4-9
暴風雨時の荒波さながらの群衆の中、ハウンドは溺れぬようしっかり足を踏みしめて叫ぶ。
「第2、4、6小隊はバリケードの構築を最優先。第3、7、9、10小隊は配置につけ。さっき言ったバンが目印だ。第5、8小隊は住民の避難誘導。各隊、応戦しつつ任務を続行せよ!」
『Yes,ma‘am!』
返答だけは溌剌としているが、実際、味方の顔はみな歪み引きつっている。
それなりに訓練をしているといえど、敵味方が入り乱れ、その判別すらつかない乱戦は未経験だ。
今はともかく26番地住民や民間人の避難を優先するしかない。
アリビツキー率いる暴力団が放つ散発的な銃声は、夕立の降り始めに似て、徐々に怒涛の勢いへと化していく。
しかも混戦状態にある26番地住民を肉盾に撃ってくるのだ。
敵が撃ってくる以上、こちらも応戦せざるを得ず、ハウンド率いる27番地住民も発砲を開始した。
26番地住民を挟んでの銃撃戦が始まった。
両岸から浴びせられる鋼鉄の雨に血飛沫と絶叫が上がる。倒れる者は人海に揉まれ、飲み込まれて押し潰されていく。
狂乱と恐慌に陥った住民は同胞の死体を踏み砕き、なお暴力を振るう手を止めない。
戦況は完全に膠着してしまった。
――ニコが撃てないのが痛いな。
ハウンドは歯噛みした。
それでも今はと襲い掛かる暴徒を
27番地住民もよくやってくれていた。
近くの車両を寄せ合わせて障壁とし、その間を手当たり次第に埋めて手際よくバリケードを築いている。
誘導された邪魔者たちはみな青い顔で身を寄せ合っている。
大人しくて結構。ついでに、この期に及んでなお撮り続けているカメラをバリケードに提供してくれればなお良しだ。
「おいハウンド無事か!?」
声に目を向ければ、先ほどの花束の幼女を抱えたケータが、SWAT部隊を引き連れバリケード内に駆け込んできたところだった。
幼女はすっかり萎れてしまった花束を後生大事に抱えてべそをかいている。
「ローズ嬢は!? ニコラスは!?」
「二人とも無事だ。今のところな」
「そうか。何よりだ」
ケータは口元を引きつらせつつも、幼女を安全な場所へ運ぼうと目線を彷徨わせた。
「ケータ、その子をローズ嬢のところへ連れていけ。それと彼女を守ってくれるか?」
「それはいいが――」
ケータは令嬢の方に目を向け、息をのんだ。
令嬢はミハイルの遺体を抱え、血溜まりに膝をついて微動だにしない。
その茫洋たる双眸は目の前の光景から張り付いたまま。目を逸らせないのだ。
27番地住民がバリケードの間隙を家電や家具で埋めていた。大きい物は足や銃床で叩き壊し、隙間に詰めては積み上げる。
負傷者が担ぎ込まれた。簡素ながらも上品な絹のウェディングドレスが引き裂かれて包帯代わりに巻かれる。
トラックの荷台から鉢植えが降ろされた。土嚢の代わりにと、上着や毛布でつくった即席袋に花もろとも詰め込まれ、時おり引き千切られて棄てられる。
全て、ローズ嬢が26番地住民のためにと用意した品々だった。
それが今、壊され、裂かれ、踏まれて棄てられている。
棄民の手によって。
そしてローズ嬢が救わんとした26番地住民は彼女を見向きもしない。
一方はボランティアを妨害した
あまりに無慈悲な、残酷な光景だった。
「ケータ、頼む」
「……分かった。それとうちの連中も使ってくれ。SWAT部隊にはお前と協力するよう言ってある」
「助かる」
ケータは幼女を抱えたまま、ローズ嬢の元へ駆け寄った。
ローズ嬢はケータを見、腕の中の幼女を見て、ついに感情を決壊させた。
双眸からは溢れ出た涙が頬を濡らし、付着したミハイルの血を洗い流す。
