7-2

 〈西暦2013年12月20日午前5時25分 アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド〉


「あと5分で降りるぞ」


 唐突な発言に、ニコラスは眉間のしわを深くした。次の停車はクリーブランド駅ではあるが。


「目的地はニューヨークでは」


「その通りだ。だからここで降りる」


「いい加減にしてください。そもそもなんでニューヨークなんです? モーガン一家が今住んでるのはマイアミのはずですよ」


「そうだが、この時期になるとミセス・モーガンは必ずニューヨークにやってくる」


「なぜ」


「お前の借金を返すためだ」


 ニコラスは硬直した。


 借金? そんなものは――。


「……またあの女ですか」


「気持ちは分かるがその言い方は止めろ。唯一の肉親だろう」


「アンタはあの女に会ったことがないからそう言えるんだ」


 憧れたブロードウェイ・ダンサーになれず、それでも諦めきれなくてストリップクラブのダンサーにしがみついて、そこにやってきた舞台監督を色仕掛けで取り入って。


 それでできた子が、俺だ。


 そして結局、あの女はブロードウェイの舞台に立てなかった。


 その逆恨みに息子をいびり続けた女を、母親と思ったことなど一度もない。

 そんな期待は、とうの昔に捨てた。


「役欲しさに俺を産んで、酒とヤクに溺れたのはいい。家に連れ込んだ男どもと一緒に俺をいびり続けたのも、どうでもいい。だが俺の最初の狙撃訓練課程を台無しにしたのは別だ。あの女が死に際に俺の名なんか口にするから、麻薬取締局DEAなんかが訓練所に乗り込んでくる。俺はヤクにだけは一度も手を出さなかったってのに。一人でくたばりゃよかったんだ。最後の最後まで俺の足を引っ張りやがって。それが今度は借金だと? それをエマが払ってるってのか。ただ隣に住んでただけの人間が」


