6-14

 ……見えねえ。どこに当たった?


 ニコラスは眼前をよぎる黒煙に舌打ちする。

 先ほどまで救世主扱いだったのが、我ながらとんだ掌返しである。


 だが着弾位置が視認できないのは死活問題だ。修正ができない。

 ただでさえ性能スペック面で遥かに劣るというのに。


 4倍率スコープ越しに、懸命に目を凝らす。


 敵を視認して照準を定めるというスコープ本来の用途は、今回使えない。距離が遠すぎるためだ。


 一般に弾丸は真っ直ぐ飛んでいくと思われがちだが、実際は山なりに放物線を描いて飛翔する。


 今回使用するのは、CS/LR4ボルトアクション狙撃銃。

 照準は300メートル先の標的を当てるよう調整してある。


 これを1.1キロ先の標的に当てるとなると、仰角をかなり取って上へ撃ち上げねばならない。

 つまり、空を向いて撃つことになる。


 当然スコープは標的から外れるし、実質的に狙撃というよりは間接射撃に近い。


 要するにこのスコープは、弾着観測を目的として使用する以外に道が無いのである。

 そして今、その弾着観測すら手こずっている。


「ウィル、できそうか?」


 痩せぎすの少年は咳き込みながら何度も頷いた。

 ひびの入った眼鏡を押し上げて、カウンター内にあった発注用のノートパソコンのキーボードを一心不乱に弾いている。


 できる、というから任せたが……いや。


「頼むぞ。お前だけが頼りだ」


 一瞬、キーボードを弾く手が止まった。それにハッと気づき、慌てて手を動かす。


 そんなウィルの真剣な横顔を、ニコラスはじっと見つめていた。


 任せるといった。ならば、自分はそれを信じて待つまでだ。


 それが自分にできる、大人としての務めだと思った。




 ***




 指でキーボードを叩くという動作が、こんなにも重労働と感じたことはない。


 ズキズキ痛む肩を時おり押さえながら、ウィルは懸命に画面を流れるコマンドプロンプトに命令文を叩き込んでいく。


 どうして、そうしようと思ったのかは、分からない。


 傷は痛いし、胸は苦しい。仮に無事この場を脱出できたとして、どうやって生きていけばいいのか。


 両親に売られ、帰る家はなく、大罪まで犯した。この先、生きたって何も良いことなどないだろう。


 なのに、こうしてまだ動いている。まだ生きている。まだ抗っている。


 理由は何一つ分かっていないというのに。


 答えがないものは嫌いだ。イライラするし、気持ちが悪い。

 だというのに、このところそんな問題ばかりに直面している。


 この世界は本当に、嫌なもので溢れている。


――ジャック。


 エンターキーでメッセージを送信しながら、ウィルは親友に問う。


 ねえ、ジャック。僕ら、なんで『まだ終わりたくない』って思うんだろう。




 ***




「こっちだジャック!」


 屋上に突如現れた空中庭園に面食らう間もなく、ジャックたちは囲まれた。


 あらかじめハウンドと打ち合わせていた、外壁の植物を伝ってヘリポート付近で待機するという考えは、甘かったらしい。


 近くの茂みに飛び込み、這って移動する。

 頭上には弾丸が怒り狂った蜂のようにぶんぶん飛び回っている。頭を出せば即ゲームオーバーだ。


 茂みが空け、樹高3メートルほどの椿の下に出た。


 ケータが残りの武器弾薬が詰まった背嚢をひっくり返した。その中から弾倉をポケットに詰められるだけ詰め、必死の形相でこちらに言い聞かせた。


「ここに隠れてろ。いいか、絶対に出てくるんじゃないぞ!」


 そう言って四つん這いで茂みに消えたケータの足を、ジャックは自失茫然に見送った。


 正直、ほっとした。


 もう自分は何もしなくていい。ただ蹲って、大人が問題を解決してくれるのを待っていればいい。

 いつものことだ。自分はまだ14歳、大人を頼って何が悪いというのか。


 『お前には何も期待していない』


 父親の声が耳奥で蘇る。


 ほら、父さんだって、ボクになにも期待してくれなかったじゃないか。

 どうせボクが頑張ったって、何もできない。何も変わらない。


 『温室育ちの甘ちゃんなのは結構だけどさぁ』


 ルカの嘲笑が脳裏に浮かんだ。


 ああ、そうさ。自分は恵まれた甘ったれのクソガキだ。それに気付かず当たり散らして人を傷つけた、どうしようもない屑だ。

 けれど、屑が屑らしく振舞って、何が悪いというのか。


 『お前が許されたいのなら、そいつは行動で示すしかないだろうな』


 頭の中で語りかけるニコラスに頭を振る。


 無理だよ、そんなの。ボクみたいなのに、一体なにができるっていうんだ。銃すらまともに扱えないっていうのに。



 本当に?



 不意に、ジャックは濡れた視線を彷徨わせた。滲む視界が左右前後に揺れて、草むらの一点を見つめる。


 そこには、ハウンドが所持していた一発分の爆薬と、一機の小型偵察ドローンが転がっていた。


 武器の使い方を知らない嘆いた自分に、ニコラスは「それがあるだろう」と無理矢理持たせたものだ。


 行動で示せ。


 寡黙な狙撃手はそう言った。そして実際、彼はそれを証明してみせた。


『ニコはまるで自覚ないみたいだけど、私も住民もお前のこと、ちゃ~んと見てるのよ?』


 笑いかけるハウンドに、あたふた狼狽え照れまくるニコラスを見ていた。


 心底羨ましいと思った。


 ふざけた感情だと自覚している。ニコラスは努力した。それこそ自分とは比べ物にならないほど、死ぬ気で頑張った。


 自分が投げつけたものを含め、どんな誹謗中傷にも決して屈さなかった。


 ニコラスが周りから見てもらえるのは、当然の結果だ。

 そして頑張らなかった自分が見てもらえないのも当たり前。


 それでも、羨ましいと思った。


――変われ……! 変われ、変われ、変われ、変われ、変われ、変われ――!


 芝生に指を突き立てる。小石が噛んで爪が剥がれそうになるが構わない。


 認めてもらいたいのだろう? 

 許してほしいのだろう?


 なら。もう、“前”の自分に戻るな――!


 ジャックは目元を拭った。


 動け、ともかく動け。


 ケータは隠れてろといった。なら隠れながら動けば言いつけを破ったことにはならない。


 言い訳がましく自身を納得させた直後、突然ポケットが振動して、危うくジャックは飛び上がりそうになった。

 警備員から取り返した自分のスマートフォンだ。


「もうこんな時に誰だよっ……って、ウィル?」


 ウィルからのショートメッセージが届いていた。


 そこにあった文面をしばし見つめ、返信する。

 自分でも驚くほど、するりと出てきた答えだった。


 次いで二文目を入力する。自身の作戦を伝えるために。


 一人ならほぼ不可能かもしれない。けれど、あの天才児ウィルが一緒なら。


――ウィル、ボクに力を貸して……!




 ***




 返信は短文かつ非常にシンプルだった。


 ――『今の自分が嫌いだからじゃないかな』――


 ウィルは頭をガツンと殴られた気分になった。


 ああ、そうだ。僕とジャックは何もかもが正反対だけど、一つだけ共通点がある。


 それは、自分のことが死ぬほど嫌いだということ。


 そうだ。僕はまだ終わりたくない。死にたくない。


 利用されるだけ利用されて、このままお終いは、嫌だ――!


