7-5

「……スーパーに行ったと思っていたんだが。フレンチでテイクアウトでもしたか」


「親切なマダムから貰いました」


「やっとまともなジョークを言えるようになったか、ウェッブ。成長したな」


「本当のことですよ」


 そう言いつつ、ニコラスたちは黙々と口と手を動かし、バスケットの中身を空にしていった。


 道中、飲み物以外はほぼノンストップで移動していただけに、ちゃんとした食事は数日ぶりだった。


 牛ひれ肉の豪快なパイをきっちり半分平らげ、次いでフリカッセとフルーツケーキ双方に手を出す教官の健啖ぶりにニコラスは呆れた。

 これは当分くたばりそうもない。


 フォアグラとイチジクのサンドイッチ片手に、ニコラスはそう思った。


「次は、遺品回収にDCですか」


「そうだ。モーガンの遺品は退役軍人省VAの国立墓地局が管理している。そこへ行く」


「……本当に俺が受け取るべきものですか」


「遺族はそう言っている。少なくともミセス・モーガンはな。弟は知らん」


 と、言ったところで、バートンはぴたりと動きを止めた。ニコラスは反射で拳銃に手を伸ばすが、バートンが制止する。


「待て、敵じゃない。今のところだが」


「なんです、あれ」


 いつの間に現れたのか、ニコラスは先ほどいたスーパーの角、街路樹に隠れるようにたむろする人だかりを睨んだ。

 その背後には2台のミニバスがあるが、定員オーバーなのは明らかだった。


 そんな最中、数台のSUVがスーパーの駐車場に入ってきた。


 SUVはミニバス前で停車し、中から数名の男が下りてくる。

 そのうちの一人に、ニコラスは焦点を絞った。その腕にある刺青を。


「あれ……まさか」


「驚いたか。我が国を巣食う病原体ウイルスだ」


 コカを咥えた頬白鮫。

 五大マフィアが一つ、南米カルテルのシバルバ一家のメンバーだ。


 シバルバでは、全構成員が身体のどこかに一家の紋章の刺青をすることが義務付けられている。


「なんで連中がここにいるんです? ここ特区外ですよ」


「救世主だからだ」


「救世主だって?」


「この国にとっての、な。ウェッブ、我が国がなぜ五大マフィアを排除しないか、分かるか」


 唐突に問われ戸惑うも、ニコラスは冷静に答えた。回答はすでに、ハウンドから聞いている。


「利益があるから、ですよね」


「そうだ。五大マフィアが統治する特区という犯罪都市は、アメリカにとって非常に有益なものだった。というより、五大が自らの生命線維持のため、始めからそう設計したというべきか」


「どういうことです?」


「連中は合衆国の庇護下で活動することを、端から想定していたということだ。言い換えれば、特区はそれだけ我が国にとって魅力的な存在ということだ。

 無法ゆえの自由市場。犯罪都市という名の免税区域タックスヘイブン。国内企業は我先に特区へ殺到し、倫理も規定もない街であらゆる業種の技術開発が行われている。

 結果、国内経済は大いに改善された。外資系企業の特区への進出も著しい。ここ数年の貿易黒字は特区のお陰という話もある。

 経済効果だけじゃない。不法移民の入国数も激減した。国境警備隊の目を掻い潜って命懸けの砂漠越えをするより、フロリダ海峡を北上するコンテナ船に乗って特区から入国した方が、遥かに楽だからな。

 入国審査の必要ない。連中自ら掃き溜めに集結してくれるんだ。我が国にとっては願ってもない話だ。

 ――が、一番の利点は、アメリカが抱える最大の問題を改善したことにあるだろう」


「アメリカ最大の問題?」


「人種差別だ」


 バートンはフロントガラスに降り積もる雪を見据えながらそう言った。


「特区には棄民という名の住所不定市民アンノウンが多数存在する。当初は百万人程度といわれていたが、不法移民が大量流入する現在はもっと増えているだろう。

『アメリカンドリームを夢見て特区へ進出して失敗した敗北者』、『正義を忘れ犯罪者と取引した売国奴』。大方こんあところだろう。

 アメリカは棄民をこう定義することで、人種ヒエラルキーの最下層を手に入れたわけだ。公に差別していい人間の誕生だ。新時代の奴隷といってもいい」


「……」


「特区設立以降、人種差別撤廃運動は沈静化の方向に向かっている。代わりに棄民差別は横行し、それを制止したがる活動家はほとんどいない。むしろ、これまで差別されてきた層ほど、棄民を激しく差別する傾向にある。自業自得だとな」


