第2話 淡い奇跡が滲む

「驚いたよ。成美なるみちゃんて全然変わらないんだね」

 あの頃と変わらぬ呼び方に、心臓が無様ぶざまに飛び跳ねた。

 僅かにアルコールのにじんだ目をした、秋山健太にじっと見つめられる。

 酔いに任せた遠慮のない眼差しに自然と息を止めかけたが、微笑むことで気づかれぬように視線をそらすことに成功した。

「健太さん、それ何度目? わたしってそんなに変わらない?」

 嬉しくないといえば嘘になる。彼と別れたのは大学卒業と同時だから、6年も前のこと。けたと思われるのは極力避けたい。

「綺麗になったって言ってくれたらうれしいのに」

 おどけた振りをして、唇を尖らせてみる。だからといって、実際にその台詞せりふを聞いたところでそれが本心なのか疑ってしまうほどに年齢を重ねた。

 ただ好きという感情だけで駆け抜けたあの頃とはこれほどまでにへだたりがあるのだと自嘲じちょうしかけた唇をアルコールで湿らせた。

「ごめんごめん。前言を撤回するよ。今日は止められずにスルーできたもんね」

 健太はそう言って笑い、グラスを持ったまま口元に手をやった。よかった、機嫌がいいようだ。

「いつも止められて身分証見せてって言われてたもんね。ははっ」

 わたしはどんな顔をすればいいのか判らず、忘れた振りをした。

「忘れちゃった? 居酒屋だと100%だったよね」

「・・・・・・覚えてます。絶対年齢の確認されるから、お店に入るときは学生証を出す準備してたもん」

 わたしは観念してその思い出話に乗ることにした。28歳にして、学生時代の童顔話をするのは複雑な心境だ。はっきり言って、恥ずかしい。それでもこの再会の宴に花を添えてくれるのならと半ば自虐的に開き直った。

「2年前にも会社の旅行でマカオのカジノに行ったんだけど、わたしだけ入店断られたんだよね。21歳の子もいたんだけど、その子たちはオッケーで、わたしだけ「ノーノーノー」って首振られて。パスポート見せてもしばらく疑われて、本当に恥ずかしかった」

 健太はずっと笑っている。お酒が入って気分が高揚してくれているのだろう。

 つまらないと思われるよりはずっといいので、ヒィヒィ言いながら笑っている健太を軽くにらむ真似をした。

「あー笑った。さすが成美ちゃんだね。成美ちゃんて世界でも通用するんだね」

 さすがの意味も、通用ってなんだとか言いたいことはたくさんあるけれど、彼に会えたこと、それを再認識すると胸がいっぱいになってしまう。

「そういえば、こんなふうに成美ちゃんと飲んでて、俺がトイレに行ったときにさ、知らない男の人に声かけられたよ。彼女かわいいね、うらやましいって言われた」

「え?」

 胸がいっぱいになったと感傷にひたっていたから、初めて聞く話に頭がついていかない。

「初めて聞いた・・・・・・」

「初めて言った・・・・・・かも。その人さ、俺のことじーっと見てるからチャック下しにくくて、「え? なに、見たいの?」って戸惑ってたら「一緒にいる子、彼女?」って聞くから、そうだって答えたら「すっげーうらやましい!」ってそう言われた。あー、なんかすごく鮮明に思い出してきた」

 当時のわたしは背が低くて童顔で、大人っぽい服装もパンプスも苦手で、化粧をしても代わり映えしないから諦めてノーメイクに近かったし、黒髪で緩やかにウェーブがかった髪は背中の中程まで無造作に下したままだった。愛嬌があるとかそういったマスコット的な評価はあっても、見知らぬ人から交際をうらやましがられるような場面は今まで想像したことすらなかった。

「そんなことがあったんだ・・・・・・」

 わずかな交際期間だったが、健太といると変なことばかり起きていた気がする。

「成美ちゃんといるとさ、変なことがいっぱいあったよね」

 同じことに思い至ったらしく、以心伝心のように健太が言った。

「天気がいいから外でマックを食べようとしたら・・・・・・」

「カラスにポテトを持ってかれた!」

 大声で言うと、当時のドタバタを思い出して二人で吹き出した。

「ビニール袋ごと持って行っちゃうから、「ゴミは返して~」って追いかけたね」

「ガザガサ音がしてるから振り返ったらカラスが小首傾げてて。気にも留めてなかったら、ガサーッて一気に持って行ったよね・・・・・・。それ、話したら親にもバイト先のおばちゃんにも爆笑されたよ。その後は誰に話しても「そんなことあるわけない」って言われた」