「ウェッブ、落ち着け」


「生まなきゃ良かったんだ、最初から。生んだ傍からこんなはずじゃなかったなんて泣き喚く女の、なにが母親だ」


 後ろから「うるせえぞ」と座席を蹴られる。

 眠りを妨げられた乗客の苛立った視線が集中するが、殺気を隠そうともしないこちらを見るなり、慌てて寝たふりをする。


 それすら眼中に入れずねめつければ、バートンは小さく息を吐いた。


「行くぞ。そろそろだ」


「いいえ、行きません。そもそも俺の顔を見たくないと言ったのはモーガン一家だ。借金なら、あとでエマに――」


「『二冊目の手帳』を知りたくはないか?」


 今度こそ、完全に意表を突かれた。


「今、なんと?」


「『二冊目の手帳』と言った。その様子だと、『手帳』が何なのかは知っているようだな」


 身も表情も凍りつかせるこちらを一瞥し、バートンは座席脇に立てかけていた背嚢型のナップザックを担ぎ上げた。


「こちらにも事情があってな。行くぞ。詳しくは道中で話す。お前に聞きたいこともある」




 ***




 降り立ったクリーブランド駅には、誰もいなかった。


 真冬の暁闇は濃く深く、プラットホームに点在する屋外灯が辛うじて足元の闇を払っている。


「こっちだ」


 大欠伸をする車掌がよそ見したのを見計らって、バートンはホーム端へと駆け寄り、線路に降り立った。


「どこへ」


「後方車両へ向かう」


「列車に取り付く気ですか」


「正解だ。だが取り付くのはこれではない」


 バートンは振り返りもせずレイクショア・リミテッド号の真横を素通りしていく。


 早朝なだけあって、カーテンを開けている乗客はまるでいない。今回の乗客に、自分と同じ趣味の者はいなかったようだ。

 お陰でニコラスたちは誰にも気付かれることなく最後方の車両に辿り着いた。


 後方車両を回り込み、反対側へ立ったニコラスは、目の前を通り過ぎる巨大な影に納得した。


「乗り換えですか」


「座り心地は保証できんがな」


 肩をすくめたバートンは、低速で走行する貨物列車に並走し始めた。ニコラスもそれに続く。


 人より物の運搬が盛んなアメリカ鉄道において、大陸を縦横無尽に駆け巡る貨物列車は一種の風物詩だ。

 その車両数の多さは尋常ではなく、踏切に入って抜けるまでに、カップ麺を作って食べ終えてもまだ時間が余るほどだ。


「乗るぞ。走れ、とはいかないか」


「ええ、この脚ですから」


 ニコラスは左脚に目を落とした。接合端子のずれで急遽装着することになった、予備の単軸膝継手義足だ。

 走ることはおろか、歩行すらぎこちない。


「なら私が先に行こう。……あれにするか」


 バートンが後方を指差した。鍵の付いていない赤く錆びついたスチール製コンテナが、こちらに向かってくる。


 バートンは一旦ナップザックをこちらに預けると、走って扉の鉄棒に飛びつき、そのまま手を伸ばした。


「ウェッブ」


 バートンの手が近づいてくる。思わず手を伸ばし、相手が自分を殺しかけた人物であったことを思い出して、一瞬躊躇する。


 だが手を引っ込める前にその手は掴まれ、引き上げられた。


「これでニューヨークまで行く気ですか」


「いや。ピッツバーグ近郊で降りる。そこからは車を2、3回乗り換えてニューヨークへ入る」


「……なぜそんなまどろっこしい真似を?」


「これから話す。ひとまず中へ入るぞ。夜が明ければ我々は丸見えだ」


 扉を開けたバートンは、入るよう顎で促した。


「――さて。どこから話したものかな」


 ザックから取り出した携行式LEDランタンの傍で、バートンは腕を組んでコンテナにもたれた。


 ニコラスはかねてより抱えていた疑問をぶつけてみた。


「なぜ、俺を殺そうとしたんです」


 突如、命を狙われたことも、その殺そうとした相手と行動を共にする教官の、真意が分からなかった。


 対してバートンの返答は至極簡潔だった。


「お前の名誉を守るためだ。お前と、お前の戦友のな」


「俺たち第37偵察小隊の?」


「そうだ。お前はもう、代行屋『ブラックドッグ』の正体を知っているのだろう?」


 ハウンドの名を出され、ニコラスの警戒がより一段と跳ね上がる。


「知っているのなら話が早い。奴はアフガニスタンから来たテロリストだ。タリバンの少女兵、あの『アル=カイーダ』に所属していた時期もある。そんなテロリストと、元海兵隊のお前がつるんでいる。それを知った世間はどう思う? その反応が生き残った第37小隊に向いたら? 考えなかったとは言わせんぞ」


 ニコラスは言葉を詰まらせた。


 考えなかったわけではない。


 テロリストのハウンドと、それを殺し続けた狙撃手の自分。

 相容れぬはずだった敵同士が、今こうして行動を共にしている。


 それを戦友が――6年前の冤罪でこれ以上ないほど名誉を傷つけられ、心を壊してしまった第37小隊の面々が知ったら、どうなるか。


 世間に公表されれば、それこそ彼らへのトドメになる。


「私の知るお前なら、決して奴とつるんだりはしない。戦友を裏切るくらいなら死んだ方がマシと考えるのがお前だ。だがお前は今、奴の相棒として傍に居続けている。特区に残りたい理由も奴なんだろう、違うか」


「違わない、と言ったらどうします? 俺にまた銃口を向けるんですか」


 ニコラスは顔半分を闇に浸した師の目を真っ直ぐに睨んだ。


「戦友を裏切る行為だとは自覚しています。けどあの子はビルに旅客機ごと突っ込んだ狂信者どもとは違う。優しくて強がりで意地っ張りな、どこにでもいる寂しがり屋の女の子だ」


