030 黒白の姫君

「はぁ、はぁ……くそ、クソッ!! んだよ、何なんだよアイツら、ちくしょう!!」



 ロイベルは、負傷した腕を抑えて廊下を走っていた。

 目指しているのは、一部の騎士のみが知っている地下通路。



 そこは公領の外に通じていて、主に緊急避難用として作られた通路だった。

 とはいえ、これまで一度も使われたことがなく、場所も不確定なため噂程度にしか一般の騎士には知れ渡っていなかった。

 だが、ロイベルは一般の騎士ではなかった。

 


「くそ、くそ……ッ! 俺はナンバーズだぞ……!」



 三年前まで、No.7の座についていたロイベルは、二回りも下の、若輩であるエルザ・エリトンとの一騎打ちに敗れ、座を奪われた。

 それ以来というものの、おなじナンバーズでしか張り合える相手がいないほど抜きん出ていた実力は発揮されることなく、年齢とともに落ちぶれていった。



 再び返り咲くこともなく、やがてきょうという日を迎え――

 ロイベルは、悪魔を前にして、心を打ち砕かれた。



 この三年間。

 息子とほぼ同い年である騎士に囲まれ、恥を忍び一から基礎を叩き直した。

 若輩に敗れたことを蔑まれ、嫉妬を買われていたこともあり露骨な嫌がらせを何度も受けた。

 それでも、いつかまた、あの座につくことだけを考えて、ロイベルは心を奮わしてきた。



 そんな強靭な精神を、あの悪魔はいとも容易くへし折った。



『いぃぃぃっぱい出してもいいんだよ? すきなだけ、たくさんちょうだい。みんなと一緒にキモチよくなろ? ね?』


「――ひぃッ!?」



 ふと脳裏に蘇ったのは、赤い花々に囲まれ妖艶とあそぶ一人の少女。

 ポニーテールにまとめられた桃色の髪の毛ローズクオーツをゆさゆさ揺らして、死神のように黒いスーツの女は、指先をあえかに遊ばせる。



 たったそれだけのことで、数十の騎士の首が、噴火するように真上へ吹き飛んだ。

 そして、また血の花を増やすと、悪魔はロイベルをみて、世にも美しい微笑みをたたえた。



 他の騎士よりも魔法の心得があったのが幸いした。

 剣だけでなく魔法にも精通していたロイベルは、常日頃から反魔法の術式を体に仕込ませていたのだ。それ故に、花を咲かせることなく逃げ延びているわけだが……。



「早く、早く逃げねえと……あいつが、来るッ」



 追いかけてきているかどうかはわからない。

 桃色ローズの悪魔が来なくとも、すでにギャングが屋敷に乗り込んでいる。

 もしあの悪魔に、隠し通路を知られ追跡されたら絶望的だ。

 急いで向かわ逃げなければ――



「……あ?」


「あら?」



 扉の先で、橙色の瞳と目が重なった。

 


