5-12

 血走った目が、常軌を逸していることを嫌でも覚らせる。

 息は荒く、眼球は微かに揺れ、首下には蕁麻疹が見てとれる。


 違法薬物メタンフェタミンの典型的な副作用だ。


 常用者だった母親を見て育ったニコラスには、ひと目で分かった。


首領ドン! 危険です、お下がりください!」

「無駄無駄。5ポンド・ブロックのセムテックスが4つ、計20ポンドの爆薬だ。3階建てビルぐらいなら丸々吹っ飛ぶよ。こんな遮蔽物もないだだっ広い高速道に逃げ場なんかないさ」


 部下の制止をものともせず、フィオリーノはポケットに手を突っ込んだまま悠然と立っていた。

 むろん顔色、口調ともに一切の変化が見られない。


 そんな若き暗黒街の支配者は、こちらを一瞥もせず飄々と尋ねた。


「番犬、あれ何タイプ?」

「無線起爆型の電気性爆弾だ。遠隔操作で起爆する」

「リモコンは? 本人が持ってる?」

「分からん。ケータ!」


 ニコラスが叫ぶと、ケータは顔を引きつらせながら懸命に頭を振った。


「少なくとも俺が取り押さえた時には確認できてない。多分――」


 言い淀んだケータの返答に、フィオリーノが甲高く舌打ちする。


 それを聞いたルスランが掲げた右手を下ろした。


 リモコン型爆弾では爆弾保持者を射殺しても意味がない。まずリモコンを無力化せねば。


 そして現時点では、リモコンの在り処も、ジャックに共犯者がいるかどうかも分からなかった。


 騒然たる高速道は一瞬にして凍った。


 維持派は愕然と立ち尽くし、改革派は恐怖のあまり身をすくめている。

 唯一、事態を飲み込めてない救済連合が、訝しげに首を捻っているのが無邪気で、異様だった。


 ニコラスはじりじりと位置取りを変え、ハウンドの前に立った。


 一方、ルスランがロシア語で何やら指示を飛ばしていると、突如ジャックが怒鳴った。


「動くなっ! その場から少しでも動いたら起爆させるぞ!!」


 途端、ルスランの目がすいっと細まった。絶対零度の怒気を孕んで。


「誰にものを言っている」


 永久凍土の大剣を振り下ろすような声音だった。


 あまりの気迫にジャックが怯む。が、すぐさま殺気を滾らせる。

 薬物を使用している分、歯止めが利かないのだ。


「うるさい黙れっ! お前らは人質だ! 今すぐ関所の警官を下がらせろ! 車を……いやテレビ局を呼べ! そいつらに迎えに来させろ! とびきりのスクープだ、こんな美味しいネタ奴らがほっとくもんか!」

「――なんで」


 地面にへたり込んだ赤メッシュの髪の少年が、呆然と呟く。

 内腑から絞り出したような声だった。


「どうして……ジャックは皆に真実を教えてくれるジャーナリストだって……」

「黙れこの役立たず! お前が勝手に勘違いしただけだろうがっ! 余計なことばっかしやがって……! オレは騒ぎを起こせと言ったんだ! そこの髭面イラク人捕まえろなんて誰が言った!?」


 一方的な激高は少年を打ちのめした。少年の目尻に涙が浮かぶ。


 そこにアレサが割って入った。


「『アーロン』! お願いだから爆弾を棄てて! こんなことしても何もならないわ!」

「うるさいっ! オレの本名も知らないくせに、勝手に姉貴面してんじゃねえよ!」

「姉よ! 『まだら鷲』にいる子はみんな私の家族なの! もちろんあなたもよ! こんなこと今すぐ止めなさい!」


 死人に等しい顔色のままアレサは懸命に語りかける。


 しかし、名無しの少年ジャックには届くわけもなく。

 ジャックの口端がニイィと吊り上がった。


 ナイフでくり貫いて彫られた、南瓜頭の口のように。

 歪に、陽気に、禍々しく。


「そういうとこがウザいんだよ。みんな私の家族? 自分より格下連中集めて憐れむ自分に酔ってるだけでしょ。女王様プレイがしたいんならそういう店行けば?」


 アレサは絶句した。ニコラスも愕然とした。


 大人しそうな線の細い少年はどこにもなく、化けの皮が剥がれた南瓜頭はどこまでも醜悪だった。


「大体あんた当主の孫じゃん。家も権力もコネあるくせに、わざわざ貧民街(スラム)にやって来てヒーローごっこ? マジウケる。白々しいんだよ、そういうの」

「そ……」


 あまりの暴言にアレサがよろめいた。それをギャレットが支えると、ジャックはなおさらまくし立てた。


「ほら! 困るとすぐそのグラサンに頼る。そいつギャングなんだよ? 分かってんの?犯罪者の手借りなきゃ実行すらできない無能のくせに、自由とか平等とかドヤ顔で抜かしてんじゃねえよ。ぬくぬく育った温室育ちが……! ごっこ遊びならよそでやれよっ!」