 ニコラスは握る拳に力を込めた。


 俺はしょせん『偽善者』だ。人を救うなんて、御大層な真似はできない。


 地獄行きはとうの昔に確定。この期に及んで戦友を裏切ろうが裏切らなかろうが、変わりやしない。


 俺は英雄じゃない。

 ちょっと人を撃ち殺すのが得意なだけの、碌でなしだ。


 それでも、あの子だけは救いたい。救わねばならない。

 俺を救ってくれた、こんな俺を英雄と呼んでくれた、あの子だけは。


『偽善者』だって、そのぐらいの意地を張ってもいいだろう。


「誰も俺を待たないこの国で、あの子は一人俺の帰りを待ってくれました。今度は俺の番です。あの子の往きつく先がなんであれ、俺にはそれを見届ける義務がある」


「……たとえそれが、復讐でもか」


「あの子が手を下す前に、俺が殺す。あの子を不幸にした奴は皆殺しにしてやる。あの子を地獄へ行かせはしない」


「彼女がそんな生き方を望んでいるとは到底思えんが」


「望んでなくともそうしてもらいます。ガキを戦場から連れ出して何が悪い。地獄に居座るのは俺たちだけで十分だ」


 そうだ。一度は逃がしたのだ。

 自分の誇りだった弾丸の首飾りホッグズトゥースを託して、ありったけの願いを込めて。


 逃がした、はずだった。


「俺はもう一度、あの子を連れ戻します。地獄へ行かせはしない。俺はあの子に、静かで景色の良い時々賑やかな場所で、美味い飯でも食ってのんびり楽しく暮らしてほしいんです」


「………………ああ、そうか」


 バートンは、ふっと脱力して壁にもたれかかった。疲れ切ってへたり込んだようにも見えた。


「そうか、そうだったか。お前は過去に、あの娘に会っていたんだな」


 道理で。


 そう呟いたバートンは、しばし黙し、腹で手を組みなおした。


「――ウェッブ、彼女とはどこで」


「……6年前のティクリート撤退戦の直前です。その1年後にウンム・カスル港でもう一度」


「2回も会っていたか。……なるほど。ゾンバルトが知りたがっていた狙撃手は、お前のことだったか」


 ゾンバルト? 誰だ、そいつは。


 聞き慣れぬ人名に眉をひそめ。


「ハウンドを知っているんですか」


「ハウンド、か。そちらの名を名乗ったか。――ああ、知っているとも。彼女がコールマンの足元をちょろちょろしていた頃から、ずっとな」


 ニコラスは顔を強ばらせた。


 ラルフ・コールマン。ハウンドから託されたあの絵本の作者だ。


 『手帳』に記された『失われたリスト』の生き証人がハウンドであることを告げ、彼女を追う合衆国安全保障局USSA所属の謎の組織『双頭の雄鹿』の危険性と、その黒幕が誰なのかを記した、あの絵本の。


 間違いない。

 教官は、ハウンドの過去も、ラルフ・コールマンたち5人の兵士のことも知っている。


「驚いたな。コールマンも知っているのか。私の教え子の一人だ。……あの娘はコールマンの腰にも背が届かなくてな。いつもコールマンが歩く後を走って追いかけていた。それが気の毒だからとコールマンがよく抱きかかえてやって、ゾンバルトが、奴の上官が『甘やかすな』と怒ってな。けどコールマンは『基地の中にいる時だけだから』と言い訳して、結局、最後まで言うことを聞かなかった」


 懐かしい、とバートンは呟いた。


 数秒間の沈黙の後、バートンはぽつぽつと語り始めた。


「お前といま行動を共にしているのは、あの娘が昔のままだったからだ。お前の言う通り、あの娘は他人思いの優しい子だ。そしてそれは先日のデンロン社の一件で証明された。あの娘は敵の殲滅より先に、子供の救助を優先した。アメリカ人の子供をだ。あの娘はこの国を焼かない。あの娘はまだ、変わり切っていない」


「彼女はテロリストではない、と?」


「いいや。あの娘はまごうことなきテロリストだ。だがただのテロリストではない。そして彼女と行動を共にするお前が、彼女に心酔しきっているわけではない。それが先日分かった。それがお前と行動を共にする理由だ」


「……分かりました。では、あなたがここまで人目を避けて行動しているのはなぜです?」


「『双頭の雄鹿』に刃向かったからだ。今や私は、国家のお尋ね者だ」


「『双頭の雄鹿』を知っているんですか……!?」


「知っているとも。私の教え子を裏切り、見殺しにした連中だ。ああ、知っているとも。あの作戦が実行された時、私は彼らの傍にいたからな」


 ニコラスは言葉を失った。


 バートンは過去を知っているのではない。彼らの過去を、間近で見ていた証人の一人だ。


「…………その、作戦というのは」


「アフガン侵攻で国を追われたタリバンには、切り札があった。米国の中東派兵を即時撤回させるほどの代物がな」


「それが、『失われたリスト』」


「そうだ。【石油食料交換プログラム】関係者のブラックリスト、各国の要人が関与した国連主導の世紀最大の汚職スキャンダル。そのリストが記された『手帳』の確保と抹消がコールマンたちに課せられた任務だった。そして彼らの水先案内人を務めたのが、あの娘だ」


