4-4
ルスランの忠告は、その翌日に現実のものとなった。
ようやく再開したカフェで勤務していた時のこと。
突如、ハウンドのスマートフォンがけたたましく鳴った。
ハウンドは出るなりさっと顔を険しくさせた。
「ニコ。今すぐ人員を搔き集めてくれ。あと戦闘準備。国境付近で小競り合いだ」
「小競り合い?」
「
ニコラスは舌打ちした。
ルスランめ、接触とはこの事か。確かに紳士的とは言えない。
ニコラスはすぐさまハウンドに提案をし、彼女は眉をひそめた。
「……やっぱそのぐらい必要?」
「ああ。いささか気の毒だが、こうなった以上、早期に対処しないと収拾がつかなくなる」
「分かった。私は先に現場へ向かう。援護は任せたよ」
「了解」
エプロンを剥ぎ取り、愛銃を小脇に抱えたハウンドが店を飛び出す。
それを見送って、ニコラスはスマートフォンの画面を立ち上げた。
***
現場となった幹線道路はまさに大混乱だった。
車両、瓦礫、廃材、ドラム缶で築かれたバリケードが二重に張られ、その二重線越しに27番地住民が待機している。
みな銃を持ってはいるが、その手は震え顔は引きつっている。
二つの障壁は暴徒と化した26番地住民の人海を何とか押しとどめてはいるが、外側の壁からは黒煙と火炎が吹き上がっている。さらにその間隙を縫って人々が障壁を乗り越えようと四苦八苦している様が見える。
ハウンドが愛車のカワサキKLR650から降り立つなり、27番地住民のトーニオが駆け寄ってきた。北西部国境警備隊を指揮する小隊長だ。
「状況は?」
「現在、バリケードを張って何とか食い止めてます。でないと石やら火炎瓶やら投げてきますので……」
「こちらからの発砲は?」
「ありません。ご指示通り、決して撃たないよう各員に通達してあります」
ハウンドは頷いた。
ギリギリまで発砲は控えるよう厳命してある。
一発でも撃てば、溜まりに溜まった憤懣が激発し、即座に暴動へと発展する。
一発も撃たないか、鏖殺するまで撃ち続けるか。
いずれかを選ぶしかない。
そのことをハウンドは嫌というほど知っている。
非暴力が尊いなどと言うつもりはないが、少なくとも今は撃たないことが味方の生存率を高める最良の選択だ。
「で、向こうのリーダーはどこだ?」
「あそこですよ。アイツが連中を煽ってるんです」
小隊長が忌々しげに指さす方向を見ると、車両の上に乗ってハンドマイク越しに叫んでいる男がいる。
恐らく、あれがボリス・アリビツキーだ。
「あれで交渉を要求してるつもりか」
「ええ。今すぐあなたを呼び出せと」
「さもなくば住民をけしかけようって腹か。良い支配者だな」
「全くです」
腹立たしさを甲高い舌打ちで示したハウンドは目を眇めた。
自軍たる27番地住民は訓練を受けた優秀な民兵だが、兵士ではない。
彼らの士気の高さはマフィアやギャングから己が領地を守らんとする自衛意識の高さによるもので、同胞たる三等区住民への攻撃には躊躇いがある。
しかも敵たる26番地住民の中には女子供もいる。
これでは撃てない。
アリビツキーからすれば、己の手を汚すことなく住民が勝手に動いてくれるのだから、これほど楽な方法はないだろう。
卑劣極まりないが実に有効的な策だ。
『我々の要求は2つ! 1つ、水と食料を分けて欲しい! 2つ、薬を分けて欲しい! この二つだけだ! なのに27番地は我々の要望に一向に応えようとしない! 27番地は我々を見捨てる気なのか――!?』
「よく言うぜ。ぜんぶ自分の懐に溜め込んで終いだろうが」
小隊長の言葉にハウンドも頷く。だが。
「時間が経てばたつほどこちらが不利になる。ハンドマイク貸してくれ。埒を明ける」
「あれと交渉する気ですか……!?」
「いいや。時間稼ぎさ。ニコに良い考えがあるそうだ」
そう言うと小隊長は目を見開き、神妙に頷いた。
「なるほど。彼はこういった暴動鎮圧の専門家でしたね」
「イラクじゃこんなの日常茶飯事だっただろうからな~。けどそれ本人に言ってやるなよ? 多分そう言われるの不本意だろうし」
「でしょうね。了解しました。――全員合図が出たら伏せろ! いいな!?」