身も世もなく号泣する彼女を、慈善団体もマスコミも特区警察も茫然と見つめるばかりで、傍に立っていた幼女だけが貰い泣きしていた。
絶命したミハイルをケータがそっと手放させようとするが、嫌々と頭(かぶり)を振るばかりでますます遺体を抱え込んでしまう。
ハウンドは己の顔から感情が欠落するのを知覚した。
――まだかニコラス。
ハウンドは各小隊へ指示を飛ばす。口元を、濡れた布で覆いながら。
***
「屋上部隊各位、射撃用意! 修正は追って送る!」
屋上部隊に指示を出し終え、ニコラスは意図的に深呼吸をした。
先日ケータに教わった『俯瞰』である。
やることは極めて単純。
目を閉じたまま深く息を吸って吐き、また息を吸う。それから瞼を開いて相手を視る。
それだけ。
『言っとくがただ深呼吸するだけじゃないからな? 強張ってる身体から力を抜いて、焦りや恐怖といった感情を身体の外に吐き出すように呼吸するんだ。ゆっくりと、丁寧に。これまでの言動を一度リセットする』
脳裏にケータの言葉が蘇る。
少々胡散臭いが、やってみるしかない。
ニコラスはゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。
そして最後に軽く、ゆっくり丁寧に息を吸う。
『両目を軽く見開いて、どこにも焦点を当てずに全体を視る。見るんじゃなくて感覚で掴むイメージだ。呼吸は止めるなよ? 血流をちゃんと全身に循環させなきゃ、冷静な判断も行動もできない』
両目を見開いたニコラスは、眼球の全面を使って周囲を見渡した。
呼吸が遅く、ゆっくりになる。
あれほど喧しかった騒音は掻き消え、耳元でかつての教官の声が響いた。
『俯瞰しながら「違和感」を探すのだ。バードウォッチングで森の中から動くものを探す感覚に似ているか。野に生きる動物は自然に溶け込む術を知っているが、人間はそう上手くはない。お前らのような新兵は特にな』
訓練兵から二度と会いたくないと評され続けた教官は、その日も冷笑していた。
『「違和感」を探せ、ウェッブ。そこに敵がいる』
探せ。「違和感」を探せ。
下界でもまれ蠢く人の群れ。波涛に翻弄され、浮かんでは消えていく水面の水泡に似た、儚く脆い刹那の生命。
判別不能といえど、26番地住民は二手に分かれている。
ならば必ずどこかに境がある。波と波がぶつかり合う境界線が。
眼球が動きたがるのを必死に制し、視界にぽつぽつと浮かんだ数個の違和感を注視する。
住民同士が衝突し、拮抗したがゆえにできた僅かな間隙による臨界点。
万物が蠢く地上において、現在唯一動かぬモノが、違和感がそこにある。
それを線で結べば。
――見つけた……!
ニコラスは襟元にある無線マイクに手を当てた。
「
数秒の間を置き、威勢の良い返答が飛び込んだ。
『第11砲撃小隊、射撃準備完了!』
『第12砲撃小隊、いつでもいけるぜ!』
『第13砲撃小隊、準備できました!』
『第14砲撃小隊、射撃準備よし!』
てんでバラバラの交信に、一瞬、口元を緩めて。引き結ぶ。
「撃て!」
太鼓に似た振動音。60ミリ催涙弾は宙高く飛翔し、頂点に達して降下する。
空を裂き、悪魔の指笛の如き甲高い音が下界に鳴り響く。
その不気味な音に26番地住民と暴力団が顔を上げて――着弾。
炸裂。
刺激臭の白煙が噴出し、慌てて人々が逃げ惑う。1メートルずれたが、幸いなことに人には当たっていない。
動ける人間には。
人海に裂け目ができた。
「次弾装填! 撃ち方用意!」
ニコラスはすぐさま裂け目を広げにかかった。
