7-4
「ねえ。あんた、どうしたいの?」
母の言葉に、ニコラスは全身を強ばらせた。
返答はしない。まだ正しい返答が思い浮かばない。
ちょっとでも間違えたら、ものすごく怒られるのは、これまでの経験で知っている。
母は手元の琥珀色のロックグラスをカラリと揺らした。母の瞳と同じ、宝石を溶かしたような綺麗な液体だが、ニコラスはこれが嫌いだった。
これを飲んだ母は、しばらく母ではなくなるから。
「あたし、言ったよね。学校だってタダじゃないんだって。飯食わせて寝床用意して学校にまで行かせてあげてるのに、その結果がこれ?」
そう言って、母は手元の成績表を投げ捨てた。
母の声は震えていた。ニコラスは項垂れた。
いつもこうだ。自分は母をがっかりさせてばかり。
唯一母を喜ばすことができるのは、母が連れてくる男たちの暴力に耐えている時だ。その時だけは母は笑っている。
我慢強く耐え凌ぐ自分を見て、喜んでくれているのだと思う。
男は耐えてなんぼ。それが母の口癖だった。
だから今日もこうして、ひたすら耐えている。耐えてさえいれば、母は喜んでくれるはずだから。
「ごめんなさい。教科書、クラスメイトの子に燃やされちゃって――」
「なに。言い訳する気?」
ニコラスはすぐさま口をつぐんだ。不正解だ。
視界がじわじわと歪んでいく。
一体どう答えたら、母は満足してくれるのだろうか。どうしたら、自分はこの人を苛立たせずに済むのだろう。
「次。次、がんばるから、」
「それ前も言ったよね? その結果がこれでしょ? あんたの言う次っていつ?」
また間違えた。
とうとう涙が零れた。すると母は大きな溜息をついた。
「まーたすぐ泣く。そうやって泣けばすむと思ってんの?」
「ご、ごめんなさ」
「聞こえなーい」
不正解、三回目。もう後がなかった。
あれもダメ、これもダメ。ニコラスにはもう黙るしか選択肢がなかった。
学校でいつも教師に「なぜいつも黙っているのか」と怒られるが、仕方がないじゃないか。
自分が何を言っても、母の思う正解に辿り着けないのだから。
「んで今度は黙るわけね。そうやっていつもあたしのこと馬鹿にしてんでしょ」
「……してない」
「してるでしょっ!!」
怒声に身を竦めた直後、背後の壁にグラスが当たって砕けた。
破片と鼻に突く液体を上半身に浴びながら、泣きじゃくる自分と裏腹に、頭の片隅で醒め切った自分が溜息をついた。
母の後ろ、テーブルに置かれた、麺がのびて汁がなくなってしまったインスタントヌードルのスープを眺めながら。
ああ。今日も食べてくれなかった。
数分後。
案の定というか、ニコラスは公営住宅前の歩道に裸足で立っていた。不正解のペナルティだ。
ニコラスはなるべく歩道の雪がないところを爪先立ちで選びながら、ごみ収集所に面した路地裏を目指した。
今日は日曜日。いつもご飯をくれる『ミスター・タンパ』は閉まっている。
路地裏に行けば、この時期はホームレスのおっさんたちがドラム缶でゴミを燃やして暖を取っている。
上手くいけば、段ボールか、残飯にもありつけるかもしれない。
冬は腐るのが遅いから底の方を漁れば、まだ手を付けられていないのがあるだろう。
いつも道端に座り込んでいる
彼らは突然笑いだしたり怒りだしたり、襲い掛かってきたりするから、いない方が助かる。
路上に転がる使い捨て注射器や缶詰の蓋に気を付けながら、路地裏へ急ぐ。
徐々に足の感覚がなくなってるから踏んでもいたくないだろうけど、このままではまずい。
以前、ホームレスの、死んだ魚みたいな臭いのもじゃもじゃヒゲ爺さんが言っていた。人間は、身体が冷えたままだと死んでしまうのだと。
早く暖かくしないと。
ニコラスは小走りに路地裏へ入った。
誰もいなかった。ホームレスもドラム缶の暖炉も。
