第3話 新しい日常が笑む

 信号待ちをしていたら、道路に奇妙な物体を見つけた。

 すぐにそれが動物の死骸だと気づいたが、それがなんの動物かはわからない。

 それは何度も自動車にき潰されたのだろう。それが生き物であった頃の原型を留めていない。

 なんの感情も起こらなかった。

 アスファルトの上で初夏のような太陽の熱にさらされていたが、臭気は一切感じない。

 自動車に轢かれ続けて、道路と同化するほど薄くなっていた。

 異様な臭いに顔をしかめて辺りを探すと、草が生い茂った空き地の中に腐敗した猫の死骸を見た小学生の頃のことを思い出す。

 動物の死はそれほどの臭気を放つものなのに。

 そこにあるものにはなにもない。血の跡も、内臓の痕跡もない。

 猫なのか犬なのか、鳥なのかさえもわからない。

 その死が大地に吸収され、分解されるわけでもない。

 アスファルトの上で、ただ朽ちていく。誰の記憶に残ることもなく、風化していく。

 信号が青に変わる。

 わたしは前だけを見て進んだ。

 会社に行こう。新しい職場だ。

 まだ入社してひと月にもならないが、社内の雰囲気はすごくいい。8階建てのビルの7階にある、印刷会社だ。天気のいい日は非常階段から外を眺めると気持ちがいい。

 この非常階段では隠れてタバコを吸う人がいる。営業の岸だ。

 岸はもともと名古屋にある大きな印刷会社にいたそうだ。

「え? 岸さんて、大一印刷にいたんですか?」

 今日もまた非常階段で会ったので、なんとなく始めた会話から思わぬ共通点が判明し、わたしたちは仰天した。

「え? 矢野ちゃんて、メロディ社の八尋やひろ部長のとこにいたの? 俺、八尋さんと一緒にカタログ作ってたよ」

「知ってます! 総合版カタログはずっと大一印刷さんでしたもんね。うわー、わたし入社したの6年前なんですけど、時期かぶってたりします?」

「いや。ここに来て俺もう8年だから、ないね」

「あ、でももしかして岸さんが伝説の担当さんなのかも!」

 わたしは思い当たって胸がおどるのを感じた。

「え、伝説? なにそれ」

「やることなすことスマートで、気難しい部長の相手もスマート、背が高くて立ち振る舞いもスマート、その上持ってくるお土産がいちいち絶妙っていう伝説の人です」

 言いながら、本人を目の前に絶賛するのって恥ずかしいなと思ったが、言いかけて止められないので続けることにした。第一わたしは聞いただけで、絶賛していたのは先輩と古株のパートさんたちだ。気にしないことにする。

 岸は眩しそうに目を細めながらタバコを吸い込み、わたしに背を向けて空に向かって大きく吐き出した。

 雲ひとつない青空に、薄い雲が一つ描き足されたようだったが、またすぐにただの青空になった。

「・・・・・・八尋さん元気?」

「元気ですよ。こっちに出てくる前に会いましたけど、まだ失業手当もらえるって笑ってました。勤続30年はうらやましいです」

 言いながら岸を観察した。日に焼けた肌と高い上背うわぜいが印象的で爽やかな人だ。かつての上司の八尋も背が高かったから、この二人が並んだらすごい迫力だったろうなと想像する。

 岸伝説を語ってくれた先輩もわたしと同じくらい背が小さい。八尋と先輩の他に中国人のりょうがいたが、この人も背が大きかった。

「八尋さんは、何か言ってた?」

 そのぎこちない短い質問で岸が聞きたいことがなんとなくわかったが、特には思い当たらない。「伝説の担当」という触れ込みで、彼らから名前を聞いていたわけではないのでいちいち記憶を検索しなければならない。

「えぇと、特にはないです。ただ、最近の担当のことはこっぴどく嫌ってましたね」

 わたしがそう言うと、岸がタバコの煙で咳き込んだ。

「はは、どんな奴?」

「えっと、新人なんです。わたしより年下で、掲載する商品の選定中は市内のホテルに泊り込んでるのに遅刻してきて、ぶら下げてきたコンビニの袋からおもむろに栄養ドリンクを出して、断りもなく飲んだっていう」

 岸が黙って反応がないので、ちらりと上目でうかがった。

「どうやら、「飲むなら部屋の外で飲んで来い! 疲れてますパフォーマンスか! だいたい俺の分はないのか!」ってご立腹のようで」

 わたしが言い終わらないうちから、岸が大きく笑い出した。見ると大きくけ反って笑っている。いつも飄々ひょうひょうとしていて捉えどころのない人だったので、こんなに大きく笑う人なのかと軽く驚いた。