「終わってたまるか」


 その囁き声に、ニコラスが振り返る気配がした。だがウィルは一目もやらなかった。


 ジャックから送られてきたメッセージの、その重要性に気付いていたから。


 思考を整理する。

 落ち着け、落ち着け。ウイルスに感染したデスクトップを治療するのと同じだ。現状問題を逐一分析し、対策を講じる。


 今、ジャックがやろうとしていること。今、自分にできること。


 それらを、ニコラスの役に立てるには――。


「……ニコラス、僕らの話、聞いてくれる?」


「おう」


 ニコラスは即答した。


 鳩尾がじんと熱を持った。ウィルは泣きそうになった。


 信じて待ってくれる人がいることが、こんなにありがたいことだとは、知らなかった。




 ***




 ウェッブが潜む場所の目星はついた。


 カウンター出入り口付近で横倒しになった、丸テーブル天板の背後だ。よくよく観察すると、数分前と天板の角度が違う。


 伏射か、座り撃ちか。いずれにせよ、時間とホールの状況を鑑みるに、そこに潜んでいるとみて間違いないだろう。


 あの程度の天板、盾にもならないが、バートンはウェッブの位置をこの目で確かめるまで、待つことにした。


 こちらが圧倒的優位にあるとはいえ、外してまた逃げられては元も子もない。

 しかも自分には、夜明けまでには撤収するというタイムリミットがある。


 次で確実に仕留める。


 いよいよ黒煙が濃くなってきた。


 バートンはスコープ前のマウントレールにPVS27暗視装置を取り付けた。


 かつての暗視装置はPVS2やPVS17のように、通常の昼間用スコープと暗視装置を取り換えていた。

 しかし大抵の零点規正は昼間に行っていることが多く、照準器を換装すると夜間で零点規正を再度行わなければならず、二度手間になってしまう。


 PVS10のような昼夜対応可能のハイブリッド型もあるにはあるが、照準器自体が大きくかさばるという欠点があった。

 そこで採用されたのが前部着脱クリップオン式の暗視装置である。


 これなら照準調整をいじることなく、視界を暗視視界に変貌させることができる。


 唯一の問題は、視差による着弾にずれが生じるということだが、経験と実績でどの距離でどの程度ずれが生じるのかを熟知しているバートンには些末なことだった。


 爆発による炎上で赫赫とライトアップされていたビルが黒と緑の世界に切り替わる。


 再びホール内を監視し始めた時。


 ふと、視線を感じた。


 触れる寸前の指先の熱を頬に感じるような、ごく僅かな感覚だ。


 殺気ではない。だが視線は視線だ。


 バートンは警戒を最上限まで跳ね上げた。

 見られることを極端に嫌悪する狙撃手の本能がそうさせた。


 どこだ。誰だ。


 周囲の闇に目を凝らす。しかし、それを捉えたのは眼ではなく耳だった。


 ビル風とサイレンに掻き消されそうな微かな羽音が聞こえる。


 なるほど。

 バートンは訓練生を幾度となく震え上がらせてきた眼光を尖らせた。




 ***




 大したガキどもだ。


 ニコラスは二人の少年の奮闘ぶりに舌を巻いた。


 特にジャック。敵が集結する空中庭園から、外壁の樹木へ移動して、そこからドローンを飛ばすとは。

 思い切った行動に出たものだ。


「あまり近づかなくていい。弾痕の位置さえ確認できればいい」


『それは分かってるんだけど……これ弾痕、ほんとにこのタワーにある?』


「周りの建物の可能性もある」


『マジかぁ。てか風めっちゃ強くない? すげー機体流されるし真っ暗で見えないし、すげー操縦しづらい……』


 深々とした嘆息がスピーカーモードにした端末から漏れ出る。だが決して無理とは言わない。

 ブツブツ文句は言っても、何とか見つけようと頑張っている。


「……準備完了。ニコラス、いつでもいいよ」


「ああ。ジャックが見つけたらな」


『ええっ、ウィルもう終わったの!? くっそー、弾痕どこだよぉ』


 悔しさと落胆の入り混じるジャックを、ニコラスは「焦らなくていい」となだめた。


「ドローンが発見されたら元も子もない。遅くてもいい。確実性を取ってくれ」


『……うん。分かった』


 珍しく素直に従ったジャックは、距離200メートルを維持したまま飛行を続行する。


 それをニコラスは送られてくる映像越しに見守った。


 ジャックの言う通り、風が強いのか機体がかなり流されている。

 画面は常に前後左右へランダムに揺れており、ずっと見ていると画面酔いしそうだ。


 よくもこんなの見続けられるな、とニコラスが感心していると。


『…………あ。あった、あった! これじゃない!? この給水タンク近くの――――ってあぁ!』


「どうした? 見つかったか?」


『……墜落した。たぶん撃たれた。あともうちょっとだったのに、ごめん』


 ニコラスは面食らうあまり黙った。あのジャックがごめんと言うとは……!


