7-6
〈西暦2013年12月21日午後3時20分 アメリカ合衆国ミシガン州 州都ランシング〉
時を遡ること数時間。
ニコラスが困惑顔で生まれ故郷を彷徨っていたその頃。
州都ランシングのエッヘ・ウーシュカ大学病院真向いの道路にあるドラッグストアの駐車場にて、ケータは車内待機していた。
小刻みに震える拳を、隠すように左手で覆った。
ハウンドの前で、裏切った自分が被害者面をするのは申し訳なかった。
――しっかりしろ。爺ちゃんの救出作戦だろ。俺がちゃんとしないでどうするんだ。
景気づけに頬を叩いてみる。
痛みは眠気覚ましにはなったが、心はちっとも晴れない。
祖父のため、自分は街の皆を裏切った。
生まれ故郷である街を何より大事にしてきた祖父がこのことを知ったら、なんと言うだろうか。
人生のほとんどを軍へ捧げた祖父は、アメリカ市民を守ることを常に誇りに思っていた。
だからこそ、自分が軍ではなく警察を志した時、珍しく「意気地なし」と罵倒せず諸手をあげて喜んだ。
『お前のそのちっぽけな手の届く範囲でいい。守ってやれ。自分では戦えぬ弱き人のために戦え。お前の手はそのためにある』
祖父のこの言葉は、今も胸に刻み込まれている。
だからこそ特区警察への配属を志願した。
不正を当然のように犯す同僚を横目に、踏みにじられる弱者のために戦う警官であり続けようとした。
それすら叶わなかった。
自分の手は、弱者はおろか家族にすら届かぬほど、ちっぽけでお粗末だった。
こんな情けない話があるか。
コンコン、とボンネットを叩く軽い音。
面をあげれば、運転席のアレサ・レディングが、元『まだら鷲』メンバーの男と話をしている。
すでに解散したとの話だったが、未だジャンバーの背に両翼を広げたまだら鷲を背負っているあたり、その忠誠心は健在のようだ。
助手席のハウンドが身を起こした。
「悪いなアレサ。手伝ってもらって」
「構わないわ。あなたたち27番地住民じゃ顔われちゃってるんでしょ? このぐらいなんてことないわ。本調子じゃないけどね」
「バイク以外は駄目か」
「当然。私たちの愛馬だもの。ま、この路面じゃ無理だけど」
そう言ってアレサは肩をすくめた。
「すでに大学病院に出入りしてる業者にうちの連中を数名潜り込ませてある。マクナイト爺さんがいるのは南棟11階、西側の個室1109だ。毎日朝と晩、面会と称して姪が見舞いに来るそうだ」
「……爺ちゃんに姪はいないよ。いるのは孫の俺だけだ。きっと爺ちゃんの監視役だと思う」
そう答えると、「だろうな」とハウンドは淡白に頷いた。
「病院は当然だが監視カメラがある。うちの連中を、ここに出入りしてる業者に潜り込ませたが――」
ハウンドの説明が頭の中を滑っていく。どうしても拭えぬ違和感が脳に張り付いていた。
――なんで私服警官も捜査官もいないんだ……?
