6-13

「ね、ねえ。これ罠じゃない、かな……?」


 ジャックの発した言葉はまたも黙殺され、自然と声が尻すぼみになる。


 ニコラスたちと別れてから、ハウンドは一言も発しない。むしろ時間が経てば経つほど、背から放たれる威圧が徐々に増していく気がする。


 あれから自分たちは追撃を受けている。どこに潜んでいたのか、敵は背後、左右から自分たちを追い立ててくる。そのくせ、進行方向からは一切出てこない。


 子供の素人目でも分かるほど、あからさまな誘導だった。


 ジャックは怖かった。ただただ怖かった。


 自分が操作した手榴弾付きドローンで人が傷つく様を目の当たりにしたことも、ビルから落ちかけたことも、突然ウィルが撃たれたことも、そんなウィルとニコラスを置いて逃げなければならないことも。


 黒い絵の具に色を混ぜるようなものだ。

 憤りも混乱も不安も悲しみも、すべてが恐怖一色で掻き消されてしまう。


 頭の中はとうにぐちゃぐちゃで、冷静な判断力は完全に失われている。考えようにも頭がちっとも回らなくて、それが恐ろしくて仕方がない。


「伏せろ!」


 ケータにぐいと腕を引かれ、ジャックは受身も取れずにもろに尻もちをついた。

 そこでようやく、銃声が鳴っていることに気付いた。


 耳がとっくに麻痺していたらしい。


 ハウンドが床を蹴った。

 這うに近い駆け出しから跳躍し、壁を蹴って角へと消える。


 ジャックはケータに耳を塞がれた。


 頭蓋が軋むほど耳を押さえられるが、それでもなお断末魔を封殺できない。

 何より、耳に両手を使ってしまったので、視界を覆い隠すことができなかった。


 角の先から黒い何かが散った。床や壁にぶつかって、初めてそれが紅い液体だと気付く。


 その液体の先には、床に投げ出された掌が、何かを掴み損ねたように半端に開いたまま固まっていた。


「くそっ」


 ケータが悪態をついて耳から手を放した。腕を引かれ、ケータの背に隠される。


 発砲の爆音が鼓膜を直撃した。


 さっきまで守られていたせいか、耳が割れそうだ。


 耳を塞いでその場に蹲る。


 アクション映画の銃撃戦で、巻き込まれた民間人が悲鳴をあげながらその場に伏せるのを見て、馬鹿だと思っていた。さっさとその辺に隠れればいいのにと。


 たった今、理解した。これは無理だ。隠れられっこない。

 どこから飛んでくるか分からない弾の中を、立って逃げるなど自殺行為だ。


「ジャック、前っ!!」


 ケータの絶叫で顔をあげる。


 前方突き当りの廊下の角、腰だめに照準を合わせる警備員がいた。銃口が点に見えた。


 ああ、撃たれる。


 どこか他人事のように思い、成すすべもなく銃口を呆然と眺めた――刹那。


 視界を小柄な背が遮った。




 ***




 敵は自分を殺せない。それが現時点での最大の利点だった。


 敵の銃口が下がった。

 手足に照準を合わせているようだが、その一瞬が命取りだ。


 ハウンドは跳躍し、壁を蹴って、敵部隊の頭上から躍りかかった。


 先頭の男の頸部を切り裂き、着地と同時に回転。銃剣で膝裏やアキレス腱を切断する。


 銃床を振り上げる男には、股下に銃口を押しつけた。

 スラグ弾が発射され、男の内臓をめちゃくちゃに引き千切って飛び出し、後方の男に首を穿った。


 戦友の一部を頭から被って硬直したのも束の間、隊員らは激高した。


 いいぞ。もっと怒れ。その方が動きが本能的になって、殺りやすい。


 人間というものは不思議なもので、どれほど高性能の銃火器を持っていても、至近距離に持ち込まれると「撃つ」という動作から「殴る蹴る」といった原始的動作へ切り替わる。

 第一次大戦の塹壕戦において、最も活躍したのがスコップだったのは偶然ではない。


 連射による暴発の危険性を度外視してまで、回転式散弾銃リボルバーショットガンを愛銃に選んだのはそのためだ。


 ハウンドにとって射撃という行為は、斬撃が通用しなかった場合の保険に過ぎない。


 後方に続く部隊が銃口を向けるが、撃てない。ハウンドの背後に味方がいるからだ。

 一対多数の利点の一つである。


 何よりこの通路では、部隊を展開させるには狭すぎる。

 跳弾の危険性もあるとなれば、発砲を躊躇うのは必然だ。


 ハウンドは単身、敵陣へ突貫した。


