第4話 愛しい夜が更ける

 村瀬は注文した6種類のケーキと、岸が残したケーキを全て平らげた。そしてほんとうにそれ以外は食べなかった。

 食べた桃のタルトは非常においしかった。けれど、それだけを昼食にするのは普通でない。非常に物足りない。

「あぁ、お味噌がみる~」

 わたしは味噌汁を一啜ひとすすりして、身悶みもだえた。ホームステイ先のアメリカから帰国して、ポテトチップスの海苔塩味を食べたときの感動に近い。

 ちょうど今日の出来事として「ケーキのみランチ」の話をし終えたときに、注文した定食が運ばれてきた。熱々の味噌汁の香りが鼻腔びこうくすぐる。一口飲むと、空腹でヒリヒリする胃にゆっくりと流れてゆくのを感じた。

 健太はそんなわたしの様子すら可笑しいらしく、まだ笑っていた。

「ほんと、成美ちゃんて持ってるよね」

 わたしは別に特別なことはしていない。わたしの周りに変わった人が多いというだけだ。「健太さんもその一人なんだから」と声に出さずに、うらみがましく見つめてやった。

 村瀬はエクスポの終了時間になると、

「じゃあ、今日はご苦労さん」と宣言し、その場で解散となった。

 今日は土曜日なのでその後の打ち上げなども覚悟していたのだが、拍子抜けするほどあっさりと開放された。残されたわたしたちは近くにあったベンチにぐったりと座り込む。

「疲れた・・・・・・というか、腹減ったぁ」

「腹減りました~」

 二人で盛大な溜息とともに天をあおいだ。

「本当はこのあと飯をおごってやりたいとこなんだけど、今日はこのあと予定があって。悪いな、一人で帰れるか?」

「はい、全然! 大丈夫です。気にしないでください」

 心底申し訳ないという表情の岸に、わたしは笑顔で答えた。岸とは打ち解けて話せるようになっていたが、それでも本当に疲れたのでこのまま解散というのはありがたかった。このあとに予定を入れているなんて、さすが岸だ。村瀬のパターンをよく読んでいる。

 そのとき着信音が鳴り、岸が「ちょっとごめん」と言って通話ボタンを押した。

 他人の話を聞かないよう席を立つなど配慮なければならないと頭ではわかっていたが、しかし一度座ってしまうと腰を上げるのは至難の業だった。それは岸も同じようで、彼も腰掛けたまま話し続けた。盗み聞きしたかったわけではないが、岸の声がしびれた脳みそにふよふよとただよってきた。それは誰かと待ち合わせの確認のようだった。

「ごめん。このあと家族で食事の約束があって」

 終話ボタンを押して、岸が吐息と共に言った。

「そうなんですね。うらやましいです」

 社交辞令で言うと、

「一緒に来る? って言いたいとこなんだけど、今日は妻の誕生日で・・・・・・」

 なんて言い出すものだから、わたしは慌てて首と手とを振って固辞こじした。

「いえいえいえ、とんでもない! わたしもこのあと約束があるので、むしろこのまま解散がありがたいって言うか、早く会いたい人がいるので、岸さんさっさと行っちゃってくださいって言う気持ちです」

「そうなのか。じゃあ無粋ぶすいなこと言ったな、ごめん。じゃあ」

 そう言って、長身の岸はグイッと立ち上がると、いつもの颯爽とした様子で駅に向かって歩き出し、途中爽やかな笑顔で手を振るとやがて見えなくなった。

「いちいち絶妙な人・・・・・・」

 その通りだな、と思う。

「さて、と」

 吐息と共に、意味もなく言う。折りたたまれた携帯電話を取り出し、メール画面にする。周りではスマートフォンを持つ人が増えてはいたが、わたしはこの空色の携帯電話を気に入っていた。