指示を飛ばしながら持ち場へ戻る小隊長を見届け、ハウンドはハンドマイクを手に取った。
「こちらは27番地代表、ヘルハウンドだ。全26番地住民に告ぐ。直ちに撤退せよ。撤退しない限り、そちらの要望には応えられない」
『我々は食料が欲しいだけだ! こちらには女子供、病人だっている! なのに何も渡さず追い返す気か!?』
アリビツキーの叫びを住民の怒号が掻き消す。
衣食住足りて、人間は初めて礼節を知る。
アリビツキーに煽られた住民の理性のタガは、まさに外れる寸前だった。
けれどハウンドは眉一つ動かさない。
片耳に装着した
「警告する。直ちに撤退せよ。従わない場合はこちらも実力行使に出る。繰り返す。10秒以内に撤退せよ!」
『皆聞いたか!? 奴は我々を見捨てる気だ! 強欲な27番地を許すな! 食料を取り返せ!』
奪う、の間違いだろう。最初からそれが目的か。
内心で毒づいたハウンドは、心の中で10を数える。
27番地住民が全員伏せる。頭が
ゼロをカウントした、刹那。
アリビツキーのハンドマイクが吹き飛んだ。
穿たれたハンドマイクの破片が宙に四散し、アリビツキーは声を上げてひっくり返った。
何事かと暴徒が振り返った瞬間、それは降ってきた。
閃光。炸裂。
火球が地面を奔り、火炎に舐められた暴徒から悲鳴が上がる。
が、見る限り怪我人は一人もいない。携行式迫撃砲から発射された60ミリ焼夷弾は、二重に敷かれた
惚れ惚れするほどの間接射撃だ。
建物越しに見えない目標を狙う間接射撃の難易度は高く、たとえ正規兵といえど初弾でこれほどの正確な砲撃は不可能に近い。
緻密な弾道計算を元に、的確な指示を出してくれる観測手がいない限り。
「お見事。命中だ」
『次弾は装填した。もう一度警告してくれ』
狙撃手と観測手の一人二役をこなしたニコラスの指示に、ハウンドはハンドマイクを再び構える。
「最終通告だ。直ちに撤退せよ! 次は頭上に落とすぞ!」
反応は劇的だった。
暴徒は我先にと身を翻し、蜘蛛の子を散らすが如く逃げていく。
逆行する人海にアリビツキーが怒鳴って止めようとするも、誰一人として耳を貸す者はなく、結局すごすごと撤退していった。
あとに残されたのは焦げた障壁と人々が落とした衣服や靴、それと負傷して蹲る住民が数名。
「負傷者の回収を。手当て次第、一人残らず送り返せ。うちでは保護しない」
「Yes, ma’am!」
障壁を乗り越え負傷者を回収しに行く住民を横目に、被害状況を確認していたその時。
「あっ、おい! お前らこっちに来るな!」
「撃たないで! 僕らは怪我人だ」
「嘘つけ! お前ら怪我してねえじゃねえか!」
怒声に振り返れば、顔が煤だらけの青年が、住民の制止を振り切ろうと藻掻いていた。
その背後には、同じく顔が煤だらけのやせ細った年配の女性が、オロオロと立ち尽くしている。
親子だろうか、少なくとも見慣れぬ顔なので26番地住民なのは確実だ。血の臭いが一切しないので、顔の煤は怪我人を装って塗りたくったものだろう。
「くそっ、放せよ!」
「駄目だ。保護するのは怪我人だけだ。それ以外は保護しない。大人しく26番地に帰れ」
「2人ぐらいいいじゃないか! 僕らの区画がどうなってるかぐらい知ってるだろ!?」
怒鳴り返す青年に住民が怯んだ。それに乗じて青年はますます勢いづく。
「そんなに僕らを追い返したいなら統治者を呼んでこい! 僕らはお前らと同じ棄民だ!必ず保護してくれるに決まってる! 統治者はどこだ!? 『六番目の統治者』はどこだ!?」
狼狽えた住民の視線が突き刺さり始める。
ハウンドは静かに嘆息すると、青年の前へ進み出た。
「私が統治者だ。要件は」
青年はポカンと口を開けて固まった。
自分の素性は多少知られているはずだが、いざ目の当たりにすると驚くものなのだろうか。
考えてみれば、彼の五大マフィアから領土を捥ぎ取った人物が18歳の少女である、という話自体かなりの眉唾ものだ。もしかすると、話半分に信じていなかったのかもしれない。
「えっと……? 君、じゃない。あなたが?」
「そうだ。お前たちは26番地住民で間違いないな?」