 一方こちらの沈黙を察したのか、ジャックがぎゃいぎゃい怒り始めた。


『なんだよっ、悪いことしたらすぐ謝れっていつも言うのアンタら大人だろ! 今のはちゃんと本心だよっ』


「お、おう、悪い」


 謝罪に謝罪を返すという奇妙なやりとりを経て。


「で、今のは給水タンク付近の映像か」


『うん。その近くになんか三脚? みたいなのが倒れてて、すぐ傍にぽっきり折れた棒が転がってた。懐中電灯っぽかった。それに当たったんじゃないかな?』


 あのダミー発火炎マズルフラッシュの仕掛けか。


 ニコラスは眉をしかめた。


 横風を考慮してかなり寄りに撃ったつもりだが、それでぎりぎりに着弾している。予想以上にタワー周辺の風が強い。


 当たり前のことだが、狙撃をする場合、弾道上で影響するものすべてを考慮して、修正しなければならない。


 自身の周囲が無風状態でも、数百メートル先がそうとは限らないように、発砲から着弾に至るまで、飛翔する弾丸がどこでどのような影響を受けて軌道が逸れるのか。

 それらを計算した上で、調整し、狙撃する。


 そしてこの手順は狙撃距離が延びれば伸びるほど増える。今回のような超遠距離狙撃においては、特に。


 今からこの七面倒な手順を踏み、さらに銃の性能を遥かに凌駕する距離を、撃たねばならない。


 ジャックは再びしゅんとした声音でおずおずと尋ねた。


『ごめん。今のでできる……?』


「ああ。十分だ」


 ニコラスは即答した。


 できるできないの話ではない。やらねばならない。

 ガキ二人にお膳立てされて、それでできませんでしたなど、情けなくて死ねる。


「よくやってくれた。ジャックは次の行動に移ってくれ。ウィルは手筈通りに」


『了解!』


「……わかった」


 どことなく嬉しげな返答を返す少年二人を、頼もしさと申し訳なさが介在した境地でやり過ごす。


 恩師を殺すのに子供を道連れにするとは、つくづく俺は度し難い。


 不意に、振動を感じた。


 ニコラスは眼と右手はそのまま、左手で震えるそのか細い背を撫でてやった。触れる寸前、ウィルはびくりと硬直した。


「心配するな。必ず生きて帰す。帰る場所もないってんなら、一緒に探してやる。今は生き延びることだけ考えろ。それは、決して悪いことじゃない。いいな?」


 しばしの間を置いて、少年はこくりと頷いた。




 ***




 M1911自動拳銃――通称「コルト・ガバメント」の一発でドローンを撃ち落としたバートンは、墜落する機体を見もせず腰にしまった。


 位置がバレた、とみて行動すべきだろう。


 バートンはすぐさま打って出ることにした。


 丁寧な深呼吸。

 5つ数えてゆっくり息を吸い、3つ数えて息を吐く。そこで止める。


 引金を絞った。


 撃発。

 油圧式反動軽減銃床ストック「R2システム」を介してなお殺しきれぬ強烈な反動が、鎖骨を通じて全身を波立たせる。


 丸テーブルの天板が弾け飛んだ。

 穿ったのは上部、着弾の衝撃で真っ二つに割れ、上部が回転しながら後方へ飛んでいく。


 バートンは着弾直後の光景に目を凝らした。


 大小の白い熱源体が二つ。慌ててカウンター内へ下がっていく。

 うちバートンは、大きい方に照準を定めた。


 発射。


 残った天板半分が撃ち砕かれた。

 DVD直径サイズの.50BMG弾だ。人体ならば真っ二つ、木製家具など一発で粉砕できる。


 けれどこちらの攻撃を呼んでいたのだろう。

 大きな熱源体は、発射と同時に隣の柱の陰に飛び込んだ。発射から着弾までの時間差タイムラグが仇になった。


 しぶとい。バートンは舌打ちして、すぐに己の行動を恥じた。

 散々教え子を殺すのだと嘆いておきながら、もう戦闘の熱に侵されている。


 つくづく狙撃手とは、度し難い存在だ。


 だがそれも一瞬。バートンは思考を切り替えた。


 圧倒的優位性はもはや崩れた。敵は低性能の狙撃銃でもこの距離を撃ってくる。


 バートンは素早く次弾を装填した。


 手を抜く余裕も道理もない。獅子は鼠一匹相手にも全力で狩りをするものだ。


――さあ、出てこいウェッブ。


 教え子が逃げ込んだ柱を見据え、引金に指をかけて待ち構える。


 瞬刻。

 灯りが消えた。


 ツインタワー周辺が漆黒に包まれる。

 突如降りた夜闇の帳に、遥か地上からどよめきが届いた。


――停電か。


 動揺の一欠片も見せず、バートンは他人事のようにそう思った。


 狙撃一点のみに全集中力を注いだ脳で、不意に旧友クルテクが収集したデータを思い返す。たしか一人、サイバー工作技術に長けた少年がいたはず。


 バートンは口端に薄ら笑みを浮かべた。


 いい狙撃手になったな、ウェッブ。

 子供すら死地の手駒に使うか。やはりお前は俺と同様、筋金入りのろくでなしだ。


 もっとも、入隊前の少年にその片鱗を見定め、さらに鋭利に冷酷に研ぎ澄まさせたのは、他ならぬ自分だが。


 バートンは柱の陰、申し訳程度にチラチラ覗く白光体に狙いを定める。

 今頃、ずれてしまった弾道修正に躍起になっていることだろう。


 時間切れだ。


 バートンは柱の影からごく僅かに覗く頭部に照準を合わせた。この位置ならば、頭蓋を抉れる。


 今度こそ教え子に別れを告げた、――刹那。


 灯りがついた。


 地上を含む周辺一帯だけではない。

 バートンが隠れ潜む頭上、省エネ対策で深夜から明け方まで消灯していたはずの、看板照明が強烈な白光を放った。


「――っ」


 あまりの光輝に目が眩む。


 通常の消費電力ではない。配電用変電所の電力供給システムへの不正アクセス。送電ワット数を最上限まで跳ね上げたか。


――舐めるな小僧……!


 バートンは眼を見開いた。


 これまで幾度となく優秀な狙撃手を戦地に送りこみ続けた、この眼は伊達ではない。

 突然の暗闇、突然の光明に対応できるよう、長年目を鍛えてきた。


 この程度で標的を見失うほど、この『眼』はやわではない。


 バートンは迅速に呼吸した。丁寧に、けれど素早く。


 乱れた息を整え、動く肺腑を制し、血流を停滞させる。全身の動きを極限まで引き下げる。


 静止。瞬間、バートンの周囲から音が消えた。


 引金を絞った。――瞬間、視界でなにかが動いた。


 それは、狙撃手の本能とも言うべき行動だった。


 咄嗟にバートンはソレを視てしまった。


 本来ならば、一瞥もしない。

 本能的に動くものを見てしまう人間の性質を、長年の訓練の末、バートンは持ち前の動体視力と精神力で捻じ伏せる術を持っていた。


 けれど、続けざまに眼球に負荷をかけられ、追い詰められ、つい見てしまった。

 狙撃手の本能が反応してしまった。


 カウンター上部から飛び出た、義足を。


 スコープ越しに、弾丸が義足の脛に着弾したのが見えた。

 狙撃銃と一心同体となったバートンの視線が向いた結果、銃身も向いてしまったのだ。


 発火炎を視認したのは、その直後だった。


 バートンは銃を捨て、身を捩った。積年蓄積した経験により育んだ、直感だった。


 着弾。


 弾丸はTAC-50 A2R1のスコープを貫通した。


 舞い散るガラス片を見上げて、バートンは呆気にとられた。


 まぐれか、意図的か。いや、この際もうどっちでもいい。


 命中した。

 この距離を、圧倒的不利な条件で、命中させてみせた。


 バートンは大の字に寝そべって、呆然と天を仰いだ。

 しばらくして、自分が声を出して笑っていることに気付いた。


 見事。


「……俺も老いたな」


 さすがのバートンも裸眼でこの距離を見渡すことは不可能だ。完敗である。


 あの空っぽな目の少年は、もういない。若鷹は、とうの昔に巣立っていた。


――強くなったな、ウェッブ。


 いや、違う。これは、かつての姿を取り戻しただけだ。


 戻ってきた。

 あの『百眼の巨人アルゴス』が、戦場に還ってきた。


「教えることがなくなってしまったなぁ」


 バートンは胸裏を襲った寂寥と置いていかれた悲嘆を、嘆息で誤魔化した。


 教え子の離別も死別も、とうに慣れたはずだったのに、今回ばかりはことさら堪えた。




 ***




 銃声が聞こえなくなった。


 ハウンドは自ら吐いた白い息をのみ込みながらそう思った。


 呼吸が乱れ切っている。ニコラスが勝ったか負けたかは分からない。だが勝負はついたらしい。


 そして、こちらも。


「まだ諦めぬか。往生際の悪い」


「こやつが諦めるとしたら、完全に息が止まった時だぞ、兄者」


「分かっている」


 橋の両側から、双子がじりじりと距離を詰めている。


 我ながら頑張ったと思う。体格差で勝り、かつ戦闘技能も傑物の双子を相手に、ここまで粘った。


 入り組んだ宮殿内ならまだやりようもあるが、開けた場所で追い詰められてはもうどうしようもない。


――こりゃ、いよいよかなぁ。


 ぽたぽたと血と汗の雫を垂らしながら、ぼんやり空を仰向く。


 稼げるだけ時間は稼いだ。それでも間に合わないなら打つ手がない。


 石橋の上、ジグザグ構造の九曲橋は、水に浮かぶ宮殿と庭園とを繋ぐ唯一の経路だ。それゆえに、両側を塞がれると逃げ場がない。


 前面の宮殿からも、後面の庭園からも、警備員が続々と集結しつつある。


『やれやれ。やっと大人しくなってくれましたか、黒妖犬』


 わざとらしいシュウの溜息が、空中庭園に朗々と響く。


 汗で額に張りついた前髪越しに音源の出所を探って、ハウンドは固まった。

 恐怖でも怒りでもなく、唖然として。


『随分な大立ち回りを演じてくれたようですね。余興としてはこれ以上ないほど見物でしたが、いささか時間をかけ過ぎですね。次の演目を押してしまう』


 うっわぁ~……。


 ハウンドは呆れ返った。


 宮殿中央、前門に該当する重檐廡殿頂ちょうえんぶでんちょうの屋根下の通り道を、巨大なスクリーンが覆っている。

 ちょうど門の通り道をスクリーンが通せんぼしている形で、そこにシュウの顔がなぜかドアップで映っている。


 これでは腹ばいに寝そべった巨人が、門の向こう側から「こんにちは」しているようにしか見えない。

 しかもそこに映るシュウはこれ以上ないほど勝ち誇っていて、とても反応に困る。


 ハウンドは醒め切った目で腕を組んだ。


 なんでよりによって、そんなところにスクリーンを設置したのか。しかも顔ドアップだし。あれでカッコいいとでも思っているのだろうか。


 これが平時であれば遠慮なく腹を抱えて大笑いするところだが、生憎いまはその元気がない。

 というか、あまりに滑稽すぎて相手をするのもあほらしい。


 貴重な体力をこんなことで消費したくない。


 そんなこちらの沈黙を都合よく解釈したのか、シュウはますます調子づいた。


『それが貴方の限界です、ミス・ヘルハウンド。合衆国安全保障局USSAを欺き、あの五大マフィアを相手取って自領を確保したその技量は認めましょう。だがそこで終いだ。《断而敢行、鬼神避之(断じて敢行すれば、鬼神すら之を避ける)》 貴方は小事を顧みて大事を忘れた。損得勘定もせず情を優先し、取るに足らぬガキ二人のためにすべてを投げ打つ、その蛮勇。未来ある我々の手を取らず、特区の薄汚い貧民街に拘泥する、その狭量。私のパートナーに貴方は相応しくない』


