4-11

 冬の足音が聞こえる冷風に身を縮め、ニコラスはまだ慣れぬ匂いと光景に目を細める。


 見事な緑がカフェの屋上に広がっていた。

 色とりどりの多様な草花がプランターごとに風情よく、かつ種類ごとに整頓されて置かれている。下のコンクリートを覆いつくさんばかりの量だ。


 そしてその花畑を駆けまわるのは、幼い子供たち。

 27番地が引き取った、26番地の孤児や両親が就職するうえで面倒を見る余裕のない家庭の子供たちである。


「いやはや。暗黒街とは思えぬほど長閑な光景ですなぁ。まるで空中庭園だ」


 ニコラスの隣で満足げに頷く長身の商人、テオドールは清々しそうに伸びをした。


「こちらの花園は例の?」

「ああ。ローズ嬢からの贈り物だ。実家の温室で育ててたらしいが、面倒を見れる奴がいないらしくてな。捨てるのが忍びなくて、店で使っていいから貰ってくれと店長に頼んだんだと」

「ああ。それでキッチンハーブが多いんですな。……まあ、今回の騒ぎは被害が大き過ぎましたからな」


 酸っぱいものを飲んだ顔で頷くテオドールに、ニコラスも心底同意だった。


 ローズ嬢が去った後のリベラルモーターズ社、もとい創始者の直系であったカマーフォード家は一家創設以来、最大の危機に直面していた。


 カマーフォード家に仕えていた専属秘書――特区から命からがら逃げかえったスザンヌ・ガイラーが助けを求めて警察に保護された際、カマーフォード家がロバーチ一家と手を組んでいたことを暴露してしまったのだ。


 さらに、カマーフォード家親族が会社の金を横領していたことが発覚し、秘書もおこぼれに預かっていたことが判明した。


 棄民を含め百名を超す死傷者が出た暴動であったこともあり、世間の批判は一際大きかった。


「ま、この手合いの話題は数週間もすれば収まりますからな。今だけの辛抱です」

「それもそうだが……お前、本当に大丈夫なのか? ロバーチ一家との貿易停止しちまったけど」


 今さら言うか、とばかりに白い目を向けられ、ニコラスは決まり悪く目を逸らす。

 だがかねてから懸念していたのは事実だ。


 テオドールはロバーチ一家所属の商人で、27番地とも懇意だ。

 奴らの報復を真っ先に食らうのであれば彼だ、と思っていたのが、小心者の商人は意外にも平然と胸を反らす。


「問題ありません。すでにミス・ハウンドから話は伺ってましたし、コレがありますからな」


 そう言って、テオドールは懐から2通の便箋を取り出した。


 封蝋は『葡萄の樹に寝そべる豹』と『蓮に絡みつく蛇』、ヴァレーリ一家とターチィ一家の書簡だ。


「これは?」

「認定書です」

「認定書?」


 首を捻るこちらに、テオドールは得意満面に微笑んだ。


「ミス・ハウンドの計らいにより、我が社は27番地担当の交渉人となりました。今後、五大マフィアが27番地と交易する場合、必ず我が社が提供する場で交渉しなければならない。それをヴァレーリ・ターチィ両一家に公式認定していただきました。ロバーチ一家は我が社に手を出せません。手を出せばヴァレーリ・ターチィを敵に回すことになりますし、27番地の市場も手に入らなくなる。それに――」


 テオドールはやや声を潜めた。


「現在、我が社が深刻な人手不足なのはご存じでしょう? だからこそ、今回の26番地の件は渡りに船だったのですが……」


 テオドールもといポルダー商事の計らいの元、26番地の就活問題は大幅に改善された。


 元ヴァレーリ一家所属だったボルダー商事は、同一家による圧力で従業員削減をせざるを得ない状況だった。それがロバーチ一家管轄となってから一気に事業が拡大し、深刻な人手不足に陥ってしまった。


