プロローグ

〈西暦2010年12月25日午後3時27分 アメリカ合衆国 メリーランド州モンゴメリー郡南部 タコマ・パーク〉


 漂白された世界を前にして、クラレンス・ワイアットは瞬きした。


 瞼の下で幾多の星が明滅する。何度か瞬きすると、星はようやく消えた。


 白い濁流に飲み込まれたような猛吹雪だ。

 幾重の大小の竜巻が上下左右、滅茶苦茶に渦巻いては消え、また新たな渦が渦巻いては白に溶けていく。


 風音は野獣の唸り声そのもので、地上に存在するすべての生物を凍てつかせようと牙をむいている。

 夏は蒸し暑く、冬はクソ寒いことで知られるワシントンだが、今年は特に酷い。


 せっかくのクリスマスだってのに。


「ねえパパ、これサンタさん来れるの?」


 めいっぱい背伸びして窓枠にしがみつく愛娘を、ワイアットはやんわり押し留めた。


 この吹雪なら、大丈夫だとは思うが。


 ワイアットはカーテン裾の角にある膨らみをいじりながら答えた。


「問題ないさ。サンタには不思議なパワーがあるんだ。こう、指を鳴らすとな、吹雪がさあっと晴れるんだぞ」


「ほんと? サンタさんもこのウサギさんと同じ、エルダーのつえ、もってるの?」


 娘は抱えていたぬいぐるみが握る杖を、腕ごと握って振った。


 子供の玩具にしては精巧な彫り物のある木製の、杖先に金の輪がはめ込まれた、女児が目の色を変えて飛びつきそうなファンタジックな杖だ。


 ワイアットは笑った。


「ああ、そうとも。サンタは魔法使いなのさ。さあ、ママのところへ行っておいで。今なら焼き立てクッキーをつまみ食いできるぞ」


「つまみ食いなんてしないわ。あたし、いい子だもん」


 つんと鼻を逸らし、おすまし顔で台所へ駆けていく背に苦笑する。


 やれやれ。女の子は成長が早いというが、5歳にしてこれとは。この調子だと「パパ嫌い」の最終兵器投下も近いだろう。


 ワイアットは嘆息した。

 そしてカーテン裾の織目に入れていたSDカードを取り出す。


 今回必要な大事な鍵だ。

 普段はここに隠してある。使うのは6年ぶりだろうか。


 カーテンを閉める。

 途端、白い世界を黒が飲み込んだ。


 闇に閉ざされた自室で、唯一光を放つデスクトップ画面に向き直る。


 SDカードを差し込む。

 タスクバーから特殊アプリを起動し、SDカード内の80桁からなる数字、記号、アルファベットの羅列――パスコードをコピー・アンド・ペーストして秘匿回線に接続する。


 24時間おきに自動的に破棄され新設されるアカウントのフォルダを開けば、今朝がた送信した確認の返信が来ていた。


 やはり内容に変わりなかった。当初送られてきた通り、事が進むということだ。


 ワイアットは溜息をついた。


 ワイアットの仕事は少々特殊だ。


 職場は自宅から車で20分の市街地にあるオフィスビル、12階一画の1LDKのワンルームが自分のデスクだ。


 同僚はいない。