「八尋さんらしいなぁ。たぶん最後のが一番気に食わなかったんだろうな。八尋さんのも買ってやろうよ、いたわってやれよ。あの人すげーがんばってるんだからさ」

 岸の発言で、彼がどれだけ八尋を慕っていたかが伝わってきて、しばらく黙っていることにした。いま彼は思い出の中の八尋を辿っていることだろう。

 岸の指摘どおり、八尋は「俺の分がなかった」とかなり根に持っていた。それをすぐに見抜く辺り、さすが伝説の担当である。

「梁さんは日本にいるの?」

「それが・・・・・・自分で立ち上げたカタログがうまくいかなくて叱責しっせきされたのがよほどこたえたのか、急に辞めちゃったんです。会社が倒産する半年ほど前でしょうか。しばらくは目撃情報もあったんですが、今ではどこにいるのかまったくわかりません」

 梁はメガネをかけた長身の中国人で、わたしはしばらくの間しゃべり方がちょっと変わった日本人だと思っていた。それくらい自然に部署に溶け込んでいた。

 とてつもなく頭のいい人というのが、彼の一番の特徴だ。

 情報系システム全般に詳しく、アナログだった仕入先からの商品提案システムを一新させた功績がある。日本語の専門書を読んで、独学で基幹システムをマスターしたというのだから、驚愕せざるを得ない。

「わたし、梁さんのファンだったのでショックでした」

 わたしは大げさに肩をすくめて、眉を落とす。おどけては見せたが、それは本当の気持ちだった。

 知的で背が高くてかっこいいとは思っていたが、やはりその能力を尊敬していた。

「・・・・・・梁さんて外部の俺から見てもすごいってのはわかるけど、でもなんで企画部にいたの? 商品選定も校正もしてるの見たこと無いけど」

「それ!」

 何でもできるが故か、プライドが高くて仕事を選ぶ所為か、どこの部署にもなじめなくていたところを拾ってあげたのが八尋だった。

「誰も引き取り手がないって言うから「企画に来る?」って誘ったんだけど・・・・・・システム化してくれたのはありがたいけど、でも・・・・・・仕事してくれないかなぁ」

 多忙を極める校正中でも梁は絶対に校正をしない。八尋がそういって恨みがましく視線を送ると、決まって中国から電話が入るようで、携帯電話を片手に早口で中国語を話しながらどこかへ消えてしまうのだった。



 初めての一人暮らしを始めて、初めて作った料理はラタトゥユだった。近くのスーパーへ行き、なんとなく目に付いた野菜を買い込み、帰ってきて動きを止めたわたしは、いそいそとレシピ検索をし、なんとなく目に付いた食べたことの無い料理を作った。

 出来上がりを食べてみると、おいしい気はする。だが、本物を食べたことが無いので、はたして成功かどうかはわからない。

 とりあえず、体にはよさそうだ。栄養は摂れたと初日の夕食に満足した。

 都内の大学に進学したものの、わたしは片道3時間かけて電車通学をしていた。なので、一人暮らしにずっと憧れていたのだ。数日が経てば、一人分の料理にも一人だけの時間にもだいぶ慣れてきた。

 夕食を片付けたわたしは、ネットでニュースをざっと読む。

 引越し先に持ち込んだのは、旧型のノートパソコンだ。古いのでかなり重量があるが、ほぼ持ち運ぶことがないので、問題はない。

 事件やスキャンダルは見出しだけで詳細までは読む気にならない。下にスクロールし、指を止める。

 大学時代好きだった海外のロックバンドが新しいアルバムをリリースするという記事。

 その頃はよく聞いていたが、最近の曲はまったくといっていいほど耳に入らなかった。口ずさめるのは、健太とよく聞いた曲。それが彼らにとって一番売れた曲だろう。

 何故だろう。不意に胸が締め付けられるように痛くなり、訳もなく涙が溢れた。

 みるみるうちに視界がにじみ、あっという間に大粒の涙がいくつも頬を伝って落ちた。

 息苦しい、胸が痛い。浅い呼吸を繰り返した。

「はぁ・・・・・・」

 胸のつかえをどうにかしたくて、勢いに任せて溜息をついた。どういう感情の涙だろうと自問する。だが、自分でもその意味がわからない。

 ティッシュで涙を拭いて、鼻もかんだら気持ちがすっきりした。

 仕事用のファイルを取り出し、パラパラとめくる。いくつかの資料を収めたファイルだ。該当のページを開いたまま、インターネットでも検索した。明日から始まるギフトエクスポについての記事を読む。