「え? あっ、はい!」
「なら話すことはないな。とっとと自分の領内に帰れ」
一瞬なにを言われたか分からないといった顔をした青年だったが、言葉を解するなり即刻噛みついてきた。
「ちょっと待てよ! あんただってさっきの惨状見ただろ!? 26番地はもう限界なんだ! 僕らを殺す気か!?」
「そうだ」
即答すると、青年は目に見えて蒼白になり、すぐまた紅潮した。
「本性を現したな悪党め……! 同じ棄民なのに、26番地は見棄てて27番地は助けるのか!?」
「ああ」
ハウンドは淡々と返す。
「私は手の届く範囲のものしか救わない。私が救うのは27番地だけ、それ以外は救わない。お前は私の手の届かないところに居た、それだけのことだ。恨むならお前の不運を恨め」
青年は反論しようと口を開いたが、すぐ閉ざした。それを幾たびか繰り返し。
「なんで、同じなのに。なんで僕らだけ……」
と、力なく項垂れた。
呻くようにすすり泣く青年を27番地住民の罪悪感に満ちた表情で見下ろす。
それを見届け踵を返すと、狙撃兼監視ポイントから戻ってきたニコラスが歩み寄ってくるところだった。
「大丈夫か」
「だいじょーぶ。よくあることさ」
「……今の俺の給料なら二人ぐらい」
「駄目だ」
ハウンドはぴしゃりと跳ね除ける。
「一人を救えば、全員を救わねばならなくなる。27番地住民だけで手いっぱいな今、他区画の棄民を受け入れるわけにはいかない。例外はつくれないんだよ」
「…………なら、許可をもらってもいいか?」
見上げれば、実に気まずそうな、それでも目だけは逸らさぬ兵士の姿があった。
「お前の手はもう一杯かもしれないけど、俺の手にはまだ空きがある。だから許可をくれ。統治者のお前が助けるのは無理でも、俺個人が助ける分には問題ないだろ?」
真っ直ぐこちらを見下ろす琥珀の双眸を見つめ、逸らす。
今の自分には、この目は鮮烈すぎる。
俯いた視線の先、ニコラスの後ろに並び始めた足にハウンドは溜息をついた。
ほれ見ろ。さっそくだ。
「……今回に限り負傷者を保護する。ただし、負傷者の居住先と食事は保護した人間が工面しろ。拾った責任は取るように。それでも足らない分はニコの給料から天引きするからな? 事はまだ始まったばかりだ」
「……! Yes, ma’am!」
「了解した。――ありがとう」
便乗した住民らが嬉しげに、誇らしげに踵を返す。
それに追随するニコラスも安堵に目元を緩めた。
青年親子の元へ向かうニコラスの背中を見つめ、秘かに項垂れる。
手元に置くんじゃなかった。
あの時、勘付かれても追い出せばよかった。
一月前、ニコラスを特区から逃がす絶好の機会を不意にしたことを、ハウンドは心底後悔した。
あの男は息を吸うように自己を犠牲にする。無意識に、無邪気に。
己の存在が、周囲に比べてとるに足らぬと確信している。己が死んでも周囲が救われればそれでいいと本気で思っている。
――この死にぞこないが。
心臓の奥底で蹲る深緑の瞳の小さな少女に、ハウンドは怨嗟を滾らせた。
そら見たことか。お前があんな呪いをかけたから、この男は英雄になろうとしている。
大衆のため身を削り、命を擦り減らすこと美徳とするおぞましい存在。個を極限まで殺滅し、正義の御旗のもと群衆の願うまま踊り狂う操り人形。
英雄とは、そういうものだ。
――5人も食ったくせにまだ足りないか。余計なことばかり言いやがって。
黒妖犬は深緑の双眸の少女を憎悪する。
ああ、やはり。
お前はあの時、野良犬に喰い殺されればよかったのだ。
そうすれば、この兵士にまで呪いをかけることもなかっただろうに。
ハウンドは再び視線をあげ、泣き崩れる青年親子の前にしゃがみこむ兵士の背を見つめる。
「……ほんと。貴方にそっくりですよ」
ラルフ。
いつも頭を撫でてくれた大きな手の温もりを思い出し、ハウンドは人知れず瞑目する。
***
ハウンドが予見した通り、事はこれで終わらなかった。
26番地では連日デモが発生し、住民は国境沿いに人々に訴えた。
食料不足や支援を訴える悲痛な声が大半だったが、合衆国政府やミシガン州の対応への怨嗟に近い不満も少なくなかった。