 労働力不足で悩むポルダー商事にとって、一般アメリカ人より低賃金で雇えて語学的にも文化的にも差異のない26番地住民は、まさに理想的な人材だった。


 新入社員こと26番地住民5千人は、ボルダー商事管轄下の東南アジア各支社の社宅に暮らしながら働くこととなり、社員の家族やアメリカに留まることを選んだ残り2千人弱は、27番地が引き取ることとなった。


 超高齢化社会である27番地にとっても若手は大歓迎だし、2千人弱なら何とかなるだろうとのことで承諾した。


「それがどうした?」

「いえ。実は冗談半分で外部のにも求人を出したら速攻で定員オーバーになりまして」

「外部の?」

「はい。外部です。しかも今回入社された方、どう見ても堅気に見えないんですよ。やたら人間観察したがる御仁とか、社員に根掘り葉掘り聞きたがる御仁とか。やけに手慣れてるんですよねぇ。船とかオフィス一人でうろつきたがりますし、全然迷いませんし。まあ自衛のためにも採用しましたけども」


 ニコラスは半眼になった。


「お前、存外強かだな」

「このぐらいの気概がなきゃ商人なんてやってられませんよ。あ、ちなみに護衛役にはヴァレーリ・ターチィ両家の構成員もおりますぞ」


 澄まし顔でウィンクするテオドールにニコラスは苦笑した。


 外部から入社した一般人、間違いなく警察関係者だろう。恐らくFBIかインターポールか。


 いずれにせよ、流石にあのロバーチでも、警察とマフィア双方が潜入している職場にわざわざ首を突っ込む愚行はすまい。


 と、次の瞬間。テオドールが両肩を掴んだ。

 完璧な営業スマイルに、だらだらと冷や汗を垂らして。


「そういうわけで私いまマフィアとFBIがうろつく職場で働いております。胃が滅茶苦茶キリキリしております。肉体的・精神的英気を養うため有休を要求します、ほんと下さいお願いします」

「分かった分かった。ハウンドに言っておく」

「本当ですか!?」

「ほんとほんと」

「おお、ありがたきお言葉! 約束ですぞ!」


「南国バカンスゲットですぞー!」とガッツポーズでスキップしながら去っていく商人を、憐憫と同情を込めて見送る。


正直、ポルダー商事の社長はテオドールなのだから、自分の好きなように決めればいいと思うのだが。

 そうは問屋が卸さないのが現状だ。


 なんやかんやで苦労を掛けているのも事実。ハウンドに頼んでそれなりに労うよう取り計らってみよう。


 そんなニコラスのもとに、おしとやかな婦人の声が届いた。


「こらこら、勝手にお花を摘んではいけませんよ」


 振り返ると、どことなく儚げな印象を感じさせる老婦人が、子供たちを集めているところだった。


 亡くなったミハイルの母親である。


 26番地住民の成人の多くがボルダー商事の就職を希望する中、彼女は特区に留まった。

 まだ気持ちの整理がつかないのと元小学校プライマリースクール教師だったという経験を活かしたいとのことだったが、息子の死の原因となったローズ嬢についていくのを躊躇ったのが本音だろう。