 なるべく射線上に敵がいるよう立ち回って、敵の発砲を阻止する。その合間に銃剣を振り回し、スラグ弾を発射する。


「装刺刀、装刺刀(着剣、着剣)!」


 何人かがナイフを引き抜くが遅い。そして歓迎する。


 ナイフ戦がご所望というなら、手本を見せてやろう。


 突き出される切っ先を、鼻先すれすれで躱す。

 その手を取り、肘裏、腋、首に刺突して、反対側から来た男に蹴り飛ばす。その背に、銃口を構えた。スラグ弾が二人まとめて串刺しに穿つ。


 男の一人が雄叫びをあげた。

 襟に戦闘服と同系色の階級章がある。この男が部隊長か。


 部隊長が発砲した。

 味方ごと薙ぎ払うフルオート射撃に、ようやく状況を理解したかと失笑する。


――ま、関係ないか。


 立ち並ぶ敵を盾に、ハウンドは撤退した。


 撤退ついでに隊員の腰の閃光弾のピンを引き抜き、跳んで角の向こうへ退避する。


 閃光。悲鳴。止まぬ発砲。敵はもはや恐慌状態だった。


 ハウンドは道を急いだ。


 殲滅する必要はない。奇襲からの攪乱に、即時撤退。それで少しずつ兵力を削り、分散させる。


 部隊長のあの様子では部隊再編にも時間がかかるだろう。我に返って指示を出したとして、部下が従うかどうかも怪しい。


 元に戻ったハウンドは端的に告げた。


「行くぞ。なるべく私の傍を離れるな」


「あ、ああ」


 顔をひきつらせたケータが、立ち尽くすジャックの手を後ろ手に引きながら後に続いた。


 本来ならば、非戦闘員のジャックを間に挟むところだが、ケータはジャックの前を庇うように歩いている。

 まるで脅威は目の前のいると言わんばかりに。


――ああ、そういえば。こいつは見たことがあるんだったな。――『サハル』を。


 ハウンドは人知れず、口端をわずかに歪めた。


 ケータが目撃したのは3年前、特区へ来た直後、シバルバ一家による侵攻を受けた際のこと。


 今しがたも、少しだけ戻った。いや、生き返らせたと言うべきか。

 しばらくはこのままだ。『あの子』でいる方が効率がいい。


 ニコラスが居ない今しかできない。彼の前では戻れない。


 戻ればきっと、『あの子』をも救おうとしてしまうから。


『あの子』は救えない。

 ニコラスだけでなく、誰にも。


 そのことは自分が一番よく知っている。


 だからこそ『サハル』を殺すことにした。


 その方がいい。救い難い存在のままでいるぐらいなら、とっとと殺して新しい自分になった方がいい。


 もう自分は黒妖犬ブラックドッグ――ヘルハウンドだ。


 瞬間。

 熱波を孕んだ旋風が、背後から吹き付けられた気がした。


「っ!」


 全身の毛という毛が逆立ち、咄嗟に身を捩って銃剣を突き出した。


 火花が散り、消えたそこには、穂先があった。


「ふむ、殺気は消したつもりだったが」


 例の双子の片割れが立っていた。

 口調から滲み出る愉悦と好奇心から察するに、弟の方か。


 兄も部下を連れていないところを見るに、単身で乗り込んできたらしい。


 ハウンドは顔色一つ変えず、銃剣の刃を穂先、穂、柄と滑らせ、懐に飛び込もうとしたが、


「そう急くな」


 こちらの斬撃を石突で難なくいなし、反して再び穂先が突き込まれる。今度はしなりも加えて。


 後退しつつも、ハウンドはすべてそれを受けきった。


 弟がほころんだ。


「いいな、小娘。路地裏の時よりずっといい。そうこなくては、兄者に先んじて駆け付けた甲斐がない」


 愉しげに語る弟は好戦的に目をぎらつかせ、手持ち無沙汰に槍を回した。

 見せつけているのではなく、興奮が抑えられないらしい。


「おっと」


 弟が避けた。


 静かに回り込んでいたケータが、ナイフで刺突したのだ。


 近接戦闘でこのレベルの男相手では、銃は役に立たない。銃身の方向と引金にかかった指の力み具合から、発砲のタイミングを読まれてしまう。


 ゆえに短槍相手に、刃渡り20センチ程度のナイフであっても、銃よりはマシな選択といえた。


 のだが。


「気配を殺す術は知っているか。握りも悪くないが、人を刺すのは初めてか、小僧」


 蒼白に唇を噛み締めるケータのナイフは震えている。


 あれでは刺せない。それでも攻撃という選択ができただけ、御の字だとハウンドは思った。