「では『二冊目の手帳』というのは」


「文字通りの意味だ。『手帳』は二冊が揃って初めて『失われたリスト』に辿り着けるようになっている。一冊では意味をなさんのだ。あの娘が盗み出した一冊だけでは、『失われたリスト』に辿り着くことはできない。……それでも彼女が盗み出したのは、やはり父親が遺した唯一の遺品だからだろうな」


「父親?」


 瞬間。コンテナがガクッと揺れた。


 金属が擦れ軋む耳障りな音がコンテナを振動させる。慣性で上半身が持っていかれそうになるのを、ニコラスは手をついて堪えた。


「降りるのここですか?」


「いや、この付近に停車駅はない。ピッツバーグまでも、まだだいぶ先のはずだ」


 ニコラスは素早くバートンと目配せした。


 異常事態に直面した狙撃手特有の、抜身の刃のような眼光であった。




 ***




「ハウンド、お昼食べるかい?」


 店長の朗らかな声につられて顔をあげれば、鼻先を香ばしい匂いがくすぐった。

 ニンニクと鳥皮をよく炒った、空腹をいたく刺激する香りだ。


「チキンスープだよ。君が好きなセロリたっぷりの。なんと焼きたてのパン付きだ」


「ありがとうございます」


「なんの。ここ最近、2階の事務室にこもりきりの統治者殿へのささやかなお返しさ」


「このぐらいはさせておくれ」と言われ、事務仕事を諦めたハウンドは書類を置き、椅子ごと下がった。

 途端、入れ違いで店長がテーブル前に入ってくる。


 散らかっていた書類を手早くまとめ、さっと台拭きで拭いて、テーブルクロスをかける。ついで皿とカトラリーをセットして、保温容器に入った料理を盛りつければ、事務机は午餐会仕様に様変わりだ。


「食べていいですか」


「もちろん」


 ハウンドは早速スプーンを手に、スープを口にする。


 脂が浮いていてこってりと思いきや、肉は胸肉で存外あっさりしている。パンはいつものどっしり系ではなく、ふわふわでミルクの香りが強い。


 昨晩から紅茶以外なにも口にしていなかったこともあって、ハウンドは夢中で食べ進めた。


「食べられるようになったんだね」


 嬉しそうにはにかむ店長に、一瞬止まって。


「……ええ。まだはいりますが」


「あれなら普通の反応だよ。落ち込むことはない」


 ハウンドは基本、毒見がないと食べられない。食べられなかった。

 無理矢理飲み下したとしても、後で吐いてしまうぐらい、どうしても。


 全色盲ゆえ嗅覚と味覚に頼るしかない身体的ハンデからくる警戒心もあるが、一番は刷り込みだろう。



 ――お前は狗としてしか生きられぬ。――



 幾度となく言い聞かせて自分を育てたタリバンの戦士は、ハウンドが無防備に食事に手を付けることを許さなかった。

 必ず誰かに食べさせてから口をつけろと。


 言いつけを破った時は酷く殴られ、無理やり吐かされた。食事を抜かれ、飢えに苦しむ自分の前に食事を置いて銃を構え、許可を出すまで口をつけないよう徹底して訓練させた。


 あたかも犬に『待て』を仕込むように。


 だからこそ、こうして誰かに許可を求めてしまう。誰かが『よし』と言ってくれるまで。


「ふふ。君が美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があると言っていたよ。調理自体が好きなのもあるだろうが、彼にとってあれは他者とのコミュニケーションの一環なんだろう。最初見た時は驚いたよ。あの君がつまみ食いをするなんて。今まで私の料理か、缶詰かレーションしか食べられなかったのに。それも調理工程を見届けたものだけだ。同じ料理人としては妬けてしまうよ」