次弾が放たれ、今度は寸分の狂いなく無人と化した――生者が去り、死者だけが取り残された境界線上に降り注ぐ。
ニコラスは催涙弾の一つが死体に当たって跳ね返るのを、目をつぶることなく見届けた。
――すまない。
不可視の巨人が掌で分け入ったが如く、人海は二手に分断された。
「今だハウンド!」
『よしっ突入!』
ハウンドの号令に呼応して4台のバンが裂け目に乗り込んだ。待機していた地上部隊の第第3、7、9、10小隊だ。
分け目に飛び込んだバンは境界線の真ん中あたりで急停止し、そのまま乗り捨てて兵士が降車する。
4小隊に続いてセラミック製防弾盾を所持した黒づくめの兵、SWAT部隊も降りてくる。緊急事態に直面し、共闘することになったのだろう。
彼らはバンを遮蔽物に、さらに車両同士の間隙を防弾盾で埋めて小銃を構える。
新たなる臨時境界線、最前線のバリケードだ。
『各小隊発砲! 目標、背後の暴力団!』
銃撃戦が再開された。
突然の事態に暴力団は対応が遅れ、催涙弾で頭を冷やした住民は慌てて地に這いつくばる。
十数名がやれたところでようやく我に返ったらしく、敵も負けじと
互いの車両に無数の穴が開き、盾に弾かれた跳弾の火花が煌めく。
ニコラスは指揮官を探した。
未熟と言えど、荒事には慣れている暴力団には粗雑ながら指揮系統が存在している。
不測の事態に直面すれば、下っ端は必ず上の人間に指示を仰ぐ。
その視線を追えば――いた。
1発、2発、3発。
撃つたび残弾が減っていく恐怖と緊張に冷や汗を垂らす。
弾切れになれば、狙撃手は無用の長物に成り果てる。
苦戦する友軍をただ指を咥えて眺めるだけになる。
そんなのは絶対にご免だ。
6発目が外れた。
ニコラスは舌打ちをし、照準をし直そうとして、原因が自身にあることに気付いた。
呼吸が浅く、脈拍が速くなっている。
これでは人差し指がぶれ、ガク引きになる。
ニコラスは瞑目し、深呼吸した。
視界を強制的にシャットアウトし、精神と肉体を再起動して沈着さを取り戻す。
刮目した。7発目は外さなかった。
残り、三発。
『準備完了だ。掩護頼むぞ』
「了解」
目線をやると、口元を布で覆ったハウンドとケータに支えられて、ローズ嬢が立っていた。
――頼む。踏ん張ってくれ。
ニコラスは作戦の鍵たる令嬢を注視した。
***
「準備はいいですね、ローズ嬢」
「――はい」
真っ赤に充血した目は催涙弾によるものか、はたまた別のものか。
それでも前方を睨み、背筋を伸ばす気丈さは大したものだ。きりりと鳴った歯軋りの音がどこか物悲しかった。
「私にできることなら何なりと。そして私には、それを果たす義務と責任があります」
「承知しました。――ケータ」
「分かってるよ。
威勢の良い言葉と裏腹に、ケータの持った防弾盾はアスファルトに衝突してカチカチと鳴っている。
武者震い、ではあるまい。
「心配すんな。ニコがついてる。何とかしてくれるさ」
「……その言葉、信じるからな」
フッと短く息を吐いたケータは試合に臨む柔道選手よろしく仁王立ちする。それを見届け、ハウンドはハンドマイクをローズ嬢に差し出した。
「お願いします」
「はい」
血染めの細指が握り、口元を覆っていた布を降ろしてハンドマイクを構える。
ローズ嬢は大きく息を吸い、峻烈なる劫火の煌めきを双眸に宿して見開いた。
「撃つのを止めなさい! ローズ・カマーフォードはここ居ます! 撃つのを止めなさい!」
途端、友軍がピタリと襲撃を止めたが、暴力団は30秒以上かかった。
何やら敵陣が騒がしくなり、大勢の暴力団員に守られながら2人の人物が現れた。
