エピローグ
〈西暦2013年11月8日午前5時50分 アメリカ合衆国ミシガン州 特区19番地〉
あの青年は、受け取っただろうか。
オーハンゼーは本部執務室の窓から眼前の光景に目を眇めた。
鉄筋とコンクリートからなる人工の稜線が白み始めている。夜はすでに追い立てられ、じきに太陽が顔を出す。
オーハンゼーは、この人工の山脈と森林からなる地平線の先へ羽ばたいていった友を想った。
ワキンヤンは特殊な鍛錬を積んだ鷲だ。
彼の翼なら、ものの10分であの青年の元に着くことだろう。
オーハンゼーはふと、動きを止めた。
背後に微かな息遣いを感じる。
「何用か、茨の子」
沈黙。
オーハンゼーはしばし待った。
しかし背後の相手の断固たる黙秘に根負けし、仕方なく振り返った。
『六番目の統治者』にして、代行屋のヘルハウンドが立っていた。
頭のてっぺんから爪先まで純黒で覆われた少女は、亡者に等しい相貌で口を開いた。
「別れを言いにきた」
オーハンゼーは数秒黙し、再び窓へ向き直った。
「
「『ロム』と『レム』の育て親が死んだ」
オーハンゼーは硬直した。
昔はよく、悪戯好きの双子に手を焼く彼の愚痴を聞いてやったものだ。
おしゃべりで楽観的な性格と裏腹に極めて思慮深く、にこやかに根気強く孤児を諭し導く、怜悧で実直な男だった。
親友だった。
そんな彼が、死んだというのか?
ヘルハウンドは感情を削ぎ落した面持ちのまま、新聞の切り抜きを差し出した。
数センチ四方のそれには、サヴィーノが昨晩、飲酒運転による交通事故で亡くなったと、たった一文だけで記されていた。
「サヴィーノ所長は下戸だ。せいぜい飲むのはクリスマスのホットワインぐらい。生粋のイタリア人のくせにワインが飲めないお子ちゃま舌……ロムとレムがよくそう言っていた。飲酒運転などありえない」
「ああ」
オーハンゼーは鋭利な眼光を理性の鞘から抜き放った。
腸が煮えくり返っていた。
サヴィーノはずっと、軍の発表に疑念を抱いてた。あのロムとレムが敵前逃亡などありえないと。
『ロムもレムもそうだが、5人は実に勇敢な兵士だ。目の前の任務を放り出して逃げるような、無責任な臆病者ではないよ。私はそう信じている』
そう憤っていた。
だからずっと独自に5人の、我が子のように可愛がっていた双子の行方を追っていた。
つい1週間前も、シリア出身の報道記者から有力な情報を聞けるかもしれないと、喜んだ彼から連絡があったばかりだった。
「なぜ彼が、サヴィーノが合衆国にいるのだ? 彼は1週間前にシリアに出向いたはずだ」
「その2日前に彼が話すはずだった報道記者が銃撃戦に巻き込まれて死亡したからだ。サヴィーノ所長の最後の行動は3日前の11月5日、感謝祭の準備で外出したところを孤児院関係者が何人も目撃している。そして棺桶に入って帰ってきた。遺体は即埋葬されたそうだ。事故で車が炎上したせいで、遺体が惨たらしく焼け焦げていて、とても見せられる状態ではなかった、というのが警察の返答だ」
オーハンゼーは奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りした。
間違いない。サヴィーノは口封じに殺されたのだ。
それも、遺体を焼かねばならないほどの苛烈な仕打ちを受けた。
怒りに震えるこちらをじっと見つめたヘルハウンドは、右腕をまくった。
男物の腕時計がつけられていた。
細い腕に不釣り合いなそれは、バンドが擦り切れて高級腕時計としての価値をすでに失っていた。
オーハンゼーは愕然とした。
「なぜそれがここに在るのだ……? それは」
オーハンゼーはその腕時計を知っている。
『ベルナルド』の遺品だ。
高級腕時計は現地で現金代わりとして使えるので、万が一に備えて必ず着けているのだと、生前語っていたのを覚えている。
そしてこの遺品は、彼の奥方の元へ返還されたはずだ。
彼ら5人の遺品は一つを残してすべて抹消されている。敵前逃亡した罪人の証拠を押収するという名目で、すべて処分された。
ゆえにこの時計は、ベルナルドの唯一の遺品だった。
奥方はこれを常に肌身離さず着けていたはずだ。
それがなぜここに在るのか。
ヘルハウンドは腕時計を丁重に袖口にしまいながら、ゆっくり首を振った。
「USSA局員が持っていた。あの四カ月前の強制捜査の時だ。奴ら、わざわざ不完全な変装でうちの縄張りに来やがった。どういう意味か分かるだろ?」
「それは――」
「もう5人の遺族も安全じゃないってことだ。今回のは恐らく見せしめだ。5人の発表に最も不信感を抱いてたのはサヴィーノ所長とベルナルドの妻だ。そして所長は死に、ベルナルドの奥方は遺品を盗まれた、いや取り上げられた。こうなったら『ラルフ』と『トゥーレ』の遺族も危ない」
あまりの惨さにオーハンゼーは二の句が継げなかった。
ここまでするというのか。
国家が為した過ちのために、その過ちから国家を守るために。
5人の尊厳と名誉を汚しただけでは飽き足らず、今度は遺族すら抹消しようというのか。
否、それだけではない。
オーハンゼーは少女の最初の文言の意味をようやく理解した。
見せしめをやられて堪えるのは、何も遺族だけではない。
「待て、お主まさか」
「今すぐ遺族を国外に逃がす手続きを取る。そのためのツテは用意してある。ネズパース族の