「故事は正しく引用すべきだな。《断而敢行、鬼神避之 後有成功、願子遂之》 中華史上初の統一王朝、秦を滅亡に追い込んだ宦官の讒言ざんげんだ。お前が処刑される分には一向に構わんが、その破滅に巻き込まれるのはごめんだな」


『言葉に実情が伴っていませんよ。今まさに破滅しようとしているのは貴方では?』


 そう言って笑ったシュウの冷ややかな双眸を、ハウンドは真正面から見据えた。


 自信に満ちた明るさとは無縁の陰鬱で粘ついた笑みだ。


 女一人に手こずった鬱憤と苛立ちを勝利の余韻でひた隠して、こちらを見下すことで精神の均衡を保っている。


 つまらない男、とハウンドは思った。


『結果とは常に、勝者が形づくるものです。どんな事を成そうとも、勝者の采配次第で悪にも正義にも転じ得る。言ってしまえば悪事は本来、隠れてやる必要はないのですよ。勝てばいいのですから。地下に潜ってコソコソ隠れながら悪事を成すのは小人のやること、勝つ自信のない弱者のやることだ。大人たいじんたる私との決定的な違いです。そういう意味で、貴方の負けは最初から決まっていたんですよ』


 今度こそハウンドは失笑した。


 何を宣うかと思えば、この男、本気で自覚がなかったらしい。


『……何かおかしなことでも?』


「そりゃ笑うだろ。この世で最も古く非道な犯罪組織は『国家』だ。国家の名のもとでは、どんな悪事も正当化される。国家に属する最大の特権だ。USSAだってその例外じゃない。大国とUSSA、その双方に頼り縋るお前の、どこが大物だって?」


 途端、シュウの表情が醜悪に変貌した。その七変化ぶりを、ハウンドは無感動に見やった。


 ハウンドは知っている。いつも一人で戦っていた男を。


 決して逃れられぬ罪と、必死に向き合おうと藻掻いていた人間を。


 ニコラスは、いつも一人だった。


 兵科という匿名性に隠れることすら叶わぬ狙撃手の性質かもしれない。だが彼はいつだって「自分が殺す」ことを自覚していた。

 誰にも罪を背負わせなかった。


『俺の罪は俺だけのもので、他の誰かに背負わせていいものじゃない』


 そう語った言葉に、偽りはなかった。

 そんな彼が『偽善者』と呼ばれることの、なんと皮肉なことか。


 大人たいじんが聞いて呆れる。コソコソ隠れて悪事を働いているのはどっちなのやら。


 不意に、風がニオイを運んできた。鼻先を掠めたソレにハッとして、ハウンドはそっと胸を撫で下ろした。


 ほらやっぱり。彼の方がずっと大物だ。


『意外とまだ余裕があるようですね、ミス。そこまで口が回るのであれば、部下のお相手も願いましょうか』


 その言葉をかわぎりに、双子と警備員らがじわじわと迫ってきた。


 あくまで発砲しないのは、殺す前のことを考えているからか。はたまた、『トゥアハデ』にそう命じられたか。


 そんな時だった。


「ま、待ってくれ!」


 聞き覚えのある頼りなげな声に振り返れば、案の定ケータだった。

 警備員に銃を突き付けられて、両手を掲げている。


 あちこち傷だらけで制服が裂けているところを見るに、ずっと孤軍奮闘してくれていたらしい。


「俺が代わりに相手をする。頼む、彼女に手を出さないでくれ!」


 警備員の間にせせら笑いが広がった。背後の警備員に小突かれケータがよろめくと、嘲笑はさらに大きくなった。


 双子だけは早く狩りを再開させろと苛立っていたが、散々振り回された警備員らは目の前にぶら下げられた獲物に食いつきたくて仕方がないようだ。


 人質を確保して、シュウは再びゆとりを取り戻したようだった。


『情け深いお仲間ですね。さて、いかがしましょうか。ここはレディ・ファーストということで、ミス・ヘルハウンドに選んで――』


「そういやお前、『本部』と連絡とれなくなったんだって?」


 話を遮ってやると、シュウはあからさまに不快げに顔を歪めた。


『……他人の話を遮る方は男女を問わず嫌われますよ。少々爆薬の量を見誤っただけです。貴方がたが大人しくしてくれれば、爆破で退路を塞ぐなどという芸のない無駄手間を――』


「つまり取れなくなったのね。結構、結構」


 再度話を遮られて堪忍袋の緒が切れたらしい。シュウの鋭い指示が飛んだ。


 警備員がケータを突き飛ばした。倒れ伏すその背に、銃口が構えられ。


 発砲。


 血飛沫が上がった。ケータの背ではない。


「っ!」


「兄者!」


 肩を押さえてよろめく兄に、弟が駆け寄る。


 場の空気が凍てついた。

 嘲笑は瞬時に霧散し、警備員らは愕然と立ち尽くす。


 なぜ男ではなく、双子が撃たれているのか。

 いや、――あの警備員はなぜこちらに銃を構えている――!?


