7-7

 段ボールを開けるのには、かなりの勇気が必要だった。


 まるでパンドラの箱だが、開けなければ希望は取り出せない。シュレディンガーの猫のように、どっちつかずの曖昧なままにするわけにもいかない。


 過去を清算したいのなら、自分で開けて、中身を確認せねばならない。


 車内で大きく深呼吸する。

 雰囲気を察してか、バートンは煙草を買いに出ていった。


 自分一人で向き合うしか、ない。


 微かに震える爪先で、恐る恐るテープの端を引っ掻いた。

 深爪ぎみでこの手の物を剥がすのにはいつも時間がかかるのに、今回は意地悪なほどあっさり剥がれた。


 意を決してテープを摘まみ、一気に封を解く。


 開いた瞬間、埃とカビに混じって、懐かしい匂いがした。

 大昔、拾ったDVDで毎晩フレッドと宝探しをやっていた、真夜中の匂いだ。


 中身を見て、ニコラスはこれらが自分の元へ返却されたわけを理解した。


 擦り切れたTシャツ、色あせたスニーカー、色違いのゲーム機、花とテディベアの落書きのあるマグカップ。

 全部ニコラスがあの一家と過ごした日々の中で、フレッドたちから貰った物だった。


 Tシャツはフレッドから、スニーカーはエマから、ゲーム機はドルフから、――ゴミ捨て場から拾ってきたやつだったので、すぐに動かなくなってしまったが。


 マグカップの落書きは、フレッドの妹たちだ。花が一番上の妹で、二匹のテディベアは下の双子、だったはず。逆だったかもしれない。


 Tシャツには全部フレッドのサインがでかでかと書き込まれている。

「俺は必ずビッグになるからお前がサイン第一号だ!」なんて言ってたっけ。こんな派手なサイン入ってんのいつ着るんだと喧嘩になった気がする。


 街を出たあの日、すべて一家に置いてきた物だった。

 思い出になる物はすべて置いていった。持っていても、辛くなるだけだからと。


 荷物と段ボールに挟まれるようにして、一枚の封筒が入っていた。草花の空押しデボス加工が施されたシンプルで小洒落たやつ。


 差出人は、エマ・モーガンだった。


 ニコラスは封筒を開いた。


 内容は、フレッドが自室で保管していた物を返す旨が記されていた。


 フレッドは実家を離れる際にこれらを持ち出したらしく、なんと戦地にまでこれを持っていったらしい。

 それがフレッドが戦死した際に、彼のものと勘違いした担当者が、一家へ返却したのだという。


 ニコラスは驚いた。

 フレッドと戦地で再会してから二年を過ごしたが、返すそぶりなんてこれっぽっちも見せなかった。


 手紙は、こう締めくくられていた。



 ――『きっと、あなたは合わせる顔がないと思っているんでしょうけど、私にとって、あなたも息子の一人なのよ。いつか、必ず顔を見せに来て。大事な話があるの』――



 ニコラスは、便箋を手に、しばらく動かなかった。


 息子。


 氷柱で刺し貫かれたように、鳩尾がキリキリと痛んだ。


 そんなことを言ってくれるのは、エマだけだった。自分の母親は名はおろか、息子とすら呼ばなかった。


 それなのに、母親と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、あの女なのだ。


 一人キッチンにぽつんと座って、嗚咽を漏らしながら一心不乱にケーキを口に詰め込んでいた、あの女なのだ。


 フロントガラスを叩かれ、瞬時に我に返る。


 どこか気遣わしげな眼差しのバートンが立っていた。その左手には一輪の白薔薇の花束が数束握られている。


「私はこれからアーリントンへ行く。教え子たちに挨拶をしてくる。お前も来るか?」


 数秒ばかり逡巡して、ニコラスは首を振った。


「いえ。俺はいいです。戦友の遺体を囮にするような奴は海兵隊じゃない。そんな奴に戦友の墓の前に立つ資格はない」


「あのな、」


「最後の言葉、何にするかって言いあってたんですよ。ティクリートの撤退戦の時。言い出しっぺはフレッドで、どう考えても絶望しかない状況だったのに、なんでか皆テンション上がってて。俺は不謹慎だから止めろって怒ったんですけど、皆ゲラゲラ笑ってて」