振り返れば、いつもゴミで溢れ返っているコンテナが、空になっている。ゴミ収集車が全部持っていってしまったのだ。
食べるものも、売れそうなものも、燃やすものもない。
得られるものがなければ、誰も来ない。
途方に暮れたニコラスは、コンテナの隅に張り付いていた新聞紙を、破れぬよう慎重に剥がした。
今日はこれが毛布だ。大事にしなければ。
新聞紙を小脇にニコラスは、風から逃れるように路地奥へ入った。そして外付け非常階段の下に潜り込み、新聞紙を広げてその下で身を丸める。
木の葉の下に隠れる、虫になった気分だった。
朝までもつだろうか。
地面のコンクリートを介して、寒さが容赦なくニコラスの体温を奪っていく。
雪と風が凌げても、こればかりはどうにもならなかった。
――眠い。
ニコラスは目を瞬いた。おかしいな。さっきまで、あんなに寒かったのに。疲れたのだろうか。
ひとまず寝よう。明日の朝になれば、ごみを出しに来る人間が来る。ゴミが出れば、火と食料が手に入る――。
「なあ、お前。こんなとこでなにしてんだ? こんなとこで寝たら凍えちまうぞ?」
唐突にかけられた言葉に、ニコラスはきょとんとした。目をこすってみるが、夢ではない。
目の前に、一人の少年が立っていた。
黒人でひょろりと背が高く、垂れ目の大きな瞳が印象的だった。歳は、自分より二つか三つ上だろうか。
少年は傘をさしたまましゃがみこむと、無遠慮にぐいと覗き込んできた。
ニコラスはびくりと全身を強ばらせた。
「お前ケガしてんじゃねえか! ほっぺた切れてるぞ!?」
幾度か瞬き、合点がいく。
先ほど母が投げたグラスの破片が、頬を掠めたのだろう。
よくあることだ。いつもの怪我に比べれば、全然大したことはない。
しかし少年はそうは思わなかったらしい。
「ほら、こっち来い」
「えっ、いや、でも……」
「でもじゃないって! ケガしてなくたって、そんなとこにいたら本当に死んじまうぞ!」
見た目に反して物凄い力で引きずり出した少年は、手を引いて勝手に歩き出した。
ニコラスは抵抗しようとしたが、力が入らなかったのと、引きずり出された拍子でせっかく手に入れた新聞紙が飛んでいってしまい、仕方なく少年に従うことにした。
少年は自分の手を引いてずんずん歩いていく。
その腕には湯気の立つ紙袋が抱えられていて、そこから香る香ばしい脂の香りに、ニコラスは生唾を飲み込んだ。
盗りたい。が、自分と少年とでは体格差があり過ぎる。おまけに自分はいま空腹で碌な力がでない。盗むのは無理だろう。
そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、振り返った少年は屈託なく笑った。
「なんだお前、腹へってんのか?」
「食うか?」と疑いもなく差し出されて、ニコラスは目を丸くした。
肉だ。骨付きのこんがり焼けた、タレがよく染み込んだやつ。
この手のは骨にまで味が染みているので、しゃぶるだけでも美味い。残飯の中でも「あたり」に相当するものだ。
もちろん肉の方は食べたこともない。
「……これどうしたんだ」
「ママんとこの職場にいる偉いおっさんがくれたんだ。……なんだっけか。ジョウシ? ってママは呼んでる」
「ピンプ(売春婦の元締め)にもらったのか……? 大丈夫か、お前の母さん。いやな客とらされたりしてんじゃ」
「ぴんぷ? いや、おっさんはまかないくれただけだぜ? 一応レストランのオーナーだし」
「レストランのオーナー? じゃあお前の母さんはウェイトレスなのか? バーメイド(女性のバーテンダー)とか、ボトルガール(アメリカのキャバ嬢)じゃなくて?」
「? おう。昼はそこで働いて、夜は服作る工場ではたらいてんだ。すげえだろ」
ニコラスは心底困惑した。
女性が夜だけでなく昼間に働いている?