 そんな眼差しの彼らを、彼は、56式自動歩槍のフルオート射撃で横薙ぎした。


 比較的、至近距離にいた警備員の頭部から、続々と血狼煙が上がった。

 地に堕ちる空薬莢が甲高く臨終の音を告げ、その男は死を撒き散らす。


 弾倉を使い果たすと彼は小銃を捨て、全長1メートル弱の筒を取り出した。

 QLZ-87式グレネードランチャーだ。


 火球が吹きあがった。対人榴弾ではない。対軽装甲車両の成形炸薬弾だ。

 人道を考慮しない装備の選別が、彼らに牙を剥いた。


 ヘルメットとフェイスマスクが脱ぎ捨てられた。それを見るなり、シュウが呻いた。


『ニコラス・ウェッブ……!』


 ニコラスはその返答を、一発の成形炸薬弾で応じた。


 成形炸薬弾がスクリーンを貫通し、シュウの額に大穴が空く。直後、爆炎が噴出し、スクリーンはあっという間に炎上してしまった。


 炎の中で歯軋りしたシュウがふつと消失する。


 そこに至り、ようやく警備員らが反撃へ打って出た。

 が、ハウンドが動く方が速かった。


 地を蹴り、最後の5発を装填。銃を構える彼らに照明弾をお見舞いする。


 殺傷能力はないものの、燃焼力の高いマグネシウム粉末の詰まった弾だ。直撃すれば、ただでは済まない。


 4発撃ち尽くして、橋を越え、太湖石を跳び、川岸の築山にそびえ立つ松の根元に急行する。

 そこに彼が待っている。


 急停止したハウンドは、反転して、背を預けた。


「ただいま。そしてお帰り、ニコ」


「ああ。お互いな」


 弾の尽きたグレネードランチャーからスケルトン銃床の56式 に取り換えつつ、ニコラスは遅くなったと詫びた。


 ハウンドは肩をすくめた。

 ま、ちゃんと約束守ったから良しとしよう。


 そう思った矢先、伏せていたケータがガバリと顔をあげた。


「おま、おま、お前らマジふざけんなっ。お願いだからぶっつけ本番で特攻作戦とかほんと止めて! せめて一言相談して!」


 涙目でギャンと吼えるケータに、ハウンドたちは顔を見合わせた。


「いや。俺らも打ち合わせなんかやってないぞ」


「完全アドリブだもんね~」


「God, damn!」と天を仰ぐケータに、ハウンドとニコラスは頭を掻いた。


 一方、茂みの影からひょこっと顔をのぞかせたジャックとウィルは「慣れって大事だね」「……状況は常に変わるものだから」などとぼそぼそ囁き合ってる。


 適応早いな、こいつら。


 ひとまず、全員無事で何よりだ。


「おっと」


 ハウンドはニコラスと共に回れ右をした。


 警備員らがQLU-11式グレネードランチャーを用意し始めたためである。

 ダネルMGLの6倍初速のある半自動銃ではさすがに分が悪い。


「これからどうすんの!?」


 庭岩の影で蹲るジャックが叫んだ。


 対するハウンドは、ケータのポケットからラッキーストライクを一本くすね、燻ぶる低木を火種に一服する。


 真横のニコラスが渋面をつくったが、あえて無視する。

 近頃ニコラスにことごとく喫煙を阻止されてヤニ不足なのだ。そろそろ一息つきたい。


「問題ない。あの様子だと、もう発動したっぽいからな」


 ジャック、ウィル、ケータは「何が?」と首を捻り、そろそろと振り返って、唖然とした。


 警備員らが動きを止め、突っ立っている。無線に意識を集中しているのか、耳に手を当て視線をあちこちに飛ばし、顔を見合わせては落ち着きなく身体を揺らしている。


 ニコラスが苦々しげに嘆息した。


「結局使う羽目になったか」


「奥の手は用意しとくもんよ? ま、こっちが頼まなくとも、連中は勝手に動いただろうけどね」




 ***




「どうなっている!?」


 辛うじて裏返るのを阻止したが、声音から焦燥を除去することは叶わなかった。


 司令部兼発令所は今や、混沌の渦中にあった。


 デンロン社がこれまで裏事業として行ってきた児童売買に関する情報が、突如ネット上に暴露されたのだ。

 顧客情報が軒並み公開され、『ライシス・サーガ』で顧客と連絡手段に用いていた隠語まで特定されて晒されている。


 ネットはこれまでに類を見ない大炎上を引き起こし、各所で犯人狩りが頻発していた。

 発信源を突き止めようにも、拡散され過ぎて特定ができない。削除しても削除しても、蛆虫のように湧いてくる。


 シュウは狼狽した。


 なぜだ。顧客には散々リスクを周知して脅迫ほけんをかけておいたはず。

 こんな、破滅覚悟の暴露を、一体誰が――。


 瞬間、はたと思考が止まった。


 いる。一人、破滅も辞さず暴露しかねない人間が。


 だが奴は極度の小心者だ。少なくとも、単独でこのような暴挙に出るほど肝は座っていない。

 だから始末しなかった。


 誰かが奴を唆した。


――五大マフィアか――!!


 シュウは己の迂闊さに打ちのめされて立ち尽くす。




 ***




 また随分と派手に騒いだな。


 重く垂れさがる瞼を億劫に思いながら、カルロは指先でブラインドを押し下げた。


 切れ間から見える夜景にぽつ、と紅く光る箇所がある。報告では爆発が数回、大規模火災も発生しているという。


 照明弾を確認してから40分と経たぬうちにこれだ。この有様では、さぞ後始末が大変だろう。


「――さて、ミスター。気持ちの整理はつきましたか?」


 朗らかに問う我らが首領ドン、フィオリーノ・ヴァレーリの向かいに座るは、項垂れくたびれ果てた中年だ。


 先日スキャンダルで当選はもはや絶望的と評された、ミシガン州知事候補である。


 知事候補は視線を足元に彷徨わせて問う。


「本当にこれであのシュウを破滅させられるのか……?」


「無論ですとも。今回のスキャンダルはシュウの謀、妨害工作によるものです。貴方は彼に嵌められたのですよ、ミスター」


「そ、そうか。そうだな。……それで、選挙はどうなる?」


「このまま続投なさって構いませんよ。貴方の嫌疑はこれで晴れた。市民も貴方が冤罪とすれば進んで票を投じてくれるでしょう。我が社としても、貴方の活躍の場が増えることは喜ばしい限りですよ」


 フィオリーノの口上に、知事候補の目に期待と野心の輝きが戻っていく。カルロは目を眇めた。


 これでまた一人、ヴァレーリ一家の息の根がかかった人間が、政界内に入る。


 RICO法により『コーサ・ノストラ』が一掃されて数十年。


 合衆国はもうヴァレーリ一家を切れない。切ればアメリカ政界の四分の一の人間を一斉検挙せねばならなくなる。

 そうなれば、国家運営が回らなくなる。


 リーマンショックより早5年、合衆国経済はまだ回復していない。それを衰退と見てとった中国の台頭も著しい。


 少なくともあと10年、合衆国はヴァレーリ一家に手を出せない。

 その間にこちらは、せっせと根を増やしていけばいいだけのことだ。なによりこの国に固執する必要もない。


 苗床が朽ちたなら、また新たな苗床を探せばよい。予備ストックは腐るほどあるのだから。


 にしても。


――物好きなのは変わらんな。


 カルロはこっそり欠伸を噛み殺し、元相棒が暴れる方角を一瞥した。


 ヘルハウンドは金や権力では動かない。面子を潰されても動じない。

 へらへらと薄ら笑いを浮かべ、好意の欠片もない目で眈々と黙視している。


 そのくせ一端地雷を踏み抜かれると、自滅も厭わぬ覚悟で猛然と喰い殺しにかかってくる。


 今回、何が奴の地雷だったかはさておき。


――『偽装はやがて、己が天性へ帰る』か。


 暴君ネロ皇帝が師事した哲学者はそう言った。人は、仮面を被り続けていると、それが本当の姿になってしまうのだと。


 ならば、今あの場にいる少女は、どっちなのだろうか。


 黒妖犬か、それとも別の何かか。


 だからこそ、この気まぐれ当主が気にかけるのかもしれない。


 狂人を演じるあまり、本当に狂人になってしまった新人女優を憐れんで。


 いずれにせよ。


――また仕事が増えそうだな。


 そう思い、カルロは欠伸を噛み殺し損ねた。




 ***




「『本部』との連絡は」


「駄目です。以前途絶したままです」


「報告! 総参謀本部GSDより緊急通信、参謀本部がサイバー攻撃を受けています!」


 しん、と司令部が静まり返った。足元から水が迫ってくるように、恐慌と焦燥が下からせり上がってくる。


「……、具体的には」


「中国市民を介した大規模DDoS攻撃(ウェブサイトやサーバーに対して過剰なアクセスやデータを送付するサイバー攻撃)とみられます。複数のプロキシサーバー介して、民間人の端末を踏み台にしているため、発信源を特定できません」


「っ、GSDのサーバーがダウンしました! 続いて予備2機がダウン、現在3機目の予備に攻撃が集中しています!」


「国防科工局より伝令! 傘下の民間委託団体に『ワイパー』(データ自動消去型マルウェア)の受信を確認、すでに複数社が機密情報を食い荒らされたと……!」


 着々と入ってくる凶報に、シュウは土気色の顔のまま佇むことしかできない。


 そんな彼より青黒い顔色の部下が、凍てついた顔で歩み寄った。


「司令、たった今、61398より通信が入りました。本件について至急、詳細な報告を求むと」


 61398、すなわち、人民解放軍総参謀部第三部二局61398部隊だ。


 中国屈指の電子戦部隊の名に、シュウは目を剥いた。


「なぜネット藍軍から連絡が来る? うちが原因だとでもいいたいのか」


「はい。場合によっては国家政権転覆罪として報告すると」


「馬鹿な。情報漏洩はともかく、サイバー攻撃と我が社は無関係だ」


「……61398がアクセスポイントを特定しました。発信源はアンゴラ共和国、東部ルンダ・スル州です」


 色を完全に失した瞬間だった。


 アンゴラ共和国、東部ルンダ・スル州――デンロン社のアフリカ支部拠点だ。




 ***




 こんなもんかねー。


 キーボードから手を放し、セルゲイはのけ反って大きく伸びをした。


 着慣れているとはいえ、やはり戦闘服に防弾着でのデスクワークは肩がこる。早くジャージになりたい。


 その彼の背後に、ぬっと影が差した。足音はしなかった。


「状況は」


「順調です。あとはプログラム完了を待つだけですね」


 巨躯に似合わぬ気配のなさで現れたルスラン・ロバーチは、どこかつまらなそうに頷いた。


 敵が雑魚だったかと察し、セルゲイはデンロン社の公式アドレスを使って、第五波となる新型マルウェアを指定箇所に送信した。


「すでにヘルハウンドヴィルコラクから上がっているかと思いますが、こちらにも顧客データが多少ありました。そろそろ手土産せっつかれる時期ですし、連邦政府クレムリンに送信しときますよ」