 健太は飲み物をサワーに変えた。元々二人ともさほどお酒に強くない。

「ホテルに入ったときも、「あんた高校生でしょ!」っておばさんにすごい剣幕で責められたよね。「高校生じゃありません、大学4年です」って言ったら・・・・・・」

「うん、「嘘おっしゃい!」って言われた・・・・・・いま鮮明に思い出した」

 わたしは恥ずかしさで体中の熱が全て顔に集結したように感じた。健太が何の抵抗もなく「ホテル」と言ったことで、胸の中がいっせいに波打つように苦しくなった。

「「嘘おっしゃい!」なんて後にも先にも、聞いたことないよ。そんなこという人、本当にいるんだね」

 健太はまた楽しそうに笑った。「後にも先にも」なんてどこかの構文のような言い回しも他では聞いたことがない。

 そういった驚きに満ちた人だった。

「そういえば、成美ちゃん仕事は? カタログの会社だっけ? 順調?」

 健太と正式に別れたのは大学を卒業し、就職した会社での社員研修を終えてしばらく経った頃だった。

 都内の大学に通っていたわたしは、健太と付き合う前から地元の企業に就職が決まっていた。

 出会ってから何度かデートを重ね、一日に何度もメールを送り合うようになり、好きだと気持ちが盛り上がるまでに時間はさほど必要なかった。

 クリスマスのイルミネーションに囲まれて、健太から交際を申し込まれた。そのイルミネーションのように、健太との思い出はキラキラと光を放っていた。その輝きは何年経とうともにぶることはなく、むしろ手の届かない遥かな恋人は胸の奥底に鮮明に存在し続けていた。

「新卒で入った会社、辞めてないんでしょう?」

「うん……去年倒産しちゃった」

 無理に笑おうとしたが、眉をひそめて泣きそうな顔をさらしただけのようだ。

「次のカタログももうすぐ完成って時期だったのにね。ほんと、残念・・・・・・」

 業績が悪化しているとは部長が言っていたけれど、いつもの自虐じぎゃくネタだとばかり思っていた。

 経営陣の後先考えない無謀むぼうな思いつきで、カタログ業界だけでなく介護や芸能関係にまで手を出そうとしたところで、銀行から融資ゆうしを止められた。結果すぐに不渡りを出すこととなり、社内の倉庫に商品を納品していた仕入先が商品を取り戻そうと一気に押し寄せた。

 彼らだって必死だったはずだ。カタログに一番多く掲載されていたタオル業者は、およそ3億円の商品を倉庫に納品していた。それが未払いのままだったのだから、他人事では済まされない。共倒れとなりかねない、死に物狂いだ。鬼のような形相ぎょうそうで押し寄せた敵から、「倉庫には一歩も入れさせない!」と文字通り身をていして倉庫を守った古参こさんの八木もその後わたしたちと一緒に解雇かいことなった。

 必死で商品を選定し、校正を重ねたカタログは色校まで済んでいたがそれがカタログとして印刷されることはなかった。

「とりあえず、不渡りが確定になった日からわたしたちは出勤が禁止されて。仕入先が押し寄せてきて危険だからって。それから数日して、秘書課のおねーさまから電話が来て・・・・・・業務縮小による解雇だって。ほんと、あっけなかった」

 店内は汗ばむほどに蒸していた。グラスの氷はいつのまにかなくなっていた。

「健太さんは? ずっとSE?」

 当時を思い出してツンと鼻の奥が痛くなったので、大きく息を吸い込んで微笑んだ。

 わたしが地元に就職が決まっていたのと同様に、健太はもう卒業が翌年になることが決まっていた。

 わたしは地元に就職、かたや健太は留年するだけでなく、キャンパスも遠く八王子に変更になることに落ち込んでいた。

 留年の理由は聞かなかった。わたしにとってそんなことは瑣末さまつであった。健太のことが好きで好きで、浪人していて一つ年上の彼が留年して卒業が一年先延ばしになっても、なにも障害ではなかった。

 それが却って二人に温度差を生じさせる一因だったのかもしれない。

 そういう時期だったのだ。どちらが悪かったわけではない。

 どちらも一生懸命で、だからこそ不安で、相手を思いやる余裕なんてなくて。

 そんな荒波の中で、ふたりが手を離さずにいられるわけがなかった。離したくなくても、手と手を取り合い始めたばかりのわたしたちにはふたりを結びつけるだけの糸が足りなかった。

