第9話 母との約束
母は家に帰るたびに施設での愚痴をこぼした。施設には色々な人がいる。相性の良い人ばかりではない。利用者さんの中には認知症のひどい人や問題行動を起こす人もいる。大声をあげる人もいる。そうした環境の中にいる事が苦痛のようだ。又、施設では座ったままの姿勢で長い間過ごす事も多い。忙しく働いておられる職員さんにも声を掛けにくいようだ。今まで家で思い通りに過ごしていた母は不自由を感じる事が多いのだ。自分自身も今までのようにスムーズに歩けない。言葉もスムーズに出てこない。だから人前に出る事にも抵抗があるようだ。色々な葛藤があったに違いない。私自身、施設で介護の仕事をしているので施設内の状況が良く分かる。施設側の大変さも分かるのだ。母の気持ちが分からないではないが、私が仕事をしている限りは施設を頼るほか方法がないのだ。施設に泊まる事を快く思わない母を説得する為に「私が定年を迎えたら家で過ごせるからそれまで頑張って」と言い、定年後家で過ごせるようにする事を約束した。
思えば母はお姑さんを百二歳になるまでの長い間家でずっと看ていたのである。祖母は大きな病気をする事もなく排泄も自分で出来ていたので手はあまりかからなかったとはいえ祖母をおいて自由に家を空ける事は出来なかったし年寄りを抱えているという負担はあったはずだ。近所の人が海外旅行に行った時も母はお姑さんがいるからと行かなかったようだ。私はそんな母をとても尊敬していた。私には実の母を看るにしてもとても真似できないと思っていた。
母はお姑さんを抱えて大変だった経験があるからか、まだ元気だった頃、いつも口癖のように「私ら(父と母)が介護が必要になったらとても家では看れんけぇ、すぐ施設に入れんさい」と言っていた。私もそのつもりだった。しかし、母は実際に施設で生活してみて家が一番良い事を実感したのだろう。私も施設に行きたがらない母を施設に預ける事は心が痛んだ。だから定年までの約二年間頑張ってくれたら家で過ごせる事を約束したのだった。母に随分心配や迷惑をかけてきた私なのに親孝行の一つも出来ていなかった。きっと、神様がそんな私に親孝行をするチャンスを与えて下さったのだろう。その為にも私は母より先に絶対に死なないと心に誓ったのだった。
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