 途端、柘榴色の双眸がじろりと睥睨した。


 それをものともせず見上げて、セルゲイは組んだ両手に後頭部をのっけた。


「睨んだって仕方ないでしょーが。あんたがクレムリン・アレルギーなのはよく存じてますけどね、元GRU特殊部隊スペツナズのあんたの扱いに、クレムリンもうちの古巣FSBも考えあぐねてるんっす。『ワグネル』(ロシア系民間軍事会社)みたくなれとはいいませんが、適当にご機嫌取っとかないとまた刺客送られますよ」


「来たければ来ればいい。兵士に無線機一つまともに用意できん元大国の送る刺客など、話にもならん」


 言ってくれるねー。


 そう思ったセルゲイだが、胸をチクリと刺す郷愁と悲嘆に目を眇めた。


 彼の大国、ソヴィエト社会主義共和国連邦は滅び損ねた。


 亡国はロシア連邦と名を変え、今なお超大国に返り咲く機会を虎視眈々と狙い続けている。

 対する国民は、冷戦期の雪辱を注ぐ機会を渇望している。


 強者を至高とし、力を信奉し続けた民にとって、祖国崩壊は汚辱以外の何者でもなかった。当然の帰結だった。


 そんな祖国と国民に、自分らは愛想が尽きた。

 いつまでたっても亡霊に囚われ、藻掻く生者を見向きもしない国など、滅びてしまえばいい。



 そうして祖国を飛び出した放蕩息子集団が、ロバーチ一家だ。

 マフィアなどとは程遠い、単なるひねくれ者だとセルゲイは思っている。だからこそ、居心地がいいのも事実だが。


――そんなんだから気にかけるのかね、あの人狼を。


 セルゲイは自身の肩にも届かぬ華奢な体躯の少女を思い出す。


 亡霊に囚われ、自ら亡霊と成り果てた少女。

 帰らぬと知りながら、飼い主を待ち続ける憐れな墓守犬。


 弱者を嫌悪し徹底して排斥してきたルスランと弱者を愛し、何があろうと庇護し続けたヘルハウンド。


 まるで正反対の存在だというのに、この男は何かと理由をつけて少女を手元に置こうとする。

 強者との闘争以外に一切興味を示さなかった男が、年端のいかぬ少女に異様な執着を見せている。


 面白い、とセルゲイは思う。


――ま、どうせろくな人生でなし、楽しまなきゃ損、損。


 セルゲイは手元の端末に、連邦保安庁FSBがよく使うコードを一部あえて残した。

 人民解放軍はさぞ頭を抱えることだろう。それを知った元上司がどんな顔をするか。


 それを見られないのが、少し残念だと思った。




 ***




「手を出す相手を間違えたんだよ、デンロン社は。ヴァレーリのようなコネも無ければ、ロバーチのような武力もない。だからターチィにまで出し抜かれるんだ」


「ターチィ一家も動いてるのか」


「むしろヴァレーリ・ロバーチ両家に声掛けしたのはターチィだよ。手塩をかけて育てた市場を散々荒らされたからな。シュウと『本部』との連絡が途絶したのはそのせいさ。大方あの婆さんが共産党指導部と話をつけたんだろ」


