4-7

 蛇に見込まれた蛙とはこのことか。この場合は虎だが。


 再会したルスランは初対面と打って変わり、ハウンドではなく自分を凝視している。

 喉仏に抜身の大剣を当てるが如き鋭利な眼光に、ニコラスは気まずげに目を逸らす。


 不満と呆れが混在した顔のハウンドが囁いた。


「なんでお前変なとこで気弱になるの? こないだの五大会合で電話越しに見せた威勢、どこいった?」

「もう会わねえだろうと思って好き放題言ったんだよ。てかなんでよりによってここに注文したんだ?」

「武器関連はロバーチに頼むことになってんだよ。狙撃銃も例外じゃない。同盟上そういう決まりだ」


 マジかよ。


 ニコラスは、ハウンドの「新しい狙撃銃を新調しようか?」という提案に乗ったことを心底後悔した。


 ここに発注するぐらいなら、レミントンM700で我慢したのに。多少型が古いとはいえ、あれだって現在の軍や警察でも使われてる名銃だ。


 もだもだと狼狽えるも決して間合いに入らない(初対面ので懲りた)こちらに鼻を鳴らしたルスランは、無言で踵を返して奥の机に案内した。


 重厚な紫檀に、緻密な細工が施された気品ある机の上に、場違いなほど武骨な銃が鎮座している。


 ドラグノフ半自動式セミオートマチック狙撃銃。

 東側の代表的狙撃銃であり、冷戦時代から現代に至るまでソ連・ロシアに愛用され続けてきた傑作銃ベストセラーだ。


 ただし開発からすでに40年以上が経過しており、構造がAKカラシニコフをベースにしているため精密射撃には向かない。しかもここにあるのは初期の頃のもので、木製銃床にPSO-1光学照準器が付属している。

(一般的な狙撃用照準器が8倍なのに対し、PSO-1は4倍率しかないかなり大雑把な照準で、銃同様こちらも開発されたのは60年代だ)


 十中八九、嫌がらせである。


「ちょっと待て。頼んだやつと違うぞ。つかなんでこんな骨董品持ってくるんだ」


 目を吊り上げて怒るハウンドに、ルスランはしれっと答える。


「骨董品とは失敬な。SVDドラグノフは現在でも近代化改修されて使われている。第一、今ソレが使ってるレミントンより新しかろう?」

「たった2年遅く開発されただけでドヤってんじゃねえよ。大体注文したのはマクミランのTac-338だぞ」

「生憎と西の商品は取り扱いがない」

「ならT-5000持ってこい。それも無いならSVDMかSVDK」

「はて。在庫にあったかな?」

「あ゛?」


 青筋を立てて詰め寄るハウンドだが、己の鳩尾程度しかない彼女をルスランは目を細めて見下ろすばかり。むしろ吠えたてる子犬を見るかのような愉悦が見てとれる。


 完全におちょくられている。

 これは注文の品は期待できそうにない。


 そう判断したニコラスは上着を脱ぎつつ、脇に控えていた部下に尋ねた。


「おい。確認していいか?」

「どうぞ」


 そっけない返答に、ニコラスは銃を脇に避け、上着を机に広げる。そしてその上に銃を置き、黙々と分解を始めた。


 照準器と弾倉を外し、棹桿コッキングレバーを引いて薬室が空になっていることを目視で確認。レシーバーカバーを外し、取り出したボルトキャリアをバラバラにして、安全装置を回転させて引金を抜く。外した部品は順番に上着の上に並べる。