 求人名簿を手に住民らの間を回っていた時、婦人はニコラスの謝罪の言葉を遮った。


「恩人から謝罪なんて聞きたくありません」と突っぱねた彼女は、寄せ書きに群がる26番地住民を傍目に、凍てついた表情でペンを握りしめていた。

 書きなぐった一文をすぐさま塗りつぶし、歯を食いしばりながら記された一文は涙のピリオドで締めくくられた。


 どれほどの葛藤があったのか、ニコラスには見当もつかない。

 それでも、婦人がローズ嬢に送ったのは、怨嗟ではなく感謝だった。


 そしてニコラスは、彼女が塗り隠した怨嗟を修正ペンで消そうとは思わなかった。


 現実に意識を戻せば、注意された幼女、リリーは不満げに頬を膨らませている。


「でもつまないと、しらべられないもん! リリーもっとお花のことしりたい!」


 あどけなくプリプリ癇癪を立てる幼女に婦人は苦笑する。

 ローズ嬢に花束を貰ったのがよほど嬉しかったのだろう。草花への好奇心を爆発させる幼女は留まることを知らない。


 しかし婦人は、やんわりと、だがきっぱりと首を振る。


「いけません。お花は摘んだら萎れて枯れてしまうわ」

「えっ、かれちゃうの……?」

「ええ、そのままじゃね。それじゃ勿体ないでしょう?」

「うん……」


 花より先に萎れてしまった幼女を婦人は柔和に諭す。


「あとで店長さんかクロードさんに頼んで図鑑を借りにいきましょうか。さあ皆、もうすぐお昼御飯ですよ」


 元気いっぱいの子供たちが婦人に駆け寄り、皆で団子になって階下へ降りていく。


 その微笑ましさに目元を緩めていると、背後から肩を小突かれた。


「やあ軍曹、いい天気だね~。ちょっと風が冷たいけど絶好のピクニック日和だねぇ~」


 お天気アナウンサーにしてはいささかチャラすぎる態度で現れたハウンドに閉口する。

 具体的には、その後ろ手に持っているものに。


「ハウンド」

「はい何でしょう?」

「その手に持ってるバスケットは?」

「ピクニックセットだよん」

「中身は?」

「色々。厨房に料理山盛りの大皿あったでしょ? あれ適当に詰めて持ってきた」


 やっぱり。

 ニコラスは寄りすぎて消えなくなってしまったしわを、手で揉んで伸ばす。


 今日は26番地の子供たちの歓迎会にバイキング形式の昼食をと、朝から店長と二人でせっせと用意していた。


 それが先ほどようやく終わり、後は料理がこんもり盛られた大皿をホールに運ぶだけの状態だったのだが……この悪戯娘はそいつをくすねてきたらしい。


「お前なぁ、主役が食う前に飯かっさらってくんなよ。さっきだって散々つまみ食いしたろ」

「何を言う。私はここの統治者だぞ。一番偉いんだから、一番に飯を食う権利があるのは当然だ。第一、ニコと店長だってつまんでたじゃん」

「あれは毒見だ。生焼けだったら困るだろ」

「じゃあ私のも毒見だ」

「なんの?」

「私の口に合うかの毒見」

「フライドチキン四つも食うのが?」

「美味かった」

「そういうことじゃねえよ」


 ニコラスのツッコミ虚しく、ハウンドは鼻歌を歌いながらピクニックに最適な場所探しを始めている。

 つくづくフリーダムな女だ。


 ツッコむのも呆れて傍観していると、ハウンドはパーゴラの下を選んだ。

 先日設置したばかりで、三色菫やカモミールなどの花系ハーブに囲まれた、なかなかに華やかな空間だ。


「ニコ、こっちこっち」


 広げたシート上をポンポン叩いてせがむ少女にニコラスは苦笑する。

 よほど腹が減っているとみえる。


 やれやれと腰を下ろせば、ハウンドはすでにバスケットの中身を並べ始めていた。

 それを見て、ニコラスは待ったをかける。


「なによ。手洗ってこいなんて聞かないぞ」

「そうじゃない」


 「まあ見てろ」と、ニコラスは果物ナイフでパンに一筋切れ込みを入れる。


 するとハウンドは、むうっと唇を尖らせてなぜか正座をし始めた。そのうえで、こちらの一挙一動をじぃっと睨んでくる。


 「待て」をする犬か、と言いたいところだが、口にしないのが正解だ。死にたくないのなら。腹を空かせた猛獣を怒らせるなど愚策でしかない。


 ニコラスは吹き出したくなるのを堪えつつ、お目当てのものをこしらえた。


「ん。できたぞ」