「…………テメエだって温室育ちだろうが」


 ジャックの眼球がぞろりと向いた。


 それを目を逸らすことなく見据えて、ニコラスは一歩踏み出す。

 後ろ手に右手をやると、ルスランの低い舌打ちが聞こえた。


「はあ? オレだって――」

「苦労したって言いたいのか。弾押さえただけで擦り剝けるやわな手してるくせに。バレバレなんだよ、お前。どこの家から逃げてきたか知らないが、ぐれるなら一人でぐれろ。周りを巻き込むな」


 空恐ろしいほどの沈黙の後、少年は感情を炸裂させた。

 泥濘に似たどす黒い澱が、少年の皮膚を突き破って噴出したようだった。


「うるさいうるさいうるさいぃ!! 偉そうにっ! 何も知らないくせにっ!」


 なりふり構わず怨嗟をまき散らすジャックに皆が言葉を失った。


 アレサとミチピシ三派は唖然のあまり二の句が継げず、マフィアたちは呆れ果てて失笑すらしない。


「大体なんでオレばっか責められるんだよ!? そこのインディアンどもだって散々やってんじゃねえか! オレはちゃんと配慮した! 誰も死なせてないし、怪我人だってちょっとだ! 爆弾の一つや二つでグダグダ騒いでんじゃねえよ!」

「ちょっとだと……!? クロウ補佐官が負傷したのは貴様のせいだろうが! 死にかけたのだぞ!? どこがちょっとだ!」


 あまりの言いように改革派代表が激怒する。

 対するジャックも、唾をまき散らして怒鳴り返す。


「あぁ!? んなもんに騒ぐぐらいなら、その辺に転がってる死体と注射器どうにかしろよ! 金欲しさに麻薬クラックに手出したヤク中インディアンが、オレに上から目線で語ってんじゃねえ!」


「うわあ」とフィオリーノが辟易する声が聞こえた。

 ルスランに至っては視界にすら入れていない。


 怒髪天を衝いた改革派代表は即座に口を開いたが、怒りのあまり言葉にならなかった。


 ジャックの激情の矛先は、ニコラスにも向いた。


「お前も偉そうに説教しやがったな……! 苦労してないだって!? してるだろっ! 動画つくるのにどんだけ時間と労力かかってると思ってんだ!? こっちだって命懸けなんだよ!」


 他人の事情に首を突っ込んで、荒らし回るのが命懸けなのか。


 なら、俺が戦場で懸けてきたものはなんだ。


「何を変えただって? 変えただろ! 犯人を特定してやった。そこの女が住民殺した張本人じゃねえか!」


 ああ、変えたな。根も葉もない嘘を拡散してハウンドを貶めた。


「大体テメエあの『偽善者ムナフィック』だろ!? イラクで散々撃ちまくった人殺しが! そういうテメエはなに変えたってんだよ!?」


 肘を鷲掴みにされて、我に返る。

 一瞥すれば、ハウンドの唇が下がれと動いた。


 空恐ろしいほど、乾ききった表情だった。

 喜怒哀楽はとうに枯れ果て、表情筋を動かす労力すら惜しむような。


 黒曜石に例えられる双眸に光はなく、あるのは墨で塗り潰したが如き底抜けの奈落だけ。


 ニコラスは心臓に直接、氷塊を押しあてられた気がした。


 知っている。この顔を。

 何もかもに諦観し、「どうせお前もなにもしまい」と、ぼんやり自分たちを眺めていた。


 アフガニスタンの難民キャンプでたむろしていた孤児らが、米兵を遠巻きに見る顔をしていた。


 そんな顔を、させてしまった。


 ニコラスは彼女の手をそっと振り払った。強めの語気で名を呼ばれたが、振り返らなかった。


「……変えたかどうかは知らんが。少なくとも、安全な画面の向こうで顔かくしたまま他人を貶めることも、嘘の情報で他人を煽り立てることはしなかったな」

「それのどこが悪いんだよ! ネットの醍醐味はそれだろうが! 第一、オレの動画見て勝手に勘違いした奴がしでかしたことが、なんでオレのせいになるんだよ!? 信じたのはそいつらじゃん! オレは悪くない!」