 各部品、異常なし。


 分解し終えたら、今度は逆の順に組み立てる。

 はめた時の感触、音。その僅かな異変に感覚を研ぎ澄ませる。


 組み立て終え、棹桿コッキングレバーを引いた。


 問題なし。


 最後に照準器と弾倉を戻し、試しに初弾を薬室に装填して。――異変。


 音が違う。


「ワイヤーコイル (弾倉内部のバネ)が緩んでる。交換してくれ」


 ルスランの片眉がピクリと動いた。が、すぐさま部下に合図し、新しい弾倉を持ってこさせる。


 念のため弾倉から一度弾を取り出して入れ直し、ふと思い立って、一発だけ右袖の中にしまい込む。


 再び装填した。

 今度こそ異常なしだ。


「……これでいい。あとは減音器サプレッサーと弾くれ。百発あるといい」

「ニコ、ほんとにそれでいいの?」


 ハウンドが不安げに眉をひそめるが、ニコラスは頷く。


「ドラグノフは確かに精密射撃には不向きだし、照準器の性能もよろしくない。けど即断即決を求められる戦場じゃのんびり照準合わせるだけの悠長な時間はないし、当てられなくてもいいから取りあえず弾ぶち込んで牽制しろってのも有効な戦法だ。それに半自動式セミオートだから近距離でも対処しやすい。市街戦向きの銃だ。あと弾の威力がデカいから横風を受けにくい。悪くないな」

「ふ~ん。ニコがいいならそれでいいや。ルスラン、これちょうだい」


 ふと目を上げると、ルスランはどこか白けたような目をしていた。

 無表情ゆえ分かりにくいが、目は口ほどものを言うとはよく言ったものだ。


 周囲の目がそれた一瞬をついて、ニコラスは袖に隠した弾を胸ポケットにしまった。


 ハウンドが訝しげに見上げてくる。

 ニコラスは口端をごくわずかに吊り上げて応じた。


 『跳ぶ前に見よルック・ビフォア・ユー・リープ』というやつだ。


 部下が弾を持ってきた。そこでようやく、ルスランが話しかけてきた。


「百発か。随分多いな」

「あくまで備えだ」

「ふむ、そうか。使う機会があるといいな」


 含みのある言い方に違和感を覚えたニコラスが振り返るも、ルスランはとっとと部屋を立ち去ってしまった。

 もう興味は失せたということなのだろう。試験終了だ。


 ハウンドは肩をすくめ、ニコラスは安堵と疲労に肩を下ろす。




 ***




 2週間後、ボランティア3日目、最終日。


 27番地北ブロックB3は大群衆で埋め尽くされていた。


 その半数はボランティア対象である26番地住民だが、残り半数は民間人だ。マスコミ関係者と、ローズ嬢に感化されて駆け付けた民間慈善団体である。


「……すまん。邪魔になるだろうと思って国境線で押し留めてたんだが、今日は人手が足らなくて抜けられちまった。撃つわけにもいかねえし」

「構いません。報道には慣れてますから」


 苦笑する令嬢の横顔からは濃い疲労が滲み出ている。それでも無理に笑顔をつくるのが痛々しいが、それを指摘するのは彼女の奮闘を踏みにじるようではばかられる。


 部外者に邪魔されまいと、ボランティア初日と2日目は早朝から早々に切り上げてマスコミを欺いたが、最終日はそうはいかなかった。


 今日はボランティア対象5167人に確実に配らねばならない。


 正直マスコミは場所を取るうえ何もしてくれないので邪魔でしかないが、追い払おうにも手が回らない状況だ。


 そんなこちらを気遣ってか、令嬢は敢えて明るい声を出した。


「でもマスコミはともかく慈善団体の皆さんはありがたいですね。27番地の皆さんも奮闘してくださってますが、圧倒的に人手が足りませんから。これなら何とか今日中に終わりそうです」

「ああ」


 令嬢の嬉しげな声と裏腹に、ニコラスは慈善団体にあまり期待はしていなかった。


 受付会場たる簡易テントの下で、働き蟻よろしく27番地住民が忙しなく動き回る中、慈善団体メンバーは自分たちの宣伝に勤しんでいた。

 特区の街並みを写真で収め、人々を動画で撮影し、自分たちの主義主張を書いたプラカードの設置に精を出している。


 ぎらついた目でこちらを見つめるマスコミに、退屈そうに欠伸をする特区警察、己のことばかり気に掛ける慈善団体。


 一体誰のための支援活動なのか。


 ニコラスは、ローズ嬢が何もかもかなぐり捨てて、一人特区に来た理由が分かった気がした。


 会場の有様に不安を抱いていると、いつもの黒いフライトジャケットではなく女性もののスーツ姿に身を包んだハウンドがやってきた。トレードマークの尻尾髪――うなじ部分だけ長い後ろ髪はジャケットの下に隠しているので少年のように見える。


