エピローグ

 〈西暦2013年12月19日午前11時27分 アメリカ合衆国ミシガン州 特区27番地〉


『はーい。皆さん、おはこんばんにちは。「アンドリー」でっす。初めましてー』


 画面の右上で、くりくりお目目のアマツバメが羽ばたいている。


 丸っこいフォルムにデフォルトされた絵柄はなかなかに愛らしいが、半目のせいかどこか、こましゃくれた印象を受ける。


『ってことで、ホラーゲーム実況始めるよ!』


『いやいやいや、ちょっと待った!』


 アマツバメの真下、画面右下のショッキングピンクの南瓜頭が汗を飛ばしながら静止した。


 中空に頭だけ浮かんだ姿は中々に不気味だが、歯が一つ欠けているせいで何だか締まらない。


 半目のアマツバメがさらに目を眇めた。


『ハイなんでしょう、やらかし「ジャック」君』


『うぐっ。あー……、えっと。この動画はオレ、「ジャック」が以前ネット界を騒がせた反省動画的な企画です。たぶん、この南瓜頭のアイコン調べてすぐ引っかかると思う。その、大変お騒がせしました。本当にごめんなさい。関係者とかへの謝罪はすでに済んでます。補償とか、その他もろもろも払ってます。けどネット界への謝罪はまだだから、こうして動画企画立ち上げた感じです。はい。――って感じでさぁ! こういうのは導入ってもんがあるんだよっ。まずは挨拶と自己紹介して、ちょっと雑談して、そこから本編って感じで、』


『さあ、さっそく始めようか!』


『聞けよ!』


『あ、ちなみに僕はナレーターね。実況すんのは下の二人。ってことで「ウィスプ」、自己紹介できる?』


 アマツバメに振られて、画面左下に青い炎の角灯ランタンがぼわりと浮かび上がった。


 目がついているが、垂れ目がちなせいで引っ込み思案なのか眠たいのはよく分からない。


『……「ウィスプ」。「ジャック」の親友。ゲーム実況は初めて。よろしく』


『はい、ってことで。今回はこの鬼火コンビが実況やってきます。クリアまでよろしくね。あ、おすすめのゲームとかあったらコメント欄に紹介してね。とびきり怖いホラーゲームとか最高だね! 「このクソジャック、もっと怖い目に合え!」的な紹介でも構わないよ。ただし、それ以上の悪口はNGで。僕は無関係の第三者だけど、被害者側もこれ以上騒ぎになることは望んでないし、こんな調子だけど「ジャック」もちゃんと本気で反省してる。ちゃんと見守り兼監督役もいるから、バッシングとかは勘弁してやってね。あんまり酷いのは僕が監督役に報告するし、通報もするから。――ってことで! ではでは、どぞー』


『……、ありがとう。んじゃまあ本編をプレイ――――――って、怖い、怖い、怖い! なにこのぬいぐるみ! かわいいの概念どこいった!?』


『……目がぎょろっとしてるね』


『お、序盤からいい反応。これは幸先がいいね』




「……なんだあれ」


 ニコラスはテレビ画面の前で仲良く居並ぶ三つの背中を胡乱気に見やった。カウンターに頬杖をついたハウンドが応える。


「ジャックの反省企画動画。ルカに以前、なんで公式に謝罪しないんだって責められたでしょ。そのこと気にしてたみたい」


「その結果がホラーゲーム実況?」


「ホラーゲーム苦手なんだってさ。ちなみに企画主はジャック本人だよ」


 はあ、とニコラスは息を漏らす。


 とんだ茨の道を選んだものだ。


 右下に浮かぶ南瓜頭のアイコンは、かつてジャックが迷惑系ユーチューバーとして名をはせていた頃と全く同じものだ。

 見る人間が見れば、同一人物だとすぐ判る。


 現代において、ネットを世界中すべての人と繋がれる理想郷と夢見る者は、もういない。


 匿名性というガラスの盾を手に、人々は理性のタガを外し、今日も今日とて見知らぬ誰かをひたすら攻撃しては鬱憤を晴らしている。

 ある意味、ネットという仮想空間は、人間の本性が色濃く出るカオス空間なのだろう。


 そんな場所で、愛称とはいえファーストネームを公開して、アイコンも変えずに活動すればどうなるか。考えなかったわけではあるまい。


 それでもジャックは、やると決めたのだ。


「……そういうつもりで言ったんじゃなかったんだがな」


 “行動で示せ”といったのは、ジャックに贖罪を強要したかったからではない。


 どんなに不幸で苦しくても、自ら行動を起こさなければ誰も助けてくれないという非情な現実を、経験者として警告しておきたかったのだ。

 周囲は自分たちが思う以上に利己的で、打算的なのだと。


 世界はいつだって、理不尽で満ち溢れている。


「ま、決めたのはジャックさ。ガキなりに、前へ進もうと躍起なんだろ。それに何かあれば、ルカたちが守ってくれるだろうし」


「ルカたちが?」


 ニコラスは耳を疑った。ジャックに最も反発していたのは、ルカたち少年団『雨燕アンドリーリャ』ではないか。


 ハウンドは肩をすくめた。


「『自分がいま不幸なのは、環境に恵まれてないせいだ』と考える人間にとって、恵まれた人間でも不幸になるってのは、非常に受け入れがたい事実なのさ。救いがないからな。ルカたちがジャックを嫌悪するのは、“恵まれた”人間のジャックが自分たちと同じ土場で不幸語りすることが許せないってだけじゃない。『環境さえ恵まれれば自分たちは幸福になれる』と無条件に信じたかったからさ。それにルカたちは気付いた。この世界はいつも、不条理で残酷なんだ」


 後頭部を殴られたような衝撃が奔った。


 そのまま硬直するこちらに苦笑して、ハウンドは腕を組んだ。どこか寂しげな笑みを湛えながら。


「ま、それもジャック次第さ。以前みたく調子に乗ったクソガキに戻るようなら今度こそ本気で叩き潰す。27番地のガキどもは情けをかけてやるほどお人好しじゃあない。けど、自分にとって不都合な事実に耳を塞ぐほど偏狭でもない」