 弱者はさらなる弱者を求める。

 蔑まれ、疎まれ続けたその報復に、自分より格下の者を見下すことで精神の均衡を保つ。


 不毛だ。けれど、人はそれを止められない。


 そのことをよく知っているニコラスは、苦々しい思いで歯を噛み締めた。


「五大はそこまで計算して棄民を生み出したということですか」


「そこまでは分からん。だが現在、国内では棄民が大勢働いている。特区外への出稼ぎという形だが、その賃金はかつての不法移民が稼いでいた額の半分に満たない。

 それを管轄しているのが五大マフィアだ。アメリカは被差別層と安価な労働力を手に入れた。

 そしてその汚れ仕事は、すべて五大マフィアが担ってくれる。これほど美味い話はあるまい」


 ガリ、と骨から軟骨を齧り取ったバートンは、ごみ箱代わりの紙袋に放り捨てると「出発するぞ」とキーを回した。


「気付かれても面倒だ。とっととずらかるぞ」


「イエッサー」


 ニコラスは残りのサンドイッチを口に押し込み、カップを口に咥えた。

 次いで空いた両手でゴミを手早く片付け、くっと仰いでホットワインを一気に飲み干すと、紙袋めがけてカップをぺっと吐き出し捨てた。


 横着だがこれが一番早いのだ。


 万が一に備えて武装点検をしていると、ふと、バートンの視線に気づいた。

 咎めるような、呆れたような白い目に。


「なんです?」


「……お前、軍を離れて行儀が悪くなったんじゃないか」


前哨基地アウトポストじゃ皆こんなもんですよ。あと訓練施設ブートキャンプでやるわけないでしょう。教官にケツ蹴飛ばされるのはごめんです」


「私も教官だが?」


「元教官ですね」


 バートンは釈然としない表情で首を振ると、ギアをローに入れ替えた。




 ***




 車を走らせて、数分経った頃だった。


「大尉」


「元、大尉だ」


「………………バートン教官」


「なんだ」


 このクソジジイめ。


 ニコラスは溜息をこらえ率直に尋ねた。


「そろそろ『手帳』の話をしてくれませんか。ここまでずっとはぐらかしてきたでしょう」


 そう言うと、バートンは前を向いたまま「おや」と両眉を吊り上げた。


「ようやく調子が戻ったか」


「……」


「そう睨むな。お前のトラウマをえぐり続けている自覚はある。DCまでまだ長い。少し昔話をしてやろう」


 そう言ってバートンは目を細めた。眩い大事な何かを、遠くから見つめるかのように。


「私は陸軍入隊後、特殊部隊員グリーンベレーとして6回の派兵ののち、狙撃学校の教官に抜擢された。3年だけ海兵隊偵察狙撃兵USMCSSの訓練課程にいたこともあるが、大半は陸軍だ。イラク・アフガン戦争の時は前線へ出向いて指揮を執った。

 大勢の生徒を戦場に送り出してきた。生きて帰ってきた者も、棺で帰ってきた者もいる。帰ってこなかった者もな。ラルフ・コールマン軍曹もその一人だった」


 ニコラスは自ずと姿勢を正した。


 ラルフ・コールマン。


 例の絵本の作者で、ハウンドと親しかったであろう五人の男のうちの一人。

 米陸軍の兵士で、ネズパース族の居留地で育った『ハスキー』の名を持つ銀髪の大柄な青年。


 彼は自身が描いた絵本に、重大な警告を記して託した。


 過去に一体なにがあったのか。


 この『手帳』争奪戦の核心に迫っている気配をひしひしと感じた。


「生徒、ということはコールマン軍曹も狙撃手だったんですよね?」


「そうだ。そして私と同じ『専門家』でもある。彼の場合CAGキャグの方だが」


 ニコラスは息をのんだ。そして、やはりという感想が頭に浮かんだ。


 バートンの渾名は『沈黙の鷹クワイエット・イーグル』だが、これは彼の現役時代の所属部隊の俗称からもじったものでもある。


 『寡黙な専門家たちクワイエット・プロフェッショナルズ』――陸軍特殊部隊の二つ名だ。


 グリーンベレーの愛称で呼ばれることも多いが、『蛇喰らい』、『髭を生やしたろくでなし』などと呼ばれることもある。


 が、問題はそこではない。


 CAG――Combat Application Group(作戦適応グループ)は、軍内部での「ある部隊」を指す呼称である。

 徹底的な作戦機密保持性のため、部隊名はおろか存在そのものを語らないようにしているのである。


 部隊の名は、デルタ・フォース。

 正式名称、第一特殊部隊作戦分遣隊デルタ。


 対テロ能力を有する陸軍の最精鋭で、主にグリーンベレーや第75レンジャー連隊の選りすぐりだけが所属する栄誉を許される、米軍きっての切り札ともいえる部隊である。


 そしてラルフ・コールマンがデルタ・フォースであった場合、彼の情報がことごとく抹消されていたことと、ハウンドと関係があったことへの、つじつまが合うのである。


 デルタ・フォースでは機密性が徹底されており、隊員が戦死しない限りは部隊と作戦内容が公にされることはない。

 そして彼らの主任務は対テロ戦、人質救出、特別偵察、直接行動である。


 アフガニスタンの少数民族で、元テロ組織の少女兵だったハウンドと親しかった陸軍兵士。

 もし彼女を現地工作員として行動を共にするなら、デルタ・フォースほど適した部隊はない。


「……とまあ、経歴だけ見るとなかなかのもんだが、コールマンに関してはだいぶ変わった奴でな。うちの学校でもある意味で伝説をつくった男でもある」


「伝説?」


 ニコラスは訝しんだ。


 冷淡ともとれる簡潔かつ無駄のない会話が基本のバートンに、ここまで歯切れ悪くさせる男とは、一体何者なのか。


「ある年、山岳戦を想定した訓練をアラスカでやったことがあってな。当時はまだ9月上旬だったんだが、寒波の影響で訓練中に猛吹雪ブリザードになってな。

 急遽、訓練を中止して下山をしたのだが、最後尾の部隊が間に合わなくてな。遭難したんだ。急いでレスキュー部隊を派遣して、部隊と合流できたのはよかったんだが……コールマンだけがいなかった」