 うるせえな。


 脳裏に反響する声と、内心の声が重なった。

 腹の底で滾っていた灼熱がせり上がってくる。


 皆やってる、周りのせいだ、俺は悪くない。その一点張りだ。それ以外に言うことはないのだろうか。


 ハウンドが腕を引っ張る気配がする。


 だがニコラスは、皮下で渦巻く焦熱に気を取られて気付かなかった。


 踏み出した左脚が、低く静かな駆動音を立てた。


 ずっと叫び続けたせいだろう、ジャックはすでに息絶え絶えだった。

 それでもかすれ声で他者を引きずり下ろすことだけは止めなかった。


「つかさ、あんたその女庇ってんだろ? そいつ、五大マフィアに尻尾振って甘い蜜吸ってる尻軽女じゃん、そんなののどこがいいの? ちょっとネットに書き込んだだけでキレちゃってさぁ。ソレに気があるってもろバレじゃん。顔晒しただけじゃん」

「………………だったらテメエも顔出しでやったらどうだ? あんな下らねえ南瓜なんか被ってないでよ」

「はあ? オレ一般人だよ? そこの尻軽は悪人じゃん。犯罪者の顔晒して何が悪いの?」


 カチリ、と音がした。


 何かが切れる音でも、弾ける音でもなく。

 部屋の電源を落とすような簡素で無感動な音は、ニコラスの頭蓋に朗々と反響する。


「ニコ、もういいから下がれ。んな奴の相手なんかしなくていい」


 ハウンドが腕を強く引いて背後に隠そうとする。


 だがニコラスはその場から微動だにしなかった。

 もうハウンドの声は聞こえていなかった。




 ***




 こりゃもう潮時かね。


 セルゲイはルスランの指示通り、BTR-82A装甲兵員輸送車を超低速でじわじわと前進させていた。その背後に対爆スーツを装着した兵士が続いている。


 あの爆弾小僧は番犬に噛みついているせいで全く気付いてないが、部隊はすでにフィオリーノの隣にまで到達しつつある。


「自分が時間を稼ぐ」と手信号ハンドサインで宣言した通り、番犬は辛抱強くクソガキの相手をしている。


 呆れ果てた忍耐力だ。


 奴に借りをつくるのは実に癪だが、あんな身の程知らずのイカレポンチと対話なぞごめんだ。

 それなら古巣にマルウェア送って追っかけっこする方がまだマシだ。


 部下から一報が入り、セルゲイは即座に最高司令官へ報告する。


「閣下。準備、すべて整いました。ご命令があればいつでも」

『――ザザッ――だ待て――』


 おやまた珍しい。

 セルゲイは意外さに両眉を吊り上げた。


 番犬の申し出に素直に従った時点ですでに信じがたいが、攻撃を躊躇するのは非常に稀だ。

 明日の天気は晴れときどき槍だ。氷でできた槍が降ってくるだろう。


 あれを撃てば一発で片が付くのに。


 そう思いつつ、セルゲイは当該標的を冷淡に眺めた。


「実際その尻軽、住民ごと撃ったんでしょ? あんた言ったもんね。自衛のため住民ごと撃ったって。だったらやっぱオレが正しかったんじゃん。どこが嘘なのさ」


 あーあーあー。


 セルゲイは火にガソリンを注ぎ続ける少年にもはや感心していた。


 マフィアすら慄く爆弾を身に着けて、強くなったとでも思っているのか。

 自分で起爆させる勇気がないから、他人に命運を握らせたくせに。


 こういう手合いの奴に限って、ちょっといたぶっただけですぐ泣いて謝る。その程度の主張なのだ。


 もはやこの少年には死しか残されていないだろうが、その断末の泣き喚きを聞く羽目になる部下が憐れだった。


 予想通りの反応なぞ面白くもない。

 いっそ、拷問死ではなく溶鉱炉で溶かすことを提案しようか。


 自分が部下だったらその方が嬉しい。すぐ終わるし。


 セルゲイはヴァレーリの方を盗み見た。


 フィオリーノの表情はすでに無く、眼前の応酬に興ざめしきっている。


 背後の部下は車両に搭載した電波妨害装置を最大出力で稼働し、ぼけっと突っ立っている群衆を銃口で小突いては、片っ端から持ち物を検査している。


 おかげで無線へのノイズが酷いが、これで携帯電話を使用した遠隔起爆の線は潰せた。


 だが携帯以外の機器には対処できない。


 もしリモコンが爆弾小僧の愛用しているラジコンのものなら、機種によって周波数が違うので、妨害は一か八かの大博打になる。


 相手は20ポンドのセムテックス。誤れば即死だ。


 そう思っている合間にも、少年は喚き続ける。


「黙ってねえで何とか言えよ! オレはその女の所業を突き止めたんだ! 誰も言わねえから俺が代わりに言ってやったんだ! オレが正しかったんだろ!? なら謝れよ!」


 おうおう、ついに謝れときたか。

 セルゲイは白けた目で溜息をついた。


 フィオリーノとルスランの堪忍袋はとうの昔に限界を迎えている。自分もこんな茶番はさっさと終わらせたい。


 その時、番犬の影からヘルハウンドが飛び出した。


 止めようとした番犬の手を振り払い、その前に立ちはだかる。


「なっ、んだよ……!」


 少年が目に見えて狼狽えた。


 後ろ姿からでも分かる。かなり殺気立っている。


 アレの殺気は古参のマフィアですらたじろぐ。ヤクで興奮していなければ、少年は今ごろ卒倒していただろう。


 ヘルハウンドは両手に握った銃剣の刃を起こした。

 金属の擦れあう無機質な音が鳴り響く。


 少年はのけ反ったまま後ずさりした。


 セルゲイは違和感を覚えた。

 なぜ周りを見ない?


 ヘルハウンドが少年目がけてずんずんと歩を進める。


 少年の真っ赤な顔が見る見るうちに蒼白になっていく。

 一歩、二歩、三歩と後ずさり、止まった。


 少年の目が、据わった。


――コイツ、まさか……!


「閣下、狙撃の許可を!」

『ザザッ――許可―る』


 セルゲイはすぐさま指示を飛ばす。


 直後、ヘルハウンドは少年目がけて駆け出した。


――正気かよ……!?