「地上班は準備完了だ。ニコ、いつも通り頼むぞ」

「おう」


 ニコラスは背中に背負っていたドラグノフ狙撃銃の入ったギターケースを背負い直す。


 ローズ嬢の身辺警護は、ハウンド率いる地上班とニコラス率いる屋上班の二手に分かれた。地上班がローズ嬢の周囲を固め、屋上班が監視と有事の際の対応を行う。


 ニコラスは、ローズ嬢を振り返った。


「何度も言うが、くれぐれも――」

「はい。自分の身を第一に、ですね?」


 やんわりと言葉を遮りつつも、芯のある笑みを湛えるローズ嬢に、ニコラスは無言で頷く。


 邪魔者の多いボランティア活動になりそうだが、それでも成功させねば。

 26番地のためにも、令嬢のためにも。


「んじゃ、始めるとしますかね~」

「ああ」


 ニコラスは踵を返し、人波に足早に飛び込んだ。




 ***




 招かれざる客の訪問はいつだって唐突だ。


「おいウェッブ! なんかヤバイ奴らが来てる!」


 血相を変えて駆け込んできたドイツ系合衆国人、この建物最上階に住む家主の26番地住民にして協力者のブルーノに、ニコラスたちはの手を止めた。


 一方のブルーノは目を見開く。


「お前なにやってんだ?」

「狙撃台の作成だ。さっき説明したろ」

「いや。確かに多少家具を動かすとは聞いてたけどよ……」


 唖然と目の前の山を見上げるブルーノに、ニコラスは頭を掻く。


 部屋で最も大きな窓の前に、大きな本棚が立ちふさがっている。1メートルの間隔を空けて置かれた棚の背面にはカーテンが取り付けられており、その逆の本側にはテーブルが2つ積み上げられている。


 そしてニコラス率いる27番地狙撃班はそのさらに上へ、ベッドのクッションを設置しているところだった。


「見晴らしの点で言えば屋上か窓の近くが最適だが、敵にも見つかりやすい。だから市街戦の場合、狙撃手は基本的に室内の奥に陣取って窓からは距離を取る。けどそれじゃ視界が直線上しか利かないからこうしてる。棚の上から監視し、撃ち降ろす。これなら外見上ただカーテンの閉まった窓にしか見えないし、俺の姿も見えない。建物に近づいて見上げない限りはな。近づいた敵には地上班が対処する」