 強いよ、あいつらは。


 そう告げるハウンドにつられて、ニコラスは子供たちを眺めた。


 涙目で悲鳴をあげながらもコントローラーを手放さないジャックを、ルカたちが大笑いしながら見ている。


 けれど、それは嘲笑ではない。

 おっかなびっくり外の世界へ繰り出そうとする幼子を見守る兄弟姉妹のそれだ。


 笑いながらも手は決して離さず、「ほら、こっちだよ」とおぼつかない足取りで歩み寄るのを待っている。

 そんな彼らの様子を、ウィルが真剣な表情でじっと見つめていた。


「いいよね、子供はさ。大人みたく妙な柵もないし、順応も早い。すぐ仲良くなれるし」


 ニコラスはそっと横に目を移した。


 子供らを眺めるハウンドの横顔は穏やかながらも諦観に満ちていて、熱を出して寝込む子供が外で遊ぶ子供を見つめているようで。


 羨ましいのを必死に我慢している不器用な幼子に見えた。


「行かないのか」


「は? 何に」


「ゲーム」


「なんでさ。行かないよ、ガキじゃあるまいし」


「見てるだけでも楽しいぞ?」


「行かないってば」


 そう言って、ハウンドはプイっとそっぽを向いてしまった。

 年頃の少女は難しい。


 ニコラスが頭を掻いたその時、カウンター上の使い捨て携帯が鳴った。フィオリーノ専用携帯である。


 瞬時に子供っぽい表情を霧散させたハウンドが舌打ちした。


「なんだ。……ああ? 婆さんに後始末、手伝わされたぁ? いいじゃん報酬山分けにしてくれんだし、……元はと言えばうちのせい? うるせえな。あそこにあった機密情報おたからぜんぶ渡してやったんだから文句言うな。お前そういう金のなる樹育てんの得意だろ。どうせ中国にもコネあんだろ? 持ち前の愛想と顔で何とかしてこいよ。あ、土産は北京ダックでよろしく。……は? 一緒に行こう? 絶っっっっ対、嫌」


 あのヴァレーリ一家現当主にここまで遠慮がないのは、ハウンドぐらいなものではなかろうか。一応この特区に君臨する支配者の一人なのだが。

 あ、ハウンドもそうか。


 そうこうしているうちに、もう一台の携帯が鳴り始めた。今度はルスランのである。


「はいはい、こちらブラックドッグ。……仕方ないだろ。ヴァレーリは本社、お前らはアンゴラ支部、それぞれの機密情報おたからをいただく。それで手打ちだ。は? 少ない? お前さぁ、鉱山と土地根こそぎかっぱらった挙句、政府から鎮圧代の報酬までぶん獲って何が少ないだ。コスト差し引いたらヴァレーリよりお前の方が遥かに上……うちの報酬? 婆さんから五万ドルもらったけど。一人一万ドルで山分け……ってなんでお前に文句いわれにゃならんの。どの額で仕事しようが私の勝手だろが」


 二つの携帯を両耳に当てて対応するハウンドを、ニコラスは器用だなと暢気に見やった。


 けれど、次第に面倒くさくなったのか、ハウンドは二つの携帯のマイクが重なるように置いて放置してしまった。


「おいコラ」


 思わずツッコむが、ハウンドは知らんぷりだ。


 一体どんな地獄の会話が繰り広げられているのやら。聞きたいような、聞きたくないような。


 無茶な対応でストレスが溜まったのだろう。腹立ちまぎれに煙草を咥え始めたハウンドに、ニコラスは小さく嘆息した。


 仕方がない。存外苦労性で大人ぶってる年下の相棒のために、とっておきの秘策を出してやろう。


 ニコラスは厨房の方で冷やしていた、あるものを持ってきた。

 ここ最近、ハウンドがこっそり開いては眺めている、あるものを。


 そろりそろりと足を運び、慎重にカウンターテーブルに置くと、ハウンドは目を真ん丸にした。


「これ、もしかして……」


「ああ。絵本16ページ、『粉雪の舞うドレスデンのクリスマスマーケット』に出てたお菓子の家だ」


「うわぁ、本当にお菓子の家だ、絵本に載ってたのと同じだぁ~!」


 そう、クリスマス定番のお菓子の家である。


 壁、床、柱などの基礎部分はクッキーを用い、屋根は小さな板チョコレートを何枚も重ねて作った。

 一番苦労した窓は砂糖を溶かして型に入れて作った。りんご飴(キャンディド・アップル)でりんごをコーティングしてるやつと同じものだ。


「壁とか屋根とかの材質作りは店長に手伝ってもらった。組み立てと飾り付けは俺だ」


「おお~庭までちゃんとある! よくこんなの作れたね~」


「まあな。ちょっと頑張った」


 実は、ちょっとどころではない。


 材質一つ作るのにかなり手こずったし、それを組み立てるのにかなり試行錯誤した。


 店長と何度も協議しては頭を抱え、作っては協議しての繰り返しを経て、やっと辿り着いたのがこれだ。

 正直あと一年はクッキーだのマカロンだのは見たくない。が、


「ふふっ、最初はオムレツ、フライパンにこびりつかせて困ってたのにね。本当に料理うまくなったな~ニコ」


 目をキラキラ輝かせて頬を紅潮させるハウンドは、ほわぁと小さく歓声を上げながらうっとりお菓子の家を眺めている。

 首を傾げて中を覗き込み、回り込んでは裏庭のクッキーでできたクリスマスツリーを指でそっと突いている。


 ニコラスは口端をほころばせた。頑張って本当に良かった。


 けれど、本領発揮はこれからだ。


 ニコラスはボウルに入ったマーブルチョコやグミ、キャンディーを取り出し、カウンターに並べる。何色かどうかのラベルを貼って。


「? なにこれ」


「飾りつけだ。お菓子の家の醍醐味はそれだからな」


「ええっ、私がするの? 無理無理無理。私、色分かんないし。なんで私が厨房入んないと思ってんの」


 慌てて頭を振り、「ニコがやってよ」と押し出すボウルを、手で押し留める。


 すまない。こればっかりは、どうしても譲れない。


「お前の眼も不器用さも知ってるよ。けど言ってたろ、『一度飾りつけとかやってみたい』って」


「『どうやって飾りつけしてんのかな』って言っただけだよ。飾りつけしたいとは言ってない」


「の、わりには俺が菓子焼いてるとすぐすっ飛んでくるよな。それも焼けた直後じゃなくて、作り始める時から。暇さえあればかじりついて見てるのに?」


 珍しくハウンドが言葉を詰まらせた。

 視線を右端から左端へぐるりと回し、考えあぐねて口を二、三度開閉する。


「……別に。私が焼いたのは全部黒焦げだったから、器用に作るな~って見てただけだし」


「やってみたいとは?」


「だからいいんだってば。ニコの方が上手なんだし――」


「ハウンド。自分の意思で止めることと、最初から諦めるのは違うぞ」


 ハウンドの動きがびしりと静止した。

 強張った顔に一瞬、ごく僅かな怒りと苛立ちが滲み、それがスッと作り笑いに書き換わる。


「なんだ。ニコ、まだあの『夢』の話気にしてたの? 本当にいいんだってば。私、願いとか特にないし」


 やはりバレるか。


 瞬時にこちらの狙いを勘付かれ、ニコラスは真顔を押し通す。


 『夢なんかなくったって生きられる』


 それはその通りであり、同時に虚勢でもある。


 恵まれた人間がさも気の毒そうに押し付ける理想と希望が鬱陶しくて、腹立たしくて。平静を装って、何がなんでも払いのけたくなるのだ。


 なぜ今を必死に生きる自分たちの人生を認めてくれないのか。

 なぜ夢を持たない自分たちを、勝手に“可哀想な存在”と決めつけるのか。


 ――ふざけるな。


 その憤りを、ニコラスはよく知っている。

 