『ロッカーに入ってる手紙を宛名の女の子に届けてください』

『両親に預けた犬の面倒を見るよう言っといてください』

『くたばれ馬鹿ドレスデン!』

『誰か俺が卒業パーティープロムで会った女の子の連絡先しりませんか?』

『妻に「実は愛していなかった」と伝えてくれ』



 彼らの最期の言葉は、すべて自分が伝えた。


 いま思えば、あの絶望的戦況すら笑い飛ばそうとしたのだろう。フレッドらしい提案だった。その陽気さに何度救われたことか。

 成り行きで指揮官になった自分を、最後のその瞬間まで支えてくれた。


 なのに。


「肝心のフレッドの言葉、聞き損ねました。家族に言いたいこと、いっぱいあっただろうに」


「ウェッブ」


「すみません。こればっかりは譲れないです」


 死者を悼むなら、ここでもできますから。


 そういって段ボールを撫でると、バートンは「そうか」と小さく呟いた。


「私からの用事はこれで終いだ。これからどうする?」


を済ませて特区へ戻ります」


 二日後の聖夜に行われるであろう、『二冊目の手帳』の移送。

 それを巡ってUSSA、五大マフィアも絡んだ熾烈な争奪戦が繰り広げられる。そこにハウンドも来る。


 ならば、その助手たる自分が駆け付けぬ理由はない。


 バートンはしばし、じっとこちらを見つめると嘆息した。


「分かった。そこまで言うなら好きにしろ」


 そう言って、車のキーと煙草を窓から放り込んだ。煙草はシートに跳ねて、足元へと転がっていった。


「一つだけ言っておく。我が国の海兵隊はお前が思うほど狭量ではないぞ」


 そう言って、バートンは見事な回れ右で、茶色くなった芝生を歩んでいった。


 その後ろ姿を見送って、


――煙草、喫わないんだけど……。


 そう頭を掻き、ちょっと困った餞別の品に手を伸ばす。


 ふと違和感を覚えた。


 透明なフィルムに覆われた何の変哲もない市販の煙草だ。

 けれどバートンが愛煙する銘柄ではない。彼が愛煙するのは、マーベリックではなくキャメルだったはず。わざわざ買ったにしては妙だ。


 あっちこっちから見回して、違和感の正体に気付いた。底の角っこに一センチほどの切れ込みがある。


 ニコラスは封を開けた。


 ぎっしり詰まった煙草にまぎれて、棒状に巻かれた紙がある。

 デッド・ドロップ。昔からスパイがよくやる手口だ。映画の中だけの話だと思っていたが。


 巻かれた紙を開けば、何やら座標らしき数字の羅列が並んでいる。


 この座標は。と、調べてみると、どうも市内の屋外駐車場らしい。何か意味があるのだろうか。

 そして、現在は22日の午前。


 争奪戦の夜までまだ時間がある。

 さて、これからどうすべきか。


 その時だった。


 重厚なわりに控えめなクラクション音に、ニコラスは目をあげた。


「クロード!」


「よーう、ニコラス。やっと見つけたぜ」


 運転席から片手をあげたのは、27番地住民代表のクロードだった。薄い頭髪を撫でつけ野球帽をかぶり直している。


「何かあったのか」


「どうもこうも、お前全っ然スマホ見てねえだろ。散々連絡したんだぞ」


 ハッとしたニコラスは慌ててスマホの電源を入れた。

 列車の一件以来、位置情報から探知されないよう電源を切っていたのが仇となった。


 見れば、店長、クロード、ケータ、アレサ、はてはジャックとウィルからまでメールやら着信やらが何十件と並んでいる。

 ニコラスは天を仰いだ。


「すまん。少しトラブルがあってな」


「んなことだろうと思ったぜ。おら乗りな。お嬢からお前を迎えに行くよう頼まれてんだ」


「助かる」


 そう返して、不意に足が止まった。


「……? おい、どうした」


 クロードが怪訝な顔をした。けれど、ニコラスの耳には入っていなかった。


 おかしい。


 ハウンドは、『クリスマスぐらい大事な人と過ごしてこい』と自分を特区から追い出した。それがどうして、今になって特区へ呼び戻すのだろう。


 ファン・デーレンとローズ嬢の話では、自分へ大事な贈り物があるからと言っていたが、それなら後から渡せばいいはずだ。


 自分を追い出した理由と、呼び戻す理由が矛盾している。