 これには流石のフィオリーノも顔色を変えた。

 ルスランが叫び、装甲兵員輸送車が二人の間に突っ込む。


 少年がポケットに手を突っ込んだ。

 その右手に握られたものを見るなり、セルゲイは愕然とした。


 リモコンだ。


 少年は最初から、己の命運を誰かに託す気などさらさらなかったのだ。


「狙撃班!」

『――めです! 装甲車が邪魔で射線が――!』


 セルゲイの脳裏に〈GAME OVER〉の文字が表示された。


「ああああああああああああああああああああああああっ!!」


 少年が叫び、ヘルハウンドが奔る。

 距離はすでになく、ヘルハウンドの銃剣が閃いた。


 だが、少年の親指が動く方が早かった。


 間に合わない。


 セルゲイは最後の悪足掻きで、来たる閃光と爆風に備えた。


 が、


「――え」


 湿った衝撃音がした。水気のあるものをねじ折ったような。


 少年の右腕が、ありえない方向へねじ曲がっていた。


「えっえっ、えあ、ああああああ痛いぃいいいいいいいいイイイイイイイッ!!」


 少年が絶叫する。


 けれど右腕を蹴りひとつでへし折った男は止まらなかった。


 吸引音に似た、甲高い駆動音が鳴り響く。


 残像にしか見えぬ高速の回し蹴りが少年の腹を捉えて、吹っ飛んだ。


 蹴り飛ばされる少年に、セルゲイだけでなく全員が唖然とした。

 小柄とはいえそれなりに体格のある少年が弧を描いて10メートルも飛んでいったのだ。


 なんだこの光景は。アニメじゃないんだぞ。


「ナズドラチェンコォ!!」


 ルスランの叫びに我に返る。


 セルゲイは降ってくるもの目がけてダイブした。

 リモコンを慎重にキャッチし、そのまま前転して衝撃をいなす。


「あ、あっぶねえ……」


 セルゲイは安堵の溜息をついた。


 リモコンは無傷、爆発もなし。あとは少年を射殺すれば――。


 と振り返って、息を呑んだ。


 番犬、否、ニコラス・ウェッブが立っていた。

 左脚のズボンは焦げ落ち、下から黒々とした金属がのぞいている。先ほどの駆動音の正体だった。


 義足関節部が白煙を噴き出す。


 それを合図に義足は沈黙し、ニコラスは歩き始めた。


 蹴り飛ばされた少年は橋の上、ピクリとも動かない。


 群衆がそれを恐々と覗こうとするが、背後から歩み寄る男の姿に慌てて道を譲る。


 ニコラスは群衆の一人が持っていたロープを捥ぎ取った。

 本来なら、自身の主義主張に反する像などを引き倒すためのそれは、少年の足首に巻かれた。


 少年が呻いた。まだ生きていたのだ。


 しかしニコラスは少年の腹下に足を入れると。

 橋から蹴り落とした。


 川の流れは存外早く、足と右腕が使えない少年は当然溺れる。


 だがニコラスはロープの端を欄干に結わえ付けると、平然と引き返した。

 そしてこちらに向かってくる。


 「えっ。ちょっ、おま、」


 何、と言おうとして、右手のリモコンがもぎ取られた。


 ニコラスはそれを地面に落として、左脚を振り下ろす。


 静寂。


「…………起爆しない、か」


 人離れした膂力で、破壊を通り越してぺしゃんこになったリモコンを見向きもせず、ニコラスは腕時計を見た。


「あと8分だな」


 そう独り言つと、再び橋へと踵を返す。


 思わずセルゲイは呼び止めた。


「おい、お前――」


 セルゲイは口をつぐんだ。

 それは恐怖によるものであったが、それを臆病と誹られるいわれはないと思った。


 コレを見て、平然としていられる奴がいるのなら。


「なんだ」

「あ、いやその。お前、何する気? 何やってんのよ」

「……? 爆弾を無力化してる」

「いやもうリモコン破壊したじゃん」

「心臓のペースメーカーと起爆装置が連動してる可能性がある。あのガキの心臓が止まったのを確認してから引き上げる」


 セルゲイは絶句した。

 フィオリーノとルスランも、同様の反応だった。


 ペースメーカーもなにも。

 あの素人爆弾魔が、そんな御大層な爆弾を作れると思っているのか。


 いや、そもそも。目の前の男は正気なのか。


「溺れてる人間が自重を支えられる時間は40秒、肺が水で満たされて呼吸停止に至るまで20秒。呼吸停止から心停止に移行するのに5分、そこから3分を超えると死亡率が50パーセントを超える。現時点で1分20秒が経過してるから、あと7分40秒待てばいい」

「待つって……お前」


 頭、大丈夫?