 だがそれと同時に、祈らずにもいられない。


「願いだろうが、夢だろうが、なんでもいいさ。まだすべてを諦める必要はないと思ったまでだ。諦めが早いのは大人の特権だからな」


 どうか、この子がすべてを諦めきってしまいませんように。

 俺と同じ大人になりませんように。


 ニコラスはお菓子の家をそっと押し出した。


「物は試しだ。やってみろ。は嫌いじゃないんだろ?」


 ハウンドは数秒、押し黙った。

 作り笑いが剥がれ落ち、後に残ったのは、あどけない戸惑いと困惑で。どこか、途方に暮れていて。


 それでもゆっくり手を伸ばして、コバルトブルーのマーブルチョコを一つ掴んだ。


「“夏空色”か。どこに飾る?」


「……屋根。綺麗な建物って大体青いでしょ」


 しばし思案し、ニコラスは納得する。


 アフガニスタンをはじめ、中東には「ブルーモスク」と呼ばれる美しい青い建造物が存在する。アフガニスタンのハズラト・アリー廟もその一つだ。コバルトブルーのタイルで壁一面を装飾されている。

 

 マーブルチョコを一つ貼り付け、これでいいかと面を上げるハウンドに、ニコラスは肩をすくめた。


「俺は何も言わないぞ。お前の好きなように飾ればいい」


「あのね、確認ぐらいやってよ。せっかく綺麗に焼けてるのに、飾りつけで台無しにしたらどうすんの」


 ニコラスはきょとんと目を見開いた。そして、


「なんだよぅ」


「別に」


 振り払われないのをいいことに、ニコラスはハウンドの頭を掻き混ぜた。


 自由奔放に見えて、人一倍気を遣う少女の気苦労への、労いを込めて。


「ほい。録画終了」


「ああー終わったぁー!!」


「……お疲れ様」


 振り返れば、少年トリオが実況動画を撮り終えたところだった。


 憔悴しきった様子のジャックがよろよろと立ち上がり、大きく伸びをして、ふと、こちらに気付く。


「ああ、お菓子の家だ!」


 ジャックが駆け寄ってきた。少し遅れて、ウィルもやってくる。


 ジャックの言葉に触発されてか、店内にいた子供らもなんだ、なんだと寄ってくる。


「すっげぇー! 市販のやつよりめっちゃ細かい!」


「……造りがお洒落でメルヘンチックだね」


「うっわぁ懐かしい! 小さい頃一回作ったきりなんだよなー!」


 きゃいきゃいはしゃぐジャックとウィルをよそに、ルカをはじめ少年団の子供らは二人の肩越しに覗き込んでいる。


「へえー、これが『ヘンゼルとグレーテル』に出てくるお菓子の家かぁ」


「これどうやって食べるの?」


「えっ、食べるの? もったいなくない?」


「いや、残す方がもったいないでしょ……」


 初めてお菓子の家を目にした少年団は、顔を見合わせてどこか戸惑い気味だ。だが目を輝かせてしげしげ眺める様は、ジャックやウィルと同じだった。


 一方のハウンドと言えば――、案の定、手を止めてしまった。


 この手の引っ込み思案な人間は、他人の目に晒されると途端にやめてしまう。

 他者からの評価が怖いのだ。


 ゆえにすぐ、他人に丸投げしようとする。


「いいとこに来た。ジャック、ウィル、この飾りつけ――」


「そういやお前ら、プレゼント希望の手紙は書いたのか?」


 被せ気味にニコラスが問うと、ジャックはすぐさま飛びついた


「えっ、オレらにもプレゼントあるの!?」


「ちゃんと店番手伝ういい子だったらな」


「うぐっ、頑張ります……。ウィル、プレゼント貰えるってさ! 急いで書こう!」


 ジャックに手を引かれたウィルは、メモ用紙を片手に困惑した様子で立ち尽くした。

 それでも嬉しげに語るジャックの姿に感化されたのか、少しずつ笑みを浮かべ始めた。


 一方、ルカたち少年団も大騒ぎだ。


 タダで貰える物はなんでも貰う、が信条の彼らだが、今回ばかりは少し様子が異なる。

 やはりクリスマスプレゼントというのは、彼らにとっても特別なものなのだろう。


 そんな子供らを微笑ましげに見やって、ふと。背後から突き刺さる恨めしげな視線が一つ。


「なんだ」


「別に」


 不貞腐れたように飾りつけを再開したハウンドは、ぶすっと唇を尖らせた。


 子供扱いしすぎたか、とニコラスは頭を掻く。これはプレゼント希望を聞くのは後にすべきか。

 

 そんなこんなで逡巡していると、不意にハウンドが手を差し出した。


「チャコペンか?」


「違う。手紙」


「手紙?」


 誰の、と聞きかけ、周囲を見回して自分しかいないことを確認し、先手を打たれたことを悟る。


「……俺のか」


「そ。だからニコも私にプレゼントちょうだい」


 これでおあいこ、と笑うハウンドに、ニコラスは頬を掻いた。


「この歳でプレゼント貰うとは思わなかったな」


「私もだよ。んで、何が欲しいの?」


 ニコラスは天井を仰いだ。何がと言われると、意外と困る。もともと物欲はほとんどないし、飯にも困ってないし……。


「……靴下だな。もうそろそろ、繕えなくなってきた」


 本当は下着類一式を買い直したいところだが、流石に女性にそれを希望するわけにはいくまいと思って横を見ると。


 ハウンドは身を震わせ、スツールから転がり落ちかけていた。


「おい」


「いやだって。おまっクリスマスに靴下って……! くくっ、それプレゼント入れるやつ」


 腹が痛いと笑い転げるハウンドに、ニコラスはひとまず腕を組む。

 