「はぐれたんですか」


「いや。小便をしに部隊を離れたら置いていかれたそうだ」


「それは……、何とも運がないというか」


「ともかく遭難は遭難だ。すぐさまレスキュー部隊はコールマン捜索に切り換えた。遭難からすでに48時間が経過していたからな。だがそこで天候がまた急変してしまった。

 部隊はコールマン捜索を諦め、下山を余儀なくされた。仲間を置いていくことになるが、一人のために何人もの隊員を犠牲にすることはできないからな」


「当時の隊員は堪らなかったでしょうね」


「ああ。全員が葬式の参列者のような暗い顔で下山してきた。それから4日たって、コールマンの遺体をどう回収するかと計画を立てていた時、なんと遭難したはずのコールマンがひょっこり山から下りてきたんだ」


「……はい?」


「しかもヒグマを引きずって」


「はい???」


「コディアックヒグマ。別名アラスカヒグマだ。学名はUrsus arctos middendorffi」


「いや学名はともかく、どうやって下山したんです? というか、6日間もアラスカの雪山にいて自力で帰ってきたんですか?」


「ああ。足の指先に一部凍傷が見られたがほぼ無傷だった。どうも奴は仕留めたヒグマの腸を抜き取って、それをテント代わりに中に隠れていたそうでな。お陰で白い雪中装備が血塗れで、発見当初は重傷と勘違いされて大騒ぎになった。で、下山して奴が開口一番」


『いや~てっきりこれも訓練だと思ってたんすけどね~。皆どこにいたんです?』と、笑顔で頭を掻いたのだという。


「教え子を珍獣だと思ったのは、後にも先にも奴だけだったな」


「……」


「しかも狙撃も下手だった」


「えっ、狙撃手なのに?」


「もちろん一般兵よりは上手かったぞ。だが狙撃手としては中の下だ。しかも金属の的に当てるのは目を疑うほど下手なくせに、生きた獲物相手だと途端に命中させるんだ。

 それも動く得物に百発百中だぞ? どうやって撃ったんだと聞いたら『気配がしたんでそこに撃ったら当たりました!』と自信満々に話すんだ。

 正直どう教えたらいいか頭を抱えた」


 思い出したせいだろうか。眉間のしわを押さえるバートンに、ニコラスは何とも言えない顔で口をすぼめた。


 狙撃手は緻密な計算のもと、必殺必中を目指して徹底的に訓練される。

 勘働きで撃ったところでまぐれとしか見なされず、下手をすれば弾の浪費に繋がりかねないので、勘で撃つのは本来論外――なのだが、ごくたまに動物レベルで恐ろしく勘が働く奴がいる。


 フレッドがそうだった。

 静止した的に当てるのはさほど上手くなかったが、動く的となると高スコアを叩きだした。元バスケットボール選手だっただけあって、動体視力がよかったのだと思う。


 恐らくコールマン軍曹もその類の狙撃手だったのだろう。

 計算と観測のもと未来位置を推定して撃つ自分とは正反対だ。


「まあ、奴が試験を突破できたのもこの雪山の件が大きいが、身体能力はずば抜けていてな。特に体力は特殊部隊の中でも化物レベルだった。あとは精神の安定さが高く評価された」


「精神……」


「そうだ。精神力の高い者ほど、どんな状況下でも一定のパフォーマンスを発揮できる。奴は同期の狙撃手に比べれば確かに下手だが、それ以下になることはない。その確実性が評価されたんだ。

 そのうえ尋問への耐性も極めて高かった。後にも先にも、訓練兵より尋問官がギブアップした例は、奴だけだろう」


「尋問官が?」


 にわかには信じがたい話にニコラスは首を振った。あれが一番きつかったというのに。


 バートンは目元を和らげた。


「ともかく変わった生徒だったということだ。彼の班員4人もそれなりの曲者ぞろいだった。上官のゾンバルトがよく苦労していたものだ。――だからこそ、あの任務に抜擢されたと言える」


「『失われたリスト』の捜索ですね」


「そうだ。国防省直々の指令だった。それ自体はさほどおかしな話ではないが、その作戦で奇妙だったのは、年端もいかぬ少女兵を必ず同行させることという条件が付いていたことだ」


 ハウンドだ。


 ニコラスは眉間のしわを深くした。


「なぜ彼女が、ヘルハウンドがデルタの作戦に参加を?」


「その前に、――結論を先に言おう」


 ニコラスは無意識に息を潜めた。


 車内に響くエンジンの駆動音と、高速道路を行きかう車両の喧騒に紛れてしまいそうなバートンの声を、一言一句聞き漏らすまいと耳をそばだてた。


 バートンは静かに息を吸った。


「ヘルハウンドはまだ『失われたリスト』を手に入れてない。なぜなら彼女が入手した『手帳』は不完全なものだからだ」


「不完全……?」


「そうだ。あのままの『手帳』では、『失われたリスト』に辿り着けない。それでも彼女がUSSAからあの『手帳』を奪取したのは、唯一残された父親の遺品だからだ」


「父親だって?」


 ニコラスは思わず大声をあげてしまった。それほど突拍子のない話に思えた。


「父親がいたなんて初耳です」


「父親代わりの者がいたということだ。元タリバン兵の男で、血の繋がりはない。コールマンの報告書によれば、父親とは名ばかりで、実情は指揮官と兵士といった間柄だったそうだ。彼女は……『カーフィラ』と呼んでいたか」