「ケータ」


 ハウンドは弟と視線を逸らさぬまま言った。


「借りは必ず返す。――ジャックを頼む」


「……すまん」


 頼んだのに謝罪される実直さに胸裏で苦笑する。祖父を人質に取られてなおこちらに味方する、その義理堅さも。


 つくづくこの男は、あの暗黒街で生きるのに向いていない。だがその稀有さが、今のジャックには救いだろう。


 彼は普通の子供だ。自分とは違う。


 ケータが背後で固まるジャックを引き連れ逃げる。

 足音が消え去った頃合いで、弟が待ち切れぬとばかりに槍を一回転させた。


「さあ、続きといこう」


 そう笑う弟に対し、ハウンドは表情を無にした。


 さあ、出てこい『サハル』。――お前の出番だ。




 ***




「――――僕、死ぬの……?」


「死なない。その程度の傷じゃ死ねない」


 そう返したニコラスは、応急救護セットの残りをポケットに突っ込み、ウィルの頭を撫でてやった。


 深さ8ミリにも満たない裂傷だ。痕は残るだろうが、止血すれば問題ない。


 ニコラスはスケルトン銃床に戻ったAKS74を柱に立てかけた。現状を鑑みるに、こいつはもう無用の長物だ。


 敵狙撃位置の推定はビル正面、1.1キロ先にあるツインタワー屋上だ。


 これまでの弾痕箇所から逆算するに、敵は屋上の左手側に陣取っている。対するニコラスが今いるのは、ホール窓際中央部の柱だ。


 任務達成条件は一つ。

 ウィルを抱えて、この場を無事離脱すること。それ以上の戦果は望めない。


 実質的に、狙撃による反撃が不可能だからだ。


 敵との距離は1.1キロ。高低差こそないが、遠すぎる。


 鹵獲した武器で最も射程が長いのは、辛うじて零点規正を済ませたCS/LR4ボルトアクション狙撃銃の600メートルだ。

 それも、高低差や気象条件、偏流などを無視した場合の話。

 実戦で扱った場合、せいぜい550メートル当たりが関の山だ。


 しかもCS/LR4が零点規正で合わせたのは25メートル、すなわち300メートル先の標的を当てるよう調整している。


――人民解放軍はCS/LR4の最大射程を3350メートルとしているが……。


 最大射程とは、命中精度を考量せず、単純に弾が飛翔した最大距離のことをさす。

 要するに当たっても敵を殺せるかどうか分からず、実質的に無意味な数値だ。額面通り受け取れるものではない。


 今の自分にできる選択肢は離脱一択のみ。


 問題は、敵がすんなり逃がしてくれる相手ではないということだ。


――12.7㎜口径の対物ライフルとなると、M107か、TAC-50か。


 TAC-50だったら厄介だ。有効射程は2キロメートル以上、しかもこれまで幾度となく世界最長狙撃記録を叩きだしている。

 うち最長は3540メートル。発砲から着弾まで10秒もかかる超遠距離狙撃だ。


 そしてバートン教官が好むのは、そういう銃だった。


 あの人は腕試しに新銃を使って自身の限界を試すことはまずない。あの人が重視するのは、どの銃が最も任務達成有効か、その一点だけだ。

 常に確実性を取り、どの銃がどういう結果を残しているかを重視する。


――得物をTAC-50 と仮定して、距離1110メートル、誤差17メートル。俯角……――。


 ニコラスは狙撃に必要な環境情報を整理する。


 幸いなことに、地上から吹きあがる黒煙で、風向きと風速を読むのには困らない。このまま教官の射界も覆ってくれればいいのだが。


「ウィル、動けるか」


「……なに、するの……?」


「移動する。まずはあそこの柱までだ」


 敵の位置なら判明している。


 あれだけ弾をばらまいたのだ。狙撃位置は容易に換算できる。


 着弾はホール右側に扇状に集中している。弾痕もすべて、左前方から右後方にかけて斜めにえぐれており、射線はホール奥に向けて斜めに横切っている。


 つまり、敵狙撃位置はツインタワー屋上の左側だ。

 発火炎マズルフラッシュも肉眼で確認した。間違いないだろう。


 そしてその位置であれば、ホール左後方が死角になる。


「左奥のラウンジが見えるな? 柱を伝って隠れながら、ラウンジのカウンターテーブルの中へ行く。そこなら敵から撃たれないし、カウンターに隠れながらなら奥の通路に行ける。この場を離脱できる」