 自分で聞いといたくせに、人の希望笑いものにしやがって。

 靴下は下手に繕うと足裏で擦れてマメができるのだ。歩くと痛いんだぞ。


 そんなこちらの苛立ちを嗅ぎ取ったのか、ハウンドは「ごめんごめん」と涙を拭った。


「ちゃんとイカした靴下選んどくよ。ニコのプレゼントも楽しみ」


 お菓子の家の屋根を青一色に染め上げたハウンドは、そう言ってスツールからぴょんと飛び降りた。


 そのまま子供らの輪の中に入り、何やら隅でコソコソ少年団メンバーと談議しているルカの元へ向かう。

 恐らく27番地のちびっこたちに配るプレゼントの確認をしているのだろう。


――いっちょ前に大人ぶって。ガキのくせに。


 ニコラスは静かに嘆息した、その時。


『先ほど、速報が入りました。17日未明、ランシング郊外のデンロン社本社ビルで発生した爆発事件について、容疑者の一人と見られるデンロン社CEO、シュウ・ハオ・シェン氏が先ほど手術を終え、東部医療拘置所へ護送されたとのことです。シュウ氏には、大規模な児童売買と性的虐待など、オンラインゲームを悪用したサイバー性犯罪の容疑がかかっており、これには氏が経営するデンロン社も深く関与していた疑いが持たれています。繰り返し、速報をお伝えします――』



 ニコラスは即座に意識を切り替えた。


 今回の黒幕、シュウは生き残った。


 墜落の寸前、操縦者が機体を立て直し、奇跡的に生還を果たしたのだ。

 合衆国にとってはまさに天恵、シュウにとっては悪夢のような展開だろう。


 五大マフィアをはじめ、犯罪組織は刑務所内にも手下を抱えている場合が多い。うっかり刑務所内の暴行に巻き込まれて、なんてのは珍しくない話だ。

 直に口封じで殺されることだろう。


 とはいえ、犠牲になった子供らの把握・保護のためには、シュウの供述が必要だ。

 司法の裁きのもと、しっかり管理して貰いたいが……はてさて、どうなることやら。


 それに、ケータのことも気がかりだ。


――ハウンドは住民と協議して対処するって言ってたが……。


 うちで手当てを受け、心底気まずそうに署へ戻ったケータの丸まった背を思い出し、眉間のしわを深くする。

 あまりキツイ対応を取られないといいのだが。


「ニコ~、このお菓子の家、クリスマスまで店頭に飾ってもいい~?」


 ニコラスはまたもしくじったと頭を掻いた。


 湿気対策、やってないんだよな。




 ***




 同時刻。


 丸一日愛車を走らせて、バートンは自宅へ帰宅した。


 西部開拓時代、開拓住民プレーンズマンが踏破した中央平原、プレーリー、グレートプレーンズを突っ切り、西経百度を超えてロッキー山脈の麓に辿り着いた先が我が家だ。

 山道を数分も歩けば、親戚が運営する私営射撃場に出る。


 自宅のロッジに入ると、留守番の任を見事果たした老犬グデーリアンが尻尾を振って出迎えてくれた。


 今年15歳になる雄のジャーマンシェパードだが、未だに現役で時おり散歩がてらサイドワインダーガラガラヘビを捕まえてくることがある。


 彼の歓待に頭を撫でて応え、バートンはソファーに身を投げ出して横たわった。


 戦闘の熱が下がらない。目にはあの狙撃が焼き付いている。


 久方ぶりの命のやり取りで興奮したのだろうか。それとも、ウェッブの今後の処遇が絶望的になったことへの悲嘆か。


 兎にも角にも、このまま戦闘の余韻に浸り続けるのはよくない。

 身体がちっとも休まらず、次へ備えられないからだ。加齢とともに体力の低下が著しいバートンにとっては致命的だ。


 バートンは酒の力を借りることにした。


 棚から秘蔵のアイリッシュとチタンマグカップを取り出し、なみなみに注ぐ。

 それを一気に二口あおって、焼けつく喉と胃への感触を味わっていた、その時。


 電子音が鳴った。


 グデーリアンがぴんと耳を立てて警戒する。バートンはプリペイド携帯の番号を確認した。


 非通知、以前クルテクが緊急連絡用にと教えた番号の一つだ。

 五つ目の電子音が鳴った直後、バートンは出た。


『貴官の実力は見させてもらった。取り逃がしはしたが、見事な腕前だ』


 バートンは、即座にクルテクでないと判断した。


 携帯を耳に当てたまま、改造を施したボイスレコーダーを手繰り寄せる。


『録音は無意味だぞ。データを活用できるのは生きた人間だけだ』


 バートンはロッジに入る前の警戒を怠った自身に舌打ちした。グデーリアンが窓の外を睨んで低く唸った。


 間違いない。ロッジ周辺に襲撃者がいる。

 少しでも妙な動きをすれば、射殺されるだろう。


 そしてそれは、銃の手入れ中の暴発事故として片づけられる。


「誰だ」


『名乗らぬ者に名乗る名などない、と言いたいところだが。米軍における貴官の実力は耳にしている。「雲を創る者クラウドメーカー」とでも名乗っておこうか』


 ボイスチェンジャーはかかっていない。余裕の表れだろう。


 男。年は自分より十歳ほど年下。発音は明瞭、イギリス英語だが、やや母音に鈍りがある。

 掠れ声は喫煙習慣によるものではなく、長年大声を張り上げたせいによるものだろう。語尾を鋭く切り上げる癖がある。


 恐らく、自分と同じ軍隊経験者、それも現役である可能性が高い。


「私に何の用だ」


『勧誘だ。ニコラス・ウェッブを殺したいのだろう?』


 一瞬息を詰まらせ、ゆっくりと息して平常に戻す。


「誤解があるようだ。私は彼を殺したいのではない。彼がこれ以上過ちを犯さぬよう止めたいのだ」


『ならば貴官はますます我々に協力せねばならない。ウェッブ元一等軍曹は今、合衆国ステイツの反逆者となった。最重要テロリストに加担し、我々が遣わした工作員を彼は殺害しようとした。これは明確な利敵行為だ。国家への「忠誠」を旗標に掲げる海兵隊員とは思えぬ愚行だな』


「我が米海兵隊が掲げる『忠誠』とは、国家への忠誠だけではない。それは共に闘う戦友への忠義であり、護るべき愛する者への献身であり、己が誇りを決して曲げぬという信念そのものだ。『Semperゼンパー・ fidelisフィデリス(常に忠誠を)』とはそういうことだ。国家への忠誠だけがあの標語の意図するところではない」