 よっぽど美味しいんだね、ニコラスのご飯。


 ニコニコと話す店長に、ハウンドはスプーンを降ろした。


「…………最初に料理を作ってくれた時、怯えた目をしてたんです。どうせお前も食わないんだろって、そんな諦めた目」


 店長は静かに向かいの席に着くと、紅茶を淹れてくれた。店の看板メニュー、ブラウニーを添えて。


 深刻な話ほど、美味しいお茶を。それが彼の真剣な話を聞く時の癖だった。


「それがなんか滅茶苦茶腹が立って、毒でもいいやって気合で無理やり口にしてみたら、実際美味しくて。なんていうか、ホッとするんです。ニコのご飯。そしたらニコのニオイがぱあって明るくなって。ニコ、表情に出にくいけど、ニオイはすごく正直なんです。普段あんなに喜んでくれることないから」


「それで頑張って食べてたら、いつの間にか平気になった?」


「……日に日に美味しくなっていくんで、つい」


「そりゃあそうだろう。仕事終わりに毎日厨房で練習していたからね。最初は私やジェーンが試食してたんだが、あんまりにも美味しいからつい口が滑ってしまってね。近頃じゃそれ目当てにわざわざ閉店間際にくる客もいるくらいさ。クロードとかね」


「あのおっさん最近やたら遅く来ると思ったら、そういうことですか……」


「そういうことさ。――ふふ、いいねぇ。喜ばしい限りだ。殺されてもいいと思って食べたら、胃袋を掴まれちゃいました、なんて。素敵な話じゃないか」


「……店長、今日ちょっと毒が強すぎませんか」


「それは失敬。イギリス人は何かと毒を仕込まずにはいられないものでね。もちろん料理も例外じゃない」


「店長のご飯すごい美味しいですよ」


「ありがとう。けど昔は例に漏れず酷かったんだよ。家内には苦労をかけたものさ」


 そうほころんだ店長は、カップをソーサーに戻し、席を立った。そしてそのまま回り込んで、こちらの肩を掌でそっと包んだ。


「ハウンド。私は、君たちがこの街に来てくれて、本当に良かったと思っている。世間から棄てられた我々を、君とニコラスが命懸けで護ってくれた。お陰でこうしてまたクリスマスを迎えられている。ニコラスがいないのが、本当に残念だが」


「……ニコならすぐ帰ってきますよ。きっと」


「ああ、そうであることを心から願っているよ。――だからハウンド。哀しい別れだけはしないでおくれ。一生この街にいろとは言わない。それでも、いずれ別れるにしても、私は笑顔で君たちを見送りたいんだ」