 ハウンドは差し出されたものに目を瞬かせた。


「これ、ホットドッグ……の進化系?」


 残念、不正解だ。


「ソノラン・ドッグだな。アリゾナ名物で、ベーコン巻いたソーセージに、豆とサルサソースと玉葱とマヨネーズ乗せて食う」


 そう言ってソノラン・ドッグ――『絵本ご飯』を紙ナプキンで軽く包んでやる。


 絵本6ページ。

 『真冬のグランドキャニオン』の紅い渓谷は、雪化粧をもってしても隠し切れない。

 赫々たる朝日に呼応して雲海は山吹色に染まり、うっすら降り積もった白銀が赤茶の山脈に映えて厳粛な大自然の畏怖と美を魅せる。


 ちょうど色合いもそろってるし、グランドキャニオンがあるのはアリゾナ州だ。我ながら悪くない出来栄えである。

 ハウンドの不機嫌顔も吹き飛んだ。


「食べていい?」

「ん」


 いそいそとソノラン・ドッグを受け取ったハウンドは、大口を開けて勢いよく齧り付いた。途端、ぱぁっと目を煌めかせる。


 感想はない。だがうっとり目を細めて一心不乱に黙々と齧る様子からして、随分と気に入ったようだ。


「匂いとか辛さとか大丈夫か?」

「ん~?」

「サルサソース。子供用にマイルドにしたんだが。ほら、香辛料とか多いだろ」

「んーん。ふぇんふぇん(全然)」

「そうか」


 口元が緩みそうになるのをぐっと堪えて、自分の分を作る。

 これで喜ぼうものなら、つまみ食い常習犯を調子づかせてしまう。


 いかん、いかんと思いながら作り終え、さあ食べようかと手を伸ばすと、それを遮ってにゅっと伸びる小さな手が一つ。


 ハッとしたハウンドは慌てて手を引っ込めた。


「ごめん、ごめん! これニコの分か」


 両手を振りながら「いいよ、食べて」というハウンドの目は右に泳いでいる。

 口端についたマヨネーズを舌が名残惜しげにぬぐって、ひゅんと口内に引っ込んだ。


 とうとう耐えきれず噴き出した。


「ちょっと!」

「いや、くくっ。悪い悪い。ほら」

「えっ、いやでも、さっきもう食べたし……」

「そんな顔されちゃ食うに食えねえよ」


 ほら、と差し出すと、ハウンドはおずおずと受け取った。そしてニコラスがもう一個分を作り始めたのを見て、食事を再開した。

 今度は遠慮がちに、ちょっと控えめに口を開けて。


 十数分後。


 腹も心も満たされたニコラスたちは、言葉もなくただぼんやりと空を眺めていた。


「ねえ、ニコ」

「ん?」


 スポーツドリンクをあおりながら相槌を打って。


「ニコさ、貰った給料ほとんど送金してるよね?」


 噴き出すのを堪えて盛大にむせ返る。


「げほッ、なんだ急に」

「いや~前から全然金使わない男だな~って思ってはいたんだけどね。ちょっと限度を超えてるかなって思って」

「使ってるだろ。義足の整備とか弾代とか」

「だからそれ経費だって。前にも後日請求するよう言ったよね?」


 じろっと向けられる漆黒の双眸に、明後日の方向に視線を逃がす。


「いやその……部下の遺族への送金をだな……」

「それは国がやることだろ。何のために退役軍人保健局なんてもんがあるんだ」

「いやそうなんだが」


 歯切れ悪く言い訳を探していると、先にハウンドが溜息をついた。


「親友の遺族に送ってるでしょ? わざわざ偽名まで使って」


 今度は息を詰まらせる番だった。

 表情を凍らせたまま振り向けば、ハウンドは申し訳なさげに肩をすくめた。


「詮索する気はなかったんだよ。個人情報だからさ。ただうちの経理担当から送金額が大きすぎるって報告があったからさ、なんか悪い女に騙されてるんじゃないかと思って」

「………………ああ、そうだな」


 そういやいたな。

 とても、とても、悪い女が。


 ブロードウェイ・デビューを夢見たダンサーのなれの果て。

 ストリップクラブやポールダンスホールの舞台にすら固執した憐れな踊り子。

 我が子を自分が取った客の玩具に差し出したクソッタレの売春婦フッカー


 俺の母親。俺の呪い。


「……俺の親友、フレッドとは家族ぐるみの付き合いでな。俺の母親があんまりにも子育てしないもんだから、フレッドんとこの母親が見かねてよく飯とか作ってくれてたんだよ。同じ公営住宅プロジェクツだったし」