やはりか。
オーハンゼーはヘルハウンドの目的を悟った。
この3年間、この少女は自身が代行業で稼いだ資金と27番地から支払われる統治者としての給与、それらのほとんどを遺族に送金している。
民間の退役軍人支援団体と名義を偽って。
その中で唯一、彼女からの送金を拒んだ人物が『盲目の狼』――ラルフの祖母だ。
己が師が愛し慕った女性を、この少女が見棄てるはずがない。
オーハンゼーは首を振った。
「……彼女はあの場から動くまいよ。あそこはラルフが幼少期を過ごした思い出深い場所だ。儂が言ったところで動きはしまい」
「死ぬことになっても?」
「死ぬことになっても」
ヘルハウンドは小さく嘆息すると、踵を返した。
「待て、ヘルハウンド!」
オーハンゼーは叫んだ。
少女が足を止める。
オーハンゼーは慎重に、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「事態に一刻の猶予もないことは分かった。ならばなおさら思い留まれ。特区を出てはならん。これは罠だ。奴らの狙いはお主ただ一人、お主の命こそが奴らの目的なのだ。頼む、考え直してくれ」
ヘルハウンドはしばし無言だった。
そして振り返り、懐から2通の封筒を差し出した。
「27番地の全利権に関する譲渡状だ。それとこっちは私用の。……今すぐ出て行くってわけじゃない。けど、もう時間がないから」
後は頼んだとばかりに封筒をデスクに放った少女は、再び踵を返した。
オーハンゼーは思い知った。
もう彼女は止められない。止まらない。
それでも、オーハンゼーは叫ばずにいられなかった。
「『息子』が望んでお主を置いていったと思うか……!?」
ヘルハウンドが全ての動きを停止した。そしてゆっくり吐き出した。
酷く軋んだ掠れ声だった。
「……やっぱりあんたがラルフの父親か」
「いかにも」
オーハンゼーは即答した。
かつてネズパース族が敢行した126日間にわたる大逃避行は、失敗に終わった。
多くのものが米陸軍に投降する中、ごく少数だけカナダに逃げ延びることに成功した者がいた。
彼らはスー族ラコタの民、『
逃げ延びたネズパースの戦士の名は、『
オーハンゼーの祖先の名だ。
オーハンゼーはスー族ではなく、ネズパース族の末裔だった。
「血の繋がりは一切ない。我がネズパースの森に棄てられた乳飲み子だったあやつを拾って育てたのは『盲目の狼』だ。それを鍛え、生きる術を叩きこんだのが儂だ。憎き白人の子よ。喧しいほどお喋りで、底抜けに陽気で、愚直なまでに優しかった。憎たらしくも愛しい、愚かな我が息子よ」
ヘルハウンドは凍り付いていた。
無表情の顔からは何も読み取れなかった。
それでもなお、オーハンゼーは語り続けた。
「息子はお主に幸あれと願って命を捧げたのだ。お主を復讐に奔らせるためでは断じてない。頼む、思い留まってくれ。他にも何か方法はあるはずだ」
少女は何も応えなかった。何も。
黙ったまま身を翻した少女にオーハンゼーは絶望した。
「サハル!」
思わず本名を叫んだオーハンゼーに、少女の表情にようやく変化が生じた。
黒く塗り潰した双眸に、底知れぬ怒りと憎しみを滾っていた。
「そのガキなら5年前に死んだ。私はブラックドッグだ」
そう吐き捨てた少女は、朝日に背を向け立ち去った。
オーハンゼーは少女が消えていった暗がりを見つめたまま、動けなかった。
――――――――――
【あとがき】
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
6節以降は現在執筆中ですので、しばらく投稿はお休みとなります。
予定では3月1日から3~4日間おきの投稿、という形になるかとは思います。
お待たせしてしまって申し訳ありませんが、どうかお待ちいただければ幸いです。
また、かなりのどマイナー作品だと思ってはいましたが、予想以上の好評をいただき、驚くと同時に大変ありがたく思います。
特に、毎度応援してくださる方々には頭が上がりません。本当にありがとうございます。
さて。
第5節でようやく絵本の謎が解けたわけですが、これについていくつか補足を。
・先住民の部族名について
→今回記述したアメリカ先住民の部族名は、一般的に知られている名称を用いています。書籍によってはネズパース族はネ・ペルセ族、スー族はラコタ族と表記されることがありますが、今回は誤解を避けるため「ネズパース族」「スー族」で固定させていただいております。どっちも入植者が勝手につけた名前なんですけどね。
・先住民の足跡
→結論から言うと、先住民の足跡はアルファベットになりません。たまたま民俗学好きな作者がネズパース族のこと調べてて、「これなんかRっぽいな~」と思ったところから、今回の物語の発想になっています。史実では、ネズパース族はワシントン州コルビル居留地の前に、オクラホマ州に移住させられているので、足跡がRになることはありません。この部分だけは作者の妄想となります。史実ではないのでご注意ください。
ただ、先住民が地上絵を描くレベルであっちこっちに強制移住させられたのは事実です。それだけはあしからず。
ではまた、6節でお会いしましょう。
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