――どうして今まで気づかなかったんだ。こんな単純なこと。


「おーいニコラス、さっさと乗れ。こんなとこにトラック停めたままじゃ衛兵が来ちまうよ」


 クロードが急かしてくる。


 ニコラスは迷った。が、乗ることにした。


 ひとまず特区へ戻ろう。二日後の争奪戦に参戦するにしても、得物が拳銃ひとつではどうにもならない。

 ハウンドへの疑問は、乗ってから連絡すればいいだろう。


 そう結論を出して、トラックのドアに手をかけた直後。


 耳をつんざくような、濁音まじりの急ブレーキ音がした。


 振り返ると、紅いジープ・ラングラーがこちらめがけて突っ込んできていた。


 四輪すべてのタイヤから凄まじい量の火花が散る。

 タイヤに巻かれたチェーンだ。今にも千切れ飛ぶのではなかろうか。


 とっさにニコラスは芝生側へ飛んだ。

 いつにも増して足が動かない分、受身はお粗末なものだったが、轢かれるよりはマシである。


 歩道に乗り上げたジープがトラックとこちらの間を突っ切った。そのまま兎のように一跳ねして、180度スリップして止まる。


「っ、なんつー運転しやがる……! おいニコラス、大丈夫か!?」


「ああ!」


 怒声に怒声で返して、ニコラスは上半身を起こした。


 故障したのだろうか。白煙が立ち込める中、ジープは完全に沈黙している。


 と、思ったらタイヤが空転し始めた。


「げ」と思う間もなく、ジープがまたもこちらに突っ込んできた。


 起き上がろうにも単軸義足では重心が安定せず、起き上がれない。


――やべっ轢かれる……!


「ニコラス!」


 聞き覚えのある怒声に、ニコラスはあんぐり口を開けた。


 ケータだ。助手席にはアレサも乗っている。

 そこでようやく、ニコラスはジープの持ち主がアレサであったことを思い出した。


 運転席から身を乗り出したケータは、顔を真っ赤にして怒鳴った。


「特区へ帰るな! こいつは罠だ!」


 突飛な発言に耳を疑う。


 罠? 一体どういう――。


「やっべえ気付かれた! おいお前ら!」


 クロードの声に振り返れば、荷台から武装した住民が次々に飛び降りてくる。辺りは一気に騒然となった。


 住民がこちらへ殺到してくる。が、どう見たって自分を守るためではない。

 むしろ自分を捕獲しにきているような。


「ニコラスこっちだ! 早く!」


 ケータが再び怒鳴った。


 クロードか、ケータか。

 選択を迫られる。


 ニコラスは舌打ちして、ジープを選んだ。


 急停止したジープが目の前でドリフト回転する。

 遠心力で後部座席のドアが開き、そこにニコラスは頭から飛び込んだ。


 直後の急発進。


 車体後部が揺れ、その勢いで車外に放り出されそうになる。


 咄嗟にシートベルトを掴まなければ、こすったのが左脚でなければ、危なかった。


 腕力任せに全身を引き上げ、何とか乗車してようやく息を吐く。


「ハリウッド並みのカーアクションで出迎えるとは、よっぽどの事態なんだろうな」


「ああ。ありがたくないことにね」


 ミラー越しに、険しい目のケータと目が合った。


「ハウンドはお前を次の統治者に据える気なんだ。特区へ戻ったら最後、二度と出られなくなるぞ」




 ***




――10時間前のことである。


 いよいよ救出作戦開始となり、カメラに集中するよう言われたケータは、ハウンドの姿がないことに気付いた。


「先生、ハウンドは?」


「別位置についてる。画面に集中してくれ」


 医師アンドレイにそう言われ、仕方なくケータはノートパソコンに送られてくる映像に集中した。


 後部座席に医師と二人きり。気まずい沈黙が車内を支配する。


 清掃業者に扮した住民のボディカメラが、揺れながら病院内部を映し出す。


 画面を注視しながらも、ケータの不安はどんどん大きくなっていく。


 先ほどの警告。ニコラスが追い出されたという噂。

 そして、祖父奪還の条件に、ニコラスが差し出されたのではないかという疑惑。


 もう頭はぐちゃぐちゃだ。

 なのに、状況はどんどん進んでいく。考えるのを待ってはくれない。


 ニコラスに連絡を取るべきか? 