 その公営住宅すら、件の放火で取り壊されてしまったのだが。


「俺にとってフレッドんとこのおばさんは本当の母親みたいなもんだ。母親に仕送りする息子はおかしいか?」

「……会いに行かないの?」

「行けねえよ。フレッドの弟に『二度と来るな』って言われちまった。まあ兄貴を道連れにした挙句、家も焼かれりゃあ、腹も立つわな」


 喉奥で低く笑って、俯く。

 いま自分がどんな顔をしてるか分からなかったし、見られたくもなかった。


「あそこは兄弟が多いんだ。上の二人は就職したみたいだが、下三人はまだ学生だ。そうでなくとも家燃えちまって、要らねえ出費がかさんでる。金はいくらあっても足らねえよ」

「でもさ、」

「仕方ねえだろ。これ以外に償う方法が見つからねえんだ」


 そう言葉を絞り出すと、ハウンドはようやく言葉をつぐんだ。


 さっきまで涼しいと感じていた風が、途端に薄ら寒く吹いてくる。風に乗って流れる街の雑音が、やけにありがたかった。


 ふと、髪が揺れた。

 風が揺らしているのかと思ったが、それが温かかったので、ハウンドの手と分かった。


「ごめん。要らんこと言った」


 そう言って髪を梳くハウンドに、ニコラスは即座に「いや」と返して、詰まった。


 しばし言葉を探して、頭の中で整理吟味して、慎重に発した。


「…………未練がましい、かな」

「まさか」


 即答したハウンドの返答は、自分と違ってすぐ返ってきた。


「望むがまま気が済むまでやればいい。前にローズ嬢にそう言ってたでしょ?」


 そうだっただろうか。


 ニコラスは深く長く息を吐いた。

 気が沈んだ時は、呼吸してリセットするに限る。現役時代から変わらぬ鉄則だ。


 一方、ハウンドの手はますます柔らかく、労わる手つきになった。


 それを情けなくもありがたく思って、ふとある疑問を口にした。

 普段だったら絶対に聞かなかった、聞けなかった、踏み込んだ質問を。


「なあハウンド。お前、むかし俺みたいな奴に会ったことあるのか?」


 そう尋ねたニコラスには、ある種の確証があった。


 脳裏には例の絵本の最後のページが浮かんでいた。

 あの5頭の大型犬の胴体に記された、不可視の名が。


 シベリアンハスキーの『ラルフ』

 ゴールデンレトリバーの『ロム』

 ラブラドールの『レム』

 ボクサーの『ベル』

 ラフコリーの『トゥーレ』


 この5人のうちの誰か。その誰かが自分と似ていて、ハウンドはそいつを自分と重ねているという、確証が。


「ん~一人いたっちゃいたんだけど……似てるっちゃ似てるが表面的には正反対というか……」


 狼狽えるでもなく、慌てるでもなく腕を組んでウンウン唸るハウンドを、ニコラスは俯きがちに注意深く観察する。

 ほんの少しの綻びがないか確かめるように。


 満を持して、ニコラスは自分から切り出した。


「具体的には? どこが正反対だ?」

「全部」

「……は?」

「だから全部。おしゃべりで喧しくて馬鹿力でやたら態度と図体がデカい。んで体力はモンスター並みで基本雑。社交的でフレンドリーっていえば聞こえはいいけどさ。地獄の門番と雑談できるレベルのコミュ力お化けだったし、底抜けの楽観主義者だった。ニコは真逆。いつもおどおど遠慮がちだし、無口でクソ真面目で悲観的。だからシェパードっぽいなぁって思ったんだよ。飼ったことないけど。なんかこう、キリッとしてて生真面目そうじゃん、あの犬」

「………………はあ」


 予想外の返答にひとまず相槌を打っておく。


 これはあれか。外見とか好みで選んだとかじゃなくて、単純に性格が似てるからこの犬種で描かれたとか、そういうことなのだろうか。


 はてさて、どいつだろう。

 犬種の性質で選ぶなら、ハスキー、か?