 実際にはちゃんといるのだが、会ったことがない。


 仕事に関するものはすべて門外不出。情報取り扱いの際は、ネット切断を徹底して叩き込まれる。電子機器類の私物持ち込み等も言語道断だ。


 そのうえ五指の静脈、網膜認証をパスして、15桁のパスワードを入力して、ようやく入社できる。


 そして監視カメラが6台設置された4メートル四方の密室で、ひたすら業務に従事する。


 それが合衆国安全保障局USSA、情報部局員の日常だ。


 今どきの諜報員は拳銃片手に高級車を乗り回したりしないし、シェイクしたマティーニを傾けながらパーティーに潜入したりしない。

 ひたすらデスク画面に向き合い、日がな一日、本部から送り付けられるデータを分析し、レポートにまとめて提出する。


 それが、ワイアットの仕事であり、重大な任務だ。

 といっても、そうと知っていたら死ぬ気で苦労してまで入局などしなかったが。


 だが所帯を持ちながら働く身としては悪くない。


 非日常に憧れはあるが、振り回されたいわけではない。

 そんな、なあなあのラインを生きたいワイアットのような人間には、変わりばえのない部屋で毎日データと睨めっこするこの仕事が、性に合っている。


 とはいえ。


「よりによってクリスマスに入ったかぁ」


 引き抜いたSDカードをいじりながら、ワイアットは深く溜息をつく。


 自宅にいるにもかかわらず、今朝からスパイよろしく神経を尖らせてる原因だった。


 任務緊急度トリアージは最高レベルの『黒』、内容は“物的証拠アイテム”の保管と移送。


 この手の業務には、時おりこういうものがある。

 極めて重要性が高いがゆえ、一か所に保管するには危険すぎるブツを、定期的に各局員の“職場”を転々とさせて隠蔽するのだ。


 そしてUSSA情報部では、特定の拠点を持たない。

 一つの『指示役』と多数の『実行役』が各自単独で任務にあたっている。


 ワイアットが同僚を見たことがないのもこのせいだ。必要がないのである。

 拠点など設けてしまえば、そこに機密情報があると言っているようなものだ。


 ゆえにUSSA情報部では拠点を無数に設け、各拠点に情報部直轄のメインNASネットワーク・ハードディスクへのホットラインを敷いている。

 有事の際には局員へ秘匿回線でIDとパスワードが送信され、そこにアクセスすることで、局員の拠点が情報部のメインフレームへと化ける。


 今持っているSDカードがそれだ。80桁からなる秘匿回線接続用のパスコードが入っている。


 いわば、ワイアットのあのワンルームはUSSA情報部そのものであり、いつでも切り離し可能な数多ある予備の一つなのだ。


 そして今回、ワイアットにお鉢が回ってきたというわけだ。


 片手で顔を拭って、ワイアットはメールに添付された報告書をクリックした。

 開封後、5分で自動消去されるプログラムが組み込まれたデジタル機密文書だ。


 急いで文書に目を走らせる。


――こりゃ……手帳、か?