「……でも、かなり距離があるよ。それに僕、走れるかどうか……」


「俺が抱える。少しきついかもしれないが、我慢してくれ」


 そう言って、ニコラスはウィルに防弾着を着せた。その腋下に首を差し入れ、肩に担ぎ上げる。


 消防夫搬送ファイヤーマンズキャリーと呼ばれるもので、この搬送方だと片手が空く。

 さらにニコラスは、位置をずらし、ウィルの頭部の方で隠した。これで自分の頭部はウィルの防弾着に守られ、ウィルの頭部は自分の胴体で守られる。


 といっても、12.7㎜口径弾は防弾着ごとき貫通してしまうのだが、まあ悪足掻きだ。


「行くぞ」


 ニコラスはホール内に侵入する黒煙の動きを注視した。


 有害物質が混入した噴煙は深呼吸すらままならない。だが身を隠すには、もってこいだ。


 うねる黒煙が宙に幾重の渦を巻く。嵐雲の中で小さな竜巻がぶつかり合っているようだ。


 その嵐雲が一層濃くなった時、ニコラスは駆け出した。


 頭を出した瞬間、弾丸が耳元を掠め、後方の床をえぐった。


 ニコラスは慄然とした。

 撃つか、この距離で、この黒煙の中を。


 ニコラスは死に物狂いで走った。たったの20メートルが、100メートル先にあるかのように思えた。


 柱に辿り着く寸前、義足への重心のかけ方を誤ったニコラスは転んだ。


 自動平衡制御が各関節部に付随しているとはいえ、人ひとりを抱えて走ることは想定されていない。


 それが功を奏した。


 こけて床に投げ出された直後、頭上の柱がへこんだ。ちょうどニコラスの胸があった箇所だ。


 ニコラスは投げ出されてしまったウィルを柱の陰に引きずり込んだ。


「悪い。大丈夫か」


 ウィルは何とか頷いた。

 喘息の持病があるのか、咳き込んでしまってまともに喋れないのだ。


――こりゃ持久戦も無理だな。


 ニコラスは臍を噛んだ。


 教官の死角に入るまであと柱が2本と10メートル、計あと50メートル。そこまで行けるか……いや、行くしかない。


 ニコラスはウィルを抱え直し、間を置かずに走り出した。


 1キロを超える超遠距離狙撃となれば、通常の狙撃と違って調整事項は多岐にわたる。

 教官に照準を調整させる暇を与えない作戦だった。


 1本目を超え、数秒後間を置いて、2本目の柱へ駆け出す。


 発砲はない。


 2本目へ辿り着いた。


 発砲はない。


 ニコラスは斜め後方に走っている。

 距離と位置双方への変更だ。これに気象条件と地球の自転関連等も換算して調整しなければならない。


 発砲は、まだない。


 ニコラスはすぐさま2本目を飛び出した。


 死角まで、あと8メートル、6メートル、4メートル、3、2、1――死角に入った。


 ラウンジに到着したニコラスは、オーク材のカウンターテーブルを背にへたり込んだ。


 途端、義足接合面から激痛がこみあげてくる。


 切断痕の骨部に接合端子を直接インプラントしている骨直結型義足は、元来激しい動作に向いていない。

 電子制御で負荷は極力最小に抑えているものの、先ほどの戦闘と今回ので限界はとうに超えている。


「もう大丈夫だ。今降ろしてやるから――」


 ウィルを降ろそうと、頭を下げた――瞬間。


 カウンターに大穴が空いた。


「――は?」


 ニコラスは頭が真っ白になった。


 何故撃てる。ここは、教官からは死角のはず。


 ニコラスは反射で床に身を投げ出した。


 2発目が着弾し、木片が四散する。


 ガラスが全損した窓の遥か向こう、黒煙の垣間にほんの微かに視認した発火炎の位置に、しまったと思った。


 位置が変わっている。屋上左側から、中央へ発火炎が移動している。


「嘘だろおい」


 移動自体は不可能ではない。


 TAC-50 の重量は11.8キロと比較的軽量、航空機関砲の20口径弾を使用するダネルNTW-20でないかぎり、抱えて狙撃地点を移動することはできなくもない。


 だがこの短時間で狙撃地点を移動し、1キロ以上先にいる獲物に照準を合わせることは不可能だ。


 となれば、想定しうる可能性は一つ。


 敵は最初から、屋上中央にいた。


「んのクソジジイ……!」


 ニコラスは自身の迂闊さを呪った。