 遥か昔に見た動物図鑑を思い出しつつ、ニコラスはさらに踏み込んでみる。


「そこまで違うのにどうして似てるって思ったんだ?」

「自分のために動いた試しがない」


 今度の返答は直球が過ぎた。


 ぐうの音も出ず黙るしかないこちらに、ハウンドはまた手を伸ばしてきた。


「まあそういうわけで、これでも私なりに心配してるってこと。ちゃんと飼い主がここにいるんだからさ~、ちゃんと甘えなさいよ、棄てたりしないんだからさ~」


「この甘え下手め」とウリウリ髪を掻き混ぜるハウンドに、ニコラスは押し黙った。


 絵本の中じゃずっと泣きべそをかいてたくせに、随分と生意気に育ったものだ。



『サハル』。



 父狼と別れて泣いていた、小さくて黒い毛並みの子狼。

 昔の吹けば飛ぶような痩せっぽっちのチビの面影は、もはやない。


 強く美しい黒妖犬。


 ニコラスは大事な人の名を、心の中でそっと握りしめる。


 あの時の約束からずっと後悔していた。なぜあの子の名を聞かなかったのか、と。


 気まぐれで助けた罪悪感か。お前を見捨てていればと思った後ろめたさか。


 けれどもし、もし。本当にあの子が故国で待ってくれているのなら。


「なあ、サハルハウンド


 ニコラスは、犬を騙る少女に語りかける。


「ん~?」


 いつもの胡散臭い笑みで頭を撫でまわす彼女に、ニコラスはしっかりと目を合わせた。


「話、聞いてくれてありがとう」


 待っててくれてありがとう。

 信じてくれてありがとう。


 俺が気まぐれで助け、逃がした女の子。


 生きててくれてありがとう。


「なんか気が軽くなった。ありがとう。助かった」


 途端、ハウンドの表情が固まった。そして。


「……そっか。『助かった』か」


 ハウンドは儚げに笑った。


 溶けた雪下から顔をのぞかせる花の蕾のような笑み。また雪が降れば凍えてしまう、刹那の温かな笑み。


 ハウンドの手が頭から離れ、首に回った。

 ニコラスは身を委ねた。うずめた肩は、思っていたよりずっと小さかった。


「こっちこそありがとう、ニコ。ニコが来てくれてこの街は随分よくなったよ」

「……そうか?」


 ニコラスはそっと背に手を添えた。指先が触れる程度に、そっと。

 抱きしめるのはまだ怖かった。


「そうとも。だいたいニコは遠慮しすぎなんだよ。気を遣ってくれんのはありがたいけど、もっと大胆になりなよ。『軋む車輪は油をさしてもらえる』っていうだろ?」

「……フレッドにも昔言われたな」

「親友に心底同感だね。今度街の皆に聞いてみ? やっと料理できる人がきたって、店長なんか諸手挙げて喜んでたし。あとそれと――」


 そう言ってハウンドは、こつんと額を合わせた。


「もうここは、ニコの家なんだぞ?」


 世界中の時が止まった気がした。

 ありがたいと思っていた街の雑音が、途端に煩わしくなった。


 目を見開くばかりのこちらに、ハウンドはまた笑った。

 雪原に一輪咲いてみせた花は、強かで綺麗だった。


「今さらなに驚いてんの。もうここはとっくの昔ににこの家なんだよ? 自分の家で気を遣う必要がどこにあんのよ。もうちょい肩の力抜きなって。お前の親友の遺族の件も……気が済むまでやればいいさ。お前の金だ。好きに使え」