「でもこれじゃ天井に頭ぶつけちまうぞ」

「寝そべって撃つから問題ない。それに天井近くに寝そべってりゃ、撃ってきてもまず当たらない。――で、具体的にどうヤバイ?」

「なんか、こう、絶対に人殺したことある連中だ。間違いなくアリビツキーの部下じゃない。多分」

「ロバーチ一家か」


 ブルーノが真っ青な顔でコクコクと頷く。


 ニコラスは唇に歯を立てた。

 接触は予想していたが、こうも早く場所を覚られるとは。流石、軍人上がりが多いだけはある。


 正直、銃から離れたくはない。だがすでに調整済みの銃を銃座から動かすのも躊躇われる。


「おい、お前らで対応できないか?」


 ニコラスは同班の27番地住民を振り返るが、彼らの表情は渋い。


「俺らもそうしたいのは山々なんだが……連中、こっちの話を聞く気がさらさらねえ」

「駄目だウェッブ! お前だせって言うこと聞かねえ」


 ニコラスは舌打ちした。

 ブルーノの顔はすでに土気色になっていた。


「なあ俺どうしたらいい? アリビツキー相手ならまだしも、ロバーチの連中が来るなんて……」

「落ち着け。約束したろ。俺たちはお前に危害を加えないし、お前を守る。――銃見ててくれ。絶対に誰にも触らせるなよ」

「あいよ」

「了解です!」


 ニコラスは同班の2名に銃とブルーノを任せ、玄関へと向かった。


 玄関の外には、8人の東欧系と見られる男が待ち構えていた。


 以前でくわした領事館の門兵が可愛く見えるほど頑強かつ隙がない。


 主武器メイン・ウェポンはAS Val――ソ連時代、ロシア特殊部隊が好んで使った消音自動小銃で、各々カスタムが見られる。

 格好こそジーンズにポロシャツとラフだが、防弾チョッキはGOST規格のレベル5、副武器サブ・ウェポンから脛に収められたコンバットナイフに至るまで全身フル装備だ。


 間違いない。人狩りマン・ハント専門の兵士だ。


 兵士の一人が携帯電話をこちらの鼻先に突き出した。


「閣下からお前に緊急連絡だ。屋上に上がれ」

「今は仕事中だ。ここで聞く」

「ここでは電波状況が悪い。それとも自分の足で歩くのは嫌か」


 脅迫同然の要請に眉をしかめる。27番地こっちの粗悪で狭範囲しか使えない無線でも繋がるのに、上等なイリジウム携帯電話を持っているこいつらの無線が繋がないはずがない。


 よほど聞かれたくない話か。


 ニコラスは渋々携帯を受け取り、階段を上がる。

 ご丁寧に兵士が2人あとをつけているが、振り返ることなく屋上に出て、携帯を耳に当てた。


「俺だ」

『友軍から少し離れた射界の開けた見晴らしのいい高所、かつ天地双方に隠蔽物があり、やや敵地に浸透した、敵の射線に身を晒さずにすむ地点。教本通りの位置取りだ。探すのに10分とかからなかったぞ』


 通話越し、愉快そうに喉奥をくつりと鳴らしたらしいルスランに、ニコラスは鼻面にしわを寄せた。


「要件は」

『警告だ』

「警告?」

『アリビツキーとリベラルモーターズ社が手を組んだ』


 ニコラスは思わず息をのんだ。が、すぐさま平静を取り戻す。


「信じがたい情報だな。そもそもリベラルモーターズ社がアリビツキーみたいな三下悪党と協力するとも思えん」

『信じるかどうかはお前次第だ。大好きな飼い主にでも相談するがいい。だが一つだけ言っておくと、リベラルモーターズ社はお前が思っている以上に賢くはない。保身と金のためなら醜悪な事実を揉み消し、破滅が間近に迫ろうと現状維持に固執する愚者どもだ。何より面子を潰されることを極端に嫌う。だから倒産するのだ』

「へえ。流石リベラルモーターズ社の子会社を隠れ蓑に使ってただけのことはあるな。説得力が違う」

『そうとも。実に扱いやすかったぞ』


 ニコラスの皮肉を物ともせずルスランは痛快に嗤った。


『リベラルモーターズ社が特区設立の責任追及から逃れられたのはアストルム社に潜り込んだからだ。かつて我ら五大マフィアが同社を隠れ蓑にしたように、吸収合併されることで実態を失くし身を隠した。だが例の令嬢の離脱宣言で、アストルム社はリベラルモーターズ社を切り離そうとしている』

