが騒ぎは未だおさまらない。


 けれど、その騒動がサハルにはすこぶる心地よかった。

 自分はもう一人ではないと、強く思った。




 ***




 懐かしい夢を見た。


 優しくて、温かくて。吐き気がするほど都合のいい夢。


 上半身を起こそうとして、ぐらりと視界が揺れる。

 小さな心臓ができたように、ドクドクと痛む両の肩に、ハウンドは呻いた。


 甲板から入りこんだ江風に顎を撫でられ、ぶるりと身を震わす。そこで初めて自分が汗を垂らしていることに気付いた。


――くそ。まだ抜けきらないか。


 傷自体は大したことなかった。左肩甲骨のは自ら刺しにいったぶん少々深いが、鎮痛剤さえあれば耐えしのげる。


 問題は、毒だ。


――確かに正々堂々、勝負するなんて一言も言ってなかったな、あの野郎。


 5日前に自分と対峙した、双子で黒づくめの大男。

『トゥアハデ』の“銘あり”シュウの護衛をしていた、その弟の方だ。


 突然槍を捨て腰刀を使ってきたので妙だとは思ったが、案の定だ。

 刃に毒を仕込んでやがった。


 毒にはある程度、耐性がある。だがこの毒は経験したことがない。


 症状は季節性インフルエンザを悪化させたようなもので、発熱と悪寒、患部の鈍痛、呼吸促拍、発汗……毒の候補が多すぎて絞り切れない。


 対症療法として、大量の輸液と、独自に入手した解毒剤を片っ端から試してはいるが、まだ熱が下がらない。


 アンドレイ医師にバレれば即入院なのは明白だった。だから応急処置もそこそこに、自力で何とかしてきた。


 その無茶が、今になって祟ってきている。


――もう少しだ。


 ハウンドはうなじをぐっと押さえた。


 かつて、ここには『双頭の雄鹿』が仕込んだがあった。

 GPSと少量のC4爆薬を内蔵した、体内埋込インプラント型マイクロチップ。


 今は別のモノを仕込んでいる。


 は整えた。の準備も万端だ。

 三年かけて、あちこちに用意した甲斐があった。


 あとは、自分が壇上に上がれば、すべてが片が付く。


 懐が震えた。億劫な全身を叱咤して携帯を取り出せば、予感的中だ。


「なんだ」


『なんだじゃねえよ。定時連絡しろつったのおめーだろ』


 開口一番、文句を垂らすセルゲイに、そうだっけと考える。


 朦朧とする頭で考えていると、協力者は胡乱気に声を低めた。


『おめーホントに大丈夫か? 俺ちゃん、泥船に乗るシュミはねーんだけど』


「泥船かどうかはお前が勝手に判断しろ。ただし協力しないならリスト内容も教えない。――探してる奴がいるんだろ?」


 途端、セルゲイの声から軽薄と剽軽が消えた。


『まーね。そのためにロバーチに入ったようなもんだし。ま。似た者同士、仲良くしてくれや』


「やだ」


『てめーの位置情報バラすぞこの野郎。あと、さっきからヴァレーリの飼い猫がニャーニャーうるせえんだけど。あーやだやだ、女に振られたイタリア人はこれだから』


 カルロとの相棒解消は、一応本人の希望だったんだけど。


 胸中でそう呟いたハウンドは、今後を確認する。


「指定の場所まであと何分だ」


『15分。さっき伝えた橋下だ。そのまま飛び降りて移動しろ。船のスピード落としたりしねえから、タイミング逃すと後がねえぞ』


 ハウンドはちらと座席の向こうの操舵室を覗き見た。

 こちらに背を向け舵を取る船長は、セルゲイ子飼いのロバーチ領棄民だ。


 この水上タクシーに飛び乗った際も、何も言わなかった。すでに金は支払っているのだろう。

 セルゲイのことだ。万が一捕まった際に備えて、最低限の情報以外は何も知らせていないのかもしれない。


『言われた通り、道中の監視カメラは全部ハッキングして偽画像ダミーを差し込んどいたぞ。道変えたりすんなよ』


「わかってる」


『おう、礼は形あるものでヨロシク。あ、それと俺ちゃんにできるのここまでね。これ以上つるんでっと流石にバレるわ』


――よく言う。筒抜けにしてるくせに。


 といっても筒抜け先は、ロバーチ一家ではなく、当主個人のようだが。


 セルゲイの過去にも復讐相手にも興味はないが、なぜかこのふざけた男はルスランにだけは逆らわない。


 ルスランを敵に回したくないからか、まだ一家が自身の目的達成の妨げになっていないがゆえの余裕か。それとも本当に個人への忠誠心からくるものか。


 まあ、どっちでもいい。


 どのみち、USSAの目を掻い潜って移動するには、まだこの男の力がいる。


「あと3時間だけだ。そこから先は好きにしろ。リストなら三日で送信


『へーへー。んで、そっちは手に入れたらどーすんの? おめーリストに興味なんかねーだろ』


 かつてカーフィラが所持していた『手帳』、それに記されていた『失われたリスト』。


 世界各国の要人の悪行の証拠。

 使い方によっては、世界を裏から支配できる文字通りの黒名簿ブラックリスト


 それをどうするかと問われ、ハウンドは無意識にうなじを押さえた。


「悪戯さ」


『……はい?』


「私がリストを欲しがる理由だよ。――『大いなる悪戯のために』。ま、どっちかっていうと嫌がらせに近いかもね」


 そういって、ハウンドは通話を切った。

 そのまま座席に横たわり、斜陽も眩しい空を見上げる。


――ニコは、特区に着いたかな。


 連行役は、クロードに頼んだ。命令直後はひどく困惑していたが、ニコラスを守るためだと言ったらすぐ納得してくれた。


 店長はきっと怒るだろう。アンドレイ医師も最後まで納得してくれなかった。

 けれど自分がいなくなったからといって、あのお節介な二人がニコラスをほっぽりだすことはあるまい。


 ニコラスは、どうだろう。怒るだろうか、失望するだろうか、悲しむだろうか。


 泣いたり、しないよね……?


「返し損ねちゃったな」


 首元の弾丸の首飾りを摘み、西日にかざしてみる。


 ハウンドに色は判らないが、西日を反射して輝く7.62×51mm NATO 弾は、ニコラスの眼差しに似ていた。


 綺麗な色だ。

 きっと、琥珀色というのは、この色のことをいうのだろう。


 どこの馬の骨とも知れぬ狗の子に、自身の誇りの象徴をぽっと手渡してしまう、お人好しの色だ。


 彼の魂を、返し損ねてしまった。


 今から送り届ければ、間に合うだろうか。


「ちゃんと連れていけたかな」


 静かで、景色が綺麗で、飯が美味くて、ときどき賑やかで。


 掃き溜めに等しい貧民街の特区三等区では、静かで景色の綺麗な場所はつくれなかった。飯が美味い店を寝床にしたのはいいが、ニコラスには少々賑やかすぎるかもしれない。


 ニコラスは気に入ってくれただろうか。27番地を。


 しばし色を眺めて、のそりと起き上がる。


 時間だ。

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