 よくよく考えれば、あのバートン教官がみすみす己の位置を悟らせるはずがない。


 屋上左で視認した発火炎は恐らくダミー。

 当初の連発は、自分たちの退路を誘導するだけでなく、こちらに狙撃地点を想定させるためのものだ。


 左にいると思わせておいて、こちらが思惑通り動くのをずっと待ち構えていた。


「くそッ」


 ニコラスはウィルを抱え、急いでカウンター内に頭から飛び込んだ。


 それを冷笑するように3発目が背を掠めた。防弾着の鉄板が弾け飛び、その衝撃でニコラスはカウンター内へ転がり落ちた。


 受身も取れず肩から落ち、一瞬呼吸が止まる。が、すぐさま大口を開けて深呼吸する。

 息を止めてはならない。思考が停止してしまう。


 だが思考を働かせたところで、絶望がさらなる絶望に変わっただけだった。


「……詰んだな」


 敵が屋上中央にいるなら、死角はない。ホール全域が敵の射程範囲内だ。


 カウンターを出ようにも、出入り口は窓側。出るにはテーブルから身を乗り出して移動するしかない。


 敵はそれを待っている。


 ニコラスは、逃げることもできなくなった。




 ***




 狂犬というより獣そのものだな、これは。


 『二番目ディーアー』こと弟は、繰り出す槍の刺突を悉くいなす少女を見て、そう思った。


 四つ脚に近い低姿勢で床を蹴り、両の銃剣を諸手・逆手と瞬時に持ち替え、電光石火の速度で繰り出してくる。


 間違いなく、近接戦に特化した戦士だ。

 型も流派もなにもない。本能に従うまま奔り、直感に則って攻防を繰り返す。


 なにより命を惜しまぬがゆえ、捨て身の戦法を正気で仕掛けてくる。


 子を護らんと牙を剥く母狼。狩人に追い詰められた窮獣。


――だが、獣であるなら話は早い。


 弟は槍を捨て、腰刀を引き抜いた。少女が怪訝な顔をする。


「何の真似だ、『二番目ディーアー』」


「“ディーディー”だ。我らの名はそれ以外に存在しない」


「で?」


「なに。狼相手ならば槍より剣の方がやりやすい」


 そう言って、弟はもう一本を引き抜いた。双剣である。


「さあ、再開だ」


 言うが早いか、弟は突進した。


 頭上から右剣を突き立て、後ろへ避ける少女に左剣を突き出す。


 熾烈な斬撃の応酬が始まった。


 鎬を削るたび、火花が散る。ギャリギャリと耳障りな金属音が響きわたる。避け切れなかった切っ先が皮膚を裂き、そのつど血糸が弧を描いて四散する。


 弟の血液もあったが、圧倒的に少女のが多かった。


 リーチと膂力の差だ。


 悲しいかな、男女は平等ではない。純粋な身体能力において、女性は男性に劣る。


 原始より現代に至るまで、男女で職種に差があるのは至極理に適っている。男女が真に平等というなら、なぜオリンピック種目が男女で分かれているのか。


――やはり撃たぬか。


 弟は少女の血で緋色に彩られた黒鉄の拳銃を一瞥した。華奢な細腕が繰るにはあまりに強大な逸物だ。


 筋力が劣るがゆえ、決定打に欠ける少女の渾身一撃の鉄槌なのだろう。でなければ、腕を痛める恐れのあるスラグ弾など使うまい。


 だが弟は、少女に鉄槌を振るう猶予を与える気は毛頭なかった。


 刺突し、弾き、斬り上げて。打ち合い、受け流し、鎬を削って離れ、また斬り伏せる。

 それを左右同時に、各々が独自に連携しながら繰り出す。


 攻防一体、牽制にくわえ、腹の探り合いまでも追加される。


 脳も神経も筋肉も容赦なく酷使するため、次第に息が上がっていく。

 けれど、少女の方がはるかに消耗が激しかった。


 斬撃の威力が低い少女は、懐に飛び込んで零距離攻撃でなければ有効打が出せない。ひるがえってこちらの攻撃はたった一撃でも致命傷になり得る。


 攻守ともに少女は動作が大きくならざるを得ない。これに牽制と攪乱まで加われば、疲弊するのは当然だ。

 そこに負傷と出血が追い打ちをかける。


――まだ立っていられるか。


 弟は感服した。


 同身長かつ同性相手ならまだしも、体格も膂力も劣る年端もいかぬ少女が、ここまで粘るか。恐るべき強靭さだ。


 一方で得体のしれぬ危うさも、ひしひしと感じる。


 少女の戦いぶりは、剣山の頂、切っ先の上を裸足で舞踏するようなものだ。一歩誤れば、鋭利な刃がその身を刺し貫く。