 カーフィラ。


 その名を頭で反芻し、ニコラスは愕然とした。


 イラクのウンスカイム港で再会した際、脱水症状で朦朧とする彼女が口にしていた名だ。


――じゃあ彼女はあの時、父親を呼んでいたのか。指揮官カーフィラと呼んだのも、そういうわけか。


 ニコラスは拳を握りしめた。


「じゃあ、その『手帳』が不完全というのは」


「ないんだ」


「ない?」


「ページがほとんどないんだ。コールマンたちが発見した当初、『手帳』には数ページしか残されていなかった。ほとんどが意図的に千切り取られていた。恐らくそのカーフィラという男が、リストの部分だけ隠したのだろう。

 そのありかの鍵となるのは、娘であるヘルハウンドと、『二冊目の手帳』、――とある日本人学者が所持していた黒い革張りの手帳だ」


 日本人学者? なんだって急に――。


 と、思ったところでハッとする。

 以前、カルロに見せられた、一枚の写真だ。


「バーミヤンの石仏前にいた日本人……」


「っ、それも知っているのか。……そうだ。シンジ・ムラカミ、日本の考古学者でアフガニスタンの灌漑事業を行った慈善家だ」


「なんでその学者が、」


「ムラカミが灌漑事業を行うにあたり、現地の村々との調整役を担ったのがカーフィラだったからだ。元タリバン兵なだけあって、奴は地元でかなり顔がきいたらしい。娘のヘルハウンドとも顔見知りだったそうだ。詳細はまた話すが……ウェッブ。最後の確認だ。――お前、本当に彼女を救う気か」


 今さら何を。

 当たり前のことを聞かれて少し苛立ったニコラスは語気を強めた。


「無論です。そのためにここまで来たんですから」


「事はもうお前の手の範疇を越えている。そのぐらい分かるだろう?」


「それが何だってんです。『助けて』って言ってるのに誰も助けてくれない。その苦しみをあんたは知らないからそんな簡単に諦められるんだ」


 口を閉ざしたバートンに、ニコラスは畳みかけた。


「『ひとりにしないで』ってあの子は泣いてたんだ。陰謀だの国家だの知ったことか。俺はどんな手を使ってでも、あの子を救いにいってやる。それなのに、あんたはまだ諦めろっていうのか」


 バートンはまだ黙したままだった。その沈黙をニコラスはじっと待った。


 しばらくして、バートンがおもむろに口を開いた。

 口内が乾いていたのか、口を何度か開閉して唾液で湿らせてから。


「……そうか。そこまで言うのなら、もう止めん。だが言っておくぞ。――ここから先が本当の地獄だ」


 覚悟しろ。もう引き返せんぞ。


 その目に獲物を捉えたが如く前方を睨みつけるバートンに、ニコラスは生唾を飲み込んだ。

 だがその気迫にしりぞく気はなかった。


「先ほども言った通り、『失われたリスト』に辿り着くには、二つの鍵がいる。一つはヘルハウンド、そしてもう一つは『二冊目の手帳』だ」


「先ほど言った学者の手帳ですね」


「そうだ。そして五大マフィアもそのことに気付いている」


「今度は五大マフィアですか……。なんだって急に」


「ウェッブ、お前はなぜUSSAが3年も彼女に手を出さなかったと思う?」




 ***




「『失われたリスト』に辿り着くには、『手帳』以外の鍵が必要になる。ヘル以外の鍵がね」


 トランプが空を切る軽快な旋律はワルツに似て、諳んじるように語りかけるヴァレーリ一家当主――フィオリーノ・ヴァレーリはさながら吟遊詩人だった。


 カルロは次々とフラリッシュ (トランプを用いた曲芸)繰り出していくフィオリーノの背を直立不動でじっと眺めた。

 単にトランプで遊んでいるだけにも見えるが、これが謀略を巡らす時の彼の癖であることを、長年の経験から知っている。


 RICO法成立以降、弱体化の一途を辿ったノーサ・コストラことイタリアンマフィアが立ち直れたのはヴァレーリ一家の功績だが、ひとえにフィオリーノの手腕によるところが大きい。


 ずば抜けた観察眼と洞察力、そしてたゆまぬ情報収集と、そのための人脈構成と土場育成。


 これまでずっと袖にされつつも、ヘルハウンドにダル絡みしていたのは、ただ彼女に気があっただけではない。……二割がた本気だろうけど。


「そしてヘルはまだ『失われたリスト』を手に入れてない。手に入れてたら真っ先に公開するだろうからね、あの子は」


「ではあの女はずっと我々にハッタリをかましていた、ということですか」


「交渉材料としちゃ十分アリでしょ。俺は好きよ、そういうの。あんな小娘が、俺たち悪党どもに懸命に虚勢はっちゃってさぁ。健気で可愛いじゃない」


「それで奴をずっと隠してきたんですか」


「うん。だってアレ俺の玩具だもん。他の一家も業腹だけど、USSAなんかに横取りされちゃあたまんないよ。ちょっと反応見たくて意地悪しちゃったときもあったけど。それに、うちの一家だけじゃないしねぇ。