それを見るなり令嬢の喉がひゅっと鳴った。
厚顔に大股で歩み出た支配者アリビツキーの隣に、グレーのスーツを着た女性が立っている。
ローズ嬢の秘書、スザンヌ・ガイラーだ。
彼女の背後には、明らかに様相の違う背広の一団がいる。
恐らくリベラルモーターズ社の幹部か、それともただの手下か。
さほど視力の良くないハウンドに2人の表情は伺えない。
だが皮膚に感じる嫌な感覚から、双方が舌なめずりする捕食者に似た視線を向けていることだけはよく分かった。
思わずよろめいたローズ嬢の背を、ハウンドは支えた。
「よくやった、ローズ嬢。後は私らがやる」
令嬢は目を見開いた。
この小柄で華奢な体躯のどこからこんな声が出るのかと言いたげだが、ハウンドは目もくれずハンドマイクをもぎ取り、右手で素早く
以心伝心。最前線を守っていた友軍は瞬時に理解し動いた。
SWAT部隊を引き連れ後方へ退き、ハウンドら3人がその場に残される。
空虚になった道路に風が奔り、髪を掻き混ぜる。さらにハウンドの良すぎる鼻は知りたくもないニオイを嗅ぎ分けてしまった。
火に炙られたアスファルト、靴跡だらけの衣服、まだ熱を持った薬莢、硝煙、催涙弾の残り香。
そして、むせ返りそうなほどの血肉と臓物ニオイ、焼け焦げた人体のニオイ。
踏み躙られて転がる人々はピクリともせず、ねじ曲がった首や手足は高所から落とされ壊された人形に似ていた。
そんな死体を見て眉一つ動かさないハウンドだったが、風にのって漂ってきた微かな刺激臭に目を鋭くした。
「ニコ。方位315、距離35。NSV重機関銃のせた
『――確認した。舞台は俺が整える』
必中必殺を旨とする狙撃手の返答は短く、その言葉だけで全てを察した。
それに頷き、ハウンドはハンドマイクを構える。
「令嬢をそちらへ引き渡す! その代償に全軍の撤退を要求する! 断るのであれば彼女は渡さない!」
「分かった! 約束しよう!」
堂々たる返答と裏腹に、暴力団員は弾倉を変え、銃口をこちらに向けた。
ローズ嬢を引き渡した直後に撃ってくる気だ。
こうもあからさまだと、怒りより感心してしまう。
欲望に忠実で結構。逆に予想が立てやすいので助かる。
ハウンドはケータに合図し、ローズ嬢を呼び寄せた。
前方から異様な眼光が皮膚に突き刺さる。目を戻すと秘書だった。
恐怖で流した冷や汗に入り混じって香る、深く苦い憎悪のニオイ。
自身が殺されるかもしれないという本能的な恐怖ではない。これから殺人に加担するのに覚悟ができていない、今すぐ誰かに責任転嫁したいという自己保身。
実に人間臭いニオイだ。
酷薄に、獰猛に笑ったハウンドは後ろ手に手をやった。
***
脳内の演算処理に追われていたニコラスだが、ハウンドが後ろ手に送ってきた
始めにぎゅっと拳を握ってパッと開く。次いで2本の指が立てられる。
ニコラスは構えた。
すでに火種は確保してある。
あとは、役者が配置につくのを待つだけ。
ローズ嬢がケータに支えられながら歩いてくる。
ローズ嬢は傍から見ても足元がおぼつかないが、それでも正面から目を逸らそうとはしなかった。気丈な女性だ。
ローズ嬢に合わせて、アリビツキーと秘書も前に進み出てきた。これで全ての役者が舞台に上がった。
開幕の時間だ。
ニコラスはゆっくり息を吸った。
吐息し、肺の空気を半分抜いて呼吸を止め、そのまま6秒。
血流が緩慢になり、脈拍が静まった。刹那――。
発砲した。
狙いはハウンドの左手、32メートルの位置にあるビデオカメラ。