「爆弾は早々に始末しようって腹か」

『そういうことだ。せいぜい姫君を奪われぬよう気張るといい。どうせ貴様も小娘も渡しはしまい。物好きなことだ』

「……」

『まあいい。部下にはリストを託しておいた。初回限定サービスというやつだ。存分に活用しろ』

「リストだと?」

『ああ、それらを排除すれば最悪の事態は免れるだろう。ありがたく受け取れ。ではな、駄犬サバ―カ。1時間後に会おう』


 ニコラスが尋ねるより早く電話は切れ、すかさず近づいてきた兵の1人が書類を押し付けて、もう1人が携帯を奪い取った。


 用件は済んだとばかりに立ち去っていく兵士2人にニコラスは首を振り、手元の書類に目を落とした。




 ***




 やっぱニオイが多いか。


 ハウンドは雑多に入り乱れる大衆のニオイに顔をしかめた。


 すえた体臭、油臭い垢、埃臭い防弾チョッキ、香りのきつい柔軟剤、香水、整髪料、煙草、ガム、コーヒー、生ごみ、下水、排気ガス……。


 嫌な戦場だ。

 ニオイが入り混じって誰がどこにいるか判別できない。


 視力があまり良くないハウンドは、嗅覚や聴覚に頼ることが多い。そのぶん夜間や視界が効かない場所でも平然と動けるし、殺気などの気配にも敏い。


 が、こうも人が多いと感覚が鈍る。


 そう眉をしかめたハウンドだったが、己の背後から小走りで近づく足音にはばっちり気付いていた。


 以前ニコラスが保護し、現在はローズ嬢の臨時助手を務めるミハイルである。


「あの。すみません。ローズさんに休むよう言ってもらえませんか? さっきから結構フラフラしてて。僕が言っても言うこと聞いてくれないんです」


 叱られた子犬よろしくしょんぼり肩を下げた青年に、ハウンドは口元だけほんのり苦笑する。


「気にするな。彼女はおしとやかだが頑固だからな。私から言っておこう」

「お願いします」


 ミハイルはそう言うと、すぐ己の持ち場、トラックから支援物資を荷下ろしする26番地住民らのところに戻った。


 総勢50名余り、ローズ嬢の奮闘ぶりに心を動かされた26番地の有志たちは、今日も今日とて同胞の救済に精を出す。


 ミハイルと彼の母親が懸命に声掛けしたのもあるが、それにしたって多い。つい数日前まで火炎瓶やら石を投げてきたとは到底思えない変貌ぶりだ。


 ハウンドがやんわり口角を上げた、その時。きつい口調が鼓膜を打った。


「駄目よ。支援物資は受付をした人だけなの」


 視線を巡らせたハウンドは、1つの受け渡し所に目を留めた。


 慈善団体のメンバーらしき若いポニーテールの女性が、腰に手を当てて一人の幼女を見下ろしている。


 明らかにサイズの合ってない薄汚れたトレーナーを着ているが、金髪翠眼で実に愛らしい。歳はまだ5、6といったところか。親も連れずに一人だ。


 幼女は困惑していた。


「でもおねえちゃんくれるっていったよ? リリーおぼえてるもん」

「だからそれは受付をした人だけなの。そういう決まり。というかあなた、お父さんとお母さんは? こんな小さな子1人で来させるなんて何考えてるのかしら」

「……パパしらない。みたことないもん。ママはおねんね。おきないの」


 俯きがちに悲しげな声音で応えた幼女に、女性はばつが悪そうに口ごもった。

 が、女性はきつい態度を取ったことへの謝罪はせず、早く列を回すことを優先した。


 幼女の後ろ、中年男性が見るからに苛立ち始めたことに焦ったのだろう。


「そうなのね。でもごめんなさい。事前受付をしていない人へ支援物資は配れないの。またママと一緒に来てくれないかしら」

「でもおねえちゃんお花いっぱいくれるっていったもん」

「おい。花ぐらいやったっていいじゃねえか。あそこに大量にあるのは何のためだ?」


 見かねたのか、幼女の背後の中年が顎でトラックの荷台を指した。


 色とりどりの花を咲かせた鉢植えがぎっしり積まれている。

 ローズ嬢がどうしてもと自腹で用意したもので、希望者には一人1鉢配ることになっていた。


 指摘された女性は見るからに渋々といった感じで、ラベンダーの鉢植えを持ってきて幼女に手渡す。


 が、直前で幼女の手を躱した。


「……?」

「『ありがとう』は?」

「え」


 詰問に近い声音に幼女が強張るが、その反応の悪さに女性は不快げに眉をしかめた。


「誰かに物を貰ったらありがとうを言うものよ? ありがとうも言えない子にお花は配れません」

「お前いい加減にしろよ! ボランティアに来たんじゃないのか!?」


 とうとう声を荒げた中年に、女性はキッと睨み返す。


「ええ。ボランティアですよ。でもボランティア活動家だって人間なの。無償よりも有償の方がありがたいしやる気が出るに決まってるじゃない。なのに今まで配ってきた人、1人も感謝しないし態度も横柄なんだもの。この子は小さいから仕方ないけど、正しい振る舞いを教えてあげるのは当然でしょ?」


 ハウンドは冷ややかに目を眇めた。


 正論だが悪手だ。

 言葉というものは、誰が言ったかによってその効力を変える。


 どれだけ正しかろうと、ブランド物の衣服で身を固め、汚れ一つない白いスニーカーを履いた女性の言葉なぞ、ただの恩着せがましい善意の押し付けにしか聞こえないし、不快だ。