 だがさっき電話をかけたが、彼は出なかった。なぜ出られない?


 車外に出ているアレサが不満げに身体を揺らしている。

 作戦開始ということで、住民が彼女のメンバーを追い払ったことに不信感を抱いているのだ。


 ハウンドの姿が見えないことも気にかかっているのだろう。

 まったくの同感だった。


 ケータが先ほどから尋ねても、住民は「大丈夫だ、任せてくれ」と言うばかりで、作戦の詳細を決して教えてくれない。

 医師に至ってはずっと無言だ。


 何かがおかしい。


 カメラがエレベーターに差し掛かった時。


 携帯が鳴った。


 非通知の表示を見たケータは、咄嗟にこう語った。


「上司からかもしれない。席外していいか」


「一人で大丈夫か」


「ここまで来て妨害はさせないよ」


 アンドレイにそう言い訳して、ケータは車外に出た。


 すぐさまアレサが何事かと寄ってくるのを手で制して、携帯を耳に当てる。


「誰だ?」


『今から10時間後に、ニコラス・ウェッブを解放する』


 聞き覚えのない声と、その内容に全身が強張った。


 男、それも年配。声はやや掠れている。喫煙者特有の声の掠れ方だ。


「解放? なんのことだ」


『君の祖父との交換条件だ。ヘルハウンドが君の祖父の解放を要求した際、私がそう頼んだ』


 傍で耳をそばだてていたアレサが息をのむ。


 男は小さく嘆息したらしかった。


『だが私の教え子は、助けられる気がさらさらないらしい。逃がしたところで騒動に突っ込んでいくのが目に見えていたのでな、好きにさせることにした。

 それを知った彼女が強硬策に出たようだ。――いや。すでに手を打っているところを見るに、端から私を信用してなかったようだな』


「ちょっと待ってくれ。教え子? あんたニコラスの教官かなにかか?」


『そんな悠長に尋ねている余裕はないぞ、ケータ・マクナイト。ヘルハウンドはすでに動いている。自身の後継に指名し、特区に縛り付けたうえで戦いに臨む気だ。どうしてもウェッブを危険に晒したくないらしいな、彼女は』


 先ほどの警告が頭をよぎり、ケータは愕然とした。


 なら、ハウンドがここにいないのは――!


『君の祖父を拉致したのは私だ。その詫びだ。あとは好きにするといい。解放は10時間後、アーリントン国立墓地だ』


 電話が切れる。


 盗み聞きでも要領を得なかったアレサが「どういうこと?」と尋ねてくるが、それどころではない。


 出ていったのはニコラスではない。逆だ。

 ハウンドが27番地を出ていった。


「病室に着いたぞ。確認してくれ」


 助手席から医師が出てくる。ケータは選択を迫られた。


 祖父救出に専念するか、真相をニコラスに伝えるべきか。


 祖父か、ニコラスか。


――どうしよう、どうしたらいい……!?


 答えが出ぬまま、画面を見つめる。


 そこには、病院用ベッドに横たわる祖父がいた。


 何本ものチューブに繋がれ、見るも痛々しい祖父は、けれどしっかり目を開けこちらを睨んでいた。


 その唇が、馬鹿孫と紡いだ。

 声は掠れて、ボディカメラではほとんど音を拾えていない。耳をそばだてないと聞き逃してしまいそうだ。


「爺ちゃん」


 確認が取れたと判断したアンドレイは降車し、住民に指示を出しはじめる。

 けれど、ケータは祖父だけを見ていた。


『馬鹿孫……そこ、に、おるのか……』


 画面を食い入るように見つめる。


 意識がもうろうとしているのだろう。目の前に誰がいるのかも分かっていない。


 それでも真っ先に自分を呼んだことに、ケータはぐっと目元の熱を堪えた。


 祖父の眼球が小刻みに揺れている。顔色は死人同然で、呼吸も息絶え絶えだ。

 今にも死んでしまうのではと、気が気でなかった。


 祖父は震える指で、右腕のある部分を引っ掻いた。


『……れ……弱……人を』


 ケータは祖父の意図するところを理解した。


 右腕、特区警察の腕章がある位置だ。

 いや、軍で星条旗ワッペンをはる位置でもあるので、そっちの意味かもしれない。


 けれど、ケータには前者に思えた。



『お前のそのちっぽけな手の届く範囲でいい』



 かつての言葉が頭をよぎる。


 弱き人を守るには、27番地を守るには、何が最善か。


 ハウンドの後継者にニコラスを据えることか?

