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 〈西暦2013年12月20日午前3時27分 アメリカ合衆国オハイオ州郊外〉


 漆黒の世界を前にして、瞬きをする。


 ニコラスは真夜中に乗るバスや電車が好きだ。

 誰かに運ばれながら、窓に映る景気の悪い顔つきの自分を、ただ眺めるだけの時間が。


 狙撃手となった今では、窓辺に身を晒すことへの抵抗感が高まり、落ち着くどころではなくなってしまったが、時おり無性に恋しくなる。


 抗う必要もなく、戦う必要もなく。

 運ばれるがまま、流されるまま、すべてに身を委ねることが許される。


 そんなこの時間と空間が、好きだった。


「随分と熱心に眺めるな。何か見えるのか」


 ニコラスはとっさにブラインドを引き下げた。


 ガキっぽいと言われても構わない。この男の言いなりに動くのが癪だった。


「いえ、何も」


「だろうな。この時期の早朝となればなおさらだ」


 彼の鉄道王、ジェームズ・J・ヒルはアメリカにおける旅客列車を『男の乳房』と表した。実用性もなければ飾りもないという、身も蓋もない論評である。


 だが実際、的を得ているのは確かで、広大すぎるこの国土では、列車より飛行機や車の方が便利なのだ。

 アメリカにおける列車の役割はもっぱら貨物輸送で人の輸送には適さない。進路先で貨物列車とかち合ったら貨物が優先される体たらくである。


 現在乗っているこのレイクショア・リミテッドもその例に漏れず、格安の座席コーチ車となれば快適さは二の次、三の次だ。


「同じアムトラックでも軍のより乗り心地はいいが……やはり車の方が良かったか」


 腹の上で手を組み、視線と共に投げかける言葉を、ニコラスは姿勢ごと拒絶する。

 そんなこちらに、男が苦笑する気配がした。


「そう警戒してくれるな。お前と私の仲だろう?」


「つい三日前、撃ち殺しかけた仲です」


「そして互いに殺し損ねた」


 そう言って、バートンは声音も変えずに笑った。

 片側の口端を少々吊り上げるだけの、皮肉気な薄ら笑いを精一杯の微笑みと知っているのは、訓練兵の中では自分ぐらいだろう。


 オズワルド・バートン退役大尉。


 元陸軍狙撃学校先任士官で、訓練兵からの渾名は『沈黙の鷹』。


 狙撃課程において、何百ヤード先の藪に隠れる兵士を肉眼で捉える驚異的な視力と、それを無言に指差して不合格にしていく様から、この名がついた。

 1000ヤード先の兵士を見つけたこともある。周辺の草木とギリースーツで完璧に偽装していたにもかかわらず、だ。


 狙撃の師であり、自分を軍隊へ引きずり込んだ張本人は、苦笑を深めた。


「『何か企んでいるのでは』と言いたげだな。安心しろ。教え子の遺族に頼まれてきただけだ」


「分かっています」


 ニコラスは無意識に、足の指先を丸めた。義足の方も丸まった辺り、まだ己の脳は失った左脚があると信じている。


「用件を済ませたら、すぐ特区へ戻ります。やることがありますから」


 元教官は「そうか」とだけ呟いて、再び目を閉じた。


 その呆気なさに肩透かしを食らう。かといって、ここで食ってかかっては、それこそ未熟を証明する気がして、結局黙りこくる。


 ニコラスは天井の白色灯を見上げた。




 17時間前――――。




「――い。お~い。大丈夫、ニコ。生きてる?」


 脈動に似た鈍い頭痛を堪え、目を瞬く。艶のある黒髪が白色灯で光って眩しい。


「……弾は」


「全弾命中よ。流石だね」


 ハウンドは揶揄するように両眉を吊り上げた。


 そんな彼女の賛辞に片手をあげて応える。胃液が食道を遡上しかかっており、下手に口を開きたくなかった。


 揺れる眼球と頭部を片手で支え、受け取った双眼鏡を覗けば、200メートル先でまばらに群れる数体の人型的が見えた。


 確かに当たってはいる。だが頭部や心臓部に命中しているのは、8体中の2体だけ。それ以外は逸れるか、ぎりぎり掠めているに過ぎない。