ヘルハウンドの特区での所業は、その界隈ではとうに知れ渡っている。
ヴァレーリ一家前当主の暗殺。シバルバ一家に対する凄惨な報復。
特区へのパイプを提供する違法すれすれの斡旋業を行う『六番目の統治者』にして、五大マフィアと張り合う中立派の若き支配者。
どれをとっても
なのに、特区を出てからここに至るまで、それらしき影も形もない。
そもそも、祖父をこの病院へ拉致監禁した張本人のクルテクの動きがまるでないのが妙だ。
元上司の立場を利用してでの妨害や、自分の携帯に脅迫電話なりメールなり送って牽制があってしかるべきなのに、それすらない。
ここまであまりに順調に行き過ぎているのだ。もはや空恐ろしくなってくる。
「――以上が作戦概要だが……、おいケータ、聞いてるのか?」
ハウンドの声に、我に返って慌てた。
「ご、ごめん。ちょっといろんなことがあり過ぎて……それで、俺は何をすればいいのかな」
「ちょっと刑事さん、あなた大丈夫? あった時よりもっと顔色悪いじゃない」
心配そうに眉根を寄せるアレサに対し、ハウンドはじっと無表情のままこちらを見ていた。
おもむろに口を開くと、
「さっきも言ったが、お前は何もしなくていい。院内に潜入する住民がボディカメラを装着している。お前は画面越しにそれを見て、病室にいるのが本当に祖父なのかの確認をしてくれればいい」
「分かった」
それだけ言うと、ハウンドはさっさと車を降りてしまった。
ぴょんと地面に降り立った直後、眉をしかめて左肩を押さえた。
以前、デンロン社に潜入した際、双子の大男にえぐられたあたりだ。
「大丈夫かハウンド、まだ前回の傷が――」
「お前は自分の心配をしていろ」
にべもなくぴしゃりと弾き返され口ごもる。
そうこうしている間に、ハウンドは早々に立ち去ってしまった。
「な、なあ。彼女、本当にアンドレイ先生に治療してもらったのか? 君、いま先生のところでバイトしてるんだろ?」
「先生はそう言ってたけど……」
そう言って、アレサは除雪された雪山の傍でハウンドと話すアンドレイ医師を見つめた。その目には、心配以上に疑念が勝っているように見える。
さらにアレサは「それとは別件なんだけど」と戸惑いがちに切り出した。
「ねえ刑事さん、あなた聞いた?」
「なにを」
「ニコラスが追い出されたって話」
「なっ……!?」
思わずひっくり返りそうになった。寝耳に水どころか熱湯レベルの話だ。
「そんなはずないだろ。あれだけ相棒とっかえひっかえしてたハウンドが唯一自分でスカウトした助手だぞ。何かの間違いじゃないのか」
「私もそう思ったんだけど……」
と、その時。アレサがぱっと顔をあげた。元メンバーが手を振って合図を送っている。
アレサは「すぐ戻るから」と気もそぞろに車を離れた。
一人車に残されたケータは茫然と天井を仰いだ。
一体なにが起こってるんだ。
住民が望んだ、という線はまずありえない。街の防衛に大きく貢献しているニコラスへの住民の信頼はかなり高い。
第一、住民代表であり、商業組合長のクロードが許さないだろう。
ニコラスの雇い主である『BROWNIE』の店長だって、まるで息子のように面倒を見ていた。
それがいきなり、追放など――。
――まさか。
恐ろしい推測が脳裏をよぎり、全身から冷や汗が噴き出してくる。自罰の念からくる冷や汗だった。
住民でもクロードでも店長でもないとすれば、残るは27番地支配者である、ハウンドの意向以外にあり得ない。
だが彼女にとっても、ニコラスの存在は公私ともにかなり大きなものだ。それを先日のデンロン社の一件で目の当たりにした。
となれば、答えは一つ。
彼女が彼を追放せざるを得ない事態が発生した。
そして彼女は、住民保護のためならどんな手段も厭わない。
――まさか。爺ちゃんを解放する条件に、ニコラスを……?
瞬間。
軽快な電子音が鳴った。
飛び上がったケータは天井に盛大に頭をぶつけて呻いた。
「なんだよ急に! こんな時に……」
画面に目を落とすなり硬直する。非通知の電話番号だ。
もしや、クルテクからか……?