 ワイアットは画像に眉をしかめた。


 それは、二冊の手帳だった。


 ダブルステッチの黒の牛革張りで、玉紐の留め具にはくすみのある金のボタンがついている。

 ウォール街に繰り出したばかりの新米ビジネスマンが初任給で買いそうな手帳だが、画像に映る二冊は実に対照的だった。


 新品と旧品。

 いや、旧品というのもはばかられる。革は擦り切れ、焼け焦げて、ところどころに土がこびりついている。


 まるで火事の焼け跡から発掘してきたような手帳だ。

 メッキの溶けた金ボタンの模様から辛うじて同じ手帳と分かったが、単体で見たらまず気付けまい。


 ページの画像はない。

 見るには例のワンルームオフィスに出向き、情報部専用デスクトップから秘匿回線にアクセスして、電子データを受信するしかない。


 そういう規定だ。ここの民間PCではアクセスできない。


――なんだこれ。


 しばし首を捻って、ワイアットは割り切ることにした。


 分からないことを考えても仕方がない。そもそもこのレベルの物的証拠だ。

 ワイアットのような端局員に詳細が知らされるわけでもなし、首を突っ込んだところで碌なことにならないのは分かり切っている。


 自分は何も見ていないし、何も知らない。それでいいのだ。


 直後、メール画面が強制的に閉じた。自動消去が始まったのだ。


 ワイアットは背もたれに全身を預け、この猛吹雪の中、職場に出向かなければならない現実に暗鬱な気分になった。

 まったく。娘にはなんと言い訳したらよいのやら。


 そう考えた矢先、画面が消えた。


 自動消去ではない。ブレーカーが落ちたのだ。


 ワイアットは舌打ちして立ち上がった。


 今年のクリスマスはとことんツイてない。

 居間に暖炉があるとはいえ、この天候で暖房なしは非常にまずい。


 完全に闇に閉ざされた自室で、ワイアットはスマートフォンを取り出した。その灯りを頼りにドアノブをまさぐった。


 自室を出ると、薄暗い廊下が広がっていた。

 まるでこの家だけに闇夜の帳が降りてきたようだ。


 気味が悪いな、と思いつつ階段まで歩いて、違和感に気付いた。


 娘と妻の声がしない。


「ミリーゼ? アマンダ!」


 娘と妻の名を呼ぶ。


 返答はない。

 悲鳴も不平もなく、ただただ沈黙が満ちている。


 ワイアットは慎重に階段を降りた。

 忍び足で廊下を抜け、ダイニングからキッチンに入る。


 電気の落ちたオーブントースターが無意味にタイマーを刻んでいる。

 つけっぱなしのホーロー鍋の火を頼りに見渡すも、妻と娘の姿は見当たらない。


「どうなってんだ」


 そう呟いた、刹那。鋭く空を切る音が聞こえた。


 ワイアットはその場で硬直した。


 しばし耳を澄ませ、キッチンの上の棚からグロック17自動拳銃を取り出す。

 背が届かなくて妻がほとんど使わない棚だ。


 セーフアクションのグロック17は引金を引くだけで安全装置が解除される。秘密作戦部DDOの連中ほどではないが、これでもUSSA局員だ。毎日点検はしてある。


 床に張り付いた足をゆっくり引きはがす。抜き足差し足でリビングに向かう。


 白いレースのカーテンが、呼吸する巨大な白い生物の腹のように、膨らんでは縮んでを繰り返している。

 吹雪の人工呼吸で漏れ出た空気は、粉雪や冷気としてカーテン裾の隙間から入りこんでいて、空を切る音の正体はそれだった。


 なぜ窓が開いているのか――。


 コン、という軽い物音。


 すぐさまワイアットは背後に拳銃を向けた。が、すぐに下ろす。


 杖だ。

 娘お気に入りのウサギのぬいぐるみが持っている、金の輪がはめられた小さな木の杖が転がっている。


「脅かしやがって……」


 悪態をつきながら脱力する。

 そして杖を拾おうと手を伸ばし、ふと、その先にあるものが視界に入った。


――なんだ……?


 そこは、本来シングルソファーがあるところだった。


 濃紺ベルベットのフレンチスタイル。妻が一目ぼれして買ったものだが、それがない。

 あるのは塗り潰されたような暗闇だけだ。


――おかしいな、模様替えなんてしたか……?


 首を捻って、瞬間。戦慄した。


 ソファーはなくなったのではない。

 そこに座っている奴の影で、見えなくなっただけ。


 グロック17を構え、引き金を引き切る。

 初弾が薬室に送りこまれ、安全装置が解除、撃針が作動して撃発する。


 1秒とかからぬ動作だった。距離だって2メートルもなかった。


 だが外れた。発砲の直前、人影が拳銃を掴んで逸らしたのだ。


 肘裏に灼熱が走った。頬に温かいものがかかり、次いで脇と膝裏に激痛が走る。


 ワイアットはたまらず床に倒れ込んだ。


 拳銃が床を滑っていく。頬を流れたものが口に入って、そこで初めて血だと分かった。


 DDOの連中が自慢しているのを聞いたことがある。

 拳銃は抜いてから引金を引くという二動作が必要だが、ナイフなら一動作で事足りる、と。


 ワイアットはそれを身をもって知ることになった。


「何者だ!?」


 脇を閉め、肘を圧迫止血しながらワイアットは人影を睨んだ。


 思ったより小さい。爪先からてっぺんまで黒づくめの真っ黒人間だ。


 風に押し負けて、カーテンが翻った。


 一瞬さした光が真っ黒人間の横顔を照らし、ワイアットは愕然とした。


 子供だ。


 性別は分からない。感情の削げ落ちた無の顔と、燃え上がるようなエメラルドグリーンの瞳が、ワイアットの目に焼き付いた。


「20秒」


 真っ黒な子供は、おもむろにそう呟いた。


「同フロアの人間と比較して、終業時刻からビルを出るまで、お前だけ平均20秒長くかかっている。階段、エレベーターからさほど離れていないオフィスにも関わらず、だ。職業はフリーの弁理士。なのに依頼人がオフィスを訪れたことは一度もない」