 そも三等区住民が棄民に堕とされた時、合衆国民はごく少数を除きそれを黙認した。

 そんな国民に感謝をする底抜けのお人好しが、棄民の中にどれだけいると思っているのか。


 案の定、女性と中年は喧嘩になった。

 怯える幼女そっちのけで舌戦を繰り広げる2人の元に、ハウンドが溜息をつきながら割って入ろうとした時、駆け寄ってきた人物がいた。


 ローズ嬢だ。


 彼女を見るなり、顔を強張らせていた幼女の顔がぱっと輝く。


「おねえちゃん!」

「遅れてごめんなさい! 来てくれたのね」


 息を切らして駆け付けた令嬢はすれ違いざまにハウンドに囁く。


「例の方の娘さんです。私に花を見せて欲しいと頼んだ」


 ハウンドは納得した。


 どうやらこの幼女は、己の母と約束したローズ嬢のことをちゃんと覚えていたらしい。


「随分遅れてしまったわね。約束通りお花をたくさん持って来たわ。それとお母さんは? あなたのお母さんにも見せてあげたいの」

「……ママ、リリーがなにいってもおきないの。近所のおばちゃんがお花だけでも、もらってきなさいって」


 ローズ嬢が硬直した。

 ただでさえ青白い顔からさらに血の気が引いていく様に、ハウンドは無言で見守る。


 間に合わなかったのだ。

 娘に花をと希った母親は、愛娘の笑顔を見ることなく逝ってしまった。


 ローズ嬢は死人に等しい顔色でのろのろと立ち上がり。


「少し待っててね」


 と、幼女に声をかけて鉢植えを取り上げ、すぐさま踵を返した。


 そしてトラックへと走り、しばらくして両腕に大量の切り花を抱えて戻ってきた。


 なるほど。


 ローズ嬢の意図を察したハウンドはすかさず周囲を見回し、ちょうど幼女の背後にいた中年の脇に抱えていたものに目を付けた。


「おいアンタ、その脇の新聞数枚くれるか?」

「ああ? これかなり前のだぞ?」

「いいんだよ、それで。剥き出しの花じゃすぐ萎れちゃうだろ?」


 そう言うと、中年は僅かに目を見開き、仏頂面ながらも数枚の新聞紙を分けてくれた。


 一方、女性は恨みがましげにローズ嬢を一瞥すると、プイッと顔を背けて自身の所属する団体へ戻ってしまった。

 自分が受け取るはずの幼女の感謝を、ローズ嬢に横取りされたと思ったらしい。


 それを呆れ果てて見送り、ローズ嬢の元へ戻る。


「ローズ嬢、これを」

「……! ありがとうございます」


 ローズ嬢は髪を結んでいたシュシュを外し、次いで襟元のリボンを外した。


 そしてシュシュで手早く花を束ねると、それを新聞紙で丁寧に包み、最後にリボンで体裁を整える。


 ラベンダー、薔薇、マリーゴールド、マロウ、ゼラニウム、ヤグルマギク、カモミール。

 即席なれど、色も形も多種多様な花が喧嘩することなく見事に調和した、美しい花束が幼女の目の前に差し出された。


 幼女の目が零れ落ちんばかりに見開かれる。


「これ、ぜんぶリリーがもらっていいの?」

「ええ勿論。あなたのお母さんとの約束通り、お花を差し上げます。それと」


 ローズ嬢は深く息を吸い込み、歪な笑みのまま幼女の頭を撫でた。


「間に合わなくてごめんなさい。お母様によろしくね」

「うん、ありがとうおねえちゃん! ママにみせてくる!」


 幼女は満面の笑みを浮かべた。

 花束に負けぬ、満開に咲き誇る笑顔だった。


「自分らが送っていきましょう。ミス」


 事の成り行きを見守っていたケータら特区警官に付き添われ、幼女がスキップしながら去っていく。


 それを見送るローズ嬢の微かに震える背にハウンドは手を添えた。


「そろそろ休憩しましょうか、ローズ嬢。それと顔を拭きませんと」

「……ええ。そうですね」