 これでは駄目だ。話にならない。


「……もう一度、撃ってくる――」


 と、立ち上がろうとした瞬間、胃液がせり上がってきた。


 あ、やばい。吐く。


 そう思った矢先、目の前にトンとバケツが置かれた。


 迷う間もなくニコラスはバケツに胃液をぶちまけた。通算4回目の嘔吐なせいか、胃液以外に吐くものがない。


「ほら、水分」


 差し出されたスポーツドリンクをなんとか一口あおる。瞬間喉元を逆流してくるが、無理矢理飲み下す。


 ようやく一息つけて、周囲を見渡してみる。


 ニコラスたちは瓦礫の岩山の麓にいた。近くには似たような7、8メートル級の山々が連なっており、その先にはそびえ立つ廃墟ビルが直立不動でそびえ立っている。


 『ハンコック・ブートキャンプ』


 総面積およそ540ヘクタール、旧デトロイトのミッドタウンがすっぽり収まる、27番地唯一にして最大級の野外訓練場である。

 ちなみに名の由来は昔ここにあったピザ屋から取ったものだ。


 水道管老朽化による地盤沈下で取り壊し予定だった公営住宅を、そのまま訓練所として再利用しており、ここ3年、27番地の再開発時に発生した土砂や瓦礫なども活用することで、廃棄物集積所の役割も果たしている。


 瓦礫の山は山岳戦、廃墟は市街戦、残った平地は射撃場兼訓練所というわけだ。

 そしてニコラスがひっくり返っていたのは、山岳戦ブースの射撃場である。


 半分空になったスポーツドリンクをぶらつかせて、ハウンドはしゃがんだ膝に頬杖をついた。


「落ち着いた?」


「なんとか」


「だからもう止めとけって言ったのに。マラソンに筋トレ、瓦礫登りに武装障害走もやって、組手練習までやるんだもん。しかも全部の合間に射撃訓練挟んで、ここまで一切休みなし。もう若くないんだから少しは調整しなよ」


「俺はまだおっさんじゃない」


「でも来年、30でしょ」


「40まではセーフだ」


「十分おっさんだと思うけどな~。んじゃせめて夜にケーキ焼く練習控えなよ。内緒にしてるっぽいから黙ってたけど、徹夜でケーキ焼いて訓練ぶっ倒れましたじゃ本末転倒でしょ」


 ニコラスは押し黙った。鼻のよいハウンドにはいずれバレると分かってはいたが。


「上手く膨らまないんだ。レシピ通りに作ってるはずなんだが」


「いいじゃん、どっしりケーキ。食べ応えあるし」


「お前、自分のクリスマスプレゼントがぺちゃんこでもいいのか」


「美味しければいいよ。ニコの作るもん大抵美味しいし」


「……もう少し練習する」


「んじゃ昼間の訓練メニューは半分だね」


「そうはいくか。前回のあの中国人双子、俺一人じゃまず勝てなかった。お前が命懸けで陽動してくれたからなんとか当てられたが、単独だったら撃つ前に確実に殺られてる」


「当ったり前だろ、向こうは近接戦特化の暗殺者だぞ。近接戦は近接戦で対抗すりゃいいんだよ。狙撃手はその隙に撃てばいい。実際、私いい囮だったっしょ?」


 ああ、本当にな。


 苦虫を噛み潰して、ニコラスはハウンドのガーゼで覆われた頬を睨んだ。

 出会ったばかりの幼かった頃の彼女の、痩せこけ黒ずんだ包帯まみれの姿が一瞬脳裏をよぎって、胸がキリリと痛む。


 前回の件で最も重傷だったのはハウンドだ。

 切創19か所、両手を含めた裂傷4か所、加えて十数発の散弾の摘出。擦過傷や挫傷も数えるとキリがない。しかも肋骨一本にひびまで入っている。


 自分の狙撃の囮役を担った、その代償がこれだ。納得など、できるものか。


「ともかく俺自身の持久力と耐久性をあげる。どんな負傷・疲労、どんだけ不利な状況に陥っても、必殺必中を目指す。狙撃手おれにだってそのぐらいの対応はできる」


「狙撃班メンバーを充実させた方が効率いいと思うけどな~。これでも狙撃手育成はやってんだよ? ニコレベルのはまだ無理でも、観測手ぐらいにはなるでしょ。三人編成スリーマンセルを複数用意して当たらせればいいじゃん」