しかも上司が従業員に食い物を分けてやっている?
ニコラスの知る女性は夜に働いているものだった。
上司は皆けちんぼで、寄こすものといえばおっかない取り立てか、風邪で休む嬢を無理やり出勤させるウェイターぐらいだ。
食い物を分けてやるなど聞いたことがない。
「……なんで上司は肉なんか寄こしたんだ。なにか裏があるんじゃないのか?」
「なにって……お前、今日はクリスマスだぜ? 肉ぐらい食うだろ」
「くりすます……?」
「なんだお前、クリスマスも知らねえのかよ」
少年がいうには、ものすごく偉い人が生まれたのを祝う日らしく、その日は肉などのご馳走を食べていいのだという。
ニコラスは不信感を募らせた。
そんな祭りは聞いたことがない。
しかもこんな街の、こんな雪の日に、肉を持ってうろついている子供がいるだろうか?
それにこの少年ときたら、この街の子供特有の酸っぱい臭いがしない。顔や服も擦り切れてはいるが汚れが見当たらない。
まるでドラマからそのまま飛び出してきたような、『普通』の子供だ。
この街の子供とは思えない。
怪しい。
ニコラスは踵を返そうとした。変な奴には近づかないに限る。
けれど腹がキュウと鳴って、ニコラスの選択に抗議した。少年は笑った。
「やっぱ腹へってんじゃねえか。ほら食えよ。一本二本食ったぐらいならいいって」
そう言って少年は骨付き肉を差し出すと、自分も一本食べ始めた。
ニコラスはどうすべきか迷ったが、空腹に耐えかねて一口齧った。四日ぶりの食事だった。
噛み締めた瞬間、口の中から唾液が溢れ出してくる。肉はあっという間に骨になってしまった。
「そうとう腹へってたんだなぁ。うちでめし食ってくか?」
「いや……そこまでは――」
と、言いかけ。ニコラスは固まった。
いつの間にか、自分の家の前に来ていた。
「ちょっバカどこ行くんだよ!?」
「戻る。まだ母さんから帰る許可もらってない」
「バッカお前、くつもはいてねえのに雪の中うろついたらあっというまに寒さで死んじまうよ! いいからうち来い。階がちがえばお前のママにもバレねえよ。お前、何階?」
「……8階」
「マジで!? 俺も8階。一週間前に引っ越してきたんだ。802号室、そこがおれん家」
ニコラスは真っ青になった。自宅の隣だ。確実にバレる。
慌てて引き返そうとするが、少年は頑なに手を放そうとしない。ニコラスは困った。
「手、放してくれ。もう大丈夫だから」
「大丈夫もなにもねえだろ。お前、ずっとめし食ってないんだろ?」
「肉もらったしもう十分だよ。それに……母さんに見つかったら、何されるか分からない。お前まで母さんに怒られたら、おれが困る」
「大丈夫だって! おれ、大人とかこわくねえし。いざとなったらママやそのジョウシってやつが何とかしてくれるって」
「……どうしてそこまでおれに構うんだ? おれ、お前の家族でも友だちでも、なんでもないのに」
そう返すと、少年は不思議そうに首を傾げた。
「助けたいと思ったから助けた。ダメか、それじゃ」
ニコラスはポカンと口を開けた。
なんだこいつは。見返りもなく自分を助けたというのか。
自分はこいつの肉をどうやって奪うかずっと考えていたというのに。
誰でもない赤の他人に、なんの疑いもなく、さも当然のように自分の物を差し出して。
それが当然だというのか。
「……やっぱいいよ。おれ、金とか何も持ってないし、わたせる物も、服ぐらいしか……」
少年はまじまじとこちらを見て。
「お前、優しいんだな。エンリョなくタダめし食ってきゃいいのに」