『殺害対象を随分と庇うのだな。つい三日前も殺しかけたばかりだろうに』


 バートンは沈黙した。

 こちらの心情を揺さぶって隙をつくるのが目的だ。無暗に口を開けば付け込まれる。


 こちらの動揺が移ったのだろう。グデーリアンが部屋の隅でなにかゴソゴソと噛み始めた。バートンは輪をかけて自身の精神を戒めた。


『まあいい。選択の余地は与えた。返答を聞こうか』


 仲間になるなら生を、そうでないなら死を。

 返答次第では、襲撃者がバートンの頭部を撃ち抜く。選択とは名ばかりの脅迫でしかない。


「…………返答が聞きたいのか」


『無論』


「では答えてやろう。――よくも私の教え子を殺したな、『トゥアハデ』」


 バートンは電話の主の正体が掴めていた。


神の眷族トゥアハデ』――合衆国安全保障局USSAが極秘裏に抱える準軍事組織にして、どの部署にも属さない“存在しない名無し部隊”。

 隊員はUSSAの親組織である友愛結社『双頭の雄鹿ダブルヘッド・スタグ』最高評議会が厳選した人物により構成され、指揮官に至っては『双頭の雄鹿』幹部が占めている。


 判っているのはこれだけ。

 たったこれだけの情報を入手するのに、どれだけの年月がかかったことか。


「貴様らの厚顔ぶりにはつくづく感心する。無益な戦乱を引き起こし、兵士を愛国と正義の御旗で死へ追い立てた挙句、自身の尻拭いもできぬときたか。諜報機関が聞いて呆れる。私を陣営に引き込めば、陸軍特殊作戦コマンドUS-ARSOCにメスを入れられるとでも? 彼らはもう貴様らの本性を知っているぞ。そして自分たちの戦友に、貴様らが何をしたのかも。だからオサマ・ビン・ラディン暗殺の時、デルタは動かなかったのだ」


 9.11の同時多発テロを首謀した『アルカイダ』の首魁、オサマ・ビン・ラディン暗殺の任を担ったのは米海軍特殊部隊『DEVGRU』だった。


 米陸軍特殊作戦群所属、第一特殊部隊デルタ作戦分遣隊――通称『デルタフォース』は動かなかった。


 当時の分遣隊長が命令を拒否したのである。


 命令遂行が絶対視される軍の、それも末端部隊の新兵でなく、最精鋭に相応しいエリート部隊のトップが命令を拒絶したのだ。異例中の異例の事態だった。


 軍法会議も厭わぬ全身全霊の抗議を敢行した、当時分遣隊長の心情を思うと、今でも涙が零れる。

 自分が分遣隊長でも、そうしただろう。


「テロリストといったか。おかしなことを言う。彼女に西欧の言葉を教え、戦う術を叩きこんで、駒として使い潰したのは誰だ? 無垢な赤子に害心と憎悪を植え付け、育て上げたのは誰だ? 貴様ら自身だろう。そも9.11を引き起こした『アルカイダ』は、貴様らが教育した反ソ連武装組織だっただろう。猟犬に手を噛まれて腹が立ったか? なあ?」



 ――教官。この子、絶対美人になりますよ。それもとびきりの美女にね。―― 



 工作員と呼ぶには幼すぎる少女を、愛娘見つめる目で後生大事に抱える銀髪の青年を、バートンは今でも夢に見る。


『短絡的な大勝利より、長期的な最良の結果を』、それが奴の信念だった。


 戦友のため少女を兵器として使う己の矛盾性に苦悩しながらも、少女の人としての幸福を叶えようと最後まで足掻いた。


 その結末がこれだ。


「今のこの現状は、貴様らが私の教え子の忠告を無視し続けた結果だ。その上で教え子にまで手をかけた貴様らの下劣さには心底軽蔑したとも。その師たる私によくも声をかけられたものだ」


 グデーリアンの背の毛が逆立った。襲撃者が接近しつつあるのだろう。けれどバートンは歯牙にもかけない。


 この時を待っていた。


 罠と知りながら軍律に反してクルテクの誘いに応じたのも、危険を冒して通話を長引かせたのも、ひとえに不可視の亡霊をこの眼に捉え、仕留めるため。


 時間は稼いだ。あとは『彼女』が見つけてくれる。


「自力で首輪を外されて焦ったか? 喜ぶがいい。黒妖犬ブラックドッグは世界に類を見ない優秀なテロリストに育ったぞ。貴様らが手塩をかけて育てたのだ。光栄に思うがいい」