中でも特区設立の元凶となったリベラルモーターズ社に対してのはかなり過激で、憎悪から始まったデモ行進は、それを止めようとする特区警察と争い大規模な暴動へと発展した。
しかも、それは一度や二度では済まず、死傷者すら出てもまだ収まらない。
「……止まらねえな」
「5年間も放りっぱなしじゃね~。溜まりに溜まってたんだろ」
どうもならんと首を振るハウンドに、ニコラスはカフェ店内に新しく設置されたテレビ画面を見上げて臍を噛む。
ここ一週間、報道は特区でのデモと、リベラルモーターズ社の対応を批判する声で満ち溢れている。
気の毒だが、ローズ嬢の試みはもう絶望的だろう。
そう思っていた矢先、電話が鳴った。カフェに敷かれた有線電話からだ。
電話に対応した店長が残念そうに振り返る。
「先日来られたカマーフォードさんの秘書からだ。依頼を取り下げるので着手金を返金して欲しいと」
ニコラスは瞼を降ろして首を振った。望みは潰えた。
電話から7時間後の午後8時、秘書は一人でやってきた。
「今朝お話した通り、着手金の回収に参りました。報酬の半額の25万ドル、きっちり返していただきます」
以前と打って変わって高慢な態度で臨んだ秘書は、つんと顎を反らして言い放つ。
対するハウンドは預かった着手金の入ったトランクケースをテーブルに乗せた。
「開封は?」
「してないし手も付けてない」
「確認いたします」
つっけんどんに返答した秘書は札束を数え始めた。
話しかけるなと言わんばかりの雰囲気にニコラスが躊躇っていると、ハウンドが代わりに尋ねてくれた。
「ミス・カマーフォードは?」
「お嬢様ならニューヨークにいらっしゃいます。ご結婚を控えておりますので」
「「結婚?」」
揃って素っ頓狂な声をあげたこちらに秘書は不快気に眉をひそめた。
「まだ発表はしておりませんが、お嬢様はアストルム社のご子息と4年前から婚約しております。本当ならとっくに式をあげているはずだったなのに、あの手この手で逃げ回るものですから。あなた方が最初からきっぱり断ってくれたら、こんな搦手を使わずに済んだのですけど」
「……アンタか。うちに護衛を依頼したのは」
問うた声は唸り声に近かったが、秘書は失笑した。
ようやく肩の荷が下りたのか、やけに口が軽い。
「ええ。無法者のあなた方が反対すれば諦めると思って。あなたが言った通り、お嬢様の計画は吐き気がするほど綺麗事でしたから。みんな呆れ果てて止めもしない、しかもそれを黙って見守ってくれてるなんて思い込んでるんですもの。ほんと、これだから世間知らずの箱入り娘は困るわ。誰がお守りをすると思ってるのかしら」
ニコラスは言いようのない吐き気を覚えた。
どうやらこの秘書、こちらが素のようだ。
「予想通りあなたは反対してくれたけど、そちらのお嬢さんは賛成するとは思わなくて」
ちらりと冷ややかな視線を向けられたハウンドは、腕組をしたまま肩をすくめた。
「報酬さえあればどんな依頼も引き受けるのが代行屋ですので」
「あらそう。なら新しい依頼も引き受けてくれるわね、代行屋さん」
過度な力をこめて閉じられたトランクケースが悲鳴を上げる。
その横には剥き出しの百ドル札の束が一つ。
「デモを止めてちょうだい。報酬は1万ドルでどう?」
「はあ?」
あまりの態度にニコラスは反論した。
「ちょっと待て。なんで俺らがデモを止めなきゃならない?」
「言ったでしょう。お嬢様は結婚を控えているの。彼女の結婚には我がリベラルモーターズ社の命運がかかってる。悪い噂が立ったら困るじゃない」
ニコラスは久々に血液が逆流するのを自覚した。
そして、ローズ嬢がなぜああも特区住民に心を砕くのか理解した。
企業という鳥籠に囚われ、実家という名の飼い主に従うだけのローズ嬢。
国に翻弄され、五大マフィアに生殺与奪を握られた棄民。
彼女は自分の人生を棄民の境遇に重ねていたのだろう。だから本気で救おうと懸命に羽ばたいた。
だがようやく飛び立った先は、自由な大空ではなく、新たな鳥籠の中だった。
「んなことできるか。第一デモが起こってんのは隣の番地だ。俺たちは部外者だぞ」