「え、」
優しいと言われて、ニコラスは硬直した。
そんなこと、言われたこともなかったから。
少年は満面の笑みで向き合った。
「心配すんな。たしかにうちは兄弟多いしビンボウだけど、こまってる人間がいたら家につれてきてやれってママ言ってたから」
「いや、でも」
「疑り深いやつだなぁ。……あっ、そうだ!」
少年はいいこと思いついたとばかりに顔を輝かせた。
「お前、おれの家族になれ!」
「え」
「そんでお前、今日からおれの友だちな!」
「ええっ!?」
突拍子のない申し出にニコラスは仰天した。少年はにかっと笑った。
「家族か友達だったらいいんだろ? なら両方になればいい。それなら文句ないだろ?」
そう言って、少年は手を差し出した。先ほどまで自分を温めてくれていた、大きな手だった。
「おれフレッド! お前は?」
「……ニコラス」
「ニコラスか。んじゃニックだな!」
よろしくと握られた手はちょっと力が強くて痛かったが、それ以上になぜか胸が痛かった。
***
「おい」
背中を小突かれ、外の雪を見ていたニコラスは我に返った。
「前つめろよ。後ろつかえてんだよ」
「ああ、悪い」
ニコラスは買い物かごを手に列の前へ進んだ。
州間高速道路95号線から7A出口レーンに入って下道を12分、ニコラスはニュージャージー州トレントン郊外のスーパーマーケットに来ていた。
赤レンガ造りの、ちょっといい感じの学校のような外観で、夜十時まで営業している。
ふと目線をあげれば、今しがたレジを終え、支払いをしようとしている初老の婦人が財布を取り出していた。
上品な出で立ちの婦人だ。
元は金髪だったのか、銀の髪を丁寧に結い上げ、赤いギンガムチェックのストールを銀のブローチで留めている。
左腕にはつるで編んだらしいバスケットがかかっていた。
ヨーロッパの古都の市場でよく見かけそうな女性だ。
カードや札を持っていないのか、婦人は小銭支払いをしようともたついていた。
自分の背後の客がわざとらしく大きな溜息をついた。
「あ」
婦人の買い物袋からりんごが転がり落ちた。それを拾おうとかがんだ拍子に、婦人は財布の小銭を床にぶちまけてしまった。
「あらあら」と拾おうとする婦人だが、慌てているせいか拾ったそばから小銭を落としている。何をやっているのか。
背後の客があからさまに舌打ちした。レジ打ちの店員といえば、我関せずと大欠伸している。
仕方なく、ニコラスは拾うのを手伝うことにした。
すかさず背後の客がニコラスの籠を押しのけ、自身の籠をレジに割り込ませてこようとしたが、寸でのところで制止する。
「俺が先だ。順番を守れ」
ぎろりと睨んだ男はすぐさま顔を蒼褪めると、回れ右をして一番遠くのレジの列にそそくさと逃げていった。
訝しんだニコラスだったが、自分の右手が無意識のうちに腰へ伸ばされていることに気付いて納得した。
撃たれると思ったのだろう。
――怖がらせる気はなかったんだがな。
ニコラスは自分の失態に頭を掻き、婦人の小銭拾いを手伝った。
その騒動にすら気付かなかった店員は、また大欠伸をすると億劫そうにニコラスの籠の商品のバーコードを読み始めた。
***
レジを終えるなり、ニコラスは先ほどの婦人に呼び止められた。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ」
「時間を取らせてごめんなさいね。私、どうもこの手のスーパーが苦手でね。市場とかなら慣れてるんだけど。あちこちピカピカしてるし、商品も大量にあり過ぎて目が回っちゃうわ」