「……リモート推奨でね。近頃流行りだろ」


 そう返しつつ、ワイアットは焦っていた。


 まずい。この子供、自分の素性を知っている。


 知っていたから、ずっと見張っていたのだ。自分が民間PCから秘匿回線にアクセスする、その瞬間を。


「『手帳』はどこだ」


 機密文書内容をピンポイントで尋ねる子供に、ワイアットは血で濡れた唇を舐めた。


「妻と娘を返せ。二人の無事が確認できるまで、なにも喋る気はない」


 すると子供は、不思議そうにこてんと首を傾げた。


 そのあまりにあどけない仕草と、左手に握られた血垂れのナイフが酷くアンバランスで、ぞっとする。

 手練れの兵士並みの技量を見た直後だと、なおさらだった。


 子供はおもむろに、右手で床を指した。


「一人、もう返した」


 その指先を辿った先には、例の木の杖があった。


「馬鹿にしているのか……! 娘はどこだ、妻は!?」


 ワイアットは怒鳴りつけた。けれど、子供は指差す手を下げない。仕方なくもう一度杖を見返して、ワイアットは絶望した。


 杖なんかじゃない。これは、妻の薬指。


 ワイアットは絶叫した。


 唯一残った左手で拳銃を掴み、差し違える覚悟で銃口を向け。

 不意に、視界が傾いた。


「え」


 視界は90度を超えさらに傾き、そのままぐるりと回転していく。ワイアットは困惑した。

 なにが起こったか分からぬまま視界はテンと跳ね、一回転して止まった。


「お前が不真面目な局員で助かった。通常、局員はパスコードをSDカードに入れて保管したりなんかしないからな」


 そう言って、子供は自分の胸ポケットからSDカードを取り上げた。


 ワイアットは混乱した。自分の胸がどうして見えるのだろう?


「お前が受取人かどうか、それが知りたかった。約束通り、返すぞ」


 急激に暗くなっていく世界で、ワイアットは最愛の二人を探した。

 そしてソファーの影に転がる妻を見つけるなり、自分の身に起こったことを、ようやく理解した。


 ああ、切断された首はしばらく動くって、本当だったんだな。


 その思考が、ワイアットの最後の思考になった。




 ***




 三つの遺体を前に、少女は支度を整える。


 クラレンス・ワイアットの眼球と右の五指を回収し、火災報知機を破壊して、家中にガソリンをまく。

 この吹雪だ。通報があったとしても、消防隊が駆け付ける頃にはすべて灰になっている。


 夫婦の胴体は幅広のソファーに並べて座らせた。首は各々の膝上に寄り添うように置いた。


 なぜか、そうしておかねばならないと思ったのだ。


 そして唯一切り落とし損ねた幼女の首を、どうすべきかでほんの一瞬迷った。


 喉元が切り裂かれて、輪切りされた気道が紅く照り輝いている。まるで首元に薔薇付きの紅いチョーカーをつけたように。


 そんな思わぬサプライズを受け取った幼女は、びっくりした顔のまま、すべての活動を停止している。


 真ん丸に見開かれた美しい緑眼が、自分を見つめていた。

 なぜ、と。瞳が問うた気がした。


 少女はその答えを持たなかった。


 なぜ自分は、幼女とその母親を、局員と一緒に殺した方が幸せだと思ったのだろうか?


 迷った末、少女は幼女を夫婦の間に座らせた。このままでは、はぐれて迷子になってしまうと思った。


 手早く着替えを済ませ、返り血の付いた服と液体窒素保存容器に入れたワイアットの指と眼球をザックに詰め込む。


 そして出際にガレージのガス配管を破壊して、堂々と庭へ出た。


 猛吹雪の中を数十歩進んだところで、くぐもった爆発音が聞こえた。

 つけっぱなしになっていたコンロに、ガスが引火したのだ。


 少女は立ち止まらなかった。


 歩いて、歩いて。そのまま雪の中に姿を消した。

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