「僕が案内します。ローズさん、行きましょう」


 涙交じりの返答に、臨時助手となったミハイルが駆け寄った。


 ここぞとばかりに群がってくる報道陣のカメラを己の身体で遮り、ボディーガードよろしく受付所の奥へと誘導していく。


 さりげなく令嬢のショルダーバッグを持ってきているあたり、なかなか気の利く青年だ。


「少し向こうで座って休みましょう。さっきからフラフラじゃないですか」

「でも、もう少し……」

「いいから休んでってば。ローズさん、働き過ぎですよ」


 やや荒い口調で背を押す強引さと裏腹に、青年の顔は心配一色に染まっている。

 これには流石のローズ嬢も折れた。


 やや足元のおぼつかないローズ嬢を支えながら、ミハイルは受付所奥の休憩スペースに向かっていく。


 その2人の背を追いかけようと足を踏み出した、刹那。

 耳元に無線が飛び込んできた。


『ハウンド! 今すぐボランティアを中止させてくれ!』


 常に冷静沈着な相棒のらしくない慌てぶりにハウンドは眉をひそめる。


「ニコ、何があった?」

『緊急事態だ! 住民の避難を……いや今すぐ国境を封鎖しろ! 巻き込まれるぞ!』


 何がだと尋ねようとしたその時。


 視界の端でローズ嬢がマンホールの溝に足を取られてよろめいた。あわやこけるかと思いきや、寸前でミハイルが支える。


 瞬間。


 パシュ


 水風船が弾けるような水音。ハウンドの頬に飛沫が飛び散った。


 嫌というほど見知ったその粘着質な感触に、嗅ぎ慣れた血錆のニオイに眼球をずらせば、喉元を押さえたミハイルが膝から崩れ落ちている。


 その両手の隙間から零れ落ちる緋色が彼を彩っていく。


 狙撃だ。銃声は聞こえなかった。


 叫ぶより早く、ハウンドはローズ嬢を掴んでトラックの影に引きずり込んだ。

 ローズ嬢は何が起こったか理解しておらず、群衆は茫然と立ち尽くす。


 己が流した血溜まりにミハイルが倒れ伏した。


 その時に至り、ようやく悲鳴と絶叫が上がった。


「ミハイル……!」

「出るなッ!」


 駆け寄ろうとするローズ嬢を力づくで捻じ伏せた直後、濁声が悲鳴を掻き消す。


 見れば群衆の波の向こう、通りの十字路から、ピックアップトラックの即製戦闘車両テクニカルの一団が接近してくる。その荷台の一つに仁王立ちする人物が一人。


『26番地住民に告げる! ローズ・カマーフォードを捕えろ! 捕らえた者には1千万ドルくれてやる! 繰り返す、 ローズ・カマーフォードを捕えろ!』


 アリビツキーの濁声が止むなり、ピックアップに搭載された12.7ミリ重機関銃――DShKデュシーカ38重機関銃が火を噴いた。


 5、6台の即製戦闘車両テクニカルは、民衆を轢き殺さんばかりの勢いで突っ込みながら、弾丸の猛獣を解き放つ。


 悲鳴はもはや絶叫へと変わり、あちこちで波飛沫に似た鮮血と肉片が四散する。


 受付所は逃げ惑う人々で混迷を極めた。

 どこへ逃げればいいのか分かっていない人間が数千単位で我先にと逃げ惑うのだ。


 挙句、発砲するアリビツキーら暴力団員に反撃する26・27番地住民。

 逃げつつも撮影を試みようと藻掻くマスコミ。

 ともかく暴徒を制御しようと虚しく叫ぶ特区警察。


 そして金に目が眩み令嬢を探そうと人海を泳ぐ26番地住民が数十名。

 始終入り乱れて無秩序に動く。


 混沌たる戦場でハウンドは無線に叫んだ。


「地上部隊各位、小隊ごとに集結し隊形を維持! 絶対にはぐれるな!」


 だが時すでに遅し。


 パニックに陥った群衆は、27番地住民もハウンドも飲み込んだ。

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