 約束をしていたわけではなかった。今日会う約束をしようとも思ってなかった。ただ、先程の会話で急に思ってしまった。今、とてつもなく健太に会いたかった。

『仕事でビッグネクストに来ていて、今とてもお腹が空いています』

 メールでも「会いたい」とは入力できなかった。送信したあとの時間は期待と後悔のせめぎ合いで、断られたときも気持ちを保てるよう、細心の注意を払った。

 5分ほどで返信があった。翌日にならないと返信がないこともあったが、今日は早くて助かった。期待はしていないと自分に言い聞かせ、メールを読む。

『奇遇だね。俺も実家に来てたから近くにいるよ』

 その続きを読んで、全身の血液がものすごい勢いで上昇するのを感じた。その勢いのまま、わたしは立ち上がったほどだ。

『車で迎えに行くよ。15分くらいで着けると思う』

 その続きに、

『運転は久しぶりだったけど、さっき練習したから大丈夫だよ』と冗談が添加てんかされていたが、衝撃で麻痺した思考にはあまり響かなかった。

 彼が来るまでの間、わたしは急いでトイレに駆け込んだ。鏡に映った自分の格好を改めて確認する。

 汗をかいたので顔の皮脂が気になった。鏡から見つめる自分の顔は、衝撃を受けるほどテカっていた。持っていたポケットティッシュで脂を落とす。ほこりっぽさを感じたので、控えめに顔を洗った。残念ながら化粧ポーチを持ち歩かないので、武器はささやかなパウダーと色つきリップクリームだけだった。

 疲労で落ちてきていた後れ毛を整える。これで最大限の身だしなみだ。わたしは早足で待ち合わせ場所へ向かった。


 彼の運転する車に乗ったのは、これが初めてではなかった。以前に一度だけ、彼の実家の最寄り駅で待ち合わせをして車で迎えに来てもらったことがある。

「親父の車だから、おっさん臭いかもだけど勘弁ね」

 遠慮しながら助手席に腰を沈めたわたしに、健太が冗談めかして言った。以前に乗ったときの第一声はなんだったろうと考える。どれだけ考えようとも、思い出せなかった。

「今日はどこかへ出かけてたの?」

「うん、母の日に何もできなかったから、父の日と合同でね。いい物食ってきた。老舗割烹料理店だって。ねーちゃんが昼間じゃないとダメだからランチだったけどね。うまかったよ」

 前を見たまま話す健太をそっと盗み見る。色素の薄い瞳に、灯り始めた街頭の明かりが映り込んでいる。

「兄弟みんなで割り勘したんだけど、お財布が泣いたよ」

 慣れない状況に緊張しながらも、空腹で胃がきゅっとなるのを感じた。

「あ、ごめん。お腹空いてるんだっけ?」

「うん、もう息も絶え絶えよ」

 わたしはそう言って微笑んだ。

「俺も。昼飯はうまかったけど、慣れないことすると疲れるよね。落ち着いて食べたい」

「うんうん。お米とお味噌汁が恋しい・・・・・・」

「なにそれ、どうしたの?」

 ここでようやく今日の出来事を話し出した。

「へぇ。ギフトエクスポ、初めて聞いた」

 お店は地元である健太に選んでもらった。

「ごめんね。俺の財布が泣いているから高いお店じゃないけど、でも味は保障するよ」

 そう言った健太について店に入ると、小さいけれど綺麗に整えられた定食屋だった。ほのかな灯りに浮かび上がった看板には「蒲公英たんぽぽ」と書かれている。案内された席は藍染のような暖簾のれんがかけられ、半個室になっていた。