「同時並行でいく。住民も俺も戦力アップなら願ったり叶ったりだ」


 ハウンドは肩をすくめて嘆息した。頑固者、とでも言いたいのだろう。


「ともかく、訓練の再開を――」


 短く息を吐いて全身を叱咤し、膝を立てて立ち上がり。


 固まった。


「……………やっぱもう少し休むわ。無駄に顔の良いミノムシが天井からぶら下がってる幻覚が見える」


「お、やっと気づいたか。安心しろ、ちゃんと現実だぞ」


 何も安心できない。


 床に戻ったニコラスは目元を揉んだ。


「んで? なんでセルゲイ・スミルノフが天井からぶら下がってんだ」


「今回の『家庭訪問』の戦利品」


「元いた場所に返してこい」


「え~」


「え~、じゃない。演習土産に爆弾持って帰ってくんな。一応コレでも幹部だぞ」


 数カ月に一回ハウンドは、27番地同盟家であるヴァレーリ・ロバーチ・ターチィ三家で行われる軍事演習に参加することがある。

 これをハウンドは『家庭訪問』と表している。


 ヴァレーリ一家現当主の協力があったとはいえ、ハウンドはかつてヴァレーリ前当主の暗殺に成功しており、個人的な戦闘能力はさることながら、その住民を兵士に仕立て上げる指揮力と教育力を三家より高く評価されている。


 ゆえに、時おり三家は自軍の弱点改善のため、ハウンドを仮想敵レッドチーム役に依頼して招くことがある……のだが、正直幹部をお持ち帰りするのは想定外である。


 一方、持ち帰った本人はというと、仕留めた獲物を飼い主に見せびらかしに来る犬猫のようなご満悦顔で、ニコラスは頭が痛い。


「てかアレ、白目剥いてないか」


「泡も吹いてるね~」


 ロープで簀巻きにされてぶら下がるセルゲイはあられもない姿で失神している。逆吊りにされないだけマシではあるが、せっかくの銀髪美青年が形無しである。


 確かにセルゲイとは少々因縁のある間柄ではあるが、ここまでくると気の毒になっている。


「で、危険を冒してまで幹部をお持ち帰りした言い訳は?」


「人聞きの悪いこと言うなよ。別に持って帰るつもりはなかったのよ? こいつが訓練サボって自室にひきこもってエロゲやってたからさ」


「何やってんだコイツ」


「ちょうどいいやと思って、とっ捕まえて人質にしたまではよかったんだけど、ロバーチって人質ごと撃ってくるからあんま意味なくてさ」


「とんでもねえ連中だな」


「マフィアだからね。んで、役に立たないからひとまず車のトランクに突っ込んだんだけど」


「返すの忘れてそのまま連れ帰った?」


「……てへっ」


 頭に拳を当て舌を出すハウンドに、ニコラスは白い目を向けた。


 可愛いことすりゃなんでも許されると思うなよ。


「よくロバーチの連中が許したな」


「セルゲイ訓練サボりの常習犯だからね~。縛り上げてたら向こうで構成員が歓声あげてたぞ。帰り際にキャビアとイクラ・ミンターヤ (たらこの缶詰)くれた」


 餌付けされてんじゃねえか。


「……当主は」


「あいつなら素手喧嘩ステゴロ式のタイマン勝負やってやったら、すげ~満足げな顔で執務室に戻ってった。引き分けだったのがちと腹立たしいけど」


 そう言って舌打ちするハウンドに、ニコラスは憮然と立ち尽くす。


 味方にあっさり切られたセルゲイを憐れめばよいのか、ロバーチのフリーダムっぷりに呆れればよいのか、はたまた怪我も治りきってないのに元GRU特殊部隊の大男と素手喧嘩やってきたハウンドに説教すればよいのか。

 こういう時どういう顔をすればよいのか分からない。


 というか、部下ほっぽいて素手喧嘩やってる当主も当主だ。本当に何をやっているのか。


「…………ひとまずコレ降ろすぞ。死なれると面倒だし、縄解いてほっときゃ勝手に巣へ帰るだろ」


「そうだな。セルゲイだし」


 ニコラスはロープを解いてセルゲイを降ろしてやった。


 直後、背後から「おーい」と声をかけられた。


「ハウンド、近接格闘訓練おわったぞ」


「おう。指導お疲れ様、ケータ」


 ハウンドの返答に、ケータは視線を右、左と彷徨わせた。その目下には濃い隈がこさえられており、白道着から覗く胸元はあばらが浮いている。髪が乱れているのも、格闘訓練のせいだけではあるまい。