 と、少女が後方に飛びのいた。


 身をひるがえして、より細い廊下へと走っていく。あからさまな誘いだ。


――いいだろう。


 薄く笑った弟は、少女の誘いに乗ることにした。


 大方狭い空間での戦闘に持ち込んで懐に入りこもうなどと考えているのだろう。


 甘い。


 その手の戦法は、かつて自身に勝負を挑んて来た、大陸の紅棍(ホングワン)たちがやり尽くしている。


 この図体を見て屋内や狭い路地での戦闘に誘い込もうとする者は多いが、自分が体得した外家拳の大半は接近戦を想定したもの。

 修練の際も狭い空間でいかに戦うかを幾度となく鍛錬してきた。


 狭い場での戦闘は自分の十八番だ。


 興が乗った。久方ぶりに披露してやろう。


 通路に入って十数歩、さっそく少女が仕掛けてきた。


 低姿勢からの突進、と思いきや、壁を蹴って転進、側面から強襲してくる。


 振りかぶられた斬撃を、その得物ごと握り留める。すぐさま腕を捻じり下げ、がら空きになった胸に――踏み込む。


 強烈な踏み込みで、床が震動した。


「っ!!」


 少女が吹っ飛んだ。壁に激突し、床へ転がる。

 得物こそ手放さなかったが、片膝をつき、苦悶の表情で胸を押さえている。


 鉄山靠ティエサンカオ

 腰を落とした姿勢から、全体重を肘に乗せる八極拳の打撃法である。


 上手く入れば胸骨骨折や心臓震盪も可能。なのだが。


――浅い。受け流したか。


 胸を手に必死に呼吸を整える少女に弟は目を細める。打撃の直前に後ろへ跳んだのだろう。乳房の脂肪も緩衝材になったか。


――ならば。


 今度は弟から仕掛けた。


 震脚で踏み込み、下段蹴りをワンテンポ放つ。


 少女も即座に反応した。相殺すべく蹴り返してくる。先ほどの攻撃と、大音量の震脚で警戒したのだろう。


 弟はほくそ笑んだ。


 自身の足と少女の足がぶつかる、刹那。


 足同士がくっついた。


 少女がしまったという顔をした。


 転瞬、少女が倒れ込んだ。否、踏み倒された。


 斧刃脚、その応用だ。

 斧刃脚は相手の蹴りと同時に放つ蹴り技で、通常は相手の蹴りを止めるか、軸足を蹴ってバランスを崩させる。

 それを、ぶつかる寸前で足を僅かに引いて、相手の蹴りをいなした。


 足がくっついて見えたのはそのためだ。


 倒れ伏した少女の両腕に、双剣を振り下ろす。


 床に縫い留めるつもりだったが、少女は上半身を捻じって脱した。だが右肩をえぐった。


「どうした。誘ったのはお前だぞ」


 後方に飛びずさった少女に弟は哂う。


 床に点々と艶やかな紅が散っている。花びらを散らしたようで、美しいと思った。その紅の中心で脂汗を流しながら睨む少女も。


 やはり生物は、生命の危機に瀕した時が最も美しい。


「いい死合いだった。久々に愉しかったぞ、小娘」


 本心だった。弟は少女に敬服の念を抱いていた。


 近接戦において圧倒的不利なその体躯で、よくぞここまで闘ったものだ。


「手足は捥いでも構わんといわれているが……どうする。抗わぬならこのまま連れていってやるぞ」


 返答は、一発のスラグ弾だった。無論、難なく避けた。


 仕方がない。命令通り、手足を落として達磨にしてから連行しよう。


 少女めがけて弟は疾駆した。


 少女が構えようとするが、動きは緩慢で鈍い。無理もない。これほどの出血だ。もう立っているのもやっとだろう。


――まずは利き腕。


 少女の左肩関節の境目に、剣を振り下ろす。


 少女の白い細腕が胴体と泣き別れになる、と思いきや。少女は自ら身体を差し出した。


「なにっ!?」


 剣が少女の身体に突き立った。

 血が溢れ出す。切っ先から、肩甲骨に当たるゴリッとした感触が伝わる。


 直後、鳩尾に銃口が押し当てられた。


 撃発。


 12ゲージスラグ弾が天井の蛍光灯を撃ち砕く。降り注ぐ破片の最中、弟は右脇腹を押さえて飛びずさった。


 危うかった。

 あと半瞬、真横に飛ぶのが遅れていれば、腹に風穴があいていた。


 顔に風圧を感じ、目線をあげると銃剣の切っ先が迫っていた。すぐさまそれを叩き落として、弟は愕然した。


 少女が目の前にいた。漆黒の双眸に異様な輝きを湛えて。


――速い……!