『――――言いたいことはそれだけか。残念だ』


 通話が途切れるのと、狙撃は、ほぼ同時だった。


 だがそれより早く、バートンは足元の手榴弾のピンを爪先で引き抜き、玄関めがけて蹴っていた。

 先ほどグデーリアンが噛んでいた物の正体だった。


 轟音と爆風が吹き荒れ、屋外で悲鳴が上がった。


 ロッジを取り囲み、狙撃と同時に突入しようと画策していたのだろうが、――甘い。


 自分は精鋭兵ではない。精鋭兵を指南する者だ。


 ソファー裏に飛び込んで難を逃れたバートンの元に、グデーリアンが擦り寄ってきた。

 見れば、自分が緊急用にと用意していたナップザックを引きずっている。中には銃、弾薬だけでなく、水、食料、応急救護セットなどが入っている。


 バートンは賢く勇敢な老犬に感謝の意を表し、首輪を外して首を撫でてやった。


「さらばだ、友よ」


 グデーリアンは吼えることなく尾を一振りすると、軽やかに身を翻して割れた窓から森へと消えていった。

 近隣に住む親戚に危機を伝えるためだ。


 さて。


 バートンは奇跡的に難を逃れたアイリッシュをザックに放り込み、行動を開始した。




 ***




「――そうか。取り逃がした責は問わん。すでに事態は動いている。奴にはもう何もできん」


 利き手の義手で器用に摘まんでいた端末を置いた男は、背後に立つ中年を睨んだ。


「やはり、貴様が用意したものは使えなかったな。司令の慈悲をこうも台無しにできる貴様らの無能ぶりには、ほとほと感心する」


「我々をクビにしなかったことには感謝しますがねぇ」


 そう言って、特区警察警部補、ヴァーツラフ・クルテクは肩をすくめた。


 男の言う司令の慈悲とは、USSAが解体した中央情報局CIAの局員を引き継ぎ内包したことを指しているのだが、上が勝手に下した決定を、下々を詰る材料にされても困る。


「お言葉ですが、あの男は扱いづらいと再三にわたり忠告申し上げたはずです。使えないものを使えないと申されてもねぇ」


「よく回る舌だな。奴の横に括り付けてやろうか」


 そう言って男が指した先には、ステンレス製梯子のようなものに括り付けられた、朱晧軒シュウ・ハオ・シェンがいた。


 先ほど『トゥアハデ』が護送中の一団を襲撃して捕獲し、この閉山された銅採掘所に移送した。


 『トゥアハデ』が意図的に残した証拠のせいで、今ごろ中国特殊部隊に嫌疑がかかっているだろう。ご愁傷様だ。


 猿ぐつわを噛まされたシュウは全身を震わせて、体中の穴から体液という体液と排泄物を垂れ流している。

 身ぐるみ剥がれたせいで着ているものが上半身の包帯だけだが、刑の執行内容を考えればそちらの方が効率が良いだろう。


 今回施行される『双頭の雄鹿』最凶の極刑は、性器も対象になる。


 と、その時、顎下で何かがチロリと瞬いた。


「ねえ、『ヌアザ』。やっぱこのモグラちゃんバラそうよ。こいつがしくじったの、今に始まったことじゃないでしょ」


「駄目だ。今回の対象捕獲の任にはコレを使えというのが司令のご意思だ」


 『ヌアザ』と呼ばれた男は、クルテクの背後から首に鎌を当てた青年をたしなめた。


 呼称コードネームは『クロム・クルアハ』。

 総司令であり現USSA長官のアーサー・フォレスター自らスカウトした『トゥアハデ』最年少の“銘あり”だ。


 クルテクは顔色一つ変えず鎌を摘まみ、首から外した。


「バラすのは結構ですが、僕以上に対象の動きを読める局員を見つけてからにした方がいいと思いますよ」


は解るよ。だってあの子、おいらと同じだもの」


 墨で塗り潰したような漆黒の瞳に、クルテクの顔が写った。

 屋外灯で光る双眸は、命の煌きというよりガラス玉の反射に近く、その無機質性が不気味さを掻き立てる。


「ところで『クロム・クルアハ』様、日本旅行はいかがでしたか?」


「正直に『例の日本人学者見つかった?』って聞きなよ。おいら、回りくどいの嫌い」


「失礼を。では“シバ”は見つかりましたか?」


「ぜーんぜん。やっぱ単独民族国家は動きづらいね。特に田舎。どこ行っても人の目がついて回るし、下手すると何もしてないのにお巡りがすっ飛んでくる。あれじゃあ北朝鮮と変わらないよ。そこに住んでる人間全員が監視役だもん」


 確かに。南米出身でラテンアメリカの血が濃い青年は、人口九割以上が日本人のあの国ではさぞ目立つだろう。

 あの国の治安の良さは、何も厳格な武器の所持規制だけによるものではない。


「そういうお前はどうなんだ。例の女は?」


「“パピヨン”なら相変わらずです。アッパー半島はおろか家から出もしません。お陰で監視は楽ですがね」


「つくづく無能な男だな、お前は。誰が行動のみに注視しろと言った。奴は数十年にわたって我らに粘着する扇情記者イエロー・ジャーナリストだ。どこにでもいるうえ、無限に沸いて出てくる。奴に仲間を呼ばれると厄介だ、そのための監視だろう。無能どころか任務もこなせぬのなら無用以外の何者でもない。そんなだからCIAは潰れるのだ」


「まあまあ、『ヌアザ』。モグラちゃんが使えないのは、いつものことなんだし。何かあったらおいらがバラしてあげるよ」


 フォローにもならない慰めを適当に投げて、『クロム・クルアハ』は遺棄されたショベルカーのキャタピラ上に戻った。

 自由奔放、傍若無人を体現したような青年は、相も変わらず今日も何を考えているのか分からない。


「そこの殿方、一体いつになったらショーは始まるのかしら。こんな埃まみれの会場でレディを待ちぼうけさせるのは感心しないわ」


 銀鈴が揺れたような涼やかな声音を辿れば、妖艶な美女がパイプ椅子に座っていた。


 最古参の“銘あり”にして、『双頭の雄鹿』最高議員の一人でもある『モリガン』だ。

 どう見ても二十代前半にしか見えないが、彼女の活動時期は冷戦下のスパイ合戦期にまで遡る。


 こんな廃墟に座れそうなパイプ椅子なんて贅沢品はないので、わざわざ部下に用意させたのだろう。


『モリガン』の言葉に、『ヌアザ』が頷いた。


「そうだな。無能の叱責で無駄な時間を過ごした。さっさと終わらせよう」


「あら。私は長引いたっていいわよ? むしろ、どこまで生きていられるか見極めるのが愉しいんじゃない」


「俺は時間の浪費は嫌いだ」


 にべもない『ヌアザ』の発言に、『モリガン』は「つまらない人ねぇ」と嘆息する。


 それすら意に介さず、『トゥアハデ』現場最高指揮官である『ヌアザ』は、括り付けられたシュウの元へ歩み寄った。


「さて。元配下として何か言うことはあるか、『ディラン』『スェウ』」


 呼ばれた双子の大男は、息を揃えて肩をすくめた。


「何も」


「今まで仕えた中で一番の低能だった」


「そうか。何はともあれ監視役ご苦労。貴官らの奴との戦闘データは非常に有意義なものだ。存分に活用させてもらう」


「……あのガキは捕えなくてよかったのか。サイバー担当官が欲しいと言っていただろう」


「そもそも我ら兄弟がコレの監視に遣わされたのは、隙を見てガキを奪うためではなかったのか」


 双子が交互に尋ねると、『ヌアザ』は首を振った。


「確かにインドレイク・ヴィルタネンの才能と技量は非常に稀有なものだ。だが育成コストと捕獲リスクが高すぎる。貴官らを失ってまで入手する価値はないな」


『ヌアザ』の返答に、双子はまたも同時に鼻を鳴らして黙した。


 そんな不遜な態度を見流して、『ヌアザ』はようやくシュウに向き合った。


「さあ、『キッホル』。お前の数々の背信行為、醜態はもはや問うまい。それよりも、お前は自身の名の由来を知っているか?」


 シュウは一層全身を震わせ、滴る唾液やら尿やらの雫が増した。


『ヌアザ』はその光景に眉をしかめるが、それは痴態を晒す部下への呆れというより、駄目なペットが粗相したことへ苛立つ飼い主のそれだった。


「『地を這う王キッホル』は異形の巨人、文献によっては下半身がないとも、単眼とも、隻腕隻脚ともいわれる。俺のようにな」


 そう言って『ヌアザ』は自身の義手を軽く掲げるが、シュウはすでに見ていない。

 両脇の高架作業台の処刑人が手に持つ、皮剥ぎ専用ナイフや鉈、鋸を凝視している。


「だが共通している伝来もある。それは“手足がなく、肉の塊の様だった”というものだ。今からお前を、その名に相応しい姿にしてやろう」


 『ヌアザ』がそう言うなり、処刑人がシュウの男性器を切り落とした。


 くぐもった絶叫が上がるが、月灯りすら届かぬ坑道に飲み込まれて地上にすら届かない。


 《Hanged, drawn and quartered(首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑)》が始まった。