「30分休憩挟んで市街戦エリアに移動するから、もう帰ってもいいぞ。報酬は週終わりにまとめて渡すから」


「あ、うん。そっか。じゃあ、見学していってもいいか」


「いいよ~。あ、ケータ。ストレス発散がてら人間サンドバッグいる?」


「うん……ん? サンドバッグ? って、うお。車泥棒がぶら下がってる。え、なんで?」


 至極真っ当な反応をしたケータに、ニコラスはハウンドを指差した。それだけで察したらしく、ケータは「あー……」と口ごもった。


「事情よく分かんねえけどひとまず降ろしてやろうよ。この氷点下のなか吊るし続けてたら凍死しちゃうよ」


「愛車盗まれたのにいいの?」


「こないだとっちめてやったから、もういいよ」


 そう言ってセルゲイを降ろすのを手伝ってくれたケータは、セルゲイのロープを解いて身体を揉んでやった。血行をよくするためだ。


 愛車を盗み、丹精込めて攻略したゲームのデータを勝手に消去して売り払った相手にここまでしてやるあたり、やはりケータはお人好しだ。


 一方のニコラスは、丁寧に扱う気は毛頭ない。


「おい、起きろ」


 セルゲイの頬を往復ビンタする。セルゲイはしょぼしょぼと目を瞬かせ。


「……うう……俺ちゃんが悪かったって……もう訓練サボったりしないから……」


「そうだな。それが賢明だ」


「……ん、んんん? あれ、番犬ちゃんじゃん。なんでこんなとこいんの?」


「お前が訓練サボったせいだな。おら、とっとと巣に帰れ」


「言われなくても帰りますよ……。んあ?」


 背後を振り返り、ケータと目を合わせた瞬間、セルゲイはびしりと硬直した。ケータは「ん?」と小首を捻る。


 セルゲイは盛大に悲鳴を上げた。


「誰かと思えばイカレ日本人ヤポンスキーのチビ特警じゃねえか! 助けてくれ! 殺人ペンギンにサシミにされるぅううっ!!」


 途端、ケータの表情が無になった。普段ニコニコしているぶん、急に無表情になった時の落差が恐ろしい。


 そんなケータは近くにあったバケツに雪を詰めると。


「ぎゃああああああああ! 冷てえっ!!」


「うるせえ、人が親切にしてやりゃあいい気になりやがってっ。氷はった湖で寒中水泳する民族が、背中に雪詰められたぐらいでガタガタ騒ぐな! どうせ俺はチビで胴・長・短・足だよっ!」