 要するに、デンロン社からターチィ一家に鞍替えしたということか。

 変わり身が早いというか、思い切ったというか。


 そう嘆息して、ニコラスもまた思考を切り替える。


 腹の底はさておき、過酷で流動的な現実に適応するには、そうするしかない。それは国家も兵士も変わらない。


「そら、おいでなすったぞ!」


 宮殿、庭園双方から、敵が殺到してくる。先ほどグレネードランチャーで多少は一掃したが、やはり元の数が多い。


 幸い今いる築山は小高い丘で、戦況を見渡すのに最適だ。かつ掩蔽としての岩や樹がごろごろある。


 が、問題は残弾である。鹵獲したとはいえ、弾数はそう多くない。


 ケータは95式自動歩槍の弾倉が残り6つ、ニコラスは56式自動歩槍のが2つとグレネードを装着した95式のが2つ、しかもグレネード弾は一発しか残っていない。


 数分と経たずに撃ち尽くしてしまう量だ。


「ハウンド、あと何発残ってる?」


「照明弾が一発だけ。――っと!」


 岩場からハウンドが身を躍らせ、宵闇を銃剣で薙ぐ。


 火花が散った。


「辞世の詩は遺し終えたか、小娘」


 柳葉刀を繰る双子の片割れが眦を吊り上げて迫る。


 その目を見る限り、生け捕りのいの字もないことは、明白だった。


 その後背からもう片割れが回り込む。


 しかしハウンドは、鍔迫り合いに持ち込ませない。


「さあ、考えたこともないか、な!」


 ふ、と脱力して受け流し、岩を駆け下りたハウンドは肩越しに叫ぶ。


「んじゃ野郎どもガイズ、後は頼むぞ~!」


 そう言って走り去るハウンドの背を、双子が猛追する。


 掩護したいところだが、現状それすら叶わない。一難去ってまた一難。


「ケータ、庭園側を頼む。俺は宮殿をやる」


「了解!」


 互いに背を預けて応戦を始める。そこに、ジャックとウィルが這ってきた。


「ニコラス、オレらはさっき言った通りでいい?」


「……準備、できてる」


 腹の据わった目で凝視する少年二人に、一瞬目を見開き、真顔で頷く。


「ああ、それでいい。合図はこちらで言う」


「「分かった」」


 異口同音に応じた少年二人は、ケータの横に落ち着いた。それを見送って、ニコラスもまた戦闘に身を投じる。


 『闇が最も深くなるのは、夜明け前だからこそ』と言ったのは誰だったか。


 人生訓を説くための方便と思っていたが、なるほど。確かに暁闇は暗い。


 それをそうと感じないのは、地上の業火と、庭木に燃え移った炎が闇を追い払っているからだろう。

 そのうえ夜闇を曳光弾トレーサーの紅い閃光が飛び交い、闇をさらに刻んで飛翔する。


 途切れることのない銃声で耳はとっくに麻痺し、反動を受け続けた肩の感覚は消失した。それでもなお、引金を引く気力は残っている。


 ニコラスは残り少ない弾を一点に集中させた。

 ジグザグに曲がった奇妙な橋だ。池に浮かぶ宮殿とこちらを繋ぐ、唯一の経路だ。


 敵も、射線がそこに集中すると分かっていたのだろう。橋を避け、川を渡り始めた。


 滝へ水を落とすため傾斜はあるが緩やかで、流れも穏やかで水量も腰高程度だ。

 水底にびっしり生える藻に滑らぬよう気を付ければ、十分渡れる。


 敵が一斉に川を渡り始めた。


 移動速度が落ちるぶん本来なら格好の的だが、両側に分散して渡川してくるため、圧倒的に射線が足りない。

 ニコラス一人では、とうてい阻止できない数だ。


 それでもニコラスは、橋の敵を撃ち続けた。なるべくより多くの敵が、川へ入るように。


 渡川する敵の先陣が、あと数歩で川岸に辿り着こうかという時、ニコラスはジャックとウィルが隠れている茂みに走った。


「ちょっ、なにしてんの!?」


 起爆装置のリモコンを取り上げられて、ジャックが慌てる。ウィルもまたぽかんと口を開けていた。


「お前たちはもう十分頑張った。ここから先は俺がやる」


「でも、あれボクが作ったやつ……」


「だから責任取ろうってのか? なら十年後、そういう覚悟ができてからにしろ。お前らにはまだ早い」


 そう言って、ニコラスはスイッチを押した。


 轟音。震動。


 滝側に、巨大な水柱が上がった。


 衝撃で生じた小規模な津波が、渡川する敵を飲み込んだ、と思ったら、一斉に水が引き始める。

 引き波と呼ばれる現象である。


 爆薬は空中庭園の滝を数倍規模に拡張した。滝幅が増せば、当然水流は加速する。


 なにより爆破の衝撃で発生した寄せ波と違い、引き波は高所から低所へ流れる重力も発生する。


 つまり、寄せ波より、引き波の方が強い。


 以前プレイした災害系脱出ゲームより知り得たジャックの発案である。


 一方、寄せ波に備えて踏ん張っていた敵は、次に発生する波のことも、そちらの方が強力なことも知らなかった。


 敵が一斉に滝側へ流されていく。

 その場に踏み留まろうにも藻で足が滑り、上流から流されてきた味方が衝突してもつれ合いながら滝へ落下していく。


 急速に遠ざかっていく断末魔に少年二人が耳を塞ぐ。

 その上からニコラスがジャックの、ケータがウィルの耳を塞いだ。


 川岸を掴もうとする者は、ニコラスが撃ち落とした。


 宮殿側の敵は、一機に掃討された。


「よくやった。お前らの出番はもう終わりだ」


 ニコラスの労いと裏腹に、少年二人は真っ青で震えていた。揺れる眼球に涙を滲ませて、互いの手を握り合っている。


 ニコラスは二人の肩を掴んだ。


「俺がやれと命じたんだ。お前らはそれを忠実に果たした。それでいい」


 よくやった。

 そう言うと、二人は震えながら何度も頷き、その場に蹲った。


「ニコラス、あれ!」


 ケータの叫びに我に返れば、けたたましい銃声に混じって、腹に響く甲高い唸りが増していく。

 待機状態だったヘリコプターが始動したのだ。


 徐々に回転数を増していくローター音に、ケータの声が掻き消える。だがその指差す方角で、伝えたいことは察した。


 瑠璃色を色濃く残す払暁に、黒点が2つ、高速で近づいてくる。

 夜間確認灯を消している時点で確実に民間ヘリではない。デンロン陣営の航空支援だ。


 しかも2機のはるか後方、さらに3つの黒点が見える。


「立てっ、宮殿に逃げ込むぞ!」


 ニコラスたちは築山を放棄し、ジグザグ橋へ全力疾走した。


 背後から銃弾が追ってくる。しかしまばらだ。


 妙に思って振り返り、納得する。


 離陸体勢を整えたヘリの元へ、シュウが身を屈めて駆け込んでいる。

 その横では大量の資料が詰まった段ボールを積み込む部下の姿があり、風圧で吹き飛ばされる文書を拾うか拾うまいかで右往左往している。


 ダウンウォッシュで巻き上げられる書類の紙吹雪がなんとも物悲しく、惨めだった。


 だがお陰で、あの機体はまだ飛べない。


「急げ! 2機くるぞ!」


 そう叫んでニコラスは、一人強敵を請け負った相方を探した。


 ハウンド、どこだ。


 庭園、宮殿とくまなく見渡して、――いた。


 宮殿奥、3つの殿堂を直線に繋ぐ渡り廊下で明滅する火花がある。


 ハウンドだ。


 完全に劣勢に追い込まれている。燃え盛る松に照らされた横顔は苦しげで余裕がない。


 辛うじて挟撃されぬよう上手く立ち回ってはいるものの、動きは鈍い。とうに限界を超えていたのだろう。


――間に合え。


 ニコラスは、膝立ちに銃を構えた。

 ケータの焦った声がする。小さかったローター音は爆音へ転じていた。


 しかしニコラスは動かず、静かに呼吸をした。


 5つ数えてゆっくり息を吸い、3つ数えて息を吐く。そこで止める。


 動く標的の狙撃は至難の業。予測と観測で補ってなお、双子の速度はそれを上回る。


 だが、軸なら。


 ケータから教わったことだ。

 武術を体得する者は、体軸を重視する。頭頂から地面へ垂直に奔る一本線。それがぶれぬよう身体が記憶するまで鍛え抜くのだと。


 そして達人であればあるほど、軸はぶれない。


 双子は確かに速い。繰り出される手足は、動体視力のあるニコラスでさえ辛うじて見えるレベルだ。

 けれど胴体に限っては、そうではない。


 ニコラスは眼を見開いた。


 ハウンドの動き。双子の動き。

 踏み込み、歩幅、型、攻撃範囲、予備動作。

 視線、呼気、体勢、重心。


 すべての動作を観測し、すべての動作を記憶する。

 それらの情報を網羅して統合、分析して、予測する。


 そのうえで距離と環境状況を解析し、弾道計算に組み込む。


 ニコラスは、何もない空間に照準を定めた。


 双子の片割れが一歩、踏み込んだ、その瞬間。


 引金を絞る。


 撃発。着弾。


 片割れの腿に、血狼煙が上がった。双子はそろって目を見開いた。


――上へ修正。30センチ。


 もう片割れが後方に飛びずさる。その方角の、中空に。


 発砲。

 弾は片割れの右腕を貫通し、左手の双剣を弾き飛ばした。


「ハウンド、こっちだ!」


 怒号に彼女は即座に応じた。


 ひらりと身をひるがえし、透かし窓を飛び越えて、水の消えた池へ降り立った。


 立ち上がって顔をあげたハウンドの顔が強張った。


「ニコ、上!!」


 見上げると、攻撃ヘリが一機、急降下してくるところだった。


 機首下面の機関砲が火を噴く。


 ニコラスは殿堂内へ逃げ込むが、機関砲は砲身を旋回して追ってくる。


 木造平屋の殿堂が、機関砲でいともあっさり切り裂かれていく。木片が四散し、柱は抉れ、屋根に空いた穴から機関砲の空薬莢と瓦が降り注ぐ。


「こっち!」


 殿堂内に飛び込んできたハウンドが手を引き、床に空いた大穴へ飛び込んだ。

 落下した屋根の一部が穿った風穴だ。