 否、速度だけではない。斬撃の威力も、キレも、反射も、すべてが向上している。

 突如の変貌ぶりに弟は適応できず、防戦一方となった。


――馬鹿な、この傷と出血でなぜ動ける……!?


 限界だったはずだ。立つのもおぼつかないはずだ。先ほどの攻撃も、当たり所が悪ければ致命傷になり得た――。


 いや、あれは少女自ら剣に突っ込んできた。だから骨に当たって、剣が止まった。


――まさか。


 一つの回答に行きつき、弟は戦慄した。

 血管に氷水を注入されたように、血の気がさあっと引いていく。


 この少女は死を恐れない。だが死なない程度に加減はしている。


 いくら切り刻まれても襲い掛かってくるのは、多少切り刻まれても問題ない戦法を編み出しているから。

 この少女は自身の限界を知っている。どれほど血を流せば、どれほど斬られれば死ぬのか、動けなくなるのか。その活動限界を把握している。


 故のこの戦法だ。少女の戦法は、傷つくことが前提。


 これまでの負傷はわざとだ。あえて攻撃を受けることで、こちらの威力と攻撃範囲をつぶさに観察していた。


 獣ですらない。これは死霊だ。


 手足がもがれ、その身を焼かれてなお突貫してくる幽鬼のようなものだ。

 首を落としても剣を振るう亡者だ。


 傷つくことを恐れず、さりとて死なず。肉を削がせて骨を断たれ、それでもなお動いて生者の喉笛に喰らいつく。

 それに全身全霊、応え鍛え抜いたのが、この女だ。


――そのためのこの通路か……!


 弟は即座に離脱を図った。


 奴がこの場を選んだのは、こちらの動きを抑制するためではない。自身が取りつきやすくするためだ。


 死なない程度に攻撃を受け、取りつき、零距離で必殺攻撃を仕掛けるため。

 通常の捨て身攻撃であれば、その一発で終いだが、この少女はそれを連発してくる。


 殴っても殴っても憑りつく、死霊のように。


 冗談ではない。狂犬ならまだしも、死霊犬の相手などしてられるか。


 ともかく、今は離脱を――。


「!?」


 弟はとっさに身を捩り、宙で丸まった。


 直後、無数の火花が金砂をばらまいたように廊下を奔った。


 スラグ弾ではない。通常のバードショット散弾だ。総数、174発。

 それを壁に当て、故意に跳弾させた。


――イカれ女め……!