「ペンギン可愛いじゃんいいだろ!?」


「ああ!? 童顔だって言いたいのかっ!」


「被害妄想っ!」


 這って逃げるセルゲイを、第二陣の雪満載バケツを手にケータが追いかけていく。

 先ほどニコラスが吐いたゲロ入りのバケツではなく、綺麗なバケツを使ってあげるあたり優しいとは思う。


「……ちょっとだけ元気になったな」


「きっかけが五大マフィアってのがまた皮肉だけどね」


 ニコラスはケータの首に巻かれた包帯を眺めながら、目を細めた。


 つい数日前まで、ケータは合衆国安全保障局USSAの内通者として活動を強制されていた。

 祖父を人質に取られたためである。


 聞けば、彼の上司もUSSAのグルで、彼の祖父を監禁した張本人だったという。


 首元に埋め込まれていた『首輪』の小型発信機は外科手術を経て無事取り除かれた。

 けれど、ケータの今回の件へのショックは大きく、仕事は実質クビ。祖父ことマクナイト老人も未だ人質のままだ。


 そこにマクナイト老人の余命僅かであることを知らされて、より拍車をかけていた。


 当初、27番地住民は街からの追放処分を望んでいた。

 汚職が日常茶飯事の特警の中でも真面目で不正を一切しないケータを信頼していただけに、その失望と怒りは大きかった。


 けれど、その境遇を知った今は、大半の住民がケータに同情的だ。統治者たるハウンドがケータを庇護したことも大きかったのだろう。


 けれど、もとより責任感の強いケータの罪悪感が晴れることはなく、日に日に憔悴してきていたので、ニコラスをはじめ皆が心配していたのだ。


 ……が、この氷点下の寒空の下、薄着の道着に裸足でセルゲイを追い回しているあたり、まあ大丈夫だろう。たぶん。

 セルゲイはどうでもいい。


「元気になったのはいいけど、これからどうすっかね~」


 腕を組んで独り言つ上司に、ニコラスは素早く目を走らせる。いかにも「途方に暮れています」といった表情だが、目だけ獲物を捕捉した肉食獣のそれだ。


 十中八九、気付いているのだろう。

 ケータと彼の祖父を、こんな目に合わせたのは元凶を。


――USSAか、はたまた『双頭の雄鹿』か。


 9.11直後に設立された対テロ戦を専門とする諜報機関『USSA』、その子飼いの極秘準軍事組織『双頭の雄鹿』は、ハウンドを最重要排除対象として付け狙っている。


 その目的はハウンドが隠し持つ『手帳』だ。


 そしてそれは、五大マフィアとて同様である。


 特区は今、ハウンドが持つ『手帳』を巡って静かな争奪戦が勃発している。

 皆が『手帳』に記された『失われたリスト』を欲している。


 かつて国連が主導した史上最悪の汚職、バグダットスキャンダルに関与した世界各国の要人の名が連なる『失われたリスト』を手に入れれば、影から世界を支配することも夢ではないという。


 そんなどデカい陰謀に巻き込まれてしまったのが、ケータと彼の祖父だ。

 望んで『手帳』争奪戦に身を投じた自分とは違う。


――こんな時にもハウンドと危機を共有できないのが痛いな。


 鋭利な眼光を飛ばすハウンドに、ニコラスは両拳をそっと握る。



 ――『くれぐれも自分が正体を知っているという事を、ヘルハウンドに覚られんようにな。あの子は自身の過去などを詮索されるのを酷く嫌う。もしバレれば君の前から姿を消してしまうやもしれん。』――



 主治医アンドレイの忠告が、耳元に蘇る。この言葉が最大の障害だった。


 助手という立場に身を置いてはいるが、ハウンドは五大マフィアに比肩する『六番目の統治者』の異名を持つ、この街の支配者だ。

 仮に彼女が自分に「でていけ」と命じた場合、自分はそれを拒む術はない。


――そもそもコイツ、本当に俺が探っていることに気付いてないんだろうか。


 ニコラスは地面に目を落とし、両手を組んだ。


 ハウンドは恐ろしいほど勘がいい。並外れた嗅覚で、相手の体臭から感情を読み取ってしまうほどだ。


 ポーカーフェイスは得意ではあるが、ハウンド相手に隠し通せるほど、ニコラスは器用ではない。まったく気づいていないということはないだろう。間違いなく。


 だがもしそうだとして、ハウンドはなぜ自分に何も言ってこないのだろうか。


 そもそも詮索されるのが嫌なら、なぜ手がかりとなり得る例の『絵本』を自分に託したのだろうか。


――よそう。これ以上は。


 ニコラスは思考を強制停止した。


 彼女が気付いていようといなかろうと、自分はやるべきことをやるだけだ。また街を追い出されかけては堪らない。


 俺がハウンドを救うのだ。

 それが自分を救ってくれた彼女への、せめてもの恩返しだ。


「マクナイト爺さんの奪還作戦はもう立案済みなんだろ? いつ実行する?」


「う~ん……ま。何とかするさ」


「何とかって。いつ敵が人質に手を出すか分からないんだぞ。早く奪還しないと」


「大丈夫だって。ちゃんともう手は打ってあるよ。何とかするさ。ケータとマクナイト爺さんには何かと世話になってるからな」


 そういって立ち上がったハウンドは、尻の砂を払い落して移動する住民らを追っていった。

 ニコラスは小さく白い溜息を吐いた。


 ハウンドの説明不足は今に始まったことではないが、つくづく自分に腹芸は向いていない。知らぬ存ぜぬを通すのも、楽ではない。


 さて。


 再び片膝を立てて立ち上がり、――あまりの激痛に断念する。


 カーゴパンツ裾をまくってみれば、骨直結型義足の接合端子に、血が滲んでいる。


 やっちまった。

 ニコラスは立ち上がるのを諦め、その場にへたり込んだ。


 設計者であり施術者でもあるアンドレイから口が酸っぱくなるほど忠告されたが、この骨直結型義足は元来、激しい運動に適した義足ではない。


 骨に接する接合端子を覆う人工生体骨と、計4つのアダプターと電子制御膝継手で、なんとか運動性能を維持しているが、これまでのと今回の無茶がそれを超えてしまったらしい。