 落下の衝撃に備えてハウンドを抱え込むが、ぬるりと湿ったものがニコラスを受けとめた。


 藻だ。殿堂の床下は、池へ繋がっていたらしい。


「二人ともこっちだ!」


 叫び声に目を向ければ、隣の殿堂、その中心柱の根元でケータが手招きしている。ジャックとウィルも一緒だ。


「渡り廊下だ、下走ってこっちにこい! そこにいるとぺしゃんこになるぞ!」


 ニコラスたちは渡り廊下の下を隠れながら走った、というより滑った。

 落下の衝撃をいなしただけあって、藻の繁茂ぐあいが凄まじく、まともに走れなかった。


 ケータたちと合流した直後、頭上で轟音が響いた。振り返ると、先ほどまでいた殿堂が炎に包まれている。

 対戦車ミサイルだ。


 確実にこちらの息の根を止めるべく、しらみつぶしに一つ一つの殿堂を潰して回っているのだろう。


「このままじゃ丸焼きか、生き埋めになっちゃうよっ」


 ジャックが悲鳴を上げる。ウィルは声すら上げられない。ケータは蒼褪めたまま、少年二人を抱きかかえた。


「……ハウンド、照明弾一発、残ってたよな?」


「迎撃する気か?」


 正気かお前と言わんばかりに、ハウンドが眦を吊り上げる。ニコラスは頷いた。


 隙をついて逃げるという手法は使えない。この狭い庭園にヘリが2機だ。あっという間に捕捉されて蜂の巣にされてしまう。


 撃ち落とすしかない。


「なんとかしよう」


 ハウンドは渋々愛銃に照明弾を装填し、手渡した。

 そしてケータから受け取った弾倉を95式自動歩槍に装填し、最後にグレネード弾を一発ポケットに突っ込んだ。


 よし、と行こうとした刹那。


 背後から首に柔らかな細腕がふわりと巻き付いた。

 髪に吐息がかかる。ほろ苦い煙に混じって、甘い香りがした。


「ごめん、ニコ。頼むよ」


「ああ」


 ニコラスは腕にそっと手を添え、解いた。


 そして頭上に空いた床下から、殿堂内へとよじ登った。


 飢えたハイエナのように、ヘリが上空をうろついている。

 その動きを音と風圧で感知しながら、ニコラスは慎重に上へ上へと登った。


 銃痕を足場に柱を登り、梁に手をかけようとするが、届かない。


 舌打ちしてしばし考え、ニコラスは義足を外した。

 足部関節のネジを歯で回して固定し、義足をピッケル代わりに引っかけて登っていく。


 空いた屋根の穴から、白み始めた群青の空が見えた。いつの間にか夜が明けてしまったらしい。


 直後、空を鈍色の巨躯が覆った。ヘリの腹だ。


 通り過ぎた頃合いを見計らって、ニコラスは穴からそっと機体を観察した。


 Z-9に似ているが、形状が少し異なる。縦列複座式コックピットに、ユーロコプタ―系列のヘリに似た形態の機体だ。

 恐らくは最新型、それも他国のをライセンス生産したものだろう。


――さて、どう落とすか。


 中国をはじめ、東側のヘリは作りが堅牢だ。機種によっては12.7ミリ弾の直撃にも耐える装甲を備えている。風防も同様に分厚い。


 95式の5.8ミリ弾は貫通力の高い高速弾だが、小口径ゆえに軽い。ダウンウォッシュで吹き降ろされる風圧を掻い潜っての狙撃は不可能だ。


 飛行するヘリのコックピットを狙撃して撃墜、なんてのはシネマ映画の中だけの話だ。


 強いて弱点を挙げるならローター部分だが、そのことは各国の開発部門も熟知しており、対策を講じている。

 RPGか地対空ミサイルでも持ってこない限り、撃墜はほぼ不可能。


 だが、手元にあるのは95式自動歩槍と、照明弾とグレネード弾が一発ずつのみだ。


 都合よく高性能の武器は天から降ってきてはくれない。

 降ってくるのは敵の機関砲かミサイルだけだ。


――できなくてもやらなきゃならないことばっかだな、最近。


 短く嘆息して、電気を落とすように、思考を狙撃一点型にスイッチした。


 ヘリは現在、空中庭園の外縁を獲物に狙いを定めた鮫のように、円を描きながら航行している。

 こちらの姿が見当たらないので、庭園外の外壁に取り付いていないか確認しているのだろう。


 その隙にニコラスは屋根から身を躍らせた。


 空っぽの左脚を下に、グレネード弾を装填した95式を構える。


 グレネード弾にヘリコプターのメインローターをへし折る威力はない。

 だが、グレネード弾以上に重量のある物質なら、その限りではない。


 ニコラスは狙いを定め、外縁めがけて発射した。


 グレネード弾が弧を描き、外縁を飾る龍の石像に直撃する。

 石片が飛散し、炸裂の衝撃で龍の首が折れ飛んだ。


 その飛んだ龍の首が、外縁を飛行していたヘリのローターに喰いついた。


 石と金属の擦れる嫌な音。

 直後、黒い棒状のものが高速で射出された。折れたヘリのローターだ。


 ヘリが右へ大きく傾いた。未だ回転を続ける残りのローターが、塀に突き立って、折れた。


 翼をすべて失ったヘリは、重力に従い、地上へ落下していった。


 まずは、一機。


 目を向ければ、僚機をやられたもう一機が機首を下げ急上昇していた。


 こちらを視認したのだろう。僚機の敵とばかりに急回頭しながら肉迫してくる。


 ニコラスは落ち着いて、ハウンドから預かったMTs255回転式散弾銃リボルバーショットガンを水平に構えた。


 射撃手のヘルメットの動きに連動した、機首下面の機関砲が旋回する。

 しかし、敵が照準を定めるより、ニコラスが発射する方が早かった。


 照明弾が、コックピット直上で炸裂する。


 肉迫していたぶん閃光をまともに浴びて、操縦手の目が眩んだのだろう。

 機体はまたも回頭した。


 それが間違いだった。


 ただでさえ急回頭したところに、更なる回頭が加わり、機体はバランスを崩した。


 ヘリは宙で横倒しになり、腹を無防備に晒して一回上昇。その後、落下した。


 爆炎と黒煙が吹き荒れる。

 それを一顧だにせず、ニコラスは振り返った。


 黒幕がまだ、残っている。


 シュウを乗せたヘリは、すでに離陸していた。こちらを攻撃しようとはせず、身を翻して急速に離脱していく。


 その逃げる機体に、ニコラスは95式を構えた。


 発砲。メインローターから直下のシャフトに着弾し、火花が散る。


 ヘリの弱点はローター。だが軍用ヘリはそれを考慮し、ローター部分の耐久性を極限まで高めている。

 ゆえに95式の5.8ミリ弾など、屁でもないだろう。


 ならば操縦手は? 

 ローターが弱点だと、骨身に染みて理解している操縦手は、どう思う?


 機体は退避行動をとり始めた。操縦手の本能的行動であった。

 なにより空兵は地上からの攻撃を嫌悪するものだ。それは至極、当然の行動だった。


 ヘリはニコラスの銃撃を回避しようと、退避行動をとり続けた。自ら罠へ直進しているとも知らずに。


 ニコラスは銃撃を止めた。弾切れだ。そしてもう、撃つ必要もない。


 銃撃が止んで安心したのか、ヘリは退避行動を止めた。

 そして機体を立て直し、上昇しながら直進して、――突如、機首が跳ね上がった。


 ビル風だ。建物に当たった風が分散し、前後左右、上下に無秩序にビル群の間隙を吹き荒れる。

 高層ビル群で頻発する人工の乱気流だ。


 ヘリがいたのは、ニコラスが教官と死闘を繰り広げたあの、ツインタワーだった。

 だからニコラスはそこへ追い込んだ。


 ヘリは機体を立て直そうと宙で藻掻いた。


 前へ後ろへ、右へ左へ揺れ、結局横倒しになったまま、地上へと落下していった。


 それをニコラスは無感動に眺め、見下ろし、その場にへたり込んだ。


 終わった。


 三日三晩ぶっ続けで戦い続けた時のような疲労感だ。

 長い長い夜だった。


 安堵した拍子に集中が解けたのだろう。急に五感の感覚が戻ってきた。ゆえに、頭上からの爆音に、まったく気づけていなかった。


 ニコラスは硬直した。


 しまった。ケータが指差したヘリは5機、2機の背後に3機が続いていた。


 まだ3機、ヘリが残って――。


 と、思った瞬間、ヘリが降下してきた。

 文字通りすべての弾を撃ち尽くしたニコラスは、見上げることしかできない。


 だがヘリは、機銃もミサイルも撃たず、降下してきただけだった。


 目も開けられないほどの風圧を撒き散らして舞い降りたその巨体に、ニコラスはぎょっとする。


 マーリンHM.1、いやAW101と呼ぶべきか。

 イギリスのアグスタ社と、イタリアのウェストランド社が合併して誕生した、アグスタウェストランド社が誇る対潜ヘリコプターだ。


 少々古いが、その堅牢さと長大な航続距離は指折り付き。輸送機、救難機双方の任に堪える高性能ヘリコプターだ。ただし、維持コストが高い。


 誰がこんな機体を、と思った矢先。後部座席のドアが開いた。


「よお番犬、まだ生きてたか」


 スーツのポケットに手を突っ込み、呆れとも皮肉ともとれる何とも腹の立つ笑みをたたえた大男が立っていた。カルロだ。


 ニコラスは脱力して天を仰いだ。


 名を呼ばれて見下ろせば、ケータに支えられたハウンドが手を振っていた。どうやら彼女の指金らしい。


 考えてみれば、ハウンドが退路も考えずに敵陣に突っ込むはずが…………、突っ込むはずがない、よな? 


 ないはずだ。うん。きっとそうだ。


 ニコラスはそう自分を納得させ、空を仰いだ。


 頭上では、色の塗り替えが起こっていた。

 群青が金色の光に駆逐されていく。やがて金色も天色に取って代わられ、その後、蒼穹が広がるのだろう。


 夜の色が終わり、夜明けの色がやってきた。


――『闇が最も深くなるのは、夜明け前だからこそ』。


 暁闇に慣れた目には、朝日の光明がことさら目に染みた。

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