 『六番目の統治者』のいない27番地が、平穏を維持できるのか?

 それに、ハウンドだって守るべき市民じゃないのか。まだ18の子供だぞ?


 俺の。警官としての、俺の役目は――。


 祖父が声を振り絞った。


『お前の……手は、まだ……届くか……?』


「っ……!」


 畜生。


――俺の意気地なし! 優柔不断!


 ケータは後部座席を飛び出した。


 そのまま運転席に飛び込み、キーを回す。


「ちょっとあんた何してんの!? あたしの車よ!」


「借りるぞ!」


「はあ!?」


 目を剥くアレサに、ケータは返答がわりにアクセルを吹かす。


 慌ててアレサが助手席に乗り込む中、アンドレイと目が合った。住民がみな慌てる最中、やけに冷静だった。


「……いいのかね」


「ええ。再会そうそう爺ちゃんに叱られるのはごめんです」


「巻き込まれるぞ」


 何を今さら。


「ここまできたら最後まで付き合いますよ。ニコラスは俺が裏切ったと知っても、態度を変えなかった。借りを返さないと」


 そう言って、ケータはサイドギアを降ろした。


 急発進した車体が、凍結した路面で滑って後部が揺れる。それすらハンドルさばきでいなして、行き先を南方へと向ける。


 北部出身の警官を舐めるな。凍結した路面で何度カーチェイスやったと思ってる。


 そこからはほぼノンストップで、南下した。ニコラスが待つであろう、首都へ。




 ***




「――そういうわけで、迎えにきた。アレサには申し訳ないんだけど……」


「ええ本当よ。愛車はぼろぼろにされるし、スリップしまくりで何度も事故りかけるし。マジで死ぬかと思ったわ」


 ハンドルを握ったままケータが首をすくめる。その後ろ姿を、ニコラスはじっと見つめた。


「よかったのか。選んだのが俺で」


「……あのままあそこにいても、俺にできることは何もなかったし。それに、爺ちゃんなら自分よりも周りのこと考えろって言うと思うから」


 叱られっぱなしは嫌だよ。


 そう返すケータに、もはや何も言うまいとニコラスは思った。


「ひとまず、状況は理解した。こっちの事情も話す」


 ニコラスはすべてを話した。この状況下では、知らない方が危険だと判断した。


 手帳や『失われたリスト』のこと、USSAのこと、それらを巡って二日後に五大マフィアも絡んだ争奪戦が繰り広げられるかもしれないこと。


 二人は絶句した。


「なんてこった。つまり、その、なんだ。その『失われた手帳ロスト・ブック』」


「『失われたリストロスト・リスト』よ」


「そう、それ。その証拠品の移送が二日後のここで行われる予定で、それを狙って五大マフィアたちがここに集結しに来てるってこと? んでその争奪戦にハウンドも加わるって?」