 いくら義足を新しいものに変えても、こうなってしまってはどうしようもない。あと数週間は動けないだろう。下手をするとまた手術する羽目になる。


――焦ってるな。


 ニコラスは乱雑に前髪をかき上げた。


 仕方がない。今後は伏射狙撃訓練をメインにスケジュールを組んでいこう。


 そんな時、ニコラスの背後からやや低いクラクションが背を小突いた。


 振り返って、ニコラスは目を丸くした。


 紅いジープ・ラングラーだ。北方のこちらでは珍しくない車種だが、問題はその足元。タイヤにチェーンがついている。


 アメリカでは基本、タイヤはオールシーズンでスタッドレスやチェーンはあまり使われない。ニューヨークに至ってはチェーン装着禁止だ。


 そんな変わった装備の車の運転席が開いた。


「アレサ・レディング?」


「ハイ、ニコラス。連続爆破事件 (5節参照)の時は世話になったわね」


 寒風でかき上げられた黒髪をマフラー代わりに首へ巻き付けたアレサは、両手をダウンジャケットのポケットに突っ込みながら身を震わせた。


「ミシガンはやっぱ寒いわね。州内ならまだしも、特区じゃ除雪もまともにしてないし。スタッドレスとチェーンなんか使ったの、真冬のロッキーを山越えした時以来よ」


「どうしてここに?」


「バイトのお使いよ。それとジャック (5・6節参照)たちの様子見。あの子、上手くやってる?」


「あそこでダチと伸びてるぞ。マラソンだけは何とかやり遂げたみたいだな」


 こちらの肩越しに覗き込んだアレサは、射撃訓練場兼訓練場で力尽きて倒れる少年二人を見た。

 蒸気機関車よろしく白い息をぜーぜー吐きながら、大の字で伸びている。


 アレサは微笑み、ニコラスもつられて笑った。

『強くなりたい』と訓練に参加した意気込みは、口先だけではなかったようだ。


「頑張ってるみたいね。今月一番の良いニュースだわ」


「奴らなりにな。――それで、バイトって?」


「ああ。それね。私、今ここで働いてるのよ」


「うちで?」


「ええ。ミチピシ領うちの都市開発を国が本格的に始めたの、知ってるでしょ?」


「ああ」


 五大マフィアからまだ離脱はしていないものの、アレサの所属するミチピシ一家ことネイティブアメリカン・ギャングは五大マフィアの座を退き、堅気としてアメリカにつくことを選んだ。


 それは服従という形ではなく、自領の保有権を維持したまま、政府との交渉のすえ勝ち取ったものだった。

 いずれミチピシ領は特区から除外され、新たな先住民系コミュニティとして合衆国に根を下ろすのだろう。


「お金出してくれるのはいいんだけど、国が介入するってなると確実に法的な取り締まりが厳しくなるでしょ? 私には自前のカーショップがあるからまだいいけど、領内には違法業で食わざるを得ない人間がたくさんいる。だから他領で出稼ぎできるとこがないか、視察にきてるのよ。バイトはそのついで」


「27番地に来るのか?」


「現状ベストな選択肢でしょう。うちは不法移民が少なくない。特区外での就職は絶望的だわ。27番地は特区で唯一の中立地帯だし、近頃人口も急増してる。一大市場よ。今ミチピシ当主おじいちゃんがあなたのとこの上司と話を詰めてるわ。一気に流入して27番地そっちの労働市場圧迫してもまずいから、段階的にやってくつもり」


「いいのか? 稼ぎが少なくなるぞ」


「いいのよ。ドラッグから卒業するいい機会だわ。いずれ裏社会から足を洗わないといけないと思ってたし、お爺ちゃんもはじめからそのつもりで一家を組織してた。国と仲良くやっていくなら、表向きだけでもいい子にしてなくっちゃね」