 少なくともロバーチとターチィは勘付いてる。だからこそ同盟なんてもんを持ち出したんだ。

 考えてみなよ。ロシアンマフィアとチャイニーズマフィアだよ? お国柄からして同盟=主従関係だと本気で思ってる連中が、小娘相手に対等な関係を維持するわけがない」


「ではなぜミチピシとシバルバにまで暴露したんです? ヘルが『失われたリスト』と持っていないことが知れ渡れば、状況は一変しますよ。少なくともシバルバは黙っちゃいない」


「美味しいネタを流す時は、追加の餌もくっつけて敵の動向を操作するのが情報戦の基本よ、カルロ。そんな話を聞いたら、こう動かざるを得ない。そういう餌を用意してあげるのがプロってものさ。この俺がただ事実だけ垂れ流すわけないじゃない」


「……二家に何を」


「二家じゃない。四家だ。我が一家を除くすべての一家に伝えた。――ヘルハウンドは近いうち、特区外で狩りをする。もう一つの鍵を求めてね。

 三日後の聖夜、USSA情報局は任務緊急度トリアージ最高レベル『黒』の証拠品を移送させる。ヘルハウンドはそのことを嗅ぎつけた。だから後生大事に守ってた番犬を追い出したんだ。巻き込みたくなかったんだろうね」


 カルロは息をのんだ。


 以前、ヘルハウンドが単独で襲撃したUSSA局員一家殺害事件の詳細から、USSA情報局の証拠品の保管方法についての考察は伝えた。

 だがあくまで考察だ。


 その考察を事実と仮定し、下手すれば藪蛇にもなりかねないUSSA相手に監視を続行し、そこから得た情報を五大の他一家に流すとは、なんと大胆な。


「ま、ヘルをおびき寄せるためにUSSAが意図的に流したものだろうけど。仮にそれが嘘だろうと、このことを伝えるだけでこの争奪戦から降りる一家が現れる。それだけでめっけもんってものさ」




 ***




「特区の双璧たるヴァレーリとロバーチ、そしてターチィ一家。この三家が常にヘルハウンドを監視してきた。これまで奴が特区外をのほほんと行動できたのは、彼らが警護していたからに他ならない」


 居並ぶ族長たちを前にして、ミチピシ一家当主――カレタカ・オーハンゼーはとうとうと語った。


 壁一面の窓辺から下界を見下ろす。


 数ヶ月前、抗争でひしめき睨み合っていた群衆は、もういない。


 代わりに本部前の広場には、都市開発のため集った重機や工事車両、無数の労働者が働き蟻のように忙しなく行きかっている。

 このミチピシを、根本から造り替えようとする、巨大な何かの力を感じた。


「彼女が『失われたリスト』を持っていないことは、五大とて分かっていた。だが彼女が『失われたリスト』の鍵であることも理解していた。

 ゆえに五大は水面下でヘルハウンドを巡って対立を深めてきた。表向き協力体制を敷いた三家と裏腹に、シバルバは力業でヘルハウンドを奪取しようと目論んだ。

 その結果が、27番地におけるシバルバ一家襲撃だ。君らは、単にシバルバが27番地という土地を欲しがっただけと勘違いしたようだが」


 振り返ると、族長らは一様に顔を強ばらせ、凍りついていた。


「……結果、君らはシバルバ襲撃で弱った27番地を奪うチャンスと捕らえ、私の制止を振り切って27番地を襲撃した。結局、特区の双璧によって阻まれたがな」


「で、では。オーハンゼー族長が我らが領を国に差し出したのは」


「決まっておろう。この不毛な争奪戦から降りるためだ。少なくとも残り四家が健在である限り、国は我が領に対し手荒な真似はしまい。むしろ協力を求めてくるはずだ。弱り切った我が領にとって、これを利用しない手はない」


 デスク脇の止まり木の白頭鷲が、甲高く鳴いて合いの手を打った。

 後頭部をひっぱたくような声音は、あまりの真実に茫然自失となっている族長らを叱咤激励しているかのようにも思えた。


 一方、オーハンゼーは胸中で嘆いた。もはや誰にも届かぬ悲嘆を。


――息子よ、なぜあんな子供を闘争に巻き込んだのだ。


 脳裏に浮かぶのは、大きな背を丸め、一人炉の前で黙々と筆を動かす息子の横顔だ。


 穏やかなようで、悪戯を企む少年のようで、それでいて誰かを想い願う眼差しを、オーハンゼーは今でもはっきりと思い出す。


 胸中の悲嘆を頭を振って誤魔化したオーハンゼーは、再び族長たちをねめつけた。


「さて、諸君。合衆国に属することへの覚悟は決まったかね」


 動揺しながらも、一様に頷く族長らにオーハンゼーは満足する。


 ひとまず、我が一家への脅威は一つ、これで片付いた。


――我が一家はヴァレーリの若造の口車に乗るとして……シバルバは恐らく退くまいて。


 はてさて。あの若造はどうする気なのだろうか。




 ***




「なんだと、みすみす逃がしたのか!?」


 天敵を前にした亀のように、部下の首がひゅんと引っ込む。

 それを骨ごと引きずり出してやりたい衝動を抑え、シバルバ一家当主――リカルド・ルイス・ガルシアは血走った目を隠しもしない。


「あの男は小娘唯一の弱点だ。小娘の監視下にいない今が最大のチャンスだってのに、一体なにをやっている!?」


「申し訳ありません。トレントン郊外のスーパーにいたまでは、確認したのですが……」


 顔中刺青だらけの部下が、顎先から冷や汗を滴らせながらがくがくと全身を震わせる。


 大の男が、それも一家でも古参の部類に属する部下の怯え切った様に、ガルシアの怒りが少しだけ晴れる。

 むろん、矛先を収める気は微塵もない。


「アンコーって魚知ってるか? 深海魚で気持ち悪い平べったい緩いクソの塊みてえな魚でよ、イカレた日本人ぐらいしか食わねえ。でだ、その魚をな、日本人はフックに引っかけて吊るしたまま捌くんだよ。生きたままな。――味わってみたいか? ええ?」