恐る恐る画面をタップしたケータは、数秒の間をおいて「誰だ」と尋ねた。
『ああ、よかった。ちゃんと出てくれましたね』
ケータは思い切り面食らった。
なぜなら通話相手が、日本語で話しかけてきたからだ。
予想外の相手と言語に口ごもるケータをよそに、謎の男は穏やかな日本語で語り続けた。
『ケータ・
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんた誰だ? なんで俺のこと知ってる?」
『私ですか? そうですね……『シバ』とでもお呼びください。庭に柴犬を一頭飼っていまして』
「いや、だからなんで俺の電話に――」
『彼を特区へ帰してはいけない』
突如発せられた断固たる警告に、ケータの思考が急停止する。
「……彼、というのは」
『先日貴方がビルで大暴れした際に一緒にいた元海兵隊員の狙撃手です。ニコラス・ウェッブ――彼を特区へ帰してはいけない。彼にも伝えてください。あなたは特区へ帰ってはいけない、と。戻ったら最後、二度と出られなくなる』
「それはどういう、」
『頼みましたよ、刑事さん』
それだけ言って、電話は切れた。茫然と携帯を握りしめるケータを残して。
一体全体、何が起きてるってんだ。
***
〈西暦2013年12月22日午後1時8分 アメリカ合衆国首都 ワシントンDC〉
時間は戻り、現在。
「何を渋っている。話はミセス・モーガンが通してくれたと言っただろう」
「軍関係施設に顔を出すこと自体、苦手なんですよ俺は」
アメリカを象徴するホワイトハウスの目と鼻の先、退役軍人保健局前でニコラスは立ち往生していた。
動物病院の前で入りたくないと駄々をこねる飼い犬のような様に、バートンがあきれ顔で腕を組んだ。
「お前の冤罪はすでに晴れている。罵る奴がいたらそいつはとんだ世間知らずの馬鹿だ。ニュースを見ろ間抜けとでも言ってやれ」
「あのですね、」
「いいから早く行け。往生際が悪いぞ」
それ以上渋ったらケツを蹴り飛ばすぞとばかりの剣幕に、渋々踵を返す。
怒鳴ることも声を荒げることもないのに、どうしてこのジジイは迫力があるのか。ジジイだからか。
監視カメラがずらりと居並ぶ通りを、ニコラスは背を丸めてそそくさと歩く。
取り調べを受けた時のためにと拳銃を置いてきたせいか、やけに心もとない。
いつ
灰色のコンクリートでできた建物が要塞のように見えてきた。入口に掲げられた星条旗すら威圧感を感じる。
さっさと用事を済ませよう。
腹をくくったニコラスは保険局内に入った。
屋内には、軍服と私服とを着た人間が半々ずつ、いかにも退役軍人らしき、家族に連れ添われた男たちがちらほらいた。
中には『私は国のために奉仕しました』というロゴの入ったジャンパーを着ている者もいる。
足を失った理由が、事故か戦役によるものかによって、周囲の反応に天と地ほどの差があるからだ。
周囲の目がやけに気になる。ちょっとした囁き声が、すべて自分の陰口を言っているように思える。
――幻聴だ。気にするな。
そう言い聞かせながら、ニコラスは国立墓地局を探した。フレッドの遺品を管理しているところだ。
服の下で冷たい汗が流れるのを感じながら、ニコラスは標識を追って受付に辿り着いた。
受付は若い男だった。
日焼け跡もまるでない、綺麗なピンク色の爪を生えそろえた手の、20代前半とみられる白人の青年だった。
青年はこちらを見るなり、胡乱気に首をひねった。そして軽く目を見開くと、嫌そうな顔をした。
『偽善者』の悪名は、民間の若い世代にまで知れ渡っているらしい。
「ウェッブ退役上等兵だ。モーガン一家の、……フレッド・モーガン軍曹のご遺族の頼みでここに来た。最終階級は少尉。彼の遺品を受け取りたい。彼の母親からは、すでに話がついていると」