 けどな、と言葉を区切ったハウンドに、ニコラスは顔を強張らせる。

 次の瞬間、ハウンドは悪ガキ同然にニヤリと笑った。


「服ぐらいは新調するように。あと靴な。いい加減新しいの買いなさい。いい?」


 ものの見事に肩透かしを食らって、少し笑った。


「そんなに酷い?」

「酷いね。今はいてるブーツなんか踵もげそうじゃん」

「確かに」


 ニコラスは笑みを深め、目を伏せた。


 救うはずが、またも救われてしまった。

 今も昔も、こいつにだけは敵わない。


 だがしかし、そこで終わってはならない。


――もう一度。


 今度は気まぐれではなく、本気でいく。


 もう一度、この子を救ってみせる。そのためにも、まずは。


――向き合わないと、な。


 ニコラスは在りし日のフレッド一家の団欒を、自分にとっての唯一の家族を思い出し、瞑目した。




 ***




 ひとまず、特区外に出る心配はなさそうだな。


 お替りのフライドポテトとアボカドディップを運ぶ片手間、階段を上りながらハウンドは無表情のまま考える。


 洞察力に長けたニコラスなら、いずれ己の正体にも絵本の謎にも辿り着くだろうと思っていた。

 それは構わない。


 あの絵本は警告だ。

 事情を知らぬ者が見れば何のことか理解できまい。だがあの絵本には真の敵の名が記されている。それにニコラスが気付いたのなら問題ない。


 まだ意味は分からずとも、迫りくる脅威の名を知っているのと知らぬのではまるで意味が変わってくる。


――これで最大の懸念は消えた。


 ハウンドは、ニコラスの居場所が存在しないことに心底感謝した。


 合衆国安全保障局USSAと接触した今、特区外に出れば確実に巻き込まれる。

 以前はテオドールの船でコロンビアの知人のツテで逃がそうかとも考えたが、予想以上に敵の動きが早い。


 ロバーチ一家が鏖殺したリベラルモーターズ社の社員のうち、一人だけ行方不明の者がいた。調べてみれば数週間前に入社したばかりの経営コンサルタントで、本社にも勤務先の支社にもデータはほとんど残されていなかった。


 まるで最初からいなくなることを想定していたかのように。


 なにより、あの殺戮のロバーチが敵を取り逃がすなどありえない。

 たとえ死体であっても腐肉を掻き分けてでも探し出し、必ず標的の死亡を確認してから帰投する。


 そのロバーチ一家が見つけられなかった。ただの民間人たった一人を。


 間違いない。『牡鹿スタグ』の人間だ。


――逃がさなくてよかった。


 そう考えてハウンドは己に舌打ちした。


 あの兵士を巻き込みたいわけではなかった。

 むしろ何とかして己から遠ざけたかった。


 だが事態が事態だ。もうニコラスを特区外に逃がすわけにはいかない。

 最悪の場合、棄民となってもらう必要があるだろう。


 けれど、その事態だけは何としてでも避けたかった。


「大丈夫だからな、ニコ」


 呟かれた低音は呻き声に似て、無人の鉄筋コンクリート階段を吹き抜ける。


 これ以上奪われてなるものか。

 必ず守る。どんな手を使っても、何を犠牲にしても守ってみせる。


 私は黒妖犬、墓場を鎮護するもの。

 墓場を侵すものは、何人たりとも容赦はしない。


――ラルフ、ロム、レム、ベル、トゥーレ。


 ハウンドは5人のニオイを思い出す。

 いつも頭を撫でてくれた、大きな掌の主たちを。


 迷子の亡霊たちを。


「……早く帰してやらないとな」


 そう呟いたハウンドは手元に目を落として顔をしかめた。

 フライドポテトの入った籠は握力で大きくひしゃげ、中身が数本こぼれ落ちていた。

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