「素敵。落ち着く~」

「おすすめはポークジンジャー定食。ナイフとフォークで食べるんだよ」

「うわー、それにする! 早く食べたい」

 注文を終えて、わたしはまた今日の出来事の続きを話し始めた。

「は、ケーキだけ? それかなりクレイジーだね。クレイじいだね、はは」

 見事にオチがつくと、それを見計らっていたかのように、2人分の食事が運ばれてきた。

「はは、おいしい? 成美ちゃん、お疲れ様」

 味噌汁にむせび泣くわたしに健太が言った。

 鉄板に分厚い豚のしょうが焼きが二枚載せられ、ジュージューと音を立てていた。食べると玉葱の甘みと生姜の風味が絶品だった。

「あぁ、おいしい。あぁ、生き返る~」

 ふと時計を見ると、健太にメールを送ってからまだ一時間も経っていないことに気付く。

「健太さん、ありがとう。こんなに早くおいしい食事にありつけるなんて、感謝です~」

「まぁね。メールの文面見てたら、ヨダレ垂らしてる成美ちゃんの顔が見えたから急いできたよ」

「えー・・・・・・」

 前半は冗談でも、後半は本当なのだろうと思う。彼は急いで来てくれた。車で来てくれたことも、落ち着ける店ですぐに食事を取れたことも、すべてが夢のようだ。

「ヨダレはともかく、なんかすごく疲れてそうだったから。車で来てみたよ」

 ご飯を口に入れたまま、わたしは涙が込み上げるのを感じた。泣きながら食べるご飯はよくない。おいしくなくなる。わたしは一生懸命に飲み込んだ。そしてようやく空になった口で大きく息を吸い込むと、大粒の涙が一つ落ちてしまった。わたしは慌ててお手拭で口を拭く振りをして涙を抑えた。

「はは、おいしくて泣けてきちゃった」

「感動屋だなぁ」

 健太は大きく切った肉を頬張って、

「うまいもの食べて、笑ってなよ。そうすればなんでもいろいろ大丈夫だから」と言った。

 健太の言葉に、わたしは何も言えずに微笑みだけを返した。



 ゆっくりと食事と休養をとっても、時間はさほど遅くならずに済んだ。

「車を実家に返してから帰るからちょっと遅くなるけど・・・・・・どうする? 疲れているだろうから先に駅まで送ろうか?」

 健太はそう言ってくれたけれど、わたしは首を横に振った。健太とわたしが住んでいる駅は近い。

「わがままついでに言うけど、この辺は不慣れだから一緒に帰ってくれたほうが心強い」

「オッケイ」

 また健太の運転に揺られ、ウトウトしかかった頃に彼の実家に着いた。高層マンションのどれかが健太の実家。見上げて、以前に一度だけ来たときの記憶を辿るが部屋までは覚えていなかった。

「親父に鍵返してくるからちょっと待ってて」

 辺りは大分暗くなっていたので、わたしはエントランスの明かりの当たる場所で健太を待った。ふと、視線の先の自動販売機からこちらに向かってくる人影に気付く。

「こんばんは」

 その人はわたしの横まで来ると、人懐っこく声をかけてきた。

「あ、こんばんは」

「あら、あなたどこかであったことないかしら。なんてごめんなさいね。どこかで会ったことあるなって気になると、気になって気になって仕方がないのよ~」

 年は60歳ぐらいだろうか。人懐っこいしゃべり方と笑顔で、思わずわたしも笑顔になった。

「お待たせ~って、あれ? おふくろ? なんだ、いたなら鍵預ければよかった」

「あ、思い出した。成美ちゃんでしょう? うわー、全然変わらないわ、かわいいわ!」

 のほほんとした健太とハイテンションの健太の母親にわたしは困惑する。

「あ、お久しぶりです・・・・・・」

「え、ということはまたお付き合い始めたの? うわー、お母さんうれしい! わたし、成美ちゃんのことが忘れられなかったのよ~。もう成美ちゃんしかいないのよ。健太をよろしくね!」