 ああ、やっぱり。この人は苦手だ。


 ミチピシ当主のオーハンゼーといい、店長といい、この手の年寄りは、何もかも見透かしたような口ぶりで無遠慮に痛いところを突いてくる。


 ハウンドは真顔のまま頷いた。

 この人相手に、いつもの笑顔の仮面が通用しないことは知っている。


「分かっていますよ、店長。大丈夫です。ニコを街から追い出したりなんかしませんから」


「ありがとう、ハウンド」


 店長はにっこり笑うと、「食器は後で下げに来るから」とだけ告げて、部屋を出ていった。


 ハウンドは、食べかけのスープに目を落とす。冷めて、皿に脂がこびりつき始めていた。


「――ごめんなさい、店長」




 ***




「どうだ」


「前方にパトカーの警光灯が見えます。7、8……10台以上はいますね」


「踏切事故か?」


「いや……」


 コンテナの影から目を眇めていたニコラスは、自身のバックから暗視双眼鏡ナイト・スコープを取り出すと、荷台下の線路へ潜り込んだ。


「すぐ戻ります。10分経っても戻らなければ、単独で移動してください」


「分かった。気を付けろよ」


 無表情ながらも心配そうな声音で頷くバートンに、ニコラスは反応に窮して生返事になってしまった。


 つい先日殺し合いかけた仲だというのに、どうしてここまで気を許すのだろうか。


 そんな疑念を抱えつつ、ニコラスは双眼鏡を咥えて線路を匍匐前進で移動する。

 線路脇に夜間装備の狙撃手が潜んでいる可能性も考量して、車輪と車輪の切れ目はなるべく素早く。


 そして先頭の牽引機関車後方10台の地点で、停止する。


 貨物列車は、踏切から百メートル手前で停車していた。


 自分から左手91メートルほどの線路脇で、人の話し声がする。ニコラスは暗視双眼鏡を構えた。


 ヘルメットに作業着姿の機関手とその他数名が、濃紺の「FBI」と書かれたジャンバーを羽織った私服警官と口論している。


 正確には、私服警官がヒステリックに怒鳴り散らし、それに機関手らが困惑して立ち尽くしているという構図だ。

 その真横では制服警官が大欠伸を隠しもしない。


 ニコラスは次いで前方の踏切に双眼鏡を向ける。


 パトカーが十数台、踏切に集結しており、それが貨物列車の行く手を阻んでいる。パトカー周辺には制服警官が各々好き勝手に待機し、その右腕にはオハイオ州警察の腕章がある。

 私服警官にはなかった。


 州警察が20人近くいる一方、私服警官はヒステリー男を含めて僅か4名。


 うち3名のうち1名は携帯電話を耳に当て、こちらに背を向けている。

 残り2名はフルカスタムの半自動小銃を構えて、こちらの貨物列車荷台の方を注視し、時おり構えては銃口を動かしている。


 ニコラスは来た時より慎重に、かつ素早くコンテナに戻った。


「どうだ?」


「警察が線路を封鎖してます。州警察が20人近く、FBIらしき私服警官が4名いますが、恐らく違います」


「根拠は?」


「FBIがフルカスタムのSPR(SPR-Mk12選抜射手ライフル)持ってるなんて聞いたことがありません。SWATチームならまだしも、防弾着ボディアーマーにネームもロゴもない。しかも最新の暗視装置まで持ってやがる。あんなの持ってるの特殊部隊ぐらいですよ」


「となると、FBIの正体はUSSAか。思った以上に動きが早いな」


「ちなみに心当たりは?」


「大いにあるな。お前は」


「あり過ぎてどれがそれかさっぱりです」


「では我々は敵にすでに捕捉された、とみて行動すべきだろう。そしてたった4名しかいないところを見るに、本命は先ほど乗っていたアムトラックだ」


「こちらは念のための確認?」


「そんなところだ。だが我々がアムトラックに乗っていないことは、次の停車駅ですぐ発覚することだ。そうなれば荷台はすべて調べ上げられ、増援もやってくるだろう。そうなる前にここを離脱する。――距離は?」


「100ヤード(91メートル)です」


「なら照準器はいらんな」


 そう言って、バートンは自身のナップザックを開け、得物を取り出した。


 折り畳み銃床ストックのFN-SCAR-L、米軍ではMk16 Mod.0で知られる自動小銃だ。付属品は二脚バイポット消音器サプレッサー標準バレルSTD、使用弾は5.56㎜弾だ。 


 暗視ゴーグルを装着したバートンは、流れるような動作で最終点検を済ませると、人差し指でこちらを呼びつけた。


「来い、『百眼の巨人アルゴス』。を貸してくれ」


 有無を言わさぬ指示に従いかけ、我に返って従順な自分に苛立つ。


「それで狙撃をするつもりですか。この近距離で?」


「そうだ」


「危険です。数が多すぎる。見つかったら即アウトですよ。線路しかないこんなだだっ広い場所で、どこに隠れる気です?」


「気付かれても敵から撃てない位置にいればいい。そのためにお前を呼んだのだ」


 バートンが指差す方向を見たニコラスは溜息を飲み込んだ。


の間をぬって撃てと?」


「撃つのは私だ。お前はタイミングを見計らってくれればいい」


 勝手を言ってくれる。


 ニコラスはタートルネックのインナーを口元まで引き上げた。再度の溜息で、白い息が漏れないように。


 ニコラスはしぶしぶ線路脇に降り立ち、バートンに続いて匍匐を始めた。


「通りますかね」


「通る。この列車が停められたのは走行中だった。それもパトカーで線路を塞いで無理やり停車させている。連中がコントロール下においているのはこの列車だけの可能性が高い」