 旧来のイングランド法に基づくなら、罪人はまず死の寸前まで首を吊られた後、性器を切除され、腹を裂かれ、斬首されたのちに八つ裂きにされる。


『トゥアハデ』の場合はその順番が異なる。


 罪人がより生き永らえるよう執行手順を改良されている。


 クルテクは生きたまま少しずつ解体されていくシュウを背に、踵を返した。


 もう一つ、自分にはやることが残っている。




 ***




 上司に与えられた有休を早めに切り上げ、ケータはクルテク警部補専用デスク前に直立不動で立っていた。


 この男に人質に取られた祖父のことを思うと、休んでなどいられなかった。


「報告書は読ませてもらったよ。まるでアクション映画の主演俳優だ。こんなにもワクワクする報告書は初めてだよ」


「では次は主任が出向いてください。俺は二度とごめんです」


 荒れてるねぇと苦笑するクルテクに、ケータはポーカーフェイスを通した。

 祖父のことがなければ、今すぐ警棒で撲殺したいところだ。


「それで、……まだ監視は続行するのですか、代行屋『ブラックドッグ』の」


 恐らく自分は外されるとケータは踏んでいた。

 なぜなら今回の一件で代行屋と一緒に居すぎた。それもクルテクの監視外でだ。


 最悪尋問や拷問も覚悟したのだが、クルテクがいつも通り報告書の提出を求めただけで、心底肩透かしを食らった。


 いずれにせよ、もう自分は監視役としては使えない。他の誰かが当てられることだろう。


 であれば、もう自分はハウンドやニコラスたちを裏切らずに済む――。


「ああ、それね。監視はもういいんだけどさ」


 クルテクは言い忘れた買い出しリストを告げるように、あっけらかんと告げた。


「君のお爺さんの癌のステージ、上がったみたいでね。あと半年ももたないそうだ」


「――――は?」


 予想だにしない返答に、ケータは頭が真っ白になった。


 なぜだ。医師の報告では、あと三年は持ち堪えるだろうと……。


「胃と食道、リンパ節にも転移が見られた。けどまだ初期のだったから、手術で取ってもらったよ。君が今回の騒動でごたついてる間にね」


「じゃ、じゃあ! 祖父を返してください! もう監視役に俺は必要ない、祖父も人質になれない。なら返してください、余命があと僅かってんなら、せめて実家で最後を――」


「それは別に構わないけど。君、借金払えるの?」


「借、金……?」


 聞き慣れぬ言葉にケータは言葉を失った。


 そんなこちらを、物わかりの悪い生徒を見る目でクルテクが嘆息する。


「手術をしたら金がかかる、当然だろう。ざっと三十万ドルだ。そんな大金、私も持ち合わせてないからね。君の給与を担保にローンを三社はしごして三十年で組ませてもらった。今すぐ退院というなら、三十万ドルを今すぐ払ってもらう必要がある」


 君、払えるの? 


 そう問われて、ケータは絶句した。


 目の前の男への報復は遠のき、迫りくる現状に屈しまいとただ立っているのが精一杯で。


「それに君、お爺様を特区に連れ帰ってどうする気だい? 特区の劣悪な医療環境下で緩和ケアなんて上等な真似ができると思ってるの? 帰宅して速攻で安楽殺するってんなら話は別だけど、君できるの? それに今回君は裏切りを白状することで代行屋の協力を得たみたいだけど、二度めが叶うと思ってるのかい?」


 そう言ってクルテクは、一枚の書類をデスク上に滑らした。


 手に取ることもできず床に落ちるのを見送ったが、そこに書いてあった文面は垣間見えた。


「27番地からの要望書だ。君以外の駐在警官を派遣するよう求めてる。実質的な警告だ。次街に入ったら容赦しないっていうね。君とお爺様の実家も売却されたそうだ。署に入院していた君は気付かなかったみたいだけどね。君の家はもうこの署しかない。そして帰ったら最後、君、殺されると思うよ?」


 言うべき言葉も、それを発する気力も、完全に失した。


 ケータはもはや、立つことすらままならなかった。


「借金抱えて、大事な肉親を手にかけて、代行屋に殺されてまで、君はお爺様を連れて帰りたいのかい? それならいっそ、このままの方がいいんじゃないかなぁ」




 ***




 気が付くと、裏道に立っていた。署の屋外喫煙所を出てすぐのところだ。


 もっとも、喫煙所に出てわざわざ煙草を喫う律義者は自分以外におらず、そしてそのことを気に留めるほどケータには余裕が欠片もなかった。


 取り返せばいいと思っていた。


 祖父を取り返して、隙を見て特警を辞めて、事情を皆に説明すればきっと受け入れてもらえる。

 そんな甘い考えは、完全に打ち砕かれた。


「……仕事、……仕事に戻らないと」


 現実に打ちのめされたケータは、停止した思考のままフラフラと署に戻った。


 喫煙所前に路駐されたピックアップトラックを通り過ぎた、その時。


 喫煙所から、一筋の紫煙が漂ってきた。その白糸を目で追って、柱の陰にもたれる黒い小さな背に気付く。


「あ」


 突如現れた真っ黒な少女に、ケータは茫然と立ち尽くした。その手には細いナイフが握られている。


――ああ。


 死の前兆を目の前にして、ケータはすべてを諦めた。




 ***




「酷いなぁ。あまり手荒な真似はしないでくれよ。彼は数少ない使える部下なんだ」


 そう問いかけては見るものの、返答は当然の如く無視された。


 クルテクは素早く倒れたケータを一瞥する。


 うなじに鮮赤の血糸が巻き付いている。素人が見ればぎょっとする量だが、出血はそう多くない。

 命に別状はあるまい。何より、


「よくこれ壊せたね。一手間違えれば即死なのに」


 沈黙。


「……自分で体験済み、か。道理で君の足取りが追えないわけだよ」


 クルテクはケータの首元に手を当て、脈を確認した。生きている。


 ケータに強制装着させた発信機は、うなじ皮下の延髄付近に埋め込んである。


 電流による破壊は感電死の恐れがあり、外部から叩き壊すには深く埋め込まれ過ぎて首の骨が折れる。


 外科手術で除去しようにも、光感知センサーが反応し、発信機に内蔵された極少量のプラスチック爆薬が起爆して、対象の延髄を破壊、死に至らしめる。


 文字通り、逃れぬことのできぬ首輪だ。


 しかしこの少女は、この首輪の縄抜け方法を知っていた。


「外部からナイフのような突起物で突き刺し、延髄直上にある発信機を直接破壊する、か。考えたものだね。これなら流石に対処の使用がないよ。もっとも、破壊された発信機が延髄を傷つけ全身不随になる恐れもあるけど」