「ごきげんよう。もしかして、ガリーザ・エルトスの騎士でしょうか?」



 隠し通路のある客室には、先客が――見目麗しいダークエルフの女だった。



 使用人服を着飾った女は、一歩外を出ればが地獄が広がっているという状況だというのにも関わらず、茶菓子を口に寄せのんびりと過ごしていた。



「お、おまえ、は……なんだ?」


「昨日から捕虜として連れてこられた奴隷です」


「ああ……ユウリ坊ちゃんの」



 作戦から外されていたため詳しくは知らされていなかったが、追放されたユウリの妻が捕虜にされていると中年騎士連中の間で噂されていたため、ロイベルはすぐに理解した。



「あなた、怪我をしていますの? 痛くないのですか? 簡単な手当てならしてあげられますけど」


「え、あ、ああ、いやこれぐらい……」


「ダメですよ、こういう傷が死に至ることもあるのですから」



 腕を引かれ、ロイベルはムリやりソファに座らせられた。

 慣れたように棚から救急品箱を持ってくると、これまた手慣れた手つきで傷口を消毒し包帯を巻いていった。



 早くここから逃げなければ――そう強く思う反面、目前の女から漂ってくる異香に、蠱惑に正常な判断力を狂わされていく。



 エルフは総じて美形だ。亜種であるダークエルフもまた、その特性は受け継がれている。

 男の情欲をくすぐる神聖さと触れて壊したくなる体つきが伴って、二つの種は性奴隷として人気が高い。



 彼女も例外なく、傾国の美女だ。

 ふと触れる女の指先や、使用人服の上からでもわかるスタイルの良さ。

 戦場と悪魔に長いあいだ晒されていたことによるストレスの反動か。気がつくとロイベルは、逃げなくてはと頭で考えながらダークエルフの女を押し倒していた。



「いったい何を?」


「に、逃げ、逃げなくちゃ……いけないんだ。早く、だから」



 獣のように荒い息。

 涎を口の端からわずかに垂らして、ギラついた眼光で女を舐るように見渡す。

 頭の上で両腕を鷲掴みにし、馬乗りとなって、それでも平静とおおきな胸を上下に揺らすダークエルフ。



 異様な女だった。これから起こる凄惨さが理解できないわけではないだろう。

 しかし、一切臆すことなく、女は無表情でロイベルを見上げる。



「警告しておきますけれど……すぐに私から退かないと死にますよ」


「は、はは、ハハハハハッ」



 ダークエルフのかわいい脅しに、ロイベルはたまらなく笑い声を上げた。

 あの恐ろしい悪魔を見てきた後なのだ。どれだけ強い言葉を使おうと、今のロイベルに脅しとしての効果は薄い。



「すぐに終わらせるから、抵抗するなよ」


「警告、しましたわよ。あまり血は好きじゃありませんの」


「せめてかわいらしく鳴いてくれよ。できるだけ声はちいさく、な?」


「そう、残念ですわ。今ならまだ、取り返しがつきましたのに」



 そして再三の警告を無視したロイベルは、マナフのおおきく膨らんだ乳房に手を伸ばして、



「――あ?」



 胸に伸ばした手が弾かれるようにして左へ飛んでいった。

 


「……あ、……れ」



 ついで、胸元から生える鉄の感触を視認してから、ロイベルは横に倒れた。

 


「滑稽ですこと。……やはり血が付着してしまいましたか。だからやめてとお願いしましたのに」



 エプロンに飛び散った血を忌々しく見遣りながら、ダークエルフの女は起き上がった。

 


「もう少し配慮してくれてもよかったのでは? 蒼炎ソウエン


「……」



 名を呼ばれた黒装束の男は、無言のまま死体の腹に腰を落ち着かせていた。

 


「まあいいです。どうせこの服とはもう、おさらばですから。……案外、使用人というのも楽しめました。とはいえ、それらしいことは一切していませんが」



 ダークエルフの女は、メイド服をその場で脱ぎ捨てていく。

 一糸纏わぬ姿となった女は、ベッドの下からアタッシュケースを取り出し、この日のためにあつらえさせたドレスに腕を通した。

 夜の闇を全て絹に落とし込んでしまったかのような、漆黒のドレスがひるがえる。

 


「どうでしょう? ロア・サタンといいましたら黒がトレードマーク。彼と踊れますよう、色も合わせてみたのですけれど」



 見せる相手は一人しか存在しない。寡黙で無礼な護衛に見せつけるようにして、女は腕を広げた。

 ポーズも取ってみたりして、反応を伺う。

 すると、黒装束の男は、ボソリとつぶやいた。

 


「……顔」


「……顔?」



 言われて、ああそうだったと、思い出す。

 きょうで使用人は終わり。

 きょうからは、ようやく本来の姿で彼に会えるのだ。



「ふふっ。驚いてくれるでしょうか。ずっとお側で支えてきた女が、私だと知ればいったいどんな顔を見せてくれるのでしょう?」



 白銀の髪が、褐色の肌が、彼女を彼女たらしめていた輪郭すべてがドロリと熱に浮かされた氷のように溶けていく。

 そして現れたのは、色素が全て抜け切った雪の純白。

 ショートボブに切り揃えられた白髪に黒い蝶を模した髪飾りをつけて、黒い瞳の少女はくるりと一回転。



 満を辞して、少女がフレアスカートを摘む。



「マグノリア・アイザック――復活です」



 黒白の姫君が嗤い、首に嵌められた奴隷の証をさする。



「いま、会いに行きますわ。あなたのマグノリアが、抱きしめに。

 ――と、その前に」



 熱に浮かされた白磁の頬を両手で添えながら、マグノリアはドアの奥を見据えた。



「意趣返し、でしょうか。盗み聞きはあまりよろしくない趣味ですよ――アリシアさん」



 呼ばれ、殺していた気配が顕現した。

 瞬間、ドアが勢いよく蹴り飛ばされ、戦衣を着たアリシアが鬼の形相で這入ってくる。



「噂には聞いていたけれど……ホントにアホみたいなスキルを持ってるのね」


「まあ、怖い。もしかしていびられたこと、根に持ってます?」


「道理で、あのマナフとかいうダークエルフとは反りが合わないわけ。……思い出しただけで腹立ってきた」



 奴隷に落ちて、使用人として働いていた短い期間。

 ダークエルフに姑のごとくイチャモンをつけられていたことを思い出し、剣を握る手に力が入る。

 


「ふふ、スキンシップですよ。まあこちらとしては、必死に笑いを堪えていましたけれど」


「……あんたとは、やっぱり決着をつけておきたい」


「望むところです。あなたを手土産に、ユウリ様と感動の再会を果たしますの」


「感動どころか修羅場だよ。いつから入れ替わってたのか知らないけど、マナフがあんただって知ったら――」


「驚いた顔が瞼に浮かびます。とても愛おしい……早くこの体で抱いて差し上げたい」



 胸の下で腕を組み、くねくね体を揺するマグノリアに剣の切先を向ける。

 


「あんた殺しておにいも殺す。そうすればみんなハッピーエンド」


「ふふ、ふふふ。かーいいですね、アリシアさん。自分の優勢を信じて疑っていない。その自信はいったいどこから湧いてくるのでしょう?」


「知らなくてもいいでしょ。どうせ死ぬんだから」



 床を踏みしめて、アリシアが飛びかかる。

 しかし、依然としてマグノリアは微笑みを浮かべるだけで――



「きょうは気分がとてもいい――素敵な夜になる予感が、ひしひしと伝わってきます」



 それは裏手にある修練場から、肌を刺す日差しのごとく伝わってきていた。




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