 そう尋ねると、ニコラスは首を傾げた。


「殺さないんだからいいだろ。多少脳に障害が残るかもしれんが、生存に支障はない」


 何がおかしいんだ、と心底ふしぎそうに首を捻る男に、セルゲイは思わず後ずさった。


 所業に慄いたのではない。

 理解の範疇を超えたものへの本能的な恐怖だった。


 甘ちゃんだと思っていた。

 戦場の地獄を見てなお、人道倫理を手放せぬ愚か者だと。


 だが違う。これは違う。


 コイツは、こっちが素だ。


 今の今までフリをしていただけで、本性はこっちだ。


――誰だ、コイツを偽善者なんていったの。


 なんと生温い渾名だろう。これでは狂犬ではないか。

 いや、狂犬すらまだぬるい。


 裏社会でも時おり目の当たりにする。

 マフィアやカルテルですら忌み嫌う『筋金入り』が。


 この男は、その手の人間だ。


 返答しないこちらにしびれを切らしたか、ニコラスは不思議そうに首を捻って橋へと戻った。そのあまりの無垢さが逆に空恐ろしい。


 そんな時、マフィアを含め凍りついた群衆の中で、ニコラス以外に動く者がいる。

 ヘルハウンドだ。


 ヘルハウンドは歩くニコラスの後に続こうとして。

 瞬間、男が振り返り、ものすごい勢いで彼女の腕を掴んだ。


 少女が痛みに身を捩る。しかしニコラスは無言に見下ろした。

 地獄の門番すら尻尾を巻いて逃げ出すような、恐ろしい表情で。


「来るな」


 ヘルハウンドは硬直した。

 日頃、腹が立つほど不遜で小生意気な横顔に、初めて恐怖に滲んだ。


 ニコラスの手がゆっくり離れていく。

 だがヘルハウンドは、石になる魔法をかけられたかのように、微動だにしなかった。


 欄干のロープを解き、背を上に流されるまま浮かぶ少年の背を見つめる男に、フィオリーノがぽつりとこぼす。


「…………考えてみたらこいつ、あの手のタイプ一番地雷だったね」


 セルゲイもハッとした。


 身に覚えのない中傷に、無知で無責任な国民。己の大事なものも巻き込む無差別な理不尽と、己の左脚を吹き飛ばした爆裂。


 セルゲイは半ば呆然と、淡々と時間経過を待つ兵士の背を眺めた。


 少年は、一番相手にしてはならない男の尾を踏んだのだ。


「ね、ねえ、あなた」


 か細い声に目を向ければ、ニコラスの背後から救済連合所属の女が歩み寄ろうとしていた。Tシャツのロゴを見るに、フェミニストだろうか。


 無知とは実に恐ろしいもので、あろうことか女は説得を試みようとした。


「や、やりすぎだと思うの……相手は子供なのよ。早く引き上げないと死んじゃ——ひっ!」


 ニコラスが振り返った。機械人形が如き首の動きに、女がのけ反ったまま凍り付く。


「そうか。ならロープ持っててくれ」

「へ」

「爆弾。今からアレの腹に括り付けられた爆弾を解除する。万が一起爆すると面倒だから橋下でやる。俺が橋下でアレ受け取りにいくから、それまでロープ持っててくれ」


 途端、女は脱兎の如く逃げ出した。

 傍観していた群衆も泡を食って逃げ出す。


「なんだ。助けたいんじゃないのか」


 無感動に呟かれた言葉に返答はない。

 仕方がないと首を振ったニコラスが、再びロープを橋の欄干に括り付けようとしていると、一人の男が進み出た。


 例のペンギン警官、ケータ・マクナイトだ。

 両膝が笑っている。