 少女は黙したまま、ただただこちらを見ている。


 影の中から死に目の近い生者を物色する黒妖犬のように。

 殺気と衝動を必死に無で覆い隠して待ち構える獣のように。


 クルテクは小さく嘆息した。


「元飼い主に対して何も反応なしかい?」


「………………私の飼い主はカーフィラただ一人。それ以外は存在しない。首輪をつければ飼い主になれるとでも思ったか」


「コールマン軍曹は飼い主ではないと?」


「あの人は私と同じ狗になってくれた人だ。他の四人もそうだ。ロムもレムもベルもトゥーレも、私と共に闘ってくれた。決して私を使うことはしなかった」


 ああ、そうだ。五人は少女を道具でも駒でもなく、一人の兵士として扱った。

 彼らは少女を、自分たちの戦友と位置づけた。


 ゆえに彼らは最も戦果を挙げた。そしてそれが彼らの寿命を早めた。


「無駄を承知であえて言わせてもらうけどね。止めといた方がいいよ、それ。USSAも『双頭の雄鹿』も『トゥアハデ』も、世界に巣食う巨悪の組織だ。たった一人が命懸けで立ち向かったところで、何も変わらない。変わらないよう組織設計されている。潰しても撒いていた種が新たに芽吹いて蘇る。そうなればまた振出しに戻る。この世界は英雄一人が戦って救えるほど甘くはないし、救うだけの価値もないよ」


 少女は答えない。応えない。


 そうだろうとクルテクは思った。

 彼女とは五人以上に長い付き合いになるが、彼女が自ら口をきいてくれた試しはない。


 元タリバン兵が育成した少女兵サハルは、現地工作員オペレーター統括主任だった自分についぞ心を開かなかった。


 その鬱憤が、つい、口をついて出た。


「あの五人は、君が復讐することを願って助けたんじゃない。君に、笑って生きてほしくて死んだはずだよ」


 人間のタガが外れる、その瞬間を見た。


 瞬時に少女の髪が膨らんだ。獣のように毛が逆立ったのだ。目は血走り、殺気がほとばしった。

 マズいと思った次の瞬間には、少女は目の前に来ていた。


 壁に後頭部が激突する。


 少女とは思えぬ万力がクルテクの首を締め上げる。


 視界が霞み、明滅しはじめた。


 少女の手と自分の首に挟んだ手首を基軸に、クルテクはなんとか解こうと藻掻いていた、その時。


「……っ!?」


 それが目に入った。


 白い手首に嵌められた、少女の細腕にはあまりに不釣り合いな、武骨でバンドのメッキが剥げた、高級腕時計。


「な、……んでっ……!」


 クルテクは愕然とした。


 なぜ彼女がソレを持っている。


 いや、なぜベルナルドの遺品がここにある? 


 これは棺に納めなかったはずだ。直接自分が遺族に手渡したはずだ。


 なぜなら、彼らの遺体は、彼らの棺は――。


「棺桶からも盗み出すとはいい度胸だ。同胞を見殺しにした挙句、墓まで荒らすか。ああ?」


「ぼ……く、は」


「お前、言ったよな? アフガン人は殺してもアメリカ人は生かせって。遺体は必ず本国へ還せって。アメリカ人は生きていようと死んでいようと必ず助けるんだろ……!? 何故これがここにある!? 彼らの墓に何をした!?」


 違う。これは知らない。本当に知らないんだ。


 クルテクはそう答えようとしたが、すでに視界はほとんど真っ暗で、手足に力が入らない。必死に伸ばした手は、何も掴まなかった。


 ああ、ここで彼女に殺されるのか。それも、また――。


 刹那。地面に叩きつけられた。


 実際は自重と彼女が振り払った勢いで地面に投げ出されただけなのだが、窒息しかけていたクルテクはもろに頭部を打った。


 呻きながら顔をあげ、チカチカ瞬く視界を何度も瞬きして再稼働を図る。


 ようやくまともに見え始めた頃、眼前に泥まみれの登山靴があることに気付いた。


「バ、バートン……」


 無口な旧友は、ちらとこちらを見やり、すぐ少女に目を戻した。


「悪いが彼を殺さないでくれ。私の大事な友人なんだ」


 穏やかな口調と裏腹に、バートンの手には安全装置の外れた拳銃が握られている。


 少女は無言で両の銃剣を引き抜いた。それを、バートンは片手で制し、


「君に頼みがある。君自身ではなく、君の助手に関してのことだ」


 途端、少女の動きがびしりと硬直した。

 顔が見る見るうちに強張り、その目に刹那の間、動揺が奔った。


 それを気の毒そうに見やって、バートンは鷹揚に切り出した。


「後生だ。私の教え子を――ニコラス・ウェッブを返してくれ」


 沈黙。


「え……」


 少女の口から漏れ出た声は、すぐに旋風で掻き消えた。

 自失茫然に立ち尽くす少女に、クルテクは驚いた。


 それはクルテクが初めて目にする、少女の年相応の顔だった。










―――――――――――――――――――――――――

お待たせしました!!!

第6章、これにて完結です。


さて今回はようやく黒幕の手足である四天王的存在が出てきました。折り返しということで、今後は最終決戦に向け突っ走っていきます。それまでに広げた風呂敷をきちんと回収すべく全力を尽くします……!


また今回はリアルで引っ越し、通学、就活、試験などと、滅茶苦茶な中での原稿執筆だったため、5日おきの更新とさせていただきました。


待ってくださっていた読者の方々、大変お待たせしました。いつも代行屋ブラックドッグをありがとうございます。

皆さまのお陰で、こうして細々ではありますが、切れずに更新できています。本当にありがたいです。



次回、7節の投稿は9月1日を予定しております。(夏に試験を控えているため、遅れる可能性は大です)

ただ毎日更新は無理でも、7節1話目は必ず9月1日に投稿できるよう仕上げてきます。


それまでどうか、気長にお待ちくだされば幸いです。

それでは、また。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る