002 一線を越える
ユースティス公領の花形である
こうやって街に降りてきたのはいつぶりだろうか。
朝から晩まで、道場で剣を振るうしか行動を許されていなかった俺たち兄妹は、一年に一度だけ、街に降りて買い物を楽しむことができた。
「およそ一年ぶりくらいか。去年は俺の誕生日に行ったから……」
今年は、妹アリシアの誕生日に外へ出向く予定だと、母が言っていたのを思いだす。
「こんな形で外に出るハメになるとは思わなかったが……へへっ」
子連れの主婦、パン屋のお姉さん、女学生、走り回っている女児。
なんて……素敵な世界なんだろう。
世界には、こんなにも多くの女性で溢れているなんて。
あの箱庭も同然の世界では、得られない幸福感がある。
「あー……どうせのたれ死ぬなら、童貞は卒業したかったなあ」
引きこもりの剣術バカで女を見慣れていないせいか、実の妹に欲情するクソ兄貴だからきっと人生詰んだんだ。そうに違いない。
「いや、そう考えるとマジで終わってんな俺……そうか。終わってるのか」
そう、もう終わっているのだ。
家を追い出され、婚約解消され、一ヶ月分の
失うモノなんてなければこれ以上、落ちることもない。
なら……。
すでに人生、詰んでいるのなら――。
「めちゃくちゃに好きなことやろ。恥も外聞も知らんよ」
なんなら、このままユースティスを名乗りつづけて評判を地に貶めてやる。
そうと決まれば、さっそく情欲に任せて暴れるとしよう。
これまで溜まってきた鬱憤を、すべて晴らして死にたい。
右手の麻袋を握り、俺はさっそく娼館へ向かった。
****
「い、いいよ……っ! そのまま、奥で……っ、んんぅあっ!」
「あ、あ、あ———ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?」
そして夢のような時間も終わり――。
娼館のまえで佇む俺は、空になった麻袋を見遣り、俯いた。
「なに……してんだよ、俺……」
何が恥も外聞もないだ。五発も出したら冷静になっちまったじゃねえか。
高級娼婦との激しいせめぎ合いを終え、俗にいう賢者モードに陥った俺は、すっかり日の暮れた街を歩く。
どこからか香ばしく焼ける肉の匂いが漂ってきて、胃がねじ切れそうだった。
「はあ……こうなったらもう、とことん地に落ちるしかねえ。奴隷にならなきゃいいや」
そんな軽い気持ちで歩いていると、目の前で一台の馬車が止まった。
どこかの貴族だろうか。
いい身なりをした男と護衛が数人、宝石店へと入っていった。
残された馬車には、ひとりの御者だけ。
きっとあの荷には、一晩明かす程度の金があるはずだ。
ごくっと生唾を飲み込んで、周囲を見渡す。
「……。……ふぅ。っし、食うか食われるかだ……そうだろ? 俺には恥も外聞もねえからよ」
言い聞かせるよう、声に出して、呟く。
倒錯してしまいそうになる緊張感を孕みながら、馬車の横を何食わぬ顔で近づいていき――瞬間、膝のバネを一気に開放して跳んだ。
「―――」
御者の頭部へ木剣を叩き込む。
うめき声もなく気を失った御者の体を背もたれに預けさせ、だれも見ていないことを確認。逃げるように荷台へ足を踏み入れた。
「もう後戻りはできない……やるならとことんやれ……ッ」
緊張で引き攣る口角と心臓を押さえつけながら、薄暗い荷台に侵入した。
しかし……暗くてよく見えないが、荷台には物がなにひとつ置かれていなかった。
「チッ……何もねえじゃんかよ」
舌打ちが響いた。
馬車には、金目になりそうなものは何ひとつ置いていなかった。その代わり――
「すぅ……っ、んぅ~」
「……」
俺より年下……だろうか。豪奢な蒼いドレスに身を包んだブロンドの少女が、すやすや寝息をたてて眠っていた。
この暗さでもよくわかる美しさ。
唾を飲み込んだ俺は、いやいやと首を振って踵を返そうとして、
「――ありがとうございました、ロールイス伯」
「こちらこそ、とても素敵な宝石を紹介してくださった。これで娘のシャーロットも喜ぶこと間違いない」
「シャーロット様も、もう十五ですか。さぞや麗しい姫君にご成長なされたのでしょうね」
「いやいや、見た目は花にも劣らぬ絶佳だが、いかんせん人形遊びが抜けていない。そこがネックでな」
心臓がはち切れんばかりに脈打った。
はやく逃げなければ――だが、せめて何か成果を……!
出口と少女を何度も交互に移して、貴族と宝石商の会話が思考を邪魔して、心臓がバクバクと弾けんばかりに蠢いて――俺は。
「――おや?」
「どうかしましたか?」
「いえ、馬車から人影が飛び出ていくのを見た気がしまして……気のせいでしょうか?」
「娘が起きたかな。それでは、私は行くとしよう。ユースティス公爵と縁談があってね、これから向かわねばならんのだよ」
「そうでしたか。それはまた喜ばしい。ではお気をつけて、ロールイス伯爵。最近、ここいらも物騒ですから。とくに、ギャングに目をつけられると面倒ですよ?」
****
「はあ……はぁ、はぁ……っ」
なんとかバレずに脱出は成功したが、捜索がはじまるのは時間の問題だろう。
今すぐにでも公領から出ないと……いや待て、この女の子を連れて行くのか?!
気が動転して連れてきてしまったが、失敗だった。
唇を噛み、路地の壁に背を預けて頭を悩ませる。
「んぅ……」
気持ちよさそうに、俺の腕の中で眠るブロンドの少女。
人形のように軽い。
気品のある香水の匂いが鼻を掠め、俺の罪悪感を煮立たせる。
この子を奴隷商に売ろうにも、公領ではダメだ。捜索がはじまっていてもおかしくないし、すぐに足がつく。捕まって下手するとその場で殺されるかも知れない。
だが、逃げるにも金を稼ぐにしても、この子を手元に置いておくのはリスクが高すぎる。
「くそ、なんでしっかり考えなかったんだよ俺……!!」
今さら、戻ったところでどうにもならないだろう。謝っても殺されそうだ。
とはいえ、この子をここに置き去りにしていくなんてことは……。
「ん……ぅぅ、ん? あれ……ここ、は……?」
そして最悪なタイミングで、少女が目を覚ました。
蒼い瞳が俺の視線と重なる。
眠た気だった表情が、一瞬にして覚醒していく――
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