「……持ってりゃいいんだな?」


 上擦った声にニコラスが頷く。震えながらも、警官はしっかりロープを握った。


 それを見届け、ニコラスは川下に降りようと土手に回る途中、ふと立ち止まってこちらを振り向いた。


 奥底で蠢く何かを塗り隠したような、その濁った眼差しにぞっとする。


「あれ」


 指さす方角を見る。


 そこには、性懲りもなく事の顛末を動画におさめようとする群衆の姿があった。先ほど逃げた女も、引きつった顔のままスマートフォンを掲げている。


「壊せ。持ってるだろ」


 思わずセルゲイはたじろいだ。

 そのたじろいだことで、ようやく我に返り、猛烈な苛立ちに襲われた。


 気を取り直して指示を仰げば、ルスランはふんと鼻を鳴らし、懐から取り出した端末を放った。

 フィオリーノもポケットの端末を部下に手渡す。


 両一家の構成員が、一斉に電子機器の回収を始め、ロバーチが用意していた電磁シールド保護つきのファラデーケージに詰め込んでいく。


 セルゲイは無線越しに指示を飛ばす。


 5秒後、ここより20キロ南方、ロバーチ二等区に設置されたミサイル発射台から、切り札が飛び立った。


 弧を描くのではなく、真っ直ぐ斜め上に飛翔するミサイルが、空を裂いて飛んでくる。


 それはセルゲイたちの頭上に到達した瞬間、炸裂した。


 閃光が走る。


 太陽の欠片が落ちてきたような強光に、群衆が悲鳴を上げる。

 そして光は、彼らが持つ電子機器をのきなみ破壊した。


 電磁パルス兵器——電子機器のみを破壊する非殺傷兵器。

 元来、都市などの各種インフラを破壊して戦線を攪乱するためのものだが、遠隔操作型爆弾の破壊にも十分効力を発揮する。高いので撃ちたくはなかったが。


 その時、視界の端で人影が動いた。


 アレサ・レディングだった。

 護衛らしき大男の制止を振り切り、虚ろな表情のままフラフラと土手を降りていく。


 その先には、警官に心肺蘇生される少年の姿があった。


 そんな彼女の肩を掴んだ者がいた。


「っ……! お爺ちゃん……!」

「案ずるな。彼に任せてある」


 オーハンゼーは孫の肩を抱くと、そっと離して押しのける。

 そして河原に向かって叫んだ。


「『荒れ野を往く犬ローミング・ワイルド・ドッグ』よ、先も言った通り、殺してはならぬぞ。死人は裁きにかけられぬ」

「………………承知しています」


 セルゲイはしてやられたと思った。

 これではあたかも、オーハンゼーが指揮して真犯人を捕えさせたかのようではないか。


 右往左往していたミチピシ改革派と維持派が、オーハンゼーの姿を認めるなり鎮まりかえる。とうの昔に求心力を失ったはずの老人は、あっという間に一家を掌握してしまった。


「ロバーチ、ヴァレーリ。此度の助力には感謝する。ひとまずは帰るがよい。じきに特警が来る」


 そう言ってオーハンゼーは河岸の森の中に停められたパトカーを指差した。


――この狸ジジイ、ずっとここで出番待ってやがったな。


 歯軋りを堪えるセルゲイの横で、ルスランが尋ねた。


「対価は?」

「いずれ話し合うとしよう。——茨の子よ」


 その時に至り、セルゲイはようやくヘルハウンドの状態に気が付いた。


 ヘルハウンドは硬直したまま立ち尽くしていた。

 今まで見たことがないほど真っ青な顔で、河原を凝視している。

 