慈善団体かマスコミが落としたのか、近く割れた火炎瓶が引火して燃え上がっている。
撃ち降ろされた7.62×54R㎜弾は、ビデオカメラの真下を掠めるように着弾した。
弾丸に尻を叩かれたビデオカメラは、驚いた兎の如く跳ね上がり、火の汗を散らして宙を飛ぶ。
小さくも燃え盛る火球はそのまま水溜りへと落下した。
刺激臭のする水溜りに。
敵の即席戦闘車両から漏れ出した燃料だ。
先ほどの銃撃戦で燃料タンクに穴が開いているのを、ハウンドが目ざとく気付いたのである。
引金から手を放さず、目を閉じ右腕と左手で耳を塞いで、口を半開く。
瞼裏が紅く染まった。
窓ガラスが四散し、爆風が室内を蹂躙する。が、天井近くに陣取ったニコラスに破片は飛んでこない。
爆風を顔に感じただけだ。
おさまってから目を開ければ、火球と化したトラックが3階近くを宙返りしていた。そしてそのまま、暴力団の頭上めがけて落ちていく。
盛大に音を立てて着地した車体は、炎の血液と鋼鉄の内臓をぶちまけて横転する。
敵の何人かが巻き添えを食らったが、生憎とアリビツキーと秘書は無事だった。何という悪運の強さ。
ところがアリビツキーは眼前の光景に慄いたのか、回れ右をして逃げ出した。
支配者として得られる権益より自身の命を優先する、欲深い彼にしては英断と言えるだろう。
しかし、もっと早くに決断すべきだった。
引金を引く。迷いなく、周到に。
銃声。
金色の薬莢が宙返りを決めて着地するより早く、アリビツキーの頭蓋が半分消し飛んだ。
彼の血液と脳漿を顔に浴びた秘書が悲鳴を上げる。
直後。
令嬢の前にいたケータが吹っ飛んだ。
見れば持っていた防弾盾にクレーターができている。
狙撃だ。アリビツキー一味の弾丸ではない。
となれば。
――やっぱ生きてやがったな。
ニコラスはすぐさま銃口を移し、915メートル先のロバーチ一家狙撃手に照準を定める。
場所は分かっている。
潜伏場所を攻撃されれば狙撃手は必ず場所を移す。
そしてこちらの弾道から逆算し、より確実にこちらを撃破できる場所から撃ってくる。
敵とニコラスの高低差はほぼ同じ。そしてニコラスは天井付近の窓際に潜んでおり、同高度では壁に阻まれる。
となれば敵が選ぶのは、今いる階のの2、3階下。
そして、階下で狙撃に適した地点は一つしかない。
屋外非常階段だ。
ビシッ チューン!
左頬側で紅が散る。
掠めていった弾丸の衝撃波で皮膚が裂けたのだ。
だが、痛みはない。痛みを感じる段階はとうに過ぎていた。
その琥珀の双眸は、非常階段で構える二つの敵影をだけを、しかと捉えていた。
十字照準線の向こうで、敵狙撃手のロバーチ構成員が、口惜しげに歯軋りしたのが見えた。
発砲。
銃身が跳ね上がり、ほんのわずか数秒、視界から敵影が消える。
しかし、ニコラスには敵狙撃手の末路が判っていた。
残弾、ゼロ。
本来ならここで終わる。
敵狙撃手は排除した。ローズ嬢を排除するという謀は失敗した。
だが残念なことに、敵は兵士ではない。
マフィアは死を恐れない。
己が命をくべてでも、自分と組織の面子に泥を塗った不埒者を、地獄の果てまで追い詰め鏖殺する。
悪魔に魂を自ら売り捌く兇徒。妄執に囚われた生ける屍人。
それがマフィアというものだ。
だから射界を戻した時、スコープの向こうで生き残った観測手が、同僚の狙撃手の死体を蹴り落として狙撃銃を奪った姿を見ても、なにも驚かなかった。
観測手の顔が歪んだ。
それは笑みだった。追い詰めた獲物をやっと堪能できる、愉悦と嗜虐に満ちた狂気の笑み。
もうお前の弾はない。お終いだ――。
――と、思ったか?