 サバサバした口調と裏腹に、アレサの目は野心で輝いている。つい数ヶ月前まで一家内の不和に頭を抱えていたとは思えない見違えぶりだ。


「んじゃ今どこでバイトしてるんだ?」


「アンドレイ医院よ。看護の勉強をしておきたくて。――なによ、何か問題でも?」


「いや」


 ニコラスは眼球を時計回りにぐるりと回した。


 マズい。ただでさえ前回の戦闘で義足を壊してアンドレイを激怒させたばかりだ。

 この上、義足接合端子にずれが生じつつあるなど知られたら、確実にただでは済まない。


「何かやましいことがあるみたいだけど、先生の用件はあなたの上司よ」


「ハウンドに?」


「ええ。至急ね。彼女、再診に来てないのよ。最近、大怪我したって話じゃない。なのに彼女ったら最初の応急処置だけしてもらって、その後ぜんぜん来てないのよ。先生もすごく心配してて」


 あの馬鹿。


 眉間を押さえるこちらに、アレサは苦笑した。


「あなたも存外苦労性よね」


「……あとで捕獲して連れてくっていっておいてくれ」


「お願いね。あ、そうそう。これ」


 アレサはバッグから、赤い包装に緑のリボンが巻かれた小包を差し出した。リボンの間に小さな手紙も挟まっている。


 ニコラスはきょとんとした。


「なんだこれ」


「苦労性の助手さんへの贈り物よ。患者さんの一人がね、私と先生の話を聞いてたみたいで、あなたに渡してくれって」


「俺に? うちの奴か?」


「ええ、以前あなたに助けてもらったんですって。そのお礼だそうよ。早めのクリスマスプレゼントね」


 良かったわねと微笑まれて、ニコラスは髪を掻き混ぜた。

 心覚えはないが、せっかくの好意だ。断る理由はない。


「アレサ、このプレゼントの送り主は?」


「んー、確かホークアイって人よ。うちの新患で、トラックの運転手やってるとか。んじゃ、私もう行くわね。ギャレットたちに誘われてて――」


 と、その時。アレサの背後をけたたましいクラクションが小突く。


 振り返って路上にたむろするバイク集団の、その中央でバイクにもたれニヤつく黒人の大男を見るなり、アレサは溜息をついた。


「うちの元メンバーがごめんなさいね。騒がしいでしょ」


「暴走族にしちゃ節度のある連中さ。それに、ギャレットはなりはああだが、話の分かる奴だ」


「元副官をそう評価してもらえて嬉しいわ」


「じゃあ伝えたわよ」と手を振った元『まだら鷲』リーダー、アレサは、渋い表情と裏腹に軽やかな足取りで車に迎えに行った。


 バイトに来たというのも、27番地に移住した元仲間とジャックの様子を見るついでなのかもしれない。


 残されたニコラスは、包装紙の間に挟まっていた封筒を手に取った。

 ひっくり返すが、宛名はない。


 便箋を開いて、ニコラスは眉をしかめた。



 AM3時、トレード駅



 なんだこれ。

 ニコラスは首を捻った。


 小包を振ってみる。カラカラと軽い音がする。


 木か金属か。緩衝材は入っていないらしい。爆発物、という線はないだろうか。


 包装を慎重に開く。箱を開けると、ごみ箱に放るような紙つぶてが一つ、無造作に入っていた。音の正体だ。


 紙つぶてを開くなり、ニコラスは凍り付いた。

 呼吸自体、止まっていた。


 細かな傷がびっしりついた銀のチタンプレート。

 そこに、よく知る者の名が刻まれていた。



 フレッド・モーガン



 なんで。

 亡き親友の認識票を握りしめながら、ニコラスは立っていなくてよかったと思った。立っていたら、確実にへたり込んでいた。


「ニコ~、ニコも訓練見学する……お、やっと休む気になったか」


 座り込むこちらに「感心、感心」と頷きながらやってくるハウンドを前にして、ニコラスは碌な反応ができない。


 固まるこちらを訝しんだのか、ハウンドは手元を覗き込んだ。


「ありゃ? それニコの親友のタグじゃん。ご遺族から?」


「ああ、いや」


 口ごもるこちらをよそに、ハウンドはじっと見つめた後「ははん」としたり顔で顎に手を当てた。