「分かります」
適当に相槌を打ったニコラスは、早々に立ち去ろうとした。
ここに至るまで心身ともに疲れ果てていた。再発した悪夢で碌な睡眠がとれていないのも祟った。
しばらく人に会いたくなかった。
「待って」
ニコラスの願い虚しく呼び止めた婦人は、自身のバスケットからりんごをいくつか取り出すと、勝手にこちらの紙袋に入れ始めた。
「ミズ、お気持ちだけで結構ですから……」
「いいから貰ってちょうだい。こんなにしてもらって何もしないなんて、私の気が済まないわ」
そう言ってりんごだけでなく菓子やらスープの缶詰やらを詰め込もうとする婦人に、ニコラスは慌てた。
「ミズ。本当にもう結構ですよ。あなたが買ったものがなくなってしまう」
「でも……」
「ほら。もう行ってください。雪が降ってますから、足元に気を付けて。荷物もちますよ。車はどちらに?」
そう言ってニコラスは婦人を急かした。早く離れたいがゆえの行為だった。
けれど婦人はきょとんとしたのち、にっこり微笑んだ。
「あなた優しいのね。ミスをしたのは私なのに、手伝ってくれるばかりか私の心配までしてくれるなんて」
瞬間、ニコラスは凍り付いた。
脳裏にフレッドの笑顔と言葉がちらついた。
違う。
俺は優しくなんかない。
俺が他人に優しいふりをするのは――。
「さっきも後ろで列に割り込もうとする人に注意してくれてたし、あれで急かされていたらどうしようかと――……ねえあなた、大丈夫? 亡霊を見たみたいに顔が真っ青よ?」
はっとしたニコラスはすぐに首を振った。
「何でもありません。荷物を――」
「何かあったのね。大事な人とでも別れた?」
唐突な発言に、ニコラスは言葉を詰まらせた。
婦人は先ほどの慌てぶりから打って変わって落ち着いた様子で頷くと、
「少しあっちで一緒に話さない? そんなに時間は取らせないから」
お礼もし足りないことだし、と笑った婦人の手を、ニコラスは振り払うことができなかった。
***
『それで? いま彼は買い出しに?』
「悪いのか」
『悪いに決まってるだろ。彼は本作戦の肝だぞ?』
苛立ったクルテクの声がより潜まった。もしかすると、職場からかけてきているのかもしれない。
『今回私が君に協力しているのは、君が彼に最も警戒されることなく近づけるからだ。そして彼でなくては、彼女は動かない。彼は代わりの利かない餌なんだ。自由にさせてどうする? 逃げられたらもう後がないんだぞ』
「だが下手に行動制限をかければ、それこそ奴は警戒するだろう。最悪の場合、上司にご注進して特区へ逃げ込みかねん」
『そうならないために君に頼んだんだろう。そもそも彼女と取引すること自体、かなり無理があるんだ。上に知られたらと思うと、頭と胃が痛くてしょうがないよ。首の皮一枚でつながってた私のキャリアもついにおじゃんだ』
「そういう君こそ、例の親子はどうなったんだ」
『マクナイト親子かい? 彼らはもう用済みだよ。マクナイト老人には“保険”を仕込んでおいた。まあ末期がん患者だし、こちらが手を下さずとも死ぬと思うけど』
『殺すのか、民間人を』
「必要な犠牲というやつさ。そもそも私の目的は彼女ただ一人、部下じゃない。それに君だって似たようなものだろう?」
「……彼女の反応は」
『さっそく動いてるよ。すでに病院の周辺では、27番地住民が出没し始めている。着々と狩りの準備をしているみたいだね。この3年間、慎重に情報を流し続けた甲斐があったよ』