ニコラスは胸ポケットの中のモノを引っ掴み、即座に右へ転がる。
敵の弾が左耳を掠め、鼓膜を通じて三半規管と脳を揺さぶる。猛烈な吐き気を堪え、ニコラスはそれを装填した。
通常、狙撃兵は一撃必殺を原則とする。
二発目は存在しない。
一発の弾で、必ず敵を撃ち殺す。ゆえに、
二発目を当てにする者は、一発目をおろそかにする。
「外しても二発目がある」という思考は、狙撃兵が絶対にやってはならぬ禁忌だった。
けれど、ニコラスは元来、兵士ではない。
生まれた時からスラム街で生きてきたニコラスが第一に考えることは、退路だ。
犯罪が日常と化すスラムで、非力な子供は抗う術を持たない。
唯一できるのは、逃げることだけ。
だからいつも逃げ道を探してきた。
しくじった時の対処法を考えることは、染みついた習慣だった。
だから、自分が撃ち損じた時のことも、当然考えていた。
自分の胸ポケットには、7.62㎜NATO弾と.338ラプアマグナム弾が一発ずつ入っている。
そして今回は、ロバーチ領事館でくすねた一発も入っていた。
それが最後の弾丸だ。
狙撃兵にあるまじき振る舞い。そう、『臆病者』という評が相応しい。
だが、それでもいい。
これでまた撃てる。敵を殺せる。
周りの評価など、知ったことか。俺は殺せれば、それでいい。
そういうモノなのだ、俺は。
転がり落ちそうになるのを片足で留め、両肘を胴体に引き寄せて、銃身を固定する。
仕留めた感触を感じなかったのだろう。敵がまた撃ってきた。
さっきまでニコラスが居た場所を撃ち抜きながら、ここに居たはずだ、仕留めたはずだと。また一発、またも一発。
その執拗さが、仇になった。
呼吸を整え、銃口のぶれを消し、正真正銘の最後の弾丸を放つ。
7.62×54ミリR弾は環境のあらゆる修正を受け、本来の飛翔経路を逸れて、敵目がけて寸分の狂いなく直進する。
着弾。
スコープ越しに血飛沫を視認するなり、ニコラスは相棒の名を叫んだ。
脅威は去った。
「ハウンド!」
幼くも美しい統治者がバンの上に威風堂々と仁王立ちする。
火炎が舞い、黒煙が吹き荒ぶ戦場を背後に立つ彼女の姿はさながら映画の一シーンのようで、その場にいた誰もが統治者を見上げる。
「これより掃討を行う! 30秒以内に武装を解除せよ! さもなくば120ミリ迫撃砲の豪雨を食らわせてやる! 繰り返す、直ちに武装解除せよ!」
無論、ハッタリであった。
今回のボランティアに際し、屋上部隊は暴徒鎮圧用に催涙弾しか所持しておらず、殺傷能力のある武器は地上部隊の銃火器とニコラスのドラグノフぐらいだった。
しかしながら、敵の反応は劇的を通り越して激発たるものだった。
数十秒の沈黙後、一人の暴力団員が絶叫し、リベラルモーターズ社の背広組に発砲した。無茶苦茶にばらまかれた弾丸から背広組が逃げ惑い、所持していた拳銃で反撃を始める。さらにそこに、なんとか生き延びた26番地住民が石や拾った武器を手に襲い掛かる。
熾烈な同士討ちが始まった。
これにはその場にいた全員が呆気にとられ、冷静だったのは代行屋の2名だけであった。
指揮官を失った軍隊では、しばし同士討ちが発生することがある。
敵に降伏するか戦うか、それとも逃げるか。全員の足並みをそろえる人間がいなくなるからだ。アリビツキーはあれでもれっきとした指揮官だったのだろう。
さらにアリビツキー一味も26番地住民も、以前に自分たちから焼夷弾の威嚇砲撃を食らっている。信憑性は充分だった。
それを見越したからこそ、ニコラスはこの提案をしたのである。
とはいえ、あまりに見苦しい。
ニコラスは再度の提案をした。
「ハウンド、催涙弾撃つぞ」
『ほっとけ。弾の無駄だ』
「……あと15分でロバーチ一家が来る。その前にずらかろう」
『チッ。分かったよ』
総司令の許可を取り付けたニコラスは、屋上部隊へ伝達と射撃指示を行った。
催涙弾による面制圧は、数十秒で完了した。
敵は完全に沈黙し、少数の元気な生存者は銃を捨て、両手を上げて膝をついた。大多数は催涙弾にのたうち回り、それどころではなかった。
唯一の救いはこの凄惨かつ見るに堪えない光景を、ローズ嬢が見ずに済んだことだ。
気力を使い果たした彼女はついに気絶し、ケータと友軍による介抱を受けていた。
『総員撤収。26番地住民だけ引き連れ領内へ帰還せよ。刃向かう者はその場に置いていけ』
かくして、ボランティアに始まった苛烈な戦闘は終結した。
未だ意気軒高を保つ27番地住民に逆らう者は誰一人おらず、皆が粛々と従った。
当然マスコミや慈善団体も保護を求めてついてこようとしたが、棄民がそれを許さなかった。
「出ていけ。ここは俺たちの
27番地の誰が言ったかは定かではない。
だが後日それを聞いたニコラスは、自分がその場にいてもそう言っただろうと思った。
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