エピローグ
「——とまあ、今回はそんな感じで落ち着いたようです」
『ほお。流石は『
そう言いつつも、通話口の上司は満足げだ。語尾のトーンが弾んでいる。
ケータは脳内で見聞きした情報のタンスを整頓しつつ、手早く残りの情報を報告する。
これで特区駐在警官としての本日の業務は完了だ。
ベランダにもたれつつ、手持ち無沙汰に煙草を取り出そうとしてケータは我慢した。
煙草を喫うとしばらく味覚が狂う。減塩中の祖父の食事を用意している身として、うっかり夕飯のポタージュを濃い味にしてしまっては大変だ。
祖父は喜ぶだろうけど。
定時報告を聞き終えた上司は、肺を空にするような深く長い溜息をついた。
『うん。ひとまずロバーチの
「はい」
『いつもすまないね。大変だったろう』
「まあそれなりに」
ケータは第一の故郷、日本で癖になってしまった愛想笑いで聞き流す。
大変なんてものではない。
『いやーそれにしても助かったよ。君以外に人がいなくてね』
上司の心にもない賛辞に内心で毒づくも、顔に張り付いた愛想笑いは剥がれなかった。
特区駐在警官の人選は困難を極める。
現地住民との軋轢を解消できるだけのコミュニケーション力に長け、かつ五大マフィアに迎合せず、汚職に手を染めることのない高潔で強靭な精神力の持ち主でなければならない。
と、美辞麗句で飾ればこんなものだが、ケータがこの仕事を押し付けられたのは、たまたま手が空いていたからに過ぎない。
確かに、五大マフィアと組んで悪事を働くほど気は大きくないし、金を稼ぐ気もない。
移住勧告という名の強制退去を拒んだ祖父母の実家が特区内にあるため、駐在する言い訳も立つ。
非常に不愉快かつ不本意だが、任された仕事はやらねばと思ってしまう自分の損な性分が実に腹立たしかった。
「まあ祖父がいますから」
『ああ、そうか。君の実家は27番地だったね。お爺さんは元気かい?
「通院どころか元気すぎて困るぐらいですよ。心配で引っ越して損しました」
通話口で弾ける笑い声にケータは苦く笑う。
祖父マクナイトは過去に肝臓がんを患って肝切除を行っている。すでに祖母を亡くして独り身なこともあり、放っておけなかった。
第一、早くに両親を事故で失ったケータにとって、祖父は自分を引き取ってくれた恩人であり、父親代わりの大事な家族だ。
と、思ってはいるのだが。
「おい馬鹿孫! 儂の老眼鏡をどこへやった!?」
背後からの怒声に頭をはたかれたケータは「ああもう」と通話口を手で抑えて振り返る。
「テーブルの新聞の上に置いてあるだろ」
「ないから言っとるんだ。全く、儂の物を勝手に動かしおってっ」
そりゃ爺ちゃんが整理整頓しないからだろ。
几帳面なケータは、床に物が散らばっている状態が我慢ならないので、気が付いた都度ちまちま片付ける。
祖父はそれがお気に召さないらしい。
よく見れば、ソファーの真正面の床に老眼鏡が転がっている。
新聞を取り上げた時に落としたのだろう。
「ソファー前の床に落ちてるよ。もっとよく見なよ」
「見えとったらこんな忌々しいもんなんぞかけんわ」
そう吐き捨てた祖父はソファーに手を突きながら震える手で老眼鏡に手を伸ばす。
ケータは手伝いにいこうとして踏みとどまった。手伝うと年寄り扱いするなと怒鳴られるからだ。
つくづくやりがいの無い祖父である。
心配なのは確かだが、毎日のように当たり散らす祖父にケータは心底うんざりしていた。
「……すみません」
『ははは。お元気そうで何よりだよ』
ええ、今すぐ誰か代わってほしいぐらいです。
胸中でそう呟き、最後のお決まりのフレーズを口にする。
「今回の報告は以上となります。引き続き代行屋『ブラックドッグ』の監視を続行しますか?」
『上からの指示に従うならそうなるね。君は不要だと?』
「ええ。監視ではなく協力を仰ぐべきだと思っています」
ケータは丸まっていた背筋を伸ばした。
「27番地は独自の自治体制と自己防衛力を保持する、特区で唯一の中立派市民団体です。今後活動するにしても、人望もなければ予算もない我々だけでは限界があります」
『だから協力を要請すべきというわけか。前回と前々回の報告書にも書いてあったね。うん、気持ちは分かるんだけどね』
「警部補——」
『こんな我々でも米国司法の端くれに属するものということさ、マクナイト巡査部長。たとえ世論からお飾りと称されようと、署内で没収した
「…………誰も我々に期待していないのにですか」