 明日は取引先とギフトエクスポを見て回ることになっていた。営業の岸も一緒だが入社したばかりの自分がこの仕事を任されたのは、前職の経験を買われてだった。

 会社が倒産する前も参加していたが、連れて行ってくれる人がいて誰かの後ろについていけばよかったあの頃とは勝手が違うので緊張している。

 最終日以外は商談目的でしか入れないというのも、今回初めて知った。

 以前は会社名や八尋の名前を出せば、その威光があった。今回はどうだろう。

 不安は次から次へとわき上がるが、岸がいてくれることが本当に心強かった。

 わたしは不安を断ち切るようにファイルを閉じた。



「矢野ちゃん」

 呼ばれる声に辺りを見回すと、岸が爽やかな笑顔で手を振っているのが見えた。

「矢野ちゃん背が低いから見つからないかと思ったよ」

「岸さんが背が高くて助かりましたぁ」

 電車で来たのは初めてだった。会場となるビッグネクストの最寄り駅に着くとホームからずっと混雑していて、進めば進むほど混雑はひどくなった。

「なに、もう疲れてるの? しっかりしろー」

 わたしは汗ばんでいることを自覚し、上着を脱いだ。

 岸と合流できて、「ほっと胸を撫で下ろす」とはまさにこういう感情なんだなとしみじみ思う。

「相変わらずすごい人ですね~。わたし今まであんまり責任なく参加してたので、今回はとてつもなく緊張してるんです」

 自分がいかに無責任に参加していたかを恥じながら、岸には正直に話した。

 営業経験はないし、一般常識にも時事ニュースにも自信がない。会社や岸に迷惑をかけないだろうかと不安がつのる。

「矢野ちゃん、これ重要なことなんだけど・・・・・・矢野ちゃんは甘いもの好き?」

 岸があまりに深刻な顔をしているので、質問を理解するのに時間がかかってしまった。

「え、甘いものって甘味ですか? うーん、あんこはこしあんなら好きですね」

「いや、甘味なんて生易なまやさしいものじゃなくて・・・・・・」

「ケーキですか? ケーキはやばいですよね~。カロリーが生易しくない。でも、好きです。体重とお肌が気になりますけど、おいしいですよね~」

 フルーツタルトもいいが、王道のショートケーキが一番おいしいかな。モンブランは苦手だが、見るとおいしそうで不思議と挑戦したくなるんだよね。濃厚なザッハトルテも捨てがたいし。

 わたしは一人で盛り上がっていたが、岸はずっと渋面じゅうめんのまま。

「どうしたんですか?」

「矢野ちゃんはケーキを食事にできる?」

「えーと。あ、ケーキは別腹ってありかなしかってことですか? わたしはそれよくわかんないんですよね~。わたし、ケーキはおいしく食べるために時間空けて食べたい派です」