「でも金さえあればどんな依頼も引き受けるんでしょう? 金が足らないなら予算を言ってちょうだい。ただしぼったくるなら――」
とん、と軽い衝撃音が店内に響く。
秘書は何が起こったのか理解できず視線を彷徨わせ、それを見つけるなり悲鳴を上げて椅子から転がり落ちた。
椅子の背もたれ、つい先ほど秘書の顔があった真横に銃剣が突き刺さっている。
大口径拳銃すら可愛く見えるほど巨大かつ堅牢な漆黒の銃身、その先に剣鉈と見紛うほど分厚く長い銃剣が白刃の煌めきを放つ。
「そういうやり方がお好みなら合わせてやろうか、お嬢さん」
真の姿を顕わにした統治者は、腕と足を組んで冷然と秘書を見下ろす。
初めて見るハウンドの冷酷な態度にニコラスは生唾を飲んだ。
「私も統治に関してはロバーチ一家と同意でな。私も27番地住民さえ守れれば、あとはどうでもいい。26番地住民もリベラルモーターズ社もお前も端から目じゃない」
「あ、あの、私は」
「あと口の利き方には気を付けろ。ここは私の
「……っ!?」
秘書は慌てて周囲を見回すが、誰もいない。
だが今は、物音一つないこの静寂の方が彼女の恐怖を煽る。
「予算といったな。報酬なら札束があと99は足らん。今すぐ持ってこさせろ」
「そ、そんなお金は――」
「なら失せろ。今すぐだ」
秘書は脱兎の如くカフェを飛び出した。
よほど慌てたのか、確認済みのトランクケースが置き去りだが、あの調子だと二度と戻ってこないだろう。
「……統治者も楽じゃないな」
「そうよ~。裏も表もあんな人間ばっか。ほんとこの世界は碌でもない」
くたびれたように椅子にもたれかかったハウンドは、煙草を取り出し口に咥えかけてから、はっと気まずげにこちらを見やる。
「……1本だけだから」
「はいはい。どうぞ」
見咎めないことにハウンドはきょとんとした。
「怒らないの?」
「喫わなきゃやってられねえだろ、こんなの。だいたい俺が最初に喫ったのは13の時だ」
「わーお不良少年」
「うるせえ、ませガキ。とっくの昔に禁煙した」
ニコラスの生まれはニューヨーク市ブロンクス区、ハーレムと並ぶマンハッタン屈指の貧民街だった。
堅気の職に就いている大人より、ギャングや麻薬密売人の多い街で育ち、13の時には大人が経験する大抵のことは知っていた。
だが特区は己の故郷より酷く悲惨だ。
そんな街で、15の時からたった一人でこの区画を支え守り続けた彼女の苦労は計り知れない。
あなたのためと恩着せがましく己の価値観を押し付けるほど、ニコラスは潔癖ではなかったし、説教できるほど立派な生き方はしていない。
「んじゃ煙草の代わりに何か労ってよ、ニコ」
労え、と言われてニコラスは困った。
しばし考え、ふと一つの妙案が浮かぶ。
「何か作るか? 『絵本ご飯』とか」
それを聞くなり諦観と疲労に染まっていたハウンドの目が、途端に輝きを取り戻す。
その食い意地っぷりにニコラスは吹き出すのを堪えた。
「何がいい?」
「お菓子! とびきり甘いの!」
ニコラスは返答に窮した。
現在、ニコラスの調理可能な菓子類はスコーンに限定されている。
それ以外のものは未知数だ。レシピすら見たことがない。
しかも『絵本ご飯』である以上、お菓子を使って絵本の色を表現しなければならない。
迂闊に聞くんじゃなかったと後悔するが、当の注文者はクリスマスイブに靴下を後生大事に抱えてベッドに入る幼子のようなワクワク顔で待機している。
これは応えないわけにはいくまい。
にしても、先ほどの統治者としての振る舞いが嘘のような豹変っぷりである。
――どっちが素なのやら。
苦笑したニコラスは絵本のめくり、さてスコーンが使えそうなページはないかと思案したその時。
鈴が鳴った。
ニコラスは、先ほどの秘書が戻ってきたのかと眉間にしわを寄せて振り返り、驚愕した。
「「ミス・カマーフォード!?」」
来店者は、真っ青な顔を薄汚れたフードで隠した令嬢、ローズ・カマーフォードだった。
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