「確認します」
青年は素っ気なく言い放つと、奥へ引っ込んでしまった。
周囲の視線がますます痛い。
ニコラスは気まずく視線を彷徨わせながら、辛抱強く待った。
数時間にも思えたひと時を耐えること数分。
「お待たせしました! ありましたよ」
にこやかに戻ってきた青年に、ニコラスは困惑した。
先ほどの剥き出しの嫌悪感はどこへいったのか。
「こちらがフレッド・モーガン少尉の遺品ですね。ご遺族からのお手紙もついています。あとでゆっくりお読みになってくださいね。そしてこちらが、受け取りに関する書類です。最後のところにサインしてくだされば結構ですから」
「あ、ああ」
戸惑いながらも、最後の記載欄にサインする。
その合間もしげしげとこちらを眺めていた青年は、始終ニコニコと微笑んでいた。
「なあ、」
「よかったですね。裁判、決まって」
「へ?」
突拍子もない発言に、思わず素っ頓狂な声がでる。それに構わず、青年はやや興奮した口調でまくし立ててきた。
「裁判ですよ、裁判。あなたの冤罪を晴らすためのです。今朝ニュースに出たんですよ。あなた、6年前のイラク民間人暴行疑惑を週刊誌に書き立てられて、ご実家を放火されたんでしょう? その裁判が来年の春に行われるそうですよ。俺、ニュースとか見ないんで知らなくて。さっき遺品管理のおばさんに言われて知ったんです」
「よかったですね」と言われ、ニコラスは生返事しか返せなかった。
裁判? そんなもの、聞いた覚えもない。第一、誰が――。
「あー、すまない。俺は帰国してから、その。田舎に引っ込んでいたんだ。色々としんどくて。裁判のことも、たぶん手紙とかメールとか来てたのかもしれないが、見てなくて。……詳しく聞いても?」
そう返すと、青年は同情で顔を歪めた。嫌悪感まる出しになったり同情したりと、忙しい青年である。
青年は嬉しそうに頷いた。
「ええ、もちろん。発端は一人の支援者です。あなたのね。6年前、あなたがた第37偵察小隊に、イラク民間人暴行の疑惑がかかった時、あなた否定しなかったでしょう? ずっと黙秘してた。そのせいであなたは疑われた。俺もてっきり、本当にやったから黙ってるのかと。裁判も起こさないし」
「……親友と部下を失った直後だったからな。何も考えられなかったんだ」
「ああ、そうだったんですね。お気の毒に」
とうに報道されているであろうことを聞いて、青年は心底悲しそうに首を振った。
ニコラスはだんだん腹が立ってきた。
勝手に決めつけて冷遇したかと思えば、今度は勝手に同情して憐れむ。
何様のつもりだ。
俺の人生は、お前に消費されるための物語じゃないぞ。
「けどあなたはツイてますよ。その支援者、ずっとあなたのこと信じてたんです。記事にありました。ずっと一人で第37小隊の生存者とご遺族に、声をかけ続けていたそうです。それで例の週刊誌への裁判が決まった。隊員の実名報道を行って、あなたの実家放火を扇動したあの『ニュー・ウィーク』です。現在、各隊員の裁判が、立て続けに勝訴を勝ち取ってるとか。んで今回、あなたの番が回ってきたってわけです。裁判のための寄付金も――」
「その支援者が誰か分かるか? すぐ家に戻って宛名を探してみる」
話を遮られた青年はちょっとむっとしたが、すぐ笑顔に戻った。
「弁護士のリンファ・ロッシーという方です。後援者代表はそちらのフレッド・モーガン少尉のお母様ですよ」
ニコラスは愕然とした。
リンファ・ロッシー。
ハウンドの偽名だった。
***
受付を立ち去ったニコラスは、遺品の入った段ボールに目を落としたまま、廊下脇の自動販売機横のベンチにへたり込んだ。
受付の青年への怒りは、とうに霧散していた。自分が情けなくて仕方なかった。
ずっと、守られていた。