 アレサの訂正を挟んでのケータの確認に、ニコラスは頷く。


「ああ。俺もそこへ参戦する。お前らも強制参加だ。覚悟してくれ」


「マジかよ……」


「とんでもないことに巻き込まれたわね……」


 そう嘆息した二人に、ニコラスはスマートフォンに表示した一点を見せた。


「追い打ちをかけて申し訳ないが、ひとまずここに向かってくれ」


 あのバートンが残したものだ。何か意味があるはず。



 ***




 首都へ向かう幹線道路沿いのとあるダイナー。


 クロム・クルアハは非常に退屈していた。


 公式には、合衆国安全保障局USSA、作戦本部秘密工作担当課所属。

 非公式には『双頭の雄鹿』直属の極秘武装組織『トゥアハデ』のメンバー。


 今年16歳になる少年である。


 なお『クロム・クルアハ』という名は『トゥアハデ』でのものであり、本名は周囲も本人も知らない。


 分かっているのは、彼が『トゥアハデ』最年少の“銘あり”であること。


 彼が忠誠を誓うのは、USSA長官にして『双頭の雄鹿』の長たる、アーサー・フォレスターただ一人、ということだ。


 ゆえに、目の前で顔を押さえて俯く、シバルバ一家幹部のことなど、眼中にもない。


「んーまあ、おじさんたちが『お兄さん』を捕まえたい理由は分かったけどさ、なんでおいらたちに協力するわけ?」


 テーブルに突っ伏し、手に入れたばかりの玩具をころころ転がすこちらを、ウェイトレスがくすくす笑いながら通り過ぎていく。


 年甲斐もなくゴムボールで遊ぶ幼稚な少年が滑稽か、はたまた微笑ましいか。


 もっとも、ウェイトレスをはじめ周囲がゴムボールを思っている玩具は、想像に反してねちょねちょとテーブルに透明な筋をつくっている。


 ナメクジみたいで実に醜い。色もごくありふれた茶色で面白みがない。


――うーん。これじゃあにならないなぁ。


 クロム・クルアハが指先で玩具をつまんで見上げていると、向かいの幹部が奥歯を軋らせるように口を開いた。


「……それが、ボスからのご命令です。それ以上は、自分からは何とも、」


「おじさんあったま悪いなぁ。おいらが当ててあげようか。今回の手帳争奪戦、シバルバはヴァレーリ・ロバーチ双家に大きく遅れを取っている。シバルバには促進剤ブースターが必要だ。そこで以前CIAと麻薬取引の件で協力したツテを使って、おいらたちに接触した。ここまでは合ってる? 元CIAが一人、特区にいるんだよねぇ。今回のパイプ役そいつ?」


 幹部は答えない。彼の本能が、回答を拒否しているのだろう。賢い男だ。


 クロム・クルアハは玩具を転がすのを止め、指先で摘まんでぐにぐにと弄んだ。


 ありゃ、結構もにもにしてるじゃない。こいつは新感触。


 玩具の新しい一面を発見して、機嫌が少し上向きになる。


「けどシバルバにとって促進剤はあくまで促進剤。協力する気なんてさらさらないし、おいらに接触してきたのも、『お兄さん』の居場所聞き出すためでしょ。聞いたらおいらはぽいっ。利用することを協力っていうの、やめた方がいいよ?」


 力を入れ過ぎたのか、玩具が弾けた。

 ぶちゅりと音を立てて、無色透明のゼリー状のものが指先とテーブルを汚す。


――ふーん、これが硝子体ってやつか。意外とねっとりしてる。


 指先にこびりついた眼球の中身に顔をしかめ、目の前のファンタ・グレープで洗う。


 そのおぞましさに、周囲はまるで気付かない。


 これはクロム・クルアハの容姿が典型的なラテンアメリカであることだけでなく、彼の態度に起因していた。

 さも当然のように振舞っている。


 周囲からは、あたかも指先についたポテトの油が洗い落とそうとしているようにしか見えないのだ。


 眼球をえぐり出した際、向かいの幹部がほとんど悲鳴をあげなかったこと、店内に流れるロックの音量がデカかったこと、服が血の目立たない黒だったことらも、それを助長した。


 幹部としては、自分たちの管轄内シマの棄民が働くこの店で、醜態をさらすわけにはいかなかった。

 目の前の少年より、当主から与えられる罰が怖いのだ。


「で? おじさん、これからどうすんの?」


「……仰せの通りに。あなたに従います」


「うんうん。強者には絶対服従。骨の髄までちゃーんと刻み込まれてるみたいだね。そういう動物じみたとこ、おいら大好き」


 そう言ってナプキンで綺麗に指先を拭きとった少年は、笑顔で立ち上がった。


「さあ早く行こうか、おじさん。おいらまだ、今日の見つけてないんだ」


 クロム・クルアハの発言に幹部の顔が恐怖に歪む。

 そんなに怖がらなくても、もう獲ったりしないのに。


 自分が欲しいのは、今日であった中で一番美しいもの。


 己が忠魂義胆を尽くすアーサー・フォレスターが、仇敵の遺品やその一部を収集するように。自分が欲するのは『女神』への捧げものだ。


 それは決して、決してメキシコ民俗カトリック主義者が謳う死の女神サンタ・ムエルテではない。侵略者のニオイをまとわせた新しき神など、少年は必要としない。


 少年が信じる神はただ一柱。


 我がいと聖なる母のお導きに遵って、末裔たる自分も生贄を捧げなければならない。


「にしても。あの自称ヒーロー様、自分があの子の“呪い”の根源だって知ってるのかな」

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