 と、不意にバートンは口をつぐんだ。ニコラスも気付いた。


 地面から腹に伝わる、微かな震動が。


 ニコラスは皮膚が張りつきそうなほど冷え切ったレールに耳をつけた。


「……、接触まで2分ってとこですかね。速度は目視で測ります」


「順番はどうする」


「まずは巡回2名を、それからヒステリー男、携帯男の順で」


「了解した」


 ニコラスは全身を使って振動を感知しつつ、暗視双眼鏡で敵を観測した。


「州警察はどう動くと思う?」


「……恐らく動かないかと。連中はUSSAに要請されてここにいるだけだ。大方FBIの名を使ってあれこれ命じてるんでしょう。連中は独立意識が強い。外部からの、それも畑違いの奴から偉そうに指図されれば確実に反発します」


「撃てば自衛に徹するか。ではUSSAの方はどうだ」


「巡回2名は即反応すると思います。銃は同じだが付属品が微妙に違う。自分に合わせてカスタムしてるんだと思います。副装備サブもちゃんと持ってる。場慣れしてますね。ヒステリー男と携帯男は真逆だ。拳銃しか持ってない。携帯男に至っちゃ撃鉄ハンマー起こしたままホルスターに収めてやがる (はずみで撃鉄が落ちて誤射する恐れがある)。訓練された人間ならまずやりませんね。本部勤めのホワイトカラー2名と戦場帰りのブルーカラー2名での編成、ってとこじゃないですかね」


 バートンからの返答はない。

 怪訝に思って振り向けば、バートンは微笑を浮かべていた。


「なんです?」


「いいや? 相変わらずだと思ってな」


「……来ます。準備を」


 バートンが銃を構え直す。ニコラスは視線を動かし、それをみた。


 眩い光が、連立したコンテナの長蛇を、頭から照らしていく。対向からやってきた、別の貨物列車のヘッドライトだ。


 警笛が鳴った。


 途端、パトカー周辺でたむろしていた警官が面倒くさそうな顔で車内に戻っていく。パトカーを踏切から出すためだ。


 車と同じくアメリカの貨物列車もすぐには停まれない。それも重連のディーゼル機関車が牽引する、40両以上からなる総重量3000トンの長大列車だ。


 さほど速度が出ていなくとも、ちょっとぶつかるだけでパトカーなぞピンボールのように吹き飛んでしまう。NFLナショナル・フットボール・リーグのランニングバックが幼児に突っ込むようなものだ。