 部下の冷や汗が飛び散り始めた。震えが一層強まったためである。


 ガルシアが扉を顎で差す。

 途端、手下はジャッカルに追い回される鶏が如く、泡を食って飛び出していった。


 それを見届けて、ようやくガルシアな席に着く。


――やはりあの時、無理にでも街を制圧しておくべきだった。殺してでも『手帳』を奪うべきだった。


 3年前、シバルバ一家は27番地に侵攻した。そして13日間の攻防の末、シバルバ一家は27番地を落とせなかった。


 あの小娘のせいだ。


 計画は完璧だった。


 事前に金で住民の数名を懐柔し、工作員として仕込むかたわら兵をヴァレーリ領国境線沿いに配置した。

 日夜脅迫に近い強硬姿勢で降伏勧告を行い、街の権力者たちを心身ともに圧迫した。


 あのヴァレーリ一家自ら認めた支配者とはいえ、まだ15の小娘だ。

 そんなものに住民が命を預けるはずがない。


 そのうえでヴァレーリの小僧にも手を出すなと牽制した。街は武器購入すらままならなくなった。


 27番地の降伏は、時間の問題に思われた。


 ところが小娘は極秘裏に同盟を結んでいたロバーチの青二才と共謀し、大量購入していた銃火器で夜間、自分たちに奇襲を仕掛けてきた。


 現地で情報提供してくれるはずだった工作員はすでに逮捕されており、シバルバ一家はものの見事に不意を突かれ、かなりの損害を出した。


 夜が明けてからは街を最大限活用したゲリラ戦を展開され、10日経ってもシバルバ一家は街を制圧できなかった。


 極めつけは、ターチィ一家によるシバルバ一家への侵攻である。


 特区の双璧たるロバーチとヴァレーリを警戒していただけに、ターチィ一家の侵攻は虚を突かれた。


 結局ターチィは手下を国境線沿いに展開させただけのハッタリに過ぎなかったが、シバルバ領内は大混乱に陥り、ガルシアは撤退せざるを得なくなった。


「小賢しいイカレ頭の小娘が、俺の兵士をバラバラにしやがって……!」


 ガルシアは親指の爪を噛む。


 兵を悼んでのことではない。

 己の面子に泥を塗られた屈辱を、未だに晴らせない激情ゆえの行為だった。


 シバルバにとって、撤退はさした問題ではなかった。

 所詮はまぐれの勝利だ。最終的に勝利すれば、撤退は戦術的後退となる。


 態勢を立て直して、また攻めればいいだけの話だった。


 しかしあの女は攻防戦直後、なんと犠牲になったシバルバの兵の遺体を集め、街の中心部で山と積み上げて燃やしたのである。

 しかもそれを、こちらが雇った裏切者にやらせ、自らはそれを見物していたという。


 さらに女は裏切者を、生き残った捕虜と共にトラックに詰め込んでシバルバ領一等区へ送り返してきた。

 特大の爆薬をくくりつけて。


 一家に被害はなかった。

 だが一家本部のある一等区を、散り散りになった同胞の亡骸で埋め尽くされ、手下たちは激しく動揺した。


 15の小娘が、ここまでやるのか、と。


 これには五大各一家も顔色を変えた。


 ヴァレーリの小僧は女のイカレ具合に狂喜乱舞し、すぐさま同盟締結を27番地に申し入れた。


 ロバーチの青二才は街の活躍ぶりに大いに満足し、提供した武器の額の半分しか請求しなかった。


 ターチィ・ミチピシは静観を決め込んだが、ターチィは秘かに同盟締結の下準備を始めた。


 こうして27番地は、五家のうち、三家もの後ろ盾を得たのである。


 こうなると、シバルバといえど、もはや手の出しようがなかった。


『手帳』を強奪すべしとするシバルバの強硬案は破棄され、ヴァレーリが提示した懐柔策が採択された。


 シバルバ一家は27番地に敗北しただけでなく、『手帳』争奪戦においても、大きく出遅れる羽目になったのだ。


――あの男さえ捕えれば。


 がり、と音を立て、ガルシアは親指の爪を噛みちぎった。

 爪に引っ付いていたのか、一緒に引き千切られた爪先の肉から血が溢れ出す。


 それを舌先で丹念にぬぐって、ガルシアは目を光らせる。


 現在、特区外にいるらしい小娘の捕捉は不可能だ。なにせ特区の双璧がついている。


『失われたリスト』の独占を目論む双璧は、一見共同で小娘を匿い護っているが、それは他家や外部組織から小娘を奪われないようにするためだ。

 迂闊に手出しはできない。


 だが、ようやく自分にも幸運ツキが巡ってきた。


 逃すものか。どんな手を使ってでも男を捕らえてやる。

 小娘の目の前で斬首して、落とした首の口に爆薬を突っ込んで木っ端みじんにしてやる。


 俺の顔に泥を塗った代償を払わせてやる。


――ヴァレーリの小僧が言っていた、もう一つの鍵の争奪戦は、双璧どちらかが勝つだろう。だが俺はそれには乗らない。


 双璧のどちらが得ようと、一番重要な鍵はあの小娘だ。小娘がいないと意味をなさないという可能性だってある。