 己の相棒である男の背を。


「……使ったな」


 ヘルハウンドがぐるんと振り返った。

 漆黒の双眸に猛烈な殺意を滾らせて。


「お前、ニコを使ったな……!? わざと彼に断罪をさせたのか!?」

「いかにも。そして謝罪する。よもやあの小僧がここまで凶行に及ぶとは思わなんだ。すまなかった」


 瞬間、ヘルハウンドの左手が閃いた。


 ピッと鮮血が散る。

 オーハンゼーの手は、ヘルハウンドの銃剣が頬を切り裂く寸前で止めていた。


「返せ……!」

「茨の子」

「返せっ!!」


 銃剣が小刻みに震えた。


 セルゲイは驚いた。ヘルハウンドがこれほど動揺を見せたのは初めてのことだ。


 オーハンゼーは頬の傷から顎へ滴る血を気にも留めず、静かに目を伏せた。


「……後のことを考えればこれが最良との判断だ。彼の意志だ。儂は彼の案にのって腹をくくったまでよ」


 彼女の手を解放したオーハンゼーは、聞いたこともないような柔和な声音で語りかけた。

 泣く子をあやすような声だった。


「案ずるでない。怒りのあまり少々荒ぶっておるだけだ。事が済み次第、お主の元へ帰るであろう。先に巣へ帰って待っておれ」


 しばし、ヘルハウンドは無言だった。

 そして銃剣をしまい、黙って踵を返して立ち去った。

 

 遠くからサイレン音が幾重にも聞こえる。

 今度こそ潮時だ。


「……彼女でも泣きそうな顔するんだねぇ」


 呟いたフィオリーノの声音が、どこか寂しげだったのは気のせいだろうか。


 一方のルスランは不機嫌そうに嘆息しただけで、左手をさっと切るように振った。


 『特区の双璧』は早急に撤収を開始した。


 部下に指示を飛ばしつつ、セルゲイはヘルハウンドが消えていった通りの先を見つめ続けた。




 ***




 指の動きが鈍くなったのを見て、自分の体が冷えていると気付いた。


 ふと視線を上げれば、太陽はすでにビル群の影に沈み、群青が天空を侵食していた。


「気が付いたか。『荒れ野を往く犬ローミング・ワイルド・ドッグ』」


 はっと振り仰ぐと、オーハンゼーが真横に立っていた。


 視線を落とせば、目の前に完全に解体された爆弾が4つ、部品ごとに並べられている。


 そしてその爆薬を、いささかつくりの荒い対爆スーツに身を包んだ特警が慎重に回収していた。


 記憶が一気にぶり返した。


 己がしでかした事の重さに、全身の血の気が引いていく。


 ポン、と肩に手を置かれた。


「そんな顔をするでない。あの小僧はすでに運ばれた。少々肺に水が入ったが、命に別状はない。爆弾も見ての通りだ。お主の上司も大事ない。皆、無事だ」


 言葉とともに置かれた手に力がこもる。

 このか細い手のどこからこんな力と熱が出てくるのか不思議だった。


「感謝するぞ、『荒れ野を往く犬ローミング・ワイルド・ドッグ』。ニコラス・ウェッブ軍曹。そしてすまなんだ。嫌なものを押し付けたな」

「…………いえ。恐らく、ここから先が一番大変だと思うので」

「なに。お主にやらせたことを考えれば、この程度の苦労なぞ苦労のうちに入らぬ」


 オーハンゼーは腕を掴むと立たせてくれた。


 吹き荒ぶ寒風に身をすくめて、ふと一人の姿を探す。


 ハウンドはいなかった。


 迫りくる夕闇が、一気に襲いかかってきた気がした。


「…………オーハンゼー当主。その、ハウンドは、何か」

「返せと言っておった」

「……は?」

「お主を返せと言っておった。お主にあの小僧を断罪させたことに怒り狂っておった。それこそ、儂の喉笛を食い千切らんばかりにな。あやつの怒りは儂に向けられたものだ。お主ではない。失望もしておらぬ」