 床を転がり、その勢いのまま弟は走り続けた。部下の死体も容赦なく踏みつけた。


 頭部を除く全身に鉛玉を食らった。早急に取り出さねば中毒になる。


 無論、少女も無事ではないが、キレート錠剤を噛み砕きながら追ってくるあたり、想定内なのだろう。

 痛覚と恐怖が完全に麻痺している。


 開けた場所に出た。


 弟は自分がしくじったことを悟った。エレベーターホール、行き止まりだ。

 空中庭園と通じるもので、エレベーターは一つしかない。


 追い詰めるつもりが、自分が追い詰められてしまった。


 それとも、最初からそれが狙いか。


「くそっ」


 弟は十九世紀様式の蛇腹扉を手動でこじ開けた。また鉛玉を食らっては堪らない。


 閉める寸前、手が割り込んだが、その手ごと強引に閉じた。


 骨が折れ、肉が裂けて血が噴き出す。


 これでやっと片腕を――、と思った刹那。腕がぽとりと落ちた。


 肘から先がない。

 これは切断された部下の腕。


 目をあげると、銃口があった。


 撃発。轟音。

 スラグ弾が天井を穿ち、破片が降り注ぐ。掴んで逸らした銃身が弟の掌を焼いた。


 直後、腕をつっかえ棒にした張本人が侵入してきた。


 くんずほぐれつの大乱闘となった。


 乱戦の最中、昇降レバーを引いたのだろう。エレベーターが起動した。


 外にはみ出ていた腕が天井とエレベーターとに挟まれ、切断されて手首だけになる。


 その凄惨な光景を見る間もないほど、弟は死に物狂いだった。生まれてこの方、本気で守勢に転じた瞬間でもあった。


 エレベーターが止まった。


 瞬間、蛇腹扉から中央に突き込まれた刃に、少女がようやく離れた。


 少女は蛇腹扉の隙間から発砲して牽制し、その隙をついて階へ脱した。


「無様だな、弟者」


 床に転がったこちらを見るなり、兄が冷ややかに告げた。

 無表情にみえるが、その目には好奇と関心にくわえ、隠し切れぬ好戦的なぎらつきがあった。


「弟者が世話になった。これよりは我ら二人が相手だ」


 空中庭園に降り立ち対峙する少女は、無言に口元へ滴った血を舐めただけだった。




 ***




「『一番目ディーイー』、『二番目ディーアー』と合流。『チュオチャァ』との交戦に突入しました」


「『チュオチャァ』は?」


「かなりの手傷を負わせた模様。ただし、まだ動いていると……」


 シュウはふんと鼻を鳴らした。


 悪足掻きを。

 あと数分と経たずに双子が取り押さえるだろう。犯され泣き喚く様が直に見られないのが残念だ。


「双子に通達。遊んでないでとっとと済ませろと伝えろ」


「はっ」


「司令、『本部』より報告要請が来ています」


「すぐ報告書を送信しろ。それと伝達。『宴席は桃園に用意した』とな」


「はっ」


 通信士が機器に向き合ったのを見て、シュウは青白磁の茶杯から漂う菊花茶の香りを楽しんだ。

 菊花茶には鎮静効果があり、茶器は十世紀の古代王朝、北宋の代物である。


 準備はすべて整った。


 『本部』こと中国政府首脳部との密約が締結した。


 本件は五大マフィアに依頼された黒妖犬ブラックドッグが引き起こした民間人虐殺事件であり、首謀者はその依頼者たるターチィ一家ということになっている。

 そのための資料も証拠も全て準備しておいた。あとはFBIが来る前に撤退すればいい。


 すでに部下に証拠隠滅を命じ、撤退準備をさせている。あと数分もすれば完了するだろう。


 自分はこれよりヘリでビルを脱出し、近隣の私有空港にて待機済みのチャーター機で国外へ脱出する。


 これで合衆国は手を出せない。五大マフィアも。


 合衆国安全保障局USSAに関してもぬかりない。

 奴らが欲しているのは黒妖犬だ。捕獲して引き渡すもよし、中国政府を仲介させて、交渉材料にするもよし。


 あの傷だ。双子が追い詰めるのも時間の問題だろう。


「『本部』より通達! 『玄徳は宴席に向かった』。繰り返す、『玄徳は宴席に向かった』!」


 どよめきが上がった。


『玄徳』、すなわち国家主席である。祖国の最高権力者の登場で、愛国心の強い部下らは色めき立った。


 対するシュウは面白くない。そもそも中国政府を『本部』と呼称すること自体が気に食わない。

 中国政府に頭を下げた覚えなどないというのに。


 祖国に忠誠を誓う部下に配慮してのことだったが、まあいい。直にすべて終わる。


「司令、アンゴラ支部より急報が入っております。現地住民による武装蜂起が勃発したと」


 シュウは一笑に付した。

 こんな時にアフリカの僻地で内乱とは。これだから未開人の考えることは分からん。


 まるで蠅のようだ。どこにでも沸き、ぶんぶん飛び回って苛立たせる。


「追い払え。多少手荒な手を使っても構わん。現地政府は札束で黙らせろ」


「了解」


 煩わしい問題を解決して、シュウは一息ついた。あとは、主席殿との通信を待つだけだ。


 そんな時だった。


 日頃、滅多に感情を表に出さない部下が、困惑顔を隠そうともせず振り返った。


「司令、『本部』との通信が突如途絶しました」


「――――――は?」




 ***




 打つ手なし、か。


 16倍スコープ越しに、バートンはホール内を見渡した。


 ニコラス・ウェッブは諦めの悪い男だ。ゆえに、この状況下でも何か策を講じてくるかと思ったが……1キロ以上の超遠距離狙撃には、流石のウェッブもお手上げか。


 バートンはスコープから目を外さず、手元だけ動かして、右手の圧力センサが内蔵された手袋を外した。

 ウェッブがまんまとはまった発火炎の正体だ。


 握った程度では反応しないが、発砲すると反動で圧力センサが反応し、ダミーの橙色灯フラッシュライトが点滅する。対する本命は消炎器(フラッシュサプレッサー)で発火炎を極力抑えている。


 バートンは光漏れ加工の施されたスマホを取り出し、遠隔操作で電源を切った。

 近年流行りのスマートコンセントというやつだ。便利な世の中になったものだ。


 瞬間。


 フラッシュライトが破壊された。


 カシャンと軽やかな音を立てて転がる部品に一瞥もくれず、バートンはホールを遠望した。


 銃身は視認できない。人影もない。狙撃位置は不明。


 だが、撃ってきた。


 適切な銃もなく、碌な照準調整もできない現状で、撃ち返してきた。


「そうだ。それでこそお前だ、ウェッブ」


 バートンは人知れず笑みを浮かべた。


 さあ来るがいい、『百眼の巨人アルゴス』。一度お前とは対峙してみたかった。

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