守りたかったあの子に。
恩人は自分を見放してはおらず、ずっと信じて支援し続けてくれていた。
合わせる顔がないと言い訳して逃げ回っていた、自分のために。
俺は――。
「おや? もしやそこの御仁、ミスター・ウェッブでは?」
聞いたことのある芝居がかった声に面を上げ、ニコラスは目を丸くした。
ひょろりと長細い胴体の先に、古風に整えた顎髭の顔がのっている。
これだけでも十分奇妙なのだが、髪型もスーツも見るからに上品なのに、羽織っているのが実用性重視の冬用マウンテンパーカーなのが、これまた奇妙だった。
そして知人である。
「テオドール・ファン・デーレン?」
「はい、27番地きっての商人、ポルダー商事代表取締役のファン・デーレンですぞ」
言葉遣いもどこか奇妙な商人は、こちらの手を取ると好き勝手にぶんぶん振り回した。
「いやはや、3カ月ぶりですかな? こんなところでどうされました」
「いやそりゃこっちの台詞……っていうか、後ろにいるの、」
「はいっ、お久しぶりです。ウェッブさん」
軽く腰を折って会釈したのは、ローズ嬢こと元リベラルモーターズ社ご息女のローズ・カマーフォードである。
短く切りそろえた美しい蜂蜜色の髪を揺らしたローズ嬢は、鳶色の瞳を嬉しそうに緩ませた。
知人二人の登場に、ニコラスは目を瞬いた。
ちなみにファン・デーレンとはヴァレーリ一家に27番地を乗っ取られそうになった(第三節参照)際に、ローズ嬢とはロバーチ一家での慈善活動で護衛を引き受けて以来(第四節参照)の付き合いである。
「いつこっちに? 二人とも今はマレーシアにいるんじゃ」
「つい昨日着いたところです。今日は、ミス・ローズの用事でこちらに」
「用事?」
「寄付金に関する必要書類の提出です。ウェッブさんのような兵士の方々の力になれればと思いまして。もちろんあなたの裁判の寄付もしてきましたよ」
「水臭いですぞ。裁判の準備をしているなら言ってくれればよかったのに」
「そうですよ。いくらでも支援しましたのに!」
両の拳を握って意気込むローズ嬢に、ニコラスは戸惑いがちに笑った。
この
「ありがとう、二人とも。けど、俺もついさっき知ったばかりでさ」
「ええっ?」
「ご自分の裁判なのに?」
「連絡ぜんぶ断ち切って逃げ回ってたから」
そう返すと二人は「ああ」と納得したように肩を落とした。
「確かに当時は酷かったですからなぁ」
「特区におられた分、手紙などの類は届きませんしね。メールも電話も変えてしまわれたとなると、知らなかったのも無理ありませんね」
とうの支援者は偽名使ってずっと真横にいたんだけどな。
内心でそう返答しつつ、ニコラスは段ボールを小脇に抱えて立ち上がった。
「裁判の手続きとかまだよくわからないが……ひとまず用事を済ませたらすぐ特区へ戻るよ。二人は?」
「我々も特区へ向かいますぞ。なにせ、統治者殿からのご招待ですからな」
「ハウンドが?」
「ええ。せっかくのクリスマスだからと、お声がけをいただきまして」
にこやかに微笑んだローズ嬢に続いて、ファン・デーレンも頷いた。
「どうも今年出会った方々へ招待状が出ているようでして、もちろんあなたも参加者のリストにありましたぞ」
「俺が?」
「はい。招待状には、今年一番働いてくれたあなたへ、ミス・ハウンドから大事な贈り物があるとか」
贈り物。以前交換しようと話していたクリスマスプレゼントのことだろうか。
それより。
――帰れる、のか。
全身から、どっと力が抜ける。
どうやら教官の読みは外れていたらしい。
俺は特区へ帰れるのだ。
心配して損した。
「賑やかなパーティーになりそうですね。あ、もちろん特区の方々へのプレゼントも用意してありますからね。楽しみにしていてください」