「おふくろ、テンション高すぎ。なにしに来たの?」

「あ、急に炭酸飲みたくなっちゃって」

 健太の母はそう言ってかわいらしく笑うと、

「また来てね~」と手を大きく振りながらエレベータに乗り去っていった。

「・・・・・・帰ろうか」

「そうだね」

 この辺りは閑静かんせいな住宅街らしく、大きな通りに出るまで静かで暗かった。健太がいなかったら一人で歩くのは無理だったろう。

 わたしたちはしばらく無言だったが、通りに出たところでようやく健太が喋り出した。まるで住宅街では息を殺していたみたいに。過ぎ去る車のライトが急に騒がしかった。

「ごめんね、おふくろテンション可笑しいでしょ」

「ううん。わたしの顔を見るなり「あれ?」って声かけてくれて。覚えていてくれたなんてうれしい」

「うれしかったんだと思う。彼女を親に会わせたの、成美ちゃんだけだったから」

 わたしは健太の言葉に息を詰めた。

 大きなエンジン音を響かせて、バイクが横を通っていく。遅れて大きな風がスカートの裾をパタパタとひるがえらせた。健太がわたしの手を引き、歩く位置を代わった。

 健太の手がそっと離れる。スローモーションのように感じながらも、わたしは歩くこと以外のことはなにもできないロボットのようになっていた。

 健太のことがこんなにも好きなのに。離れようとすると離れられないのに。

 近づくと体が硬直してしまうのは何故だろう。

 電車に揺られても、つり革に掴った手と手が不意に触れても、わたしは気付かない振りをした。暗い窓に映る自分の無表情さを観察しながら、わたしは沈黙を追い払った。

「そういえば、新しいアルバム聴いてみた?」

 付き合っていた頃、2人ともアメリカのロックバンドのファンだった。健太と会った帰りの電車でもよく聴いていた。

「最近の曲は全然聴いてないな。結局あの頃が一番聴いてた気がする」

「あ、この近くで来日公演があったんだよね。もう4年くらい前? また来てくれないかなぁ。そうしたら、わたし絶対チケット取る!」

「うん。あの声は一度でいいから生で聴いてみたい」

 電車が前触れもなく大きく揺れた。わたしは踏ん張ったけれども、健太の肩に額をぶつけてしまった。

「うぅ、ごめん」

「平気? 掴まってていいよ」

 健太はわたしの手を取って、自分のシャツに置いた。しわになることに遠慮しつつ、わたしはそっとすそを掴んだ。

 たったそれだけのことなのに。こんな甘い支えだけでは、次に揺れたらまた大きくバランスを崩してしまうとわかるのに。どうしてこんなにも安心できるのか、不思議で仕方がなかった。

「行こうか」

 窓を見たままの健太が言う。シャツに触れる指先を見つめていたわたしは、健太の発言の意味がわからず顔を上げた。

 きょとんとするわたしを見ることなく、健太がもう一度言う。

「来日したら、一緒に行こう」

 それはただの社交辞令かもしれなかった。いつになるかわからない約束。でも、それがかえって永遠を感じさせた。ずっとその約束をしていられたら、わたしたちはずっとつながっていられる気がした。

 わたしは祈るような気持ちで微笑んだ。とてつもない、胸の痛みに耐えながら。この痛みでなら死ねる、と私は本気で思った。

 わたしをちらりと横目で見ると、健太がぽつりと言った。

「俺の名前つけたのおふくろなんだけど、由来なんだと思う?」

「えーっと、健やかな男の子になってほしいって意味じゃないの?」

 わたしの回答を聞くなり、健太がニヤリと笑って言った。

「おふくろ、高倉健と菅原文太のファンなんだって」

 わたしは思い切り吹き出していた。



「矢野ちゃん、村瀬さんに気に入られたんだって?」

 昼食の後、非常階段で気持ちのいい風を浴びていたら営業の松山に話しかけられた。

「松山さん、お疲れ様です」

「あの人絶対変わってる。ケーキ食べながら水飲むの」

「あ、先日もそうでしたね」

 わたしがそう言うと、松山は顔を歪めて舌を出した。松山はわたしより十ほど年上らしいが、華がある美人だ。だが、妙に男気に溢れたところがあり、そこが同姓から見てもかっこいい。

 更に驚きなのが、その経歴だ。有名体育会系大学の陸上部でやり投げをしていたというのだから、人は見た目では判断してはいけない。新体操やバレエというならうなずける。こんなに細い体でどうやって槍を投げていたというのだろう。わたしはしげしげと松山の体を見つめる。

「また槍投げの話? あの頃は食べるのもトレーニングだったからね。痩せないようにするのに苦労したわ」

 そう言って魅力的に笑う松山には小学生の娘がいるという。

「村瀬さん、次はいつ?」

「えーっと、ですね。いくつかカタログのイメージがあって、それの打ち合わせで」

「困ったら遠慮なく言って」

 松山はそういうと颯爽と立ち去る。惚れ惚れするかっこよさだ。

「わたしもあんな風になれたらなぁ」

 ドアにはめ込まれたガラスに自分の顔を映してみる。頬を押したり引いたり、目をつり上げたりしていたら声をかけられた。

「矢野ちゃん、なにしているの?」

 ガラスの向こうから、岸さんが呆然とこちらを見ていた。

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