特警に潜入して3年、クルテクは代行屋ブラックドッグにとって有益な情報を、小出しに巷へ流し続けていた。
彼女が自身の手で情報を入手したと思わせるように、細心の注意を払って餌を撒き続けた。
おおむね計画通りだ。
今年のクリスマス、彼女は巣穴から出て狩りをする。
そして彼女のそばには、いつも頼りになる寡黙な狙撃手はいない。
『頼むから上手くやってくれよ。彼女が君の話に乗ったこと自体、奇跡以外の何者でもないんだから』
「ああ、分かっている」
『オズ』
唐突に愛称を呼んだ旧友に、バートンは端的に問う。親しみを込めてのことではないことは分かっていた。
『裏切るなよ。裏切るなら僕は君も消すよ』
「ああ」
そう言ってバートンは通話を断ち切った。
「……『僕』か」
バートンは首を振った。
人は常に変わらずにはいられない。それは友とて同じこと。
その自然の摂理が今のバートンには無性に虚しく寂しかった。
***
顎に当たって頬を駆け上る、甘く酸味を含んだ湯気が心地よい。
基本甘いものは嫌いなのだが、今回ばかりは例外だ。
「……ありがとうございます」
「いいのよ、このくらい」
自分の分のホットワインを魔法瓶から注ぎながら、婦人はほわりと笑った。
以前、同部隊に祖母にだけは頭が上がらないとぼやく奴がいたが、今ならその気持ちが分かる気がする。
だからだろうか。身も心も温められて、つい口が滑った。
「……昔、親友に言われたことがあるんです。『お前はずっと辛い目に合ってきたから、人にやさしくできるんだな』って」
「それが、あなたの大事な人?」
「ええ」
そう頷きながら、ニコラスの目は遥か遠くの、かつての日々を見ていた。
あのクリスマスの晩から、ニコラスの人生は一変した。
学校はフレッドと共に行き、初めて誰からも虐められず、物を壊されない日々を過ごした。
家に帰ったら夕方までに家事を片付けて、母親が出勤したらフレッドの家で一緒に夕食を取った。
腹も空かず、殴られる心配のない夜は初めてで、しばらくうまく眠れなかった。
食事は母親が食べ終わってからでないと食べられないのが当たり前で、皆が食べ終わるのをじっと待っていたら一家をきょとんとさせてしまった。
誰かと一緒の食事も、大人の許可が要らない食事も、初めてだった。
ご飯が終わったらフレッドと宿題をして、弟のロジャースや妹たちを寝かしつけてから、本やや雑誌や漫画を読んで夜更かしした。
拾ってきたDVDで映画を見ることもあった。
ろくな娯楽がなかったので、傷だらけのDVDでもなんでも見た。
たまにちゃんと見られるのがあって、それが宝探しのようで面白かった。
ある日、拾ったのがたまたまポルノ動画で、意味を分かっていたニコラスと真逆に、フレッドは「こいつらなんで揺れてるんだ?」と始終首をひねっていた。
当然あとでエマに見つかってしこたま怒られた。ポルノは大人になるまで見てはいけないと初めて知った。
「ろくでもない家庭で育ったので、何もかもが初めてで……いい奴でした。本当に。初対面で家族と親友両方になれって言われた時は、変な奴だと思いましたけど」
「素敵な人ね」
「はい。そいつの家族も、いい人たちでした」
フレッドの母、エマは自分に何でも教えてくれた。
調理の仕方、効率のよい家事の片付け方、本の読み方、人とコミュニケーションを取る意味。
……最後のやつだけは未だに苦手だが、勉強は得意になった。
当初は、勉強する意味が解らなかった。勉強など、教師や大人たちのご機嫌取りでしかないと思っていた。