そう言うと、上司は肩をすくめるような声音で嘆息した。
『君は温厚なわりにときどき強烈な毒を吐くね。私も君の意見に大賛成だが、残念なことに27番地住民の大半は棄民だ。市民権を放棄した彼らは合衆国民ではない。憲法違反の存在と手を組むわけにはいかないよ』
叱責ではなく、聞かん坊を諭す父親のような口調にケータは渋々引き下がった。
クルテク警部補は特警内でも、話の分かる実に稀な上司だ。
彼の機嫌を損ねる真似はしたくなかった。
押し黙るこちらに上司は苦笑したらしかった。
『そう落ち込まないでくれ。君の意見は実に真っ当だよ。我々の組織が間違ってるんだ。私としてもできる限りのことはするから、くれぐれも無茶はしないように』
「ありがとうございます」
最低限の礼節で謝辞を述べると、上司は「引き続き頼むよ」と困った声音で笑って通話は切れた。
背筋を脱力させたケータはぶるりと身を震わした。
彼方に見える一等区の摩天楼が、斜陽の逆光を浴びて黒々とそびえたっている。流石はミシガン州。まだ9月だというのに、日が傾いた途端、急激に体感温度が下がった。
秋をすっ飛ばして冬がやってきたか、はたまた太陽すら飲み込むこの街の有体に薄ら寒くなっただけか。
いずれにせよ、顔に吹き付ける夜風は十分寒い。
今日の夕飯はポタージュからシチューに変更しようか。
そんなことを考えながら室内に戻ると、さっそく祖父のお小言が始まった。
「随分な長電話だったな。女か」
「上司だよ。うちの職場のどこに出会いがあるんだ」
投げつけるように返したケータは、残り20%を切ったスマートフォンの充電を言い訳に自室に退散することにした。
そうでもしないと祖父から結婚だの孫だのあれこれ言われるからだ。
足早に自室に向かったケータは僅かな罪悪感を覚えた。
祖父が心配で同居を決意したというのに、ここ最近は祖父から逃げてばかりだ。むしろ祖父が鬱陶しくて仕方がない。
こんなことなら同居なんてしなければよかった。
スマートフォンをベッドに投げ捨て、ネクタイを緩めて何気なく振り返ったケータは、両肩をびくりと跳ね上げた。
祖父が自室前に立っていた。
「爺ちゃん?」
飛び跳ねる心臓を押さえつつ、ケータはおずおずと尋ねた。
どうしたのだろう。いつもは自室にまで追っかけてこないのに。
もしかしてもう痴呆が始まったのだろうか。
杖も持たず無言でこちらを睨む祖父にケータは狼狽えた。
本物のベトナム帰りなだけあって眼光の迫力が尋常じゃない。身も蓋もない言い方をすれば、殺人経験のある人間特有の異様な目つきをしている。真っ暗闇でも目が光る獣のように、ほの暗いのにぎらついているのだ。
そんな祖父に見込まれ硬直していたケータだが、祖父はついとベッド上のスマートフォンに視線を向けた。
「誰だ」
「へ?」
「さっきの長電話してた上司だ。今までの上司で個人の携帯にまで電話かけてくる奴なんていなかっただろう。誰だ。名前は」
詰問口調の祖父に戸惑いつつ、ケータは弁明するように説明した。
「半年前に赴任したばっかのクルテク警部補だよ。ちょっとのらりくらりしてるけど結構やり手でさ」
「やり手上司なら何で個人の携帯にかけてくるんだ。署内か無線で話せばよかろう」
「昼間は俺も警部補も忙しいし、無線はオペレーターによって繋がらないことがあるんだよ。だから携帯で報告してんの。それが一番確実だからさ」
「なら署から携帯を支給してもらえ。自分の携帯を使うな。情報が漏れたらどうするんだ」
ケータはほっとした。
何のことはない。いつもの知りたがり癖だ。
元軍人なせいか、警戒心が人並み外れて強い祖父はどうでもいいことをあれこれ聞きたがる悪癖がある。
今回も、きっとそれだろう。
ネクタイを解く手を再開させたケータは、のんびりとした口調で言った。
「心配ないよ。悪用されるような個人情報なんて持ってないし」
「そうは言ってもな――」
「大丈夫だって。相手は上司だよ? 前は国防省に務めてたんだっけな。まあともかく、話の分かる良い上司だよ」
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次の投稿は来年の1月7日より再開します。
今年もありがとうございました。
来年もまたよろしくお願いいたします。
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