 ならば小娘が最も食いつく餌を入手する。

 あの男さえ手に入れれば、おのずと小娘は自ら首を差し出す。それがこの数ヶ月でよく分かった。


 今度は奴に屈辱を与える番だ。


 血錆の唾液を嚥下して、ガルシアは無線を手に取った。




 ***




「かといって、あまりにシバルバを追い詰めすぎれば、USSAと手を組みかねん。実際奴らには麻薬市場を巡ってCIAと協力した前科がある。目の前の利益に飛びつくだけの猿どもだ」


 そう酷評したロバーチ一家当主――ルスラン・ロバーチは頭を振って水を払った。


 すかさず部下がタオルを差し出す。


 以前、ヘルハウンドの頼みでヴァレーリ一家本部の襲撃した際、それを実行した覆面の部隊長である。


 いかなる時もルスランは護衛を欠かさない。

 自分一人でも対処できなくはないが、万が一の盾は必要だ。


 この男とてそれを承知している。

 だからこそ、シャワー上がりで全裸丸腰の自分を共にいることを許されているのだ。


 右腕でもある部下は、冷え冷えとした蒼眼を光らせた。


「すでに、シバルバの方に動きがありました。どうやら例の狙撃手を追っているようです」


「首輪が着けられぬなら餌でおびき出そうという魂胆だろう。あの猿に相応しい浅知恵だ」


 下着とスラックスだけ身につけたルスランは、髪も拭かずに部下が用意した報告書に目を通す。


 ヘルハウンドにはヴァレーリ一家がぴったりとストーキングしている。

 気を抜けば、あっという間に掻っ攫われる。


「この3年間でヘルハウンドとかなり距離を詰められた。奴が戯れがてら、本部に乗り込んでくるぐらいにはな」


「紛らわしいので不意打ちは勘弁してほしいですがね。今日の襲撃訓練も肝を冷やしました」


「だがいい経験になる。新兵も増員したばかりだ。さっさと場慣れしてもらわねば困る」


「ごもっともです。――ですが、近頃兵の間で勝手に彼女へ取り入ろうとする者がいるらしく、今日も門番から缶詰をもらってホクホク顔で帰っていかれました」


 ルスランは思わず振り返った。傍目には真顔にしか見えない、胡乱気な顔で。


「餌付けの許可を出した覚えはないが?」


「ご本人もそのつもりはないと思いますが……ただ近頃は少々規律が緩み気味でして、彼女が来ると訓練そっちのけで賭けをはじめたり、はやし立てたりとお祭り騒ぎになっています。今日の閣下とのご対決なんかもう大騒ぎでしたよ。

 彼女も彼女で兵士の要望に応えてパフォーマンスするものですから、注意しても中々おさまらず。それにまあ……あの通り、かなりの美人ですので」


「……兵士向けの慰問を充実させろ。抜くものを抜いてしまえば多少大人しくなる」


「はっ」


「それと、今後訓練を疎かにした者は後日訓練を3倍に増やすと通達しておけ。許可なく奴に接触した者は5倍だ。督戦隊つきで行軍させるぞ」


「はっ……!」


 神妙に姿勢を正す部下に頷き、話を戻す。


「ともかく。街の市場へ最も影響力があるのも我が一家だ。ヴァレーリのどら猫が裏でこそこそやろうと、ターチィが介入しようと関係ない。いずれ27番地は我が領に組み込まれる」


 一点だけ、不確定事項があるが。


「そうですね。なによりヘルハウンド様には今ナズドラチェンコがついています。奴はうちで一番のサイバー戦専門隊員だ。情報戦が趨勢を左右する現状、この『手帳』争奪戦で最も優位なのは我々です」


「あれは私の指示ではない」


「は? 閣下のご命令では、」


「私は何も指示していない。奴の独断専行だ」


 部下がさあっと蒼褪めた。それを横目に、ルスランは目を眇める。


 以前から独断が目立つとは思っていたが。


 果たしてこの不確定事項、吉と出るか、凶と出るか。




 ***




「てっきり、ただのパソコンがお得意な軟弱坊やかと思っていたんだがねえ。可愛い顔してなかなかの食わせ物だよ。あの『猛虎』ですら手を焼くとなると、相当さね」


「……それは裏切った、ということなのでしょうか」


 控えていた侍女の問いに、ターチィ一家当主――ヤン・ユーシンは「いいや」と頭を振る。


「元連邦保安庁FSBの諜報員が、当主や他家に気付かれるようなあからさまな言動をするはずがない。当主自ら仕込んだ二重スパイか、興が乗っただけの酔狂人か、はたまた争奪戦を引っ掻き回したいだけの道化師か。

 案外、野良猫が娘っ子の膝に乗っかって一休みしてるだけかもしれないねえ。ただ――」


 言葉を区切ったヤンは、ふうっと長く細く煙を吐いた。

 伸びた白糸は宙で解れもつれて霧散した。


「これで争奪戦に一人参加者が加わったのは事実さね。銀髪の坊やが何を企んでいるかはさておき、他家ばかりと争っていては漁夫の利をもっていかれかねない。今後と同様、監視は必要だろう」