 繋いだ手が離れてしまえば、すぐにお互いの姿が見えなくなった。それきりわたしたちは別れたのだった。

「うん、成美ちゃんより一年遅れで就職して、それからずっとSEだね」

「すごいねぇ。大学で学んだことを仕事に活かしてて、えらいねぇ。親御さんも喜んでいるだろうねぇ」

 わたしは心からそう思って、目を閉じた。少し眠気を感じた。

「わたしは高校でプログラミングを叩き込まれたけど、SEになれるほどじゃないし、大学で司書の資格はとったけど、結局は地元の企業でカタログ作って、挙句の果てに先輩が会社を辞めてわたしがリーダーになった途端に倒産って・・・・・・大学で学んだことも何も活かせてないしむしろマイナスだよ。無だよ、無・・・・・・」

 少し飲みすぎたみたいだ。うつむいて自らを卑下ひげしている唇がしびれた。

「でも」 

 そういって大きく息を吸い込む。胸いっぱいに焼き鳥の煙のにおいが充満した。

「わたし、就職したの。先週から、小さな印刷会社で働いているの」

 晴れ晴れしい気持ちで、会社名と最寄の駅名を告げると、

「え、こっちに就職したの? すごいじゃん!」

 健太は驚いて目を丸くする。そうすると、彼が色素の薄い目をしていることを思い出す。彼はハードコンタクトをしているはずだ。彼と別れた翌年、わたしも医者の勧めでコンタクトをソフトからハードへと変えていた。

「そう。こっちに就職して一人暮らしをして。仕事終わりに健太さんと飲むの。夢だったの」

 そうだ、これからはしたかったことをできるだけしよう。

 一人暮らしも夜更かしも、仕事終わりに炭火焼き鳥の居酒屋も、全部したいと夢見ていたことだ。

「仕事終わりに健太さんに話を聞いてもらうの、夢だったの」

 そう、ずっと夢に見ていたことだ。

「甘えてる?」

 健太が笑みをかみ殺したような声で問う。

「うん、甘えてる。・・・・・・ダメかな?」

 ずるい、なんてずるい会話だろう。会えなかった歳月にわたしたちはこれほどまでのずるさを身につけたのだ。

 両頬をひじをついた手で包み込んでうつむく。

 顔を上げる勇気がなかったが、それを隠すため、酔って眠いのだと自らに言い聞かせる。

「うーん、まぁいいんでないかな」

 健太があまりに明るい声で言うから、顔を上げようとした。だが、本当に酔っているようだ。力が入らない。壊れかけたブリキ人形のように、ギギギッときしむように顔を上げる。

 その途中で、健太の大きな手が頭を撫でた。

「うん、これまでがんばってきたんでしょ。甘えるの、許そう」

「・・・・・・甘やかすの? したっちゃうよ、犬のように」

 どんな顔をしたらいいのか、実際に自分がどんな顔をしているのかわからなくなり、困り顔で唇をとがらせた。ひょっとこのようだと自覚し、顔が熱くなった。

「犬なの?」

 はははっと健太が笑った。健太らしい乾いた笑い声だ。

「かわいがる自信はあるよ。近くにいるんだから」

 ますます不細工な顔になっているとわかってはいた。

 唇が震えて歪む。視界もゆらゆらと歪んでいく。泣いてしまうと自覚はしても、止められなかった。

 好きだ、この人のことがどうしてもどうしようもなく好きだ。

 ずっと胸の奥底で存在していた恋人、もう二度と会うことも連絡を取ることもない幻のような人だった。

「元気? 秋山だけど、わかるかな?」

 秋も終わり、冬の気配が色濃くなった季節に、健太がメールを寄越よこさなければ、自分がその連絡先を消せずにいたことを思い出すことはなかっただろう。

 連絡することはないとわかっていたから、えて連絡先を消そうとは思わなかった。

 残してあってもいいと思ったのだ。それだけでも許してほしい、そのくらい彼のことが好きだった。

 まさか6年越しにその連絡先が息を吹き返すとは考えもしなかった。

 復縁を匂わせる文言は一切なかった。かつての自分の幼さをびる言葉から始まり、元気にしているかと近況をたずねる内容だった。

 どうして、どうしてだろう。どうしてもっと早く連絡をくれなかったのだろう。

 6年も経ってしまった。

 後戻りできなくなる前に、どうしてもっと早く素直になれなかったのだろう。

「健太さん」

 わたしは彼を呼ぶ。

「なに?」と健太が返事をする。

 この人の名前を声に出し、それに応じてくれる。奇跡のようだ。

 わたしは大きく息を吸い込む。迷いを追い出すように、涙が乾くように。

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