 警笛が再び鳴った。悲鳴に似た金属音を立てながら、貨物列車はさらに減速する。

 自分たちの前を通る頃には、時速40キロ代になるだろう。


 コンテナの規格は40フィートの海上ドライコンテナ。

 縦幅2.4メートル、横幅12.2メートルで、コンテナ同士の隙間――荷台と荷台の連結部分は幅2.5メートルだ。


 それがニコラスたちと、USSAらとの間を右から左へ真横に横切ろうとしている。


 つまり、前方91メートル100ヤード先にいる敵を、目の前を横切る貨物列車の合間をぬって狙撃せねばならない。


 しかも列車の速度は秒速11メートル。荷台同士の合間は2.5メートルだ。


 単純計算で言えば、合間を狙える時間はたったの0.22秒である。

 当然、視認してからの狙撃ではまず間に合わない。


「カウントします。1、2、3の3で引金を引いてください。3スリーの『th』のタイミングで」


「了解した」


 ニコラスは列車の速度を注視しつつ、敵を最終確認した。観測した彼らの情報に、修正がないかの確認である。


 そして過去にさかのぼり、教官の狙撃を思い出す。


 引金を引く指の動き、呼吸のテンポ、FN-SCARの銃口初速と、各距離での弾速。


 再び警笛が鳴った。


 貨物列車先頭の三重列の牽引ディーゼル機関車が、轟音を立てて接近する。


 機関車の先端が踏切に進入し、超えて、自分たちの目前に差し掛かった。


 震動と共に、コンテナ群が目の前を勢いよく通り過ぎていく。


「いきます。…………1、2、3――」


 図らずも、発砲に警笛が重なった。


 走りゆく貨物列車の向こうで、鼻のど真ん中に風穴を開けた巡回の一人が、へたり込むように崩れ落ちる。


 消音器を使ったことと、着弾音が警笛に掻き消されて、真隣にいた巡回を除いて、敵は狙撃されたことにまったく気づかなかった。


 巡回は即座に銃口を向けた。

 スコープを覗き込む際の頭部の角度が深い。利き手は右だが、目は左なのだろう。


「しゃがみます。膝立ちニーリング、左膝が下です。照準を40センチ下、3センチ左へ。右から左へ横風。風速5.5」


 巡回が引金を引き絞る。だが弾のほとんどは、コンテナで弾かれた。


「1、2、3――」


 発砲。もう一人の巡回は、スコープごと目を撃ち抜かれて絶命した。


 そこに至り、ようやく敵は狙撃されたことに気付いた。


「予定変更します。ヒステリー男より先に携帯男を」


 一目散に逃げだす警官のあとを追いかけるヒステリー男を見送りながら、ニコラスは撃鉄が起きたままの拳銃を引き抜く携帯男の位置を観測する。


「左へ8メートル修正、距離88メートル、胴体を」


「頭でなくていいのか」


「奴が着てるのはJPCです」


「なるほど」


 カウント後、撃発。

 5.56㎜弾が携帯男の脇腹から肩へ貫通し、心臓を穿つ。


 JPC――Jumpableジャンプエイブル Plateプレート Carrierキャリア

 機動性重視の防弾着で運動性が高く小型かつ軽量だが、前後にしか防弾プレートが付いていないので脇ががら空きになる。


「残り1名か。どこだ」


「パトカーに隠れようとしています。左から4台目」


 視界を横切るコンテナ群の合間をぬって、ニコラスは目を凝らす。


 生き残ったヒステリック男は前を走る警官を突き飛ばし、パトカー後部から側面に回り込んだ。盾にするつもりだろう。


「教官、窓越しに撃てますか」


「誰にものをいっている」


「……後部座席の窓から頭が僅かに見えます。奴が一番頭を出したタイミングでどうぞ」


 貨物列車の速度が上がった。車列の終盤に差し掛かったのだろう。


 風を巻き上げながら、貨物列車が疾走していく。

 最後列の後部補機二重機関車が、地鳴りをあげながら通り過ぎた。


 瞬間。パトカーの後部座席から、男の頭部が見えた。


 ようやく列車が通り過ぎて、様子を窺おうとしたのだろう。それが命取りになった。


 バートンが発砲した。


 ヒステリー男の頭から何かが、シャンパンの栓のように飛び上がった。


 男が窓の下に消え、パトカーの下に現れた。男の頭蓋からピンク色の泡立った脳漿が零れていく。


 バートンの放った弾丸は、男の頭蓋骨の一部をえぐり飛ばしたのだ。


「状況終了だ。ずらかるぞ」


 手早く荷物をまとめて立ち上がるバートンに反し、ニコラスは前方の牽引機関車に足先を向けた。


「ウェッブ、どこへ行く?」


「こいつに働いてもらいます」


 そういって、ニコラスはぎこちない早足で機関車へ向かい、乗り込むと鍵が刺さったままの主幹制御器のレバーを前へ押し倒した。


 ガタンと音を立て、貨物列車が発車する。


 ニコラスはすぐさま飛び降り、バートンと共に線路脇の木々の中に身を隠した。


 突然の事態に凍り付いていた機関士たちは、勝手に走り始めた列車に我に返り、慌てて追いかけ始めた。

 それを見て、呆然としていた州警察もパトカーに乗り込んでいく。


「CSX8888号暴走の悪夢再来というわけか。悪童にますます磨きがかかったな、ウェッブ」


「……じきに空気ブレーキがかかって停まりますよ」


「そういうことにしておこう」


 喉奥で低く笑ったバートンは、線路脇の空き地に停められていた白のワゴン車に目を付けると、迷わず運転席の窓を銃床で叩き割り、ドアロックを解除した。

 そのまま何食わぬ顔で乗り込み、助手席を顎で指す。


 ニコラスは口端を引き下げた。


「車泥棒も立派な悪童では?」


「ヤンチャと言ってもらおう」

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