「かしこまりました。して、我が一家の方針は」


「現状維持だね」


 そういって、ヤンは延べ煙管の火皿から灰を叩き落とした。


 金細工も麗しい煙草盆の灰落としが、竹を割ったようにカンと鳴る。


「我が一家は手帳争奪戦には参戦しない。鍵もそろっていないのに参戦したところで骨折り損のくたびれ儲けさね。双璧の坊やたちがせっせと励んでいることだし、ババアは茶でも飲みながらのんびり見物と洒落こもうかねえ」


「承知いたしました。では、そのように」


「お前は誰に賭ける?」


 問われた侍女は、すっと姿勢を正すと無表情のまま視線を合わせた。


「無論、ご当主様がお望みになる方に」


「相変わらず手本通りの回答だねえ」


「妓女たちの模範たらねばなりませんので」


「まあ管理する側としちゃ助かるが、面白くないねえ。せっかくの愛嬌を使わずにどうするんだい」


「では、僭越ながら。――ご当主様はどの殿方に?」


「そうさねえ」


 ヤンは刻み煙草を摘まんだ。

 力が強すぎたのか、煙草は散り散りになって、灰と変わらない見た目になってしまった。


 ヤンは、うっそり微笑んだ。粘着質でいて、実に妖艶な笑みだった。


「例の番犬坊やにでもしようかね。あたしの女の勘が囁くのさ。存外、アレが一番の大物かもしれない」




 ***




 事のあらましを聞いたニコラスは愕然とした。


「じゃあつまり、少なくともヴァレーリ一家とロバーチ一家が、『二冊目の手帳』を狙ってヘルハウンドの周りをうろついてるってことですか」


「ああ。ミチピシは恐らく降りるだろうが、双璧の参戦は確実だろう。シバルバとターチィは予測がつかん。

 だが少なくとも、このクリスマスの手帳争奪戦には、ヘルハウンド、ヴァレーリ一家、ロバーチ一家、USSAの四勢力が参戦する。

 お前はその渦中に飛び込んでいくことになる。それだけじゃない。争奪戦から降りたミチピシ一家が本格的に国に組み込まれれば、それを橋頭保にUSSAが特区へ進出してくるだろう。

 そうなれば、もう特区も安全とは言えない」


 ニコラスは茫然と前を向いた。そこ追い打ちをかけるように、バートンが現実を突き付けてくる。


「ヘルハウンドがお前を特区から追い出したのは、そういう訳だ。USSAが特区へ進出する前に、お前を逃がそうという腹積もりだったのだろう。お前に棄民になることを勧めなかったのも、いざという時に特区外へ逃れられるようにするためだ」


 追い出した、という言葉に胸がずんと重くなる。


 やはり自分は追い出されたのかという現実が、じわじわと脳を黒く冷たく侵食していく。


 何より、ハウンドが何も言わず自分を切り捨てたのが、予想外にショックだった。

 たとえそれが、自分のためであっても。


 ニコラスは両の手を互いに引き千切らんばかりに握りしめた。


――また、護られてる。


 命を賭してでも護ろうと誓った、あの子に。

 俺は――。


「っと、さっそくお出ましだ」


 ハッと顔を上げかけると、バートンにぐっと後頭部を押さえつけられた。


「堪えろ。気付かれる」


「追手ですか」


「ああ。5回車線変更したが、2、3台越しにぴったりついてくる。左後方、3台目だ」


 ニコラスは俯いたままサイドミラーを見た。

 左手後方180メートル、白のSUVがひっそり控えている。


「覚えがあるか?」


「……減速できますか」


 そう言うと、バートンは速度を上げ前方車に迫ると、ブレーキを踏んだ。


 後方からけたたましいクラクションが鳴らされ、後方車が舌打ちするような急ハンドルで車線変更して追い越していく。2台目もそれに続いた。


 迫る三台目の白いSUVを、すかさずニコラスは注視した。

 やはり。


「さっきのスーパーで見たシバルバの車です。運転席の男の腕に刺青が確認できます」


「と、なるとシバルバ一家も参戦か。荒れるぞ」


 忠告はしたぞとばかりに一瞥したバートンは、すぐさまギアチェンジして徐々に加速していく。


 気付いたSUVが追走しようとするが、車線変更したバートンに対応できず、4台目後方に留まる羽目になった。

 その隙にバートンは高速道路を降下する。


 ニコラスは、俯いたまま、拳に目を落としていた。


 一体どうすれば、あの子を救えるのだろうか。

 俺の居場所は、もう特区にはないのだろうか。


――……、一度店の方に連絡を取ろう。


 帰る。何としてでも、特区へ。俺の居場所は、あそこ以外のどこにもないのだから。

 そしてそれはハウンドにとっても同じだ。


 ゆえに、特区へ帰るには、クリスマス夜の『二冊目の手帳』争奪戦に勝利するしかない。

 でなければ、ハウンドは自分と一緒には帰ってくれまい。


――『二冊目の手帳』を奪って、ハウンドと一緒に特区へ帰る。


 そうだ。まずは、そこからだ。


 ニコラスは今後の計画と予測について熟考を始めた。


 その様子を気遣わしげに一瞥する、バートンの視線に気づかぬまま。

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