だがエマはそうではないと言った。
『勉強っていうのはね、将来大人になった時、誰かに騙されずに賢く生きるための武器なのよ。持っておいて損なことはないわ』
驚いた。自分のようなガキに、こうも真っ当に諭してくれる大人がいるとは思わなかった。
なにより、何か頑張るとエマはすかさず褒めてくれた。それが嬉しくて堪らなかった。
勉強が義務から娯楽に変わるまでに、そう長い時間はかからなかった。
「……あいつとその家族に会ってから、世界が一変しました。本当に幸せだった。けど、幸せであればあるほど、どうしても思ってしまうんです。俺とこの人たちとの違いは何だったんだろうって」
フレッドと出会って、ニコラスの人生は一変した。
逆に言えば、ニコラスの人生はフレッドがいてようやく変わった。
あんなに止めてと言っても止まなかった虐めは、激怒したフレッドがいじめっ子らと喧嘩になって、ようやく止まった。
「抵抗しないお前にも否がある」と言っていた教師と、標的になるのを恐れてみて見ぬふりをしていた同級生は、フレッドをヒーローであるかのように褒め称え、まるで自身らが虐めから解放されたかのように喜んだ。
彼らがそこまで虐めに悩んでいたとは知らなかった。
腹を空かせて街をうろついている時も、フレッドと一緒だと必ずエマの知り合いの大人が何か食べ物をくれた。
自分一人の時は食べ物はおろか、やっとの思いで手に入れた残飯を大人が奪いに来る始末だったのに。
母親とその客が自分をいびる回数も減った。
全身あざと火傷だらけの自分を心配したフレッドがエマに相談し、彼女の児童保護局への通報で、たびたび局員が視察に来るようになったからだ。
それでも見えないところを母親と客はいたぶったが、怪我の回数は減ったことに違いなかった。
すべてフレッドがいたからこそ起きた変化だった。
何より一番つらかったのは、エマがフレッドの母であることだった。
自分の母親と、フレッドの母親。
持つ者と持たざる者。
その絶望的な差を、ニコラスは間近でまざまざと見せつけられた。
「ガキながらに痛感したんです。俺が助けてもらえたのは、あいつがいたからだって。だから必死にあいつの真似をするようになりました。困ってる奴がいたら助けにいって、どんな赤の他人でも親切にしてやって。何かやってもらったら取りあえず感謝するようにしました。そうやって、あいつみたいな『いい奴』を必死に演じた。そうしないと誰も俺のこと助けてくれないから」
誰かに助けてももらうには、助け甲斐のある人間になるしかない。
助け甲斐のない、どうしようもない母親を身近に見て育ったニコラスは、幼心ながらにその真理に気付いた。
「反面教師がすぐ身近にいたので、『いい奴』のふりは簡単でした。そいつらと真逆のことをしていればいいから。実際、俺への周りの評価はよくなりましたよ。ダチもできた。利用される回数も増えたけど、居心地は多少マシになりました。けど――それを、あいつは『俺が辛い目に合ったからこそ他人に優しくできるんだ』って言って……今まで必死に耐えてた何かが、切れちまったんです」
悪気がないのは分かっていた。本心だと分かっていた。
だからこそ、堪らなかった。
お前はいいさ。自分を愛してくれる親と兄弟がいて、何もしなくても周りが勝手に評価して助けてくれる。
俺はそんなもの、最初からなかった。
そんなお前を、俺は必死に真似て演じて、ようやく手に入れたというのに。
それが「辛い目に合ったからこそ優しくできる」?