「違う。食後にケーキを食べたいかじゃない。ケーキを食事と位置づけられるかだよ」

 質問の内容がわからなくて、わたしはきょとんとする。

「・・・・・・矢野ちゃん今日のお昼はなに食べたい?」

「えー、早いですね。でも・・・・・・」

 しばし考える。うどんならば外れはないだろう。

「今日は暑いし疲れるだろうから、お昼ご飯は冷たい麺類がいいです」

「今日は暑いし疲れるだろうから、お昼ご飯は冷たいケーキにしよう」

「え?」

 どういう冗談だろうと笑いながら岸を見上げるが、彼は至って真面目な顔でじっとわたしを見下ろしていた。



 岸と一緒にギフトエクスポを回る取引先の担当者は、村瀬といった。年は四十代前半といったところで、ヒョロヒョロと痩せていて、ひどい猫背だった。

「今日は岸さん、よろしく」

 村瀬も背が高いが猫背のため、上目遣いで岸を見た。

 村瀬と以前から面識のある岸は、微笑みながら軽く一礼して、「ご無沙汰しております」と言った。

「こちら、矢野です。まだ入社して間もないのですが、以前からギフトエクスポには参加していたというので今日は連れてきました」

 岸がやんわりと新人であると紹介してくれたので、少し安心する。

「ギフトのショーは初めてだで、よろしくな」

「矢野と申します。前職では参加していたといっても、今回は勉強することが多いです。ご迷惑をかけないよう努めます。本日はよろしくお願いいたします」

 緊張を悟られない表情を維持できなくなって、深く一礼してそれを隠した。

 軽く挨拶を済ませ、歩き出してからすぐに、村瀬はポケットからチョコレートの小袋を取り出して食べた。むしゃむしゃと食べるわけではないが、常に口の中に入っている様子。村瀬のことは少し変わった人だなとは思ったけれど、真新しい商品や見知った会社のブースを見つけるなど、次々に視界に飛び込んでくる膨大な情報により、岸による謎の発言は完全に忘れ去られていた。

 岸と村瀬が前を歩き、わたしは二人から遅れないよう必死でついていく。歩調もそうだが、一番必死だったのは二人の会話を聞き漏らさないこと。二人の会話にこそ加われないが、この場では理解できないこともあとできちんと消化できるよう自らに留め置く努力をした。

 村瀬はギフト販売を主にする会社を営んでいて、その店舗で用いる商品カタログも自ら製作するという多彩な仕事ぶりでその業界からは知られているらしい。村瀬は各ブースを見て回りながら商品の見た目だけでなく、掛け率や粗利あらりなども瞬時に計算して話を聞いているというのだからやはり只者ただものではない。


 不意に、八尋と一緒に参加していたらどんな感じだったのだろうと考える。八尋は企画部の責任者として常に社内にいて、こういったエクスポに参加しているのは見たことがなかった。カタログに掲載してほしい商品があれば、向こうから八尋の元を訪ねてきた。

 時々毒のある軽口を叩く以外は穏やかな性格に見えて、実はとても気難しい人だった。電話を極度に嫌い、その商品に時間を使う価値があると確信できなければ、なかなか仕入先と話すこともなかった。

 そしてたまに出た電話で、ひどく激昂げっこうする姿を何度か見かけたことがある。内容はわからない。

 穏やかに、

「えぇ、えぇ・・・・・・」と相槌を打っていたかと思うとしばらく黙り込み、ものすごく迫力のある声で怒鳴るのだ。わたしはたびたび仕事でミスをしたが、怒鳴られたことは一度もなかった。ただ呆れられて、小話のネタにされた。

 送付物に貼る送り状を間違えた話は滑稽こっけいすぎて、八尋の冗談だと思った人から事実確認をされたほどだった。

 来客にお茶を持っていくと、

「八尋さん、それは作りすぎだよ」と笑い声が響いた。

 わたしが近づくと、

「矢野さん、信じてくれないよ!」と八尋がプリプリしている。

「え? なにをですか?」

 突然話を振られたわたしは、お茶を差し出した姿勢のまま固まった。

「君が矢野さん? 八尋さんが話盛るんだよ。嘘でしょ? 札幌支店に送る荷物を九州支店に送ったって話、さすがに・・・・・・」

「ほ、ほんとうです・・・・・・」

 わたしは泣き出したいほど恥ずかしかった。八尋を責めたい気持ちがあったが、ミスをしたことは事実なので、うつむくことしかできない。

 わたしは顔を上げることができないまま、

「失礼します」とだけ言って、そそくさと逃げた。ありえないミスを現実にわたしが起こしたと知ったときの、相手の顔が忘れられない。


 やがて、早めの昼食の話題になる。商品提案ブースを離れ、岸が候補に挙げた店をいくつか見て、そこに入る。そこはカフェだった。ランチというより軽食に近い、男の人には少しボリュームに欠けるようなメニューばかりの店。

 村瀬は席につくとメニューを広げ、すぐに店員を呼んだ。わたしはまだ緊張していたし優柔不断な性格なので非常にあせる。

「ここに載ってるやつ全部持ってきて」

「本日のケーキは桃のタルトですが・・・・・・」

「えぇよ。全部持ってきて」

 村瀬はケーキだけを全種類注文した。わたしはあまりのことに呆然として、思わず岸を見た。

 するとオーダーされた店員さんも助けを求めるように岸を見ていたので、わたしたちは目が合ってしまった。

「・・・・・・村瀬さん、飲み物はどうされます?」

「いらん。水でいい」

「あと本日のケーキ二つとコーヒー二つ」

 岸はメニューもわたしも見ることなく注文を終えた。

 先程の岸の謎めいた言葉の意味が判明した瞬間だった。


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