「なるほど、なるほど。さてはクリスマスのお誘いだな?」


「は」


「幼馴染って言ってたもんね。隣に住んでたんだっけ? よかったじゃん」


 ニコラスは呆気にとられた。そして不意に気付き、血の気が引いた。


 笑うハウンドの目に、一切の光がない。

 以前、自分を国外へ逃がそうと、街から追い出しかけた時と、同じ笑みだった。


「偽名使ってまでずっとお金送ってたもんね~。行っておいで。仲直りできるチャンスだよ」


「いや、ハウンド俺は――」


「往生際が悪いな~。よしっ、統治者命令! クリスマスぐらい特区の外で大事な人と過ごしてきなさい。いいね?」


 切り札を切られてしまった。


 なすすべもなく自失茫然に見上げるこちらに、ハウンドはにっこり微笑んだ。

 いつものように、嘘くさい、貼り付けたような笑顔で。


「ニコ、ずっと謝りたいって悩んでたでしょ。行っておいで。あとのことは全部やっておくからさ」


 返す言葉は、なかった。




 ***




「……なぜモーガン三等軍曹のタグをあなたが? アレは遺族に渡したはずです」


「言っただろう。モーガンの遺族は彼の遺品の一部の受け取りを拒否している。親友だったお前が受け取るべきものだとな。だがこの2年間、帰国したはずのお前と連絡が取れなかった。だから息子のタグを持ち出してきた。タグを私に渡したのは、ミセス・モーガン、モーガンの母親だ。これさえあれば、お前は必ずやってくる、とな。だから特区に出入りしている人間に頼んで、お前に渡してもらった」


 余計な真似をしやがって。


 苦虫を噛み潰し、ニコラスは掌の認識票に目を落とす。


 6年前、フレッドの最期を告げに入った時、彼の母親はこれを握りしめて泣き崩れた。

 自分を息子のように可愛がってくれた女性の、その姿を、ニコラスは黙って見ることしかできなかった。


 悩みの種は、それだけではない。


――そんなに俺が嫌か、ハウンド。


 見送ったハウンドの笑顔に苛立ちを必死に堪える。


 自分を思ってのこととは分かっている。恩人を恨みたくはない。

 けれど自分を逃がす口実に、親友の遺族をダシにされたのは、許せなかった。


「これからも特区に残る気か、ウェッブ」


 ニコラスは俯いたまま睨み上げた。


「それは、特区から出ろ、という忠告ですか」


「それが普通の反応だろう。不眠症にアルコール使用障害、PTSDまで患った片足の傷痍軍人が住めるほど、特区は生易しい街ではあるまい」


「ですがこうして今生きています。俺の説得が目的なら今ここで降ります」


「まあ待て、ウェッブ。そう急くな」


 腕を掴まれ、座席に戻ったニコラスは憤然と腕を組んだ。


「……あなたがフレッドの遺品を餌にしなけりゃ、俺はここに来ることはなかった。本当なら一歩も特区を出たくない。あそこには俺を待っている人がいるんです。一体なにが目的です? フレッドの遺族まで唆して、何を企んでる?」


「散々な言われようだ。だが私の目的が、モーガンの遺族に頼まれただけではないというのも、事実だ」


 やはり。

 ニコラスは目をますます鋭くした。


 いざとなれば力づくも辞さない。せめてイブまでに何とか戻らないと。ハウンドのクリスマスプレゼントのチョコレートケーキを焼く約束があるのだ。


 ハウンドがどれだけ妨害しようと、絶対に戻ってやる。

 救うと誓ったのだから。


「大事なものができたか、ウェッブ」


 ニコラスは眼光に殺気を込めた。バートンは苦笑して、両手をあげた。


「そう睨むな。取り上げたりせん。少なくとも私からはな。ただ……そうだな。お前は賢い。ゆえに、説得せずとも説明すれば自ずと選択するだろう」


「……何をです」


「私がお前に会いに来た目的だ」


 そう言って、バートンはこちらを見やった。


 ニコラスは面食らった。

 あの冷血漢の教官が、今にも泣きそうな顔をしているのが、信じられなかった。


「お前にあのは救えん。その話をしに来た」

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