「我が社オリジナルの特別仕様ですぞ! こうご期待ということで」
「また特区で!」と手を振りながら立ち去る二人に手を振って、ニコラスは深く息を吐いた。
これまでの不安が一挙に解消されて、疲れが一気に圧し掛かってきた。
「……フレッド、俺にも帰る場所ができたぞ」
ニコラスは段ボールを撫でた。ずっと死に顔しか思い出せなかった親友の笑顔を、久々に思い出した。
***
「本当にこれでいいのか」
「いいんだよ、先生。これで」
そう返すと、アンドレイは苦々しい表情を隠しもしなかった。
それを当然と無視して、ハウンドは淡々と語った。
己のうちで駄々をこねる、『自分』に言い聞かせるように。
「ニコラスは基本他者を信用しないが、一度心を許した者には愛情深く接し、何に代えても守ろうとする。虐待親やネグレクト家庭で育った人間に見られる顕著な傾向だ。
捨てられたことがあるから、愛されるのが怖い。また捨てられないか恐怖する。
だから一度自分を愛してくれた人間を、盲目的に信じようとする。必死に尽そうとする。思考は凝り固まり、柔軟な発想と現状把握が正確にできなくなる」
「……だから彼を助手に選んだのか。私にあんな台詞まで言わせて」
「アレは保険だよ。万が一ニコが自分の意思で動き始めた場合のね。――『ヘルハウンドの正体を知っていると覚られれば、彼女は自分の前から姿を消す』。
捨てられたくないニコは、“私がニコを捨てかねない行動”を無意識に避けるようになる。行動に一定の制限をかけることができる。
実際、ニコは私の発言を詮索することなく、見守るだけに専念してくれた。お陰でニコに邪魔されることなく計画通りに動けたよ。先生が言ったからこその『保険』だ。ニコは先生も信頼してるからね」
「…………そうまでして遠ざけたいか。後生大事に手元に置いておいたくせに」
「手元に置くしかなかったから置いただけだよ。USSAに目を付けられてなければ、さっさと逃がしてたさ。保険だって必要なかった。傍にずっといても、私の邪魔をしないようにするためのストッパーが保険だからね」
淀みなく出てくる言葉と裏腹に、心臓がどんどん痛くなっていく。
自分の中の『
うるさい。
周囲の人間に不幸をもたらすことしかできない、呪われたクソガキめ。
カーフィラやラルフたちだけで飽き足らず、今度はニコまで不幸にしようというのか。
冗談じゃない。
「ニコを本来の居場所へ場所に返す。ニコは、私なんかの傍にいていい人なんかじゃないんだ。この数ヶ月、このためだけに場を整えてきた。先生だって患者が完治するのは嬉しいだろ? だからここまで協力してくれたんだろ?」
「ああ。嬉しいとも。当然だ。……だがな、――お前も私の患者なんだぞ、ヘルハウンド」
不覚にも、踏み出しかけた足が止まった。
けれど、それも一瞬。
「私はもう手遅れだよ、先生」
背後でアンドレイが何か叫んだ気がした。けれどもうハウンドは振り返らなかった。
この日のためだけに、生きてきた。
彼らがそう望んだから、生き延びた。
――ご命令通り、ちゃんと生きましたよ。ラルフ。
頭を撫でてくれたかつての温もりを思い出し、煙草を口に咥えた。
ラルフがこよなく愛した銘柄だった。
昔、ラルフは語ってくれた。
アメリカ先住民にとって、煙草は天界への捧げものなのだと。天界に住まう者たちと、会話するためにあるものだと。
ならば、天界にいるはずの彼らは、どうして応えてくれないのだろう。
こんなに喫っているのに。
鼻腔の奥で、血のニオイがした。いつも一番に思い出すのは、ラルフの血だった。
ハウンドはむせるまで目いっぱい煙を吸い込んだ。
そうすれば、血のニオイが消える気がした。
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