 心を読んだかのように聞きたかった回答を返されて閉口する。


 ニコラスは視線を彷徨わせた。


 躊躇いがちに口を開き、でかけた言葉を飲み込んだ。もう一度飲み込んで咀嚼し、整理しながら慎重に言葉を紡ぐ。


「…………正義を振りかざして悪事を成すぐらいなら、最初から悪人になってやろうと思ってました、ずっと」


 オーハンゼーが振り返る気配がした。

 だが顔は上げなかった。上げられなかった。


「俺は、碌でもない街の、碌でもない母親のもとで育ちました。世間が信じる正義なんてひとつも当てにならなくて、そこら中に悪が蔓延ってた。それが俺の日常だった」


 ニコラスの世界に正義はなかった。

 あるのはいつも悪だけで、正義を振りかざして行われる悪行は、ただの悪よりずっと醜かった。


「俺はずっと正義を毛嫌いしてきました。どうせ正しく生きられないなら、最初から悪でありたい。最初から悪であれば、誰も俺に期待せずに済む。誰も俺に失望しなくなる。万が一、善を成すことがあったとしても、それは俺がやりたいと思ったからで、正義を成したかったからじゃない。だから『偽善者』って名をつけられた時、どこかほっとしたんです。――でも、もうそれじゃ駄目なんだ。俺は、あの子の英雄ヒーローだから」


 そうだ。俺はあの子だけの英雄だ。

 それ以外のモノは許されない。


「俺は英雄になれる器なんかじゃないし、悪業を成す覚悟も度胸もない。どっちつかずの半端者だ。さっきだって結局怒りに任せて暴れちまった。きっと――」


 ハウンドも、あの子も、さぞがっかりしたことだろう。


 これがかつて英雄と慕った男の本性なのだ。


 沈黙が流れた。


 川のせせらぎと木々のざわめきに、パトカーのサイレン音や人々の喧騒が混じる。

 人と自然との境界線に立っているような気分だった。


「お主の言う救いたい者が誰なのか知らぬが」


 鷹揚たる声音は力強く、音がひしめく世界で朗々と響いた。


「そやつが求めているものは、本当に英雄ヒーローなのだろうか?」

「――え?」


 ニコラスは面を上げた。


 そこには、後ろ手に手を組んだオーハンゼーの背があった。


「人には人それぞれの解釈があるものよ。何にも期待せぬ者は手すら伸ばさぬ。さすれば、そやつが求めたのは、世間の言うところの英雄ではないかもしれぬ」


 オーハンゼーは振り返った。


 全てを見通すような、何も考えていないような漆黒の双眸は、奈落と同じ色でもどこか温かかった。


「そやつはお主に救いを求めたのだ。英雄ではない。お主がお主であったからこそ、そやつは手を伸ばしたのだ。ならば、それでよいではないか」


 すとんと、熱が鳩尾に落ちた。

 先ほど全身を焼いた灼熱ではなく、泣きそうになるほど優しい温もりだった。


 そんなこちらを見据えて、オーハンゼーは皮肉げに口角を少し吊り上げた。


「まあ所詮は老人の世迷い事よ。――報酬はまた後日渡す。今宵はもう帰るがよい。この期に及んで黒狼にまで恨まれてはかなわぬ」


 白い麻衣の背中が悠々と立ち去っていく。

 その先には、地面にへたり込むアレサと、それを守るように抱え込むギャレットの姿があった。


 そこに、入れ違いでケータがやってきた。


「気は済んだか?」

「……………………悪い」

「いいさ。俺あんま役に立たなかったし。それに、おたくがやってなけりゃ五大に射殺されてた。ま、奴さんにはちとキツイ灸になったが、命があるだけめっけもんってもんさ」


 そう言ってパトカーのキーを回すケータに続こうとした時、呼び止める者がいた。


「お兄サン!」


 面を上げると、イヤドが土手に立っていた。


 黄色のテープに阻まれて土手を下れなかった彼は、右手に握られたものを放った。


 受け取ってみれば、アルミホイルの中に、焼き菓子と点線で区切られた用紙が入っていた。


「半額チケットネ。色々あったせいで渡しそびれちゃったヨ。宅配サービス、ワタシいつでも大歓迎。また電話してネ」


 また、という言葉にニコラスは泣きそうになった。


 またがあるのか、俺に。


 ニコラスはゆっくりと手を挙げた。


「ありがとう、イヤド。またな」

「うン、またネ!」


 千切れんばかりに腕を振り回すイヤドに少しはにかむ。ケータも笑っていた。


「んじゃ帰りますか」

「ああ」


 早く帰ろう。27番地へ、ハウンドの元へ。


 ニコラスはパトカーに乗り込んだ。

 気が抜けて疲れが出たのか、ものの数分も走ると寝てしまった。


 久々にあの子の夢を見た。


 泣いていたので慌てて駆け寄ったものの、触れていいのか迷って固まっていたら、あの子の方から胸に飛び込んできた。


 抱き上げて背を撫でると、泣き止んでくれた。

 笑ってくれた。


 実に都合の良い夢だった。

 あまりの都合のよさに居心地が悪くて、早く目を覚ましたかった。 

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