ふざけるな。
「まるで、あんな辛いことにも耐えなきゃ幸せになれないって言われた気がして、俺みたいな苦労を経験したこともない奴にしたり顔で言われたのが許せなくて。……大喧嘩になっちまったんです。俺が一方的に切れてあいつが戸惑ってって感じだったけど。俺が『いい奴』演じてたっていったら『騙してたのか』って切れて、俺もどんどんヒートアップして。あれが一番ひどかったかな」
「あらあら……その人とは、それきり?」
「いや、後で再会したんですけど……喧嘩の後に親とひと悶着あって、そいつに黙って街を出ちまったんです。世話になった礼も言わずに。……そのしっぺ返しを、ついさっき受けて凹んでたんです」
勝手ですよね。
ニコラスの自嘲は、白煙となって雪夜に溶けた。
誰かに助けてほしくて善人を演じ、それに耐えきれず逃げ出した。
その代償をフレッドが支払う羽目になった。
あの冤罪事件より以前から、自分はとうの昔から偽善者だった。
あの砂漠の撤退戦があろうとなかろうと、変わりなかったのだ。
「そうね。人って、本当に勝手だわ」
顔をあげたニコラスは驚いた。
朗らかで穏和だった婦人が、身震いするほど冷ややかな目をしていた。
「みんな誰しも仮面をかぶって生きている。他人の前ではより良い自分を見せようとする。なのにそれが仮面だと分かったとたん裏切られたと思って腹を立てるんですもの。自分だって仮面をかぶってるくせに、勝手だわ」
そう吐き捨てた婦人は、一転していたずらっ子のように笑って肩をすくめた。
「『ありのままの貴方が一番』だなんてよく言うけど、あれぜったい嘘ね。ありのままの自分をさらけ出してところで、誰も愛してくれやしないわ。愛想をつかされるだけよ。それでも愛される人がいるとしたら、よっぽど幸運な人だわ」
「……そう、ですね」
「きっとその人はショックだったね。あなたにではなく、あなたを理解していなかった自分に」
ニコラスは俯き、地に落ち溶けて消えていく雪を見た。
百パーセント自分を理解してくれる者など存在しない。
だからフレッドが自分を理解できなかったことを咎める気はない。育った環境からなにまで違うのだから。
けれど、それでも人は、自分を百パーセント理解してくれる誰かを求めて止まない。
自分がフレッドに、そう望んだように。
「それは……お互い様だと思います。俺もあいつだけは俺を理解してくれてると勝手に思い込んでた。それが勝手に当てが外れて、勝手にがっかりしてた。……ただのガキですよ」
「若気の至りは誰にもあるものよ?」
「…………仲直りする前に、いっちまったから」
そう言うと、婦人は息をのみ、「そう」と呟いた。
「亡くなってしまったのね」
「はい」
「後悔してる?」
「はい」
「謝りたい?」
「……謝れるのなら」
「なら謝りにいきなさい」
え、とニコラスは顔をあげた。婦人は真剣な表情だった。
「知ってる? お葬式ってね、死者のためじゃなく、生者のためにあるの。生き残った人がまた明日も生きていけるように、お別れを済ます儀式なのよ。けど一度きりのお別れじゃ寂しいでしょう? だから人は墓を残すの。何度も何度もお墓に出向いて、その人とお別れするの」
あなたはちゃんとお別れをした?
そう問われ、ニコラスは首を振った。
フレッドの葬儀の時、自分は軍法会議の真っ最中だった。
今はアーリントン国立墓地に眠ってはいるが、そこへ行く資格は自分にはないと思っていたニコラスは、一度も出向いていない。
「行ってきなさい。行って、ちゃんとお別れをしてきなさい。後のことは、それから考えればいいわ」
「……それが、ただの自己満足でもですか」
「あら、知らないの? 人の幸福は自己満足でできているのよ。なぜかやましいことみたいな扱いをされるから、みんな隠したがるけどね」
そう言って立ち上がった婦人は、ストールについた雪を払いながら巻き直した。
「それとね。自分を完璧に理解してくれる人は、自分以外の何者でもないの。あなたが良き答えに辿り着けるよう、祈っているわ」
婦人は「メリークリスマス!」と笑って踵を返した。呆気にとられたニコラスは慌てて立ち上がった。
「ミズ、バスケット忘れてますよ」
「いいの、いいの。それ、友人へのお土産だから。これからパーティーに行くの。着いたらまた作ればいいわ」
ありがとう、優しい狙撃手さん。
そう手を振った婦人は、今度こそ立ち去ってしまった。
ニコラスは籠の中を覗いた。布で厳重にくるまれたパイや鍋はまだ温かい。ジンジャーブレッドにフルーツケーキまである。
「……早めのクリスマスプレゼントだな」
ニコラスは籠と買い物袋を抱えて立ち上がった。
すでに車を離れて40分は経っている。そろそろ戻らねば。
義足が雪で滑らぬよう慎重に足を運びながら、ふと、ニコラスは不思議に思った。
あの婦人、なぜ自分が狙撃手だと分かったのだろうか。
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